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2007年07月15日

『旅の時間』吉田健一(講談社文芸文庫)

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緩やかに在るということ

 今年は、吉田健一没後30年にあたる。昨年は「ユリイカ」での特集など企画されたが、吉田健一の作品群は、現在、軒並み絶版となっている。手軽に入手できるもののなかに『時間』というエッセイがあるが、その続編とも言うべき遺作『変化』は古書販売に頼らなくてはならない。もっとも、読解困難の極みを呈するそれらのエッセイの精髄は、短編小説集である『旅の時間』に馥郁と匂い立っていて、吉田健一はこれらの小説群を、晩年にいたって、あたかも息をするかの軽やかさで創作していった。

 吉田健一といえば、吉田茂の長男・超食通・マルチリンガルな博覧強記・高等遊民、等など、世間離れした連想が尽きない。なかでも、その文体の奇想天外さは他に類を見ない。句読点のほとんどないダラダラとした文章に、古今東西の文学・歴史・絵画に纏わる固有名詞が忽然と挿入されるかと思うと、何事もなかったかのように、またダラダラが始まる。構築性の微塵もない。ところが、このダラダラがこちらの意識の流れに嵌ると、ちっともダラダラではなくて、むしろ緩やかな水脈となるのだから不可思議と言うほかない。

 私事となるが、一昨年まで滞在したアメリカで反吐の出るほど英語を読まされた甲斐あってか、英語を読むことへの敷居は大幅に下がった。とは言うものの、母国語というのは有難いもので、日本語での読書がかくも楽であることに気づいたのは、帰国後のことだった。ところが、そのぬるま湯に浸かっていたら、日常出会う日本語の色艶のなさ、風合いのなさに、今度は物足りなくなってきた。戦後世代が翻訳本に晒されてきたせいか、目にする多くの日本語は、そのまま英語に翻訳しても不自然でないような出来になっている。つまり、詰まらない。たまに意気のいい日本語に出会っても、そこには多くの場合、垂れ流しのような下品さがつきまとう。日本語らしさや、その品格が感じられないのだ。そう言う自分も俄か西洋暮らしのせいで、いまだに日本語の足腰が弱っている。

 日本語らしい日本語を求めていた時に想いだしたのが吉田健一だったというのも、考えてみれば奇妙な話で、帰国子女の奔りのような吉田健一にとって、日本語はあるいは母国語とは言い難いのかもしれないのだ。それでも、吉田健一の文章は、日本語でしかありえない融通無碍な鵺(ぬえ)のような体裁を存分に開陳させている。小説のはずなのに、あたかも随筆の延長のように主人公の連想が続き、それがいつのまにか舞台劇のト書きであったかのようにフィクションへと推移する。西洋や支那の歴史や芸術の知識を前提にされた登場人物の会話が展開していくかと思いきや、007張りのドタバタが勃発したりする。気障(きざ)もここまでいくと鼻にもつかないというほどに高尚な会話と、こども相手の活劇が、堂々悠々と同居する。いかなる境界を越えていきながらも、一貫として吉田健一の世界であり続けるのも、また吉田健一ならではの自由である。

 『旅の時間』では、パリ・ロンドン・ニューヨーク・神戸・大阪・京都などの旅先で、主人公が誰かと出会って、時間を共有し、そうしてまた一人に戻っていく。誰かとは、「西洋のお伽噺にあるような小人の感じがする」男であったり、暗黒街の顔役かもしれないバーテンダーであったり、神戸で生まれた年齢不詳のイギリス女性であったり、サファイアを填め込んだ小銃をポケットに忍ばせる老人であったりする。旅先で出会うこれらの不可思議な人々は、ひとさらいのように登場し、何を奪うでもなく、旅の終わりには、彼らもまた彼ら自身の時間へと戻っていく。

 参考までに、東北本線の車上で出会った二人の会話を抜粋してみよう。

「ええ、併し故郷と言ったっていつもそこにいられるとは限らなくて始終そこのことを思い出している訳にも行かないでしょう。それに故郷がない人間というものだって考えられる。併しその人間にもここが自分がいる場所だというその場所よりもその気持がなくては他のどういうことも大して意味があるものじゃなくなるということが言いたいんですよ。これは誰にでも当て嵌まらないことなのだろうか。併し兎に角その気持があればその場所にもその気持になる時にいつでもいることになるので実際にいる場所はそれだから幾ら変っても構わない。寧ろその方は始終変っているのが普通でしょう。」
「時間が語り掛けて来るということなんですか、」と坂本は自分にとっても意外なことを言った。
「そこでは時間が語り掛けて来ます。又そうでないと自分と向き合うことが出来ない。これを自分を見詰めるというような青臭い意味に取っちゃいけないんですよ。それよりも自分と向き合うというのは自分が息をしているのを感じることです。そして故郷ということを一つの観念にまで煮詰めればそれは同じことを指すと思う。」

 上の二人はその後、ギリシャや日本の詩、挙げ句にアフリカのブッシュマンの話など始めることになる。勿論、二人はしたたか飲んでいる。こんな突飛な日本語も小説も滅多にない。そして、旅先での絵空事のような邂逅が、どこにいても息をしていることを感じさせ、緩やかに在ることの感覚を育んでくれる。多くの言語と国境を往来してきた吉田健一が、世界につまりは自分に馴染んでいった在り方が、『旅の時間』には豊かに醸し出されている。没後30年、合掌。


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