« 歴史 | メイン | 海外文学(小説/詩/戯曲/エッセイ等) »

2014年04月18日

『2030年 アメリカ情報機関が分析した「17年後の未来」』 米国国家情報会議編 (講談社)

2030年 アメリカ情報機関が分析した「17年後の未来」 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 アメリカに国家情報会議(NIC: National Intelligence Council)という機関がある。もともとはCIAの一部門だったが、1979年に独立して現在の形になった。

 NICは大統領の任期にあわせて4年ごとに15~20年先の世界情勢を予測した NIC Global Trends を作成している。当選した新大統領はNICの中長期予測を読んで国家戦略を練るわけだ。

(立花隆氏の解説によると公開版は大統領に提出される完全版を抜粋したものではないかという。確かに骨組だけという印象を受けるので、抜粋という推測は説得力がある。)

 本書は第一期オバマ政権のために作られた NIC Global Trends 2030 の邦訳で、公開されているものとしては最新版である(第二期オバマ政権のために NIC Global Trends 2035 が作られているはずだが、まだ公開されていない)。

 いくら巨額の予算を投じて作成されたにしろ、予測は予測だからNICの読み通りに世界が動くとは限らない。しかし当たるかどうかはそれほど問題ではない。アメリカの国家戦略が NIC Global Trends をもとに立案されていることが重要なのだ。アメリカの政財界の指導者たちが NIC Global Trends で示されたビジョンを議論の前提として共有していることも間違いないだろう。

 本書は2030年までに起こる世界の四つの構造変化をまとめた「第1章メガトレンド」、構造変化にともなう六つの潮流をまとめた「第2章ゲーム・チェンジャー」、今後ありうべき四つのシナリオを検討した「第3章オルターナティブ・ワールド」の三章構成になっている。

 未来予測は人口動態を基礎にしているものが多いが、「メガトレンド」の筆頭にあげられているのは人口ではなく、IT技術の普及による「個人の力の増大」である。

 スマートフォンに代表されるIT技術で個人の力はかつてなく大きくなり、社会問題の解決でも非政府系の団体の果たす役割が拡大する。その一方、個人や小集団が破壊的な技術を手にする危険性も大きくなる。

 世界的に中間所得層が増え、特にアジアは急激に豊かになる。

 かつては所得が増大して都市人口が増えればグローバル・スタンダード(欧米流の価値観)が途上国にも浸透すると考えられていたが、イスラム圏ではイスラム的な価値観が復活しており、今後各地で欧米流の価値観と伝統的価値観の衝突が表面化していくだろう。

 「メガトレンド」の第二は権力の拡散で、2030年の世界は覇権国家が存在しないという世界史上前例のない状況が生まれているかもしれない。

 第三は先進国の高齢化で、特に日本は急激に衰退する。

 第四は食糧・水・エネルギー問題の連鎖である。中間所得層の拡大は食糧・水・エネルギーの争奪戦を激化するが、エネルギーよりも水の方が深刻としている点が目を引く。

 再生可能エネルギーは不発に終わると斬って棄てている(2050年まででも4%増)。

 第2章では世界の流れに影響する六つの潮流をとりあげている。

 第一は経済危機の頻発で、一番不安な国としてあげられているのは日本である。アメリカの選良は日本はもうお終いだと見ているのである。

 では中国が世界一の経済大国になるかというと、そうではない。中国の経済的繁栄は短期に終わり、貧しいまま高齢化社会をむかえる。2030年でも一人あたりGDPはG7平均の1/4にすぎない。

 第二は国家の統治力が変化に対応できなくなることで、都市や地域主権などが影響力を拡大し、意志決定がより複雑化する。

 危険なのは独裁から民主主義に移行中の国家である。現在約50ヶ国が独裁政治から民主政治への途上にあるが、民主化の動きはジグザグに進み、不安定な政情がつづくだろう。

 中国は民主化のきっかけになるとされる一人あたりの購買力平価1万5千ドルのラインを5年以内に越えるとみられるが、中国の民主化をめぐる混乱は周辺各国に多大な影響をおよぼすだろう。

 第三はアメリカは「世界の警察官」の役割を果たせなくなり、「大国」が衝突する可能性が高まることである。

 イスラム原理主義のテロは2030年までには下火になるが、テロがなくなることはない。テクノロジーの進歩がテロリズムをより破壊的にする。

 第四は地域紛争の増大である。

 中東ではサウジアラビアが凋落し、近隣諸国へ援助することができなくなる。シーア派と親イラン勢力が台頭し、イエメンが火薬庫となる。

 南アジアではパキスタンが鍵となる。パキスタンとインド関係が改善し、双方が経済成長してイスラム過激派が縮小するのが最善の道だが、パキスタンとアフガニスタンがよりイスラム化すれば緊張が高まり、政治的・社会的に破綻すると手がつけられなくなる。

 東アジアでは「経済は中国依存・軍事は米国依存」の状況は変わらないが、四つのシナリオが考えられる。

  1. 現状維持型
  2. 新均衡型
  3. EU式の共生型
  4. 中国覇権型

 最後の「中国覇権型」は日本の衰退が急激に進むか、インドの台頭が遅れた場合である。

 第五は最新技術の影響力で、水をめぐる紛争や気候変動の影響を克服するためにも最新技術がもとめられる。

 第六はアメリカの役割の変化である。アメリカは覇権国ではなくなるが、依然としてトップ集団の一位でありつづけるだろう。かつて2020年にGDPで中国に抜かれるという予測があったが、世界トップレベルの大学、安価なシェール系燃料、移民流入による若い労働人口のおかげで、2030年でも一位を維持しつづける。

 不安定要素としては高齢化による医療負担増、中等教育の水準低下、所得分配の格差拡大があげられる。

 アメリカが再成長するという楽観的なシナリオと、没落するという悲観的なシナリオがありうるが、再成長するためにはヨーロッパの経済的安定が不可欠である。

 第3章では以下の四つのシナリオが検討されている。

1.欧米没落型

過激な国家主義と排他主義で自由貿易圏が姿を消す。中国とインドは政治・経済システムの近代化に失敗する。

2.米中協調型

本書がもっとも望ましく、蓋然性が高いとしているシナリオで、アメリカ、中国、EUが協調して世界の課題にあたる。

3.格差支配型

勝ち組国家と負け組国家がはっきりわかれる。アメリカはシェール系燃料で勝ち組になるが、孤立主義の傾向を強める。

4.非政府主導型

非政府組織や多国籍企業、団体、準国家的な単位(巨大都市)が繁栄し、地球的なの課題を解決する。米中協調型につぐ成長をみせる。

 意外だったのは「格差支配型」のシナリオが日本に有利なことである。日本は「格差支配型」の世界では勝ち組国家になるらしい。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

2009年10月29日

『国家の崩壊』 宮崎学&佐藤優 (にんげん出版)

国家の崩壊 →bookwebで購入

 突破者こと宮崎学氏が主宰する研究会で、ソ連崩壊について佐藤優氏が八回にわたって講演した内容をまとめた本である。毎回、宮崎氏の前ふりがあり、それに答える形で話がはじまるが、宮崎氏の部分はピントが呆けており無視して差し支えない。

 ソ連崩壊前後については『自壊する帝国』と『甦る怪物 』という重量級の本があるので、どうせ二番煎じだろうと書店でぱらぱらめくってみたが、両著にない話が散見するではないか。これはと思って読んでみたところ、読んで正解だった。

 『自壊する帝国』と『甦る怪物』は回想録であり、自分が見聞したままを地べたを這いまわるような虫の視点に徹している。混乱の現場に手持ちカメラで突っこんでいくような迫力があるが、引いた視点をあえて避けていたのか、全体像が見えにくい憾みがあった。

 本書ではレーニンからプーチンにいたるソ連=ロシアの歴史、とりわけ民族問題の歴史が鳥瞰されている。地を這う虫の視点から、突然、大空から見下ろす鳥の視点に切り替わったようなもので、既読の話題が出てくると、あれはそういう意味だったのかという知的なカタルシスがある。

 西ウクライナのガリツィアがソ連崩壊の発火点となったことは『甦る怪物』で詳しく解説されていたが、本書にはヤコヴレフ政治局員がらみの因縁話が出てくる。理性の奸知というか、なんとも皮肉な話である。

 本書にあって回想録二部作にない話柄としては行儀の悪い話がある。佐藤氏の回想録に登場するのはロシア・インテリゲンチャの最良の部分なので、行儀の悪い話はあまり出てこない。独立派のバリケードの中で乱交がおこなわれていたとか、最優秀の女子学生がマフィアの情婦になったとか、リガのサーシャが高校時代に恩師の女教師と男女の関係になり、同棲をはじめたといったエピソードが出てきても、魂に訴える悲しい話として語られているので行儀が悪いという印象にはならなかった。

 それに対して本書には行儀が悪いというか、ぶっちゃけた話がどんどん出てきて、その面でもカタルシスがある。本書では労働者やマフィアが生き生きと描かれているが、一番面目をほどこしたのはエリツィンである。

 回想録二部作に登場したエリツィンは、著者と直接のつきあいがなかったせいか、人間味がほとんど感じられなかった。本書ではエリツィンは「地頭のいい男」として魅力的に描かれていて、ゴルバチョフのようなええかっこしいが負けるのは当たり前と思えてくる。

 本書の後半ではソ連=ロシアに底流するユーラシア主義に紙幅がさかれているが、それに関連してスターリンの再評価がおこなわれていることも注目したい。スターリンの本は一冊も読んだことがないが、意外にもレーニンに匹敵するインテリだったらしい。スターリンの本は今では入手が難しいが、なかなか面白そうである。

→bookwebで購入

2009年10月28日

『甦る怪物 ― 私のマルクス ロシア篇』 佐藤優 (文藝春秋)

甦る怪物 ― 私のマルクス ロシア篇 →bookwebで購入

 表題からすると『私のマルクス』の続編のようだが、実際は『自壊する帝国』の続編である。

 前著は歴史の現場に立ち会った人の証言として圧倒的な迫力があったが、本書では崩壊の必然性が本格的に考察されるとともに、崩壊の瓦礫の下からせりあがってきたロシアの底力が描きだされている。表題にいう「甦える怪物」とは新生ロシアにほかならない。

 本書はソ連崩壊の翌月、モスクワ大学哲学部宗教史宗教哲学科(かつての科学的無神論学科)のポポフ助教授からプロテスタント神学の講義を依頼されるところからはじまる。

 哲学部というと日本の感覚では浮き世離れした変人の集まりという印象だが、ソ連では最優秀のエリートを養成する学部だった。ソ連では政治学はブルジョワの学問として禁止されていたので、科学的共産主義学科が西側でいう政治学科に相当し(ソ連崩壊後に政治学科に改称されている)、共産党エリートの登竜門となっていた。著者と関係の深い科学的無神論学科は発禁書にアクセスすることができるので非常に倍率が高く、優秀な学生が集まっていたという。

 逆に法学部は卒業してもうまみがないので(ソ連時代、弁護士には離婚訴訟くらいしか仕事がなかった)、成績の悪い学生がいくところだった。ゴルバチョフは法学部の出身である。

 本書の前半は「プロテスタント神学」を受講した教え子たちの物語である。学生だからといって侮ってはいけない。著者の授業にはソ連崩壊を象徴するような「濃い」学生が集まっていたのである。

 たとえば、アフガン帰還兵のアルベルト。著者はアルベルトを通してアフガン戦争の実態をはじめて知るが、われわれ読者にとっても衝撃的な内容である。

 また、核開発の拠点となっていた秘密閉鎖都市出身のナターシャ。彼女の父親は核物理学者で特権階級の暮しをしていたが、ソ連崩壊で収入と誇りをなくし、人格が壊れていった。彼女は著者の依頼する翻訳の仕事で一家を支えつづけるが、それでは追いつかなくなり、研究者の道をあきらめてマフィアの愛人に身を落とす。

 こういう修羅場をくぐった世代が官僚や政治家となって今のプーチン=メドヴェージェフ政権を支えているのである。

 佐藤氏は月60万円の在外勤務手当のうち、千ドルで学生にアルバイトを依頼したり教材を無料で配布したりしたそうだが、実に有効な使い方をしてくれたと思う。蓄財しか考えない外務省職員が煙たがるわけだ。

 本書の後半は民族学研究所の学者たちとの交友記だが、こちらも学者だと侮ってはいけない。ソ連では表向きは民族問題は解決したことになっていたが、崩壊後の混乱で明らかなように解決などしておらず、もっともデリケートな問題だった。当然、少数民族に関する情報が集積している民族学研究所は、ソ連時代、西側の外交官は絶対に近づけない聖域で、ソ連崩壊後も研究所出身者が民族政策を策定する枢要な地位についた。

 プロテスタント神学の専門家という学者の顔をもつ著者は民族学研究所の門をたたき、一人のインテリゲンチャとして信頼を得て、自由に出入できる資格をあたえられる。

 いりくんだ話なので本書を読んでほしいが、ソ連崩壊の最大の原因は民族問題、それもイスラム問題にあったようである。ソ連にとって致命傷となったアフガニスタン侵攻にしても侵攻せざるをえない事情があり、しかもそれはソ連建国にさかのぼる根深い事情だったのである。

 『自壊する帝国』と『甦る怪物』をつづけて読んで、わたしのソ連=ロシア観は根底から変わった。ロシアは底が知れない。

 なお、『国家の崩壊』はソ連崩壊とロシアの再生を『自壊する帝国』・『甦る怪物』の二部作とは別の角度から考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

→bookwebで購入

2009年10月26日

『自壊する帝国』 佐藤優 (新潮文庫)

自壊する帝国 →bookwebで購入

 佐藤優氏は1987年にロシア語研修のためにモスクワ大学言語学部に留学した後、そのままモスクワに在勤する。途中、中断はあるが、モスクワ勤務は1995年まで7年8ヶ月にわたる。この間、1991年のソ連崩壊やエリツィン政権の成立があった。異例の長期モスクワ勤務は著者がつくりあげた人脈が必要とされた結果だろう。

 クレムリン内部だけでなく、独立派にまで人脈をもっていた著者が現場で目撃したソ連崩壊のドキュメントというだけでも重要だが、著者はソ連崩壊のような歴史的事件になると政治学や経済学では間にあわず、哲学や神学のレベルで受けとめる必要があると書いている。本書は思想の問題としてソ連崩壊を考えようとしているのである。自己の経験を思想レベルに昇華しようという努力が本書の特質となっている。

 著者がソ連=ロシアと係わるようになったのも神学がらみだった。著者は学部と大学院を通じて「プラハの春」の理論的指導者だったチェコの神学者、ヨゼフ・ルクル・フロマートカを研究するが、チェコ留学は困難だったので外務省に入省してチェコ語の現地研修を受けることを思いつく。ところが東欧研究から転じた外務省入省者には語学研修を終えるとやめてしまう者がすくなくなかったので、外務省は食い逃げを警戒して、著者をソ連課に配属しロシア語の研修を命じる。

 著者はまず英国陸軍語学学校でロシア語の基本を学ぶが、ここで重要な出会いがある。ロンドンでチェコ語書店「インタープレス」を経営する亡命チェコ人ズデニェク・マストニークの知遇をえたのだ。

 マストニークはBBCのチェコ語放送に係わったジャーナリストであり、チェコスロバキア政府が必要とする理工学書と引換に倉庫に眠っていた発禁本を引きとって西側に流通させていた。彼はこの事業を通じて東側の反体制知識人に人脈を広げ、情報活動にもかかわっていた。著者はマストニークからソ連東欧の知識人とのつきあい方を学び、情報活動のイロハを伝授される。著者が短期間で広い人脈を築くことができたのはマストニークの教えを受けたことが大きいだろう。

 その後、モスクワ大学言語学部で研修を受けることになるが、ソ連時代は西側の外交官に語学力をつけさせないために、教室でフリートークを装ったつるしあげをして学校に来るのが嫌になるように仕向けていたという。

 著者もつるし上げに嫌気がさして言語学部の授業には出なくなるが、代わりに哲学部の科学的無神論学科の聴講を申しこみ、ここでソ連社会の裏側に通じる入口を発見する。

 著者が神学部を選んだのは無神論を研究するためだったが、ミイラとりがミイラになるの喩え通りクリスチャンになった。もともとの興味が無神論だったので科学的無神論学科の門をたたいたのは自然のなりゆきといえよう。

 ところが、モスクワ大学の科学的無神論学科の無神論は建前だけで、実態は宗教哲学の研究拠点だったのだ(ソ連崩壊後は「宗教哲学科」と改称)。そこには19世紀ロシア文学から抜けだしてきたようなロシア・インテリゲンチャの生き残りが集まり、構造主義のような西欧の最新の思想もリアルタイムで研究されていた。もちろん、神学も構造主義もソ連では禁じられていたが、論文の最初と最後にマルクス・レーニンを引用して教条的な批判をやっておけば、真ん中の部分に研究成果を書きこむことはお目こぼしされていたという。

 科学的無神論学科のような危険な学科が許されていたのは共産党内部にロシアの知の伝統を守ろうという知識人がいたからである。

 ソ連では知識人は警戒されていた。ボルシェビキの初期の幹部はレーニンも含めて錚々たる知識人だったが、彼らはスターリン時代にほとんど粛清されてしまった。大学出のインテリは党官僚にはなれても、政治家にはしないというのが暗黙の了解だった。大学出でソ連共産党書記長になったのはゴルバチョフだけだった。

 インテリゲンチャは少数派で警戒される存在だったから、知を尊重する者どうし互いに助けあっていた。著者は科学的無神論学科のインテリゲンチャの信頼を勝ちえることで、ソ連社会の裏側に張りめぐらされたネットワークに乗ることができた。クレムリンの内部からバルト三国の独立派まで、幅広い交友をもつことができたのはそのためだし、八月クーデタの際のゴルバチョフ生存情報という最重要の情報をつかむことができたのもインテリゲンチャどうしの信頼のおかげだった。著者は生存情報を教えてくれた元ロシア共産党最高幹部のイリインにこう問いかける。

