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2009年04月18日

『白川静―漢字の世界観』松岡正剛(平凡社新書)

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巫の書

 本書の仕立ては、博覧強記の鬼才松岡正剛にしては驚くほど抑制が利いている。舞台裏の編集者としての器量が存分に発揮された名著だ。碩学を一般読者へ紹介するために要する膨大な知識と情報は惜しみなく割愛され、白川学のツボと経絡が簡潔に描かれている。それにもかかわらず、慎ましく素描された経絡には気血が巡り、白川静という人間の鬼気迫る魅力が脈打っている。しかも、白川静というひとつの経絡図(ミクロコスモス)を呈示することで、松岡は世界(マクロコスモス)の航海図へと読者を誘っている。新書版という選択も優れているが、その紙幅の制約に伴う構成の工夫には職人芸を見る思いがする。

 なによりも、本書の成功を支えているのは、松岡の白川静への篤い畏敬の念にほかならない。その心映えが過剰な感情・感傷に陥ることなく伝わってくるところが本書の真骨頂で、その地味な仕立てが松岡ではなく白川静を引き立てている。読者のなかには、2006年に鬼籍に入ったばかりの白川静との交霊・降霊といった禍々(まがまが)しさを期待する向きもあるだろうが、卓抜な編集能力に支えられた端正な距離感が、白川静入門書という目的には奏功している。実際、本書をきっかけに白川静の諸作品を求め始める読者は相当な数に昇ることだろう。

 白川静の業績は、門外漢のわたしには量る由もないけれど、著作リストを一瞥するだけでも明瞭なことがある。65歳の退職後に出版量が激増しているのだ。しかも、一般読者を対象とした著作が目立つ。漢字研究の第一人者として知られる白川静が三部作『字統』、『字訓』、『字通』のライフワークを出版したのは70・80歳代に至ってのことで、96歳で他界する直前まで絶えることがなかった研究の火は、神々しさを放っている。白川は甲骨文字や金文における民俗的・呪術的背景の探究を軸にしながらも、漢字や中国という範疇を越えて、『万葉集』などに伺える日本の呪術的背景を思索するという広大・深甚な器量を有している。極めて特化した専門学問を極めることによって拡がる豊穣な思索と世界観を、このコンパクトな一冊は、一般読者に拝観させてくれる。

 白川の学問と生活史を往来する構成は、読者の呼吸・息継ぎに即している。当然のこと、甲骨文字は随所に配置されているが、これまた読者の消化容量を超えない程度に取捨選択されているところが心憎い。
 白川静と白川学と世界観は、「漢字マザー」などの造語を加味されて、松岡流に要約・翻訳されるのだが、折々のキャッチフレーズも感興的だ。たとえば、「文字が世界を憶えている」と題された第一章には、「漢字には原初の祈念や欲望がある」との小見出しのもと、以下のような文章がある。

要約すれば、「漢字には文字が生まれる以前の悠遠なことばの記憶がある」というふうになります。  漢字が言葉の意味をあらわしていると言っているのではなく、文字は言葉を記憶しているのだ。文字しか言葉を記憶しているものはない、漢字はそれを体現しているのだと、そう、白川さんは強調しているのです。  この見方には、白川文字観の根本的見方があらわれています。漢字は甲骨文字にはじまったものであるけれど、それを含めてそこには、文字以前の言葉の動向のすべてがあらわれているはずだ。もっというのなら、人間が求めた構想や祈念や欲望や憎悪などすべての動向があらわれているはずだというのです。

 甲骨文字のひとつひとつが太古の人間の構想や祈念や欲望や憎悪の記憶を宿しているという発想は、我田引水するならば、精神分析の基本思想を彷彿させる。数千年の歴史のなかで刻まれた無数の人間の記憶と、ひとりの人間の記憶とでは、その規模においてかけ離れてはいる。けれども、何年もかけて繰り返しひとつの夢に立ち戻っては語り合っていく作業や、夢であれ症状であれ、表われの奥に拡がる無意識という堆積層、つまりは構想や祈念や欲望や憎悪を解読して理解していくという作業は、白川が黙々と古代文字をトレースしていく姿勢と重なるところがある。地道で、時間がかかり、いつも発見ばかりとは限らず、「治療」とは何かと煩悶したり、これは信仰なのかと疑って、時代遅れと思しき悠長な作業に、孤立のなかで慄然とすることがある。自分を引き合いに出すのはおこがましい限りなのだが、余りの落差なればこそ、白川静の生き方はわたしを敬虔で厳粛な思いにさせる。

 文字の力についても、紹介したい箇所がある。

このとき、白川さんは文字がもつ本来の「力」というものを想定しました。そして、それを「呪能」とよびました。文字には呪能があり、その呪能によって文字がつくられたのだと想定したのです。呪能は白川さんの著述のなかに頻繁に出てくる重要なキーワードのひとつです。  呪能とは、人間が文字にこめた原初のはたらきのことです。  たいそう類感性に富んだはたらきです。また、その文字が実際にもたらす意味の効能や作用のことです。文字呪能ともいいます。呪能とはいえ、呪うとはかぎらない。祝うこと、念じること、どこかへ行くこと、何かを探すこと、出来事がおこるだろうということ、それらを文字が文字の力において文字自身ではたそうとしているのが、文字呪能です。

 最後に、白川静自身の言葉を紹介しよう。70年代から80年代にかけて松岡が編集した伝説の雑誌『遊』に掲載された原稿からの抜粋である。

「遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた」。そして、こうあった、「遊とは、この隠れたる神の出遊をいう」。

 白川静によれば、神を呼ぶ呪能をもった道具が‘工’であり、それに左右から手を組み合わせたのが‘巫’であるという。したがって、‘巫’とは踊るシャーマンを意味する。本書をもって松岡正剛は巫となり、鬼籍の人、白川静の影(よう)向(ごう)を掲げ、彼の遺した著作という文字の力とともに遊ぶ自由と創造を厳かに体現し、わたしたちをその祭祀へ導いている。
 『白川静 漢字の世界観』とは、知性の美と力を感じさせる巫の書である。


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