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2009年03月29日

『いつか記憶からこぼれおちるとしても』江國香織(朝日出版社)

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少女たちの残酷、そして不感症

 江國香織の作品は読んだことがなかった。多作の作家への謂れのない不信感と、直感的姓名判断によるまったく謂れのない猜疑心が重なってのことだ。だから、或る友人が本書を懲りずに勧めてくれても、わたしはズルズルと一年以上ものあいだ嫌煙を通していた。

 重い腰を上げて本書を開いたのは、件(くだん)の友人が同伴する車中でのことだった。最初の一篇(本書は短編集の体裁をとっている)を読んで、その離人症的感覚に辟易の予感を抱いていると、それを察してか、友人は「お気に召しませんか?」と言葉を掛けてきた。言葉にしてしまうことで予感が現実化してしまうのを恐れたわたしが曖昧な返事をすると、「なんというか、切ないんですよ。その小説は」と友人は重ねた。「セツナイ」という言葉が自分の察知した離人感覚に符合するようで、わたしは秘かに気を重くした。

 気が変わったのはふたつめの短編「緑の猫」に入ってからだった。主人公である女子高生の友人に精神失調が生じるのだが、その細部描写には現実味があった。作者の空想ではなさそうな現実観察を感じ始めた途端、それまで皮膚感覚程度の関わりでしか読めなかった本書が、興味と実感を持って読めるようになったのだ。情けないことだが、これは職業病にほかならない。わたしが恐る恐る自分の感想を口にし始めると、友人は「少年はずっと少年でいられても、少女は少女でいられないでしょ。その切なさと残酷がよく描かれているんですよ」と、今度は長いコメントを述べた。「現実の残酷というべきか」とも言い足した。その時のことだ。パヴェーゼの『美しい夏』が蘇ってきたのは。

 一昨年前のこと、この書評空間で『美しい夏』を紹介したわたしは、「パヴェーゼはどうして、『美しい夏』において、女性を語り部としたのか?深い残酷を彼女たちに背負わせたのはなぜか?」と書いている。自害したパヴェーゼを念頭に、以下のようにも書いている。

「きみは夏になれないんだ。…ぼくはきみを愛さなければいけないのだろう。…しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう」というグイードの台詞は、時が夏で止まるべきこと、そして、愛が時を止めることを示唆している。コクトーの子供たちは、どれほど残酷であっても、パヴェーゼの子供たちが病む、愛の不能は感じさせない。 …(パヴェーゼにとっては)いつも夏の祭儀と残酷が拭えぬ烙印として焼きついて、生き続けるための循環する時間を凍結させていたのかもしれない。

 少女が生き続けていくために通過しなくてはならない夏の残酷が、『いつか記憶からこぼれおちるとしても』には淡々と描かれている。そこには夏の猛暑もなければ、冬の酷寒もなく、秋の冷ややかな風と乾いた落ち葉の感触がある。パヴェーゼが少女たちを供犠として季節を夏で凍結させたのに対比して、江國香織の少女たちは夏を越えて生き延びていく。

 男性が女性を愛することの困難が女性の通過した残酷の烙印にあるとしても、女性は男性を愛する以前に自らに刻まれた烙印を受け入れるという作業をしなくてはならない。同性愛者であったコクトーが免れた愛の不可能性の根源は、そうした女性の「穢れ」にあるのかも知れない。「現実」という穢れである。

 もっとも、幸いなことには、男も女も呑気に愛を語ることができるようにもなっているらしい。だからこそ、多くの男性が自害などせずに人生を全うすることができる。ある少女たちもまた然りで、残酷の烙印に無自覚または無関心のまま夏を通過して女になっていくらしい。しかも、そういう女性に耐えられない男性もいれば、安堵して使い分ける男性もいる。その一方で、そういう女性に耐えられない女性もいて、彼女たちは無自覚・無関心でもなければパヴェーゼ流でもない通過方法を用いていてサバイバルしているらしい。その方法を『いつか記憶からこぼれおちるとしても』、つまり江國香織は示している。しかも、彼女の作品が広く読まれているということは、彼女の方法がけっして少数派の方法ではないことを物語っている。結論を言うと、現実の残酷を通過する方法とは、離人症と不感症である、とわたしは思う。

 少女が体験する痛みの数々が、想起され、創造されて、この短編集という小箱には収められている。肝腎なのは、それらが「いつか記憶からこぼれおちる」ものとして予見(感)されていることだ。烙印されるのでもなく、封印されるのでもない、時折の開封もありえない、‘いつかこぼれていく(かもしれない)’運命を作者は提示している。こうした運命の受諾は、従来の日本的美意識である「はかなさ」や「もののあわれ」とは異質である。江國香織の描く少女たちの秋風と落ち葉にあるのは、移ろう動きを伴わない冷ややかさと乾燥なのだ。

 生贄を要する祭祀を描かずにはいられなかったパヴェーゼに比して、江國香織が描くのは日常のなかにある傷であり、それらは繰り返される浅いリストカットが残す縦列を連想させる。瘢痕を残さずにいつかは消えていくかも知れない無数の傷を彷彿させる。こうした連想は、彼女たちの日常の傷の浅さを意味しているのではなく、心的傷の深さを皮膚表面の浅い傷へと転換してしまうメカニズムを意味している。悲しい出来事も惨い顛末も、抱えず、腑に落とすことなく、皮膚に止めておく。

 けれども、そうした通過の方法には代価のあることに少女たちは気づいているようだ。第一篇「指」には、主人公の少女が電車で遭遇した「痴漢」女性に向かって、「フリジディティ(不感症)」ではないかと直面する場面がある。女性は自らの不感症を否定して、「不感症ってなんのことだか知ってるの?」と問い返すのだが、不感症の何たるかを知っているのは少女の方に違いない。少女たちは年上の女性たち(母親も含めて)の「不感症」を嗅ぎとり、それが自分たちへも受け継がれていることを知っている。勿論、ここで言う不感症とは性的快感を得られないという狭義の不感症ではない。懐妊することを喜びをもって引き受けることの不能を意味する。こどもの誕生のために自分を捧げることの不能である。つまりは、母親になる、母親であることの不能である。
 人類の誕生以来、連綿と繰り返されてきた懐妊と出産という現実、かつては現代以上に死(穢れ)の危険を伴った契機を引き受けることの不能は、人生という現実をリアルに体感していくことの不能をもたらしていく。離人症という現実感からの解離は、不感症の当然の帰結であり、ふたつは同義ですらある。

 江國香織の作品群が多くの読者を惹きつけるのは、現代という社会装置における離人症と不感症をありのままに描くことに成功し、それらが何たるかを殊更に言挙げしなくても共感を呼びさますことに成功しているからであろう。作者自身にとって、残酷の記憶はこぼれおちることなく、抱えられてきたに相違ない。さもなければ、38歳にして少女時代を見事に再現するような作品は書けないはずだ。第一篇「指」ではおとなの女性への共感と挑戦が、最後の短編「櫛とサインペン」では男性への復讐と同情がなされている、とわたしは読解する。江國香織にとって、執筆は少女のまま女性になる方法なのかも知れない。


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