« 法律/政治/国際関係 | メイン | 演劇/映画 »

2013年06月30日

『エッフェル塔』 バルト (ちくま学芸文庫)

エッフェル塔 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『エッフェル塔』はバルトが1964年に発表した本文100ページに満たないエッセイである。日本では1979年に審美文庫から本文より長い解説というかバルト論が付されて(それでも薄い本だった)宗左近・諸田和治訳で出た後、1991年にみすず書房から花輪光訳でアンドレ・マルタンの写真55点入りの豪華本で刊行された。本書は審美社文庫版の文庫化で、解説に後期バルトに関する長い「追補」が加筆されたほか、伊藤俊治氏が選んだエッフェル塔に関する図版と写真がくわわっている。

 まず確認しておきたいのは本書はバルトが記号学の夢に迷いこむ前に書かれた本だということだ。バルトは1963年にテーマ批評の掉尾を飾る『ラシーヌ論』を書いたが、本書はその翌年に刊行されており、ほぼ同じ時期に書かれたと思われる。

 意外に思うかもしれないが、本書にはシニフィエ、シニフィアン、ラング、パロールといったおなじみの記号論用語はまったく出てこない。「記号」signeという語(本書では宗氏独自の訳語として「表徴」になっている)は9ページに2箇所、88ページに1箇所出てくるが、「空虚な表徴と言ってよいほど純粋なこの表徴」とか「このような社会的表徴をこえて、エッフェル塔は、さらに一層普遍的な象徴を展開させる」という行文を見ると、記号論でいうsigneではなく「象徴」の言い換えとして使われており、「表徴」というバロック的な訳語が案外はまっている。

 「記号」と「象徴」はどう違うのだろうか?

 バルトは『サド、フーリエ、ロヨラ』でサディズムを切り捨てたサド、ユートピア思想を切り捨てたフーリエ、信仰を切り捨てたロヨラを中心のないシステムとして示したが、『エッフェル塔』におけるエッフェル塔はパリの唯一無二の中心なのである。エッフェル塔を記号論的に考察するなら凱旋門や廃兵院、パンテオンのようなパリの他のランドマークとの対比で考えるか、東京タワーやスカイツリーとの対比で考えなければならない。ところが凱旋門や廃兵院、パンテオンはエッフェル塔から眺めおろされる風景の一つにすぎないし、他の塔は言及すらされない。エッフェル塔は記号論以前の「象徴」もしくは「隠喩」として分析されているのであって、記号論でいう「記号」としてはあつかわれていないのだ。

 「構造」、「構造主義」という言葉も出てくるが、レヴィ=ストロースにはじまる構造や構造主義とは異なる意味で使われている。

 パリとフランスは、ユゴーとミシュレの筆の下で(そしてエッフェル塔の視線の下で)はじめて理解しうる事物となる。だが――それこそが新しいことなのだけれど――、だからといって、パリとフランスがその具体性を失うことは決してない。なぜなら、こうして一つの新しいカテゴリー、つまり具体抽象というカテゴリーが誕生したからである。そして今日、構造という言葉に与えられる意味は、まさにこの具体抽象であり、すなわち知覚形式の肉体化なのである。

 ここで「構造」と呼ばれているのは「知覚形式の肉体化」と言い換えることもできる「具体抽象」であって、レヴィ=ストロースが親族の呼称体系や神話のヴァリエーションからとりだした置換群とは何の関係もないし、『モードの体系』や「物語の構造分析序説」などバルト自身の構造主義時代の仕事とも関係がない。『エッフェル塔』のバルトは構造主義以前のバルトなのだ。

 バルトはエッフェル塔に同一化し、没入していく。バルトはミシュレやユゴーが十九世紀的な想像力で描きだしたバロック的なパリを呼びさます。ミシュレはエッフェル塔が完成する十年以上前に物故し、ユゴーは建設中に亡くなったが、彼らが幻視したパリの鳥瞰的なパノラマはエッフェル塔から眺めるパリを予告するものだった。バルトは『ノートルダム・ド・パリ』を思わせる筆致でエッフェル塔からの眺望を描きだす。

 塔の頂上から、ひとたびこれらの歴史と空間の地点をとらえるならば、その後は想像力がひとりでにパリのパノラマを満たし、それに構造を与えていく。だがそのとき、この想像力の働きを助けるのは、人間の機能にほかならない。というのも、パリの上空にあがったエッフェル塔の来訪者は、まるで悪魔アスモデのように、何百万という人間の私生活をおおっている巨大な蓋を持ち上げる幻覚をいだくからである。そのときこの都会は親しいものとなり、彼は、この都会の諸機能、この都会のさまざまなつながりを解読していく。セーヌ川の水平なカーブと垂直に交叉した巨大な磁性軸上には、ちょうど仰むけに寝た人間の体のような、階段状に重なった三つの地帯、すなわち人間生活の三つの機能がある。上の部分、つまりモンマルトルの丘のふもとには快楽があり、真中の部分、すなわちオペラ座のあたりには、物質、事業、商売があり、下の部分、パンテオン寺院の足下には、知識と学問がある。

 エッフェル塔自体もバルトは十九世紀の大作家の筆致で描きだす。こんな具合だ。

 鉄は、火の神話に参加している。そして鉄の(象徴的な)価値は、重さにあるのではなく、エネルギーにある。なぜなら、鉄は強くて軽い物質だから。鉄の神はヴァルカンであり、鉄の創造の場は作業場である。鉄はまさに作りだす材料なのである。そしてこの材料が、自然に対する人間の貪欲で、決定的な支配という観念と象徴的に結びつけられる理由も、そこから理解できる。じじつ、鉄の歴史ほど、進歩主義的歴史観をささえているものはない。エッフェルは、塔の建設に鉄だけしか使わないことによって、さらには、この鉄のかたまり(エッフェル塔)を、パリの空に聳え立たせて、さながら鉄に献げる聖なる碑と化することによって、鉄の歴史を二重に飾ったのである。鉄の中にこめられているもの、それは十九世紀のすべての情熱、バルザック的でファウスト的な情熱なのである。

 バシュラールが大喜びしそうな物質的想像力全開の描写だ。全編こうなのだからうれしくなる。

 『エッフェル塔』はバルトのテーマ批評の最後の傑作である。みすず版の帯には「エッフェル塔の記号学」とあったが、売らんがための宣伝文句にすぎない。本書は記号学とも構造主義とも関係がなく、記号の科学の夢に迷った中期を飛び越えて後期バルトの快楽の世界に直結しているのだ。ゆめゆめ誤解しないように。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年06月29日

『ロラン・バルト中国旅行ノ-ト』 バルト (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルト中国旅行ノ-ト →紀伊國屋ウェブストアで購入

 文化大革命末期の1974年、バルトはテル・ケル派の論客らと中国に招待され、三週間にわたって各地を観光して歩いた。

 テル・ケル派とは1960年にフィリップ・ソレルスが創刊した前衛文学誌『テル・ケル』に拠った作家、思想家のグループをいい、この頃にはフランス共産党から離れ毛沢東主義を奉じ、中国の現状がまったくわかっていなかったのに闇雲に文化大革命を礼賛するようになっていた(後に言い訳がましく転向することになる)。

 バルトは政治的立場こそ距離をおいていたが、秘蔵っ子のジュリア・クリステヴァがソレルスと結婚し、派の理論的指導者となっていた関係からテル・ケル派の後見人のような立ち位置にいた。

 中国に招待されたのはテル・ケル派からソレルス、クリステヴァ、マルスラン・プレイネ、それにバルトとスイユ社のバルト担当編集者で哲学者としても知られていたフランソワ・ヴァールの五人である。

 準備段階ではジャンク・ラカンも参加することになっていたが、テル・ケル派の一味と見られるのを嫌い直前になってとりやめている。

 一行は4月11日にオルリー空港をたって北京にはいり、柴禁城や近郊の人民公社を見学した後、あわただしく上海に飛んだ。上海と南京で四日づつすごし、洛陽から史跡をまわって西安に向かい、28日には北京にもどり、以後北京を拠点に動いている。帰国は5月4日である。

 この旅行については参加者がそれぞれ証言を残しているが、バルトだけは事前に書くと約束していた短文を除くと沈黙を守った。

 日本を題材に『表徴の帝国』のようなエスプリの効いた本を書いた批評家がなぜ中国については沈黙したのだろうか。

 カルヴェは『ロラン・バルト伝』でバルトは文革下の中国にうんざりしていたのだと書いている。

 彼にとって、中国はおそらく退屈だったのであり、腹だたしいこの旅の道連れのうちの何人かの毛沢東主義的情熱もそうだったのであろう。彼は退屈し、その退屈さをのちに味気なさの理論に変えるのであり、工場の見学や決まり文句に我慢がならず、当時中国を訪れた《外国の友》全員に必ず披露される鍼麻酔の実演に我慢がならず、とりわけ周囲の厳格主義に我慢がならなかったのである。

 うんざりしたならしたで、いくらでも書きようがあるだろう。カルヴェによるとバルトが沈黙を守ったのは中国に遠慮したからではなく、当時熱烈な毛沢東主義者だったテル・ケル派、なかんずく愛弟子のクリステヴァと仲たがいしたくなかったからだという。バルトの性格からいって十分ありうる話である。

 とはいえバルトは何も書き残さなかったわけではなかった。中国版『表徴の帝国』の材料にするつもりだったのかどうかはわからないが、三冊のノートにメモを残していたのである。ノートは他の遺稿とともにIMEC(現代資料出版研究所)に保管されていたが、2009年に出版された。旅行から実に35年後のことである。その邦訳が本書だ(ちなみに文庫オリジナル)。

 一行が訪れたのは批林批孔運動の真っ最中で、どこに行っても同じスローガンを聞かされる。判で捺したような毛沢東礼賛と劉少奇批判もあいかわらずおこなわれている。そして大字報(壁新聞)と書きなぐられたスローガン。

 帰国後、中国には記号はなかったのかという質問をはぐらかしたバルトだったが、感激しきりの同行者と違って彼の精神はちゃんと働いていた。

[結局、彼らの演説はブロックの組み合わせだ。その組み合わせ方だけが、とても脆弱なものではあるが、差異を浮かびあがらせてくれる――おそらくは解読しがたい微妙な差異だろう。というのも、それはわたしたちのコードではないからだ。彼らの言語学はソシュールの言語学ではない。個人言語ではないのである。彼らは愛や社会学的な知などについての話をしないのだろう]

 林彪の路線:修正主義:修正主義路線は《克己復礼》を目指す。つまり、資本主義を復活させる[見事なブロックが始まった]

 バルトはノートの中で政治的スローガンを終始「ブロック」と呼んでいる。「ブロック」は同行者の間でもおこなわれる。そして数ページおきに出てくるクレゾールの臭気。一行を歓迎するかのように、どこに行ってもクレゾールがまかれている。クレゾール、歓迎、クレゾール、歓迎。片頭痛が毎日のようにぶりかえす。

 かつてトロツキーに共感していたはずのバルトは教条的なトロツキー批判とスターリン礼賛をそのままノートに書きこんでいる。個人的な感想は[]でくくって書きつける。本当にマメな人だ。

[結局のところ、毛沢東は言語設立者ロゴテートなのだ。言語設立者は立法者ノモテートにとって代わる]

 文革時代に中国を訪れた外国人は必ず鍼麻酔の実演と革命京劇を見せられた。一行が見学したのは胃の切除と白内障の手術だった。

医者との会話:
病気の心的原因? そうですね、ただわたしたちは社会主義体制におりますので、潰瘍を引き起こすほどの精神の病はほとんどありません、云々……

 文革の間、中国の人民は紅衛兵もふくめていつ自分が糾弾されるのかわからない不安におびえていたことがわかっている現在から見ると笑うしかないやりとりだが、わざわざ書きつけているところをみると当時のバルトは答えの欺瞞性に気がついていたのだろう。社会主義はウソ、ウソ、ウソ、ウソまみれである。それにしてもあれほど喧伝された鍼麻酔だったが、今はどうなってしまったのだろう?

 ある革命京劇の感想。

英雄を主人公にした一種のオペラ・コミックで、大げさな対話、節回し、曲芸などが織り交ぜられている。好意的ではあるが誤った考えをもつ他勢力と比較して、正しい思想をもった共産党を賛美するというのが作品の意図。伝統的なオーケストラ。
相変わらず過剰な化粧:けばけばしい黄土色の顔色がベースで耳は白いまま。赤い顔:善人。悪人はもっと白く、黒服かドレスを身につけている(地主)。

 外国人の観劇はショーの一部であって、彼らが退場する時はまたしても熱烈歓迎が演じられる。

劇場を出る時はまたしても異様であった:観客は皆立ち上がり、人垣を作ってわたしたちに拍手を送る。車の周りに人だかりができる。
王様の旅行
旅行中ずっと:言語と旅行社の二重のガラスに遮られている。
まったく、なんてすてきな民衆たちなんだ。

 バルトは旅行中、終始不機嫌だったようだが、ところどころ心を和ませる情景も書きつけられている。たとえば始皇帝陵を訪れた時の眺め。

他のメンバーは塚の高くなった場所に登る。わたしは1人で残り、小麦畑の上にある果樹園のなかで地面に座っている、眼前には広大な淡い緑の地平線が広がる。埃っぽいベージュ系ピンクの煉瓦で作られた大きな建物がいくつかあり、遠くで音楽が聞こえる。薄茶色の畑には、大きな波状の畝がいくつもある。辺り一帯、ずっと奥まで木々が茂っている。見えないが、モーター付き自転車の音がする。

 本書は不機嫌が地になっているので、こうした条はことさら美しく感じられる。社会主義思想と社会主義国家はウソのかたまりだが、この頃の中国には七色に汚染された川や重金属まみれのゴミの山、財テクで作られた鬼城ゴーストタウンはまだなく、自然に救いがあったのだ。拝金主義に蹂躙される前の中国を記録した本書には歴史的価値があるかもしれない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年06月28日

『ロラン・バルト伝』 カルヴェ (みすず書房)

ロラン・バルト伝 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ロラン・バルトが亡くなって10年後に出た初の本格的な伝記である。

 力作といっていいと思うが、「作家の死」を提唱した文学理論家に普通の伝記を書いてしまったために(伝記素がどうのこうのと能書を書いているが、結局は物語風の伝記になっている)、笑いものにされこそすれ評価されることのなかった本である。ある意味気の毒な本といえる。

 著者のルイ=ジャン・カルヴェは社会言語学者で、伝記は本書が第一作となるが、その後シャンソン歌手のジョルジュ・ブラッサンスの伝記も書いているとのこと。

 どれだけ意味があるかは疑問だが、新事実がいろいろ書いてある。その中で重要と思われるのは戦死した父親が職業軍人ではなかったことだろうか。

 バルトの父のルイ・バルトは1916年10月北海の海戦で戦死した海軍士官と記されてきたが、もともとは民間の船乗りで、第一次大戦勃発とともに予備役海軍中尉として徴兵された。

 ルイ・バルトが指揮していたのは小さなトロール漁船に57mm砲を一門とりつけただけの「哨戒艇」だった。海戦がはじまると艇はすぐに被弾し、バルト船長は致命傷を負った。漁船に砲弾があたったらひとたまりもない。

 航海士の資格をとると海軍の予備役あつかいになる制度は戦前の日本にもあったらしいが、職業軍人と民間の航海士では遺族の「戦死」の受けとめ方はずいぶん違うだろう。『哲学の歴史12 実存・構造・他者』を読んでいて、第二次大戦後に活躍したフランスの哲学者に戦死した海軍将校の遺児が多いのが気になったが、海軍将校とはいってもバルトの父のように徴兵された民間の航海士が他にもいたかもしれない。

 バルトは19才の時に喀血し、20代の8年間をサナトリウムですごすが、最初にはいったサン・ティレールの学生サナトリウムはグルノーブル大学附属で、グルノーブル大学の教師が出張講義をおこなっていた。バルトはこのサナトリウムでエリアス・カネッティの弟のジョルジュと知りあっている。

 フランス人には自明のことかもしれないが、外国人にはわかりにくいキャリア形成や出版事情についての記述もある。日仏学院のようにフランス政府が外国に設けたフランス語教育施設が若い知識人の受皿となっていて、結核によってアカデミックな経歴をいったんはあきらめたバルトは外務省の嘱託としてブカレストのフランス学院に赴任する。役職は図書係だったが、シャンソンをテーマとした連続講演をおこない好評を博す。

 カルヴェは一般の聴衆を相手にした講演にとりくんだことが後年のバルトのスタイルを決定したとしている。

 博識を通俗解説に盛り込み、学問的でありながら一般大衆にもわかるように話すことによって、彼はそれと知らずに一つのスタイルを試していたのだ。それはのちに『神話作用』で用いることになるスタイルであり、自分が話しているその場から生まれるスタイルである。大学で教えていたとしたら、他の形を採らざるをえなかったろうし、大学の古典的な言説の鋳型にはまらざるをえなかっただろうが、ここでは、この学院では、教養はあるが専門的ではないそうした聴衆を前にして、彼はのちに自分の書き方となるものを、しゃべることによって作り上げていたのだ。

 ルーマニア革命によってブカレストのフランス学院は閉鎖される。バルトは失業を心配するが、スタッフの多くはアレクサンドリアのフランス学院にまわされる。バルトはそこで後に構造意味論の大家となるグレマスと知りあう。グレマスはソシュールを教えてくれただけでなく、語彙論研究者のジョルジュ・マトレを紹介してくれる。バルトはマトレを介してアカデミックな経歴の端緒をつかむのだから万事塞翁が馬である。

 本書で描きだされるバルトは弱く傷つきやすい。結核の療養のためにエコール・ノルマルを受験できなかっただけでなく、教授資格アグレガシオンもとれなかった。ピカールとの論争についてもバルト側からしかけたところか、バルトは批判に狼狽し深く傷ついている。

 「わかるだろ、ぼくが書くものは遊戯的だから、攻撃されると何もかもなくなってしまうんだ……」と彼はフィリップ・ルベロールに説明している。同じ頃、アラン・ロブ=グリエが語っているところによれば、バルトは「ピカールの非難によって極端に動揺していた(……)。古いソルボンヌの怒り狂った視線が、とつぜん、憎しみと恐れの入り混じった複雑な感情で彼を震え上がらせたのだ」という。フィリップ・ソレルスの記憶によれば、バルトは「ピカール万歳」というあのほとんど全員の叫びを前にして、ひどく傷つき、苦い思いをしていた。彼は敵意を示す社会に対してよろいもなく、無防備な自分を見出したのだ。

 『批評と真実』の颯爽とした反論と、その後に勝ちえた世界的な名声からすると意外な印象を受けるが、よくよく考えればその通りだったろう。

 本書が描きだすバルトは勤勉というかマメである。勤勉さやマメさは後期のバルトからはもっとも遠い特質に思えるが、国立科学研究センターで最初にえた語彙論の研究員というポストは国立図書館で1830年代の商取引に関する文献を調査し、資料カードを作成するというもので、勤勉でなければつとまらない。

 勤勉さ自体はサナトリウム時代から発揮していた。バルトはミシュレ全集からの書き抜きを資料カードでおこなっていたが(10年以上後、最高傑作『ミシュレ』として結実する)、900枚を超えたところで資料カードの使い方が間違っていたと気づき、すべてのカードを正しい書き方で転記したというのだ。いくら時間がありあまっていたとはいえ、根がマメでないと到底できないだろう。

 バルトはアカデミックな資格を学士号以外もっていなかった。教授資格アグレガシオンは結核による不可抗力といえなくはないが、博士号の方はみずからすすんで放棄した印象を受ける。博士論文として準備したのは『モードの体系』である。『モードの体系』は完結しており、記号論研究の金字塔といっていい重要な著作である。しかもボードリヤールの『物の体系』よりもずっと博士論文としての体裁をそなえているように思える。ところがバルトはついに博士論文の登録手続をおこなわず、書きあげた『モードの体系』は論文としてではなくエッセイとして刊行する。

 学位論文を書くということは、ある種の大学的な言葉遣いに自分を従わせるということである。それは人文科学の研究者たちにとって研究成果の発表を可能にするやや生彩のない手段としての言葉遣いである。ところが、彼はその好みからして、より型にはまっていない、より個人的な別の文体に向かわずにはいられない。おそらく彼は、この学位論文も、他の学位論文も、自分はついに仕上げることがないだろうと感じて、自分のそうしたやり方ないし無力さをすでに、作家と著作家という、その後有名になった区別によって理論化していたのだ。つまり、一方には、彼が退ける例の文体、エクリヴァンス(&eacc;crivance)があり、他方には、ある思想を伝えると同時に言説としての自己を問題にする例の言説、エクリチュール(&eacc;citure)がある、というわけである。

 カルヴェの見方は説得力があると思う。『物の体系』でも通ったのだから、『モードの体系』が通らないはずはないと思うが、バルトには譲れない部分があったのだろう。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年06月27日

『ロラン・バルト』 アレン (青土社)

ロラン・バルト →紀伊國屋ウェブストアで購入

 英国のラウトリッジ社から比較文学を勉強する学生向けに出ている「シリーズ現代思想ガイドブック」の一冊である(邦訳は青土社から)。ガイドブックだけに随所に用語解説のコラムをはさみ、各章の末尾に要約を載せている。

 同シリーズからはレインの『ジャン・ボードリヤール』をとりあげたことがあるが、本書も訳文が読みやすい。近年、現代思想関係の翻訳はずいぶんよくなったが、平明なはずの概説書が平明な日本語で提供されるようになったのはけっこうなことである。

 原著と異なるのは巻末の「読書案内」だ。バルトに限らず英訳本では英訳本独自の編集がおこなわれることが多く、英米で独自に編まれた論集もすくなくない。英訳本の表題だけでは何という論文の話をしているのかわからないことがよくあるのだ。本書ではアレンのコメントを本国版に準拠して再構成し、さらに邦語文献を追加しており、「読書案内」がちゃんと「読書案内」になっている。

 簡単な略歴の紹介の後、「キー概念」の部では主要著作を年代順に、時代情況に即しながら紹介している。

 本書では時代状況に即すという点が重要である。バルトは変貌をくりかえし、「エクリチュール」のような基本的な語の意味も初期と後期ではずいぶん異なるが、時代状況を考慮しないとどのように変わったかが本当にはわからないからだ。

 『零度のエクリチュール』の頃のエクリチュールは選択不可能な二つの条件(国語と文体)と対比される選択可能な書き方、表現様式のことだったが、その背景には本書で詳しく解説されているようにサルトルのアンガジュマン文学論がある。初期のバルトはサルトルの圧倒的な影響下にいたのである(アンガジュマン文学論からはすぐに離脱するが、サルトルの想像力論の影響は最晩年の『明るい部屋』までつづいている)。

 若い人は内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』を通してバルトとエクリチュールを知るケースが多いようである。内田氏の解説は非常にわかりやすくすぐれているとは思うが、単純化しすぎている部分もあるのである。

 バルトがエクリチュールを選択可能な書き方という意味で使っていたのはアンガジュマン文学論の影響下にあった初期の話であって、ポスト構造主義の時代になると異なる意味あいがあたえられるようになるのだ(エクリヴァンスと対比されたエクリチュール)。またバルトは人間を「エクリチュールの囚人」ではなく「言語の囚人」と考えていたはずである。内田氏の影響はきわめて大きいので、あえて一言ふれておく。

 『ラシーヌ論』をめぐるレイモン・ピカールとの論争についてはカルヴェの『ロラン・バルト伝』の後に出たにもかかわらず、従来通りバルト側から挑発したような記述になっているのは残念だ。距離を置いてみればバルトが一方的に得をしたように見えるが、同時代的にはそんな甘い状況ではなかったようである。

 あるいはアレンはカルヴェの描きだした弱いバルトに反発したのかもしれない。カルヴェはバルトの亡くなった3週間後にサルトルが亡くなったためにバルトの死がかすんでしまったと書いたが、アレンは「しかしながらカルヴェの報告を額面通りに受け止めて、バルトの死を悲喜劇のアフター・ピースに翻訳してしまえば、わたしたちは間違いを犯すことになるだろう」と反論している。

 科学を標榜していた構造主義時代から、テクスト論を標榜するするポスト構造主義時代への変わり目は「物語の構造分析序説」と『S/Z』の間の時期とする見方が多かったと思うが、アレンは「物語の構造分析序説」の段階ですでにポスト構造主義への移行がはじまっており、『S/Z』はテクスト論の「もっとも完全な報告」と位置づけている。アレンが指標とするのは間テクスト性だが、この見方は十分説得力があると思う。

 後期のバルトは意味伝達の記号論から意味生成のテクスト論へ完全な転回をとげるが、アレンは意味生成のテクスト論に突き進んだ背景にはアマチュアピアニストとして演奏を楽しむ経験があると指摘している。

 バルトによる能動的な読書の推奨は、音楽の演奏についての指摘を反映している。同様に、バルトによる音楽の愛好的生産の称揚も、身体的な、アンガジェした、音楽への能動的関係に関わっている。いま音楽は、大衆文化のなかで商品化されること甚だしく、そこに立ち向かうのが音楽のパフォーマンスなのである。

 手すさびの音楽と同一視するのはいかがかと思わないではないが、そうした面があるのは事実だろう。

 アレンはバルトの生涯をつらぬく姿勢を反骨にもとめている。初期においては『神話作用』に見られるようにブルジョワ文化に対する反骨、1970年以降は猛威をふるう大衆文化に対する反骨だ。

 いわんとすることはわかるが、ノルマリアン的なブルジョワ蔑視、大衆蔑視とは違うということは押さえておいた方がいいのではないかと思う。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2012年12月28日

『謎のチェス指し人形「ターク」』 スタンデージ (NTT出版)

謎のチェス指し人形「ターク」 →bookwebで購入

 ポオが26歳の時に書いたエッセイに「メルツェルの将棋差し」がある。

 メルツェルの将棋差しとはメルツェルという興行師が1826年にアメリカに持ちこんだチェスをさす自動人形オートマトンのことで、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアなどを巡業して好評を博した。ポオが見たのは10年近くたった1835年のことで、翌年、中に人間がはいっているのだろうと推理した件のエッセイを雑誌に発表した。モールスが電信の公開実験をやった頃のことである。

 邦訳は小林秀雄がボードレールの仏語訳から重訳し、大岡昇平が補訂したものが『ポオ小説全集1』にはいっている。後に書かれる「モルグ街の殺人」や「黄金虫」を思わせる水際立った推理で、今読んでも面白い。

 メルツェル自身もすぐれたオートマトン製作者だったが、チェス指し人形はメルツェルが作ったものではない。作ったのはヴォルフガング・フォン・ケンペレンというマリア・テレジアの宮廷に伺候していたハンガリー貴族だ。

 ケンペレンは塩鉱山の管理者に任じられて揚水ポンプを発明したり、シェーンブルン宮殿の噴水システムを製作するなど技術者として立派な業績があったが、1769年秋、マリア・テレジアの前で奇術を披露したフランス人の態度があまりに不遜だったので自分ならもっとすごい機械がつくれると口走ってしまう。面白がった女帝はケンペレンに半年間公務を免除し、オートマトン製作に専念するように命じた。

 半年後、ケンペレンはチェス盤を置いた平台の後ろにトルコ人の扮装をしたオートマトンをとりつけたタークという機械を女帝に披露する(タークとはトルコ人という意味である)。

 タークは人間相手にチェスで連戦連勝したので女帝は喜び、ヨーロッパ中の評判となった。

 ケンペレンの不幸は本筋の役に立つ発明よりもタークで有名になってしまったことである。自分はただの官吏で興行師ではないと任じていたものの、女帝在世中は何度もタークの実演を命じられ、ヨーゼフ二世の御代になると技術大使として二年間各地の宮廷を巡業させられることになる。フリードリヒ大王を負かしたとか、ベンジャミン・フランクリンも負けたとか数々の逸話が残っている。

 巡業終了後、ケンペレンはタークが壊れたことにして封印した。

 ケンペレンは1804年70歳で世を去ったが、世の中はタークを忘れていなかった。1809年、ナポレオンがウィーンに入城すると、新たな支配者の御機嫌とりのためにまたもタークが駆出された。今回タークを操作するのはメルツェルである。メルツェルはケンペレンの息子からタークを買いとり、自分で修理して動くようにしていた。

 かくしてメルツェルによってタークの第二のキャリアがはじまる。ヨーロッパのみならずアメリカにまで足を伸ばしたのは先に述べたとおりだ。

 タークの人気が高まると秘密を解明しようという者も増え、さまざまな推理が世をにぎわせた。

 チャールズ・バベッジは中に人がいることをすぐに見抜いたが、思考する機械というアイデアに触発され、後に機械式コンピュータである階差機関を発明している。

 タークは各地で武勇伝を残しているが、その栄光もメルツェルの死とともに終わる。メルツェルは多額の借金をしていたのでタークは競売に付され、最終的にポオの主治医だったミッチェル医師の手にわたる。

 ミッチェルはタークを買えるほど裕福ではなかったが、友人のポオの推理が正しかったかどうかを確かめるために75人の会員から500ドルを集め、やっと買いとったのだ。

 ポオの推理はあたっていたのだろうか? 詳しくは本書を読んでほしいが、ケンペレンは意外に手のこんだことをやっていたとだけ記しておこう。

 その後タークはチャイニーズ・ミュージアムという秘宝館のような施設に引きとられるが、1854年7月5日火事のために焼失してしまう。85年の生涯だった。

→bookwebで購入

2011年09月21日

『悲しみの歌・黒海からの手紙』 オウィディウス (京都大学学術出版会)

悲しみの歌・黒海からの手紙 →bookwebで購入

 紀元8年、ウェギリウスもホラティウスもすでになく、50歳になったオウィディウスはローマ随一の詩人の名声をほしいままにしていたが、滞在先のエルバ島から急遽ローマに呼びもどされ、黒海の畔の町トミスへの「左遷」を言いわたされた。元老院の正式決定でこそなかったが、皇帝アウグストゥスの意向であり事実上の流刑であった。