「あんな重要な秘密を、僕みたいな西側の、それも下っ端の外交官に教えてくれた理由はなんですか」
「人間は生き死にに関わる状況になると誰かに本当のことを伝えておきたくなるんだよ。真実を伝えたいという欲望なんだ」

 日本は良くも悪くも大衆社会なので知識人っぽい人はいても、階級としての知識人は存在しないが、ソ連時代を経てもロシアには厳然と存在していたわけだ。

 思想やインテリゲンチャの問題を別にしても、本書には現地を知った人だけが書ける貴重な知見にあふれている。ソ連崩壊後、雨後の筍のように誕生したおびただしい民主派政党のあきれた内情や、ジリノフスキープロレスの悪役のようなもので、その反ユダヤ主義は八百長にすぎないという。『罪と罰』の江川卓氏の謎解きで日本でも有名になった分離派がラトビアで密かに命脈をたもっていたというのも驚きである。

 『甦る怪物』は本書の続編でソ連崩壊二部作を構成している。また、『国家の崩壊』は別の視点からソ連崩壊を考察しており、あわせて読むと理解が深まるだろう。

→bookwebで購入

『国家の罠』 佐藤優 (新潮文庫)

国家の罠 →bookwebで購入

 先日、最高裁で有罪が確定した元外務省主任分析官、佐藤優氏の手記である。

 本書は右から左までさまざまな立場の人に絶賛されたベストセラーであり、今さら感があるが、読むタイミングを逃していたので(みんなが読んでいる本を手にとるのは若干抵抗があるのである)、有罪が確定した機会に読んでみた。

 面白いとは聞いていたが聞きしに勝る面白さで、密度の高い文章が550頁つづくのに二日で読みきった。その後も佐藤氏の本を読みつづけ、主要な本を一通り読みおえたので、ここでまとめて感想を書いておきたい。

(一つのテーマでまとめて感想を書くことについて、キャンペーンをやらせているのではないかと「書評空間」事務局に苦情があったそうだが、まったくの誤解である。テーマを決めて感想を書くのは1998年以来ネットでつづけているわたしの流儀なので御容赦いただきたい。選書の方針については拙サイトの10月24日付エディトリアルに述べたので、興味のある方は読んでほしい。)

 著者は同志社大神学部と同大学院を卒業後、外務省にノンキャリアで入省し、崩壊前後のソ連で情報収集に成果をあげたが、本省にもどって北方領土返還交渉にあたった後、鈴木宗男事件に連座して逮捕されている。容疑は背任と偽計業務妨害だったが、著者は「国策捜査」による冤罪だとした。「国策捜査」という言葉は本書によって広まったといってよい。

 本書は基本的に弁明の書なので、背任容疑の対象となったロシア情報の収拾活動の実態や偽計業務妨害容疑の対象となった北方領土の現状、さらには外務省やロシア政界の内情まで踏みこんで語っており、興味が尽きない。

 著者はソ連=ロシアの情報収集で抜群の成果をあげ「異能の外交官」とか「外務省のラスプーチン」と呼ばれるようになるが、この情報収集が世界的なレベルなのである。ソ連時代からクレムリンの奥深に出入できる人脈を作りあげ、八月クーデターではゴルバチョフの生存情報を世界で最も早くつかんでいる。エリツィン政権になるとモスクワ大学で教鞭をとるようになり、エリツィン元大統領の最側近三人のうち二人の信頼を勝ちえて執務室の奥のプライベートルームにまで出入できるようになっている。ソ連崩壊の引金となったリトアニア独立の際には独立派が立て籠もったバリケードの内側と外側の橋渡しをし、独立後、リトアニア政府から独立に貢献した64人の外国人の一人として勲章を授与されている。

 驚くべき話が次から次へと出てくるが、思想レベルに昇華されているので自慢話臭さはない。後に出た本を読むとわかる、そもそも本書に書かれている見聞はほんの一部にすぎず、これでも抑えに抑えて書いているのだ。

 本書の中核部分は512日におよんだ拘置所生活と、そこでくりひろげられた取調検事との攻防である。容疑者と検事の攻防というと『罪と罰』を連想するが、ラスコーリニコフはどう見ても西村検事の方だ。

 わたしは「国策捜査」は著者の造語と思いこんでいたが、実際は特捜部の内部用語のようである。逮捕の当日、著者に「本件は国策捜査だから逃げられない」と言いわたしたのは取調にあたった西村尚芳検事だったのである。

 「国策捜査」について著者と西村検事は迫真の議論を展開するが、西村検事の見解はこうだ。

「あなたを捕まえた理由は簡単。鈴木宗男に繋げる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」

 国策捜査=国家による冤罪と受けとる人が多いと思うが、西村検事によればそれは違う。

「冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと嚙み合っていれば、社会的成功者として賞賛されていたんだ。そういう人たちは、世間一般の基準からするとどこかで無理をしている。だから揺さぶれば必ず何かでてくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ」

 揺さぶれば出てくるということは揺さぶらなければ出てこないということでもある。公訴権の濫用だけでも問題なのに、著者によれば特捜部の検事自身が政治的濫用を認めているわけだ。本当にこんなことを言ったのだとしたら恐ろしいことである(名誉棄損で告訴されていないところをみると、実際にそういう発言があったのだろう)。

 西村検事は国策捜査は時代を変えるために必要と述べているが、これはあくまで著者との応酬の中で作り上げられていった理屈であって、特捜部全体のコンセンサスではないだろう。第三者的にみれば特捜検事は政権トップによる政敵つぶしの片棒をかつがされているわけで、時代を変えるためという名分は後知恵か、汚れ仕事から目をそらすための自己弁護にすぎないのではないか。

 西村検事は著者との関係を保つために、通常では考えられないさまざまな便宜を供与したようである。検事としてやりすぎではないかと思うが、特捜部は西村検事の判断を支持しつづけ、一審では公判もまかせている(筋の悪い事件なので引き受け手がいなかったのかもしれないが)。一段落したところで水戸地検に栄転しているが、自由に腕をふるわせ仕事を評価してくれる上司をもった西村検事を著者は「うらやましい」と書いている。

 文庫のための「あとがき」では、オランダ大使に転出後、外国生活をつづけて逮捕をまぬがれた東郷和彦元欧亜局長が5年ぶりに帰国し、二審で著者の側に立った証言をおこなった経緯が記されている。それはそれで結構なことだが、東郷氏は祖父の代からの外交官でキャリア組だから、ノンキャリアの著者とは外務省のあつかいが違うことも押さえておいた方がいい。

→bookwebで購入

2008年06月30日

『北京五輪後、中国はどうなる?』 宮崎正弘 (並木書房) & 『日中の興亡』 青山繁晴 (PHP研究所)

北京五輪後、中国はどうなる?
→bookwebで購入
日中の興亡
→bookwebで購入

 中国は経済発展で変わったといわれてきたが、長野の聖火リレー騒動で沿道に林立した五星紅旗に、文革時代と同じメンタリティじゃないかという感想をもった人はすくなくないだろう。

 聖火リレー騒動ではマスコミの報道も問題だった。新聞や東京のテレビを見ている限り、「台湾人の男」が一人飛び出してきたことを除けば平穏に終わったような印象だったが、ネットでは中国人留学生による暴行事件や道交法違反が多発したこと、長野県警は留学生の違法行為は見のがし、日本人と「台湾人の男」だけを逮捕したという情報が広まり、後に月刊『WiLL』などの雑誌メディアが後追い報道をした。ちなみに「台湾人の男」は亡命チベット人だったことが判明している。

 NHKの『激流中国』のような例外もあるが、大手マスコミの中国報道は概して腰が引けており、印象操作や語られないことが多い。中国報道に関する限り、比較的マイナーな媒体で中国に対して批判的な姿勢を貫いてきた保守派のジャーナリストの方が信用できると思う。

 今月、保守派のジャーナリストによる注目すべき本が二冊出たので紹介したい。

 まず、青山繁晴氏の『日中の興亡』である。青山氏は共同通信記者から三菱総研勤務をへて独立した人で、テレビのコメンテーターとしてもおなじみである。

 テレビのコメンテーターを「マイナーな媒体」の人と呼ぶのはおかしいかもしれないが、関西の番組では東京より何倍も持ち時間があるので、格段に立ち入った内容が語られているし、東京では出てこない内容もすくなくない(青山氏のファンが青山氏の出演部分を YouTube にアップロードしてくれるので、関西以外でも視聴できる)。

 青山氏が関西の番組で語る内容は考えさせられるが、本書は活字の強みを活かして歴史的背景まで踏みこんでおり、青山氏の危機感がきわめて深刻であることを知った。

 中国は2005年から今年にかけて、インドとロシアとの間で長年くすぶっていた領土問題の決着をつけた。さらには中越戦争以来、ぎくしゃくしていたベトナムとも関係を改善している。多くの識者はこうした動きを中国の国際協調のあらわれと歓迎している。

 青山氏は中国の領土問題の決着こそ、日本にとっての危機だと警告する。それを理解するには歴史をすこしさかのぼる必要がある。

 中国は建国するやいなや、チベットを侵略して全土を占領下におき、建国十年目の1959年にはインドのカシミール地方に侵入した。紛争は3年間つづいたが、中国はインドを圧倒していたにもかかわらずシッキム州のごく一部を占領するにとどめ、それ以上軍を進めなかった。

 中印紛争の十年後、中国は中ソ国境を流れるウスリー河の中洲でソ連と交戦し、アムール河と新疆ウィグル自治区の国境でも衝突している。しかし、前面戦争にはいたらず、中国はわずかな中洲を占領しただけで軍をとめ、長期のにらみ合いにはいった。

 いずれも中国が得た領土はわずかだが、中国はそんな狭い土地を得るために軍を動かしたのではないと青山氏は言う。

 では、なぜか? 青山氏は中国はチベット・新疆・内モンゴルへの干渉をあらかじめ封じようとしたのだと解説する。西隣の大国インドと、北隣の大国ソ連は、チベット・新疆・内モンゴルに干渉しようと思えばいつでもできる位置にある。スターリンがその気になっていれば、国共内戦の隙をついて、内モンゴルの蒙古連合自治政府をモンゴル人民共和国の一部にすることは簡単だったし、新疆の東トルキスタン共和国をソ連に組みこむことだって不可能ではなかったろう。インドはダライ・ラマの亡命を受けいれており、もしその気があれば、チベット独立運動を支援してアフガン化させ、中国を西から脅かすことができたはずだ。

 チベット・新疆・内モンゴルに手を突っこもうとしたら、本気で戦うぞとソ連とインドに示すために、中国は国境で小競り合いを起こしたというのである。

 実際、ソ連とインドは中国には手を出さず、チベット・新疆・内モンゴルは中国による漢族の入植がどんどん進められたのはご存知の通りである。中国は膨大な人口を食べさせていくために、チベット・新疆・内モンゴルの広大な土地と地下資源がどうしても必要なのである。

 中ソ紛争の十年後、中国は今度は南のベトナムに攻めこんだ。インドとソ連との戦いは干渉排除のための威嚇にすぎず、領土まで奪う意図はなかったが、小国ベトナムに対しては十万の陸軍と海軍を動員して領土を奪いにかかった。しかし、対米戦争で鍛えられた陸ではベトナム軍に大敗を喫し、撤退を余儀なくされた。

 ここで注意しなければならないのは、ベトナムは陸では国土を守りきったものの、海では海軍が貧弱だったために南沙諸島を守りきれず、中国に奪われてしまったことだ。

 中国は建国以来、十年ごとに西のインド、北のソ連、南のベトナムを攻めている。中国が唯一攻めなかったのは東だけだ(朝鮮戦争はスターリンによって押しつけられた戦争なので、中国の主体的な意志とはいえない)。

 青山氏は中国が東だけ攻めなかったのはアメリカ軍が恐かったからだと書いている。

 二冊目は宮崎正弘氏の『北京五輪後、中国はどうなる?』である。宮崎氏は雑誌『浪漫』をへてジャーナリズムの世界にはいった人で、中国関係・アジア関係著書が多数ある。週刊朝日の半ページのコラムで名前を知った人も多いだろうが、わたしは「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」というメールマガジンで知った。このメールマガジンは情報の速さと目配りの広さで群を抜いている。

 毒入り餃子、チベット騒乱、聖火リレー、オリンピックを前にした株価の暴落など、最近の話題をとりあげているが、背景にまで踏みこんでいるので、一つの繋がった絵として見えてくる。注目したいのは、日本では毒入り餃子騒動のために報じられることのすくなかった南部の大雪を詳しくとりあげていることだ。欧米では、ヘラルド・トリビューン紙が一週間連続で一面で大雪事件を報道したように、大きな扱いだったという。この大雪は、中国の民衆にあたえた影響もさることながら、インフラのお粗末さがあきらかになっていて、四川大地震に次ぐ大事件だったことがよくわかる。

→『北京五輪後、中国はどうなる?』を購入

→『日中の興亡』を購入

『中国の環境問題』 井村秀文 (化学同人) & 『中国汚染』 相川泰 (ソフトバンク新書)

中国の環境問題 →bookwebで購入

中国汚染 →bookwebで購入

 毒餃子事件をきっかけに中国のすさまじい環境汚染がテレビで紹介されるようになった。雑誌や単行本では以前から紹介されていたが、テレビの影響力は数段上で中国からの輸入食材が急に売れなくなった。春に飛来する黄砂や九州の光化学スモッグ、日本海に押し寄せるエチゼンクラゲ等々が中国の環境破壊に原因があることも今では常識となっている。日本にとって中国の環境破壊は他人事ではなく直接に影響があるのだ。

 中国の環境はどうなっているのだろうか。二冊選んでみた。

 まず、井村秀文氏の『中国の環境問題』。井村氏は環境庁出身の環境問題の専門家で、経済協力開発機構(OECD)日本代表部と横浜市に出向した後、現在は名大大学院で教鞭をとっている。

 本書は膨大な公刊資料をもとに中国の環境問題の全体像を俯瞰し、コンパクトにまとめた本である。中国政府が公開した統計をもとに数量的に把握しようとしている点が強みで、中国経済に環境要因がどのように影響しているかが素描されている。

 ただ、中国政府の公表した数字にどこまで信憑性があるかという問題はあり、本書中でも疑問が呈されている。

 第二に統計資料をベースにしているので、エネルギー需給や水需給など、資源問題が主になり、汚染についての記述がすくない点である。水不足が深刻なことはよくわかったが、水質汚染については統計が公表されていないのか、あるいはそもそも統計がないのか、著者自身の見聞を述べるにとどまっている。

 ゴミ処理にしても、以前は可燃ゴミがすくなかったので野積みだったが、経済発展にともない都市部では日本のゴミに近づき、ゴミ焼却場が増えているところまでは数量的に示されている。焼却施設はダイオキシン対策をほどこした最新の設備はまだなく、ダイオキシンが発生していると見られているが、どのくらいダイオキシンが出ているかの数字はない。公表されていないだけのか、あるいはそもそも調査していないのかはわからないが、もどかしいところである。

 以上、二つの点で限界はあるが、本書が中国の環境問題を考える上で必読の基本図書である点は変わらないだろう。

 二冊目は相川泰氏の『中国汚染』である。相川氏は鳥取環境大学の准教授ということだが、東大教養学部で国際関係論を学んだというから文系出身だろう。在学中から中国の環境問題に関心を持ち、市民運動をやっていたようだが、北京の中国人民大学に留学した経験があるという。

 本書は三章にわかれる。第一章は松花江事件や太湖のアオコ騒動、癌患者が多発する「がん村」など、中国で頻発する環境汚染の事例を紹介している。いずれも雑誌などでとりあげられた事例だが、背景まで含めて書いているので勉強になった。「がん村」は淮河流域が有名だが、実は中国全土に分布していて、地方によっては癌を伝染病と誤解しているため、癌であることを隠そうとしているそうである。

 第二章は中国の汚染対策を歴史を遡って記述しており、本書の一番の読みどころである。

 中国の環境汚染というと高度経済成長以後に発生したという印象を持ちがちだが、本書によると足尾鉱山型の鉱毒汚染は以前からあり、松花江の水俣病も、日本の水俣病を知った周恩来のお声がかりで調査がはじまった。

 周恩来が日本の公害に関心をもったおかげで、早くも1973年に全国環境保護会議が開かれ、1978年に憲法に環境保護条項がはいったり、環境保護法が制定されるなど法制面は進んでいるが、問題はそれがまったく効果をあげていない点だ。

 著者は中国の環境保護法が環境汚染を解決するどころか、むしろ深刻化しているとしている。中国の環境保護法では汚染物質を排出した企業は「汚染排出費」を払うと定めているが、低い金額に抑えられているために、汚染対策をするより安あがりだというのである。しかも、地方政府は「汚染排出費」を罪源として当てにするようになってしまい、汚染企業に免罪符をあたえる結果になっている。

 汚染があまりにもひどく、健康被害だけでなく経済的被害も出ているので、周辺住民が工場の入口を封鎖するなどの直接行動に出る事例が激増しているが、地方政府は重要な収入源である企業側に立ち、住民側を弾圧することが多いという。

 中国では県レベル(日本の県よりも小さい)までしか直接選挙がなく、三権分立がなく、裁判所は行政の一部門になっているので、住民側に立った環境行政は望むべくもない。暴動が起こるわけである。

 第三章は中国汚染の国境を越えた広がりと日本の協力が紹介されているが、環境問題に対する中国の民衆の関心は急激に高まってきているという。中国民衆の意識変化が唯一の希望である。

→『中国の環境問題』を購入 →『中国汚染』を購入

2008年06月29日

『老いはじめた中国』 藤村幸義 (アスキー新書) & 『老いてゆくアジア』 大泉啓一郎 (中公新書)

老いはじめた中国 →bookwebで購入

老いてゆくアジア →bookwebで購入

 スーザン・シャークの『危うい超大国』に中国は先進国の仲間入りをする前に高齢社会をむかえるとあった。所得が増えるにつれ出生率が低下するのは世界的な傾向だが、中国の場合、一人っ子政策によって人口の抑制をはかったために人口構成が人為的に歪められ、社会の高齢化が急速に進んでいるというのだ。

