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2008年09月03日

『百』色川武大(新潮文庫)

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孤独の共犯

 本書は、「連笑」「ぼくの猿 ぼくの猫」「百」「永日」の四つの作品を収めた作品集である。川端康成文学賞を受賞した「百」を銘打っての一冊で、この意表を突いた題名は、父親の届かんとする年齢を意味している。

 色川武大といえば、執拗なほどに父親を作品に登場させ、脚色を加えない(と思える)私小説さながらの筆致で、父親との桎梏を描き続けてきた作家である。充分に興味深い生き方をしている母親は、肉厚の父親像に覆われて、脇役に甘んじざるをえない。実際、元軍人でありながら昭和の初期からハウスハズバンドを通した父親の存在感は異彩を放っている。けれども、この父子関係には、わたしの関心を妨げる何かがある。もしくは、そこには何かがない。そして、それが何なのかについて省察する器量の持ち合わせが、今のわたしにはない。むしろ、わたしを惹きつけて止まないのは、色川と弟の関係だ。
 
 「連笑」は弟との絆を描いた逸品として、他の三作とは異なる余韻を持っている。交通事故で入院した弟を見舞う日々を綴ったもので、別段大きなドラマがあるわけでもない。家族との日常を記したという点では、色川の一連の短編小説の類を漏れない。どうして「連笑」が別格なのかと自問してみて、思い出したのは『狂人日記』だった。

 『狂人日記』は、色川の唯一の(阿佐田哲也名義でない)長編小説(読売文学賞受賞)である。長編という性質のみならず、虚構の登場人物が配されている点でも、実家族が常連となる短編群とは一線を画している。ところが、弟だけは例外のようで、主人公の弟への愛情は、直裁に「連笑」のなかの実弟へと連なっている。
 現実と幻覚の混淆とその顛末を描いた『狂人日記』の主人公は、弟を夢にみては涙する。現実にも幻覚にも属さないがゆえに両者の混沌から免れた純粋な時間である夢こそが、弟のいるべき場所であるかのように、彼は弟を夢見続ける。

 『狂人日記』の主人公は、弟の眼を想起する。

あの頃、弟は匂いたつように清純で、ういういしいよい顔をしていた。特に眼がすばらしかった。ふりむいてこちらを見るだけで、彼のためになんでもしてやりたい衝動にかられる。…彼の淋しさや不充足が自分にはよくわかり、ほとんど一瞬に変わるような場合の彼の眼の色も、ちゃんと視線にいれているつもりだった。…弟のあのまなざしを得たというだけで、自分は幸せだったと思う。

 「弟のまなざし」は、「連笑」で再現する。

…戦争が終わって疎開先から生家に戻ってきたとき、弟は、私から見ると、寒々しく弱い眼をした、ただの少年の顔つきになっていた。ただの、というのは、ごくわかりやすい、というほどの意味だか、もちろんそういうわかりやすい不幸を侮っていたわけではない。  もっとも弟の表情は、生家におちつくとともに、まもなく微妙に変化し、寒々しく弱い眼ではあるが、もっと個人的な、特殊なものになっていた。そうして弟は、後にはそれを自分の顔だと思い定めたようであった。 

 孤立を一人で抱えるのが辛すぎた少年期の色川は、弟を様々な放蕩の道連れにする。放蕩の行き先は、浅草のレビューや賭場や刑務所や便所や天井裏で、「社会人たちが一時的にしか関心を抱かない変則の場所」だったが、弟は従順に、変則の共犯となる。ちなみに、『狂人日記』においては、主人公は独自のカードゲームを案出し、弟をその耽溺と中毒の巻き添えにする。
 共犯の成立した時代、ふたりにはふたりにしか通じない暗号のようなセリフがあって、それは「連笑」のなかの追想で、何度も繰り返し現れる。

 弟は、折り折りに、私の不格好な頭の形を嗤(わら)った。
 他の話をしている最中に、ふっ、と嗤う。
 「―でも、その頭じゃね」
 「そうなんだ―」と私も、何の話であろうと、どうしても笑みを浮かべる、「これじゃァな」
 「どうにも、しょうがないね」
 「しょうがないんだ」
 そうして私たちはまた、ふっ、と嗤う。
 それは私たちだけの会話だった。弟が嗤っているのは、私の頭の形だけではなくて、私たちが持ち合わせているさまざまの、秀(すぐ)れていない大部分の持ち物に対してだった。それからまた、私たちの眼に触れるかぎりの他者が持っている秀れていない大部分に対してもだった。

 孤独を緩ませたであろう「しょうがない」というセリフには、仄かな共感を湛えたストイシズムが凝集されている。その禁欲は、無頼とも放埓とも形容される色川の生き方の根にあるもので、無気力な諦観とは感触を異にする。

 『狂人日記』で描かれた狂おしいほどに切ない愛情は、「連笑」において、共犯への感傷と罪悪感を織り交ぜながら、終始、現実のなかで描かれる。幻覚も夢もない、ふたりの現実である。変則の場所を定着しうる場所とし続ける無頼の兄と、鉄道とケレンのない山景色を好む会社勤めの弟の現実が、交通事故を契機に交差する。
  
 追憶のなかの「しょうがない」が、束の間、再訪する。

 「どうにも、しょうがないね」

 「しょうがないんだ」

 そうして私たちはまた、ふっ、と嗤う。

 奈良までの小さな旅に出たふたりは、かつて浅草からの忙(せわ)しない帰宅でそうしたように、汽車に乗り遅れまいと走る。けれども、京都へと足を延ばすかもしれなかった旅は頓挫する。かつての共犯者たちは、それぞれの孤独の処方箋を手に、弟は自らの住む岐阜へ、色川は東京へと分かれていく。


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