 トミスは現在のルーマニアのコンスタンツァにあたる。ミレトスのギリシア人が築いた古い植民市であり、アルゴ船が立ち寄ったとされているが、当時はローマ帝国領になったばかりの辺境の町であり、野蛮なゲダエ族が混住していた。国境のドナウ河に近いだけに冬に河面が凍れば蛮族の来襲を恐れなければならなかった。

 オウィディウスは『祭暦』や『変身物語』の書きかけの原稿を他の持ち物とともに火に投じてローマを出た。

 詩で罰っせられたオウィディウスだったが、詩なしで生きることはできなかった。流謫地でも詩作をつづけ『悲しみの歌』と『黒海からの手紙』という二作品を残した。

 本書の解説によると両作品とも長らく評価されず、「奴隷のように卑屈なこびへつらいの詩」、「卑屈で臆病なごますりの言葉」等々とくさされてきたという。ようやく再評価されるようになったのは第二次大戦以降である。

 確かに作風は一変し女々しい自己憐憫の言葉が目につくが、ラシーヌよりボードレールを上におくこの国の読者には初期や中期の作品よりむしろ親しみやすいのではないか。

 後に古典主義と呼ばれる文学理念では詩は普遍を描くべきとされ、特殊なもの、個別的なものは詩の対象として値がないと見なされていた。地方色や個人的な体験が堂々と詩に描かれるようになったのはロマン派以降のことにすぎない。オウィディウスの流謫地での作品にはロマン派より1800年も早く地方色や個人的な体験が歌われているのである。

 トミスの様子を教えてほしいという友人にオウィディウスは書き送っている。

この海岸にはギリシア人とゲタエ族とが混在していますが、
 治安のよくないゲタエ族が大半です。
サルマタエ族やゲタエ族の大群が
 馬に乗って道を行ったり来たりしています。
その中で、矢筒と弓を持たぬ者、
 蛇の胆汁で薄黄色の矢を持たぬ者は皆無です。
声は荒々しく、顔つきは恐ろしく、軍神マルスの真の姿をとり、
 髪の毛は切られたことなく、髭も剃られたことなく、
右手は小刀を突き立て傷を与えるにすばやく、
 蛮族の者は一人残らず腰に小刀を差しています。

 オウィディウスは個人的な思いのたけもなりふりかまわず吐露している。たった一人僻遠の地に流され病に伏した心細さを詩人は訴える。

この最果ての地と人々の中で、私はぐったりとなって横になっており、
 弱り果てた私に思い浮かぶのはすべてここにはないものばかり。
あらゆることが思い浮かぶが、妻よ、お前がすべてを凌駕して、
 私の胸の半分以上をお前が占めている。
ここにはいないお前に私は話しかけ、私の声が呼ぶのはお前一人。
 お前なしでは夜も昼も私の所には来ない。

 このような語り口はわれわれにはおなじみだが、ロマン派までは詩とは認められなかったのだ。オウィディウスの後期作品は時代をはるかに先取りしていたといえるかもしれない。

 「卑屈なこびへつらい」、「卑屈で臆病なごますり」とくさされたのはアウグストゥス帝に減刑嘆願の書簡詩を書いたからだが、実際に読んでみると「卑屈」とは感じなかった。

 オウィディウスは流刑地をローマの近くに変えてほしいと嘆願した後、こんなことを書いている。

でも、もし私の罪がなければ、どうしてあなたは寛大さを示すことが
 できたでしょう? 私の運命があなたに寛容の機会を与えたわけです。

 親子ほども年の違う老帝に対してため口をきいていると感じたのは日本的な誤解だろうか。

 詩人は忠誠心をアピールするためにこうも書いている。

さらに言う必要があるでしょうか、私の罪の元になった本でさえ
 千の箇所であなたの名前で一杯だったということを?
未完のもっと大きな作品を調べてみて下さい、
 ――信じられない仕方で変容を遂げた者たちの本を―― あなたはそこにあなたの名前の賛辞を見つけることでしょう、
 私の忠誠心の証拠を数多く見つけることでしょう。

 帝の不興をかった原因をオウィディウスは「詩と罪」と書いている。「罪」は帝の孫娘がらみといわれているが、具体的なことは明らかにされていない。「詩」は『恋愛指南』をさすが、オウィディウスは同作は遊女のために書いた本であり、最初の頁で「高潔な女の手が降れないように警告」したと弁明している。さらに天下のウェルギリウスも同罪だと切り返す。

しかし、あなたの『アエネイス』のあの幸運な作者は
 「英雄」をテュロスの女王の床に導き、
全巻の中で最もよく読まれているところといえば、  不義の恋の部分にほかならない。
この同じ作者は、ピュリスと優しいアマリュリスの恋の火を
 若いときに牧歌の調べで戯れにつくった。
私もまた随分昔にそのようなものを書いて、罪を犯した。
 古い罪が新しい罰を受けているというわけだ。

 異国人の誤解かもしれないが、わたしにはへりくだっているのは表面だけで、腹の中では皇帝に舌を出しているように感じた。

 自作に対する自負も並々ならぬものがある。蛮地についたばかりの頃は原稿を焼いたと書いていたが、焼いたのが事実だとしても作品は後世に伝わっているわけで本気で湮滅しようとしたわけではあるまい。

 落ち着いてくるとローマの友人宛にこんな書簡詩を書いている。

私の詩を整理してくださっているのですか、
 作者を破滅に追いやった『恋愛指南』以外の詩を?
そうして下さい、お願いします、新詩人の称賛者よ、
 可能な限りローマに私の体を引き留めてください。
私には追放が宣告されましたが、本には追放は宣告されませんでした。
 本はその主人の罰を受けなくてもよかったのです。

 『恋愛指南』は公共図書館で廃棄されたもののオウィディウス作品の出版が禁止されたわけではなかったのだ。

 オウィディウスは妻への書簡詩に墓に刻む墓碑銘を書き記した後、こうつづけている。

碑銘にはこれで十分。というのも、私には碑銘より本の方が
 より大きな永続的な記念碑であるからだ。
私は確信している、本は作者を傷つけたけれども、
 また作者に名声と永遠の命を与えてくれるだろうと。

 詩人は流謫地にあってなお意気軒昂である。

→bookwebで購入

2011年09月20日

『変身物語』上下 オウィディウス (岩波文庫)

変身物語 上
→上巻を購入
変身物語 下
→下巻を購入

 オウィディウス中期の代表作であり、ヨーロッパ文学の古典中の古典として著名な作品である。ヨーロッパ人がイメージするギリシア・ローマ神話は本書であって、まかりまちがってもアポロドーロスではない。西洋古典絵画はほとんどが本作にもとづいていて、美術史を学ぶ上でも必読書とされている。

 15巻1万2000行の叙事詩形式の雄編で、『アエネイアス』の向こうを張って書かれたといわれているが、一貫したストーリーはなくギリシア・ローマ神話のさまざまなエピソードに託して恋愛や家族愛、情欲、嫉妬を描いている。

 一貫したストーリーはないが、テーマは一貫している。「変身」である。オウィディウスは神のわがままや気まぐれによって、あるいはみずからの意志で他の生物に変身するさまを最近のSFX映画のようにありありと描いてみせる。

 どれもみごとな描写ばかりだが、ここではパエトンの姉妹が彼の死を傷むあまり樹木に変わってしまう条を引こう。

 あるとき、長女のパエトゥーサが、大地にひれ伏そうとしていながら、急に足がこばわって動かなくなったと訴えた。まばゆいばかりに色白のマルペティエが、姉のそばへ駈け寄ろうとすると、これも、突如根が生えたように、動けなくなった。つぎの妹は、手で髪の毛をかきむしろうとしていたが、見ると、むしり取られたのは木の葉だった。ひとりは、脚が固まって木の幹になったと嘆き、もうひとりは、腕が長い枝に化したと悲しむ。彼女たちがこの出来事に驚いているうちに、樹皮が下腹部を包み、腹部、胸部、肩、手というふうに、しだいに上へあがっていく。口だけが残っていて、母親を呼び求める。が、母親に何ができるだろう? ただ、うろうろと、あちらこちらへ駈け寄って、時間の許すかぎり、口づけをしてやることしかない。しかし、それだけでは足りなくて、娘たちのからだを幹から引き離そうと試みたり、細い枝を手で折りとってみたりする。と、そこから、傷から出るかのような血の滴が、滴り落ちるのだ。
 「やめてちょうだい! お願いだから、お母さん!」傷つけられた娘は、こう叫ぶ。「やめてちょうだい、お願いだから! あなたが裂いている木は、わたしたちのからだなのだもの。ああ、これがお別れ!」――樹皮が、この最後の言葉をふさいでしまった。そして、そこから、涙が流れ落ちる。できたばかりの枝からしたたるこの樹脂は、日光で凝固して、琥珀となり、澄んだ流れの河がこれらを受けとって、ローマへ運び、妙齢の婦人たちの身につけられることとなった。

 ほとんど映画ではないか。映画が発明される二千年も前にイメージの変容をコマ送りのように精密に追いかけることがどうしてできたのだろう。人間の想像力は最初から完成の域に達していたということか。

 『変身物語』の登場人物は牡鹿に変えられたり、蛇に変えられたり、イルカに変えられたりする。きわめて稀だが、獣に帰られた人間が元に戻されることもある。

 河の神イオナコスの娘イオはユピテルにおいまわされるが、ユピテルは彼女を追いかけているところを妻ユノーに見つかりそうになり、あわてて彼女を真っ白な雌牛に変えてしまう。ユノーの機嫌がなおったところで、ユピテルはイオをもとの姿にもどしてやる。

 女神の怒りが和らぐと、イオはもとの顔をとりもどし、姿も、前どおりになった。からだからは荒い毛が抜け落ち、角がなくなる。丸い目が小さくなり、大きく裂けた口もせばまる。肩と手が、もどって来る。ひづめは消えて、五本の指の爪に変わる。まぶしい白さのほかには、雌牛のおもかげはどこにもなかった。二本の脚の働きを頼りに、乙女は、真っすぐに立つこともできている。しかし、ものをいうことは恐ろしかった。雌牛のようにモーと泣きはしないかと心配なのだ。そして、久しぶりの言葉を、おずおずと口に出してみる。

 オウィディウスの世界では人は動物になり、動物は人になる。人と動物の垣根は低く、神々のちょっとした気まぐれで行ったり来たりさせられる。

 オウィディウスはなぜこれほど変身のテーマにこだわったのだろうか。どうもピタゴラスの思想がからんでいるらしいのである。

 最後の第15巻に変身の秘密をうかがわせるエピソードが出てくる。ローマを建国したロムルスのあと、世評に高いヌマが第二代の王に推戴されるが、ヌマは見聞を広めるために旅に出る。ヌマが訪れたのは南イタリアのクロトンの町である。ヌマは土地の古老からかつてクロトンに住んでいたピタゴラスの教えをさずかる。

 ピタゴラスは現代ではピタゴラスの定理など数学の業績で知られるが、古代には肉食と豆食を禁ずる禁欲的な教団の教祖として知られていた。クロトンはピタゴラス教団が誕生した地である。

 ヌマがさずかった最初の教えは食の禁忌だった。かつて「黄金時代」と呼ばれた時代、人は木の実や草木を食するだけで幸せだった。生けるものみなは、罠を知らず、欺瞞を恐れる必要もなかった。いたるところに平和がみちていていた。ところがある時どこかの誰かが獅子の食べ物を羨んで肉をくらい、それを意地きたない腹へ送りこむことを始めた。人は重い鋤を牽いて畑を耕してくれる牛を屠り、あろうことか牛殺しを神々が犠牲を求められたからだと神々のせいにしている。

 なぜ肉食がいけないのか。ピタゴラスの教えによれば生命は死んでも生まれ変わり、輪廻転生してつづいていく。現世では人でも来世では動物に生まれ変わるかもしれないし、逆に現世は動物でも前世では自分の親や子供だったかもしれない。子牛の喉にナイフを突き立てる行為は家族殺しに等しい行為なのである。

 霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿のなかへ移り住む――それがわたしの説くところだ。だから、警告しよう。口腹の欲に負けて、人の道をあやまってはならぬ。そのためには、非道な殺戮によって、われわれの同類というべき魂たちをそのからだから追い出してはならないのだ。生命によって生命を養うことは許されぬ。

 生命の観点から見れば変身と輪廻転生は同じだ。生きたままの生まれ変わりが変身であり、死を契機にした変身が生まれ変わりである。

 オウィディウスがピタゴラスの徒だったかどうか、生まれ変わりを本当に信じていたかどうかはわからない。流謫後の『悲しみの歌』には魂の永世を茶化すような一節があるからだ。

私の魂は私の肉体とともに消滅し、私の
 いかなる部分も貪欲な火葬の薪から逃れることがありませんように!
というのも、魂が不死で空中高く飛んでいき、
 サモス島の老人ピュタゴラスの言葉が本当だとすれば、
ローマ人の亡霊がサルマティア人の亡霊の間をさまようことになり、
 永遠に野蛮な亡霊の中で異邦人でありつづけるだろうから。

 死後も流刑地の蛮族とつきあうのはごめんだから、肉体とともに魂も滅びてくれというわけだ。ピタゴラス教団の一員だったらこんなことは書けないだろう。

 しかし第15巻の前半をまるまる費やして教説を祖述するのはよほどピタゴラスにいれこんでいるからだろうし、人から動物へ、動物から人へとたやすく移行する『変身物語』の世界はピタゴラスの輪廻転生の世界と地つづきでつながっている。西洋の古典中の古典に輪廻説が封じこまれていた可能性を考えるのはおもしろい。

→上巻を購入

→下巻を購入

2011年09月19日

『恋愛指南』 オウィディウス (岩波文庫)

恋愛指南 →bookwebで購入

 ラテン文学の黄金時代を代表する詩人、オウィディウスによる恋愛の指南書である。

 オウィディウスはカエサルが暗殺された翌年、アペニン山中のスルモ(現在のスルモナ)に生まれ、15歳になると勉学のためにローマに出た。アウグストゥスが帝政をはじめた頃である。ウェルギリウスやホラティウスはアウグストゥスと同年代だから、一世代あとということになる。

 ウェルギリウスやホラティウスはアウグストゥスら有力政治家の庇護を受け、ローマの繁栄をたたえる硬派の作品を残したが、子供の世代にあたるオウィディウスはエロチックな恋愛詩で民衆の喝采をはくした。さらには男女の機微をあけすけに書いた本書を上梓してさらに文名をあげた。中期になると露骨にアウグストゥスにごますりをはじめるが、青年時代は反骨精神があったのかもしれない。

 オウィディウスはユゴーに対するボードレールにあたるような立ち位置にあったと考えても間違いではないだろう。ボードレールは風俗紊乱のかどで罰金刑を受けたが、オウィディウスには辺境の地に流刑になるという悲劇が待っていた。

 本書は反骨精神が旺盛だった頃に教訓詩のパロディの形で恋愛指南をおこなった長編詩で、洒脱な語り口といい、露悪趣味といい、ローマ社会の爛熟を感じさせる。スタイルは古典主義そのもので、なにかというとギリシア神話を引きあいに出すが、ローマの風俗に言及した部分もある。

 だが君は焼き鏝を当てて髪を巻き毛にして悦に入ったりしないことだ。ざらざらした軽石で脛をこするのもやめたまえ。

 質実剛健をもってなるローマでも、女性にもてるためにパーマをかけたり脱毛したりする軟弱な若者がいたわけだ。共和制から帝政に変わる時期の生活がうかがえる史料としても貴重である。

 女性の望むものも現代とさして変わらない。

 よくあることだが、お目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ。

 オウィディウスは詩人だが詩の限界はよく知っていて、女性には詩よりも贈物だと現実的なアドバイスをしている。

 やさしさあふれる詩をも贈れなどと、どうして私が勧めたりしようか。悲しいかな、詩歌は大して敬意を払われはしない。詩歌は誉められはするが、求められるのは立派な贈り物なのだ。金持ちだというだけで、異国の蛮人でさえも(女たちに)好かれるのだ。まことに当代こそは黄金時代である。黄金のあるところ名誉もまた多く群がり、愛も黄金で手に入る。

「愛も黄金で手に入る」とは身もふたもないが、永遠の真実だろう。

 日本では本当の年齢を聞きだすために干支を訊いたりするが、古代ローマにも同じような手段があった。生まれた年に誰が執政官だったかを聞くのだ。

 何歳だとか、誰が執政官だった年の生まれかなどと、訊いたりしないことだ。そんなことは厳格な監察官の務めである。ことにも女が花の盛りを過ぎ、女盛りも終わってしまい、白髪を見つけては抜いているような場合はなおさらのことだ。おお、若者たちよ、この年頃の、あるいはもっと年増の女は、身のためになるぞよ。こういう畑こそは稔りをもたらす、こういう畑にこそ種をまくにふさわしい。

 ローマ時代にも熟女ブームがあったということだろうか。ローマ女性が恋愛に積極的だったのは確かなようで、こういう一節もある。

 接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ。

 本書は三巻構成になっていて、第一巻は女性と知りあうまで、第二巻は女性をものにするまでのテクニックが披露されているが、第三巻では女性が男性を落とすための技術が指南されている。

 男をつかまえるにはあらゆる機会を使えというアドバイスはいいとして、夫を失った女性に対して夫の葬式がボーイハントのチャンスだと勧めるのはどうしたものか。確かに喪服の女性は美しく見えるが。

 釣り針は絶えず垂らしておくがいい。こんなところにまさかと思う淵にも魚はいるだろう。森に覆われた山を猟犬どもが駆けまわっても無駄だということもよくあるが、誰が駆り立てたわけでもないのに、鹿が網にかかることもあるものだ。縛りつけられたアンドロメダには、涙を流して誰かの心をとらえることのほかに、どんな望みがあるのだ。夫の葬式の際に新たな夫が求められるということがよくあるものだ。髪をふり乱しこらえきれずに泣く姿がよく映るのだ。

 ローマ時代は不倫が盛んだったが、不倫の証拠になるものを相手の男に握られたら危険だという実践的な教えもたれている。

 しかしながら、髪紐を巻くという名誉ある地位はもたないにせよ、旦那に隠れて不貞をはたらいてみたいとの願いをいだいているからには、小間使いや奴隷の不器用な筆つきで手紙を書かせ、心の証となるものを、不慣れな奴隷に託するようなことはしてはならぬ。そんな心の証を後生大事にとっておくような男は信が置けない男だが、とはいうものののやはりアエトナ山の雷霆のようなものを手中にしてはいるのだ。女たちが哀れにもそんな恐怖に蒼ざめて、いつまでも男の意のままにされているのを、この私は眼にしたことがある。

 現代のフェミニストが呼んだら目を剥きそうな条もある。

 男たちは確かに騙すこともあろうが、だからといって、そなたたちがどんな損をするというのだ。なにもかも元通りなのだから。千人もの男がそなたのからだをむさぼったとしても、それで失われるものはなにひとつない。鉄だって摩滅するし火打石も使っているうちに摩り減るが、あの部分だけは存分に使うに耐え、摩耗したりすることはない。

 なんともコメントのしようがない。

 オウィディウスは紀元8年、51歳の時にアウグストゥス帝によって黒海沿岸のトミスに追放される。はっきりした罪状はわかっていない。本書の刊行のためとも、アウグストゥスの孫娘にオウィディウスがちょっかいを出したためともいわれているが、綱紀粛正のためにスケープゴートにされたという説が有力なようである。

 スケープゴートにされたとすれば、オウィディウスがエロチックな詩で有名になったけしからぬ詩人だったからだが、もう一つ、初期においては皇帝におもねらない独立独歩の姿勢を示していたこともあるかもしれない。

 若気のいたりといっていいかどうか本書にはアウグストゥスの機嫌をそこねたかもしれない一節がある。

 つい最近のこと、カエサルが模擬海戦でその模様を再現して、ペルシア軍とケクロプスの末裔(アテナイ人)との軍船をわれわれに見せてくれたが、あのりはまあどうだ。あちこちの海から若者たちが、また若い娘たちがやってきて、広大な全世界がローマ一都の中に収まったかの観があった。これほどの人々が群集まった中で、愛する相手を見つけられぬ者があっただろうか。

 ここでいう「カエサル」はユリウス・カエサルではなく称号としての「カエサル」であり、皇帝のアウグストゥスをさす。アウグストゥスはBC2年、マルス神殿を寄進した記念にヤニクルムの丘に巨大な池を掘ってサラミスの海戦を再現した大規模な模擬海戦を興行した。訳注には「彼はこれを誇りにしていたが、オウィディウスはそれにはふれず、ただ大勢の人が集まるので、男女出会いの場を提供した出来事としか見ていない」とある。確かにこれでは機嫌をそこねるだろう。

→bookwebで購入

2011年02月22日

『ウンベルト・エコ インタヴュー集』 エーコ他 (而立書房)

ウンベルト・エコ インタヴュー集 →bookwebで購入

 「記号論、「バラの名前」そして「フーコーの振り子」」と副題がついていることからわかるようにエーコの三本のインタビューをまとめた本であるが、おそらく日本で独自に編集したものだろう。

 おそらくと書いたのは本書の出自が謎だからだ(ちょっとわくわくする)。

 「エコの髭―日本語版によせて―」という序文がついており、書誌データには原題が"INTERVIEWS WITH UMBERTO"とあるので、英語で出版された原著があるのだろうと思っていたが、調べたかぎりでは原著にあたる本は見つからなかった。

 第一章のルイス・パンコルボはイタリア人でイタリア語、第二章のトマス・シュタウダーはドイツ人でドイツ語と英語、第三章のセース・ノーテボームはオランダ人でオランダ語と英語の本しか出していない(スペイン語版もあったが、翻訳のようだ)。

 ルイス・パンコルボによる日本語版の序文には「このインタヴュー集をはじめて発表した一九七七年には……」とあるが、第二章と第三章は1988年の『フーコーの振り子』刊行以降におこなわれたはずだから、全体の序文と考えるとおかしなことになる(多分、パンコルボは自分がまとめた第一章のみの序文を書いたのだろう)。

 推測になるが、イタリア、ドイツ、オランダの雑誌にばらばらに掲載されたインタビューを訳者の谷口勇氏がまとめた日本独自の出版と考えるのが自然ではないか(そうだとしたらエーコの国際的な活動を一冊で読める日本の読者は幸福である)。

 詮索はこれくらいにして、まずパンコルボによる「記号論の魔術」である。このインタビューは『記号論』(岩波書店、絶版)の出版された1977年にイタリア語でおこなわれたらしい。アントニオーニの映画の感想を枕に、エーコの主著の一つである『記号論』について聞いているが、当り障りのない話しか出てこない。『ソラリス』のレムが「アフォリズムの大家」として言及されているが、パンコルボはSFを読んだことがないのだろうか。

 第二章のシュタウダーによる「『バラの名前』から『フーコーの振り子』へ」というインタビューは『フーコーの振り子』の刊行後にドイツ語でおこなわれたらしい(英語の可能性もある)。

 エーコの分身というべきベルボの経験はアブラフィアというパソコン内部に残されたファイルからカソーボンが再構成するという手続きを踏むが、なぜそのような趣向をとったかについてエーコはこう語っている。

 私にとっては三つのフィルターを介して物語るための唯一の方法だったのです。こんな話は直接的に物語るわけにはとてもいかなかったのです。だって、そんなことをすれば、戦後の写実主義と変わらないことになったでしょうからね。

 あまりにも率直すぎる発言で、ちょっと引いてしまう。

 オカルトについては1950年代から興味があり、オカルト専用の書棚を作るくらい本を集めているそうである。1970年代になって左翼運動が凋落すると、左翼本の専門書店が一斉にオカルトに宗旨変えし、テロリストが精神世界の指導者グルになってしまったそうである。日本でも同時期に元過激派は自然食品のセールスマンに商売変えしている。

 「ユタ州の実験室における冷凍核融合」という文が出てくるが、cold fusion は日本では「常温核融合」と訳すのが普通である。

 第三章のノーテボームによる「講壇から、ピッツァ専門店から」も『フーコーの振り子』に関するインタビューである。

 前振りがあって、ノーテボームがエーコをアムステルダムのオカルト専門の古書店に案内した思い出が書いてある。店主は一見の客に警戒している風だったが、エーコが玄人だとわかると意気投合し、顧客にミラノ在住のものすごい美人の錬金術マニアがいるから紹介しようともちかける。するとエーコは言下に答える。

「そういう人たちに、私がここにきたことを他言しないでください。信者たちとは何の関係も持ちたくないのです。」

 『フーコーの振り子』に登場する「猟奇魔」は実在するのである。

→bookwebで購入

2011年02月21日

『バウドリーノ』 エーコ (岩波書店)

バウドリーノ
→bookwebで購入
バウドリーノ
→bookwebで購入

 ウンベルト・エーコは北イタリアのピエモント州アレッサンドリア市に生まれた。彼はピエモント人であることを誇りにしていて、故郷のアレッサンドリアにもなみなみならぬ思いいれをもっているらしい。このほど翻訳された『バウドリーノ』もアレッサンドリア市の沿革が発端になっている。

 アレッサンドリア市は12世紀にジェノヴァなど近隣都市国家の援助で誕生した。この小説には20年ぶりに帰郷したバウドリーノが城壁が築かれ、地割りされ、建物がたちならび、どんどん都市らしくなっていく故郷に目を丸くする場面が出てくる。

 市の名前アレッサンドリアは時の教皇アレクサンデル三世にちなむ。新しくできた都市に法的な裏づけをあたえるために、アレクサンデル三世に献納するという手続をとったのだ。

 都市をローマ教皇に献納するのは裏技だった。当時のイタリアは神聖ローマ帝国の一部であり、皇帝の認可なしに新たな都市を作ることなど許されなかった。アレッサンドリア建設の報に赤髭王バルバロッサの異名をもつ皇帝フリードリヒ一世は烈火のごとく怒り、すぐにも攻めようとしたが諸般の事情が許さず、ようやく10年後にアレッサンドリアを攻囲した。だが、戦いは長引き市側も皇帝側も疲弊した。この時、ガリアウドという農夫が牝牛の詭計で市を救ったと伝えられている。

 本作ではバウドリーノはガリアウドの息子という設定になっている。まだアレッサンドリアが影も形もなかった頃、バウドリーノは森の中で狩猟をしていたフリードリヒと出会い、とっさに自分と同じ名前の聖人のお告げと称してテルドーナ征服の予言を伝える。フリードリヒはこの予言をテルドーナとの交渉に役立てようとバウドリーノを実の父親から買いとり、養子にする。

 皇帝の養子になったバウドリーノは天性の語学の才とほら吹きの才を愛され、パリに遊学してほら話の技術に磨きをかけ、一癖も二癖もある友人を作る。バウドリーノは友人ともども皇帝の側近にとりたてられる。いかがわしい聖遺物がもてはやされ、都市の盛衰をも左右していた中世にあって、ほら話は重要な政治手段だったのである。

 バウドリーノは皇帝のためにさまざまなほら話をでっちあげるが(アレッサンドリアを救った牝牛もバウドリーノのしかけで、軍を引く口実を探していた皇帝は策略と承知でしかけに乗った)、最大のほらは司祭ヨハネの書簡だった。

 司祭ヨハネプレスビュテル・ヨハネス(日本では英語読みの「プレスター・ジョン」で知られている)とはイエス生誕の時に訪れた東方三賢王の子孫で、イスラム帝国の東側にあるキリスト教国に君臨しているとされた。十字軍熱の高まった時代、司祭ヨハネと同盟してイスラム帝国を挟み撃ちにしようという夢がたびたび語られたが、バウドリーノは友人たちの協力をえて司祭ヨハネが皇帝フリードリヒに宛てた手紙を捏造する。泥沼のようなイタリアの政治にはまりこみ進退きわまった皇帝を救うためだ(この偽書簡は実際に流布し、フリードリヒの宮廷の作とされている)。

 物語の後半ではバウドリーノは自分がでっち上げた司祭ヨハネ伝説にとりつかれ、司祭ヨハネの国をもとめて、友人たちとともに中世の地理書や旅行記に描かれるままの化物が跋扈する土地を遍歴する。友人の一人、アブドゥラは実在するかどうかすらもわからぬ貴婦人に恋の歌を書きつづるが、司祭ヨハネの国をさがすバウドリーノの情熱もアブドゥラのかなわぬ恋と同じかもしれない。

 エーコのことであるから、ここでもうひと捻りある。フリードリヒ一世が率いた第三回十字軍とコンスタンティノープルに襲いかかった第四回十字軍をビザンチン帝国側から記録したとして歴史に名を残すニケタス・コニアテスがバウドリーノの数奇な生涯を聞かされるという物語が全体の額縁になっているのである。

 エーコの小説は『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』も『前日島』も密室的な印象が強かったが、第四作にあたる『バウドリーノ』は一転して明るく開放的だ。笑いも前面に出てきている。これまで邦訳されたエーコの小説の中では本作が一番とっつきやすいかもしれない。

 なお、アブドゥラのモデルになったジョフレ・リュデルの恋愛詩は『美の歴史』に、バウドリーノのほら話の聞き手となったコンスタンチノープルの歴史家ニケタス・コニアテスの『年代記』とバウドリーノたちがでっちあげた(ことになっている)司祭ヨハネの偽書簡は『醜の歴史』に引用されている。

→ 上巻を購入

→ 下巻を購入

2011年02月20日

『フーコーの振り子』 エーコ (文春文庫)

フーコーの振り子
→bookwebで購入
フーコーの振り子
→bookwebで購入

 本書は1988年に発表されたウンベルト・エーコの長編第二作である。

 17年前、邦訳が出た直後に読みかけたが、夜の博物館の中をうろうろする条で放りだしてしまった。次から次へと出てくる展示物が意味ありげで、いちいち考えていたらなにがなんだかわからなくなったのである。