 重要な指摘だが、それ以上の言及がなかったので、この二冊を読んでみた。

 まず、藤村幸義氏の『老いはじめた中国』である。高齢化をあつかっているのは第一章だけだが、よくまとまっており、中国の高齢化がいかに深刻かがよくわかる。

 国連が出している "World Population Prospects" では65歳以上を「高齢者」とし、高齢者が全人口の7%に達すると「高齢化社会」、14%を越えると「高齢社会」と呼んでいるが、上海は2004年に「高齢社会」になり、重慶、北京、天津、江蘇も「高齢社会」目前である。中国全体でも2026年には「高齢社会」に突入する。高齢化のピークには日本同様、高齢者人口が40%を越える。しかも、中国では定年が男性55歳、女性50歳と早いので、「非生産年齢人口」という意味での高齢者の比率はもっと高くなる。

 高齢化は日本やNIES諸国(韓国、台湾、香港、シンガポール)の方が進んでいるが、日本やNIESは一人当たりGDPがすでに1万5000ドルを越えており、富裕化してから高齢社会をむかえるが、中国は現在の奇跡の成長率をあと20年間維持できたとしても 3000ドルにしかならない。中国は20年後、貧乏なまま高齢社会になってしまうのだ。

 社会の高齢化を遅らせるには一人っ子政策からの転換が必要だが、昨年1月に一人っ子政策の継続を決定しており、早急に撤廃される見こみはない。また、女性の意識が変化しているために、かりに一人っ子政策を撤廃したとしても、出生率が早急に回復するかどうかはわからないという。

 本書は高齢化というタイムリミットを切られた中国がかかえる環境破壊、所得格差、高度経済成長の終焉などの問題を解説しているが、日経新聞の元北京特派員だけあって記述は具体的であり、新書判ながら情報量は多い。シャークの『危うい超大国』は本筋からはずれた話題は簡単に片づける傾向があるが、本書のおかげであらましのわかった事例はすくなくない。

 たとえば『危うい超大国』の「新設の私立大学のいくつかでは、大学側が約束していただけの価値が卒業証書にないことが判明して、学生たちが大規模なデモを行っている

」という一節である。中国に私立大学があるというのでひっかかっていたのだが、本書によると 、高度経済成長の人材を育成するために1999年に「教育産業」が公式に認められ、各地で公立大学が母体となって「独立学院」という私立大学を設立するのがブームになった。母体となった公立大学と同じ卒業証書を授与すると学生を集めたが、政府の指導で別の卒業証書になったので学生が怒って騒動になったという。中国には私立大学の伝統がなかったために、教育が身もふたもない金儲け主義の対象になってしまったのである。

 中国は高度経済成長を維持するために外資を優遇してきたが、税金の優遇の撤廃を決めるなど外資規制の方向に梶を切っている。今後、国内産業を守るために非関税障壁で抵抗し、それでも守りきれなかったらWTO脱退もありうると著者は見通しを述べている。

 それにしても、 元日経記者が書いたとは思えないくらい悲観的な話がつづき、中国が21世紀の超大国になるという話は夢のまた夢としか思えなくなる。日経の行け行けどんどんの論調を信じて中国に投資してきた人はどんな思いで本書を読むだろうか。

 大泉啓一郎氏の『老いてゆくアジア』は『老いはじめた中国』以上に衝撃的である。高齢化は日本やNIES、中国だけでなく、アジア全体で進行していることを揺るぎないデータと論理で示しているからだ。

 大泉氏は三井銀行総合研究所(現在は日本総合研究所)の研究員で、今年、本書によりジェトロ・アジア経済研究所の「発展途上国研究奨励賞」を受賞している。

 近代化にともない、一国の人口構成は多産多死のピラミッド型から少産少死の釣鐘型に変化していくが、その途中、多産少死の一時期があり、人口比グラフは中間で突出した壺型になる。アンドリュー・メイソンはこの人口比グラフの突出部を「人口ボーナス」と呼び、1997年の「人口とアジア経済の奇跡」で出生率の低下と「生産年齢人口」の割合の急激な上昇がアジアの経済発展をうながしたとする「人口ボーナス論」を提唱した。

 人口ボーナス論は D.E.ブルームや J.G.ウィリアムソンに受けつがれ、1960~90年の東アジアの高度経済成長は 1/3が人口ボーナスによるものだという推計や、人口ボーナスを経済発展に活かすには人口構成の変化に適した政策をとる必要があるとする研究が出ているという。

 人口ボーナス期間のはじまりと終わりをどう考えるかには諸説があるが、著者は生産年齢人口の比率が上昇する時期と下降する時期と明解に定義し、日本は1930-35年にはじまり、1990-95年に終わったとしている。NIES諸国と中国は台湾がやや早いものの、おおむね 1965-70年にはじまり、2010-15年に終わりをむかえる。ASEAN諸国もやはり1965-70年にはじまるものの、終わりの時期は2010年から2040年とばらついている。インドの場合は1970-75年にはじまり、2035-2040年に終わるとしている。

 人口ボーナス期間の前半は高度経済成長が可能だが、後半になると国内貯蓄率が高まり、教育レベルが上がるものの社会の高齢化がはじまるので、産業を労働集約型から資本集約型に転換させる必要がある。その後に来る高齢社会で経済成長を維持するには知識集約型の産業を興さなければならない。

 中国は人口ボーナス期間の前半のうち、最初の10年間を文革で空費したが(1965-78年の経済成長率はわずか3.9%)、後半にはいった現在も10%の成長率を維持している。これは1988年まで私企業の活動が制限されていたために、毎年1000万人増加していた新規労働力を工業部門が吸収できず、農村に滞留していたため、目下、都市部限定の人口ボーナス効果が起きていると著者は説明している。タイも同じような状況だという。

 本書の第四章は「アジアの高齢者を誰が養うか」と題されているが、この章は必読である。日本の将来は暗いが、NIES諸国の将来も暗く、中国にいたっては真っ暗闇らしい。

 先日、自民党は少子高齢化対策として、50年間で「総人口の10%」(1000万人)の移民の受け入れを目指すという提言をまとめた。東アジア、特に中国の若い労働力を呼びこんで日本の産業に輸血しようというわけだが、日本の状況しか見えていない視野狭窄の意見にすぎない。アジア全体が少子高齢化に進んでいる現在、移民に頼ろうなどという安易な解決策はもはや不可能なのである。


→bookwebで購入


→bookwebで購入


『中国 危うい超大国』 スーザン・シャーク (NHK出版)

中国 危うい超大国 →bookwebで購入

 中国は1971年、ニクソン訪中に先だって15人のアメリカの大学院生を招いたが、著者のスーザン・シャーク氏はその一人に選ばれ、周恩来と親しく言葉をかわした。今は下野して大学で教鞭をとっているが、アメリカ国務省で長らく中国を担当し、クリントン政権時代には国務次官補として東アジア政策を統括する立場にあった。もし民主党政権が誕生したら、初の女性中国大使になると見られているという。

 本書は中国の裏と表に通じた著者が、外部からはうかがい知れない中国の権力構造の内情を描いた本で、眼から鱗というか、発見に満ちている。本書を読んでいて、そういうことだったのかと膝を打つことがたびたびあった。中国に関心のある人にとっては必読といえる。

 毛沢東と鄧小平は文革と改革・解放をはじめるために北京を離れ、上海で烽火をあげなければならなかったが、それは共産党中央宣伝部が北京のマスコミを支配しているためなのだという。毛沢東や鄧小平であっても、中央宣伝部の決定はくつがえせない。実際、中央宣伝部は1966年には毛沢東名義の論文、1992年には鄧小平の論文が「人民日報」に掲載されることを阻止している。毛沢東や鄧小平のような独裁者であっても、地方のマスコミを使って党内世論を動かすしかなかったのだ。

 毛沢東や鄧小平ですらこうだったのだから、江沢民や胡錦濤は中央委員会の操縦に苦労することになる。もちろん、特権の廃止はおろか、汚職の摘発など本気でできるはずもない。

 中央委員会は200人ほどの中央委員から構成されるが、中央委員は5年に一度開かれる党大会で選出される。総書記は最大の武器である人事権を使って子分を増やし、中央委員会で自派を拡大していくしかないのである。著者は総書記と中央委員会の関係をローマ法王と枢機卿会議の関係になぞらえている。

 総書記が責任を負うのは中央委員会に対してであって、一般国民に対してではないが、江沢民も胡錦濤も自分にはカリスマがなく、マルクス主義も権威を失っていることを自覚しており、世論の動向に神経質になっている。

 江沢民は後ろ盾の鄧小平の健康悪化後、権威を高めようとしてナショナリズムと反日を煽り、成功をおさめたが、それは両刃の剣だった。

 もともと中国のナショナリズムは日本を鏡として誕生したという経緯があるが、台湾がからんで、より一層こじれている。台湾は日清戦争で日本に奪われた領土であり、台湾との統一が達成されるまでは列強から侵略を受けた国辱の一世紀が終わらないという教育を中国はしてきたのである。

 中国にとって台湾は国防上の脅威ではなく、統一しても特別な利益があるわけではないが、台湾統一に過度の意味をあたえてきたために、中国共産党は引くに引けなくなっていると著者は見ている。

 日本問題も似たようなものだ。中国の指導層は対日関係を改善させたいと考えているが、インターネットが普及してしまったために、対日強硬論を抑えこむことが不可能になっている。ある人民解放軍大佐は「まだ党が国内の情報の流れを完全に掌握していた十年前なら、できたかもしれないが、今ではもう無理だ

」と語ったということである。

 著者は国務副長官在任中に起きたベオグラードの中国大使館誤爆事件の顚末を詳しく語っているが、たまたま誤爆が法輪功による座りこみ事件の二週間後におきたために、江沢民は不安から過剰反応してしまい、対米関係でも、法輪功との関係でも、後戻りのできない誤りを犯したとしている。

 1995年の李登輝訪米問題と1999年の中国のWTO加盟問題も著者の次官補在任中に起きている。江沢民は中米関係を重視していたが、台湾に対して融和的な呼びかけをおこなった直後にアメリカが李登輝の訪米を認めたために、江沢民は面子を失った。1999年4月のWTO加盟問題では中国側が大幅に譲歩したにもかかわらず、アメリカ議会の賛同がえられなかっために、クリントンは中国の加盟に賛同する文書に署名しなかった。WTO交渉のために訪米した朱鎔基首相(当時)は手ぶらで帰ることになり、中国政府の特別機に同乗した著者は朱鎔基の気落ちした姿を目撃している。実際、北京にもどると朱鎔基は指導層はもちろん、農業団体、産業団体、インターネットの世論からも売国奴と集中砲火を浴び、事前に対米譲歩を承知していた江沢民からも裏切られて贖罪羊にされてしまった。

 結局、その年の11月にWTO加盟問題は解決するが、江沢民指導部とアメリカは手痛い代償を払うことになる。著者はこうした経験から、中国の現在の指導者は権力基盤が弱く、外国に対して過度に虚勢を張らなければならないという確信を固める。強い中国より弱い中国の方が危険だというのが著者の持論である。

 中国の指導者は民衆の反発を買わないように政治問題以外は放任しているが、それ以上に神経を使っているのは反体制指導者になりそうな人間を共産党利益集団に取りこむことだ。資本家の入党を認めたのもそうだが、学生の入党も奨励している。天安門事件直後の1990年の学生の入党率は1.2%にすぎなかったが、2003年には8%に達している。特にエリート大学では勧誘に熱心で、精華大では学部生の20%、院生の50%が共産党員だという。

 悩ましいのは中国が経済的に繁栄すればするほど、中国共産党指導層の権力基盤が脆弱になり、理性的な行動がとれなくなることだ。中国とつきあうには中国の指導者の弱さを理解すべきだというのが本書のとりあえずの結論である。

→bookwebで購入

『鄧小平秘録』上下 伊藤正 (扶桑社)

鄧小平秘録 →bookwebで購入

鄧小平秘録 →bookwebで購入

 産経新聞は毛沢東時代の激烈な権力闘争を多くの証言で暴いた名著『毛沢東秘録』を出しているが、本書はその続篇である。著者の伊藤正氏は現在は産経新聞に移っているが、1974年以来、共同通信社の北京特派員をつとめた人で、二度の天安門事件と毛沢東の死の時も北京にいあわせ、本書にも当時の生々しい体験が語られている。

 『毛沢東秘録』は毛沢東の死後、夥しく出版された手記や回顧録をもとに書かれたが、本書も最近出た本と関係者の取材がもとになっている。もちろん、その多くは中国本土では出版できず、香港や台湾で刊行されている。四人組中、ただ一人刑期を満了して出獄した姚文元の回顧録や、第二の天安門事件で失脚後、死ぬまでの15年間、軟禁生活を余儀なくされた趙紫陽のインタビュー集は香港で出版されたというから、一国二制度は無事に機能しているようだ。本書の連載中も情報漏洩はつづいており、第二の天安門事件を策を弄して「反革命暴乱」に仕立てあげた黒幕は李先念だという秘話は最後の章に、毛沢東が遺言で江青を党主席に指名していたという事実はエピローグに書かれている。

 本書は鄧小平の生涯の最大の汚点となった第二の天安門事件からはじまるが、事件の背景に、前年断行された価格自由化の失敗があるという指摘は重要である。

 計画経済で供給が限られているのに、価格を自由化したら物価が高騰するのは当たり前で、実際、その通りになった。価格自由化は鄧小平の承認を受けていたが、物価高騰で国民の不満が高まり、保守派の攻撃が激しくなると、鄧小平は趙紫陽に距離をおきはじめる。趙紫陽は学生が天安門ですわりこみをしている最中に北朝鮮訪問で北京を留守にするという致命的なミスを犯すが、その背景にはある程度騒動が大きくなったところで学生を説得して納め、勢力挽回をはかろうという計算があったようである。しかし、北京を離れている間に、保守派が主導権を握り、「人民日報」に学生運動を「動乱」と決めつけた社説を掲載する。学生側の指導者は運動をコントロールできなくなり、物価高騰で不満を持つ労働者や地方から来た学生が合流したことで、事態はいよいよ暴走をはじめる。

 保守派が学生に対して強硬姿勢を貫いたのは文革の再来を恐れたからだ。保守派といっても、最左翼の文革派はすでに排除されており、事件当時、党中央を構成していたのは文革で迫害を受けたかつての「走資派」だった。鄧小平もその一人である。彼らは「二つの司令部ができた」というように文革時代の言葉で状況を把握しており、権力の座から追われる不安に怯えていたのである。

 血の弾圧後、鄧小平の改革開放政策は停滞する。西側諸国から経済制裁を受けただけでなく、保守派が主導権を握ったために逆流現象が起こったのだ。鄧小平は総書記に保守派を避けて上海の江沢民を指名するが、中央で何の実績もない江沢民は自ら保守派になることでしか権力を維持できなかった。鄧小平は軍権は握りつづけたが、銃と並ぶもう一つの武器、ペンの方は保守派に奪われたままだった。

 第二部では改革解放を決定づけた1992年の南巡講話が語られる。  鄧小平は改革開放政策をもう一度軌道に乗せるために1992年春、南方を旅行し、改革解放の効果があがっていた深圳や上海で重要な講話をおこなうが、これは文革を発動するために毛沢東がおこなった南下をなぞったものだという。走資派で固まった北京に対抗するためには、毛沢東といえども上海で文革の烽火をあげるという方策をとるしかなかったが、鄧小平も保守派の包囲網を突破するために地方から党内世論を動かさざるをえなかったのだ。

 なぜ保守派はこんなに力を持っていたかという謎は第三部以降でわかる。

 第三部では文革で失脚した時点までさかのぼり、復活と二度目の失脚が、第四部では四人組追放後、三度目の復活を果たすまでが語られるが、この時期、鄧小平を守り、後押ししたのが保守派の長老たちだったのだ。

 四人組追放後も、華国鋒ら文革出世組が党中央を握っていたので、鄧小平は復活するまでに一年半かかっている。復活後も、実権派以前として文革出世組の抵抗がつづき、鄧小平が実権を握るまでにはさらに二年かかっている。この間、文革出世組と理論闘争を展開し、鄧小平の権力掌握を助けたのは、後に保守派の中心となって改革解放路線に立ちはだかることになる陳雲だった。歴史の皮肉というしかない。

 第五部では最高権力者になった鄧小平が共産党の正統性の根拠を階級闘争から経済発展に移し、奇跡の成長に邁進する姿が語られる。第六部は鄧小平の没後に吹きだした経済成長の歪みがテーマである。

 上巻巻末に日本に亡命した哲学者、石平氏の「私の見た鄧小平、鄧小平の時代と中国」、下巻巻末にアメリカに亡命した経済ジャーナリスト、何清漣氏の「鄧小平「経済改革神話」の破綻」が収録されているが、どちらもインパクトのある文章である。

 石平氏は『私は「毛主席の小戦士」だった』では鄧小平を独裁者と一刀両断していたが、実際はそこまで割り切れないらしく、複雑な思いを吐露している。

 重要なのは中国の今日の繁栄は鄧小平が復活し、92歳まで生きしたという僥倖の産物だと喝破している点だ。もし鄧小平が文革中に死んでいたら、四人組が追放されたとしても華国鋒ら文革出世組が権力を握りつづけ、金日成後の北朝鮮のような国になっていただろう。また、1988年までに死んでいたら、天安門事件の血の弾圧もなかった代わりに、中国は分裂と混乱の危機におちいり、経済成長どころではなかったろう。そして、1992年以降も長生きしていなかったら、南巡講話はなく、江沢民政権は保守派に逆戻りしていたはずだ。

 中国の今日の繁栄は本当にきわどいところで達成されていたのである。

 何清漣氏の「鄧小平「経済改革神話」の破綻」は、その今日の繁栄が砂上の楼閣にすぎずないことを容赦なく暴いている。

 鄧小平は資本主義を取りいれたといっても、「毛沢東主義を『体』とし、西側の科学技術を『用』とする」という体用論の枠内にとどまり、共産党独裁を維持するための方便にすぎなかった。鄧小平は根っからの共産主義者だという毛沢東の直観は実は正しく、鄧小平の改革解放路線の根本的な欠陥になっているというわけだ。

