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2014年04月17日

『神話論理〈4-1〉裸の人〈1〉』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

神話論理〈4-1〉裸の人〈1〉 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『神話論理』の第四巻だが、この巻は邦訳で800頁を越えるために二冊にわけて刊行された。本書は第一分冊で、序から第四部までをおさめる。

 800頁という分量にたじろいだが、読みはじめるとすいすい読めた。神話が一巡して元にもどり、ようやく出口が見えてきたという安心感のためだろう(第三巻は辛かった!)。

 一巡して元にもどったというのは比喩ではない。本当に元にもどったのだ。『神話論理』の旅はアマゾン河流域に住むボロロ族の「鳥の巣あさり」の神話(基準神話)からはじまったが、ほとんど同じ神話が、地球を1/4周したところにある北アメリカ北西部の二ヶ所の地域に伝えられていたのだ。

 「鳥の巣あさり」の神話が伝わるのはバンクーバー周辺とオレゴン州南部の狭い地域だが、南の方、オレゴン州のクラマス族に伝わる神話をかいつまんで紹介しよう。

 造化の神クムカムチュは息子アイシシュの妻の一人であるバンに心を奪われ、アイシシュを亡き者にしようとした。彼はケナワトという草の先端に鷹が巣を作っているから、豪勢な服を脱いで雛をとらえて来いと命じた。
 アイシシュは裸になって草をよじ登ったが、見つかったのはありふれた種類の雛鳥だけだった。その間に草はぐんぐん成長してしまい、降りられなくなった。
 クムカムチュは息子の服を着て彼に化け、懸想した息子の妻バンを犯した。しかしアトリとカナダヅルという妻は夫でないことを見抜き、義父をはねつけた。
 アイシシュは草のてっぺんで食物もなく飢え、骨と皮だけになった。二人の蝶娘が彼を見つけ、水と食物を運び、髪と身体を清めてやり、籠に乗せて地上に降ろした。
 アイシシュは三人の妻と再会した。妻たちは死んだと思っていた夫を喜びむかえた。彼は三人にヤマアラシの針毛でつくった首飾を贈った。
 アイシシュはクムカムチュに復讐するために、息子に祖父のパイプを奪いとり、火に投じるように命じた。パイプは燃え、クムカムチュは死んだが、後に甦えり、息子に復讐しようとした。彼は天に樹脂を塗りつけて火をつけた。溶けた樹脂の湖が大地を覆ったが、アイシシュは小屋を安全に保った。しかし三番目の妻は外を見ようとして溶けた樹脂を浴びた。バンの顔には今でもその痕がある。

 「鳥の巣あさり」bird nestingという風習は世界中に存在するというから、「鳥の巣あさり」の神話があること自体は不思議なことではない。しかし主人公は単に鳥の巣あさりをするだけではなく、父親に騙されて下に降りられなくなり、超自然的な動物に助けられて地上にもどり、父親に復讐するというストーリーがそっくり同じなのだ。  しかも上に登らされる理由にインセストがからんでいる点まで軌を一にしている。ボロロ族の神話では、すでにおこなわれた母親と息子のインセストを父親が罰するという動機だったが、クラマ族の神話では父親が息子の嫁を奪うために息子を陥れようとするというようにきれいに反転している。ここまで正確に裏返っていると、偶然とはいえないだろう。

(ヨーロッパ語の「鳥の巣あさり」にはワトーの絵に見られるようにエロチックな含みがあるというが、南北アメリカ大陸の「鳥の巣あさり」にも禁じられた女性をわがものにしようという侵犯行為が含意されている点は注目しておこう。)

 引用した異文ではアイシシュが登るのはケナワトという草だが、別の異文ではカプカという小型の松になっている。ケナワトは食用植物で南方では高く育つが、クラマス族の居住地域ではそれほど育たない。カプカの方も樹皮の内側の皮が食用になり、しかも小さいという点が共通している。わざわざ小さな植物に登らせ、それが異常なまでに成長していくわけである。北方には植物ではなく、岩山を登る異文が存在する。岩山の上の鳥の巣に雛をとりにいこうとしたところ、岩山がぐんぐん成長してしまい、降りられなくなるというわけだ。

 「鳥の巣あさり」の神話が残っている地域は狭いが、レヴィ=ストロースが関連があるとする「アビ女」の神話は北アメリカ大陸を西から東まで横断する広大な地域に分布している。

 アビは早春に北アメリカにやってくる鴨に似た渡り鳥で、多くの部族では食のタブーとされており、タブーのない部族でも肉がまずいとされていて、積極的に捕獲されることはないようである。