 『バウドリーノ』が訳されたのを機にもう一度チャレンジしてみることにした。今回は振り子を発明したレオン・フーコーの伝記をはじめとする科学史関係の本を読み、準備万端整えたつもりだ。

 結果からいうとレオン・フーコーも科学史も関係なかった。科学史関係の話柄が出てくるのは最初の50ページだけで、あとの千ページ以上はオカルトと陰謀史観の話なのである。オカルトと陰謀史観なら昔とった杵柄で、どうということはない。

 澁澤達彦の『秘密結社の手帖』や映画になった『ダ・ヴィンチ・コード』でおなじみのテンプル騎士団が一応のテーマだが、オカルト知識を真面目にとりすぎるのはよくない。これは深遠な哲学小説などではなく、お笑い小説なのだ。エーコはオカルト・マニア(本書では「猟奇魔」)をからかいの対象にしていて、笑える場面がこれでもかこれでもかと出てくる。

 この作品とオカルトの関係は『ドン・キホーテ』と騎士道物語の関係に相当する。オカルトのパロディというかパスティーシュであって、本格的なマニアだったら相当傷つくだろうが、わたしはマニアを卒業したので苦笑しながら読んだ。

 出版業界の内幕ものとしても抱腹絶倒である。日本では「協力出版」と称して素人作家からお金をむしりとる商売が繁盛しているが、イタリアでも似たようなものらしい。

 しかし、この小説の一番の読みどころはそこではない。エーコは本作に二人の視点人物を設けている。一人は全体の語り手のカゾボンで、日本でいう団塊の世代にあたる。もう一人はカゾボンの同僚のベルボで、アブラフィアというパソコンに手記を保存している。ベルボはエーコと同じく1932年にピエモンテ州で生まれた戦中派であり、エーコの分身といっていい。

 エーコはカゾボンとベルボという二人の視点を通してイタリアの戦後史を描いたのだ。意外なことにそれは日本の戦後史とかなりの程度重なる。『輝ける青春』という映画を見て、日本とイタリアの戦後史がよく相関しているのに驚いたが、この小説を読んであらためて似ていると思った。

 難解という評判は無視していいが、上下巻で千ページを超えるだけに最初の百ページはかったるい。しかし長い小説の常として、百ページの峠を越せば一気呵成に読める。戦後史を実体験として知らない若い人にはぴんとこないかもしれないが、不惑をすぎた人はこの作品で大いに惑ってみるといいだろう。

→ 上巻を購入

→ 下巻を購入

2010年09月27日

『快傑デカルト―哲学風雲録』 ダヴィデンコ (工作舎)

快傑デカルト―哲学風雲録 →bookwebで購入

 フランスのジャーナリスト、ディミトリ・ダヴィデンコが書いたデカルトの伝記小説で、原題を直訳すれば『醜聞の人デカルト』である。

 読みはじめて啞然とした。一般に流布しているデカルト像とあまりにも違うのだ。語り口も講談調でまさに快傑デカルト、哲学風雲録である。

 一般的なデカルト像というと裕福な法服貴族の次男坊に生まれるが、生来病弱だったために朝寝坊の習慣をつづける。名門校を出てから当時の貴族のならわしで軍隊にはいり、戦闘義務のない無給の将校となって箔をつけ、母親の財産を相続してからはオランダに移住し、孤独のうちに哲学の研究をつづける。スウェーデン女王の招聘で53歳にしてはじめて宮仕えをするが、軍隊時代も含めてずっと朝寝坊をつづけていた身にとって朝5時から宮殿に伺候しなければならない生活がこたえたのか半年で急死する、といったところか。

 ところがダヴィデンコの描くデカルトは貴族ではない。法服貴族になるには三代つづけて高級官僚にならなければならないが、デカルト家でそのような地位についたのはデカルトの父がはじめで、貴族に列せられるのはデカルトの没後のことだというのだ。

 若きデカルトはそれでは格好がつかないので、祖母から相続した土地についていた称号をひっぱりだしてルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗り、緑づくめの衣装でパリの街にくりだす。たまたまペロン枢機卿という生臭坊主が時めいていたので、その縁者のような顔をして女をあさりまくる。

 軍隊にはいった動機も貴族の御曹司の箔づけなどではなかった。デカルトは高級官僚になるための教育を受ける。日本でいえば鹿児島ラサールから東大法学部に相当するエリートコースであるが、父親がやっているのが魔女裁判の片棒かつぎだと知って官僚コースを拒否、母親の財産を相続できる26歳になるまで食いつなぐためにフランス人傭兵隊に入隊する。

 傭兵隊には食いつめた貴族の次男坊、三男坊が集まっていた。給料は出なかったが衣食住は保証され、城市を陥落させれば三日間略奪御免となるので、略奪品を収入にしていた。デカルトも略奪と博打で荒くれた生活を送るが、ドイツで薔薇十字団にはいりフランスの代表に選ばれる。

 26歳になり相続の資格のできたデカルトは母親の遺産をさっさと売り払い、パリに出て母方の親戚のル・ヴァスール邸に居候する。ル・ヴァスール邸には学者や文人が出入りしていたので、彼らに薔薇十字団の教えを広め、望遠鏡の製作で一山当てようともくろむが、リシュリュー枢機卿に睨まれてフランスにいられなくなる。リシュリュー没後は聖秘蹟会がデカルトを執拗に迫害するだろう。

 オランダでは母親の遺産を売り払った金で財テクを試みるが、いつも手元不如意で薔薇十字団の仲間の家を居候してまわる。デカルトの困窮を救うためにパリの薔薇十字団員が国王の年金がおりるように骨を折ってくれるが、聖秘蹟会の横槍で空手形に終る。

 クリスティーナ女王の誘いを受け入れたのも食うに困ったからだ。宮廷人になるのに従僕なしでは格好がつかないと、親切な友人が給料自分持ちで従僕をつけてくれたが、いざストックホルムに行ってみると精力絶倫の女王に毎朝精を吸いとられ寿命を縮める……という具合である。

 デカルト家はデカルト生前は貴族ではなかったこと、デカルトがルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗っていたこと(ただし「ペロンの騎士」ではなく「ペロンの領主」と訳すべきだろう)、緑色の衣服を好んでいたことはもっとも権威ある伝記とされるロディス=レヴィスの『デカルト伝』で確認したところ事実だった。

 となると他の話はどうなのか気になるところだが、結論をいうとフィクションだった。デカルトが食いつめていた事実はなかったし、父親に見捨てられていたわけでもない。

 薔薇十字団については『デカルトの暗号手稿』によると関係はあったという見方が最近は有力なようである。しかしル・ヴァスール邸に集まった知識人が団員などということはありえないし、オランダ各地に団員がいたわけでもない。薔薇十字団はいろいろ尾鰭がついて話が大袈裟になっているが、実際はごく小さな集まりだったようである。

 最初から小説と断っているものに史実と違うと言ってもしょうがないが、なまじ新事実をとりいれているだけに始末が悪い。デカルトに関する事実が十分知られていない状況でこういう面白すぎる本が翻訳されるのはいかがなものだろう。

→bookwebで購入

2010年09月26日

『ケプラーの憂鬱』 ジョン・バンヴィル (工作舎)

ケプラーの憂鬱 →bookwebで購入

 現代アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルによるケプラーの伝記小説である。バンヴィルは本作の前後に『コペルニクス博士』(白水社、絶版)と『ニュートン書簡』(未訳)という科学者の生涯に取材した小説を書いていて「科学革命三部作」と称している。

 バンヴィルは実験的なポストモダン作家として知られており、解説によると本作にもいろいろな仕掛けがあるということだが、仕掛けに関係なく(仕掛けにもかかわらず)、おもしろい小説である。

 ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』では生きるのに不器用な頑固者として描かれていたが、こちらのケプラーは所帯やつれし、悪臭のたちこめる中世の街路を不機嫌に歩きまわる。濃いのである。

 物語は1600年2月、ティコ・ブラーエの亡命先の城館にケプラー一家が到着するところからはじまる。

 ケプラーは貧しい生まれながら大公の慈悲で大学を卒業し、グラーツの修道院付属学校の数学教師におさまる。給料は安かったが天文暦の予言でトルコ軍の侵攻を適中させ(当時の数学者は占星術師をかねていた)、天啓のようなひらめきで書いた『宇宙の神秘』という最初の著書を出版し、持参金つきのバルバラという伴侶もえて息子も生まれた。ところが子供は生後60日で死に、ルター派の信仰に固執したためにグラーツを追放される。妻の父親はケプラーを助けるどころか形だけでもカトリックに改宗しろと口うるさく要求してくる。

 妻のバルバラはもっと口うるさかった。バルバラはケプラーと結婚する以前に二人の夫と死別しており、前夫との間にできたレギーナという娘をつれて嫁いできていたが、彼女の方が収入が多かったのでケプラーは頭が上らない。

 そんな時に届いたのがティコから手伝わないかという誘いの手紙だった。ティコはプラハに亡命中だったので、ティコのもとで働くには勝手のわからぬボヘミアに行かなければならなかったが、妻子をかかえているケプラーにはそんなことを言っている余裕はなかった。

 ティコのもとでもそんなにうまい話はなかった。ティコは慇懃無礼を絵に描いたような男で約束の給料は払ってくれず、ケプラーが信奉するコペルニクスの体系を目の敵にしていた。ティコの城館はティコ一族の他、道化の小人や怪しげなとりまきでごったがえし、いらだったケプラーはしょっちゅう癇癪をおこす。

 ティコの突然の死で思いがけず帝国数学官の職がまわってくるが、ケプラーの鬱々とした日々はその後もつづく。皇帝は給料を値切った上にろくに支払わず、占星術を信じなくなっていたケプラーに占星術の託宣を強要する。帝国数学官の豪勢な衣装で故郷に錦を飾ったものの、母親には鼻であしらわれ弟たちも知らん顔。長兄の出世をよろこんだのは知恵遅れの弟くらいだった。

 ケプラーの生きがいは宇宙の真理の探求と義理の娘のレギーナの成長だけだったが、彼女はさっさと結婚し、バルバラが死ぬと遺産をめぐってケプラーに口汚い手紙をよこすようになる。

 晩年になっても憂鬱は晴れない。ルター派の信仰を守るために職を失ったこともあるというのに、そのルター派から破門されたのだ。おまけに儲かりもしない民間療法をやっていた母親が魔女の嫌疑で裁判沙汰になり、ケプラーは母親を救うために奔走する。最後の大仕事として『ルドルフ表』として長く使われることになる天文表を出版しようとするが、リンツ陥落で印刷途中で焼けてしまい、ウルムでゼロから版を組みなおすことになる。

 身体の不調と不平不満をこぼしながら後世に残る仕事をなしとげ、82歳の天寿をまっとうしたのだから、これはこれで立派な生涯である。近代はこの憂鬱な男によって開かれたのだ。

→bookwebで購入

2010年03月30日

『ロラン・バルトの遺産』 マルティ&コンパニョン&ロジェ (みすず書房)

マルティ&コンパニョン&ロジェ →bookwebで購入

 2010年はバルトの没後30年にあたるが、三人の弟子の文章を集めた本が出版された。『ロラン・バルトの遺産』である(本書は日本で独自に編集されたもので、この通りの本がフランスで出ているわけではない)。

 三人の著者はバルトが亡くなった時、25歳から31歳だった。彼らは20代で晩年のバルトに出会い、親しく教えを受けたのである。

 三人のうち一人はコレージュ・ド・フランス教授、もう一人は高等研究院教授と、かつてバルトが占めていた地位を襲っている。彼らがその地位についたのはバルトの死から20年以上たってからだから、バルトから譲られたわけではなく、実力で勝ちとったのである。バルトは立派な弟子を育てたといえるだろう。

 まず、エリック・マルティの「ある友情の思い出」(2006)である。マルティは『シャトレ哲学史』で知られるフランソワ・シャトレの甥で、21歳の時にバルトと出会い高等研究院のセミナーに出席することを許され、後に個人秘書のようなことまでしている。

 マルティはバルトの雑事を手伝うために毎日のようにバルトのアパルトマンに通い、夕食をともにしていたようだ。回想はきわめて濃密かつ親密で、ひょっとしたらそういう関係かという疑いが誰しも浮かぶと思うが、終わり近くになって以下のような文章が出てきた。

 しかしながら、師自身が同性愛者であるというのは、弟子の性的傾向がなんであれ、よいことだと思う。なぜなら、師との関係がつねにきわめてリビドー的(知識欲の)となるからである。エロスロゴスの混同が、たとて軽くとも実際にあるかぎりは。知識が、たとえ間接的にであれ、欲望をになっているかぎりは。

 師と弟子のあいだには何も起こらない。しかし、それでもふたりは、エロスとロゴスが声を、ときおり視線を、ときには身ぶりをかわしあう領域に生きているのである。

 親密ではあるが、あくまで精神的な関係にとどまっていたというわけである。バルトは『偶景』に男娼漁りの日々をあけすけに書いているが、マルティは師のそうした夜の顔はまったく知らなかったという。

 夜の顔を知らなかったのが事実にしても、秘書と言うか雑用係としてバルトの身近にいた人だけに覗き見趣味はこの文章がもっとも満足させてくれる。

 フーコーと一時仲たがいしたのはバルトがフーコーの恋人と親しげに会話したのをフーコーが嫉妬したからだとか、ドゥルーズとバルトは馬があったが、バルトが新哲学派について書いた好意的な文章が公開されると、新哲学派に批判的なドゥルーズから呼びだしをうけたとか。それにしても、構造主義とかポスト構造主義といっても、フランス現代思想のお歴々はみんな同じサークルの仲間だったことがよくわかる。

 ゴシップはともかく、マルティの回想でもっとも重要なのはバルトの母と小説の準備を語ったくだりだろう。たとえば、こんな具合だ。

 非常につよく感銘をうけたので、彼女に会うたびに彼女の言うことにとくに注意するようになったのだが、それは、緩徐がバルトと同じ言葉づかいえ話していたということだった。なんと言えばよいのだろうか。彼女の口にすることすべてのなかに、「バルト」的ないくつかの言葉や抑揚、口調、精神があったのである。あたかも、ほんとうに彼女はまさしく母語であり、バルトはそこから汲みとって書いているかのようだった。いちばんふしぎなのは、その言葉づかいや精神は、もっとも単純な語のなかに感じられるということだった。そして、さようならと言うときの首のかしげかただけにも、『恋愛のディスクール』の一節を読むように見出せるのだった。

 この見方は非常に説得力がある。多分、その通りなのだろう。

 さて、二番目はアントワーヌ・コンパニョンの「ロラン・バルトの<小説>」である。この論考は「架空の書物」をテーマにした2001年の国際集会で発表された後、リール第三大学の紀要に掲載された。バルトが最晩年に構想して果たせなかった<小説>は書かれざる書物の一つとして文学史に記録されるようになったわけである。

 バルトは『新生』という小説のプランを立てていたが、ついに書くことなく終わってしまったというのが大方の見方だが、コンパニョンはそれをくつがえしバルトは<小説>をすでに書いていると主張する。晩年の三部作『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』、『明るい部屋』がバルトの<小説>だというのである。

 根拠とするのは『小説の準備』で、三部作はそこで論じられる<小説>の条件をすべて満たしているというのだ。『小説の準備』はこれから書かれる<小説>を考察したわけではなく、すでに書かれていた<小説>の考察だという逆転の発想である。

 見方としては面白いが、説得力があるか問いと微妙なところだ。

→bookwebで購入

『喪の日記』 バルト (みすず書房)

喪の日記 →bookwebで購入

 バルトはサリトリウムで1943年から『ミシュレ全集』の抜き書きをはじめたが、その時使ったのがインデックス・カードだ。バルトは以後、メモや原稿の執筆をカードでおこなった。短い断章形式にはカードが向いているが、カードが断章形式をうながした面もあるかもしれない。1980年に亡くなった時には一万三千枚のカードが残されていたが、そのうち三二〇枚は「喪の日記」というタイトルで日付順に束ねられていたという。

 「喪の日記」カード群は1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれた。バルトは最愛の母を失った悲しみを『明るい部屋』の執筆で克服する。「喪の日記」カード群はバルトの二年間の「喪の仕事」の記録だが、わざわざまとめておいたのは執筆の材料にしようという意図があったのかもしれない。

 バルトの遺稿は1996年、異父弟ミシェル・サルゼドによって現代出版史資料館に寄贈されたが、カードについては内容がきわめてプライベートという理由で公開が禁止されている。

 ただ「喪の日記」カード群については内容の重要さと没後30年近くたったということで遺族が公開を了承し、2009年2月、現代出版史資料館学芸員のナタリー・レジェがテキストに起こして刊行された。その邦訳が本書である。

 バルトは失恋の悲しみを『恋愛のディスクール・断章』という傑作に昇華させたが、本書は(すくなくともそのままの形では)公開を予定しない日記であるから、ナマな言葉が書きつづられており昇華とは縁遠い。遺族が公開を躊躇ったのもわかる気がする。

 驚いたのは悲しみ一辺倒かと思ったら、いきなりエロチックな文章が出てくることだ。

 母の死の翌日の日付のカードにはこうある。

新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?

 その次の日はこうだ。

「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」

 母を異性として意識しているということだろうか。弟子のエリック・マルティの回想(『ロラン・バルトの遺産』所収)によるとバルトの母は母性的なところはまったくなく、80歳をすぎても娘々した女性だったらしい。

 バルトは11月頃、母の少女時代の写真を発見し、『明るい部屋』として結実する写真論を書くことを思いたつが、そのことをうかがわせる記述は1977年中には見当たらない。写真論の構想が出てくるのは翌年の3月になってからである。

――「写真」についての本にとりかかる自由な時間を(遅れをなくして)早く見つけたいと思う(数週間前から気持ちをたえず確かめている)。つまり、この悲しみをエクリチュールに組みこむことだ。

 書くことがわたしのなかで愛情の「鬱滞」を変え、「危機」を弁証法化して行く、という信念と、おそらくは確証がある。

 その一ヶ月後にはこれから書く本は母の「記念碑」にすると決意を述べている。

 思い出すために書く? 自分が思い出すためではなく、忘却がもたらす悲痛さと闘うためだ。忘却が、絶対的なものになるであろうかぎりは。――やがては――どこにも、だれの記憶にも、「もやはいかなる痕跡もなくなってしまう」ということ。

  「記念碑」をつくる必要がある。
  彼女ガ生キタコトヲ忘レルナ

 もっとも、本の準備には一年以上かかり、実際に執筆をはじめたのは翌年の「小説の準備Ⅰ」の講義が終わってからだった。執筆開始直前の時期のカードから引く(文中のMは異父弟のミシェル)。

 わたしは後世に残ることなど、いっさい気にかけずに生きている。死んだあとも読まれないなどとは、まったく望んでいない(ただ金銭的にはMのためになりたいと思うが)。完全に消滅することを全面的に受け入れており、「記念碑」を残したいとは全然思わない――だが、マムもそうなってしまうということには耐えられない(彼女は書いたものを残さなかったので、彼女の思い出は完全にわたし次第だからであろう)。

 いやはや怪物的なマザコンである。マザコンもここまで徹すると、芸術を生みだすということだろうか。『明るい部屋』という本の途方もなさがすこしだけわかったような気がした。

→bookwebで購入

2010年02月28日

『新しいカフカ ―「編集」が変えるテクスト』 明星聖子 (慶應義塾大学出版会)

新しいカフカ ―「編集」が変えるテクスト →bookwebで購入

 『1冊でわかるカフカ』の訳者解説で明星聖子氏はカフカの遺稿出版が大変なことになっていると書いていたが、具体的にそれがどういうことかを「編集文献学」という新しい学問の視点から述べたのが本書である。

 本書は卓抜なカフカ論であるとともに日本最初の編集文献学の紹介だが(編集文献学について知りたい人は明星氏が訳した『グーテンベルクからグーグルへ』を併読すると言い)、まずは基本的なところからおさえておこう。

 カフカが生前発表した作品は短編集二冊分にすぎず、『失踪者(アメリカ)』、『城』、『訴訟(審判)』の三大長編はもちろん、「ある戦いの記録」、「万里の長城」などの短編、さらには厖大なメモや書簡類などはすべて遺稿として残された。カフカは親友で作家のマックス・ブロートに原稿と書類の焼却を遺言して死んだが、ブロートはカフカの遺志に反して遺稿を守りとおし、世界恐慌とナチス台頭という困難な時代に全集の刊行を無報酬でやりとげた(印税はカフカの長患いで借金をかかえていた遺族にわたされた)。

 カフカはブロート版の全集によって世界の読者に知られたが、遺稿の出版に尽力した功績は功績として、ブロートが活字化した本文には問題が多々あった。ブロートは文献学の訓練を受けた学者ではなく作家だったために、自分の信じる文学作品のあるべき姿にあわせてカフカの未完成で未整理な原稿に勝手に手をいれていたのである。

 ブロートは明らかな誤記や引用符の片方の脱落、ピリオド抜けだけでなく、プラハ・ドイツ語特有の語法を「書き間違い」として訂正し、ssをßに置き換え、句読点をあまり打たないカフカ独特の句読法を規範通りの句読法に直した(当然、文章のリズムが変わる)。語句をいじっただけでなく、日記に埋めこまれたエピソードの断片をくみあわせて短編に仕立て、辻褄があわなくなる文章は削除し、『訴訟(審判)』や『城』では章の順番を決定した。またテキスト起こしは秘書にやらせたらしく、「体操選手か? 命知らずか?」を「まぼろしか? 追いはぎか?」と誤記している例まであるという(短編「橋」)。

 そこで遺稿の管理がブロートの手からオックスフォード大学ボードリアン図書館に移ったのを機に本文批判をおこなった新しい全集が1982年から15年がかりでフィッシャー社により刊行された。これが本書で「批判版全集」と呼ばれているもので、邦訳は白水社から出ている(新潮社版全集はブロート版による)。

 ところが批判版は決定版とはならなかった。批判版はドイツ文献学の伝統的なスタイルにしたがって各巻は本文篇と資料篇の二分冊にわかれ、異文は資料編に収録されているが、本文と異文を分離する分割的編集は1980年代にはすでに古くなっていたからだ。

 実はヨーロッパではフランスのテキスト批評の影響をうけて編集文献学という新しい学問が勃興していたのである。ここは本書の核心なので、長くなるがまるまる引用する。

 それは、一九七〇年代における統括的編集への転換には、六〇年代後半以降のフランスの文芸批評の傾向が重要な背景を成しているという点である。この傾向とは、ロラン・バルトのエッセイ『作品からテクストへ』に代表されるような、「作品」概念、「テクスト」概念の変容であり、すなわち、文学として書かれたものを「作品」という静的な閉じた体系としてみるのではなく、「テクスト」という開かれた形態、あるいは「エクリチュール=書字」という動的な形態としてみていこうというものである。そして、こうした流れの影響を明らかに受けて、一九七一年ドイツで文献学者グンター・マルテンスが「テクスト動性(Textdyamik)」という理論を唱えるのである。
 その理論は、簡潔に説明すれば、「草稿」のまま残された文学テクストを、従来のように「作品(Werk)」という静的な形態、あるいは完成体に近づけるように編集するのではなく、ダイナミックな生成発展の過程そのものを重視して、「エクリチュール=書字(Schrift)」として、書く行為の痕跡としてその「動性」を再現するというものである。この理論はすぐに多くの支持を受け、以後、作者による決定稿のない遺稿編集においては、草稿のなかから「最終稿」=「本文」を取り出してその前段階の「稿」=「異文」と分けるような分割的編集ではなく、すべての段階の稿を同等に扱うような統括的編集を是とする意見が支配的になる。

 フィッシャー社が古い分割的編集を選んだには商業的な思惑もあったらしい。厳密を期した批判版に対して一般読者に読みやすいテキストを提供する版を「普及版」というが、ブロート版は普及版としてもあまりにも粗笨だったために、ブロート版に代わる新しい普及版というニッチが残されていたのである。批判版は本文篇だけを見ているとどこに異文が隠れているのかわからないという欠点があるが、それは見方を変えれば異文に煩わされることなく本文が読めるということでもある。そして実際、フィッシャー社は本文篇だけを独立に格安の値段で販売したのである。フィッシャー社の全集は批判版を標榜しながらも、ブロート版に代わる普及版となったのだ。

 批判版はブロート版よりもましな本文を提供しているとはいえ、読みやすさを優先した結果、妥協の産物となっており、多くの批判にさらされた。こうして1995年から学問的厳密性を追求した新しい全集がヘルダーリン全集で名を上げたシュトルームフェルト/ロータ-シュテルン社から刊行されることになる。これが「史的批判版」である。

 史的批判版にもとづく『訴訟(審判)』の邦訳は頭木弘樹氏による『「逮捕+終り」 -『訴訟』より』(1999年、創樹社。絶版だが頭木氏のサイトで公開されている)と丘沢静也氏による『訴訟』(2009年、光文社古典新訳文庫)として出ているので普通の本の延長で考えていたが、本書を読んで愕然とした。常識的な本の範疇を飛び越えた代物になっているらしいのである。

 遺稿の写真版とテキスト起こしを両方載せているのは当然としても、史的批判版の『訴訟(審判)』は16冊の小冊子にわかれているのである。小冊子にわけたのは『訴訟(審判)』に属する遺稿の16の束を再現するためだ。書いた順番はほぼ推定できているが、カフカは冒頭の「逮捕」の章を書いた直後に結末を書いており、中間の章を書いたのは結末の後なのだ。頭木氏の解説に詳しいが、書いた順番=物語の順番ではないのである。

 続刊もわれわれになじみのある『万里の長城』や『掟の問題』という題名ではなく『1921年のノートから』のようになっている。カフカは作品をノートの流れの中で書くことが多く、どこからどこまでが作品かを確定することが困難だからである。白水社版の全集が『カフカ・コレクション』に発展的解消をとげ、『ノート〈1〉』や『ノート〈2〉』という形で再刊されているのは批判版を卒業して史的批判版に近づこうということだろう。

(ナボコフの遺作『The Original of Laura』はミシン目に沿って切りとるとナボコフが執筆に用いたインデックスカードの束になったが、あれは編集文献学的には正しい方式だったのだ。)

 本の解体まで突き進むと浮き世離れした学者やテキスト理論かぶれの批評家の自己満足と受けとる人がいるかもしれない。しかし、ことカフカに関するかぎり、本という形態を解体する必然性があるのだ。というのはカフカは作品を発表しようという意欲の一方で、本として完結させることは逡巡しつづけたからだ。『失踪者(アメリカ)』や『城』、『訴訟(審判)』が未完で終わったのは時間がなかったからではなく、完結させることを拒否していたからなのだ。

 これは単なる解釈ではない。本書はカフカが陥っていた公表を望みつつ拒むというダブルバインド的状況を遺稿に即して実証的に明らかにしている。カフカというのはそういう作家だったのである。

(とは言っても史的批判版を日本語で再現できるはずはなく、再現する必然性もない。光文社古典新訳文庫版も白水社カフカ・コレクション版も翻訳である以上、普及版であることを宿命づけられているのである。)

→bookwebで購入

2010年01月31日

『朗読 Lolita』 Nabokov & Jeremy Irons (Random House)

Lolita (Unabridged) →bookwebで購入

 『ロリータ』の朗読CDである。アメリカは通勤に鉄道よりも車を使うことが多いので運転しながらでも楽しめる録音書籍が普及しているが、これは並の録音書籍ではない。朗読しているのはなんとエイドリアン・ライン版の『ロリータ』に主演した名優ジェレミー・アイアンズなのである。

 抜粋版も出ているが、こちらは完全版で全部で10時間以上ある(なぜか抜粋版よりも安い)。本の付録ではなく純然たる10枚組のCDだが、書籍扱いで販売されており ISBNもついている。

 CD1枚につき 10前後のトラックにわかれており、WMPでリッピングすると xxChapterというファイル名になるが(xxは数字)、トラックと章割りは一致しない。"Lolita, light of my life, fire of my loins..."という有名な書きだしは 1枚目の第2トラックの60秒目からはじまる。第二部のはじまりは 5枚目の第8トラックの40秒目からだ。なぜ章割りと一致させなかったのかはわからないが、原書を参照しながら聞く場合は注意が必要だ。

 携帯用のデジタル・オーディオ・プレイヤーで聞くためにリッピングしたが、320kbpsのmp3では1.5G近くになる。語学教材と割りきって128kbpsにすれば 600Mくらいでおさまるが、それではもったいない。

 というのも、ジェレミー・アイアンズは単に読みあげるだけでなく、演技しているからだ。架空の序文はいかにも学者然としたもったいぶった読み方だが、ロリータに呼びかける条では一転して情感たっぷりの甘い声になる。生い立ちを語る条では夢見るような響きがまじる。アナベルの思い出にふれた条のなんと甘美なこと。

 アイアンズの声は麻薬的で何時間でも聞いていたくなる。大体は淡々と読んでいくが、その声は時に激し、時に冷笑的、時に悲しみをたたえる。目で活字を追うだけではわからなかったが、ナボコフの文章はこんなにも表情豊かに千変万化していたのだ。

 語学教材としては高級すぎるが、こんな素晴らしい録音が2000円ちょっとで手にはいるのである。円高も悪くない

→bookwebで購入

2010年01月30日

『ロリータ』 ナボコフ (新潮文庫)

ロリータ →bookwebで購入

 日本のナボコフ研究の第一人者、若島正氏による『ロリータ』の新訳である。

 『ロリータ』の最初の邦訳は1959年に河出書房から上下二巻本で出た大久保康雄氏名義の訳だったが、この訳は丸谷才一氏によってナボコフの文学的なしかけを解さぬ悪訳と手厳しく批判された。

 今回の若島訳をとりあげた丸谷氏の書評(『蝶々は誰からの手紙』所収)によると、大久保氏は丸谷氏に私信で、あの訳は自分がやったわけではなく、目下、新しく訳し直しているところだという意味のことを書いてきたという(大久保氏はおびただしい数の訳書を量産していたから、下訳を自分でチェックせずに出版するということもあるいはあったのかもしれない)。その言葉通り、大久保氏は1980年に新潮文庫から全面的に改訳した新版を出している。