 共産党独裁は中国社会に安定をもたらした反面、共産党幹部による特権の世襲をまねき、社会的上昇のプロセスを閉ざしてしまった。鄧小平自身、子供たちの官倒行為を見逃すという悪い手本を示した。経済成長と教育の普及にもかかわらず、中産階級が育たず、大学や大学院の卒業者の失業率が高まり、階層対立が激化しているのは、そのためだ。何氏はまた共産党独裁がつづいているために、経済発展が近代的な信用の発達につながっていない点も指摘している。

 何氏は歴史は鄧小平に「最後の独裁者」となる機会をあたえたが、鄧小平は独裁体制の継続を選んでしまったと断罪している。

 中国の繁栄は先が見えたといってよさそうだ。

→bookwebで購入

→bookwebで購入

2008年05月31日

『私は「毛主席の小戦士」だった』 石平 (飛鳥新社)

私は「毛主席の小戦士」だった →bookwebで購入

 『売国奴』の三氏のうち、黄文雄氏と呉善花氏の本は読んでいたが、石平氏の本は読んだことがなかったので本書を読んでみた。

 本書は表題からわかるように、中国共産党からの訣別を語った自伝であるが、日本に来たから訣別したわけではなかった。毛沢東思想からの脱却は19歳で故郷の四川省を離れ、北京大学に入学した時におこなわれた。

 石平氏が北京大学に入学したのは改革解放政策が本格化した1980年のことである。

 石平氏は1962年の生まれであり、文革期に少年時代をすごした。当然、共産主義教育をたたきこまれ、「毛主席の小戦士」たろうとした。

 ところが1978年に鄧小平が全権を掌握すると、文革批判がはじまり、隠された事実が次々と暴かれていった。その中心となったのが北京大学だった。北京大学には毛沢東と四人組によって打倒され、拷問され、集会で辱めを受けた高級幹部の子弟が集まっていたからだ。

 彼らは当然、この暴露・批判運動のリーダー役となったが、何よりも重要だったのは、かつて共産党政権の中枢と知識界の中心に身をおいた彼らだったこそ知り得た、毛沢東政治の内幕と深層が、次から次へと暴かれたことである。
 そして、それらの一連の暴露と批判派、地方から北京大学にやってきた私のような田舎育ちの者にとって、かつて「毛主席の小戦士」であったこの自分にとって、まさに驚天動地の連続であった。

 地方出身で、素朴に毛沢東を信じていた著者がどれだけ精神的打撃を受けたかは想像にあまりある。著者は学生寮で同じ精神的打撃を受けた仲間たちと涙を流しながら議論しあった。その苦しみの中から、民主化運動の理念がしだいに固まっていった。それは単に毛沢東を否定するのみならず、共産主義の金科玉条であるプロレタリア独裁の否定に先鋭化した。

 暴君としての毛沢東は、確かに悪だが、毛沢東という暴君を生み出し、その恣意的な権力乱用を可能にした共産党の一党独裁体制は、さらに悪、ということになる。
 だとすれば、毛沢東のような暴君が、二度と現れてこないようにするためにも、国家と人民が、二度と生き地獄に陥ることがないようにするためにも、こうした一党独裁の政治体制を打破し、国家の法制を整備し、人民に民主主義的権利を与えなければならない。
 それがすなわち、私たちの世代の若者たちが、心から信じた政治改革の目的であり、民主化運動の理念であった。

 中国の民主化運動がここまでつきつめたものだったとは、不勉強にして知らなかった。よく言われる欧米の影響といったものでは必ずしもなく、文革の深刻な反省から生まれたものだったらしい。

 もちろん、こんな運動を中国共産党が許すはずはない。毛主席は誤りをおかしたが、罪よりも功績の方が大きいというのが共産党の公式見解である。

 石平氏は大学卒業後、四川にもどって大学の助手となり、学生に対して民主化運動の啓蒙活動をはじめるが、大学当局から厳しい警告を受ける。さらに追い打ちをかけるように、1987年に胡耀邦が失脚する。

 天の配剤というべきか、石平氏は友人の引きで1988年に日本に留学するが、日本に来た翌年、天安門事件が起こる。

 石平氏は純朴な人柄らしく、読んでいて痛々しくなるが、救いは革命と文革で失われた中国の古典文化を日本に発見したことである。

 石平氏は成都の生まれだが、大学の教員をしていた両親が文革で下放されたために田舎の祖父の家に引きとられ、そこで小学校に通った。

 祖父は名医といわれた漢方医だったので紅衛兵の迫害を受けずにすんだが、孫である石平氏に秘かに本を暗記させた。意味を教えず、ただただ文章を書きとらせるだけだったが、そんな勉強をしていることは決して口外しないようにと厳命され、文章を書きとった紙は深夜、こっそり燃やすという念のいりようだった。

 石平氏は日本に来て、祖父が暗記させた文章が何だったかを知る。それは『論語』だった。そして、日本の書店の棚には『論語』に関する本がたくさんならび、中国人が弊履のように投げ棄てた「礼」が日本に残っていたことに気がつく。

 石平氏の日本文化開眼の条は感動的だが、こそばゆくもある。そんなに理想化してもらっては困るというのが正直な感想だが、中国の人々の喪失感がそれだけ深いということなのだろう。中国は遠藤誉氏が描きだした「大地のトラウマ」のようなことを半世紀にわたってつづけた。人心が殺伐とするのは当然である。共産主義という思想はどうしようもない。

→bookwebで購入

『売国奴』 黄文雄&呉善花&石平 (ビジネス社)

売国奴 →bookwebで購入

 中国、台湾、韓国から日本に留学し、そのまま日本にとどまって、著述活動をつづけている三人の論客による鼎談集である。座談の記録なのですらすら読めるが、語られている内容は深く、時に腕組みをしながら読んだ。

 「売国奴」という表題は穏やかではないが、母国の側から見れば、日本から母国批判をおこなっているのだから、立派な売国奴である。黄文雄氏は台湾が民主化したので売国奴とは呼ばれなくなったが、韓国出身の呉善花氏と中国出身の石平氏は今現在、売国奴呼ばわりされているそうである。

 中国も、台湾も、韓国も、日本も漢字文化圏であり、漢語を基礎とする共通のボキャブラリーをもっているが、実はこの共通のボキャブラリーが曲者である。なまじ共通であるために、誤解が生じるからだ。

 たとえば「国家」という言葉である。日本人はごく当たり前に、近代的な国民国家の意味に解するが、他の国ではなかなかそうはいかない。

 たとえば、近代以前の中国には、今の日本人が考えるような「国家」概念は存在しなかった。中国人の念頭にあったのは「国家」ではなく、中原を中心とする「天下」という世界であり、天下観はあっても国家観はなかった。

 「国家」は『易経』に出てくる古い言葉だが、『易経』の中の「国家」とは朝廷のことであって、国民は含んでいない。杜甫の「国破れて山河あり」の「国」も朝廷を意味していた。

 そもそも中国には国名がなかった。秦や漢、明は王朝名であり、支那は地域名だった。清末になって、天下が全世界を覆っているのではないと気がつき、国名をどうしようという議論になった。その時、候補にあがったのは「大夏」、「夏華」、「中国」に三つで、三番目の「中国」が選ばれた。天下から近代的な国家にいかに転じるかが、中国近代知識人の思想的課題だったのだという。

 儒教思想も近代国家「国家」概念の定着を危うくしている。

 儒教の影響が中国よりも強い韓国では「孝」を最上位におくために、「国家」への忠誠という概念がなかなか受けいれられなかった。

 日本の場合は、ヨーロッパと同じように、戦士階級による中世的支配の期間が長かったので、先祖に対する「孝」よりも主君に対する「忠」が優先されるようになり、それが「国家」への忠誠に発展したが、韓国では「孝」の優位が崩れなかったので、家族の拡大版としての「国家」概念しか生まれなかった。

 微妙な話なので、呉善花氏の発言を引こう。

「というより、近代国家を形成するにあたって、どうしても家族への孝を国家への孝へと本格的に拡大する考えの必要性が生じたわけです。そういう孝の価値観による以外に、国家への忠誠というモラルを生み出すことができなかったんですね。孝を超える忠ではなく、国家への孝が忠となるということです。
 私が家の父に対して親孝行する、それを民族的に拡大したところで大統領が体現している国家に対して孝を尽くす。本来は家族と国家は次元の異なる世界なのに、韓国では連続するひとつの世界であるかのように感じてしまうんです」

 このように説明してもらうと、韓国の歴代大統領の身内が懲りもせずに汚職をする理由も、北朝鮮で金正日のことを「情愛あふれるお父様」と呼ぶ理由も、なるほどと納得できる。

 国家観が違うのだから、「売国奴」概念も日中韓で相当な隔たりがある。

 日本では「売国奴」は数ある悪口の一つにすぎないが、中国や韓国では泥棒呼ばわりされるよりもひどい、全人格を否定する最大級の罵倒語なのだそうである。

 中国ではもともとは「売国奴」ではなく「漢奸」(漢民族への裏切者)と言った。ところが天安門事件以後、「漢奸」という言葉を避けて、もっぱら「売国奴」と言うようになった。

 理由は少数民族問題だという。「漢奸」の代表としては女真族の建てた金朝と屈辱的な条件で講話を結んだ南宋の秦檜などがいるが、現在の中国では女真族も中国人なので「漢奸」は具合が悪いのだそうである。

 一方、韓国ではアメリカや中国の味方をして韓国を批判しても「売国奴」呼ばわりされることはなく、もっぱら日本限定だそうである。「日本を評価して韓国を批判することが売国奴となる」というのだ。

 反日の行方についても、中国と韓国ではずいぶん違う。中国共産党は時代時代によって「敵」をころころ変えてきた。最初は地主階級だったが、途中から国民党とアメリカになり、ソ連になり、日本になった。天安門事件以後の中国共産党は、抗日戦争を戦って民衆を救ったということにしか正統性の根拠を主張できなくなった。だから、中国共産党が潰れれば、中国の反日は消えると石平氏は言う。

 一方、呉善花氏は反日は韓国人のアイデンティティの一部になっているので、未来永劫絶対になくなることはないと語る。剣呑な隣国を持ってしまったものである。

→bookwebで購入

2008年05月30日

『「反日」解剖 歪んだ中国の「愛国」』 水谷尚子 (文藝春秋)

「反日」解剖 歪んだ中国の「愛国」 →bookwebで購入

 四川地震に日本が救援隊を派遣したことで中国ではにわかに親日ムードが盛り上がり、ふだんは日本を罵倒する発言だらけのネットの掲示板にも日本に感謝する書きこみがあふれたという(『大陸浪人のススメ』というblogに文体まで再現した紹介がある)。

 だが、一夜にして生まれた親日ムードは一夜にして反日に転じかねない。長野の聖火リレーに結集して五星紅旗を振りまわし、日本人を旗でくるんで袋叩きにする蛮行におよんだ中国人留学生の豹変ぶりがネットで伝えられるのを読むにつけ、中国の若者に刷りこまれた反日の根深さに暗澹たる思いをいだかざるをえない。

 本書は『中国を追われたウイグル人』の水谷尚子氏が反日の実態について現地の関係者に広く取材して書いたルポルタージュであり、やはり大変な労作である。

 反日活動家のみならず、次々と作られている反日ミュージアム、反日映画、その反日映画で日本兵を演じてきた悪役専門の俳優たち、反日をテーマにしたコンピュータ・ゲーム、さらには日本人が巻きこまれる中国麻薬事情まで、実に多彩な事例をとりあげているが、第一章で紹介される三つの反日事件には慄然とした。

 三つの反日事件とは西安寸劇事件、北京サッカーアジア杯決勝戦暴動事件、上海日本人留学生殺人未遂事件である。西安寸劇事件の日本人狩りやアジア杯決勝戦の暴動のすさまじさは日本の報道をはるかに超えるものだったらしい。だが、まだ話題になったからいい。三番目の上海日本人留学生殺人未遂事件の方は小さく報道されただけで、そんな事件があったことすらほとんど知られていないのではないか。

 事件は2005年4月9日に起こった。華南師範大学に留学していた白木優志さんが友人と大学近くの飲食店で食事をしていたところ、見知らぬ中国青年から「お前たちは韓国人か日本人か」と聞かれ、日本人だと答えると、突然ビール瓶で後頭部を殴打された。犯人はもう一人の仲間とともに、倒れた白木さんの頭をビール瓶が割れるまで執拗に殴りつづけ、止めにはいった白木さんの友人たちにも椅子を振りまわして暴力をふるった。

 公安がやって来て事件の当事者たちを派出所にワゴンで連れていたが、車中、警官は被害者を「小日本人」とか「日本人は殴られて当然だ」と罵倒しつづけた。

 事情聴取でも差別的なとりあつかいがあった。二人の犯人は逮捕もされず、すぐに返されたのに対し、吐き気や眩暈がすると訴える白木さんをなかなか病院に連れていかなかった。やっと連れていった病院も外国人向けの診療窓口のある病院ではなく、近場の一般病院で、病院のエレベータの中では日本人は精神病だと嘲った。派出所にもどる際は、車の振動で傷が痛むという訴えに対し、警官は数十分にわたって急発進、急ブレーキ、急旋回をくりかえしたという。

 その後、長時間の取調べがつづいた。白木さんは領事館に連絡したが、「一つに対応すると全ての事件に対応しなければならなくなるため、行くことができない」と断られた。白木さんたちは領事館の助けのないまま、難解な法律用語の出てくる中国語で調書をとられ、サインをさせられた。

 「一つに対応すると全ての事件に対応しなければならなくなる」という言葉からすると、白木さんたちが巻きこまれたような暴力事件はよく起こっていて、泣き寝入りしている被害者が他にもいるのかもしれない。

 公安側は飲食店の女性従業員と白木さんがつきあっていたことから、四人が二人に暴力を受けた傷害事件ではなく、一人対一人の色恋沙汰で片づけようとし、事件の二日後、ようやく面会した領事館員も、公安の筋書きでの決着を迫った。法人保護よりも「日中友好」を優先したのである。

 長野の聖火リレーでは長野県警は中国人留学生の道路交通法違反行為や、日本人に対してふるった暴力は黙認し、日本人とチベット人だけを逮捕したが、上海の日本領事館も「日中友好」のために日本人を見捨てたのである。「日中友好」といっても、所詮は経済進出にすぎないのだが。

 もっとも「日中友好」と称する実利のために国民を押さえつけているのは中国政府も同じだ。

 中国政府は「愛国主義教育」の名のもとに学童に反日ミュージアム詣でをさせ、反日映画をテレビでくりかえし流す一方、反日活動家に対しては活動を制限しようとしている。

 日本では反日活動家は中国当局に黙認されているとか、支援されているという見方があるが、実態は異なるようである。本書には反日活動家が多数登場するが、政府の支援を受けるどころか公安の監視下におかれ、多くは職を失い、不安定な生活をおくっている。

 当局が特に目を光らせているのは経済交流を妨害するような活動だ。日本から新幹線技術を導入しようという計画に反対するインターネット上の署名活動は、単なる署名の段階でつぶされた。この運動は日本に対する感情的な反発からではなく、国産技術を育てるべきだという建設的な動機から生まれたにもかかわらずである。

 支援しているのは下積み生活をしているような恵まれない人々のようだ。飲食店で著者がインタビューしていると、見知らぬ青年が「大哥アニキ、ぜひ飲んでください」と飲み物を差し入れにきて、日本人である著者に蔑みの目を向けてくることがあったと書いている。

 中国の一般民衆は政府が反日活動を抑えようとしているのを知っているので、反日活動家の釣魚島(尖閣諸島)上陸のニュースなどは喝采するが、自分の子供が反日活動にかかわろうとすると絶対に止めるという。

 中国の若者が日本に対して反感を持ったきっかけは、学校の校外学習でゆく反日ミュージアムで見た残虐な展示のようである。多くの反日活動家がそう答えているし、反日ミュージアムを運営する側の人間も子供たちが展示を恐がり、お化け屋敷になっているとぼやいているほどだ。

 「愛国主義教育基地」と呼ばれる反日ミュージアムは江沢民時代の「愛国主義教育」で急増した。全国級、省級、市級、地方政府(区・鎮)級と、さまざまな行政単位で設置していて、すべて合せると数千になるらしい。

 展示内容は行政単位が末端になればなるほど怪しくなるという。全国級の北京の中国人民抗日戦争記念館でも、同館が編纂した論文集には田中上奏文が偽文書であることを指摘した論文を載せているのに、展示の方では本物あつかいしているそうだ。全国級でこれでは、推して知るべしだろう。

 なぜ江沢民は反日教育を広めたのか。著者は江沢民が国家主席に出世するきっかけとなった1989年の天安門事件が影響していると述べている。

 確かに、「愛国教育」ならば中華民国時期にも存在していたし、「愛党教育」ならば中華人民共和国の建国初期の方が、いま以上に組織だって広範に行なわれていた。それらと「愛国主義教育」が異なる点は何なのか。それは一言でいえば、この時期の「愛国主義教育」は、共産党政権への信頼が揺らぎつつあるという深刻な危機感のもとで行なわれているという点である。つまり、教育の最大目的は、求心力の低下した共産党政権を延命させることにある。中国の明日を担う青年層に、「共産党がなければ中国はあり得ない」と、政権の「正統性」を認識させるには、ことさら抗日戦争における党の功績を強調せねばならなかった。

 現在の胡錦濤政権は四川大地震の外国救助隊の受けいれ第一号に日本を選び、日本隊に好意的な報道をさせるなど、反日の方針を転換しようとしているようである。

 週刊文春や週刊新潮の伝えるところによると、現地の人民解放軍は最新の装備をもって乗りこんだ日本隊を生存者の見こめない地区を転々とさせ、活動を陰に陽に妨害したという。テレビや大新聞は日本隊が中国の民衆に歓迎されているとしか報道しないが、実情はそんなところだろう。

