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2008年06月09日

『無名』沢木耕太郎(幻冬舎)

無名 →bookwebで購入

現実と虚構における殺害の必然

 どうした風の吹きまわしか、近頃のわたしは実話に惹かれるようだ。たとえば『無名』がそうであるように、個人的事実をもとに描かれた随筆や、その事実に若干の虚構を施したような小説にこころの癖が向かっている。

 読者の趣向が多くの場合フィクションとノンフィクションの二派に分かれるように、書き手もまた概して二分される。ノンフィクション作家の旗手である沢木耕太郎は、2000年(53歳)に初めての小説『血の味』を出版した。15歳の少年による父親殺しを描いた奇怪な物語だ。そして、3年後の2003年には、自身の父親を看取る日常を綴った『無名』を出版している。沢木はノンフィクションからフィクションを経てノンフィクションへ回帰し、その後も旺盛な執筆活動を展開している。

 この回帰線は、『冷血』によってフィクションからノンフィクションへ踏み出したカポーティが、ふたつのジャンルの混淆へ傾倒していったことを連想させる。『冷血』は現実の惨殺事件を取材したもので、殺害者たちは見知らぬ家族を殺戮している。『血の味』では主人公が自分の父親を殺害していて、しかも物語は完全な虚構である。殺人という共通項だけでふたつの作品、またはふたりの作家を並べるのは恣意的すぎるように思われるかもしれないが、作家としての重要な折り返し地点を提供し、事実と虚構の架橋を果たしたのが、ともに殺人という行為であったことは偶然とは思えない。

 『血の味』の舞台裏について赤裸々なほどに明かしてくれるのが、実は『無名』にほかならない。

父の死に顔を見ながら、私には深く納得するものがあった。その少年はやはり私の分身だったのだろう。私の分身である少年はどうしても父親を刺さなくてはならなかった。…私は健気な少年であることを永く引き受けてきた。それがどこかで重苦しく感じられていたのだろう。畏怖する父親は同時に私が守らなくてはならない父親でもあった。私は、その絶対的な矛盾の中にあった少年時代の私を救出しなくてはならなかったのだ。だから、私はたった一度の反抗として小説の中の少年に父親を殺させようとした……。

 一方、『冷血』の舞台裏は、映画にもなった『カポーティ』(ジェラルド・クラーク著)に詳しい。アメリカの文壇を放逸に生きるセレブのカポーティは、インディアンの血をひくアウトローのペリーに自分に共通する孤独と痛みを見出している。カポーティにとって、ペリーは鏡のなかのもうひとりの自分であったと言っても過言ではない。けれども、執筆のための格好の材料であったペリーを自己愛的に利用し、彼が懇願した法的救済も叶えず、死刑執行に立ち会うことにも不能なまま、カポーティは彼を見殺しにすることになる。
 ペリーによる代理殺人は、殺害すべき父親が現実にも心的にも存在しなかったカポーティにとって、血生臭い現実でなくてはならないほどに、大量殺人でなくてはならないほどに、「反抗」では済まされない深い叫びを源とした。『冷血』の執筆は、もうひとりの自分を死刑執行台に乗せるという意味で、心的現実における自害に等しかった。沢木が『血の味』によって自身を救出したのとは対照的に、カポーティは『冷血』(の成功)によって自殺と他殺(見殺し)をなしたことになる。カポーティ42歳の時のことだ。そうして、『冷血』以降の彼は寡作となり、残された作品も現実と虚構の中空を切なく漂っていくことになる。

 沢木は殺害を『血の味』というフィクションのなかで実現した。少年という虚構の主人公を通じて、彼は父親を殺害した。現実の父親の死を見届けなくては叶わなかった「反抗」であり、犯行であった。律儀なことには、虚構における犯行の犠牲者である父親の弔いが、次作の『無名』で周到になされている。

 沢木は、現実において、抑制の利いた慈しみをもって父親を見送っている。丁寧語を使い合う他人行儀な父子のあいだの距離は、誠実であってもけっして泥臭くならない。それは彼ら父子が共有する現実との間合いであった。その間合いに確固と存在し機能するのが俳句であり、夫々の感情的生活は俳句によって醸成され、吸収され、創造され、想像される。もののあわれの道を体現するような日本的繋がりであると言わざるをえない。

 「守るべき」父親を殺害することが、沢木には必要だった。現実を追及してきたノンフィクション作家としての沢木は、フィクションによる殺人を経て、ノンフィクション的『無名』に至っている。それはフィクション作家であったカポーティがノンフィクションを経て中空へと向かった遍路とはまったく異なる軌跡である。虚構において父親殺しをなしえた男と、現実において自死せざるをえなかった男の差異が、そこにはある。

 それにしても、なぜわたしたちは(特に男性の場合)父親を殺さなくてはならないのか。精神分析家のハンス・レヴァルトは書いている。文脈を無視して唐突に抜粋すると難解なナゾナゾになってしまうが、末尾に添えておこう。

自分の人生と行為に責任を持つということは、心的現実において、両親を殺害することに等しい。そして、それは尊属殺人という罪にともなう罪悪感に対処していくことを意味している。…心的現実と象徴における尊属殺人から生ずる自己責任(自身の需要・衝動・欲望を自身のものとして「所有」することの意)とは、道徳的観点から見るならば犯罪である。しかし、その自己責任とは、解放と個人化の過程における犯罪の償いでもあるのだ。

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