 新潮文庫版が全面的な改訳だったとは知らなかったので、今回、古書店で探して読んでみたが、明らかに誤訳とわかる部分(pedrosis=小児性愛を「足フェティシズム」とするような)は散見するけれども、流麗ないい日本語になっているという印象を受けた。

 さて、三度目の邦訳である若島訳である。

 若島訳は2005年11月に単行本で出たが、一年後、文庫にはいる時に訳文が練りなおされ、さらに40ページを越える注釈が付された(単行本を買った人間にとっては腹立たしいが、ナボコフの専門家による注釈がついたこと自体は歓迎すべきことである)。

 賞味期限がまだあると思われる大久保訳を絶版にしてまで出した意義はどこにあるのだろうか。わたしはナボコフの一ファンにすぎないが、野次馬的興味から比較してみることにした。

 夫人の急死後、ハンバート・ハンバートがロリータをキャンプにむかえに行き、最初の夜をむかえる場面を見てみよう(第1部第27章)。まず、大久保訳。

「へえ、しゃれた感じね」下品な私の恋人は、音をたてて降りしきる霧雨のなかへ這い出して、ロバート・ブラウニングの言葉を借りるなら、"桃の割れ目"にくいこんだ服のしわを子供っぽい手つきでつまんでのばしながら、漆喰壁の方を横目で見やった。アーク燈の下の拡大された栗の葉の影が、白い柱の上で、たわむれるようにゆれた。

 なめらかで文学的な日本語である。これが若島訳だとこうなる。

「うわあ! イケてるじゃん」。音をたてて降りしきる雨の中に這い出して、桃の割れ目*(ロバート・ブラウニングからの引用)にはさまったワンピースの襞を子供らしい手つきでつまみあげながら、下品なわが恋人は漆喰壁を横目で見て言った。アーク灯に照らされて、栗の葉の拡大されたシルエットが白い柱の上ではねまわってはしゃいでいた。

 ロリータの口調が現代的になっていて、不協和音のように耳に突きささる。しかし、ブラウニングの「桃の割れ目」という雅やかでエロチックな表現と下品な今風の言葉づかいが衝突する面白さが原文の意図だとしたら、あえて流麗さをぶちこわした若島訳のように訳すべきだろう。

 次はモーテルの一室で裸のハンバート・ハンバートがロリータを膝の上に抱く場面(第2部第2章)。二人は男女の関係になっており、ハンバート・ハンバートは朝と晩にロリータに「おつとめ」を要求するにようなっている。

 とくべつ暑さのきびしい午後は、憩いシエスタのひとときのじっとりと汗ばむほどの親密さにひたって、彼女を膝にのせ、肘掛椅子の背に重い裸の体をもたせかけて、椅子の革のひんやりとした感触を楽しんだ。彼女は、いかにも子供っぽく新聞の娯楽欄に読みふけりながら鼻をほじくり、まるで靴か人形かテニスのラケットの柄の上にうっかり坐りこんだが、どくのもめんどうくさいといったように、私の恍惚状態には、まったく無関心な態度を示した。

 「靴か人形かテニスのラケットの柄」というのは勃起した男根の婉曲表現である。ハンバート・ハンバートが男根の上にロリータの尻を感じて恍惚となっているさまがくっきりと脳裏に浮かぶ。

 この条は若島訳ではこうなる。

 とびきり熱帯のような午後、べとべとと身体を寄せるシエスタの時間に、膝の上に彼女を抱きながら、全裸の巨軀肘掛け椅子の革に触れるそのひんやりとした感触が私は好きだった。彼女はそこでいかにも子供らしく、鼻をほじくりながら新聞の娯楽欄に夢中になっていて、我が恍惚にはまったく無関心で、あたかもうっかりその上に腰を下ろしてしまっただけの、靴とか、人形とか、テニスラケットの握りみたいなもので、わざわざどけるのも面倒だという感じだった。

 若島訳は原文直訳に近いので、ロリータがハンバート・ハンバートの勃起した男根の上に座っているという位置関係がわかりにくい。うっかりするとハンバート・ハンバートのけしからぬ行為を読みすごしてしまうかもしれない。再読した時にわかるように、わざとわかりにくく訳したのかもしれないが、ここはそういう箇所ではないと思う。

 最後は失踪したロリータを探してボロボロになったハンバート・ハンバートがロリータとの関係をふりかえる条である(第2部第32章)。

 彼女とのはじめての旅の途中――最初の極楽めぐりのあいだの――ある日、私は、おのれの幻想を心安らかに味わうために、いやでも気づかずにいられない事実を――彼女にとっては私がボーイフレンドでもなければ魅惑的な男でも友だちでもなく、一個の人間ですらなく、ただ二つの目と赤く充血した一本の肉の足(言っていいことだけを言おうとすると、ついこんなことを言ってしまうのだ)にすぎない事実を無視しようと堅く心に決めた。

 「赤く充血した一本の肉の足」はわかりやすいけれども、くだきすぎである。原文は"a foot of engorged brawn"であり、a foot of snow が「雪の足」ではなく「一フィートの雪」であるように「一本の肉の足」は誤訳というべきだろう。誤訳を承知でわかりやすしたのかもしれないが。

 若島訳は原文に忠実だが、それだけにおやと思う箇所がある。

 私たちが最初に旅行したあいだ(いわば第一回目の楽園めぐりだ)、幻影を心穏やかに楽しむために、私が彼女にとってはボーイフレンドではなく、魅惑の男性でもなく、友達でもなく、まったく人間ですらなくて、ただ単に二つの目と一フィートの充血した肉でしかないという(ここに書けることだけを書けばの話)、目にせざるをえない事実をかたくなに無視することに決めた日があった。

 30cmの男根というのはいくらなんでもありえないだろう。日本語だけを見ていると、こちらの方が誤訳ではないかと思う人がいてもおかしくない。もしかしたらこれは誇張表現であり、ゲラゲラ笑うところなのかもしれない。そうだとしたら、若島訳のようにひっかかるように訳すべきということになる。

 若島訳の特質は優雅で伝統的な文学的表現と俗悪なアメリカ口語の衝突を日本語で再現しようとしたところにあるだろう。丸谷氏の大久保訳批判に代表されるように、これまでナボコフというと文学的な本歌どりの面ばかりが強調されてきたが、『ロリータ』については他の文学作品への言及といってもポオの「アナベル・リー」、メリメの『カルメン』、キャロルの『不思議の国のアリス』を押さえる程度で十分のようだ。本歌どりよりもむしろ雅語と俗語の衝突という俳諧的な面が濃厚であって、大衆文化への引照こそが『ロリータ』の言語宇宙の柱となっている。

 大久保訳は確かに流麗で文学的であるけれども、『ロリータ』に関するかぎり、文学趣味だけでできあがっているわけではなく、不協和音が必要なのだ。若島訳の意義はそれに気づかせてくれたことにある。

→bookwebで購入

2010年01月29日

『ナボコフ伝 ロシア時代』1&2 ボイド (みすず書房)

ナボコフ伝 ロシア時代
→bookwebで購入
ナボコフ伝 ロシア時代
→bookwebで購入

 『群像』11月号のナボコフ特集は泥臭い文芸誌とは思えない充実ぶりだった。名のみ知られていた初期短編「ナターシャ」の翻訳もよかったが、一番の収穫はナボコフ研究の第一人者、ブライアン・ボイド氏の「ナボコフの遺産」という文章である。

 大作家の遺族とのつきあいは難しいものだが、ボイド氏は博士論文を送ったのが縁でヴェーラ夫人にナボコフが暮らしたモントルーのホテルに招かれ、厖大な資料の整理をまかされるようになる。

 『ロリータ』の成功で巨額の印税がはいるようになったナボコフはレマン湖に臨む高級ホテルのスイートルームを五室借りあげ、そのうちの一室を「物置部屋」にしていたが、亡くなった後も「物置部屋」はそのままにされていた。ボイド氏は「物置部屋」で総重量一トンはあろうという資料の整理にあたる一方、税金対策のために50年間公開禁止という条件でアメリカ議会図書館に寄贈されていたナボコフ関連文書にアクセスすることも許された。ボイド氏はヴェーラ夫人の信頼にこたえ、ついには公認の伝記を書く許可をもらうまでになる。

 「ナボコフの遺産」はボイド氏の研究者としての成長とともに新発見のときめきがつづられた好文章で、ボイド氏の名を一躍世界に知らしめた『ナボコフ伝』が俄然読みたくなった。

 ボイド氏の『ナボコフ伝』は「ロシア時代篇」と「アメリカ時代篇」にわかれているが、日本では前半の「ロシア時代篇」のみが上下二巻本で翻訳されている。前半だけといっても、英語圏の学者の書いた伝記だけに本文は上下二段組で660ページ、それに原注が65ページつくという大冊である。

 わたしは構造批評の洗礼を受けた世代なので、正直言うと作家の伝記には抵抗がある。ナボコフの作品は完成度が高いので伝記を読んでも作品を読む妨げにはならないだろうと理屈をつけて読みはじめたが、すぐに引きこまれた。訳文が明快ですらすら読めたということも大きい。

 ナボコフには『記憶よ、語れ』という哀切な美しさに満ちた回想録の傑作があるが、思いつくままの回想なので話が前後するし、時代背景などナボコフ本人にとって言わずもがなのことは書かれていない。記憶の間違いや故意の言い落としや謙遜、歪曲もある。本書を読んでようやく『記憶よ、語れ』の全体像が見えてきた。

 ナボコフの父親(名前が同じウラジーミルなので、本書では「V.D.ナボコフ」と表記)がリベラルな政治家だったことは『記憶よ、語れ』にもふれられていたが、想像していたよりもはるかに大物だった。立憲民主党カデットの幹部で、二月革命までは言論人として重きをなしたが、革命後臨時政府ができると入閣し、ミハイル大公の皇位継承放棄の詔書を起草するなど重要な役割を果たしている。

 十月革命が起こるとクリミアに逃れて当地の臨時政府の閣僚となったが、結局、亡命を選ぶ。貴族の中には情勢の悪化を見越して、預金を海外に移すものがすくなくなかったが、ナボコフの父親は愛国者だったので資金移動を潔しとせず、そのため亡命後、ナボコフ家は経済的に逼迫することになる。

 ナボコフ家はいったんはロンドンにおちつくが、一家は奨学金でケンブリッジに入学した二人の息子を英国に残し、すぐにベルリンに移る。白軍の壊滅後、百万人を越える亡命者がロシアを後にしたが、その多くは物価の安かったベルリンに流入し、ベルリンは亡命ロシア人の中心都市になっていたからである。

 亡命者の多くは教育を受けた知識人だったから、ベルリンはペテルスブルクやモスクワをしのぐロシア文化の中心地となった。1920年代前半、名のある作家や芸術家の多くはベルリンに居を定めており、なんと86ものロシア語の出版社が鎬を削り、ベルリンで発行された本や雑誌、新聞はアメリカやアジアなど世界中でロシア人亡命者に読まれていたという。

 ナボコフの父親は「舵」という新聞を創刊して亡命ロシアの文化的指導者となり、立憲民主党カデットの活動を再開したが、ここで悲劇が起こる。立憲民主党カデットの創設者、ミリュコーフの歓迎会でミリューコフを襲った狂信的王党派の暗殺者を押しとどめようとして落命する。

 父を喪った日のナボコフの長文の日記が引用されているが、これだけで一つの文学作品になっている。

 ケンブリッジ卒業後、ナボコフはベルリンにもどり銀行に就職するが、わずか三時間で退職してしまう。以後、定職に就かず、ロシア語の家庭教師やテニスのコーチ、果樹園の労働者などの職を転々としながら詩と小説を書きつづけて、亡命ロシア人作家として実績を積み重ねていく。

 定職に就かなかったために、ケンブリッジのルームメイトで反ユダヤ主義者のミハイル・カラシニコフの従妹との婚約は破棄されてしまうが、すぐに別の出会いがある。生涯の伴侶となったヴェーラ夫人である。

 ヴェーラ夫人はユダヤ系ロシア人だったために、ナチスが台頭してくるとヨーロッパにいては危険になる。貧乏暮らしをつづけていたナボコフにはアメリカに渡航する費用は用意できなかったが、ナボコフの父親が反ユダヤ主義に果敢に反対したことを憶えていたユダヤ人組織の指導者のはからいと募金で一家は1940年5月、危ういところでフランスを出国する。「ロシア時代篇」はここで終わる。

 下巻には『ディフェンス』と『賜物』についてのまとまった批評があり、勉強になった。『ディフェンス』はあまりいいとは思わなかったが、読みが足りなかったのかもしれない。

 「アメリカ時代篇」が読みたいので原書を注文しようとしたら絶版だった。「アメリカ時代篇」の一日も早い邦訳を願う。


→1を購入


→2を購入


2010年01月28日

『The Original of Laura』 Nobokov (Knopf)

The Original of Laura →bookwebで購入

 没後32年目に出版されたナボコフの遺作で、「死は悦び」という副題がついている。ナボコフは未完の作品はすべて焼却するように遺言していたが、その遺言に逆らって出版したというので世界的なニュースになった。

 ナボコフの未完の「長編」が出たのは文学的事件なので注文してみたが、届いたのは3cmくらいある分厚いハードカバーだった。こんな長い作品が眠っていたのかとわくわくしながらページを開いたところ、愕然とした。

 "The Original of Laura"はインデックスカードという厚紙のカードに鉛筆書きされていたと伝えられているが、奇数ページの上半分にはカードの表側が写真版で、下半分には活字化されたテキストが印刷されている。偶数ページはカードの裏が同じ体裁でレイアウトされているが、裏面にまで文字が書かれているカードは数枚だけである。本の用紙自体もインデックスカードの厚さなので(カードの縁に沿ってミシン目がはいっていて、切りとれば元のカードが再現できるようになっている)、ぶ厚いといっても280ページほどしかない。インデックスカードは12行書けるようになっているが、それを活字化したテキストは8行で組まれている。普通の組み方をしたら50ページ足らずでおさまるだろう。

 書き直しや綴りの間違いまでふくめてナボコフの肉筆を見ることができたし、凝った造本の割りには3000円そこそこだったので腹は立たなかったが、厚さが厚さだっただけにがっかりしたことは否めない。

 50ページの分量しかないなら「長編」という報道は間違いだったのだろうか。

 本書の刊行にあわせて『群像』11月号は「知られざるウラジミール・ナボコフ」という特集を組んだが、若島正氏は「私の消し方――『ローラのオリジナル』を読む」を寄稿し、本書が『透明な対象』と同じくアルファベットになぞらえた26章構成であること、『透明な対象』と共通する人物が複数登場すること、死にゆく意識をテーマとしていることから、両者をペアになる作品と推定している。この仮説が正しいなら、刊行された『ローラのオリジナル』はありうべき作品の1/4ほどの断片ということになる。わたしは若島説は説得力があると思う。この書き出しは『透明な対象』に匹敵する長編の冒頭にふさわしい。

 さて、中味である。

 物語は闇の中の声からはじまり、目が闇になれるようにしだいに状況があきらかになってくる。声の主の女はフローラといい、作家の妻。もう一人男がいて、彼も作家らしい。二人はパーティを抜けだして、束の間の情事を楽しんでいる。かなりあけすけな描写である。

 第二章以降はフローラの生い立ちに飛ぶ。フローラの祖父は1920年にモスクワからニューヨークに亡命したロシア人画家で、その息子でファッション・カメラマンのアダムと、バレリーナのランスカヤの間にできたのがフローラだ。父アダムには少年愛の癖があったが、愛した少年たちが殺しあいをしたのを気に病んだのか、ピストル自殺してしまう。彼は自殺の瞬間を自動シャッターで撮影したが、未亡人となった母はその写真を雑誌に売ってしまい、その金でパリに住居を確保する。

 フローラの母はバレエ教師として成功するが、フローラが12歳の時、ヒューバート・ヒューバート(!)という男があらわれる。彼は母とねんごろになるが、本当の狙いはフローラにあり、ある夜、フローラが38度の熱を出し、母が薬屋にアスピリンを買いに行っている隙にイタズラしてくるが、彼女はすんでのところで股間を蹴りあげ身を守る。

 フローラは14歳の時、滞在先のホテルでテニスの球拾いをやっている少年と初体験をすませる。彼女は彼の性器を冷静に観察する一方、唇へのキスは許さない。セックスへの好奇心から身をまかせたにすぎず、ロリータとそっくりの経歴である。

 この後、大学時代に話が飛び、フランス語とロシア語の授業で一緒になった日本人の娘から左手に文字を書きつけるというカンニングの技を伝授される(肌に文字を書くことと日本人が教えるというのは「耳なし芳一」からの連想だろうか)。

 小説の態をなしているのはこのあたりまでで、残りは断片や創作ノートの類だ。冒頭でフローラと交わっていた作家は彼女をモデルに『ローラ』という小説を書き、ベストセラーになるという展開らしい。『ローラのオリジナル』という題名はここから来ているが、フローラの生い立ちを描いた部分とどうつながるかはわからない。

 フローラを描いた条はナボコフの香りがたしかにするけれども、それだけだったら遺言に逆らってまで出版するほどの価値はなかっただろう。本書で一番興味深いのは創作ノートの部分だった。仏教のニルヴァーナの思想についてのメモや自我の消滅といった文言が書かれており、われわれが知っていると思っていたのとは別のナボコフが顔をのぞかせている。瞑想修行を思わせる記述もある。本書の副題になっている「死は悦び」も死後の世界や仏教への関心が背景にあるらしい。

 死後の世界への言及は『青白い炎』などにも出てきたが、狂人の戯言のような形で相対化されていた。ナボコフと仏教などというと大方の読者は眉に唾をつけることだろう。ところが現在のナボコフ研究はどうもそちらの方向に向かっているらしいのだ。

 ナボコフの伝記の決定版の著者であり、ナボコフ研究の第一人者であるブライアン・ボイド氏が『群像』の特集に「ナボコフの遺産」という文章を寄せているが、そこにはこう書かれている。

 一九七八年にヴェラナボコフが書き記したナボコフの中心的なテーマは「異界」だというよく引用されるコメントとは別に、私はナボコフの形而上学への傾倒、とりわけ死後の世界があるとしたらどのようなものかという、思考実験と小説上の探求についての研究にも手を伸ばしていた。私はナボコフの中心的なテーマは、自伝『記憶よ、語れ』で述べられているように、心理的、認知論的、倫理的、形而上学的なものまでふくむ、宇宙における意識の位置だと一貫して考えてきた。死の先にある形而上学的存在の可能性への生き生きとしたナボコフの関心は一九七〇年代の終わりまでかろうじて認められ、十分に、たぶん十分すぎるほど、ここ三十年にわたるナボコフ研究の中で解明されてきた。

 ボイド氏は1986年にヴェラ夫人から許可をもらい『ローラのオリジナル』を読んでいたということだが、なるほど、こういうわけだったのだ。

→bookwebで購入

2009年01月31日

『マラルメの想像的宇宙』 ジャン=ピエール・リシャール (水声社)

マラルメの想像的宇宙 →bookwebで購入

 ある流派が成功するかどうかは、努力が報われるかどうかにかかっているという説がある。努力しなくてもできるような流派は最初からはやらないが、いくら努力しても才能がなければ格好がつかない流派もはやらない。しかるべく努力すればしかるべき成果があがるという期待が流派の成功には不可欠だというわけだ。

 文学研究の世界で実証主義が長らく主流を占めているのは、まさにこの理由による。文学的感性はあったほうがいいが、なくてもコツコツ調べれば、調べただけの論文を仕上げることができる。努力は報われるのである。

 実証主義の地歩を一時は脅かした構造主義批評や脱構築批評もこの法則の例外ではない。もちろん、構造主義批評や脱構築批評でも傑作を書くには才能が必要だが、才能がなくても、努力しさえすれば一応の格好がつくような方法が確立されているのだ。

 構造主義批評の流行のきっかけはバルト=ピカール論争でロラン・バルトが実証主義を代表するレイモン・ピカールに勝利をおさめたからだが、論争の発端となった『ラシーヌ論』は皮肉にも構造主義批評の産物ではない。『ラシーヌ論』は物語の構造分析を言いだして構造主義批評に軸足を移す前に書かれた、ヌーヴェル・クリティック時代の成果だ。

 ヌーヴェル・クリティックは現在ではすっかり忘れられており、批評理論を紹介した本に「テーマ批評」とか「現象学的批評」という名称でわずかに名残をとどめているにすぎない。しかし、読んでおもしろい批評はヌーヴェル・クリティックが第一だというのがわたしの考えだ。

 ヌーヴェル・クリティックには錚々たる作品があるが、現在、日本語で読めるのはバルトの『ラシーヌ論』と『ミシュレ』、そしてジャン=ピエール・リシャールによる本書くらいしかない。

 ヌーヴェル・クリティックにもさまざまあるが、共通点は現象学、特にメルロ=ポンティの身体論の影響を受けていることだ。ヌーヴェル・クリティックは構造批評の抽象的な世界とは対蹠的な感覚の横溢した世界を展開するのである。リシャールやバシュラール、スタロバンスキの批評は感覚の悦びにあふれている。

 リシャールの批評は「テーマ批評」と呼ばれるが、この場合の「テーマ」とは作品の主題とか主張という意味ではなく、固着観念のように作品に繰りかえし登場する無意識的なテーマを意味する。本質的な作家は固着観念にとり憑かれているものだが、その固着観念を拾いだし、固着観念間のネットワークをあぶりだすために、従来見すごされてきた周縁的な作品まで含めて、あらゆるジャンルの作品を横断的に引照し、引用のパッチワークを作り上げる。

 本書でいうと、リシャールは詩や散文詩はもとより、書簡、ファッション雑誌『最新流行』の記事、副業として書いた英語の参考書までを網羅している。断簡零墨まで目を通すには努力が必要だが、努力だけでも不十分である。鍵となる固着観念を発見するには文学的感性が不可欠だし、どの部分を引用するか、引用をどのように配列するかでも文学的感性が如実に出てしまう。

 本書を読めばわかるが、リシャールがやっているのはため息が出るような名人芸であって、これ自体、一つの文学作品となっている。こういう本は真の才能がなければ書けるものではない。自戒をこめて書くが、才能もないのに「テーマ批評」を試みたら、無様な失敗をさらすのが落ちだ。

 神輿をかつぐ人がいないので忘れられた形だが、批評の快楽を堪能したい人は本書を読んでほしい。人類が生みだした最高の詩を論じた、最高の批評がここにあるのだから。

→bookwebで購入

『マラルメ論』 アルベール・ティボーデ (沖積舎)

マラルメ論 →bookwebで購入

 チボーデが1912年というきわめて早い時期に書いたマラルメ論である(邦訳は1926年の改訂版にもとづくが、訳者解説によるとそれほど大きな異同はないらしい)。

 チボーデはヴァレリーと同世代の戦前のフランスを代表する批評家である。ヴァレリーが問題を核心に向かって深く掘りさげていくのに対し、チボーデは該博な知識を背景に広い視野から俯瞰するという違いがある。チボーデの『小説の美学』や『フランス文学史』は必読の本だったが今では絶版で、入手できるのは本書とフロベール論くらいらしい。多くの大学で仏文科がなくなる御時世だから、チボーデが忘れられるのも仕方のないことなのかもしれないが、もっと読まれていい批評家だと思う。

 本書はマラルメの本格的な研究としては最初のもので、その後の研究を方向づけたとまでは言えないにしても、基本文献であることは間違いないだろう。ギイ・ミショーは「マラルメ作品の非常に多彩な面を世人に高く評価させることに成功した」と評している。

 1912年はもちろん、1926年の時点でも全集はおろか書簡集も出ておらず、異文の刊行はようやくはじまったばかりだった(「エロディヤード」の異文は改訂版の刊行直前に公開されたそうで、本書中で特筆されている)。何が書いてあるのだろうという興味で読みはじめたが、意外に現代的である。

 マラルメはパリに出てきてから『最新流行』というファッション雑誌を独力で編集し、多くのペンネームを使いわけて誌面の大半を埋めていた。また、英語教師の副業として英語の参考書も執筆している。『最新流行』や英語の参考書はジャン=ピエール・リシャールによって再評価されるまで無視されていたとばかり思いこんでいたが、チボーデはすでに『最新流行』と『英単語』を読みこみ、詩作を読み解く鍵として用いていたのである。

 弟子のモクレールが喧伝していたヘーゲル主義に対しては「マラルメの観念論を哲学的な起源に関係づけたり、彼がおそらく読んでいない思想家の影響に結びつけることは誤りであろう

」と一蹴している。チボーデはマラルメの観念論の影響源はリラダンだと喝破している。

 凝縮したあまり電報文のようになってしまったマラルメの詩句をマネのモザイク的な描き方と関係づけた指摘は印象批評といえば印象批評だが、新鮮である。最近のマラルメ論ではリラダンやマネの名前はあまり出てこないようだが、マラルメは彼らとしょっちゅう行き来していたわけで、影響しあわないはずはなかったのだ。

 もっとも、時代を感じさせる部分もある。わたしが気になったのはベルクソンを援用した部分だ。両大戦間のフランスはベルクソンの全盛時代だった上に、チボーデはリセでベルクソンに教えを受けただけに、ベルクソンの影響が顕著だが、本書も例外ではなかった。

 マラルメの詩にベルクソン的な持続を見出そうとした部分の多くは無理な印象を受けたが、ベルクソンの援用が成功している部分もある。チボーデは「エロディヤード」と「半獣神の午後」を対比し、「エロディヤード」は絵画的・静止的で高踏派の枠内にとどまっているのに対し、「半獣神の午後」は新しい詩境を開いたと述べている。

 マラルメにおいて支配的なのは活動的、視覚的、触覚的イメージのいずれでもなく、動性的イメージである――また触覚的、視覚的、聴覚的イメージも彼のなかでことごとく動態化され、他の感覚においてそれに対応するイメージへ移行する傾向を示すが、その場合にも力点は出発点や到達点にではなく、それが描く軌跡そのものに置かれる。
 あらゆる造形的イメージは捕捉され定着された瞬間に『半獣神の午後』で半獣神が抱擁する二人のニンフのように手をすりぬけて逃れ去る。『半獣神の午後』はこのようなイメージの動性をもっとも顕著に示す作品であり、そこでは同一の文章の枠内で様々なイメージが絶えず互いの中に消失し溶解してゆくのである。

 こういうベルクソンの使い方なら説得力があると思う。

 「書物」についての指摘も興味深い。「書物」は空間的な固まった存在であり、ベルクソン的持続の対極にあるが、「余白」によって動きと神秘が生みだされるというのである。構造主義化されたマラルメとはまったく別のマラルメを発見するヒントになるかもしれない。

→bookwebで購入

2009年01月29日

『ステファヌ・マラルメ』 ギイ・ミショー (水声社)

ステファヌ・マラルメ →bookwebで購入

 フランスではマラルメの入門書として定評のあった本だそうである。初版は1953年に出たが、1971年に改訂版が出て、それを邦訳したのが本書である。初版刊行後に出たリシャールの『マラルメの想像的宇宙』などがたびたび引照されていることからすると、相当大きな改訂がおこなわれたようである。

 本書の価値はまず、1971年までのマラルメ批評史を概観した「序」にある。ミショーはマラルメの読み方には二つの局面があったと指摘する。

 第一の局面は伝統的な実証主義と1950年代にはじまったヌーヴェル・クリティックをあわせたもので、マラルメをその時代の中で理解しようとする接近法である。

 これに対して第二の局面はマラルメを構造主義とポスト構造主義という現代の文脈で読もうとする試みであり、マラルメのテキストには構造主義とポスト構造主義を先取りした部分があるとする。すこし長いが、「序」から引用しよう。

 ようやく今日に至って、これほど長いあいだマラルメが「理解されない人」とみなされてきた、いくつかの本当の理由がわかり始めた。それらの理由は、彼の作品が晦渋だから近づきにくいのだとする偏見より以上に、彼の生きた時代が抱いていた根本的な誤解にもとづいていたのである。歴史、文献学、分析に夢中になっていた世紀が、どうして、構造、言語に関する科学、あるいは「精神の楽器」としての<本>に関する彼の《たわごと》を異様と思わずにいられようか。いかなる誇張もなく断言することができるのだが、マラルメは、ソシュールより半世紀前に、自分なりの方法で構造言語学の基礎を築いたし、レヴィ=ストロースとジルベール・デュランより一世紀前に、「類推の魔」によって、言語、神話、人間精神、世界の諸構造間の、今日類質同型イゾモルフィスムと呼ばれるものを研究し、「万象間の諸関係の総体」を把握していたし、そしてバルトよりやはり一世紀前に、詩的言語をひとつの複数性の言語、つまり通常の言語の性質とは異なった性質をもつ言語であるとほぼ定義していたのである。

 マラルメが構造主義=ポスト構造主義という現代の知を先取りしていたというのはその通りだろう。今日、マラルメが注目されているのはまさにその点による。

 ミショーは第二の局面の重要性を強調しつつも、本書はあえて第一の局面にとどまり、伝記という伝統的な接近法を貫いたと述べている。これはこれで立派な見識である。

 さて、伝記として読んだ場合、古さは否めない。改訂版の出た1971年時点では、マラルメの書簡集は四巻のうち、最初の二巻しか出ていなかった。豪華本『大鴉』を出版したレスクリードの書簡はもちろん発見されていなかったし、「アナトールの墓」は刊行されていたものの、なぜか本書では無視されている。孤高の面や妹の死をクローズアップしたり、ヘーゲルの影響を額面どおりに受けとっているのも時代を感じさせる。改訂版が出てから40年近くたっているが、その間のマラルメ学の進歩は大きかったのだ。本書だけでマラルメの生涯がわかったつもりになるのは危険であって、マラルメの生涯が知りたかったら柏倉康夫氏の『生成するマラルメ』を併読すべきだろう。