 反日教育という負の遺産は日中関係に今後も喉に刺さったトゲのように、日中両国を悩ましつづけるにちがいない

→bookwebで購入

『中国を追われたウイグル人』 水谷尚子 (文春新書)

中国を追われたウイグル人 →bookwebで購入

 世界各地に散った13人の亡命ウィグル人にインタビューした聞き書き集であり、大変な労作である。

 新疆ウイグル自治区をとりあげた本はけっこうあるが、ほとんどがシルクロード紀行的な本で、わずかに今村明の『中国の火薬庫』と陳舜臣の『熱砂とまぼろし』が一般読者向けに近代史を紹介している。ウイグル人の現況を伝えた本は本書が最初かもしれない。

 著者の水谷尚子氏は日中関係史の研究者で、731部隊や反日活動家に関する本をこれまでに発表しているという。『諸君』や『SAPIO』のような保守系メディアに記事を書くようになったので恩師から「破門」されたということだが、左翼から右翼に転向したということではなく、関係者に直接あって話を聞くという「現場主義」に徹しただけだという。実際、ウイグル問題では『世界』や毎日新聞のような左翼メディアがいちはやく報道していたことを評価している。

 チベットの場合、ダライ・ラマと亡命政府を中心にまとまり、国際的に支持を集めているが、ウィグルには中心となる組織がなく、象徴となるような人物もいない。ウイグル人はトルコ系民族のイスラム教徒なので、よけいわかりにくいが、『コーラン』を持っているだけで罪になるなどの宗教・民族文化の弾圧状況と、残忍無道な弾圧はチベットと変わらない。中国共産党は弱い相手は徹底した残虐に痛めつける。

 イスラム教徒とトルコ系民族ということから、ソ連から独立した中央アジアのイスラム教諸国やトルコの支援を受けているのだろうとか、拠点をもっているのだろうと漠然と思いこんでいたが、実情はまったく違うようである。

 そのことを端的に示すのは、アフガニスタンで米軍に捕らえられ、グアンタナモ基地に拘留されていた5人のインタビューである。

 アフガニスタンのような危険なところに入国すること自体、われわれの感覚から見れば不可解であり、アルカイダとの関係を勘ぐりたくなるが、彼らは中央アジアに出稼ぎにいったものの、悪徳警官から中国に強制送還するとぞ賄賂をせびられ、生活に窮していた。中央アジア諸国は上海協力機構に加盟後、親中国に転じ、ウイグル人を摘発するようになった。新疆にもどろうにも、独立運動との関係を疑われるので、帰国できなくなっていた。

 アフガニスタンには厳しい入国審査がなく、イスラム神学生の作った国という期待があったので、中央アジアで食いつめたウイグル人の吹きだまりになっていたそうだが、アフガン戦争がはじまると、地元民は助けてくれるどころか、一人五千ドルでウイグル人を米軍に売りわたした。イスラム教の連帯は看板倒れのようである。

 アメリカは2002年にはアフガニスタンのウイグル人とアルカイダが無関係だという確証をえていたが、無実なだけにあつかいに苦慮した。グリーンカードをあたえてしまうと、グアンタナモ基地に拘留している他の無実の捕虜にもあたえなければなくなるからだ。多くの国に受け入れを打診したが、中国との関係悪化をはばかって受け入れるところがなく、2005年になってようやくアルバニアが5人を引きうけることになった。

 トルコもあてにならない。以前はトルコ民族の宗主国としてウイグル人を受けいれ、いくつもの亡命者団体が本部を置いていたが、中国と友好条約を結んで以後は状況が一変した。本書に登場する「世界ウイグル会議」事務局長のドルクン・エイサ―と、新疆随一の人気コメディアンだったアプリミットはトルコからドイツに、新疆の核汚染の告発をおこなったアニワル・トフティ医師は英国に再亡命している。

 ヨーロッパでの亡命生活も楽ではない。アニワル・トフティ医師は高名な心臓外科医だったが、英国は外国医師免許を認めないので、皿洗いで暮らしている。ドルクン・エイサ―は妻に生活費を稼いでもらい、昼は「世界ウイグル会議」の事務局につめ、夜はピザ・ハットの配達をやって活動費を捻出している。インドに脱出した亡命者に緊急に生活費を送らなければならない時は、売血することもあるという。事務局長が売血で金を作るとは、いやはや。

 ウイグル人亡命者がインドに逃げるのは上海協力機構のために中央アジア・ルートが使えなくなったためだ。中国に弾圧されている者どうしの連帯で、チベット人がヒマラヤ越えの手引きをしてくれるのだという。

 これまで顔となる人物のいなかったウイグル人亡命組織だが、ラビア・カーディル女史を中心にまとまりつつあるらしい。彼女はノーベル平和賞の有力候補の一人だという。

 ラビア・カーディル女史はかつては「中国十大富豪」の一人ともてはやされ、全国政治協商会議委員などの栄職を中国共産党からあたえられていたが、懐柔されないとわかるや、新聞の切り抜きを外国に送っただけなのに「国家安全危害罪」をでっちあげられて投獄された。彼女は有名人だったので身体的な拷問は受けなかったが、若い政治犯の拷問を見せつけるという精神的な拷問をくわえられた。

 わずか十六歳のシェムンナという美しい少女を、公安がひどく殴っているのを見ました。彼女は敬虔なムスリムで、黒いベールをかぶり、断食礼拝をし、子供にイスラムの教義を教えたかどで、政治犯として投獄されたのです。彼女の悲鳴に「おまえの娘の声が聞こえるだろう」と公安は嘲笑いました。ある時は、手と足を一緒に鎖で繋がれた姿で、大きく前屈みになって歩かされていました。惨めな姿のまま、彼女は目で私に挨拶しながら通り過ぎて行きました。そのように、公安はわざと若い政治犯の惨めな姿を私に見せるのです。

 彼女は2005年のライス訪中の直前、釈放され、アメリカへの出国を許されたが、その年の終わり、不可解な自動車事故で重傷を負う。乗っている車に大型バンが三回も衝突してきたというのだから、間違いなく故意だろう。亡命ウイグル人の周囲では謎の交通事故がすくなくないという。

 ウイグル問題が世界で知られるようになったのは1998年に英国で製作された「シルクロードの死神」Death on the Silk Roadという、新疆の核汚染を告発したドキュメンタリー番組がきっかけだという。

 中国は新疆で1980年まで地上核実験をつづけてきた。漢人の居住区が風上になる時にしか実験をおこなわなかったというが、原爆症のような症状は漢人にも出ているという。

 この番組の取材に協力し、亡命せざるをえなくなったアニワル・トフティ医師は次のように語っている。

「中国では被爆者が団体を作ることも抗議デモをすることも許されないし、国家から治療費も出ない。中国政府は『核汚染はない』と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の医療支援団体は調査にも入れない。医者は病状から『放射能の影響』としか考えられなくとも、カルテに原爆症とは記載できない。学者は大気や水質の汚染調査を行うことを認めてもらえないから、何が起きているのか告発することもできない。このように新疆では、原爆症患者が三十年以上放置されたままなのだ」
「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新疆の現実を知ってほしい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新疆の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、ヒロシマの経験を新疆で活かすことができればといつも私は考えているけれど、共産党政権という厚い壁がある」

 日本の非難声明が知らないところでウイグル人を力づけていたとはうれしいが、しかし「シルクロードの死神」は日本では放映されていない。世界83ヶ国で放映され、ローリー・ペック賞などの賞を受賞しているのに、なぜ被爆国である日本で見ることができないのか。

 反核団体は何をしているのか。かつて日本共産党は資本主義国の核兵器は汚い核兵器だが、中国の核兵器はきれいな核兵器だと世迷い言を吐いたが、今でもそんな認識なのだろうか。

 そもそもNHKは何をしているのか。NHK BS1には海外ドキュメンタリーを流す枠があるが、この番組が放映されたことはなかったと思うし、検索しても出てこなかった。NHKは中国共産党がもちあげていた頃のラビア・カーディル女史を『中国 12億人の改革開放』で経済発展の旗手としてとりあげたそうだが、投獄されて以後については無視を決めこんでいる。その一方で「日中友好」を謳った紀行番組は手を変え品を変え再放送している。そんなに中国におもねりたいのか。中国のご機嫌とりしかできない偏向放送局に受信料など払う必要はない。

→bookwebで購入

2008年04月30日

『チベット女戦士アデ』 アデ・タポンツァン&ジョイ・ブレイクスリー (総合法令出版)

チベット女戦士アデ →bookwebで購入

 1958年から1985年――26歳から53歳――までの27年間、獄中にあったチベット人女性アデ・タポンツァンの生涯をノンフィクション作家のジョイ・ブレイクスリーがまとめた本である。日本ではさっぱり売れなかったようだが、アメリカではベストセラーになったという。

 「チベット女戦士」というとゲリラ部隊の女隊長のような印象を受けるが、そうではない。彼女は夫とともに中国に対する抵抗運動にくわわったものの、もっぱら連絡係で実際の戦闘には参加していないし、夫が毒殺されてからは幼い子供を育てることに専念していていた。

 彼女が逮捕されたのは、彼女の一族が土地の領主であるギャリツァン家の家来筋にあたり、不穏分子と見なされていたからのようである。ちなみに、ギャリツァン家は本書の監訳者ペマ・ギャルポ氏の生家で、ペマ氏の家族も登場する。

 彼女の戦いは生きつづけることにあった。銃を持たない戦いではあったが、監獄と労働改造収容所で27年間生きとおすことは戦場の戦い以上に苛烈だった。彼女は釈放後亡命し、中国のチベット絶滅政策の生き証人としてドイツやデンマークの国会で証言をおこなっている。その限りでは、彼女は中国に対してささやかな勝利をおさめたといえるかもしれない。

 チベットの現代史の本を読んだことのある人なら彼女の体験は目新しくはないだろう。だが、実際に体験した人の聞書はリアリティが違う。たとえば、人民解放軍がチベット侵入直後にとっていた懐柔政策である。

 収穫の時期には、中国兵のグループが、ほほえみながら畑にやって来て手伝いを申しでた。重い荷を運んでいる者を見かけると、兵隊たちはその荷を下ろさせ、
「手伝わせてください。私たちは親戚同士です」
といいながら、かわりに運んだ。彼らが僧院を訪れたときは、
「こんなふうに精神的な修行に励んでいるのは、すばらしいですね」
と僧たちに告げ、銀貨入りの袋の寄贈を申し出た。

 銀貨は一般の民衆にもあたえられたが、後に強制的に返還させられることになる。中国は最初から民衆をだますつもりだったのだ。それにしても、武骨な兵士が一糸乱れず猫なで声の演技をしている情景は背筋が寒くなってくる。

 「民主的改革」の実情もようやくわかった。中国人は乞食に制服と銃をあたえて「新幹部」にとりたて、土地の名士や裕福な人間や僧侶は敵だと徹底的に教えこみ、民衆の監視にあたらせた。悪名高きタムジン(吊るし上げ集会)に犠牲者を引っぱってくるのも彼ら「新幹部」の役目だった。中国は最下層の人間の復讐心を煽り立てることで、密告社会をやすやすと作りあげたのだ。

 人民公社の中の生活も細部にわたって語られているが、オーウェルの『動物農場』そのままで、笑ってしまった。

 労働改造収容所の生活はソルジェニーツィンの描くソ連の収容所とよく似ている。囚人を無償で使える労働力としてこきつかうのも、ソ連と同じである。ソ連の収容所には社会革命党員が古参の囚人になっていたが、中国の収容所では国民党員がその位置にあった。国民党員は釈放されても帰る場所がないので、刑期が終わっても収容所にいつづける例が多かった。

 1967年には医師団がやってきて、体力のある囚人を選んで大量に血を抜き、栄養失調のまま体力を弱らせる人体実験がおこなわれた。それで死んだ囚人が多い。まるでナチスである。

 悲惨な話がつづくが、どこかマンガ的であり、なぜそんなことをやるのか理解に苦しむようなことばかりだ。中国共産党は狂っているとしか言いようがない。

 1979年にはじまる胡耀邦の開放政策で囚人の暮しは緩和され、1985年にアデは釈放されることになる。まずはハッピーエンドといえるが、獄中で死んでいった多くのチベット人を考えると、ハッピーエンドなどとはいえまい。

 こんなことをする中国共産党が権力を握りつづけるとは思えない。独裁国家がオリンピックを開催すると、9年後に滅びるという説があるが(ナチスドイツは1936年にベルリン大会を開き、1945年に敗戦。ソ連は1988年にモスクワ大会を開き、1987年に解体)、ナチスドイツやソ連があっけなく崩壊したように、中国だって崩壊しないとは限らない。その時には身の毛のよだつような事実がごろごろでてくることだろう。

→bookwebで購入

『チベットの核―チベットにおける中国の核兵器』 チベット国際キャンペーン (日中出版)

チベットの核―チベットにおける中国の核兵器 →bookwebで購入

 中国の核兵器というと、まず、新疆ウィグル自治区(東トルキスタン)が思い浮かぶ。中国は楼蘭遺跡で有名なロプノールの砂漠地帯を核実験場にして、46回の大気圏核実験をおこない死の灰を撒き散らした。ロマンあふれるシルクロードは実は放射能汚染地帯であり、ウィグル人の村では「奇病」が頻発し、奇形児誕生率や悪性腫瘍発生率が他の地域に住む漢人より著しく高いという(英国Channel4の製作したドキュメンタリー「シルクロードの死神」、水谷尚子『中国を追われたウィグル人』)。

 だが、本書『チベットの核』によると、放射能汚染の被害はウィグル人だけでなく、チベット人やモンゴル人も受けているという。中国の「核関連施設(実験場、処理工場、兵器製造工場)はすべて非漢民族居住地域に置かれるのが通例」となっているからだ。

 本書をまとめた「国際チベットキャンペーン」(The International Campaign for Tibet)は1988年にワシントンDCに設立されたNGOで、リチャード・ギアが理事長、チベット問題に詳しいジャーナリストのジョン・アックリーが代表をつとめている(「チベットのための国際運動組織」と訳している本もある)。グリーンピースの幹部が序文を寄せているが、グリーンピース系というわけではなさそうだ。チベットの現地調査や、核関連施設の視察までもが許されているから、かなり影響力のある団体といえる。

 チベットと核の係わりは1958年に、第九研究所(第九学会、211工場とも呼ばれている)が青海省(アムド)海北チベット族自治州海晏県に建設されたことにはじまる。第九研究所は中国のロス・アラモスというべき核兵器開発の中心的な機関で、1970年代半ばまでの中国の核兵器はここで設計製造されたと見られている。周辺には核関連工場が集まり、そのため海晏県の工業生産額と平均所得は青海省の他の県の倍以上ある。

 問題は研究所が青海湖(ココノール湖)から16kmしか離れていない湿地帯に作られたことだ。研究所と関連施設から出る核廃棄物は通常のゴミを埋めるのと同じような浅い穴に投棄され、土で覆うことすらしていなかったという。放射能をおびた粉塵が飛び散った可能性が高いし、地下水は確実に汚染されただろう。

 たまたま海晏県を含む三つの県で、中国人とチベット人の遺伝的近縁性を証明するプロジェクト(チベット併合の正当化のためだろう)のために2000人の血液サンプルの採取がされた。現地で採取にあたったチベット人女医は白血病が多いことに気がついたが、血液サンプルで放射線の影響を調査することはできなかった。

 また、研究所周辺で放牧した家畜の肉は販売が禁止されていた。漢人は禁止をよく守っていたが、チベット人はなぜ食べてはいけないかを説明されていないので平気で食べていたという。

 青海省にはウラン鉱山が多数あるが、ここでも汚染が起きている。阿壩チベット族自治州のウラン鉱山周辺の住民は3年間で500人以上が激しい下痢と高熱で死んだ。そんな病例は過去にはなかったという。

 甘南チベット族自治州の鉱山では有毒性の廃水はいったん石製の貯蔵プールにためてから河川に放流された。ここでも1988年から91年にかけて原因不明の病気で住民が50人以上死んでいる。家畜の変死や植物の枯死も起こっている。

 こんなやりとりが紹介されている。地元のチベット人がウラン鉱山の中国人の役人に鉱毒でチベット人が死んでいると抗議したところ、役人は「川は汚染されていない」ととりあわない。

 チベット人は、川の水の入ったコップを役人の前に突きだした。

「では飲んでみせろ」

 中国人役人は後ずさりした。

「川の水は、人間が飲めないほど汚染されている」

 笑い話のようだが、現地のチベット人にとっては笑いごとではすまされない。

 1980年代にはドイツや台湾の使用済み核燃料を中国が有償で引きとる話がすすんでいたという。両方とも途中でつぶれたが、核のゴミの貯蔵場所が新疆かチベットになるのは確実だったと見られている。

 核関連の話は機密中の機密なので、本書の記述には留保が多く隔靴掻痒の感が否めないが、核汚染の被害がチベットでも広がっていることは事実と見ていいだろう。

→bookwebで購入

2008年04月29日

『チベット白書―チベットにおける中国の人権侵害』 英国議会人権擁護グループ (日中出版)

チベット白書―チベットにおける中国の人権侵害 →bookwebで購入

 英国議会は1976年に国際的な人権擁護のために上下両院合同で「英国議会人権擁護グループ」(The Parliamentary Human Rights Group)という委員会を設立したが、本書は1987年のラサ騒乱後、この委員会に提出された報告書の邦訳である。初版は1989年に刊行されているが、2000年に改訂新版として再刊するにあたり、刊行後10年の状況を翻訳者の一人である酒井信彦氏が解説した「その後のチベットと日本の対応」が追加されている。

 報告書はチベットの地誌と歴史について簡単な説明をおこなった後、中国のチベット支配の歴史を「1950~79年」、胡耀邦の開放政策のはじまった「1979~83年」、「1983~87年」の三期にわけて叙述し、その後に政治犯や教育、移動の制限、漢人の移民奨励と中国化政策、産児制限の強制、鎮圧されたラサの状況を述べている。英国議会の報告書であるから、情報の信頼性はきわめて高いと思われる。

