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2007年05月16日

『高丘親王航海記』澁澤龍彦(文藝春秋)

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「物語という舟」

マルキ・ド・サドからコクトー、バタイユにいたるまで、多くのフランス文学を日本に紹介してきた澁澤龍彦にわたしが惹かれたのは随分と昔の話で、強烈な西洋臭を放つエロティックなオーラと、奇を衒(てら)うようなスタイル、カタカナの連発に辟易し始めてからというもの、彼の作品はわたしの書棚に予約席を持たなくなっていた。英語カタカナはもとより、フランス語のそれまで出没するのだから、始末に終えなかった。だから、彼が晩年には数々の小説を書き始めていたことにすらわたしは無知でいたし、その無関心が覆る日が来ることなど、夢想すらしていなかった。ましてや、始末に終えなかったはずのカタカナへの偏見が正されることなど予期しうるはずもなかった。

この本を読んで以来、「プラスティック」という言葉の醸し出す心象と肌触りの予感は、すっかり変容させられてしまった。安っぽく、軽薄で、土にも還らない地球のお荷物だった「プラスティック」が、儚く脆い哀しみを湛えながらも、ひとりの人間の生命(いのち)の切りを越えて永らえる何かへと変わってしまったのだ。

本との出合いとは、人との出会いほどに因果があって、その因果を素通りしてしまうこともあれば、そこに立ち往生してしまうこともある。あるいは、その因果を縁起にして、現在が変容していく機会を与えられることもある。わたしにとっての『高丘親王航海記』とは、「プラスティック」の変容に象徴されるほどに、わたしの現在を変容させる力を持っていた。その力を魅力と呼んでも、魔力と呼んでも、磁力と呼んでもかまわない。いかなる漢字が頭(かしら)に添えられようとも、それは力に違いなくて、その力に圧倒されて、あるいは心浚(さら)われて、どうしてなのかと自問する。因果の縁起を自問する。

『高丘親王航海記』は澁澤龍彦の遺作であり(ちなみに読売文学賞を受賞している)、彼自身、その出版を待たずに鬼籍に入っている。勿論、そうした事情も読む側には感傷を深めさせる。まして、呑み込んだ真珠を喉に痞(つか)えさせて親王が病んでいく経緯を、澁澤が咽頭癌を病みながら執筆していたことを知ると、致死の病をこのような物語へと転換させた心の内に呑まれて、こちらの胸が詰まる。けれども、そうした事実は、この作品がわたしの心を動かす本質の背景にすぎない。

結局のところ、心を動かす本とは、心の底で凍結していた事柄を氷解させるのだろうと思う。あるいは、縺(もつ)れたままに放置されていた結び目が解かれるのだと言い換えてもいい。つまり、そうした本は、わたしたちの記憶と情感を呼び覚まし、埋もれていた過去が現在に木霊(こだま)を呼ぶことで、過去と現在を繋いでいく。そうした本との出合いを、カタルシス(浄化)と呼んでも、もののあわれ体験と呼んでもかまわない。どのような呼称であろうとも、心の深い河の流れを変える体験なのだ。

『高丘親王航海記』は、平城帝の皇子(みこ)である高丘親王が、古稀にも届こうとする年齢に至って、天竺(てんじく)を求めて船出する旅の軌跡である。二人の僧に加えて、秋(春)丸という男装の美少女を側近に、蟻塚に埋まる翡翠(ひすい)に惹かれ、獏(ばく)に夢を喰われ、人間を即身仏に変えてしまう花に遭遇し、真臘(カンボジャ)を彷徨し、アラビアの船に乗る。美しく無駄のない言葉で、華麗ではなく清楚に、博学の披瀝ではなく知への慈しみをもって綴られる物語のなかで、過去と現在、さらには未来が去来し、夢と現実が交錯する。時空と次元の転回が、舞うように澱みなく流れるのである。

『高丘親王航海記』では、輪廻転生が物語の基底音として奏でられる。けれども、それは澁澤龍彦と親交の篤かった三島由紀夫の観念的に構築された音階とは対照を成す、官能的調べである。天竺への憧憬の発端は、親王の幼少時に藤原薬子が投げた「光るもの」、または薬子そのものであり、それが航海の先々で変容され、転生を繰り返していく。親王の喉に宿る真珠もまた、そうした転生変化(へんげ)の形であり、異物を核として有機物と無機物が層を重ねて真珠が生成されるように、輪廻転生という異界への門口を核として、物語は時空の層を重ねて生成される。同時に、生物が鉱物を生み出すという稀有な創造の賜物である真珠は、澁澤龍彦という文学者の生み出す言葉という創造の珠玉の象徴でもある。

天竺への紀行は単なる冒険譚ではなく、生きてきたこと、生きていること、生きていくことの物語であり、つまりは死んだこと、死んでいること、死んでいくことの物語にほかならない。親王にとって天竺へ行くことは、天竺へ還ることでもあり、その帰還は可能でもあり、不可能でもある。胡散臭い表現になってしまったけれど、つまりは、『高丘親王航海記』は、親王のなかに住まう過去の人物-藤原薬子-と親王の関係が織り成す世界の展開と顛末なのだ。しかも、その織り成す世界が、読む側の人間のなかに住まう過去の人物に感応して、彼らを蘇らせずにはおかない。そして、その蘇生の息吹と過去との対話が心を動かし、現在を変容させるのだ。

物語のはじめに、臨死の儒昆(ジュゴン)は語る。「おれはことばといっしょに死ぬよ。たとえいのち尽きるとも、儒昆の魂気がこのまま絶えるということはない。いずれ近き将来、南の海でふたたびお目にかかろう」。儒昆がこの言葉の通りに物語の終焉で還ってきたように、澁澤は彼の言葉の真珠、『高丘親王航海記』とともに死に、輪廻転生の航海を、今、どこかでしているのかもしれない。

『高丘親王航海記』は、物語という文学が持つ(はずの)原点へとわたしを立ち戻らせ、自分の死生の航海を省みさせずにはおかない妖艶で霊妙な舟である。


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