 伝記としては古びているが、しかし、マラルメの作品の読解としては本書は今でも十分読みごたえがあると。ヌーヴェル・クリティックの最良の成果をとりこんでいるだけでなく、神秘学的な観点を持ち込んでいる点も味わいを深くしている。ここでは憂愁にみちた世紀末詩人としてのマラルメに出会えるのである。構造主義かされたマラルメにあきたりない人は本書を紐解かれるとよい。

→bookwebで購入

2009年01月28日

『マラルメの「大鴉」』 パッケナム&柏倉康夫 (臨川選書)

マラルメの「大鴉」 →bookwebで購入

 1875年、33歳だったマラルメは学生時代から念願だったポオの「大鴉」の翻訳を、マネの石版による挿画6葉をえて、版画社という個人経営の出版社から二折版七ページの豪華本として上梓した。二折版は新聞よりも一回り大きな版型で、製本されていなかったようだから、本というよりは画帖といった方が適切かもしれない。

 定価は中国紙刷が35フラン、オランダ紙刷が25フランだった。同時期にマラルメが編集していたファッション誌『最新流行』が色刷版画つき1.25フラン、版画なし0.5フランだったこと、マラルメの英語教師としての初任給が年俸2400フランだったことを考えあわせると、当時の1フランは今の1000円くらいだろうか。とすると、25フランは2万5000円前後になる。

 豪華本『大鴉』は240部印刷され、現在、60部ほどの現存が確認されている。古書店では1500万円の値段がついているそうであるが、1875年時点ではマラルメはごく一部で知られるだけだったし、マネはお騒がせ画家としての知名度はあったものの、まだ本格的な評価はされていなかった。『大鴉』はたいして売れず、版画社を主宰するレスクリードは刊行の1年半後、破産する破目になる。

 マラルメとマネの『大鴉』は出版史上有名な本だが、1994年にレスクリードの書簡がまとまって発見されたことにより、出版前後のごたごたが詳細に明らかとなった。本書はレスクリード書簡を発見したパッケナムの著書の邦訳に、柏倉康夫氏が長文の解説をくわえて刊行した本である。巻末には『大鴉』の全ページが写真版で掲載されている。

 パッケナムの本はレスクリードの書簡を中心に、マラルメやマネらの返信、新聞雑誌に掲載された広告、書評までを時間順に配列していて、実に興味深い。当時はまだカーボン紙は発明されていなかったが、プレス機で薄葉紙にコピーする技術があり、出版社を経営するレスクリードは自分が出した手紙のコピーをすべて保存していた。残念ながら返信は一部しか残っていないが、それでも経緯はよくわかる。

 レスクリードはスポーツ紙の走りである「挿画入り自転車」新聞を創刊したり、普仏戦争でパリがドイツ軍に包囲されると、飛行船を使ってパリのニュースを地方に届ける「飛行船郵便/包囲されたパリ」を発行したりと、アイデアが次々と湧いてくるタイプの出版人だったらしい。1973年に「版画のパリ」誌を創刊して美術分野に乗りだし、1974年にはシャルル・クロスの『河』をマネの挿画つきの豪華本として出版している。

 ところが『河』はまったく売れなかった。レスクリードは失敗の原因を宣伝不足と総括し、二冊目の豪華本となる『大鴉』では新聞・雑誌に広告を出し、書店にはポスターをくばり、さらに書評を載せてくれそうなところに大量の献本をばらまいた。

 万全の策を講じたはずだったが、レスクリードの思惑通りにはいかなかった。まず、印刷が遅れた。マネは刷りに細かく注文をつけ、刷り直しを要求して高価な紙を無駄にした。マラルメは一度わたした原稿に執拗に直しをいれ、校正を延々と引きのばした。印刷費用がかさんだだけでなく、予告した発行日を延ばさなければなくなり、広告を出し直すことにもなった。

 パッケナムはレスクリードを「善意のかたまり」と評しているが、マラルメとマネの非常識な要求に手紙の文面はしだいに険悪になり、刊行直前の5月27日付マラルメ宛書簡ではついにこんな悲鳴をあげている。

親愛なる詩人殿

 それがどれほどの遅れを私たちにもたらすかは分かりませんが、私は気力を削がれています。
 私は非難の的になっていますし、果てしない遅延に、明らかにうんざりしている多くの書店の罵詈雑言を浴びています。
 この仕事は誠実な契約に基づくものと信じており、あなたにそれを申し上げるのは、こうした凝った出版の場合は、才能の有無以前に、期日を守ることが不可欠だからです。
 私たちはすでに――出版の経費以外に――百から百五十フランの無駄な経費を費やしています。本当に希望がもてる仕事に、これ以上のお金を失わないで済むかどうか疑問に思いはじめています。

 マネとマラルメという完全主義の権化のような芸術家二人とつきあったのが運の尽きである。

 さて書評であるが、一番期待していた「フィガロ」紙にはとうとう載らなかった。多くは義理で誉めてくれたが、辛口の書評を載せるところあった。たとえば、6月5日付の「ル・ゴロワ」紙である。

 マラルメ氏は、「ル・ゴロワ紙」の読者にとってはまったく未知の人というわけではない。数ヶ月前に「高踏派の人々」に関する記事が掲載されたが、氏はこの流派のなかでも最も変わった人物として紹介されていた。よきにつけ悪しきにつけ、評論家から重んじられている人物である。

 マラルメ氏はもちろん英語に堪能で、「大鴉」を字句に出来る限り忠実に翻訳した。ボードレール以来の大変な力業である。まずは詩の第一節の訳をテクスト通りに採録して判断してみよう。

 ……中略……

 確かにこれは字句通りの訳である。それ以上云うことはない。ここにはすべてが訳されている。それは英語というより、米語を忠実に、その技法を含めて写しており、ほとんど電文といったところである。だが、われわれはアメリカ人ではなくフランス人であり、もう少しはっきりと、角を丸めて[訳しても]、この不思議な詩の意味や色合い、とりわけ深い憂愁を損なうことはなかっただろう。マラルメ氏は正確を期そうとして、「ネバー・モア」というこの素晴らしい凋落の感じを、完全に失ってしまったように見える。翻訳は干からびたものになってしまった。

 わたしにはマラルメの訳文を云々する力はないが、やはりという気がしないではない。

 パッケナムの本は『大鴉』刊行から11年後の1886年4月、デュジャルダンの『疲れた人々』の裏表紙に載ったヴァニエ書店の『大鴉』の残部ありますという広告で終わっている。マラルメの文名があがってきたので、どこかに眠っていた『大鴉』の売れ残りが表に出てきたということだろう。

 ポオの「大鴉」は日本でも日夏耿之介の名訳がドレの挿画つきの豪華本で出版されている。三千円くらいの普及版も含めて何種類かの版があるが、現在はどれも絶版である。訳文だけなら『伝奇ノ匣』という文庫本でも読めるが、あの絢爛たるバロック調の日本語は大型本でゆったり読みたい。

→bookwebで購入

『生成するマラルメ』 柏倉康夫 (青土社)

生成するマラルメ →bookwebで購入

 高等中学時代の文学の目覚めから「エロディヤード婚礼」の改稿にとりくんでいるさなかにみまった死まで、マラルメの文学的生涯をたどった評伝である。『ユリイカ』に2002年から26回にわたって連載した原稿が元になっていて、各章は15ページ前後の読みきりになっている。

 著者の柏倉康夫氏は大学でマラルメ研究に手を染めたが、アカデミックな道には進まずNHKで外報部記者として活躍した人である。NHK勤務中も研究を継続し、パリに赴任した際には稀覯本などの資料の収集につとめたという。柏倉氏はこれまでに『マラルメの火曜会』、『マラルメの「大鴉」』などのモノグラフを発表しているが、その成果は本書にとりこまれていてマラルメ研究の総決算となっている。ジャーナリストとして経験をつんだからなのか、高度な内容にもかかわらず文章はきわめて平明で、すらすら読める。マラルメを論じた本で、これだけわかりやすい本は他にないだろう。

 マラルメは孤高の詩人というイメージが強く、ヴァルヴァン行は伝説化している。イメージだけでなく、マラルメが孤独の中で純化した文学理念は今日まで時代を越えた影響をおよぼしている。その一方、マラルメは無類の社交好きであり、ついには地方での安定した教師暮しを捨て、無鉄砲にも友人のいるパリに家族を連れて出てきてしまう。友人の奔走でリセの英語講師の職にありつき、その後正式採用されるが、二人目の子供が生まれようとしている時期にこんな冒険をする一面がマラルメにはあった。

 マラルメは友人に恵まれた。マネとの家族ぐるみのつきあいや象徴派の詩人の梁山泊となった火曜会は有名だが、本書では無名時代からの交友関係が丹念に紹介されている。同時代人に理解されたとはとても言えない難解な作品が日の目を見たのは交友関係のおかげだったし、マラルメの名を一躍知らしめたヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』とユイスマンスの『さかしま』も交友関係の中で書かれたものだった。

 マラルメが孤独と文学仲間との社交を大切にしていたのはその通りだが、そうした面ばかりが注目されるあまり、家庭人としての面は閑却されてきた。本書は最新の研究を参照して、マラルメにも夫であり父である面があったことを描きだしている。自分勝手なところはあったにしても、マラルメは意外に子煩悩であり、息子のアナトールの死に深い打撃を受けた。マラルメは愛息の死を受けいれるために「アナトールの墓」という未完の作品を書いていた。この作品の存在が明らかになったのは1961年だが、晩年の『骰子一擲』につながっているという。

 マラルメは推敲魔だった。校正刷りをなかなか返さないことで悪名高く、中にはマラルメに校正させない出版社まであったほどだ。

 新たな作品を書くよりも、旧作に手をくわえるのにはるかに多くの時間を費やした。マラルメの詩の大半は二十代に原型が書かれており、三十年かけて推敲しつづけたともいえる。マラルメではどのように作品を練りあげていったかという異文研究が重要な意味をもつが、素人にはなかなか近づけなかった。本書では詩は基本的に初出の形態で紹介されており、どのように書き換えられていったかが簡潔に示されている。一部の作品については初出と最終版が対比されている。「罰せられた道化」を見てみよう。まず、初稿。

彼女の眼、――青い朝の光が差し込む美しい睫毛が
植わっているこの湖で泳ぐために
女神よ、私、――あなたの道化である私は、窓を乗り越え
あなたのケンケランプの燻る私たちのあばら家を逃げ出した。

 女性の眼を湖に見立てるというありがちな手法で、繊細な感性が光っているものの、それ以上の魅力はない。23年後、この詩は次のように変貌している。

眼、湖、単なる蘇生の陶酔から、
羽ペンのようにケンケランプの汚れた煤を
身振りによって呼び起こす道化役者の身を忘れ
私は天幕の壁に窓をあけた。

 わかりやすい具象画がイメージが衝突し、映発しあう立体派の絵画に変わったようなもので、これこそマラルメの世界である。

 解釈にあたってはギイ・ミショーとジャン・ピエール・リシャールを参照することが多いが、「半獣神の午後」を論じたみごとな条は著者の独自の見解だろう。

 マラルメに興味のある人はなによりもまず本書をひもとくとよいだろう。こんなに行き届いた、贅沢な入門書があるのだから、今の人は幸せである。

→bookwebで購入

2008年11月29日

『1冊でわかるカフカ』 リッチー・ロバートソン (岩波書店)

1冊でわかるカフカ →bookwebで購入

 2004年に出版された最新のカフカ入門の邦訳である。

 「最新」と断ったのには理由がある。カフカは80年以上前に亡くなっているが、1982年から旧来のブロート版全集とは相当異なる本文を提供する批判版(白水社から刊行中の『カフカ小説全集』はこちらにもとづく)、1997年年からは手稿の写真版を提供するとともに「帳面丸写し主義」に徹した史的批判版という二つの新たな全集の刊行がはじまっている。伝記研究や当時のプラハの状況も解明が進んでいて、従来のカフカ神話の多くが訂正されている。最初の長編小説の題名が『アメリカ』から『失踪者』に変わったことでもわかるように、カフカ像は今なお揺れうごいているのである。

 わたしは一昔前の知識しかもっていなかったので、本書は驚きの連続だった。学生時代にカフカを読んだだけという人はぜひ本書を読むべきだ。

 カフカというと無名のまま死んだ孤立した作家というイメージがある。プラハに住むドイツ語を母語とするユダヤ人というだけでも孤立感があるが、さらにチェコ語の影響を受けた変則的なドイツ語(チェコ・ドイツ語)で書く、ベルリン文壇から無視された地方作家というわけだ。

 ところが本書の第一章によるとカフカは生前から国際的に注目されており、決して無名作家ではなかった。カフカはチェコ語が話せただけではなく、読み書きもできてチェコの文化に親しんでいた。カフカの活躍した前後、プラハ出身のドイツ語作家はリルケを筆頭にベルリンで活躍していたし、カフカの書くドイツ語は完璧な古典ドイツ語だったという。

 カフカの人物について語った第一章につづいて第二章では作品にはいっていくが、ロバートソンは作中に見られる語呂合わせや登場人物の名前の語源調べを「なるほどと思わせる場合であっても、これらのほのめかしは、カフカのテクストを理解するのにほとんど役に立たない」と一蹴している。カフカは個人的にほのめかしを楽しんだかもしれないが、読者はそんなことは理解する必要がないというわけだ。

 第三章は「身体」、第四章は「制度」について入門書の域を越えた立ち入った考察がくわえられているが、特に興味深いのはカフカと宗教の関係を掘りさげた第五章である。カフカが民衆的なユダヤ教から多くを吸収していたことはグレーツィンガーの『カフカとカバラ』に詳しいが、リチャードソンによればカフカは晩年になるにしたがい、ユダヤ教のみならず宗教全般にのめりこんでいった。カフカのキルケゴールに対する関心はブロートのつとに指摘するところだが、リチャードソンはカフカがキルケゴールに注目したのはブロートのいうような深遠な神学的な理由からではなく、自分の同類として支えにしたかったからだとしている。

 1934年の時点で、『審判』の宗教的解釈をめぐって、ベンヤミンとショーレムの間で論争があったというのも興味深い。ショーレムはカフカが描いたのは「神の啓示の光に包まれる世界」だが、そのメッセージが理解できないために成就されない啓示だとしているという。

 本篇も面白いが、「到着の謎」と題された訳者の明星聖子氏による解説はもっと面白い。最初に触れたように、カフカのテキストは旧来のブロート版、1985年に刊行のはじまった批判版、1997年に刊行のはじまった写真版と三つがあるが、明星氏は『城』の冒頭部分を例にその三者がどう違うかを紹介している。

 その違いは恐るべきもので、啞然呆然、眩暈がしてきた。異文がどうのこうのというレベルではなく、そもそも『城』という長編小説が存在したのかどうかさえ不確からしいのだ。カフカ特有の本文問題について、明星氏は『新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト』という本を上梓しているということである。読んでみたくもあるが、読むのが怖くもある。

→bookwebで購入

2008年10月31日

『輝く断片』 シオドア・スタージョン (河出書房新社)

輝く断片 →bookwebで購入

 大森望氏の編纂による日本オリジナル短編集で八編をおさめる。本邦初訳は三編、単行本初収録が一編である。同じ編者の『不思議のひと触れ』はイノセントな作品が中心だったが、こちらは鬼畜系である。スタージョンにはイノセントな面と鬼畜の面の両面があるのだ。

 「取り替え子」は本邦初訳。日本人にはちょっとなじみの薄い取り替え子譚のスタージョン流のアレンジで、グロテスクな赤ん坊が出てくるあたりが鬼畜だ。

 「ミドリザルとの情事」は艶笑SFとして有名な作品だが、男女の結びつきの多様性を訴えた作品と読むこともできる。マッチョ文化に対する嫌悪があからさまなかたちで出ているが、繊細なスタージョンは成人してから下層階級のマッチョ文化の中でもまれ、鬱憤がたまっていたのだろう。

 「旅する巌」は本邦初訳。奇妙な現象の背後に宇宙人がいたというSFだが、ここにもマッチョ文化嫌悪がはっきり出ている。

 「マエストロを殺せ」は『一角獣・多角獣』所載の「死ね、名演奏家、死ね」の新訳。邦題がずいぶん違うが、原題は「Die, Maestro, Die!」で小笠原豊樹訳の方が忠実である。

 冒頭の段落を比較しよう。まず、小笠原訳。

 おれはとうとう一丁のペンチでラッチ・クロフォードを殺した。これがラッチだ。奴のすべて、奴の音楽、奴のジャズ、奴の聴衆、奴のプライド、何もかもおれの掌中にある。文字通り、掌の中にあるのだ。ピンク色がかったナメクジ状のもの。片方の端に角質がくっつき、反対の側には血がくっついている。それが三本。おれはそれを放り上げ、受けとめ、ポケットに収め、ラッチのテーマ音楽だった《ダブー・ダベイ》を口笛で吹きながら、歩み去った。

 次に柳下訳。

 おいらはとうとうラッチ・クロウフォードをボルトクリッパで殺した。こいつがラッチだ――ラッチのすべて、音楽のすべて、ラッチのジャズ、ラッチの摑み、ラッチの誇りがおいらのてのひらに載っている。文字通りおいらの手の中に――三匹のピンク色のなめくじが一方に爪を、一方に血をつけて載ってやがる。そいつを宙に放り上げて、受け止めて、ポケットにおさめて『ダブー・ダベイ』を口笛で吹きながら歩く。こいつはラッチのテーマだった。

 手の上で弄んでいるものが何かが徐々にわかってくるが、いつわかるかというタイミングが訳の巧拙をわける。

 「ニュースの時間です」は自分の存在を確かめようとして狂っていく男の悲劇で、日本で最近頻発する秋葉原事件のような「誰でもいい」殺人と通底しているかもしれない。

 「ルウェリンの犯罪」は「ニュースの時間です」の喜劇版だが、主人公の暴走の背景には弱虫はいけないというマッチョ文化があるだろう。アメリカの猟奇事件はマッチョ文化に疲れた男が犯すのではないかという気がしてくる。

 最後の「輝く断片」は鬼畜小説の傑作で、伊藤典夫氏の練達の翻訳で読める。キングの『ミザリー』と同じパターンだが、もしかしたらキングは「輝く断片」から着想したのかもしれない。『ミザリー』の場合、ミザリーを作家の熱烈なファンの元看護婦にするといった合理化がはかられているが、「輝く断片」の方は合理化一切なしに一気呵成に語られており、緊迫感と不条理感には目を見張るものがある。

→bookwebで購入

『不思議のひと触れ』 シオドア・スタージョン (河出書房新社)

不思議のひと触れ →bookwebで購入

 大森望氏編纂による日本オリジナル短編集で十編をおさめる。早川書房から邦訳の出ていた『奇妙な触れ合い』の新訳かと思ったが、重なっているのは二編だけだ。本邦初訳は三編、単行本初収録が二編で、半分は定評のある作品の新訳だった。

 「高額保険」はスタージョンの処女作だそうである。四頁のショートショートだが、純然たるミステリだ。読者をどう引っかけるかだけがポイントの作品だが、誰しも引っかかってよかったと思うだろう。

 「もう一人のシーリア」はSF怪談の傑作で、『奇妙な触れ合い』にはいっている他、いろいろな形で紹介されている。誰か落語に仕立てないか。

 「影よ、影よ、影の国」は以前、SFマガジンに載ったホラーで、懐かしかった。

 「裏庭の神様」はミダス王ものの佳作だが、かかあ天下の夫婦にひねくれた神様をからませたことでダークな笑いが生まれている。

 「不思議のひと触れ」は「奇妙な触れ合い」の新訳である。人魚の仲介するボーイ・ミーツ・ガールで、読後感が爽やかだ。この作品の strange は「奇妙」と訳すより「不思議」の方があっている。

 「ぶわん・ばっ!」はジャズ小説だが、一種の芸道ものといえる。わたしはジャズはまったくわからないが、この作品を読んで「信じられないような上昇グリッサンド」や頭の「蓋が吹っ飛んだ」瞬間がわかるような気がした。つまり、傑作ということである。

 「タンディの物語」は子供と異星人が接触する話だが、異星人に形がないのが味噌だ。形がないのに「ET」以上に異星人の存在を感じさせる。続篇が読みたかった。

 「閉所愛好症」は内向的でヲタクな兄と、外向的でマッチョな弟の話。弟は『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーそのままのマッチョな宇宙飛行士だが、結末で価値転換がおこなわれる。マッチョ嫌いのスタージョンらしい作品だ。

 「雷と薔薇」はわたしにとって思い出の深い作品だ。はじめて読んだスタージョンがこれだったのである(『SFマガジン傑作選NO.3』にはいっていた小笠原豊樹訳「雷鳴と薔薇」)。原爆症でヒロインの肌から血がにじみ出し、ハンカチでぬぐってもぬぐっても出血が止まらず、「氷を拭いているようだ」というメタファーが脳裏に焼きついている。

 核戦争後の世界を描いた短編で、人類以外の生物にチャンスをあたえるために人知れぬ活動をつづける人々を描くが、30年ぶりに読んでがっかりした。これだけの話だったのか。

 「孤独の円盤」は『一角獣・多角獣』にはいっていた傑作の白石朗による新訳。筒井康隆の「おれに関する噂」と類似のテーマだが、スタージョンが書くとこんなに情感あふれた話になる。小笠原豊樹訳と比較しておこう。まず、小笠原訳。

 わたしは蹴とばすように靴をぬぎ、砕ける波のなかへ走った。大声で叫びながら、ひらめく白いものをつかんだが、それは指に冷たさを残すただの海水だった。わたしは女のすぐ右側に跳びこんだらしい。波に顔を叩かれて、わたしたち二人がころがった拍子に、女の体がわたしの横腹にぶつかった。目をあけると、緑色がかった白い月のようなねじれたものが、わたしの目の前を通りすぎた。と、わたしの足に吸いこむような砂の表面が触れ、わたしの手が女の髪にひっかかった。

 次に白石訳である。

 ぼくは靴を脱ぎ捨てて、みぎわに駆けよった。大声で叫びながら周囲を手でさぐり、ちらりとのぞいた白いものをつかんだが、指がふれたとたん、それは冷たく塩からい海の水に変わった。どうやらぼくは、女の横を飛びすぎてしまったらしい。女の体がぼくの体に真横にぶつかってきて、同時に波がぼくの顔を叩き、ぼくたちふたりの体を転がした。固く感じられる水のなかであえぎ、水面の下で目をひらくと、波に突き転がされるあいまに、薄緑色の歪んだ月が視界を猛烈な速さで横切っていった。つづいて、吸いこむ力をもつ砂を足がふたたびとらえ、右手が女の髪ともつれあった。

 小笠原訳では主人公は姿勢をかろうじてたもち、その目の前をヒロインが波にさらわれていき、「緑色がかった白い月」のように見えたとなっているが、白石訳では主人公はヒロインとともに波にさらわれて転がり、「薄緑色の歪んだ月」が視界を横切ったとなっている。「月」がヒロインの裸身の比喩的表現なのか、文字通りの月なのか、微妙なところである。ヒロインの髪をつかんだ時、主人公の足が砂にめりこんだとすると彼は姿勢をたもっていたことになり、小笠原訳の解釈の方が適切ということになる。原文を見ていないので、結論は出せないが。

 本書はスタージョンのイノセントな面を代表する作品を選んでいるので、鬼畜系のファンにはもの足りないかもしれない。鬼畜を自認する人は『輝く断片』をお勧めする。

→bookwebで購入

『海を失った男』 シオドア・スタージョン (河出文庫)

海を失った男 →bookwebで購入

 若島正氏の編纂による日本オリジナル短編集である。親本は2003年に晶文社から出たが、現在は河出文庫で入手可能。本書の成功のおかげで他の本の出版や復刊が実現したわけで、スタージョン・ルネサンスの端緒を作ったといえる。

 八編をおさめるが、そのうち五編が本邦初訳、一編が単行本初収録である。「ビアンカの手」と「シジジイじゃない」(「めぐりあい」)は小笠原豊樹訳『一角獣・多角獣』で日本に紹介されているが、「ビアンカの手」は若島氏の特に思いいれの高い作品、「シジジイじゃない」は旧訳が省略だらけで原作のおもむきを十分伝えていないという理由で新たに訳されている。

 「ミュージック」は『一角獣・多角獣』に収録されていたが、小笠原訳では抜けていて今回が初訳になる。わずか二頁の作品で、ショートショートというより散文詩に近い。萩原朔太郎の『猫町』にはいっていてもおかしくないかもしれない。

 「ビアンカの手」はスタージョンの代表作であり、あらためて紹介するまでもない。まだ読んでいない人には早くお読みなさいとだけ言っておく。

 今回、若島氏が新訳したわけであるが、どう違うか、同じ箇所を引用しておこう。まず、小笠原訳。

 ごはんをたべさせてもらっているビアンカを、ランは見守る。ビアンカの手は愛らしい貴族のように、決してビアンカにたべものを運ぶことをしない。この美しい二人の寄生虫は、自分たちを支えているずんぐりした体から栄養を吸収するけれども、そのかわりに何かを与えるということは決してしない。一人づつ、皿の両側に横たわり、しずかに脈打っている。ビアンカの母親は、よだれの垂れる大儀そうな口にたべものを運ぶ。

 こちらが若島訳である。

 彼は食べさせてもらっているときのビアンカを眺めた。お洒落な貴族然としている手は、ビアンカに食べさせたりなんかしない。美しい寄生体で、それを支えてくれるずんぐりとした肉体から生き物としての栄養をとり、お返しには何も与えない。皿の両側にぴくぴくしながらじっと控えていて、そのあいだビアンカの母親がよだれを垂らしている無関心な口に食べ物を放り込むのである。

 小笠原訳は手を愛らしく擬人化しているのに対し、若島訳は怪物性を強調しているようである。

 「シジジイじゃない」も両訳を比較しておく。まず、省略が多いという小笠原訳。

 ぼくはしげしげと彼女を見た。彼女はワインカラーのスーツを着て咽喉にマリゴールド色の絹のスカーフを巻きつけていた。その色が頬のあたりのあたたかいオリーブ色と相映じていた。
「きみは素敵だ」適切な言葉を探すのに苦労しながら、ぼくは、ゆっくりと言った。

 同じ箇所が若島訳だとこうなる。

 おれは彼女を見つめた。彼女が着ているのは葡萄酒色のスーツで、喉のところにはキンセンカ色の絹のスカーフがたくしこんである。そこには彼女の顎のあたたかいオリーブ色が映えていた。それを見ていると、おれはまだほんのガキだったころにおばあちゃんが言っていた言葉を思い出した。「さあてと、おまえはバターが好きかな」と言いながら、おれの顎の下にキンポウゲバターカップを差し出して、どれくらいそこに黄色が映えるか見ていたのだ。「きみはいい人だ」おれは必死に言葉を探しながら、ゆっくり言った。

 小笠原訳は不注意ではなく、読みやすくするために確信犯的に省略したのではないかという気がする。省略によって視線が一方向に単純化されているが、若島訳では視線が時間をまたいで交錯しており、世界が重層化している。ただ、この重層化がテーマとどう結びついているかはわからないが。

 「三の法則」はスタージョンの最高傑作『人間以上』につながる短編で、ホモ・ゲシュタルトが音楽のセッションから着想されたことがわかって面白かった。

 「墓読み」は喪の仕事の話である。最愛の妻が浮気相手とおぼしい男といっしょに自動車事故で死んだ。真相をつきとめるために、主人公は墓の読み方を習うという怪奇風味の味つけがしてある。スティーブン・キングがこんな話を書いたら嘘臭くなるが、スタージョンだと心の温かさが伝わってくる。

 「海を失った男」は死にゆく男の意識の流れを記述した作品で、混乱のうちにはじまり、二転三転するが、最後にようやく全体像があきらかになる。フォークナーがSFを書いたらこんな感じになるだろう。主流文学の方でも評価され、権威あるマーサ・フォリー編『Best American Short Stories: 1959』に再録されている。

 なお、アメリカではポール・ウィリアムズによって、厳密な校訂をほどこした『The Complete Stories of Theodore Sturgeon』が刊行中とのこと。没後にきちんとした全集がまとめられるなど、SF作家としては異例である。スタージョンは生前、栄誉に恵まれなかったが、再評価の気運がめぐってきたとすれば、こんなにうれしいことはない。

→bookwebで購入

2008年10月30日

『ヴィーナス・プラスX』 シオドア・スタージョン (国書刊行会)

ヴィーナス・プラスX →bookwebで購入

 うっかりしていたが、ずっと絶版だったスタージョンの本が相次いで復刊され、日本で編まれたオリジナル短編集が四冊も出ていた。ついこの間まで古書店で法外な値段がついていた『スタージョンは健在なり』は『時間のかかる彫刻』と改題して創元SF文庫にはいっていたし、名訳の誉れ高い『一角獣・多角獣』まで復刊していた。

 狂い咲きかもしれないが、スタージョン・ルネサンスとでもいうべき状況が生まれていたのである。その真打は長らく翻訳が待たれていた長編『ヴィーナス・プラスX』の刊行だろう。出版不況の中、よく出してくれたものである。

 スタージョンの長編は短編より読みやすいが、本書もすらすら読めた。原文は未読だが、翻訳の日本語は情感がある。

 物語はウィリアム・モリスの『ユートピアだより』そっくりのはじまり方をする。主人公が目を覚ますと未来の地球にタイムスリップしていて、平和が実現された理想的な社会を観光して歩くという趣向である。

 ただし、未来社会の住人はホモ・サピエンスではなく、レダム人という両性具有の別の人類だ。ホモ・サピエンスは核戦争で滅びてしまったらしい。

 レダム社会見聞録と平行して、作品が書かれた1960年頃のアメリカの日常生活が描かれ、例によってマッチョ文化批判が展開される。スタージョンはアメリカの下層階級のマッチョ文化が嫌いなのだ。