 国際的に注目された1987年のラサ騒乱の背景を解明するためにまとめられたものなので、胡耀邦の開放政策の実態解明が主要なテーマとなっている。文章は平明かつ明解で、あっという間に読めるが、内容は重い。

 記憶に残った箇所を引いてみる。まず、中国のチベット支配は暗黒の封建体制からチベット人を開放したとする中国の主張について。

 一方チベットは、農奴を支配し、時代遅れの封建制を持続させるための身の毛もよだつ刑罰と宗教的堕落とによって、ボロボロになった中世社会であったという中国の主張に荷担する解説者もいなくはない。しかし、注目すべきことは、中国のプロパガンダにそうした話が含まれるようになったのは、一九五九年の蜂起後であり、それ以前の中国の主張は、チベットは中国の一部であり、また常に歴史的に一部であったという議論にのみ頼っていたのであるから、その残虐な行為云々の主張はおそらく、自らの占領をさらに正当化する手段に用いられるために作り出されたのであろう。
 一九六〇年に法学者国際委員会(The International Commission of Jurists)は、一九五〇年以前はチベットに人権は存在しなかったという、中国の申し立てを却下した。ヒュー・リチャードソンは次のように言っている。「生きた人間の皮をはいだり、手足を切り落としたりという話を私は信じない。中国による占領以前にそんな申し立てがあったということを聞いたことはない。」

 宗教弾圧は胡耀邦時代になって緩和され、破壊され寺院の修復が行なわれたのは事実だったが、それは観光のためにすぎないと喝破している。

 中国の姿勢がこれだけ改善されてきても、チベット人の満足からはほど遠い。その理由を理解するのは難しいことではない。外国人観光客や報道関係者の目につきそうな寺や僧院だけが修復されているのである。その結果、ほとんどの人々は長い旅をしなければ、宗教行事に参加できないのである。難民の証言によれば、僧院を管理する僧侶たちは戒律を捨てており、もはや人々に尊敬されてはいないという。「まやかし」の行事が外国人を楽しませるために仕組まれていると報告されており、真実の礼拝は特別に定められた日のみに制限されている。

 中国の環境破壊は最近世界的な関心を呼んでいるが、チベットではすでに1980年代にはとりかえしのつかないところまで進んでいた。その原因はチベットの気候を無視した無茶な農業政策と略奪的な林業政策にある。

 近年のこうした改革にもかかわらず、それまでの農林政策の失敗によって、大地の荒廃は広がり、チベットは大変に苦しんでいる。森林の伐採は非常に広い地域で実行され、中国は一九五九年以来、二〇〇〇億元(三三〇億ポンド=七兆五九〇〇億円)もの利益を得てきた。この作業は、時には強制労働によって実行された。パオ・タモでは二〇年以上もの間、毎年五〇〇万立法メートルの木材が、主に囚人によって切り倒され、中国に輸送されたとの報告がある。広漠たる森林がこれまでに切り倒され、しかも植林の計画はまったくない。
 このような荒廃は重大な土砂の流出と、筆舌に尽くしがたい生態系の破壊を生み出してきた。五〇年代の中国のチベット侵入以後、それまでの豊かだった野生動物は、現況では回復の見込みがないほど、組織的に殺戮された。

 民族浄化政策の背後に王化思想があることも、報告書は正確に見抜いている。

 チベットの中国化は、疑いもなく北京政府の最終目標である。この政策をジョーン・ギッティングは次のように説明している。
「中国化の背後にある思想は、中国文化は優れた文化という漢人の思い上がりである。その思想は漢人の意識の非常に深層部分に組み込まれているので、人種差別に近い家長意識にもほとんど気がつかない。それだけに改心し難いものになっている」。
 その結果、中国語と中国文化の支配をさらに強固なものにする試みばかりでなく、チベットの歴史とチベット文明を払拭しようとする多くの試みが存在することになるのである。

 胡耀邦の開放政策は文化大革命期の弾圧から較べればましだが、所詮見せかけにすぎず、チベット人の不満が爆発するのは必然だったというのが結論である。

 20年前に書かれた報告書なのに、今読むと、ことごとく当たっていることに驚かされる。英国の情報分析能力はすごい。

 この報告書の後、江沢民時代がはじまる。六四天安門事件の大虐殺の後、江沢民はもはや共産主義では中国をまとめられないと思い知り、ナショナリズムを新たな統一原理にしようとして愛国主義教育、反日教育を進めたが、ナショナリズムの鼓吹はチベット人にとっては弾圧の時代への逆戻りを意味した。その間の経緯を解説したのが改訂に当たって追加された「その後のチベットと日本の対応」である。日本もチベットも中国に隣接して独自の高度な文明を築いてきた。チベットで起こったことは決して遠い国の出来事ではないのである。

→bookwebで購入

『チベット入門 改訂新版』 ペマ・ギャルポ (日中出版)

チベット入門 改訂新版 →bookwebで購入

 長らくダライ・ラマ法王日本代表部事務所代表をつとめ、最近はTVでコメンテーターとしても活躍しておられるペマ・ギャルポ氏の最初の著書である。初版は1987年に出たが、1991年と1998年に内容を増補し、現在も店頭にならんでいる定評のある本である。

 刊行当初は反中国のプロパガンダ本あつかいされたらしいが(そういう時代だったのだ)、その後出た多くのチベット現代史の本と照らしても本書の内容に疑問はなく、信頼できる本といっていいだろう。

 本書は増補された部分を別にすると、三つの部分からなっている。チベット亡命政府代表団の一員として1980年に故国チベットにはいった際の報告である「チベット紀行」、チベットの地誌・国情・宗教・文化を解説した「チベットとは」、紀元前2世紀の建国から現在までの歴史を簡潔に記述した「チベット小史」である。

 「チベット紀行」と「チベット小史」はチベット人自身によるチベット早わかりであり、とてもコンパクトにまとまっている。類書が多く出ている現在でも価値を失っていないだろう。

 だが、本書の一番の読みどころは「チベット紀行」である。文化大革命の後、胡耀邦が総書記となって開放政策を進めた時代があった。チベットは文化大革命で壊滅的な傷を負ったが、胡耀邦はチベット政策の誤りを一部認め、制限つきながら宗教弾圧を緩和した。さらにチベット亡命政府と対話するために、1980年に亡命政府の代表団のチベット入国を3度受けいれた。ペマ氏は第二次代表団として香港、北京経由でチベット入りし、二ヶ月間調査旅行を許された。

 21年ぶりに訪れた故国は変わり果てていた。6000あった僧院は99%が破壊され、残った僧院も内部は荒らされ、経典は踏みにじられ、仏像や仏画は強奪され、ようやく修復がはじまった状態だった。

 街には中国語の標識や看板しかなく、ようやく見つけたチベット語の表示は男子トイレの表示だった。

 かつてチベットで最も肥沃だったダヤブ県の農地はチベットの気候を無視した農業政策のために荒れ、最も貧困な地域になっていた。

 チベット人の失業率は高く、商店を開こうとすると法外な税金をとられた。漢人はあらゆる面で優遇され、移民が奨励されていたので、ラサは漢人の街に変わっていた。チベット人は自分の国なのに、少数民族にされてしまっていたのである。

 子供の名前は僧侶につけてもらうのが伝統だったが、僧侶は多くが殺されたので、僧侶のいない地区では親が自分で名前をつけなければならなかった。そのため「七・五」とか「六・十三」のような変な名前の子供がすくなくなかった。

 教育現場も悲惨だった。チベット自治区では長らく禁止されていたチベット語教育は開放政策で解禁されたが、青海省や四川省、甘粛省に編入された地区では中国語の教育のみで、学校でチベット語を使うことは禁じられていた。学習内容の中心は共産主義で、教師にはチベット人もいたが、二年から三年の教育しか受けていないので小学校レベルの学力しかなかった。インテリを皆殺しにして、子供たちに洗脳教育をほどこすのは共産主義政権の常であるが、チベットではそれが固有文化破壊のために使われていたのである(チベット人がヒマラヤ越えの危険をおかしてまで、子供をインドに亡命させる背景には教育事情があったのだ)。

 これだけ虐待されているのに、民衆の信仰心は衰えておらず、僧侶が一人もいなかったにもかかわらず、代表団を拝み、祝福を受けようと殺到してきた。涙なくしては読めない条である。

 本書は改訂版刊行にあたって「中国の「チベット一二〇万人虐殺」」とダライ・ラマのノーベル平和賞受賞記念講演が追補されている。

 ダライ・ラマの講演は短い中にも意を尽くしたもので、ぜひ一読してほしいが、「中国の「チベット一二〇万人虐殺」」も重要な論文である。本篇の「チベット小史」はチベットの悲惨な状況がまったく知られていない時期に書かれたせいか、かなり遠慮した書き方になっていたが、こちらの文章ではその後に判明した事実をくわえて、中国の民族絶滅政策に対し真っ向から抗議している。まことに鬼気迫る文章であって、日本人に対する警鐘ともなっている。心ある人は、この部分だけでも読んでほしい。長野の五星紅旗の林立した聖火リレーの異様な光景に、チベットは明日の日本かもしれないと恐くなった。

→bookwebで購入

2008年04月28日

『囚われのチベットの少女』 ブルサール&ラン (トランスビュー)

囚われのチベットの少女 →bookwebで購入

 オリンピックの聖火をめぐる騒動で中国という国家の本質がはしなくも白日の下にさらされたが、聖火リレーに対する異議申し立ての口火を切ったのがフランスだったことに日本では戸惑いがあったようである。なぜフランスが遠く離れたチベットに関心をもつのかという疑問に、ある人は人権宣言の国だから人権問題に敏感なのだろうと答え、別の人は中国の経済的成功に嫉妬しているのだろうと答えていた。

 だが、フランスが最初に異議申し立てをしたのは不思議でもなんでもない。日本では人権を商売にする人たちが社会主義国の人権問題を隠そうとしているのであまり知られていないが、フランスは以前から一貫してチベット問題に強い関心を寄せていたのである。

 たとえば、本書の主人公であるガリ僧院の尼僧、ガワン・サンドルである。フランスでは彼女は「チベットのジャンヌ・ダルク」として広く知られ、何人ものミュージシャンが彼女をテーマにした歌を作っている。多くの文化人や百人以上の国会議員が彼女の釈放をもとめたアピールに署名し、中国大使館にもちこんでいる。1998年には時のヴェドリンヌ外相が社会党の国会議員宛書簡で次のように書いている。

「政府は、ガワン・サンドルの状況、そして彼女の長期にわたる拘留による、フランスでの反響の重大さを認識しております。この若いチベット人の囚人を含む政治犯の扱いに関して、両国間の会議ごとに、あるいはヨーロッパ・中国会議の折に、中国政府に質すことにします」

 本書もまた二人のフランス人によるもので、原著は2001年9月に出ている。ガワン・サンドルは1978年生まれなので、原著が出た時点では23歳だったが、13歳の時から10年間獄中にあった。当然、著者たちは彼女に会っていない。本書はインドに亡命してきた彼女を直接知る人々に取材して書かれている。

 13歳の少女を政治犯として刑務所にいれるとは唖然とするしかないが、彼女が最初に投獄されたのは10歳の時だった。この時は一年で釈放されているが、罪はノルブリンカの祭りで仲間の尼僧らとともに「チベット独立」と叫んだことだけである。その程度のことで10歳の少女をなぜ刑務所にいれる必要があるのか。中国共産党は何におびえているのか。

 彼女は、だが、刑務所の中で筋金入りの独立運動家になっていく。ダブチ刑務所に収監された翌年、彼女は同房の尼僧たちとともに秘かにカセットテープに独立歌を吹きこみ、それが外部に持ちだされ、欧米で彼女の存在が知られるようになった。

 まずは成功といえるが、代償は大きかった。3年だった刑期は6年延長され、9年になった。その後、1996年に看守に反抗したという理由で8年延長、1998年には5年延長され合計22年となり、次は死刑だと裁判官に警告された。13歳で下獄した少女は35歳にならなければ出獄できなくなったのだ。

 ジャン・バルジャンなみだが、ジャン・バルジャンはパンを盗むという罪を犯していたのに対し、ガワン・サンドルは「チベット独立」という言葉を口にしただけである。それが共産主義だといえば、それまでであるが。

 本書を読むと、チベット抵抗運動とチベットの僧院の置かれた状況、中国の監獄の状況がよくわかる。

 チベットの僧院には「再教育班」がたびたびやってきて、数日から数週間とどまり、共産主義の教義と中国の視点で再構成されたチベット史の洗脳教育をおこない、最後にテストをするという。僧院にとどまるためには、このテストに合格しなければならない。

 刑務所は政治犯の区画と一般囚の区画にわけられ、政治犯の監房には一般囚が一人まぜられる。もちろん、スパイさせるためだが、多くの一般囚は政治犯に感化され、めったなことでは密告しないという。

 しかし、まったく密告しないと処罰が待っている。尼僧たちを尊敬し、あくまで密告を拒否したツェヤンという17歳の娘は看守に追いこまれ首吊り自殺している。

 国際的な監視の眼があるので、獄中の尼僧を集団レイプするようなことはなくなったが、暴力は日常茶飯事で、何時間もぶっつづけに体操をさせるというような合法的な拷問もおこなわれた。食事や寝具が劣悪なことはいうまでもない。

 欧米の人権団体がダブチ刑務所を視察したことがあるが、もちろんすべては見せていない。独房や訊問室は隠したし、政治犯も見せていない。共産主義国のやりそうなことだ。

 ひどい話の連続で、神経がまいった。一日で読める程度の薄い本だが、ページをめくるのがつらくなり、一週間以上かかって何とか読みとおした。並の神経の人は読まない方がいい。それにしても、ガワン・サンドルをはじめとするチベットの尼僧たちはなんという強靭な精神力を持っているのだろう。

 唯一の救いは、本書の邦訳が出た5ヶ月後の2002年10月、江沢民訪米にあわせて彼女が釈放されたことだ(ダライラマ法王日本事務所の彼女のページによる)。10年の獄中生活で彼女の体はボロボロになっており、釈放から半年後、病気の治療のためにアメリカにわたり、現在はヨーロッパで活動しているということである(ロンドンの中国大使館前で抗議するガワン・サンドル)。

 彼女はたまたま国際的に有名になったから救われたが、チベットの監獄の中には多くの政治犯が虐待を耐え忍んでいる。日本のマスコミはなぜこうした事実を伝えようとしないのか。

→bookwebで購入

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム (講談社インターナショナル)

中国はいかにチベットを侵略したか →bookwebで購入

 3月10日のラサ騒乱以来、チベット問題ににわかに注目が集まるようになったが、1950年以来のチベット侵略以来、中国によるチベット民族の絶滅政策は60年近くにわたってつづいている。日本の人権団体は社会主義国の人権問題にはふれようとしないので知られていないが、欧米では関心が高く、すぐれた本が多数出版されている。同じアジアの国なのに、チベット問題をとりあげた日本人の著作はすくない。残念ながら、本書も翻訳である。

 本書の邦題は『中国はいかにチベットを侵略したか』となっているが、「チベット武装抵抗史」というべき内容の本である。ダライ・ラマは一貫して非暴力による抵抗を説いてきたが、チベットの抵抗勢力のすべてがダライ・ラマのコントロール下にあるわけではなく、最初の25年間は組織的な武装闘争をおこなったグループが存在したのである。しかし、1971年の米中国交樹立によってアメリカの武器援助が打ちきられ、ネパール国内に逃げこんでいた残存部隊が1974年に中国の圧力でネパール軍に掃討されると、武装闘争の時代は終わりをむかえた。本書はその四半世紀の歴史を関係者の証言によって描いている。

 最初に語られるのは人民解放軍進入前のチベット東部カム地方の牧歌的な情景である。

 カムは現在は半分が四川省に編入されているが、この地方のチベット人は独立心旺盛で気性が荒く、中国と接しているために昔から漢人と衝突をくりかえしてきたという。

 当時、主要な都市には国民党軍が部隊を置いていたが、カム地方領有を主張するための形式的な進駐だったので、兵士の士気はすこぶる低く指揮官は簡単に買収されるというように、なあなあの関係だった。

 そこへ国境内戦に勝利した人民解放軍がはいってきたのである。

 人民解放軍は今では信じられないことだが、当初、懐柔策をとった。僧院には多額の寄進をおこない、高位のラマには最上級の中国茶を贈り、商人からは正当な値段で物を買い、軍用道路の工事の人夫には高額の賃金を支払った。軍は町の外に駐屯し、診療所を開設して無料で診察し、国民党の批判はしても共産主義の宣伝はしなかった。軍の規律は厳しく、カム地方のチベット人は「略奪や脅迫をしない最初の中国兵」を歓迎した。

 だが、1954年にラサに通ずる軍用道路がほぼ完成し、大部隊の移動が可能になると、人民解放軍は本性をあらわした。商人には前のようには支払わなくなり、人夫の賃金は大幅にカットした。人手不足を補うために、強制的にチベット人を駆りだすようになった。僧院に押し入っては財宝を強奪し、経典を土足で踏みにじった。タムジンと呼ばれる糾弾集会を開き、高位のラマを引きずりだしては罵倒し、殴りつけ、仏に助けてもらえと嘲った。

「女性たちは公衆の面前で素っ裸にされ、夫が罪を認めないと彼女たちはその目の前で強姦された。長い間男やもめで過ごしていた中共兵に不服はなく、彼らは喜々として強姦の命に従った。また、夫たちは人びとの前で妻と性交するよう強制される場合もあり、その後たいてい処刑された。そして妻や娘は中共兵に投げ与えられた。
 尼僧もこの暴力から免れることはできなかった。裸にされた僧侶は、これも素っ裸にされた尼僧と性交するように強制され、中共軍はこれみよがしに、“これがチベット仏教とその純潔さだ”と嘲笑った。その後僧侶たちの多くは処刑され、尼僧は中共兵の餌食にされた。年に関係なくいたる所で女性は強姦され、それも何度も犯され、揚句殺されていった」

