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2007年10月03日

『悪童日記』アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳(早川書房)

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心的外傷と創作という治癒の道程

 『悪童日記』を初めて読んだ時の新鮮なざわめきは、15年以上たった今も変わりない。その間にも、諸外国でベストセラーとなったこの作品は、三部作をなすほかの二作とともに文庫化されて、日本でもその特異な魅力を発揮したようだ。『悪童日記』の特異な魅力とは、双生児の男の子たちという主人公の独特な設定もさることながら、彼らの表す残酷と非情が、いかなる感傷や道徳的判断を差し挟むことなく描写され続けていくことにある。

 原題のLe Grand Cahier とは、大きなノート(帳面)という双生児の少年たちの手記を意味する。ふたりは、「作文の内容は真実でなければならない」という「きわめて単純なルール」に則って作文を綴っていく。つまり、いわゆる主観的とされる表現は巧妙に排除される。「感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい」と、ふたりは思い定める。親元を離れてブタペスト(作品のなかでは国名や地名は明記されていないが)から疎開した二人は、肉親の死に遭遇し、厳しい労働や戦火の脅威、おとなたちの貪欲・搾取・欺瞞・暴行を体験していく。ところが、その最中で、双生児は自ら盲目や聾唖の練習をしてみたり、断食を実験したり、残酷に慣れるための方法を習得したりという自虐的練磨を重ねていく。残虐というイメージを生々しく喚起させることなく、前代未聞の残虐が淡々と延々と描かれていくのだ。

 著者のアゴタ・クリストフは、ハンガリー動乱(1956年)によってブタペストから亡命し、辿りついた先のスイスで、この作品を執筆した。工場で働きながら、機械音を背景に頭のなかで綴ったという。そうした創作環境もあってか、『悪童日記』は寸劇のような短い断片の集合体として構成されている。その断片はクリストフ自身の体験を土台にしたものに違いなく、彼女の過去の記憶という血肉の断片が、フィクションという形を借りて堆積したのが、『悪童日記』にほかならない。おそらくは、クリストフと彼女の兄のふたりが、創作のなかの双生児の原型なのだろう。

 クリストフは亡命の折に兄と離別している。兄との別離が彼女にとって身を切るような痛みであったことが、彼女のインタビュー記事からは窺える。創作という空想のなかで、彼女は兄を蘇生させ、残酷な世界のなかにあって、隔絶した一心同体の世界を醸造させたのだ。勿論、第一作の『悪童日記』はもとより、続く『ふたりの証拠』・『第三の嘘』における双生児の顛末は、クリストフ兄妹に起きた事実とは異なるに違いない。それでも、彼女がまず不離の双生児物語を書かずにはいられなかったのは想像に難くない。

 痛みとは人間を無感動にさせるものだ。圧倒するトラウマに襲われた時、わたしたちは自らの情感を体験から解離させる。まさに双生児の兄弟がしたように、主観的感情を排除して、事柄だけを遊離させて認知の対象とする。それが極度の心的外傷に遭遇した人間の取りうる瀬戸際の術、自己防衛のアクロバットである。『悪童日記』には、深い剥奪と喪失を体験した者が、創作によって自己崩壊を癒していった軌跡が見て取れる。

 『悪童日記』は、クリストフが被ったに違いない心的外傷と解離という心的防衛が、双生児が繰り広げる無情の残虐によって脱主観的に表現されるという、二重の残酷と解離性をもっている。彼女の深い傷は、創作によって強調されると同時に隠蔽されるのだ。第二作からは、成長した双生児のそれぞれの人生が綴られていくが、第一作(『悪童日記』)で完膚なまでに覆われていた(フィクション化していた)傷は露呈していき、なおかつ第一作において一体であったふたりのアイデンティティは離別しながらも境界を不鮮明とし、痛々しく入り乱れていく。何がフィクションで、どこまでが事実で、誰が誰なのか、読者を混沌の渦に誘っていく。

 クリストフは当初、『悪童日記』の続編など構想していなかったのでないかと思う。止むに止まれぬものが、彼女をして書かせたのだろう。その結果、物語の必然性が、続編、さらに続々編を産んだのに違いないと想像する。読者の側としても、第一作を読めば、第二作、第三作へと読まずにはいられない。そして、事実、三つの作品はすべて逸品である。しかし、クリストフはその後、作品らしい作品を輩出していない。双生児の顛末を書き記した後に彼女を襲ったのであろう虚脱が、わたしにはわかる気がする。この作品群で華やかな作家デビューを飾ったクリストフであるが、これから新作を発表する可能性はあるのだろうか。

 『悪童日記』は、創作という治癒の糧になりうる作業とその限界について考えさせられる、痛ましくも哀しい物語である。


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