 ユートピアもののまま終わるのかと思ったら、クライマックスで物語は急展開し、実はバイオSFだったことがわかる。ネタバレになるので控えるが、スタージョンがこんなストレートなSFを書いていたのかと驚いた。バイオテクノロジーの進歩は著しいから、現在ではこういう荒っぽい設定は無理だろう。その意味で古びているが、それが生々しい味わいにつながっている。

→bookwebで購入

2007年12月31日

『残骸』 リュシアン・ルバテ (国書刊行会)

残骸 →bookwebで購入

 第二次大戦勃発前後の二年間のフランスを極右の立場から描いた年代記である。執筆したのは極右雑誌「ジュ・スィ・パルトゥ」の編集幹部であり、二十世紀文学の至宝というべき『ふたつの旗』を書いたリュシアン・ルバテである。

 フランスは開戦後、あっけなく敗北して北半分をドイツに占領され、南仏に親ドイツのヴィシー政権がつくられるが、本書はフランス政界と言論界の情けない内情を暴き、痛罵している。「ジュ・スィ・パルトゥ」は右翼指導者シャルル・モーラスが主宰した「アクション・フランセーズ」傘下の雑誌であり、ルバテ自身、「アクション・フランセーズ」の音楽欄でジャーナリストとしての経歴をはじめたが、恩のあるモーラスに対しても内情暴露と容赦のない批判をおこなっている。キワモノといえばキワモノであるが、痛快にはちがいなく、ヒムラーの推薦文つきでドイツ占領下のパリで上梓されるや、たちまちベストセラーになったのも不思議ではない。ルバテはナチスに協力したのみならず、フランス右翼の精神的支柱だったモーラスのボケ老人ぶりを暴露したために、右翼の間でも呪われた人物になっているという。

 日本の右翼はアメリカとの関係でねじれているが、フランスの右翼もドイツとの関係では相当ねじれている。日本の右翼はもともとは反米だったが、アメリカ軍占領下でほとんどが親米に転向する。軸となったのは反共イデオロギーである。反共という共通点を大義名分に、右翼はアメリカ軍への協力を正当化したのである。

 フランスの右翼にも似たような事情があった。フランス右翼はもともとドイツに対する敵愾心が根強く、イタリアやスペインと結んでドイツの汎ゲルマン主義に対抗しようという方向性をもっていた。ルバテも例外ではなく、ムッソリーニの支持のもとにフランスでファシスト革命を起こし、イタリアとともにドイツに対抗しようとしていた。しかし、開戦一ヶ月であっけなくドイツの軍門にくだると、反ユダヤ主義を口実に親ドイツに転向する動きが出てきた。もっとも対独協力には温度差があり、中にはレジスタンスに参加する右翼もいた。

 ルバテは異色である。彼はフランスがドイツに敗れる前から、ドイツとの連繋を説いていたからだ。彼は反ユダヤ主義においてはナチス以上に過激であり、そのためにフランス解放後、死刑判決を下されることになる。

 本書の巻末に収録された「日曜日に銃殺はない」は恩赦後に発表された獄中記である。死刑判決を受け未決房から死刑囚の房に移された日から、減刑されて一般房に移るまでの140日間が描かれている。獄中記はおもしろいものが多いが、本篇も例外ではない。

 死刑囚の待遇は未決囚とは較べものにならないくらい厳しかった。就寝中も含めて足に鎖を24時間つけていなければならないし、一日の最後の点検時には上着とズボンを没収された。独房の中は霜が降りるほど寒く、春になって気温が上がると結露がはなはだしく、蒲団がびしょぬれになった。

 ルバテは弁護士から看守まで、みな減刑されるからと請け合ってくれたし、妻の尽力で多くの作家が、本書で罵倒された作家も含めて、減刑嘆願書を書いてくれたが、同じ罪で死刑判決を受けたロベール・ブラジャックは銃殺されており、安心できる状況にはなかった。特に第四共和政成立後、最初の司法評議会が開かれた後の二日間は銃殺を覚悟していた。

 ルバテは終身刑に減刑後、5年服役して恩赦で釈放されるが、その間に『ふたつの旗』を完成させている。

 『ふたつの旗』は文庫本に換算すると2000ページを越える大長編だが、出来事らしい出来事はほとんど起こらず、ケータイ小説流の書き方なら50ページかそこらでおさまってしまうだろう。あのような超時代的な小説を苛烈な現代史の当事者が書いたとは本当に驚きである。

→bookwebで購入

『ふたつの旗』 リュシアン・ルバテ (国書刊行会)

ふたつの旗 上
→『ふたつの旗〈上〉』を購入
ふたつの旗 下
→『ふたつの旗〈下〉』を購入

 『ふたつの旗』という作品もリュシアン・ルバテという作家も日本ではほとんど知られていないが、これはフランス最高の教養人によって書かれた至高の恋愛小説である。

 知られていないのには理由がある。作者のルバテは筋金入りの反ユダヤ主義者であり、ドイツ占領下のフランスでヒトラー讃美とユダヤ人告発の論陣を張った極右ジャーナリストだったからだ。ドイツ軍がフランスから撤退すると、ルバテは他の対独協力者とともにドイツに逃れるが、後に逮捕、死刑判決を下され、1952年に恩赦で釈放されるまで獄につながれていた。『ふたつの旗』はその獄中で完成されたのである。フランスではルバテは呪われた名前であり、文学事典の類では長らく存在が抹殺されてきた。

 日本でも敗戦後、軍国主義に協力した文学者が排撃されたが、ルバテの場合、協力した相手がナチスだけに庶民の間でも反感が根深いらしい。あえてたとえれば、オウム真理教の死刑宣告を受けた幹部のようなものか。

 わたしはこの作品を学生時代、ジョージ・スタイナーの「屠殺の使嗾」(『脱領域の知性』と『言語と沈黙』に収録)で知った。スタイナーはユダヤ系の批評家であり、両親を強制収容所で殺されているが、ユダヤ人狩りに積極的に加担した作家の作品を「創造力が成し遂げた不滅の業績」と評し、ヒロインのアンヌ=マリーを『戦争と平和』のナターシャに匹敵するとまで絶賛しているのである。

 ずっと読みたいと思ってきたが、二段組で上下二巻1500ページ近い大冊なのでなかなかとりかかれなかった。今回、ようやく読むことをえたが、確かにこれは二十世紀を代表する傑作の一つである。スタイナーの絶賛は決して過褒ではない。一部でいわれているような政治的底意のある発言でもないだろう。

 ただ、長い上に、反時代的というか、アナクロニズムというか、十九世紀の大小説の形式をあえて踏襲して書かれているので、調子が出てくるまで時間がかかる。

 物語は一方の主人公、ミシェル・クローズの寄宿学校時代からはじまる。ミシェルは修道会の経営する学校の厳格な教育ですっかりカトリック嫌いになり、卒業後、リヨンに出て法律の勉強をはじめる。公証人である父の仕事を継ぐには法学をおさめる必要があるが、法律は性に合わないと早々に放棄し、親友のギョームの後を追って憧れのパリに出て、ソルボンヌで哲学の勉強をはじめる。仕送りは一年限りという約束だったので、二年目からは修道会の学校の住み込みの復習教師になり学業をつづける。

 クリスマス休暇で帰郷したミシェルはパリにもどる途中リヨンでレジスという遠縁の青年と再会する。ミシェルはレジスの音楽の才能は認めていたものの、田舎者と見下していたが、兵役を終えたらイエズス会で出家し、修道士となるという決意を打ちあけられ愕然とする。しかもレジスにはアンヌ=マリーという恋人がいたが、彼女も彼の感化で信仰を深めており、彼が出家したら彼女も出家し、修道尼となることを承知しているという。ミシェルはアンヌ=マリーに引きあわされるが、出家志願とはとても思えない溌剌とした姿に一目惚れしてしまう。

 ヒロインのアンヌ=マリーが登場するまで130ページ(今の文庫本なら200ページ相当)かかっているのである。つづく130ページはパリにもどったミシェルがアンヌ=マリーに対する片恋で悶々とする描写に費やされる。この合計260ページ――通常の小説一冊分の分量――を読みとおすのはつらいが、「ケルビーノの夜」と題された章までくれば、あとは一気呵成に読める。

 ケルビーノとは『フィガロの結婚』のケルビーノである。ミシェルは一人でパリに遊びに来たレジスをもてなし、最後の夜に大枚はたいて手にいれたチケットでベルリン・フィルの『フィガロの結婚』を見にいく。すばらしい演奏と可憐なケルビーノに気分の高揚したミシェルはアンヌ=マリーに会いたくてたまらなくなり、仕事を放りだしてレジスとともにリヨン行きの特急に乗ってしまう。

 ミシェルにとってレジスはギョーム以上に重要な存在となり、彼の生活すべてがレジストアンヌ=マリーを中心とするようになる。それを象徴するのがミシェルが妹とギョームの結婚を邪魔するエピソードだ。世俗的に考えればこの結婚にはなんの問題もないが、ミシェルはレジスにいわれるまま二人の仲を裂いてしまう。恋愛中も享楽生活をつづける世俗の知恵の代表者というべきギョームはミシェルに失望し離れていく。

 ミシェルはその後もパリとリヨンの間を往復するが、ついにアンヌ=マリーに引かれるあまり、学業を放棄してリヨンに移ってくる。ミシェルは信仰の仮面をかぶって彼女を誘惑しようとし、彼女もしだいに官能の世界に目覚めていくが、驚くべきことに禁欲は守ったままだ。息づまるような心理的駆引が展開されるが、それは今にも破裂しそうな禁欲の圧力の下の駆引だ。プラトニックラブとはこんなにも猥褻で残酷なものだったのだ。最後の最後に禁欲が破られる時、小説は新しい次元の精神性を暗示して終わる。

 この小説は決して信仰告白をおこなっているわけではなく、ましてカトリック小説であるはずもないが、信仰と禁欲によって開かれる精神の生活の深さ、恐ろしさをあますところなく描いている。精神生活への傾倒は世俗生活への嫌悪と表裏していて、オウム真理教信者の幼稚な出家志向と無関係とはいいきれないだろう。

 スタイナーはアンヌ=マリーを『戦争と平和』のナターシャにたとえたが、彼女はナターシャのような深窓の令嬢ではない。ケルビーノを演じる女優のような色気がある一方で生活力旺盛であり、恋愛においては相当な悪女である。ミシェルやレジスのような男は現代にはいないかもしれないが、アンヌ=マリーのような女性なら新橋の立ち飲みにあらわれてもおかしくない。『ふたつの旗』はあえて古風な意匠を選んでいるが、アンヌ=マリーを通してこれから来る時代につながっているのかもしれない。

→ 『ふたつの旗』〈上〉
→ 『ふたつの旗』〈下〉

2007年09月30日

『高い城・文学エッセイ』 スタニスワフ・レム (国書刊行会)

高い城・文学エッセイ →bookwebで購入

 レムの自伝『高い城』に10編のエッセイをくわえた本で、「レム・コレクション」独自の編集である。

 まず『高い城』だが、自伝といってもギムナジュウムまでで、普通の自伝を期待すると肩すかしをくらわされる(普通の自伝を読みたい人にはエッセイ編におさめられている「偶然と秩序の間で」が用意されている)。

 しかも、時代的背景はいっさい無視して、もっぱらオモチャ中心に子供時代の思い出を語っているのである。科学者にして強靭な思索家というレムのイメージからはかけ離れた内容だが、分解魔として物に固着するあたり、レムらしいといえばいえる。

 物に固着した書き方はナボコフの自伝『記憶よ、語れ』に一脈通じるところがある。両者とも裕福な家庭に生まれ、ハイカラな物に囲まれて育った点が共通する。

 裕福とはいっても、レムの父親は耳鼻咽喉科の町医者であり、家も六部屋のアパートメントで、ナボコフのような大邸宅に住む貴族とは違うし、レムは普通に学校に通って友人を作っている。しかし、人間よりも物に親近感を感じているのは明白であって、そのあたりナボコフと似ているのである。十歳の頃の恋に固着している点もナボコフ的といえるかもしれない。

 エッセイ編は最初に自伝的エッセイ「偶然と秩序の間で」が置かれ、次に文学理論を語った「SFの構造分析」など3編がつづき、その後に「ドストエフスキーに遺憾なく」以下の作家論がならんでいる。

 「偶然と秩序の間で」は40頁ほどの長さだが、子供時代から作家時代までをカバーし、同時代の作家とのつかいにもふれていて、『高い城』にフラストレーションを感じた人も満足できる内容になっている。

 「SFの構造分析」以下の理論的なエッセイはつまらない。フランス構造主義を意識しているが、「構造」という言葉を自然科学でいう「構造」と混同しているのではないか。トドロフ批判もあるが、トドロフはただの分類屋にすぎず、構造主義の代表者ではない。

 作家論はどれもおもしろい。ドストエフスキー論とウェルズ論とボルヘス論はあまり中味がないが、先達者として深く敬愛していることは伝わってくる。

 「ロリータ、あるいはスタヴローギンとベアトリーチェ」というナボコフ論は一番意外な文章だった。ナボコフはドストエフスキー嫌いで有名だが、こともあろうにそのナボコフをドストエフスキーを引きあいに出して、屈折した褒め方をしているのである。レムは10歳の時の失恋体験をハンバート・ハンバートに投影しているふしがある。レムとナボコフという組みあわせは意外だが、『高い城』を読んだ後では、それもありかなと思う。

 ストルガツキー兄弟の『ストーカー』論は手離しに褒めすぎていて、眉に唾をつけたくなる。

 一方、「フィリップ・K・ディック――にせ者たちに取り巻かれた幻視者」というディック論は嫉妬がちらちらしていて、高く買っていることがよくわかる。

→bookwebで購入

『大失敗』 スタニスワフ・レム (国書刊行会)

大失敗 →bookwebで購入

 昨年亡くなったレムの最後の長編小説である。1986年に発表されていたが、原著出版21年たった今年、邦訳がやっと出た。

 後期レムはメタ・フィクションに傾いていたが、この作品はばりばりのハードSFであり、あふれんばかりのアイデアを盛りこんでいる。

 最初の章ではタイタンに着陸した宇宙飛行士が孤立した鉱山を救うために、モビルスーツに乗りこんで雪原を一人疾駆するが、間欠泉地帯で事故に遭い、あえなく死んでしまう。繁茂する樹木のように降り積もっていく雪の描写が幻想的だ。並のSF作家だったら、この章の材料だけで長編を一冊書くところだ。

 次の章では舞台は恒星間宇宙船に移り、一度死んだ宇宙飛行士が蘇生術を受けて甦える。宇宙船はタイタンの軌道上で建造され、他の文明を探す旅に出るが、太陽系脱出速度に加速する際にはタイタンを燃やしてブースターにしている。このあたりの技術考証はレムである。

 冷凍状態の死体が甦えり、今浦島になるという設定はクラークの『3001年終局への旅』を思わせるが、『3001年』の発表は『大失敗』の10年後だから、影響関係があるとすればクラークの方が影響を受けたのである。

 『3001年』のプール飛行士はあっさり蘇生したが、『大失敗』の方は瞬間凍結(ガラス化)の際に顔が滅茶苦茶になり、解凍の際には記憶を失っている。顔と記憶を失うということはアイデンティティを失うことであり、これだけで長編小説が書けるほどの大きなテーマである。

 恒星間飛行の場合、相対性理論による時間の壁が問題になるが、レムはブラックホール近傍の時空の歪みを利用した時間遡行によってこの問題を解決している。ランドルズの『タイムマシン開発競争に挑んだ物理学者たち』によると、1980年代にはいってからブラックホールを利用した時間移動の理論研究が盛んになったということだが、レムは最新の動向を押さえていたわけである。ブラックホールという言葉がなかった時代から、ブラックホールを小説に使っていたレムだけのことはある。

 ハードSFファンをうならせる密度の濃い内容がつづくが、目標のクウィンタ星に到達するや、エドモンド・ハミルトンも顔色をなくすような大技が次々とくりだされる。最初はたった一隻の宇宙船にこんなことができるのかと思ったが、恒星間飛行が可能な技術があれば、衛星を粉微塵にし大陸をふきとばすくらいのエネルギーをコントロールできて当たり前なのだ。

 地球から派遣されたヘルメス号はクウィンタ星人との接触をはかるが、ことごとく無視され、最後まで姿を見せない。なぜそこまで徹底的に隠れるのか。最後はほとんどカフカ的な様相を帯びてくる。

 ここで思いだすのはレムの処女作『金星応答なし』である。金星人たちも探検隊の呼びかけにまったく答えず、最近、DEFAからDVD化されたメーツィヒ監督による映画は "Silent Star" と題されたくらいだ。レムはその後、『ソラリス』と『砂漠の惑星』で人間とは接点をもちえない生命との接触を、『エデン』ではゾンビ化した文明を描いたが、『大失敗』で再び人類に近いレベルの文明との出会いを描いた。なまじ近いがために戦いになる。晩年のレムは絶望していたのだろうか。

→bookwebで購入

2007年09月29日

『ソラリス』 スタニスワフ・レム (国書刊行会)

ソラリス →bookwebで購入

 スタニスワフ・レムの『ソラリス』はSFのみならず、20世紀文学の古典といっていいが、沼野充義氏によるポーランド語原著からのはじめての直接訳が2004年に国書刊行会の「レム・コレクション」の一冊として出版された。

 この作品がはじめて日本語になったのは1965年のことだった。早川SFシリーズから出た飯田規和訳で、『ソラリスの陽のもとに』という題名で親しまれた。わたし自身、飯田訳によってこの作品を知った。日本語としてこなれた文学性ゆたかな訳文で、現在も文庫で入手可能だが、ロシア語からの重訳という根本的な問題があった。

 飯田訳が底本としたロシア語訳にかなり欠文があるという話はSFファンの間では早くからささやかれていたが、原著がポーランド語という容易に接近できない言語だったために、しだいに尾鰭がついていった。タルコフスキーの映画が公開された頃には原著は邦訳の倍以上の長さがあるという噂まで流れていた。その後、沼野氏による『金星応答なし』のポーランド語訳が出て、ドイツ語からの重訳が 1/3も削られていたことがわかり、噂を補強する結果となった。しかし、今回の沼野訳によって欠文は400字詰原稿用紙換算で40枚(全体の7%)ほどだったということがはっきりした。

 7%の欠落は無視できない分量だが、原著は倍以上あるというデマにやきもきしていたことからいえば、意外に正確だったという印象になる。せっかく新訳が出たのに、3年間積ん読をつづけた理由である。

 さて、レムの最後の長編小説『大失敗』が「レム・コレクション」にはいったのを機に、沼野訳で読みなおし、飯田訳との相違点を確認してみることにした。

 まず、どこが欠文になっているかだが、不注意の脱落を除くと、ソラリス学の部分に集中していた。たとえば、飯田訳192頁に

<対象物>とはどういうものであるかが一目見ただけでわかるような模型をつくり出そうという努力も精一杯なされた。しかし、いずれにしろ、成果と言いうるようなものは何も得られなかった(下線、引用者)。

とあるが、ポーランド語原著には下線部分はなく、代わりに邦訳にして8頁分の記述(197~204頁)がつづいていた。脱落部分の最初を引いておく。

 対称体のことが一目でわかるような、手ごろな模型モデルを考案しようとする試みにもこと欠かなかった。その中ではアヴェリアンの例がかなり広く知られるようになった。彼はこんなふうに説明したのだ。はるか昔の、バビロニアが栄華をきわめた時代の地球の建築物を思い描いてみよう。しかも、それは生きていて、刺激に敏感で、進化する物質からできていると考えよう。その建築術は滑らかに一連の段階を経てゆき、、私たちの目の前でギリシャからローマの建築様式を選び取り、それから円柱が草の茎のようにほっそりとし、丸屋根が重さを失う。そして丸屋根は姿をかき消してどんどん尖り、アーチは切り立った放物線に変容し、頂点でぽきんと折れてすらりとそびえ立つ。……

 ソラリスの海の原形質が仮に形をとったオブジェを生きた建築に見立てる記述が延々とつづくが、それをロシア語訳者は「成果と言いうるようなものは何も得られなかった」という文に要約していたのである。こうした架空の学問の蘊蓄は作品の重要な要素だが、ストーリーを楽しみたいだけの読者には邪魔になる。適当なところではしょろうということだったのかもしれない。

 その一方、沼野氏はイデオロギー上の理由によって検閲がおこなわれていたことも指摘している。

 最初のロシア語訳が出た1962年はスターリン批判後の「雪解け」の時期にあたり、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が世に出るなど文芸界に新風が吹いたが、検閲は依然としてつづいていた。1976年になってようやく完全なロシア語訳が出たことからいっても検閲で削除された部分があるのは間違いないが、日本の感覚からするとどこが該当部分なのかわからない。「神」という言葉自体がタブーだったということらしい。

 欠文とは別に、重訳という二重のフィルターを通したことによる歪みが随所に見られる。たとえば、ソラリスの海の不可解さを述べた部分。まず。飯田訳。

 一方、ソラリスに関するありとあらゆる文献を熱心に読みふけっている者たちは、その海が知的な存在であるとはいうものの、なんらの秩序ももちあわせない気違いじみた生物ではないかという印象をますます深くしていた。そこから、<賢者の海>という概念のアンチテーゼとして<悪魔の海>という考えが生まれた。

 「賢者」と「悪魔」という対立概念は、沼野訳ではこうなる。

他方、ありとあらゆるソラリス関係文献ソラリアナに食い入るように読みふけっているうちに、人はこんな印象を禁じえなかった――自分が相手にしているのは、確かに知的な、ひょっとしたら天才的な構築物の断片なのかもしれないが、そこには狂気すれすれの、手のつけられない愚かさの産物が支離滅裂に混ざっている。そのため、「ヨガ行者の海」という概念に対するアンチテーゼとして、「白痴の海」という考えが生まれたのだった。

 旧訳を鵜呑みにしてレムはソラリスを「悪魔」とみなしていたと考えたら間違いをおかすことになる。レムはソラリスに善悪の概念がはいりこまないように細心の注意をはらっていたのである。

 沼野訳を読んでいくとレムの思考の緻密さがよくわかる。レムを論じるには沼野訳を基礎としなければならないが、思弁的な部分以外では、飯田訳にも捨てがたい味わいがある。

 ハリーが自殺する直前の条を、まず沼野訳で引用する。

今日のハリーは何をやるにもいつもと違うふうだったが、それがどんな違いかはうまく説明できない。周囲をじっと見つめ、私が話しかけても上の空のとが多く、突然、何かを見つめた。一度、彼女が顔を上げたとき、その目がガラスのようにきらきらと光っているのが見えた。
「どうしたんだい?」私は声を低めて、囁いた。「泣いているの?」
「ほっておいてちょうだい。どうせ本物の涙じゃないんだから」口ごもりながら、彼女は言った。

 同じ箇所が飯田訳ではこうなる。

この日のハリーはいつもと様子がちがっていた。しかしどこがちがっているかははっきり言えなかった。ハリーはしじゅうあたりを見まわしていて、いくら私が話しかけても、まるで物思いに沈んでいるように、聞いていないことのほうが多かった。とかくするうちに、彼女がふと頭をあげたひょうしに、その目がきらりと輝いたのを私は見逃さなかった。
「どうしたんだい?」私はささやくように声を低めてたずねた。「泣いているの?」
「ちがうわ、気にしないで、本当の涙なんかじゃないわ」ハリーは言葉をにごした。

 沼野訳のハリーは気の強い女性が一時的に鬱におちいっているという感じだが、飯田訳のハリーは嫋々として、最初から憂愁の色をたたえている。タルコフスキーのハリーは飯田訳の印象に近いと思う。

 両訳を読みくらべてみて、飯田訳とタルコフスキーの映画との親近性を感じた。ロシア語訳に原因があるのかどうかはわからないが、ロシア・インテリゲンチャのデカダンスが濃厚に反映しているようなのである。

 一方、沼野訳を読むと、レムがタルコフスキーに激怒した理由がよくわかる。水と油というか、タルコフスキーとは肌あいがまったく違うのだ。レムはロシア・インテリゲンチャの思いいれなんか勝手にいれないでくれと叫びたかったのではあるまいか。

→bookwebで購入

2006年12月28日

『ソドムの百二十日』 サド侯爵 (青土社)

ソドムの百二十日 →bookwebで購入

 サドの未完の大作で、四人の道楽者リベルタンがそれぞれの妻と、選りすぐりの美少女8人、美少年8人、海千山千の娼婦あがりの語り女4人、巨根が売りの馬蔵4人をともなって山奥の城に閉じこもり、11月1日から2月28日までの4ヶ月間、ありとあらゆる変態行為に明け暮れるという話である。四人の道楽者は表の社会では裕福な名士だが、裏では実の娘と近親相姦していて、その娘を互いの妻とすることで結束を固めている。

 外界から遮断された館の中で語り女がエロチックな体験談を披露するという趣向は『デカメロン』に通ずるが、この作品では体験談に触発されて道楽者が美少女、美少年、他の道楽者の実の娘でもある妻をあの手この手で嬲りものにしていく。48手どころか480手、いや4800手くらい出てくるかもしれない。

 四人の道楽者のうち、精力絶倫で巨根なのはブランジ公爵だけで、あとの三人は精力が衰えており、逸物も小さい。その代わり想像力は極限まで肥大していて、腋臭フェチ、汗フェチ、おならフェチ、尿フェチ……と、考えられるありとあらゆる変態行為が登場する。

 サドはバスティーユ監獄でこの作品を書いたが、フランス革命の発端となったバスティーユ襲撃時に他の原稿と一緒に行方がわからなくなってしまった。この作品は長さ12mの巻紙に書かれていたので、サドの死後、奇跡的に発見され、20世紀になって刊行されるという数奇な運命をたどっている(詳しくは澁澤龍彥『サド侯爵の生涯』参照)。

 作品は準備段階を描いた序文と、11月から2月までの各月を描いた1~4部にわかれるが、きちんと書きこまれているのは序文と最初の1ヶ月をあつかった第1部だけで、2~4部は粗筋の間にメモがはさまっているといった体裁である。本訳書でいえば序文65頁、第1部252頁に対して、第2部26頁、第3部27頁、第4部52頁にすぎないし、辻褄のあわない記述も散見する。バスティーユ襲撃で原稿を失わなかったら、サドは首尾ととのった作品に仕上げていた可能性が高い。

 いわば建設途中の大聖堂だが、序文と第1部だけでも倒錯の百科全書というべき威容を誇っている。

 この作品は1962年に澁澤龍彦彥が桃源社の『マルキ・ド・サド選集』でいちはやく紹介しているが、序文だけの翻訳だった。澁澤訳はさまざまな形で版を重ねており、現在でも文庫で入手できるが、序文だけの翻訳であることは変わらない。完訳は今回紹介する佐藤晴夫訳だけである。

 澁澤はサドを翻訳するにあたり身も蓋もない訳語は避け、「玉門」、「裏門」、「気を遣る」など、春本の語彙を使って雅文体を作りあげた。佐藤訳は基本的に雅文体を踏襲しているが、「強蔵」を「馬蔵」、「腎水」を「精水」のように変え、現代語に若干近づいている。

 同じくだりを比較してみよう。まず、澁澤訳。

 ジュリイの妹で、実は司教の娘であるアリイヌは、習慣においても、性格においても、欠点においても、その姉とはまるきり違っていた。

 四人のなかではいちばん若く、まだやっと十八歳だった。すねた子供のような、みずみずしい色気をそそる小さな顔の娘で、天上を向いた可愛らしい鼻と、表情に富んだ生き生きとした栗色の眼と、愛敬のある口と、あまり大きくはないが、肉づきのよい均整のとれた体と、小麦色の、ふっくらした美しい肌と、やや大きいけれども、格好のよい臀部と、道楽者の目にこの上ない肉感をそそる左右の尻と、栗色の毛におおわれた小丘と、やや下つきの、いわゆるイギリス型と称する玉門の持主だった。けれどもその陰谷は実に狭くて、集会の際に検分してみたところ、まぎれもなく処女であった。作者が現在この章を書いている当時、処女であったというので、やがてその初物がいかにして破毀されたかは後刻に述べる。

 佐藤訳ではこうなる。

 公爵の妹娘で、実は司教の娘であったアリーヌは習慣も性格も欠点も全く姉とは違っていました。四人の娘の中で一番若く、一八歳になったばかりでした。刺激的で新鮮で、腕白っ子のような小さな顔立ち、上を向いた可愛い鼻、生き生きとして表情に富んだ栗色の目、魅力的な口、やや肉付きがよいけれども均整の取れた身体、やや麦色で、手触りのよい美しい皮膚、放蕩者の目をそそるこの上もない官能的なお尻、大きめですが形のよく整った裏門、そして、栗色の毛に覆われた小丘、世間ではイギリス型と呼んでいる、少し下付きの、極めて狭い玉門の持ち主でした。今私がこの物語を書きかけているとき、すなわち、道楽者達の集会に身を曝すようになるときまでは、彼女の玉門は完全に生娘の状態でした。この初物がどのようにして破られたかは後ほどおわかりになるでしょう。

 「ですます」調なので、童話的な味わいがくわわる。澁澤の名調子のファンには物足りないかもしれないが、若い読者には佐藤訳の方が読みやすいだろう。

 澁澤訳はこれからというところで終わっていた。佐藤訳の存在は出た直後から知っていたが、サドの完全版は退屈と聞いていたので、今日まで読まずにきてしまった。今回読んでみて、退屈どころか、おもしろかった。ある意味でワンパターンの繰りかえしなのだが、消えかけた欲望の火をなんとか燃えたたせようとする必死さが緊張感を持続させているのだ。序文だけではサドの涙ぐましいばかりの格闘が見えない。人生の下り坂を自覚した哀しくも滑稽なサドを知るには完訳を読む必要がある。

→bookwebで購入

2006年09月28日

『ベータ2のバラッド』 ディレイニー (国書刊行会)