 こうした辱しめを受けて、誇り高いカムパ族(カム地方のチベット人)が黙っているはずはなかった。彼らは「ミマン」という抵抗運動を組織し、貧弱な武器で人民解放軍に闘いを挑んだ。

 この間、ラサの政府は茫然自失状態だった。カム地方から難民が流入し、ラサの人口がふくれあがっていくのに、何もできなかった。

 ダライ・ラマの長兄で、カム地方有数の規模を誇るクンブム僧院の僧院長をつとめていたタクツェル・リンポチェは一年間の軟禁後、弟に中国帰順を説得するという条件で釈放された。彼はダライ・ラマに面会すると中国の侵略意図をすべて話してインド亡命を勧め、内閣に報告書を提出したが、内閣は小田原評定をくりかえすばかりだった。失望したタクツェル・リンポチェはラサを離れ、インドに亡命した。

 タクツェル・リンポチェをインドで待っていたのはCIAだった。CIAの要請でカンパ族の青年6人が選抜され、秘密裏にグアム島の基地に送られ、ゲリラの訓練を受けた。彼らは半年後、パラシュート降下でカム地方とラサ近郊に潜入し、アメリカ軍から武器弾薬の援助を受けて、武装闘争のテコいれをはかることになる。

 CIAがカンパ族の青年を訓練したというエピソードはジョン・アベドンの『雪の国からの亡命』にちらと出ていたが、機密保護期間が終わったからだろうか、本書ではCIAの関係者も含めて、実名と写真入りで証言が語られている。

 だが、武装闘争といっても、人海戦術の人民解放軍の前には多勢に無勢だった。毛沢東は兵士など消耗品と見なしていて、多少損害をあたえたところで、その何倍もの報復が返ってきた。カム地方最大の僧院で、チベット文化圏最大の金銅仏のあったリタン僧院は爆撃によってリタンの街もろとも吹き飛ばされ、瓦礫の山と化した。

 チベット人に対する暴虐も凄まじい。

 ココノル湖に近いある地区では、千人以上の僧侶が僧院の庭で一斉射撃によって虐殺された。僧院の大半は財宝を略奪され、破壊され、残った材木、石材は中国本土からの移民の住居に充てられた。アムド族は強制労働に送り込まれ、その三分の二は死んでしまった。最も悲劇的だったのは、祖国奉仕という名の強制労働に両親が集中できるよう、何千人という子供たちがトラックに積み込まれて連れ去られ、それを阻止しようとした母親たちが近くの河に投げ込まれていったことだ。五十ヶ国からなるジュネーブ人権調査委員会は、約一万五千人の児童がこうして拉致され、行方不明になったと報告している。

 民族浄化は最初から意図されていたのである。ナチスでさえ、ここまでひどいことはやらなかった。

 新たに反抵抗運動法なるものが施行され、解放運動を支援したとされた人間は“タムジン(公開懲罰)”に晒された。中国本土から漢民族の移民が増大し、チベット人は自国にあって少数民族になってしまった。タムジンで有罪とされた人びとは牢獄に入れられ、実に屡々計画的飢餓、遺棄、病気の放置などで生命を奪われていった。新企画の拷問、殺人が導入され、銃の台尻で頭蓋骨を打ち砕かれたり、鉄箸で眼球を抉り出されたりした。僧侶は毛布でぐるぐる巻きにされ、灯油をかけられて焼き殺されていった。公開去勢や、バーベキュー用棒杭にくくりつけて焼く、尼僧を素っ裸にしてむりやり性交させる、というのもあった。特に中共軍兵士の間で人気があったのは、チベット人を“文明化”“浄化”すると称する兵士たちによる集団レイプであった。彼らはそれを“地上の楽園”と称して楽しんだ。

 本書のクライマックスは1959年のチベット動乱である。ノルブリンカ離宮のダライ・ラマが中国に連行されるという噂が流れて民衆が集まり、人民解放軍の攻撃がはじまる前日、ダライ・ラマは秘かに離宮を脱出し、亡命の途につくが、その間、ラサの民衆と人民解放軍の間で市街戦が戦われた、その時のチベット側の主力がラサに退却していたカンパ族のゲリラだったのである。

 この戦いでチベット側は多大の犠牲を出すが、ダライ・ラマの脱出を知らなかった人民解放軍は、ノルブリンカの数千の死体の中からダライ・ラマを見つけ出そうと一つ一つ首実検したという。ラサに人民解放軍を引きつけていたからこそ、ダライ・ラマはインドに逃れることができたのである。その意味では犠牲は無駄ではなかったわけだ。

 その後もカンパ族ゲリラの抵抗はつづくが、アメリカの援助を失った後の末路は悲しい。一部のゲリラはインド軍に特殊部隊として編入され、中印紛争で戦果を上げるが、所詮、傭兵でしかない。

 ダライ・ラマの非暴力路線にはチベット内部に批判があるというが、大国の思惑でふりまわされたカンパ族ゲリラの歴史をふりかえると、選択肢は他になかったのかもしれない。

→bookwebで購入

2006年07月30日

『核と女を愛した将軍様』 藤本健二 (小学館)

核と女を愛した将軍様 →bookwebで購入

 金正日の元料理人、藤本健二氏の三冊目の本である。二冊目がまったくの二番煎じだったのでどうかと思ったが、先日、金正日の四番目の夫人と報じられた金玉女史の写真が載っているので買ってみた。

 今回の本も六割か七割はこれまでの本の内容と重複するが、未公開の写真が追加され、新しいエピソードがかなりはいっている。前二作は将軍様の私生活に限定されていたが、今度の本では公的生活についても言及されている。著者は北朝鮮では秘書室の指導員という身分で働いていた。専属料理人とはいっても、秘書室の中に自分の席をもっていたのだから、公的な情報も耳にはいってきたはずなのだ。

 2000年の訪中から帰った将軍様を白頭山招待所で出むかえた件は前著で語られていたが、将軍様が中国の経済発展に心底感銘を受けていたという話は今度の本ではじめて出てきた。これはかなり重要な証言である。贋札や麻薬の話も出てくるが、将軍様は日本の一万円札は難しいと言っていたそうである。

 著者はプライベートな立場の人間のところに、どのように表の情報が流れてくるかを明かにしている。直接の見聞がどこまでかも明確にしており、著者の証言は信憑性が高いと思う。

 金日成の死の直後の時期にふれた以下の条は気になる。


 主席死去後、将軍に初めて会ったのは、7月も半ばを過ぎてからのことだった。将軍は本当に悲しんで、憔悴しきっていた。まるで1週間も10日も食事をしていないのではないかと思うほど、げっそりしていた。

 後で聞いた話では、心配した高英姫夫人が執務室にいる将軍の様子を見に行ったところ、将軍がピストルを手にしてじっと見つめていたという。それで夫人が驚いて、ピストルを取り上げたらしい。



 萩原遼氏は『金正日 隠された戦争』で、金正日による父親殺し説を述べているが、上記の証言が正しいなら、殺害を命じたなどということはないだろう。しかし、いくら突然の死とはいえ、自殺を考えるほど落ちこんでいたとしたら、深い罪悪感をいだくようなことしたと考えるのが自然だろう。路線対立が金日成の死を早めた可能性はかなりあると思う。

 また、金正日一家(いわゆる「ロイヤル・ファミリー」)についても、これまでになく踏みこんだ話が出てくる。

 今回、将軍様ファミリーについてここまで書いたのは、高夫人が亡くなったことが関係しているだろう。著者は高夫人にたびたび助けられており、きわどいところで日本に帰れたのも高夫人のおかげだった。高夫人に遠慮して、書くのを控えたとしても仕方ないだろう。

 将軍様の秘書兼愛人であるオギ同志こと金玉キム・オク女史の情報を解禁したのも、高夫人が亡くなったからにちがいない。著者は彼女の本名を知る立場にいなかったが、「オギ」という愛称から本名は「オク」だろうと推理している。果たして本書が店頭に並んで二週間後、将軍様の四番目の夫人は金玉女史というニュースが流れ、藤本証言の正しさをあらためて証明した。

 本書で一番重要なのは次の条だと思う。


 実は将軍に近い高級幹部たちでも、もらっている給料はそんなに多くはない。高給幹部といえども、給料だけでは贅沢な暮らしはできないのだ。彼らはこうした宴会に呼ばれて、将軍に気に入られてようやく、高価なプレゼントや高額の小遣を手にすることができる。

 しかし、いったん将軍の前でミスすれば、しばらくこうした宴会には呼んでもらえなくなる。まさに天国と地獄、アメとムチのあいだで、幹部たちは泳がされているのである。



 マカオで凍結されたのは将軍様のポケットマネー27億円にすぎなかったが、この外貨がないと、将軍様は幹部の忠誠心をつなぎとめることができなくなる。北朝鮮がアメリカに金融制裁解除をあの手この手で懇願している理由はここにある。

 万景峰号の入港禁止もこたえているだろう。北朝鮮の船で冷蔵倉庫をそなえているのは万景峰号だけだそうである。万景峰号が日本にはいれなくなることは、日本から高級食材を入手できなくなることを意味する。将軍様ファミリーの分だけなら空路で調達できないことはないが、毎晩宴会を開き、松阪牛を気前よく土産に持たせてやるには、万景峰号が必要なのである。

 著者はエピローグで、将軍様にはフセインのようなみじめな末路をたどってほしくないと書いている。前作、前々作の「あとがき」の将軍様へのメッセージとはまったく違い、終わりにはっきり言及している。こんな思いきったことを書くのは、金正日体制の崩壊が迫っていると予感しているからではあるまいか。

→bookwebで購入

『金正日の料理人』 『金正日の私生活』 藤本健二 (扶桑社)

金正日の料理人 →bookwebで購入

金正日の私生活 →bookwebで購入

 金正日の元料理人、藤本健二氏の手記である。一冊目の『金正日の料理人』は2003年6月に、二冊目の『金正日の私生活』は2004年7月に、どちらも扶桑社から出ている。

 藤本氏は寿司職人として北朝鮮にわたるが、はからずも将軍様に気にいられ、そば近く仕えるようになる。ある時期からは料理人を越えて遊び仲間になり、喜び組(正確には「喜ばせ組」だそうだが)のメンバーの一人と結婚するという特異な経験をしている。

 同時代の話話なのに、本書の読後感は『セブン・イヤーズ・イン・チベット』や『紫禁城の黄昏』、『王様と私』のような外国人宮廷滞在ものに近い。身分制度のやかましい前近代的な国家で、王様が身分制度の外側にいる外国人に心を許すという構図は、藤本氏の体験にもそのまま重なっている。藤本氏は水上バイクの競争で金正日を負かしたりしているが、北朝鮮高官にはそんなことは絶対に許されない。日本人の子分ができて一番よろこんだのは将軍様自身だったと思う。

 もっとも、将軍様の招待所は紫禁城やポタラ宮やボロマビマン宮殿とは似ても似つかない。紫禁城やポタラ宮やボロマビマン宮殿は文化の粋をあつめた優雅な宮廷だが、将軍様の招待所は成金趣味の豪華リゾートのようなものだし、宴会場で毎夜くりひろげられる乱痴気騒ぎはお世辞にも品がいいとはいえない。しかし、この乱痴気騒ぎにこそ、将軍様の権力の秘密がある。

 将軍様は一人で食事をすることはない。食事にはかならず高級幹部を20名から30名集め(週末には40~50人に増える)、日本から調達した高級食材で作った料理を大盤ぶるまいし、帰りには高級食材や家電製品、ブランド品を土産に持たせてやる。興が乗れば百ドル札の束をエサに、一本数十万円もするコニャックの飲み競争をさせる。幹部たちはドル札ほしさに酒をあおりつづける。もし、欲をかきすぎて泥酔してしまったら、それまで貰ったドル札は没収だから、幹部も大変である。

 なんの実績もない将軍様は、こうやって幹部を宴会で釣ることで、威光を維持しているのである。

 藤本氏は扶桑社から二冊の本を出しているが、内容は八割以上重なっている。主な違いは一冊目が時系列にそって書かれているのに対し、二冊目は「知られざる招待所の全貌」という副題の通り、景勝地に建てられた各招待所を紹介しながら、金正日とのエピソードを語るという形をとっている。

 どちらか一冊ということなら、最初の本をおすすめする。著者は北朝鮮にわたった経緯から報酬の額、日本に残した家族とまずくなり離婚したこと、食材の買付けのために日本に帰国した際に公安警察に逮捕されたこと、公安に保護されながら、各地を転々として刺客に怯えながら暮らしたこと、北朝鮮にもどってから公安のスパイと疑われたこと、そして罠にかかって軟禁生活を余儀なくされたことまで洗いざらい書いている。

 離婚の経緯はかなり怖い。著者は喜び組の歌手に一目惚れするが、将軍様はそれに気づくと、彼女にボクシングの試合をさせ、著者にそのレフリーをやらせて、同情が恋に変わるように仕向ける。そして、朝鮮総聯に日本に残した妻の素行調査をさせ、他の男性と懇ろになっているという事実を著者に知らせ、慰謝料を払ってやるからと離婚を勧める。著者を手元にずっとおいておくには北朝鮮で家庭を持たせるのが一番と考えたのだろうが、将軍様の計画通り著者は離婚し、喜び組の歌手と結婚することになる。

 二冊目は主なエピソードは重複しているが、ディティールがすこしづつ加筆されている。各招待所の地図は新しい情報だが、写真はすべて再掲載である。地下の軍事工場を見学したり、人間魚雷を見せられた話はこちらにしか書かれていない。

 二冊目でどうかと思うのは、文章が弛んで、いかにも脳天気な書き方になっていることである。一冊目はいつ殺されるかもわからないという不安感がにじみでていたが、二冊目になると、マスコミに名前が出てもう殺されることはないと安心したのか、北朝鮮での贅沢な暮らしを懐かしむ気持ち一色になっている。

 公安の事情聴取時、破格の報酬に引かれて北朝鮮にわたったと答えた著者に刑事は脱北者の手記を読ませたというが、著者が経験した景勝地をめぐって贅沢三昧を楽しむ生活は北朝鮮の千数百万の虐げられた人々の犠牲の上に成り立っていたのだ。脱北者が著者の本を読んだら、心おだやかではいられまい。

→bookwebで購入

→bookwebで購入

2006年07月29日

『北朝鮮飢餓の真実』 ナチオス (扶桑社 )

北朝鮮飢餓の真実 →bookwebで購入

 1990年代後半の北朝鮮の飢餓をあつかった、今のところ、唯一の研究書である。萩原遼氏の『金正日 隠された戦争』で重要な論拠の一つとして言及されていたので読んでみたが、徐々に明かになっていく飢餓の実態に鳥肌が立った。

 著者のナチオスはギリシャ系アメリカ人だが、第二次大戦中、ギリシャに残っていた伯父がドイツ軍の食糧徴発のためにおきた飢饉で餓死したことから、人道援助の世界に進んだという。ワールド・ヴィジョンというNGOで長年活動し、2001年5月から2006年1月まで、ブッシュ政権で国際開発庁(USAID)長官をつとめていた。アメリカでは在野の大物が政府高官に任命されることがよくある。原著は長官在任中の2001年12月に出版されている。個人の業績とはいっても、ホワイトハウス中枢の了解をえていたと考えるのが自然だろう。

 ナチオスは1997年6月に北朝鮮を訪れている。まず平壌の保育所に連れていかれ、アフリカの飢餓地帯でもめったにいないガリガリに痩せた子供を見せられたが、立ち入り禁止の部屋に勝手にはいると、栄養状態がよく、清潔な衣服を着た子供たちがいた。予定のなかった高校の視察を強硬に申しいれて実現させたが、千数百人いる生徒はみな普通に成長していて、栄養失調の徴候を見せているのは数人にすぎなかった。

 次に洪水の被害のひどかった煕川という工業都市に連れていかれるが、途中、おびただしい女たちが野草の根を掘りおこしている光景を目撃する。煕川の幼稚園と中学校で見せられた子供はひどい飢餓の徴候を見せていたが、校舎の窓に群がっている子供たちの栄養状態は良好のように見えた。

 ナチオスは混乱する。数多くの飢餓地帯を見てきた彼から見ると、北朝鮮は不自然なことだらけだった。保育所や学校の視察からすると、北朝鮮が飢饉を誇張している疑いが強いが、そうなると、スーダンやソマリアよりも悲惨な子供たちはどこから連れてきたのか。一方、荒野で野草の根を掘りおこす女たちは飢餓の明白な徴候だった。北朝鮮は飢饉を誇張しているのか、隠しているのか。

 ナチオスによれば、北朝鮮入りした外国のNGO関係者はみな、同様の疑いをいだくという。外国人の目からは飢餓は巧妙に隠されており、北朝鮮で活動する援助関係者の中には飢饉は誇張だと考える者や、「平等主義的な国の分配制度を崇めたてまつる者」まだいる。彼らは市民の自由が圧迫されている現実に困惑しながらも「でも、誰も餓死していない」と北朝鮮を弁護しているという。

 ナチオスは翌年、中国側国境地帯を訪れ、多くの脱北者から聴取した結果、「二つの北朝鮮」があると確信する。エリートの住む「平壌の北朝鮮」と、それ以外の国民が住む「もう一つの北朝鮮」だ。すこし長いが、二つの北朝鮮を発見した驚きを記した部分から引用する。


 平壌は他の都市よりはるかに多くの穀物支給を受け、ここで住居を与えられることは、政府に対するよき振る舞いと忠誠心への報酬だとみられている。北朝鮮アナリストのドン・オーバードーファーは、首都における人口浄化について次のように書いている。「外国の外交官の話では、国民は定期的に審査され、病気や高齢、もしくは障害のある者は、政治的に信用できないと見なされた人々と共に平壌から追い出されていた」。これは確かに長年平壌に住んでいたロシアの外交官が私に話してくれた内容と一致する。彼は「中央政府は毎年一万人余りの厄介者を首都から地方に追放し、ちょうど同じ数の人々を体制に対する忠誠心への報酬として地方から首都に連れて来るのだ」と語っていた。また同様に一九九八年、「アジア・ウォッチ」の人権レポートは、「小人や見るからに障害を持った人々は、定期的に駆り集められ、北東部の遠隔地に追放された」と報告している。北東地域で活動していたあるNGOは、異常なほど高い割合で障害者や小人が集まっている都市を実際に見ており、この報告の信憑性を確認している。

