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2008年03月09日

『インディアナ、インディアナ』レアード・ハント 柴田元幸訳(朝日新聞社)

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もののあわれとノアの箱舟

 『インディアナ、インディアナ』では、ノアという主人公の記憶と思索、過去と現在が去来する。それらは散乱しているかの印象を与えるし、実際、ノアはつれづれに回想したり夢想したりしている。つれづれなのはノアの記憶と思索だけではない。ノアのコレクションと呼ばれる過去の品々もまた、この小説のなかに散りばめられている。雀の頭蓋骨とつぶれた翼、無数の動物の骨、虫の死骸、古時計の部品、新聞の切り抜き、一対の仮面など、切れ切れのモノが過去を背負ったままに現われては消え、また現われる。ノアの父親、ヴァージルの語る「五十パーセントの物語」の数々もまた去来する。さらには、ノアへ宛てられた妻からの手紙もまた散りばめられる。「いとしいノア」で始まるいずれの手紙も、その言葉はノアのコレクションさながらに解体している。

 つまり、このつれづれなる作品では、解体されたモノまたは生物がいたるところで静かに横たわっている。安置された遺体と降り続ける雨が、この作品特有の心象風景となる。そして、そこには「ノアの箱舟」の重奏が聴こえる。言うまでもなく、それは神に選ばれた実直なノアが家族と一対の動物を箱舟に乗せて洪水を逃れ、山頂に運ばれるという救済と契約の話。主人公の命名からして当然連想されるはずの「ノアの箱舟」は、事実、小説の終わり近くになって直裁に引用される。

こちらのノアも、神に命じられて十分立派な船を作ったはいいが、なぜかこっちの箱舟にはいかなる動物もやって来なかった。妻も子供も来ないので、丘や谷間を探し回ったところ、彼がかつて知り、愛したものたちはみな消えてしまっていた。

 ノアは幻視する。ノアには見えないもの、見えるはずのないものが見える。埋もれた柱時計、遺棄された死体が見える。ノアは壊されて失われたものを見る。ノアの舟は遺体を乗せ、失われた過去ばかりが洪水のように押し寄せる。洪水の終わりを知らせるために放たれるはずの鳥も、戻るはずの鳥もなく、むしられた羽毛ばかりがノアの舟には散乱している。雨は止まない。ノアに見えるのは未来ではなく、失われた過去ばかりだ。

 幻視する無垢な人間として選ばれたノアが水のイメージに満ちているとすると、ノアの妻は火に憑かれている。二人のかつての家は妻に焼かれ、狂気の烙印とともに連れ去られた妻を取り戻す術もなく、ノアは見続ける。過去を幻視し続ける。父を埋葬し、母を弔い、ノアは残る。空に宿るはずの虹はない。

 「これは単なる勘だが、この小説に流れている悲哀感は、アメリカよりもむしろ日本の読者の方が反応してくださる方が多いのではないかという気がする」と翻訳の柴田元幸は記している。同感だ。惜別を抱えた静かな諦観が美へと昇華されたのがもののあわれだとすると、この作品の抒情はまさにもののあわれにある。いかなる遺骸が並び、いかなる狂気が添えられようとも、そこではひたすらに美しさが降っている。そして、この美は虚無感ではない。

 破壊された柱時計の埋まるインディアナの土地には、インディアン戦争によって流された夥しい血が宿っている。その戦争によってこどもを亡くした曾祖母は、「時間をなくしたい」「時間を殺したいという欲求」によって時計を叩き壊す。流された血と注がれた呪いから、ノアは壊された時計、殺された時間を掘り返す。蘇生も修復もない時間に囲繞されるノアに、雨は降り続ける。

 喪失を必然的にともなう時の推移を美学へと転じるこころ、もののあわれが日本の美学であるとすると、『インディアナ、インディアナ』は多くの現代日本文学よりも遥かに日本的なのかもしれない。


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