ベータ2のバラッド →bookwebで購入

 若島正氏の編纂したニューウェーブSFのアンソロジーで、6編中4編が本邦初訳である。既訳2編はニューウェーブ紹介に尽力した伊藤典夫氏と浅倉久志氏の手になるもので、先達に仁義を切ったというところか。

 6編中5編はおもしろく充実したアンソロジーだと思うが、書評の対象とするとなると困ってしまう。表題作の「ベータ2のバラッド」が駄作なのである。

 「ベータ2のバラッド」は『千の太陽の都』三部作の後に書かれたディレイニー23歳の時の中編で、俗謡の謎解きという趣向が翌年書かれた傑作『バベル17』につながるといえないことはないが、どうにも褒めようのない凡作である。

 学生時代英語で読みさっぱりおもしろくなかったので英語力が足りないのかと不安に思ったが、今回日本語で読んでやはりゴミだと確認できたのは収穫だった。

(ついでながら『千の太陽の都』三部作がいまだに未訳であることを知った。某S社が版権をとり、伊藤氏が担当されていると聞いたのは30年前だったか。)

 キース・ロバーツの「降誕祭前夜」はロバーツ得意の歴史改変もので、こちらの英国ではチャーチル政権が労働者の暴動で倒れて親ナチ政権が成立し、ドイツと連合帝国を形成している。世紀の恋で退位したエドワード八世の統治(再即位?)がつづいているなど、にやりとさせる記述が随所にある。主人公は英国とナチス・ドイツの連絡担当大臣の秘書官だが、自由戦線というレジスタンス運動にはめられ、どんでん返しにつぐどんでん返しで結末になだれこんでいく。

 ハーラン・エリスンの「プリティ・マギー・マネーアイズ」はスロットマシンをやっている最中に突然死した娼婦の霊がスロットマシンにとりつき、ホームレスの男に大当たりさせるという人情噺をニューウェーブ調というかアメコミ風の文体で書いた佳作。

 ニューウェーブは前衛文学の影響を受けているといわれていたが、アメリカの作品に関する限りテーマ的にもスタイル的にもアメコミの影響を濃厚に感じる。そもそもディレイニー以外のアメリカのニューウェーブ系の作家は前衛文学なんか読んでいなかったのではないか。

 リチャード・カウパーの「ハートフォード手稿」は正統的英国SFの傑作だが、ブッキッシュな趣向がニューウェーブ的といえないことはない。主人公は古書商をいとなんでいた大伯母から17世紀の古文書を相続するが、その一部に時間旅行者が書いたとおぼしい手稿が綴じこまれていたという設定である。それだけだったらどうということはないが、手稿の筆者がウェルズの『タイムマシン』の主人公のモデルとなった人物だったという仕掛けが卓抜だ。

 モーロック族のもとから逃れる際、時間旅行の駆動装置となる水晶が破損したために17世紀に不時着する。タイムマシンを修理するためにロンドンに出るが、大火災前のペストが猖獗を極めている時期にぶつかってしまう。

 『タイムマシン』の主人公にモデルがいたというのはおそらくカウパーの創作だが、『タイムマシン』の初稿である「時の探検者たち」を持ちだしたことで俄然リアリティが生まれている。

 本書の最後におさめられているのはその「時の探検者たち」である。『タイムマシン』は1895年刊行だが、「時の探検者たち」はその7年前の1888年に当時ウェルズが勤めていた学校の学内誌「サイエンス・スクール・ジャーナル」に発表されている。

 意外なことに「時の探検者たち」は『タイムマシン』とは似ても似つかぬホラー小説だった。こういう作品を読むと、SFのルーツは『フランケンシュタイン』だというオールディスの説が説得力をもってくる。

 ウェルズは『タイムマシン』の定稿を得るまでに七回書き直したというが、SFはこの七回の改稿のどこかに誕生したのだ。改稿の過程を研究した本があったら読んでみたい。

→bookwebで購入

2006年09月27日

『ノヴァ』 ディレイニー (早川SF文庫)

ノヴァ →bookwebで購入

 ハヤカワ名作セレクションの一冊としてディレイニーの『ノヴァ』が再刊された。『ノヴァ』は40年近く前の作品だが、依然として現代SFの最高峰といってよく、古典として長く読みつがれることになるだろう。

 『ノヴァ』は『白鯨』を下敷きにしたスペース・オペラである。石油の採掘技術が確立するまで鯨油は重要なエネルギー源であり、捕鯨産業は現在の石油産業のような位置をしめていたが、『ノヴァ』の舞台となる32世紀の未来社会では超新星の中で生まれるイリュリオンという物質がエネルギー源となっており、主人公のローク・フォン・レイは鯨ならぬ超新星を追って宇宙を飛びまわっている。

 エイハブ船長の敵は悪の化身というべき巨大な白い鯨だったが、ロークの敵はプリンスとルビーという邪悪な兄妹だ。プリンスとルビーは地球を中心とする古い星域を支配するレッド一族の継承者で、新しく植民した星域を支配するロークの一族と対立していた。超新星から大量のイリュリオンを採取できれば両者の力関係は逆転することになる。超新星を探す航海は銀河の覇権をめぐる戦いでもあったのである。

 『ノヴァ』が刊行されたのは1968年だが、確かその年の内に「SFマガジン」の連載コラム「SFスキャナー」で伊藤氏がニューウェーブの代表作と熱っぽく紹介した。なかなか邦訳が出ないので、ペーパーバックを見つけて読み、夜の闇の陶酔に夢中になったものだった。

 邦訳が出たのは原著刊行の20年後、1988年のことである。完璧主義者の伊藤氏が手がけた以上、これくらいかかるのは仕方のないことで、ディレイニーのもう一つの代表作『アインシュタイン交点』の翻訳が出たのは原著出版の29年後の1996年である(この時、伊藤氏にお願いしたインタビューが拙サイトにあるので、興味のある方は読んでいただきたい)。

 この小説は他愛のない表面の物語の裏に大変な意味を隠した難解な小説という評判が邦訳前から広まっているが、一つのことに気がつけば実にシンプルな作品だということがわかる。

 それは折り返し構造だ。真ん中に出てくるタロット占いによる絵解きの場面を境にシンメトリックに前半と後半にわかれ、前半では外側から想像するしかなかった出来事を後半でみずから経験するという対称構造になっているのである。

 たとえば冒頭でダンという盲目の狂人があらわれ、『白鯨』の老水夫よろしく航海の不吉な前途を予言するが、これは最後のロークとクルーたちの場面に対応する。ロークは盲目となり、ぼうっと光のたゆたう薄明の中に閉じこめられているが、これがダンの真珠色の目の内側の世界なのである。

 二番目のヘルという地殻の割れ目にダンが飛びこむ場面はロークのノヴァ突入に対応する。イリュリオンとは財貨=糞便であり、ノヴァ突入はアナル・セックスの隠喩である。

 三番目の場面で幼いロークはプリンス兄妹にせっつかれて大人が暴力に夢中になる姿を見てショックを受けるが(何が起こっているかは子供たちの目からは隠されており、原光景といえる)、これはクライマックスのロークとプリンス兄妹の対決の場面に対応する。まあ、このくらいにしておこう(注)。

 表面の物語の裏に別の物語を隠すという手法は『西遊記』や『紅楼夢』に似ている。『西遊記』は表面的には天竺にお経をとりにいく冒険譚だし、『紅楼夢』は清朝の大貴族の家庭を舞台にした華麗な恋愛絵巻だが、背後には霊の遍歴の物語が隠され、パノラマ効果を生みだしている。『ノヴァ』も同じ書き方をしている。

 急いでお断りしておくが、わたしはディレイニーが『西遊記』や『紅楼夢』の影響を受けていると主張しているわけではない。ディレイニー自身は『ユリシーズ』や『荒地』のように読んでくれという意味のことを匂わせている。

 しかし、わたしは『ユリシーズ』や『荒地』と比較するのは意味がないと思う。『ユリシーズ』や『荒地』は万人に向けて書かれた作品だが、『西遊記』や『紅楼夢』は志を同じくする happy few に向けて書かれた作品であり、『ノヴァ』もその傾向が顕著だからだ。

 ディレイニーの場合、黒人とゲイという条件が、日本で考える以上に重い条件となっていたのではないか。『ノヴァ』が書かれた頃はSFはまだ健全な白人男性の占有物だった。黒人とゲイというポジションは主流文学の世界では売りになったが、SFの世界ではそうではなかった。

 『ダルグレン』以降の作品は最後まで読みきったことがないので当てずっぽうになるが、黒人でゲイであることが知れわたって以降の作品と、知れわたる以前の作品では緊張感が違うような気がする。『ダルグレン』は近々邦訳が出るようなので、出てからもう一度考えてみたい。

 折り返し構造はハーネスの『リタネルの輪』の影響だとずっと思いこんでいた。軽元素だけの世界の裏がえしのイリュリオン、ロークの末路とオメアの末路と、『リタネル』を意図的に逆転させた設定が多いように思えたのだ。しかし、この文章を書くために発表年を調べたところ『ノヴァ』と『リタネル』は同じ年に出版されていたことがわかった。『リタネル』が1月、『ノヴァ』が12月だとしても、影響関係は苦しい)。

→bookwebで購入

2006年03月30日

『ジョン・ボールの夢』 ウィリアム・モリス (晶文社)

ジョン・ボールの夢 →bookwebで購入

 1381年の英国の農民蜂起を描いたウィリアム・モリスの歴史ロマンスである。
 この蜂起は日本では「ワット・タイラーの乱」として知られているが、人頭税の増税に怒ったエセックスとケントの農民がロンドンに押し寄せ、監獄や役所を焼き討ちし、政府高官を処刑して国王に農奴制の廃止を迫るという、英国をゆるがす大事件だった。
 最後は鎮圧され、一揆の指導者たちは戦死したり、処刑されてしまうが、モリスが主人公に選んだのはジョン・ボールという下級司祭である。
 ジョン・ボールは王政を批判する説教をくりかえしたかどで監獄にいれられていたが、一揆勢によって解放され、指導者の一人となった。
 モリスはジョン・ボール解放から三日目の一昼夜に焦点をあわせ、彼の説教、国王軍との小戦闘と一揆勢側の勝利、翌朝、ロンドンに向けて出発する一揆勢を描いている。
 通常の歴史物語と異なるのは、語り手が14世紀へタイムスリップしたモリスの同時代人だということだ。ジョン・ボールの説教と一時的な勝利は、悲劇的な最期を知っている者の視点で語られるだけでなく、皆が寝静まった深夜、彼はジョン・ボールに請われるまま、一揆の結末と400年間の歴史の流れを伝えることになる。
 この作品は、昔、未来社から出た翻訳で読んだが、翻訳がぎくしゃくして、あまりおもしろくなかった。未来社版から、ジョン・ボールの説教に民衆が感動する場面を引用してみる。

 彼はちょっと話をとぎらせた。すでに彼の声は弱まり始めていたが、空は晴れわたり、初夏の夕暮はやさしく静かで、民衆も完璧の沈黙を守っていたので、一言一言が効果的だった。話を止めると彼は群衆の方へ眼を移した。それまで彼は、すばらくの間、夏の夕暮の青い遠景をはるかに眺めやっていたのだが、今や彼の親切げな眼は、目の前の群衆の中に珍奇なる光景が展開しているのを見た。涙を流すものが少なからず出て来ていたからである。黒いあご髭を生やしながらおおぴらに泣く者もいたが、多くは恥ずかしがって自分の深い感動を他人に知られたくなく思っているような表情を見せていた。それはいたく感動した時のこの民族のいつもの習性だったのである。わたしはわきに立っているウィル・グリーンを見た。彼の右手はあまりにきつく弓をつかんでいるので指の関節が白くなっていた。彼は前方をまっすぐ凝視していた。涙が両眼に溢れ、大きな鼻を伝って流れ落ちた。彼の意志ではなかったのだろう。

 「珍奇なる光景」は原文では curious sight となっている。武骨な男たちが説教に感動しているさまをあらわした表現だが、こういう場面を「珍奇なる」と訳すのは強すぎて、興がそがれる。それ以外にもひっかかる表現があり、訳語の選び方に疑問が残る。
 今回、晶文社の「ウィリアム・モリス・コレクション」で出た横山千晶訳で読み直したが、すばらしい日本語になっていて、面目を一新していた。
 同じ箇所を新訳で引いてみる。

 彼はちょっと言葉を切った。実際すでに彼の声はかすれかけていた。しかし、空気は澄みわたり、夏の夕べはじつにやさしくおだやかで、人々は水を打ったように静かだったので、一言一言が胸にしみてくるのだった。彼は口をつぐむと視線を群衆に向けた。それまで、しばらくのあいだ、青く広がる夏空のかなたを眺めていたのだが、いま彼のやさしい視線は、群衆のあいだで展開する奇妙な光景をとらえていた。すでに涙で目をくもらせている者が少なくなかった。黒いあごひげに似合わず大声で泣いている者もいた。いずれにせよ、彼らイングランドの屈強な人々が強く心を揺り動かされたときによく見られることだが、どの顔も恥じいり、どれほど深く感動しているか他人に悟られたくないといった面もちだった。私はかたわらのウィル・グリーンを見た。彼は右手で弓をあまりに堅く握りしめていたので、指の関節がすっかり血の気を失っていた。その目はまっすぐ前方を凝視し、涙が両眼からあふれだし、大きな鼻をつたわって流れ落ちていた。その涙は彼の意志とは無関係であるかのようだった。

 情感のうねりがまっすぐ伝わってくる名文である。新訳がすべていいわけではないが、本書に関する限り、新訳の方が圧倒的にすぐれていると思う。
 さて、問題は勝利の宴の後である。語り手はエセックスの情勢を伝えに来た修道士ということになっていたが、ジョン・ボールは彼が尋常の人間ではないと見抜き、皆が寝静まった深夜、教会堂に彼を呼んで、400年後の未来から見た蜂起の意義とその後の歴史の流れを聞くのであるが、これが今となっては時代遅れの唯物史観のレクチャーなのだ。
 中年になって社会主義に目覚めたモリスは『資本論』をにわか勉強し、その成果を使ったわけだが、ここが作品の唯一の傷となっている。モリスの社会主義は手仕事の復権や、エコロジー的な発想の部分は今でも新鮮であり、現代性をもつが、古くなってしまった部分もあるのである。
 しかし、友愛を歌いあげた部分は感動的であり、読むに値する。モリスの作品は古典となったといえよう。

→bookwebで購入

2006年03月29日

『世界のかなたの森』 ウィリアム・モリス(晶文社)

世界のかなたの森 →bookwebで購入

 ハイファンタジーの源流というべきウィリアム・モリスの後期ロマンスである。
 主人公のウォルターは裕福な商人の息子だったが、結婚生活に行き詰まり、妻に裏切られる。故郷の町にいたたまれなくなった彼は父親の持ち船に同乗して、冒険に向かうが、出発しようとした矢先、この世ならぬ美しい貴婦人と彼女にかしずく乙女、そして醜い小人の三人連れの幻を見る。
 ウォルターは異国の港町に逗留して元気をとりもどすが、父親が妻の実家の者に殺されたという一報を受けとり、急遽、帰国しようとする。しかし、船は嵐にあい、見知らぬ土地に漂着する。
 一行は親切な老人にむかえられ、食料を提供される。老人は美しい農園に一人で住んでおり、奥地には女神を崇拝する熊族とよばれる蛮族が住んでいると一行に教える。ウォルターは仲間が狩に出ている間、老人から彼がこの土地に住み着くようになった経緯を聞く。老人は若い日、農園にたどりつき、農園の主人から禁じられた冒険に出るために、主人を殺していたのだ。彼は行ってはならないといわれた彼方の国で女神の犠牲にされかけたが、別の女性に救われて、命からがらもどり、農園を受け継いだと語る。
 ウォルターは老人の話に冒険心を刺激され、次の狩の際、「地の裂目」と呼ばれる狭間を一人通って、彼方の国にはいりこむ。そこで彼が会ったのは、以前、故郷の町で幻に見た乙女だった。
 乙女はここが危険な土地であり、助かるには彼女の女主人にとりいらなければならないと彼に教える。女主人は幻に見た美しい貴婦人だったが、邪悪な本性をもち、異国に夢を送って美しい青年を呼びよせ、飽きると殺していた。ウォルターははたして女主人の国を脱出することができるのか。
 モリスのファンタジーは朝風にたとえられたり、爽やかとか、涼やかと評されることが多いが、この作品は発端からして爽やかでも涼やかでもない。主人公は妻の不倫に悩み、離縁しようとしても彼女の身体が忘れられず、悶々としている。彼の不幸な結婚生活は、今ではモリスと妻のジェーンの関係の反映であるという説が有力なようだが、ゴシップ的な詮索は文学性とは無関係なので、控えておこう。
 ウォルターは生々しい夫婦関係から逃れ、異郷で女主人と乙女という、元型的な一組の女性に出会うが、この二人もあまり爽やかではない。女主人は邪悪な魅力をふりまいているし、乙女の方は可憐ではあるが、裸に剥かれ、鞭で打たれるというサディスティックな場面が遠回しに暗示されている。後半、主人公と乙女の逃避行がはじまるが、男女二人だけになっても肉体の関係は先延しされる。危険な土地を抜けるまでは乙女は魔法の力をたもちつづけなければならず、そのためには処女でいる必要があるということになっているからだ。
 女盛りの女王と可憐な乙女の対比は、モリスの最高傑作『世界のはての泉』において「豊穣の女王」とアーシュラの対比として展開されるが、この作品では短いけれども凝縮された形で示される。モリスとしては異色作だが、余韻が深い。
 モリスのファンタジーの魅力は読み手の想像力を刺激し、余韻を持続させるところにある。それだけに、読み手側の積極的ないれこみが必要となる。映画を見るように受け身であっては、さっぱりおもしろくないだろう。
 C.S.ルイスやトールキンのようなファンタジーの書き手が熱烈に傾倒しているのに、一般の人気がもう一つだという理由も、そのあたりにあるかもしれない。

→bookwebで購入

2006年03月28日

『輝く平原の物語』 ウィリアム・モリス(晶文社)

輝く平原の物語 →bookwebで購入

 ウィリアム・モリスはかつては非マルクス主義系社会主義者として、最近では近代デザインの創始者として著名だが、ファンタジーの祖という一面ももっている。
 不思議な物語は太古の昔から語られてきたが、この世ならぬ異世界を宗教心とは無関係に作りあげ、そこで主人公が冒険するという作品はモリスをもって嚆矢とする。C.S.ルイスもトールキンもモリスの物語を愛し、影響を受けている。
 モリスは学生時代から中世の文化に引かれていたが、24歳で発表した物語詩「グイネヴィアの抗弁」で一躍文名を上げ、その後、中世風の韻文物語を次々と発表して詩人としての地位を確立した。今となっては想像がつかないが、同時代におけるモリスはなによりも詩人であり、デザインや社会主義に関する活動は詩人の余技と見なされていたらしい。
 モリスの活躍した時代はヴィクトリア女王の治世に重なる。産業革命の勃興期である。モリスは大量生産によって失われていく中世以来の職人の手仕事を惜しみ、みずからモリス商会を設立して手仕事の伝承にとりくんだが、資本主義批判の立場を鮮明にしていき、51歳で社会主義同盟の結成にくわわって機関紙「コモンウィール」を創刊した。『ユートピアだより』は「コモンウィール」に連載された。
 だが、手仕事の喜びと、中世以来のクラフトマンシップの復活を説くモリスは現実の社会主義運動の中では浮き上がるしかなかった。晩年のモリスは政治活動からは一歩身を引き、ケルムスコットプレスを拠点とする出版事業に活動の中心を移すことになる。この時期に書かれたのが『輝く平原の物語』にはじまる五篇の中世風散文ロマンスであり、『ナルニア国物語』や『指輪物語』のようなハイファンタジーの源流となった。
 さて、『輝く平原の物語』である。
 この作品は1890年に「イングリッシュ・イラストレイテッド・マガジン」に連載され、翌年、ケルムスコットプレスの最初の出版物として刊行された。初版は装飾のあまりない簡素な作りだったそうだが、モリスは1894年に23葉の挿画をいれた再版本を刊行している(福岡大学所蔵の初版本再版本)。モリス自身が再刊した作品は他にないから、かなり思いいれのある作品だったのだろう。
 主人公のホルブライズは海辺の土地に住む若者だが、結婚式を目前にひかえて、許婚のホスティッジを海賊にさらわれてしまう。単身、海岸にやってきたホルブライズに、海賊の一味のフォックスは、ホスティッジは海賊の本拠のランサム島の市場で売られようとしていると告げる。ホルブライズはフォックスの舟でランサム島にわたるが、そこにはホスティッジの姿はなく、「輝く平原の国」に彼女がいるという夢を見る。
 ホルブライズは「輝く平原の国」に向かうシー・イーグルの船に同乗する。シー・イーグルは海賊の族長だったが、余命いくばくもない寝たきりの状態だった。
 ところが、「輝く平原の国」に着いてみると、シー・イーグルは見る見る若さを取りもどし、30代の壮年にもどる。「輝く平原の国」は人間を不死にする国だったのだ。
 ホルブライズは「輝く平原の国」の王に面会し、ホスティッジの行方を尋ねるが、王はホルブライズを愛する女性がいるから会えと命ずる。その女性はホスティッジではなく、王の娘だった。実は海賊にホスティッジをさらわせ、ホルブライズに「輝く平原の国」の夢を見せたのは王だった。王は王女の結婚相手にするためにホルブライズを呼び寄せたのである。
 ホルブライズは永遠の幸福を約束されるが、彼からみれば偽りの幸福にすぎなかった。彼はホスティッジを探して「輝く平原の国」をくまなく歩きまわり、この国にはいないと悟る。彼は彼女をさがすために永遠の生命を捨て、「輝く平原の国」を脱出しようとするが、果たして脱出できるのか。
 以上が物語のあらましである。永遠の生命を拒絶し、有限の生命を選ぶのは、世界の果てへの旅とともにモリスの中心的なテーマで、他の作品でも形を変えて出てくる。
 わたしはこの作品を学生時代に読んだ。当時、アメリカで何度目かのファンタジー・ブームが起こり、バランタイン・ブックスがアダルトファンタジーというシリーズを立ちあげたが、そこからモリスの散文ロマンスがまとめて再刊されたのだった。モリスの作風そのままの美しい、涼やかな表紙画が記憶に残っている。久しぶりに邦訳で読み返したが、読みやすすぎてちょっとあっけなかった。
 モリスのファンタジーは中世ロマンスに範をとっており、心理描写が一切ない。近代小説を読みなれた目で見ると、粗筋しか書いていないということになる。こういう作品を楽しむにはところどころで立ち止まり、自分の想像力で文章に書かれていない部分を埋める必要があるが、訳文は読みやすいこなれた日本語になっているので、あっという間に読み切ってしまった。
 読みやすいのは結構だが、こういう作品の場合、原文のように擬古文にするとか、読者を立ち止まらせる工夫があってもよかったのではないだろうか。

→bookwebで購入

2006年01月31日

『グラン・モーヌ』 アラン=フルニエ (みすず書房)

グラン・モーヌ →bookwebで購入

 アラン=フルニエのファン・サイト、legrandmeaulnes.comで、『グラン・モーヌ』の映画のリメイクが今秋公開されるという記事を見つけた。

 『グラン・モーヌ』は1913年に発表されたアラン=フルニエの長編小説で、フランスでは青春文学の傑作として広く読まれている。日本でいうと漱石の『三四郎』のようなものだろうか(発表年は『グラン・モーヌ』の方が5年遅いだけなので、同時代の作品といっていい)。

 『グラン・モーヌ』は1966年にブリジット・フォッセー主演、アルビコッコ監督で映画化され、日本では『さすらいの青春』という題名で公開されたが、残念ながら未見である(ビデオにもDVDにもなっていない)。リメイク版はクレメンス・ポエジー主演、ヴェルハージュ監督だそうである。

 クレメンス・ポエジーは『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』でフラー・デラクール(湖の中でハリーに助けられる魔女)を演じた新人。監督のジャン=ダニエル・ヴェルハージュは聞かない名前だが、TV畑の人で『ウジェニー・グランデ』、『ブヴァールとペキシュ』、『チボー家の人々』といった文芸作品を手がけているよし。日本で公開されるとしても先の話だろう。

 先に『三四郎』を引きあいに出したが、どちらも主要な登場人物が18歳前後で、ロマンチックな悲恋物語の体裁をとっている点は同じだが、作品の方向は正反対である。『三四郎』が新興日本の若いエリートの潑剌とした息吹にあふれているのに対し、『グラン・モーヌ』は象徴派的というか世紀末の色が濃く、夢が醒めた後のやるせない喪失感をたたえている。

 物語はサント・アガート村の学校の上級クラスにオーギュスタン・モーヌが入学してくるところからはじまる。学校といっても校長とその妻の二人だけで切盛りしており、校舎は校長の住まいと役場の出張所を兼ねている。モーヌは家が遠いので、学校というか校長の家に下宿することになる。物語の語り手のフランソワは校長の一人息子で、モーヌが転入した上級クラスで小学校教師になるための勉強をしている。

 クリスマスの前、校長の両親がやってくることになり、モーヌは勝手に馬車を借りだして駅にむかえにいくが、途中で道に迷い行方不明になる。

 三日後、モーヌは疲労困憊して学校にもどってくる。彼は三日の間に何があったのか口を閉ざして語らなかったが、フランソワにだけは廃墟のような城館に迷いこんだこと、仮装した子供たちと若い城主の結婚パーティに出て、城主の妹のイヴォンヌに恋をしたこと、結婚式は肝心の花嫁が逃げだしたために混乱のうちに終わったことを打ち明ける。フランソワはモーヌの三日間の冒険を心の中で反芻し、宝物にする。

 モーヌは帰りに乗せてもらった馬車の中で寝てしまったために、城館がどこにあるのかわからかった。彼は春になってからイヴォンヌに会うために城館を探すが、どうしても見つからない。この後、どんでん返しが二重三重にしかけられているので、物語の紹介はここまでにしておこう。

 『三四郎』との比較をつづけるなら、『三四郎』が直接経験の世界であるのに対し、『グラン・モーヌ』の語り手はボードレール的な幻想の球体の中にとじこめられている。傍観者的な立場に身を置いているので目だ立たないが、フランソワはドン・キホーテやボヴァリー夫人に近いのだ。

 『グラン・モーヌ』は田辺保訳(旺文社文庫)と、天沢退二郎訳(岩波文庫)で読んだが、今回は「大人の本棚」シリーズの一冊として新版が出た長谷川四郎訳で読んでみた。

 長谷川四郎は『シベリア物語』で知られる詩人・小説家で、評論、戯曲、翻訳など多方面で活躍している(筑摩書房から出ている文庫版日本文学全集の『)長谷川四郎集』で代表作を読むことができる)。長谷川訳の『グラン・モーヌ』は1952年初版だから、半世紀ぶりの復刊である。

 長谷川訳は素直できびきびしており、流麗な天沢退二郎訳とはずいぶん印象が違う。二ヶ所、比較してみよう。

 まず城館の仮想パーティの場面から。

 この食堂の戸の一つが大きく開かれていた。その隣室からはピアノを弾く音が聞こえていた。モーヌは好奇心にかられて頭を伸ばして見た。それは一種の小さな応接間のような広間で、若い女か、或いは娘が一人、肩に大きな栗色のマントを羽織つて、こちらに背を向け、輪踊りか子守歌のような曲を非常にしずかに弾いていた。その直ぐ傍らのソファには六・七人の小さな男の子や女の子が、絵の中における如くきちんと並んで、夜も更けた時の子供たちのようにおとなしく、謹聴していた。ただ時たま、彼らの一人が両手で体を支え起して立ち上がり、床の上に辷り下りて、食堂へ入つていつた、――そして絵を見てしまつた子供たちの一人が今度はその後の席に来て坐るのだつた……。

 同じ箇所を天沢訳で引く。

 この食堂の扉は、大きく開け放たれていた。隣の部屋でピアノを弾いている音が聞こえていた。モーヌは好奇心をそそられて首を前に伸ばした。そこは一種の小さな客間・応接間だった。ひとりの婦人、あるいは若い娘が、大きな栗色のマントを肩にかけたまま、こっちに背を向けて、輪舞曲か小唄ふうの曲を、とても静に弾いていた。すぐ傍らの長椅子に、六、七人の小さな男の子・女の子が、夜おそくなったときの子どもたちらしくおとなしく、まるで絵の中の姿のようにちょこんと座って、聴き入っていた。ときどき、子どもたちの一人が、手首に体重をかけて身を起こし、床の上をすべるように動いて、食堂へ入って行ったりした。すると、絵本を見終わった子どもたちの一人が、代わりにこっちへ聴きに来るのだった……

 細部で解釈の違いがある。「床の上に辷り下りて、食堂へ入つていつた」(長谷川訳)のか、「床の上をすべるように動いて、食堂へ入って行ったりした」(天沢訳)のか。原文が手元にないので、わからない。

 次はレ・サブロニエールを訪ねたフランソワをイヴォンヌがむかえる場面。

 その時、私は頭をもたげて、眼前二歩のところに近づいた彼女を見たのだつた。彼女の靴は、砂の中で軽やかな音を立て、私はそれを、生け垣から垂れる水滴の音と混同したのである。彼女は頭と肩に、黒い毛糸のショールをかけ、こまかい雨が彼女の額の上の髪に、粉のようにかかつていた。きつと彼女は、部屋の中から、庭に面した窓から、私を認めたのだつた。そして、私の方へ来たのである。このように、昔、私の母は〈もうお帰りなさい〉というために、私を捜しに来たが、しかし、雨の夜の散歩が好きだつた彼女は、ただやさしく言うのだつた〈風邪を引きますよ!〉と、そして、私の話し相手として、そのまま、そこにいたものである……。
 イヴォンヌ・ド・ガレーは熱い手を私に差し出した。そして、私をサブロニエール家にへ入らせることを諦めた彼女は、苔むして緑青色のベンチの、あんまり濡れていない側に腰かけた。一方、私は立つたまま、その同じベンチに膝でもたれて、身を傾けて彼女の話を聞いた。