 もう一つの北朝鮮とは、このようにして追放されたあらゆる人々が暮らしているところ、つまりマルクス主義者のパラダイスである平壌のきらびやかさを維持するための場所である。……中略……悲劇的な現実だが、それは外部の者からは巧妙に隠されている。



 平壌がエリートしか住めないショーウィンドー都市であることは日本では常識だが、欧米では北朝鮮と係わっている援助団体関係者でも知らないらしい。

 ナチオスが本書を書いたのは北朝鮮では確かに飢饉が起こっており、しかも特定地域が切り捨てられ、餓死者が集中的に発生しているという事実を知らせるためである。彼は一番深刻だった1996年から1997年の期間でも、食糧がすべての国民に平等に配給されていれば餓死が回避される可能性があったが、政治的理由でそうはならなかったと指摘し、こうつづけている。


 中央政府は食糧配給において一九九五年と一九九六年に、政治的理由でいくつかの恐ろしい決断を行っている。第五章で詳しく説明したように、第一には、東側の港への全ての食糧輸送を中止したのである。第二には、状況証拠しかないものの、一九九六年の悲惨な収穫の直後に、北東部以外の地域にも一時的に公的配給制度を中止したと思われるのだ。米国平和研究所のスコット・シュナイダーは一九九七年六月に中国側国境地帯を訪問し、一九九六年の収穫期直後の三カ月の間、食糧価格と死亡率も急激に上昇している逸話的報告を収集している。通常では、収穫後は食糧価格も死亡率も減少する傾向がある。



 東側の港とは咸鏡道の羅清港を指す。咸鏡道に対して配給を停止していた期間があり、当然、餓死者が集中的に発生した。この事実は日本ではほとんど知られていない。

 ナチオスは配給量が7段階にわかれていることも指摘している。もっともすくないのは強制収容所の囚人で、1日あたり200gにすぎない。未就学児童は200~300g。高校生・身体障害者・高齢者は400g。大学生・軍人・軽工業従事者・平壌市民は700g。上級将校と非武装地帯勤務の軍人は850g。鉱山労働者・国防産業従事者は900g。その上に幹部が来る。配給の平等性は見せかけにすぎない。次の一節は重要である。


 マルクス主義体制では財産の蓄積が困難なため、従来の農民市場経済とは全く異なるルートで飢饉の犠牲者に影響が及ぶ。財産が蓄積できない代わりに、政治的に権力を持つ者は国家の資源にアクセスしようとする。これらの物資やサービスへのアクセスは財産の所有と同等であるため、朝鮮労働党のエリートやその家族は危機の間も飢饉の危険性から保護される。



 財産を平等にしても、もっと不透明でひどい格差が生まれるのである。北朝鮮は社会主義から逸脱しているという人が多いが、あの体制こそ、ある面で社会主義の典型というべきだろう。

 本書は教えられるところの多い重要な本だが、日本に関する記述では首をかしげたくなる部分がないではない。たとえば、ナチオスは日本が北朝鮮に対する食糧援助を減らした原因として、拉致問題と日本人妻里帰り問題をあげ、10年以上前に起きた拉致問題が1997年に再浮上したのは北朝鮮を窮地に追いこむための韓国情報部による陰謀という説を信憑性の高い説として紹介している。日本人妻里帰り問題についても、日本人妻が北朝鮮にわたった経緯を知らないのではないかと思わせる部分がある。北朝鮮問題にとりくんでいるブッシュ政権の高官にしてこれでは、日米の情報ギャップは深刻といわなくてはならない。

→bookwebで購入

2006年07月28日

『金正日 隠された戦争』 萩原遼 (文藝春秋)

金正日 隠された戦争 →bookwebで購入

 1990年代に北朝鮮は300万人を越える餓死者を出したと推計されている。一番ひどかった1997年と1998年の両年にはそれぞれ100万人が餓死したらしい。

 おびただしい餓死者が出たのは主体農法と称する滅茶苦茶な農法で農地が疲弊していたところに、天災が襲ったためだと考えられている。似たような気象条件の中国側朝鮮族自治区や韓国北部では凶作程度の被害だったのに、北朝鮮でだけ大量の餓死者が出たのは人災の要素が強かったと言っていいだろう。

 現在では、金正日政権は餓死者が一番多く出た時期に核兵器とミサイルの開発に巨費を投じていたことが明らかになっている。核兵器やミサイルに使う外貨を食料輸入にふりむけていたら、あれほどの餓死者は出なかったはずだ。その意味では人災を越えて、未必の故意の大量殺人の可能性がある。

 本書はさらに一歩を進めて、北朝鮮の大量餓死は敵対階層を殲滅するために金正日政権が仕組んだジェノサイドではないかという仮説を提出している。表題の「隠された戦争」とは、国内の敵に対する戦争という意味である。

 著者自身が認めているように、今のところこれはで仮説であり、状況証拠の積み重ねでしかない。金正日政権が崩壊し、平壌の秘密文書館の扉が開かれるまでは答えは出ないだろうが、最終的な仮説以外にも、本書にはこれまで見すごされてきた重要な事実がいくつも指摘されており、今後の北朝鮮情勢を考える上で重要なので、このblogでとりあげてみたい。

 まず、金日成と金正日の間には1990年以降、深刻な路線対立があり、1994年7月の金日成の死の直前には、ぬきさしならぬところまで激化していたという指摘である。これには北朝鮮側の公刊文書という裏づけがある。

 金日成は1973年に金正日を内密に後継者に指名してから徐々に権力委譲をすすめ、1980年代後半には外交以外はすべて息子にまかせていたが、ソ連がペレストロイカに踏み切って以降、援助が激減し、年間数万人の餓死者が恒常的に出るまでに経済は窮迫していた。金正日は経済の惨状を父親の目から隠していた。金日成が農村に現地指導に出かける時は事前に手を打って、豊かな生活をしているようなヤラセをつづけていたが、いつまで隠せるものではない。餓死者が出ていると知った金日成は愕然とし、ただちに内政に干渉をはじめた。1993年の党中央委員会総会では、それまでの重工業一辺倒から民生重視に転換し、農業と軽工業を第一とする新方針を打ちだした(『金日成著作集』に演説が収録されている)。

 さらにカーター元大統領を通じて伝えられた、韓国の金泳三大統領の首脳会談の申しいれをあっさり承諾した。北朝鮮はごねにごねて条件をつりあげるものだが、この時の金日成は前提条件や予備協議は不要で、いつでどこでも会うと即答した。話はとんとん拍子に進み、1994年7月25日から3日間、平壌で首脳会談をおこなうことが合意された。金日成は7月7日に死んだが、もし1ヶ月長く生きていたら南北首脳会談は6年早く開かれていただろう。そして、金泳三の手土産の援助によって、金日成が打ちだした民生重視の新政策は財政的裏づけをえたはずだ。

 金正日は南北首脳会談に反対だった。金日成の死の3年後に北朝鮮で出版された『永生』という事実上の公式伝記小説には、金正日が会談を中止するよう懇願した模様が記されているという。

 核開発放棄の見返りにアメリカに要求する発電所についても、父子の対立があった。金正日は原子力発電所に固執したが、金日成は原子力発電所は10年かかると難色を示し、早く完成する火力発電所をたくさん作らせろと指示した。見返りを決定する第二回米朝高官協議は7月15日から開かれたから、もし金日成が1週間長く生きていたなら、北朝鮮は未完成の終わった2基の軽水炉型原発の代わりに、4ヶ所か5ヶ所の火力発電所を手にいれていたはずだ。

 だが、金日成は7月7日に死に、民生重視の新方針は放棄された。火力発電所の代わりに軽水炉型原発の建設がはじまった。

 金日成の死の前後の状況には不審な点が数多くあるようだが、興味のある方は本書を読んでいただきたい。

 さて、第二点は、餓死者はすべての地域・階層に平等に発生したのではなく、特定の地域・特定の階層に集中したことである。

 著者は1995年から1996年にかけて、北朝鮮にはいったWFPのモニタリング・チームの報告書(原文)を分析し、配給がどんなに不公平なものだったかを明かにしている。

 北朝鮮には「成分」と呼ばれる厳しい身分制度がある。人口の2割は革命の家系である「核心階層」とされ、優先的な配給など数々の特権があたえられているが、別の2割は反革命の家系の「敵対階層」とされ、どんなに優秀でも進学が許されず、人民軍に入隊することも労働党に入党することもできない。残りの6割は中間的な「動揺階層」とされている。

 大雑把にいえば、核心階層は便利な都市部に住み、敵対階層は山奥や僻地に追いやられている。洪水で被害がひどかったは敵対階層だったが、援助物資の半ばは被害の比較的軽い核心階層に配られ、一番打撃を受けた敵対階層にはほとんどに配られなかったという。

 WFPは深刻な被害を受けた人々に食料を届けようとしたが、北朝鮮当局からあの手この手で妨害を受けた。特に冷遇されたのは、敵対階級が集中して住まわせられている咸鏡道だった(帰国運動で北朝鮮にわたった在日朝鮮人の多くは咸鏡道に送られた)。咸鏡道は大洪水前の1994年から食料配給を停止されていたことがWFPによって確認されている。餓死者のうちの1/3がこの地域から出たと見られている。

 第三点は、北朝鮮が信頼に足る数字を出していないので、推計するしかないが、すくなくとも年100万人規模の餓死者が出るほどの食料不足はなかった可能性があることだ。

 北朝鮮国民が一年間に必要とする食料の最低限ぎりぎりの量は380万トンだが、韓国統一部の資料で収穫が380万トンを下回った年は1996年、1997年、1998年、2001年の4年間しかない。不足量は11万トンから35万トンで、国際援助で十分に補填できるはずの量だった。1995年以降、50万~154万トンの食料が援助されたから、特定階層に重点的に配給するというような操作をくわえていなければ、餓死者は出なかったか、出たとしてももっと小規模ですんだだろうというわけである。

年度 輸入量
トン
輸入額
億ドル
トン当り
ドル
1990 121万 1.9 156.45
1991 326万 3.98 121.78
1992 259万 4.91 189.22
1993 334万 5.14 154.08
1994 119万 1.58 132.73
1995 253万 6.85 270.6
1996 252万 5.94 235.76
1997 308万 7.07 228.98
1998 342万 6.92 201.95
1999 261万 5.25 201.05
2000 534万 6.06 123.65

 第四点は、食糧援助がはいりはじめてから、価格の高い米を大量に輸入している事実である。1990年から1994年まではトン当り150ドル前後で輸入しているが、本格的な食糧援助のはじまった1995年以降は200ドル以上に上昇しているのである。
 これは国際社会が北朝鮮を迫害するために、不当に高い価格で食糧を売りつけたからではなく(金正日政権は国内に対してはそう宣伝していたが、事実無根)、価格の高い米や精米の輸入量が増えるからだ。飢饉が一番ひどかったとされている1997年には64万トンの米・精米に2億1000万ドルも払っている(トン当り328ドル)。百万人以上の餓死者を尻目に、核心階層には贅沢をさせていたのである。
 次の条は興味深い。

 このぜいたくの傾向は、国際援助が入り始めた一九九五年から始まっている。コメと精米の輸入が目だって増え始めるのである。九三年は四十万トン、九四年は十二万トンと控えめだったが、九五年には一一七万トンにはねあがる。九六年六八万トン、九七年六四万トン、九八年一二〇万トン、二〇〇〇年には一六〇万トンに急増している。援助肥りでで特権階層は白米を食っていることを示している。

 国際援助は核心階層に贅沢をさせるために使われた可能性がきわめて高い。
 以上、四つの事実にはあきれるしかないが、しかし、これだけでは金正日が敵対階級殲滅のジェノサイドを立案・実行したと断定することはできない。金正日体制を維持するためには核心階層の優遇は不可欠であって、全国民に平等にひもじい思いをさせたら、宮廷革命が起こっていたかもしれない以上、これしか選択肢がなかったのかもしれない。
 萩原氏の仮説は説得力があると思うが、どのような意志決定があったかは、金正日体制が崩壊し、平壌の秘密文書館の扉が開かれるのを待つしかないのである。

→bookwebで購入

2006年07月26日

『外交敗北』 重村智計 (講談社)

外交敗北 →bookwebで購入

 北朝鮮問題の第一人者である重村智計氏が、金丸訪朝団以降の日朝外交を総括する本を出した。本書は小泉訪朝にいたる日朝交渉で暗躍した「ミスターX」の正体をあかした点が話題になり、ニュースでとりあげられたほどだが、もちろんそれだけの本ではない。描かれているのは現在進行中の生々しい同時代史だが、その背後には明確な外交論があるのだ。現存の政治家・官僚に致命傷をあたえるような記述があるので、しばらく毀誉褒貶がつづくだろうが、現代の古典として長く読みつがれていくのは間違いないと思われる。

 本書のテーマは明解だ。外交には理念と基礎知識が必要だが、その両方を欠いた政治家が国会対策の要領で「議員外交」をはじめたために、北朝鮮の工作機関にいいように振りまわされ、「外交敗北」を重ねてきたということである。

 困ったことに、理念と基礎知識を欠いていたのは政治家だけではなかった。大半のジャーナリストも、外交官も、そして北朝鮮専門家とされる人たちでさえも例外ではなかった。

 たとえば、著者の重村氏はTVや著書で工作機関を交渉相手にしてはいけない、外務省同士の交渉に一本化すべきだと指摘しつづけてきた。わたしの知る限りでは、重村氏以外の北朝鮮専門家で、工作機関を相手にするべきではないと発言しつづけた人はいなかったと思う。

 そもそも、なぜ工作機関と交渉してはいけないのか、はっきり理解している日本人はあまりいなかったのではないか。本書によれば、日本の外交官や政治家、ジャーナリストは相手が工作機関の人間かどうかにはまったく無頓着だったし、工作機関の人間だと気がついても、北朝鮮は独裁国であり、外務省よりも工作機関が力を持つ特殊な国なのだから、工作機関と裏取引するのはやむをえないと考えていたらしい。

 2001年にミスターXが登場するまで、日本の外務省や政治家、ジャーナリストの間では黄哲ファン・チョルという男が大物で通っていた。

 実は黄哲は対外連絡協会所属の日本語通訳にすぎず、日本から訪朝する政治家やジャーナリストを通訳兼監視人として世話する仕事をしていた。通訳兼監視人は日本人に対して居丈高な態度をとるのが普通だが、黄哲はそうではなかったので、担当した日本人から信頼されるようになり、対日工作の実績をあげるようになった。

 その功績が認められ、金丸・金日成会談の通訳に抜擢されたことから、日本側は金日成側近の大物と勘違いしてしまった。利権を狙う政治家や、取材や支局開設で便宜をはかってもらいたいジャーナリストが黄哲にさかんに接触するようになり、その多くが賄賂をわたしていたようである。

 金容淳キム・ヨンスン書記がそれに目をつけた。金容淳は「金正日総書記のナンバー1の側近」と自分から吹聴する人物で、幹部の間では評判がよくなかったというが、彼は黄哲を自分が担当する工作機関「統一戦線部」に引き抜いた。地位は課長補佐程度だったが、工作機関末端の通訳兼監視人からは大変な出世である。

 金容淳は黄哲に対する日本側の勘違いを利用して、北朝鮮外務省から対日交渉の実権を奪いとった。金容淳は日朝交渉の場に、課長補佐にすぎない黄哲を「高官」として登場させ、日本側は局長クラスの大物として遇した。金容淳と黄哲は平壌に支局を開かせるなどの約束をしたが、それはすべて自分にあたえられた権限をこえたものであり、空約束にすぎなかった。外交官は嘘をついたら交渉ができなくなるので、絶対に嘘をつけないが(北朝鮮の外交官ですら、嘘はつかないという)、金容淳と黄哲は工作機関の人間なので、平気で嘘をついた。

 金容淳と黄哲は日本とのパイプを独占し、我が世の春を謳歌したが、長くはつづかなかった。

 2000年8月に東京でおこなわれた日朝交渉に、黄哲は副団長格で参加したが、交渉にはほとんど出ず、政治家や朝鮮総聯幹部と秘かに接触し、空のボストンバックを札束で一杯にして帰っていったという(日本の公安が尾行していた)。それが黄哲の命取りになった。国家安全保衛部が黄哲の不正蓄財をかぎつけたのだ。金容淳にも塁がおよんだ。金容淳は日本に100万トンの米の援助をさせるからと、金正日に泣きついた。金容淳は日本に100万トンの米を要求した。金容淳しかパイプのない日本側は50万トンの援助に応じたが、金正日に約束した量の半分だったので、金容淳は失脚した。

 ミスターXは黄哲の失脚に係わった人物だという。ミスターXは黄哲の行状をすべて知った上で、彼の地位を奪いとったことになる。国家安全保衛部の所属であるから、もちろん工作機関の人間である。

 失脚時、金容淳は海外の口座に数億ドルの隠し預金をもっていたというが、その大半は黄哲を使って、日本から吸いあげたものなのだろう。50万トンの米の援助も、金容淳の保身のためにのものだったが、彼が失脚したことによって、すべて無駄になった。

 工作機関を相手にすると、こうなるという見本の意味で長々と紹介した。あきれたことに、日本は学習効果がないというか、同じパターンの「外交敗北」が何度もくりかえしている。

 賄賂を騙しとられたり、工作員の保身のために米を援助させられたりする程度の「外交敗北」はまだいい。問題は、日米同盟を崩壊させかねない失敗を、日本は一度ならず二度までも――金丸訪朝と小泉訪朝――犯しそうになっていたことだ。アメリカが北朝鮮の核開発を阻止しようと躍起になっている時に、日朝国交を樹立し、多額の援助をあたえたならら、北朝鮮の核兵器開発を助けることになり、日米同盟の崩壊をまねいたのは明白である。

→bookwebで購入