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2009年02月11日

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク(新潮文庫)

朗読者 →bookwebで購入

文字と声

 多くのこどもたちは寝る前のお話を聴きたがる。ところが、そんなに焦がれた枕元の朗読を、こどもたちはいつしか打ち忘れて、ひとりで眠るようになる。多くのおとなは手間の省けたことに安堵し、自分たちの時間を取り戻す。そうして、朗読をせがんだり請われたりするという生涯に二度とないかもしれない特別な時間を、おとなもこどもも失うことになる。

 物語は声から始まる。

 ところが、やがて文字を読めるようになると、物語は声を失くして文字となる。書き文字を理解することとは、声に頼らなくても言葉を再生できることであり、文字を所有することである。そして、文字を所有するようになったわたしたちは、物語を選択する自由を獲得する。読みたい物語を読み、書きたい物語を書き、好き嫌いで物語を選ぶようになる。文字とは、眼前にある現実世界を越えた世界を体験する道具であり、世界の広さと形を創造する自由を意味する。枕元の朗読をわたしたちが惜しみなく後にできるのは、自由という報償があるからなのかもしれない。

 けれども、声を惜しみなく後にできない人もいる。その時、文字は過去の声を封印する隔壁となり、現在は閉ざされる。自由はない。

 『朗読者』は、文字を所有する男と所有しない女の物語である。文字の限りを尽くして文盲の女を理解しようとした男の回想録である。回想は15歳の主人公ミヒャエルの嘔吐から始まり、21歳年上の女性ハンナとの官能的関係が綴られ、40代と思しき彼の涙も声も出ない嗚咽をクライマックスとして、後年『朗読者』を執筆し終わったことを記して終結する。

 文盲であることの恥辱は、ハンナの生き生きとした感情を圧殺する。秩序と規律への過剰な潔癖は、恥辱を覆う歪(いびつ)な鎧となる。文学(と官能)はその鎧を外し、徹底的に隠蔽された豊かな感情に息吹を与える命綱となり、そうして朗読者は求められる。

 朗読者の声は、ハンナに世界を拡げる自由を夢見させる。

 ナチズムはこの作品の主題と思われる自由と贖罪を浮き彫りにさせる重要な要素で、世界的ベストセラーとなった大きな要因でもある。ホロコーストの生存者に見られる感情の抑圧・否認または解離が、この作品にも全編を通じて感じられる。けれども、ミヒャエルもハンナもユダヤ人ではない。なによりも、ミヒャエルの感情を麻痺させるのは、ナチズムという社会現象よりも、ハンナとの個人的体験にほかならない。彼は自分の離人感を次のように語っている。

誰がぼくに注射を打ったのだろうか?感覚を麻痺させないことには耐えられなかったので、自分で自分に注射を打ったのだろうか?…ぼくは、まるで彼女を愛し求めたのは自分ではなく、ぼくのよく知っている誰かだった、という気持ちでハンナを見ていることができたが、麻酔の作用はそれだけにとどまらなかった。ほかのあらゆることに関しても、ぼくは自分の傍らに立って、もう一人の自分を眺めていた。…そして、ぼくの心は、その場で起こっていることに参加していないのだった。

 ミヒャエルの感覚麻痺はハンナとの離別によって生じる。ミヒャエルはハンナの声を失うことで、自分の声を失い、文字という砦にこもる。
 彼が疎隔したのは自らの感情だけではない。否応にも感情を惹起させる現実そのものから身を引き続ける。ミヒャエルは弁護士にも裁判官にもならず、「誰も必要とせず、誰を邪魔することもない」法史学を居場所として「逃避」を続ける。結婚しても、いかなる女性関係を持っても、彼はハンナを居場所として過去へと引き戻されていく。        

 朗読者の声はもう一度、ハンナに希望を灯す。文字を所有する勇気を与える。

 けれども、文字を所有するようになった時、ハンナが必要としたものは、最早、文学や朗読という媒体の声ではなく、ミヒャエルの手紙(文字)であり、彼自身の声だった。ハンナの希望を、ミヒャエルは媒体にすがり続けることで黙認していく。朗読という行為によってハンナを、また自分をも疎隔したまま、ミヒャエルはハンナと繋がりつづける。それが逃避であり、方便であり、罪悪感を宥める手立てであることを知りながらも、ミヒャエルは朗読者という身柄を捨てられない。文字を所有し、感情の疎隔という壁が落ちた時にハンナが覚えたに違いない痛みを修復する場所に、ミヒャエルはいない。

 ミヒャエルにとっての朗読という行為は、かつてはハンナに息を吹き込み、やがてはハンナの生命を剥奪していく。ミヒャエルはハンナの現在の肉声から逃避し、過去の肉声を回想することで文字にすがる。ミヒャエルが「彼女の声は、まったく若いときのままだったのだ」と気づく時は遅く、ハンナの声は永久に失われる。永久に失われた声の重さと文字の罪を、『朗読者』は抱えきれず、読者を当惑させる。

 この回想録は過去から自由になることを希求して書かれた、とミヒャエルは記す。彼はハンナを「理解する」ために回想し、贖罪と自由を求める。赦しとはハンナを赦すことであると同時に誰よりも彼自身を赦すことを意味する。けれども、その不可能を痛感することで、ミヒャエルは筆を置いている。
 男と女のあいだの罪と傷、そして慙愧(ざんき)が、遣りどころのないままにミヒャエルを疎隔し、その遣りどころのなさ、不充足感が読者をも疎隔していく。作品理解を妨げるもどかしい壁は、ミヒャエルがハンナの声に耳を閉ざし続けたことに依る。聞こえるのは、ひと夏の声、過去の声だけなのだ。ハンナの人物像は、ミヒャエルにも読者にも不可解なまま、宙吊りにされる。シュリンクは読者にハンナの声を聞かせないことによって、ミヒャエルの贖罪と自由の不能を追体験させているかのようだ。

 読了後の第一印象は、「この作品は映画の方がいい」という、わたしにしても珍しいものだった。案の定、出版後14年経って、ドイツ小説『朗読者』はアメリカ映画『The Reader』(スティーブン・ダンドリー監督)となった。シュリンクは脚本家デヴィッド・ヘアに、如何なる作家が如何ように書こうともホロコーストについての贖罪はありえない、そして、ハンナは自分のなしたことへの確かな理解がなかった、という二点は揺るがさないで欲しいと伝えたという。不可解な人物像をケイト・ウィンスラーは見事に演じている。映画ではミヒャエルにそれなりの赦しが与えられていて、脚本家と監督の苦肉の策と思えるが、鑑賞者の救済にはなる。原作は映画という媒体によって、生きている。役者たちの声を得て、原作の持つ不充実感を補っている。

 文字を要塞として自らを封鎖し、声に依存しながらも声を拒絶し続け、声を喪失した男がいる。文字に怯えながらも声を頼りに文字を希求し、文字の所有と同時にすべてを喪失した女がいる。文字は禁断の果実であり、ふたりは罪(の自覚)を背負うこととなる。文字と声の矛盾と拮抗は、小説と映画というふたつの媒体によって、抱えられる物語になる。

 小説『朗読者』は、映画『愛を読むひと』(原作にも映画にも不釣り合いな邦題にはゲンナリする)という名のもと、6月に日本公開される。是非、揃えて体験してもらいたい。文字と声の双方が要求される作品なのだから。


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