 天沢訳。

 そのとき、顔を上げると、すぐまぢかに、彼女が見えた。砂を踏むその軽い足音を、私は生垣に降る雨の音と混同していたのだった。彼女は頭と肩に、黒いウールの大きなショールを被っていて、額にかかった髪の毛に、こまかい雨粒がついていた。たぶん、彼女の部屋の庭に面した窓から、私に気付いて、それで下りて来てくれたのだ。以前に、これと同じように、母が、心配して私に「中へ入らなければ」と言いに下りて来て、そのくせこんな、雨の中の散歩が気に入って、やさしく「風邪を引きますよ」とだけ言うと、私につきあって長々と話しこんだものだ……
 イヴォンヌ・ド・ガレーは、熱い手を私にさし出したが、レ・サブロニエールの中へ招き入れようとはせず、苔が生えて緑青色をしたベンチの、いちばん濡れていないところに腰をおろし、一方私は、同じベンチに膝でもたれて立ち、イヴォンヌの方へ身をかがめて、彼女の言葉に耳を傾けた。

 「しかし、雨の夜の散歩が好きだつた彼女は、ただやさしく言うのだつた〈風邪を引きますよ!〉と」(長谷川訳)と、「そのくせこんな、雨の中の散歩が気に入って、やさしく「風邪を引きますよ」とだけ言うと」(天沢訳)は、フランソワの母が以前から雨の夜の散歩が好きだったのだ、その時たまたま雨の夜の散歩が気に入ったのかの違いがある。

 長谷川訳の巻末には森まゆみ氏による解説がついているが、これがなかなかおもしろい。『グラン・モーヌ』には熱狂的なファンが多いが、森氏もその一人で2004年にサント・アガート村のモデルであるエピヌイユ村を訪ねており、この時の紀行文が解説の主要部分を占めている。

 『グラン・モーヌ』は自伝的要素が多いといわれているが、村の地理も学校の建物も登場人物もすべて小説の通りで、『グラン・モーヌ』がロングセラーになってしまったために、改名を余儀なくされた村人までいたとか。こんなことは文学的評価とは無関係だが、ファンとしてはトリビアである。

 なお、エピヌイユ村を訪れた日本人はかなりいるらしく、訪問記をネットで公開している人もいる。国立民族学博物館の大森康宏氏のページでは『グラン・モーヌ』の舞台となったソローニュ地方の野鳥ハンティングの映像を見ることができる。

→bookwebで購入

2006年01月27日

『ロートレアモン全集』 イジドール・デュカス (ちくま文庫)

ロートレアモン全集 →bookwebで購入

 『マルドロールの歌』を二十数年ぶりに読んだ。今でも新鮮であり、面白かった。

 昨今子供を狙ったおぞましい事件があいついでいるが、その原型といえるような残虐行為がここには颯爽と描かれているのだ。

 わたしが『マルドロールの歌』をはじめて読んだのは現代思潮社から出ている栗田勇訳だった。携帯用の辞書のようなずんぐりした本で、退色したような色合の貼箱にはいっており、秘密の経典のようだった。その後、栗田訳にははいっていない「ポエジー」を読むために、思潮社から出ている渡辺広士訳の『ロートレアモン全集』をもとめた。こちらは真っ白な箱にはいった真っ白な装丁の本で、やや縦長の版型とあいまって怜悧な印象だった。

 栗田訳は毒気とか瘴気と訳すべき語を「放射能」と訳すように、かなりクセのある翻訳だったが、散文詩としての格調をそなえた日本語になっていたと思う。それに対して渡辺訳はやや幼児口調をまじえた平明な口語体で、栗田訳で立ち止まらなければならなかった箇所もすらすら読めた。両訳とも版を重ねており、現在でも入手可能である。

 今回はちくま文庫版の石井洋二郎訳『ロートレアモン全集』で読んだ。石井訳全集は2001年に箱入りで出版されたが、昨年、注と解説を簡略にした文庫版が出た。

 ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスは24才で没しており、書き残したものとしては『マルドロールの歌』と短い「ポエジー」二篇、六通の書簡しかないので、厚目の文庫一冊におさまるのである。

 翻訳の出来をうんぬんするような力はないが、訳文を読んだ感想としてはニュートラルで折り目正しい日本語になっているものの、静的な印象を受けた。

 「第六の歌」から、メリヴィンヌ少年がマルドロールの手紙を開く場面を引く。

 太陽光線がプリズム状の輝きを注ぎ、ヴェネチア製の鏡や西洋緞子ダマスクのカーテンに反射させている。勉強机の表面を覆う打ち出し細工の革張りの上に散らかっている金装小口本や螺鈿表紙のアルバムのあいだに、彼は書簡を放り出す。ピアノの蓋を開け、ほっそりした指を象牙の鍵盤の上に走らせる。真鍮の弦はまったく音を響かせなかった。この間接的な警告を受けて、彼はふたたび上質ヴェラム紙の手紙を手に取る。ところがそれは、まるで宛名人が躊躇したのに気を悪くしたかのように後ずさりした。この罠にはまって、メルヴィンヌは好奇心をそそられ、読まれる準備のできている紙きれを開く。彼はそのときまで、自分自身の筆跡しか見ていなかった。

 同じ箇所が栗田勇訳ではこうなる。

 太陽の光線がそのプリズムの光の発散をヴェニスのガラスとドンスのカーテンのうえに反射している。彼はその信書をわきになげる。彼の勉強机の表面に張ってある打ち出し皮のうえにちらばった、金ぶちの本や螺鈿の上表紙のアルバムのあいだに。彼はピアノの蓋をあけ、そのほっそりした指を象牙の鍵盤のうえにはしらす。ピアノの真鍮線は全然鳴らない。この間接的な警告は彼がふたたびその羊皮紙を手にとるようにしむけたが、しかし紙は、まるで受取人の躊躇によって侮辱をうけたかのように、後ずさりする。このわなにかかってメルヴァンの好奇心はいや増し、彼はこの仕込まれた一片の紙片をひらく。かれはこのときまで自分じしんの筆跡以外はまだみたことがなかった。

 栗田訳の「羊皮紙」は「羊皮紙に似せた紙」とすべきだが、手紙が意志をもった生き物のように動きだす機微を伝えてもいる(それをうるさいと感じる人もいるかもしれないが)。

 次に同じく「第六の歌」から、アゴーヌが父親の横暴を打ちあけるくだり。

 親父は何度も、鳥籠とその中味をどこかへやってしまえと命令していた。カナリアが母音唱法才能を発揮して、空気のように軽やかな独唱曲カヴァティーナの花束を投げかけながら、自分のことを馬鹿にしていると思いこんでいたんだ。あいつは鳥籠を釘から外しに行ったが、怒りで逆上して、椅子から滑り落ちてしまった。膝をちょっとすりむいたのが、このもくろみの戦利品という次第。腫れ上がった部分をしばらくおがくずで押さえてから、眉をひそめてズボンのすそを下ろすと、前より用心深くして、鳥籠を小脇に抱えて作業場の奥に向かった。そこで、家族が泣き叫んで懇願したのに(おれたちはこの小鳥にずいぶん愛着を感じていた。家の守り神みたいなものだったから)、あいつは鋲を打った踵で柳の籠を踏みつぶしやがった。そのあいだ大鉋を頭上でぐるぐる振り回していたから、その場にいた連中は近づけなかったんだ。

 同じ箇所を渡辺広士訳で。

 でも父は、鳥籠とその中味をどこかへやってしまえとなん度も命令していた。なぜかというと、カナリヤが声楽家の素質たっぷりに軽やかな歌の花束を父に向かって投げると、彼は自分の人柄を笑われたと思い込むんだ。彼は籠を釘からはずしに行って、怒りで目がくらんでいたもんだから、椅子からすべり落ちちゃった。膝の軽いかすり傷が作戦の戦利品というわけなんだ。ふくれあがったところを暫く木切れで押さえていてから、彼はズボンをおろして、眉をしかめて、今度はもっと用心して鳥籠を小脇に抱えて仕事場のすみへ行った。そして家中みんなの悲鳴と嘆願も無視して(ぼくたちはその鳥をずいぶん大事にしていて、家の守り神のように考えていたんだ)鋲のついた靴の踵で柳の籠をふみつぶしたんだけど、その間じゅう頭のまわりに大きなカンナをふりまわしてみんなを近寄れないようにしてるんだよ。

 カンナを自分の頭のふりまわすことはできない。ここは「頭上でぐるぐる振り回していた」という石井訳の方が適当ということになるが、「頭のまわりに大きなカンナをふりまわして」という渡辺訳は、物理的に不可能であっても臨場感がある。

 石井訳の特徴は注が多いことである。栗田訳は方針として注をつけておらず、渡辺訳は本文250ページに対して注は20ページほどだが、石井訳は本文380ページに対して95ページの注がついている(活字は本文よりかなり小さい)。最新の研究を参照しているという点でも石井訳に長がある。

 注は細かい話がつづく中、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というロートレアモンの代名詞となった比喩について「これら多様なオブジェの奇妙な結合は、何か雑誌の広告ページにそれらが一緒に載っていたことから出てきたもの」ではないかという説があり、近年それが実証されたという記述に出くわした。

 その後四十年間にわたって、この推測は裏づけを得られぬまま単なる予感にとどまっていたが、ルフレールの熱心な調査によって、実際にモンテビデオで発行されていた企業・個人名鑑の広告篇に、ミシンと雨傘、それに解剖台そのものではないが、外科手術の道具の宣伝が(ページは異なるが)同時に掲載されていたことが発見された。この名鑑の刊行は一八六九年で、『マルドロールの歌』全編の刊行はこの年の八月であるから、第六歌の執筆中にデュカスがたまたまこれを見てヒントを得た可能性はじゅうぶんにある。

 こんなことがわかったからといって、ロートレアモン評価が変わるわけではないが、トリビアではある。

 検索して意外だったのは、この20年ほどの間に『マルドロールの歌』が何度も邦訳・刊行されていたという事実である。白水社からは豊崎光一訳全集が出ているし、『マルドロールの歌』単独では集英社文庫の前川嘉男訳、講談社文芸文庫の青柳瑞穂訳、福武文庫の藤井寛訳がある(豊崎訳と前川訳は入手可能)。栗田訳も一時期、角川文庫から出ていた。

 これだけいろいろな邦訳が出版されているということはそれなりに売れているのだろう。マルドロールの歌』は『坊ちゃん』や『伊豆の踊り子』のような青春の書になっているのだろうか。

 一方、ロートレアモンに関する評論は全滅状態である。基本図書というべきブランショの『ロートレアモンとサド』も、ブランショの明快丸かじりの『ロートレアモンの世界』も、出口裕弘の『ロートレアモンとパリ』も、現在では入手できない。

 ロートレアモンはおもしろく読んで、それでおしまいではもったいない。せめて『ロートレアモンとサド』くらいは平凡社ライブラリーかちくま学芸文庫あたりにはいって、いつでも買えるようになってほしいものだ。

→bookwebで購入

2006年01月20日

『繻子の靴』 クローデル (岩波文庫)

繻子の靴 【上】 →『繻子の靴』上を購入 繻子の靴 【下】 →『繻子の靴』下を購入

 ポール・クローデルの『繻子の靴』の新訳が岩波文庫から出た。訳者はクローデル研究の第一人者渡辺守章で、本文と同じくらいの分量の注と解説が付されている。

 とかなり興奮して書いているのだが、ポール・クローデルの名前を知る人は今ではあまり多くないかもしれない。知っていたとしても映画になったカミーユ・クローデルの弟、あるいは日本にフランス大使として駐箚したことのある詩人外交官としてだろうか。

 二十年ほど前までは『繻子の靴』をふくむ代表作の多くが日本語で読めたし、渡辺による浩瀚な評伝も書店に並んでいたが、現時点で入手可能な本は駐日大使時代の外交書簡をまとめた『孤独な帝国 日本の1920年代』くらいしかない。

 なじみのない読者のためにあらためて紹介すると、ポール・クローデルは1868年生まれの詩人・劇作家で、長姉にロダンの女弟子となり悲劇的な最期をむかえたカミーユがいる。青年時代マラルメの薫陶をうけるが、20代でカトリックの回心を経験し、キャリア外交官としてアメリカ、チェコ、ブラジル、中国、日本などで勤務するかたわら、詩劇を書きつづけ、20世紀の反リアリズム演劇を開拓した。日本の感覚ではぴんと来ないが、現在フランスでもっとも多く上演される20世紀の劇作家はジュネとクローデルだという。

 『繻子の靴』全曲版は副題に「四日間のスペイン芝居」とあるように四部にわかれており、完全上演すると10時間近くかかる。クローデル自身が「集大成的な作品」と自負するだけに、16世紀の大航海時代を背景にスペイン、モロッコ、メキシコ、パナマ、フィリピン、日本、地中海と舞台は地球規模に広がり、物語の時間は20年以上におよぶ。

 長大なためになかなか上演されなかったが、発表後19年たってジャン・ルイ・バロー(『天井桟敷の人々』のあのバロー)がコメディ・フランセーズで上演を企画し、クローデル自身とバローによって第一日から三日目までを中心に抜粋した上演台本が作られた。バロー演出の初演は好評を博し、以後バローの劇団の十八番になった。

 ストーリーは複雑で登場人物が多いが、おおよそのところを紹介しておこう。

 第一日目から三日目まではスペイン王から新大陸の統治をゆだねられた副王ロドリッグと、アフリカ総督ペラージュの妻、プルエーズの道ならぬ恋をめぐる物語である。二人は深く愛しあい、一時は駆け落ちの約束までするが、プルエーズは夫の家を出る時、霊感にかられたように繻子の靴の片方をマリア像にささげ、「悪へ向かって走る時には、片方の足が萎えておりますように!」と誓いをたてる。そのため二人はすれ違いをくりかえし、結ばれることはなかった。

 この頃にはスペインのアフリカ支配は破綻に瀕しており、ペラージュは死を覚悟して任地のセウタに出発しようとするが、自分の死後、妻がロドリッグに走らぬように手を打つ。ペラージュは彼女に、従弟のカミーユが攻略した南部のモガドールにゆき、自分の代わりに治めよと命じたのだ。

 プルエーズがモガドールに着くとイスラム勢力の中で孤立したカミーユはキリスト教を棄て、オキアリと名乗って自立し、新大陸からスペインに金銀を運ぶ船を襲いはじめる。かねてプルエーズに邪な思いをいだいていたカミーユは夫を亡くした彼女に結婚を迫る。彼女はロドリッグに救けを求める手紙を出すが、手紙はなかなかとどかない。彼女は結婚を承諾する代わりに形式的にモガドール要塞の司令官となり、カミーユの反スペイン行為に箍をはめることに成功する。

 10年後、地球を一周した手紙を受けとったロドリッグは副王の地位を棄て、スペイン艦隊を率いて大西洋をわたり、モガドール沖に遊弋してカミーユの政権に圧力をかける。周囲のイスラム勢力や部下の離反にあい、万事休したカミーユはプルエーズと彼女との間に生まれた娘をロドリッグに差しだす。ロドリッグとプルエーズは十年ぶりに再会するが、プルエーズは永遠に結ばれるためにはこの世で結ばれてはならないと言いのこし、娘を彼の手にゆだねてモガドール要塞に帰っていき、カミーユとともに爆死する。

 ここで三日目が終わるが、三日目の半分は魂の救済をめぐるディスカッション・ドラマである。心理分析と形而上学的議論がないまぜになっており、筋金入りのカトリック文学だなと思った。

 日本でカトリック文学というと遠藤周作やグレアム・グリーンを思い浮かべ、罪意識におののく女々しい文学と思う人が多いかもしれない。しかしそれだけがカトリックではない。16世紀の大航海時代には多くの宣教師が危険をものともせず未開の地や異文化の地にわけいり、世界布教をくりひろげ、今日のカトリック圏をつくりあげたが、『繻子の靴』が舞台とするのはまさにその時代なのだ。

 ロドリッグもプルエーズも弱者ではない。ロドリッグは征服者コンキスタドールの頂点に立つ副王だし、プルエーズは単身敵地におもむき、背教者となった将軍を手玉にとる女丈夫である。しかしその強者が自己の限界に直面し、絶対者の存在に気づいて自己放棄にいたる存在論的ドラマが、この芝居の眼目なのだ。この芝居で言及される神は怒ったり嫉妬したりする『聖書』の人格神ではなく、抽象的な絶対者としての神であり、戦わされる議論は宗教的というより存在論的である。この芝居には能や歌舞伎の趣向がとりいれられているが、表面的な日本趣味に終わっていないのは自己放棄という主題が能や歌舞伎に通ずるところがあるからだろう。

 自己放棄の究極の姿があらわれてくるのは四日目である。

 プルエーズの死から十後、副王の地位を失ったロドリッグはフィリピンを征服し日本に攻めこむが、片脚を失って捕虜になり、名古屋城に幽閉される。ロドリッグは日本人絵師をともなって脱出し、スペインにもどるが、代替わりしたスペイン王の不興をかい、聖人画を売って老残の身を養っている。

 スペイン王は無敵艦隊アルマダによる英国征服とトルコと雌雄を決するレパントの海戦をひかえ、百官の船をしたがえた御座船でマヨルカ島沖に乗りだしている。無敵艦隊が英国艦隊を撃滅したという誤報がとどき、英国の統治を誰にまかせるかが議論になるが、無敵艦隊全滅の幻を見た王はロドリッグを指名する。ロドリッグ自身が志願したという形式をつくるために、女優をロンドン塔を脱出してきたメアリ女王というふれこみで彼に近づける。ロドリッグは王の計略にはまり、英国副王に志願するが、海上の宮廷には無敵艦隊敗れるの報がとどく。王はロドリッグに真相を知らせず、麗々しく英国副王の任命式をおこなった後、彼を奴隷の身分に落としてしまう。奴隷といっても片脚の老人には一文の価値もなく、下げわたされた兵士はかつての英雄をさんざんに愚弄し、ガラクタを買いにきたマヨルカ島の修道女におまけでつけてくれてやる。奴隷以下、ガラクタ以下の存在に落ちたロドリッグははじめて自由の身になったと感じ、全身全霊で美しい夜を讃美する。

 すべてを放下したロドリッグの姿はカトリックと縁のない人間が読んでも感動的である。

 四日目は上演台本から省かれていたために上演されてこなかったが、1972年にルノー=バロー劇団が冒頭に一日目~三日目のハイライト場面をくわえた台本を「バレアレス諸島の風の下に」という題名で上演して以来、『繻子の靴』の核心部分と評価されるようになったという。1978年のルノー=バロー劇団の来日公演でもこの台本が上演された。

 わたしはこの時の公演を国立劇場で見ているが、わけがわからなかった。壮大な叙事詩を期待して出かけたのだが、ハイライト部分は舞台の両袖に交互にスポットライトをあて、かわるがわる登場する役者が絶叫するだけ。本編がはじまってみるとろくな舞台装置はなく、船といっても一枚帆の筏のよう。果ては一列に並んだ役者が電車ごっこをはじめ、まったくのドタバタ芝居。なんだこれは、と当惑したものだった。

 今回渡辺訳を読んで、道化芝居の意味がようやく腑に落ちた。ロドリッグを愚弄するのは直接的には新しいスペイン王だが、その背後には人智を越えた秩序が厳然と存し、ロドリッグはその秩序にへりくだり讃えるのだ。カトリック的にいえば信仰告白だが、そんなことにこだわる必要はない。宗教を越えた、普遍的な敬虔さがそこにはあるのだから。

 今にして思えば、バローは神の道化となっていたのだろう。余計なことを考えて舞台が見えていなかったのだと思う。なんともったいないことをしたものだ。

→『繻子の靴』上を購入
→『繻子の靴』下を購入

2005年12月27日

『若きパルク/魅惑』ポール・ヴァレリー(みすず書房)

若きパルク/魅惑 →bookwebで購入

 精神医学者の中井久夫はエッセイの名手であり、詩の翻訳でも知られている。『現代ギリシャ詩選』と『括弧――リッツォス詩集』は名訳の誉れ高く、『カヴァフィス全詩集』は1989年度の読売文学賞を受賞している。

 中井は1995年にポール・ヴァレリーの『若きパルク』と『魅惑』を一冊にまとめて刊行したが、大判の豪華本だったために、少数の読者にしか届かなかった。しかし、一昨年、『若きパルク/魅惑 改訂普及版』として増補され、もとめやすい価格で再刊された。最初の本は重くて読みにくかったが、改訂普及版は普通の大きさで、読みやすい。

 本文には手をいれなかったということであるが、途中の版から『旧詩帖』に移された「セミラミスのアリア」がくわえられている。残念なことに、『若いパルク』の二つの草稿は削られたが、注釈はかなり増補されている。

 『若きパルク』は20年以上、文壇から遠ざかっていたヴァレリーが、第一次大戦の動乱の中、フランス語の伝統を守るために、ペンで戦おうと、気力を奮い起こして書きあげた長編詩である。長らく無名だったヴァレリーは、この一作の成功で、フランス的知性の代表者と目されるようになる。

 中井訳以前に『若きパルク』の邦訳は岩波文庫の鈴木信太郎訳など五種類あった(現在はいずれも入手不可)。わたしが読んだことがあるのは鈴木訳、平井啓之訳、井沢義雄訳の三つだが、中井訳は最新の研究を踏まえているだけに面目を一新している。

 ヴァレリーといえば知の人であり、アポロン的な詩人と考えられてきたが、中井訳のヴァレリーはディオニソス的な相貌を帯びているのだ。

 たとえば、前半の山場の第七節。

思ひ出よ、火あぶり台よ、真っ向から吹きつける黄金の風よ、
吹きつけて、この仮面を拒絶の色の明るい赤で彩れ、
焔と火照るこの私はかつての私であってはならぬ……
私の血も昇って、距離によって荘厳されて聖なる青空になってゐた
色薄いあの辺りをくれなゐにせよ、
かつて崇めた、無感動の時の虹、動かぬ過去の虹彩を!

 こんなに狂おしい日本語になったのはこの訳がはじめてではないだろうか。

 夜の昏迷が極まり、死の誘惑が極点に達する第十節はエロチックな詩句からはじまる。

          穢れを知らない私、その膝は
むき出しの膝の怖れの予感に打ち震える……
吹き来る風は私を砕き、鳥は刺し貫く、鎧戸を閉ざした心の闇を、
聞いたことのない奇怪な嬰児あかごの声で……
胸の二つの薔薇を私の息は持ち上げ下ろす。

 中井訳は肉体という主題を重視しており、死の淵から逃れて復活へ向かうくだりも生々しい肉感にあふれている。最後の生命賛歌はこう訳されている。

今、生命の血のたぎる乙女が一人、焔に向かって身を起こす、
陽の光を映す胸の二つの膨らみのきんが深い感謝に輝いて。

 『魅惑』の方も刺激的である。

 『魅惑』は古典的な詩法に厳密に則った、抽象的なアレゴリー詩の詩集だと思っていたが、中井訳で読むと、やけに生々しいのである。特に注釈(「ヴァレリー詩ノート」)をあわせて読むと、生々しさが倍加する。

 たとえば、「失われた美酒」。堀口大學の「われひと日海を旅して/いずこの空の下なりけむ、今は憶えず/美酒少し海に流しぬ/虚無にささぐる贄として」という名訳を読んで以来、古代の儀式を歌った象徴詩だろうと思ってきた。中井によると「失われた美酒」 Le vin perdu という題名は、第一次大戦の激戦地で独仏双方で百万人以上の戦死者が出たヴェルダン Verdun のアナグラムになっており、波の底から躍り上がるものとは戦死者の霊魂だというのである。ヴェルダンの戦いの翌年に第一稿のなったこの詩は、百万を超える戦死者の鎮魂の詩という一面があったということになる。

 注釈にはゴシップ的な情報もかなり含まれている。ヴァレリーの貧乏は文壇で有名で、オーディンがそれをからかった詩を作っているとか、1896年のロンドン行ではからずも英仏の情報戦に巻きこまれ、以後フランス情報機関からマークされ、陸軍省に勤務するようになったのも情報機関の関与があった可能性があるとか。『若きパルク』はラシーヌの影響が濃いと言われてきたが、中井によると英詩の本歌取りが多いそうで、これもへえーである。

 注釈の次には「ヴァレリー詩・ことばノート」という、ヴァレリーの詩的語彙辞典が置かれている。ヴァレリーの詩に横断的に出てくるイメージが五十音順に並べられているが、読み物としても実に面白い。惜しむらくは見出しが中井の訳語になっていること。せっかく原語が併記されているのだから、原語による索引がほしかった。

 この訳詩集は一昔前のヴァレリー像しか知らない者にとっては驚きの連続だろう。小林秀雄以来、ヴァレリーは神棚に祀りあげられてきた感があるが、中井の仕事によって、ようやく現代詩人として読めるようになったといえるのかもしれない。

→bookwebで購入

2005年12月17日

『ムッシュー・テスト』ポール・ヴァレリー(岩波文庫)

ムッシュー・テスト →bookwebで購入

 意外なことに、この二年間にポール・ヴァレリーの本が六冊出版されている。

 まず、2003年12月に精神医学者の中井久夫氏訳の『若きパルク/魅惑』(みすず書房)の増補新版が出た。2004年には清水徹氏による『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)の新訳、やはり清水氏による評伝『ヴァレリーの肖像』と、新しい世代の研究者、田上竜也氏と森本淳生氏が未発表原稿を編集・翻訳した『未完のヴァレリー』が出版された。今年2005年には東宏治氏と松田浩則氏の共編になる『ヴァレリー・セレクション』が上下二巻本で出て、「方法的制覇」や「精神の危機」、「『パンセ』の一句をめぐる変奏」が手軽に読めるようになった。

 二年間でたった六冊ではないかという人がいるかもしれないが、出版事情の厳しい今、六〇年も前に亡くなった異国の詩人の本がたてつづけに出るのは、やはり異例のことと言ってよいだろう。

 ヴァレリーの本がまた出版されるようになったのには二つ理由があると思う。

 一つはヴァレリー研究が進んだことである。ヴァレリーは「ムッシュー・テスト」を創造するすこし前から、死の直前まで、カイエと呼ばれることになる二万七千ページにおよぶ厖大な日記を書きつづけるが、その全文が1970年頃、ファクシミリ版で公刊され、1980年頃には抜粋版が出版された。また、生前公刊された著作とほぼ同量の草稿と未公刊作品も1980年頃から、パリの国立図書館で閲覧できるようになった。

 こうした未発表原稿から見えてくるヴァレリーは、フランス的知性の体現者という従来のヴァレリー像とはまったく別の顔をしていた。そうした新しい研究の成果がようやく一般読者の手に届けられる段階にいたったのである。

 もう一つは「主義」の凋落があると思う。ヴァレリーはパリ解放直後に亡くなり、ド・ゴールは国葬の礼で遇したが、その頃から実存主義とマルクス主義が猖獗を極め、ヴァレリーは時代遅れと見なされるようになった。その後に構造主義やポスト構造主義の流行が通りすぎていった。さまざまな主義の大波が寄せては引いていった後の漂着物の散らばる浜辺で、面目を一新したヴァレリー像がふたたび姿をあらわしたというのが現在の状況ではあるまいか。

 さて『ムッシュー・テスト』である。これまで小林秀雄、粟津則雄という二大大家によって訳されてきたが、未刊行作品が参照できるようになった現在、既訳は古くなったといわざるをえない。

 清水訳はどこが新しいのか。

 La soirée avec Monsieur Teste は、昭和七年の小林秀雄の初訳以来、「テスト氏との一夜」という邦題で親しまれてきたが、清水訳では「ムッシュー・テストと劇場で」に改められている。解説によれば「ソワレ」は「マチネ」(昼公演)に対する夜公演のことで、作中に出てくるオペラ座の場面を指しているからだという。

 コロンブスの卵のような指摘だが、これで作品の中心がオペラ座の場面にあることがはっきりした。これまではテストの殺風景な部屋でかわす会話が中心と見なされる傾向が強かったから、重心が大きく移動したことになる。小林秀雄以来、コギトの権化ということになっていたテスト像も、当然、変わらざるをえない。

 オペラ座の場面を見てみよう。

 オペラ座の金色の円柱と一緒に、彼の立ち姿がありありと眼に浮かぶ。円柱ともどもに。
 彼は観客席だけを見つめていた。穴の縁に立って、吹きあげてくる巨大な熱気を吸いこんでいた。彼は真っ赤だった。

 この後語り手は平土間の温気の底に女の肌の輝きとたくさんの扇を見ることになる。なにやら身体の火照りが伝わってくるような異様な光景だが、清水は『ヴァレリーの肖像』でこの条を次のように分析する。

 ヴァグナーらしいオペラの官能的な物語と音楽とに揺り動かされた観客のすべてが、感動のあまり、熱中へと溶けこんでいるなかで、ムッシュー・テストだけがただひとり、観桜の魔力に抵抗しながら、劇場を支配する強度の力学を分析し、要素化しようとしている。――そういう彼の努力それ自体が、彼の身体を欲情の場たらしめてしまう。……中略……「穴の縁」に金褐色に直立するムッシュー・テストをイマージュ・ファリックとして読む。――後年、ヴァレリーがこの劇場の情景を版画のかたちで形象化したものが、そういう読解を否定しようもなく許すだろう。

 屹立する陽根のようなテスト(!)。知性そのものが欲望だという認識は、ニーチェやラカンやブランショを読んできた者にはなじみ深い。カイエのヴァレリーは、ニーチェやラカンやブランショに近いところにいたのだ。いや、ニーチェはともかくとして、ラカンとブランショはヴァレリーの胸を借りて、みずからの思考を鍛えていたらしい。

 構造主義やポスト構造主義の嵐が去った今、われわれは思想の本当の土台にふれられるようになったのかもしれない。

→bookwebで購入