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2008年12月19日

『どうで死ぬ身のひと踊り』西村賢太(講談社)

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空虚を許さないエゴ・ゲロ私小説

 或る友人によれば、わたしはエロ・グロ趣向なのだという。わたしにはこの評価を受け入れる気は毛頭なくて、エロ・グロにナンセンスを加えれば同意しなくもないという保留で応酬してきた。勿論、友人はフンと鼻でかわすだけで、わたしの抵抗は徒となり仇ともなって今日に至る。それでも、悪あがきを言わせてもらえば、ナンセンスの付加には意味がある。センスをチャラにすることは、物事を斜に構えて見るという捻(ひね)りを生じさせる。そうすることで、エロ・グロの生臭さから無難で気取った距離を設けることができるという寸法なのだ。この捻りこそが、強いて言えば、わたし好みであると豪語したいのだが、こうした屁理屈が通用しない事例が出没した。西村賢太である。

 西村賢太は、この書評空間でも阿部公彦・津田正の両氏によって紹介されていて、なんとも心強い。西村作品群を水戸黄門やスターウォーズに譬えた津田氏の慧眼には脱帽する。阿部氏の「分裂した声」と「私小説-ひとりカラオケ」説も絶妙な論評である。いずれにしても、是非、両氏の書評を合わせて一読して頂きたい。

 さて、その西村賢太であるが、単刀直入に言って、下品この上ない。暴力も性行為も金勘定も露骨なまでに赤裸々で、品のかけらもない。しかも、『どうで死ぬ身の一踊り』に限らず、彼のすべての作品は一貫して、この下品の反復をしている。そして、この反復が滅法心地よい。どうして、こんな下品な作品群を選りによって好まなくてはならないのか。わたしにとっての砦であるはずのナンセンスというオチを与えてくれない西村作品への傾倒は、詰まるところ、己れの品性を疑う契機でもある。

 それでも、敢えて下品以外の要素を拾うとすると、これまた彼の作品に一貫している事象なのだが、藤澤清造という遡ること昭和7年に芝公園で野垂れ死んだ作家への妄執のごときこだわりがある。藤澤の著作集を出版するという気概を貫くというのはまだわかる。ところが、藤澤の菩提寺に自分の墓標まで作り、挙句に同じ台座に藤澤と自分の墓標を並べてしまうという挙行に至っては、共感の一線を越える。
 この辺りの事情を『どうで死ぬ身の一踊り』は詳細に明かしてくれる。「墓前生活」なる一篇は、寺の軒下から探し当てた藤澤の朽ちかけた墓標を自分のアパートの一室に掲げて、自室を墓地にすることで安逸を得るという偏執を記している。ちなみに、『どうで死ぬ身の一踊り』の装丁も藤澤の著書からの流用なら、装丁題字にいたるまで藤澤の直筆を寄せ集めての集字から成っている。「どうで死ぬ身の一踊り」という言葉すら藤澤の言葉から引いているのだ。

 崇める対象に自分を同一化するというありきたりの専門用語では済まされない鬼気迫る執念が、女を殴打し、酒と風俗に明け暮れてゲロを吐き、女の実家から金を搾取するという節操のない日常の軸にある。これは同一化を凌ぐ一体化であり、意識的かつ積極的憑依現象とすら言える。
 そうして見ると、暴力もコントロールを外れた性欲も、対象との距離のなさという点において、藤澤清造への心酔となんら変わるところがない。西村の欲望のあり方は、いつも計算高いくせに、つんのめっている。距離感のない対人関係は、主人公(つまりは私小説であるらしいので、西村自身ということだが)の対自関係にも敷衍される。この男は、絶えず細々(こまごま)と考えては慌ただしく動いている。藤澤への偏執か性的欲望のいずれかによって突き動かされながら、忙(せわ)しなく次なる一手を企んでいる。些事を見逃さず、相手の一挙手一投足に一喜一憂し、セコイ損得勘定をしている。相手の言動を微細に観察して、機に乗じることを怠らず、彼らの心情をまったく度外視するエゴもここまで徹底すると、道徳の彼岸を感じさせる。

 これほどにも欲望にまみれた思考と行動が、隙間なくぎっしりと詰め込まれ、しかもカタカナのエロ・グロでは済まされないような生々しい体臭を放っているとなると、通常であれば辟易するはずである。少なくとも、わたしなら本を閉じる。ところが、事態は逆で、すっかり取り憑かれ、己の品性をうち忘れて、深夜の高笑い(これは昨今のわたしの習慣と化している)をあげている。
 このマタタビのごとき秘薬は独特の文体にある、とわたしは信じたい。たとえば、本書でこそ多発されないが、造語と思しき「はな」なる間投詞もどきは、病みつきになる。西村の文体は、短兵急なのに柔らかい関節を持っている。固有のリズムが、つんのめっても標的(女と藤澤)は外さない男の執着に一層の粘りを与え、こんな男から逃げ切らぬピントの外れた女には、まったりとした愛嬌を添えている。

 空虚が占拠する現代において、西村賢太の暴力的恣意と欲望は、読む側に空虚を許さない。あたかもマンガ化された心理小説であるかのように、主人公の思考・感情・言動の逐一が畳み込まれた作品は、読者に想像の余地を残さない。充満するエゴとゲロが、師走に嗜癖を招く。嗚呼、わたしを「エロ・グロ趣向」と評した友人の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。


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