 「アビ女」の神話とはインセストを犯そうとした女がアビに変身する一連の神話を指す。比較的短いモドック族の神話を紹介しよう。

 五男二女の子供がいるオオヤマネコの一家があった。上の息子四人は結婚していたが、末息子は並外れて美しかったので、両親は籠に入れて地下に隠した。両親は彼を夜中の間に地上に出して世話をし、兄弟姉妹が起きてくる前に元にもどした。
 上の姉は末弟を熱愛していたので、求婚をことごとく断った。首長の息子から縁談があった時は、母親に「お前が自分で結婚すればいいじゃないか」と言い放った。
 ある日、末息子は上の姉が言い寄ってきたと訴えた。両親は彼を湖の真ん中にある島に密かに運び、下の姉が世話をした。
 上の姉は末弟を必死に探し、ついに島にいることをつきとめた。下の姉は葦のカヌーに弟を乗せて島から逃げた。上の姉は怒り狂い、ひざまづいて猛スピードで回転し、大火事を起こした。一家の村も炎上し、姉に劣らぬ魔女である妹以外はみな焼け死んだ。妹は犠牲者たちの心臓を拾い集め、首飾を作った。
 妹は島で一人チャンスを待ちつづけ、ついに姉の寝込みを襲って心臓を奪い、首を切り落とした。首は悲しげな鳴き声を上げながらまた胴体につながった。妹は灰を投げつけて言った。
「好きなだけ泣け。お前はこれからは水のなかで暮らすことになり、二度と人を焼くことはできない。人々がお前を食べる時、肉はまずいと言い、吐きだすようになるだろう」罪深い姉は海鳥に姿を変え、湖から飛び立った。
 妹は魔術で家を再建し、散らばった骸骨を集めて煮た。夕暮に死者はすべて甦えり、家にもどって幸せに暮らした。

 「アビ女」神話と「鳥の巣あさり」神話は一見なんの関係もないように見えるが、レヴィ=ストロースは地下の穴に隠される末弟は鳥の巣を探しに上に登る「鳥の巣あさり」の主人公を反転させたキャラクターだと指摘する。上:下という対立だけでなく、家族から飢えさせられる:家族から養われるという対立があり、インセストに関しても、インセストをしかける側:しかけられる側という対立がある。

 また「鳥の巣あさり」のインセストは男主導で、親子という世代をまたいだインセストであるのに対し、「アビ女」は女主導で、兄弟姉妹という同世代のインセストである。

(二つの神話の比較だけなので対立リストはこれだけだが、レヴィ=ストロースは多くの異文を比較して、対立の網の目をさらに精密化している。)

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2014年03月29日

『神話論理〈3〉食卓作法の起源』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

神話論理〈3〉食卓作法の起源 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『神話論理』の第三巻である。

 四巻本の三巻目になると普通なら読む速度が速くなってくるところだが、『神話論理』は巻を追うごとに速度が遅くなってくる。難解でもないし、つまらないわけでもない。書いてあることは実に簡単明瞭。次から次へと登場する神話も面白い。それでも読むのに時間がかかるのは、既出の神話への参照が多いからだ。神話には「M354」のようにすべて通し番号がふってあり、「M354」がどんな話か思い出さないことには何を言っているのかさっぱりわからないのだ(『神話論理』には全部で813の神話が登場するが、レヴィ=ストロースはそのすべてを諳んじていたらしい。いやはや)。

 『神話論理』の論述は網の目になっており、リニアな語りにはあわない。こういう著作は紙の本で出すのではなく、電子テキストにしてリンクをはりめぐらし、神話番号をクリックするだけでその神話の場所に飛べるようなしかけにするのがよいだろう。レヴィ=ストロースは早く生まれすぎたようである。

 さて本巻から舞台が北アメリカ大陸に移るが、最初の部分ではまだギアナあたりをうろうろしていて、南北両アメリカ大陸に広く分布するカヌーの旅の神話とともにパナマ地峡を越えるという趣向である。

 北アメリカ大陸といっても、本巻があつかうのは五大湖より東と、西部の南半分までであり、アラスカからオレゴンあたりまでの北西部は含まない(北西部はアメリカ大陸でもっとも古くから人間が居住した地域であり、『神話論理』は先住民の移住ルートを南から北へ遡っていく構成をとっている)。

 最初に登場するのは狩人モンマネキである。彼はカエルなど人間以外の妻と四回結婚するがいずれも失敗し、最後に人間の妻と結婚する。結婚の失敗の原因は性的・身体的な問題などさまざまだが、第5部にいたって食卓作法の問題としてくくれることが明かになる。『食卓作法の起源』と題される所以である。

 本巻でいう「食卓作法」とは単なる食べ方ではなく、性的・身体的な問題にまで拡がる、女性としてのたしなみ全般をさすのである。

 女性のたしなみを象徴する技芸がある。ヤマアラシの針毛刺繍である(本巻では「針」という訳語をあてているが、第四巻の「針毛」の方がわかりやすいので「針毛」で統一する)。

 針毛刺繍とはさまざまな色に染めたヤマアラシの針毛を布に刺して模様をあらわしていく技芸で、現在はビーズを用いるようである。

 面白いのは針毛刺繍が高度に発達したのはヤマアラシがあまり生息しない地域だということだ。ヤマアラシが多く生息するのは北アメリカ大陸北西部で、本巻があつかう東部と南西部にはあまりいないのだ。

 なぜヤマアラシがいない地域で針毛刺繍が芸術の域にまで高められたのだろうか。レヴィ=ストロースは書いている。

 技術や入念さ、豊かさや複雑性の面で並はずれた特性をもつとともに哲学的なメッセージを表現する刺繍に携わる人々の目には、ヤマアラシがその珍しさゆえに崇高な動物として映り、まさしく「他界」に属する形而上学的動物と化した可能性がある。反対に、オジブワ族や東アルゴンキン諸族にとってヤマアラシは、針毛を採取したあとに食用にする現実の動物である。

 本巻がカバーする地域ではヤマアラシは単なる動物ではなく、形而上学的な存在なのだ。当然針毛刺繍にも特別な意味あいがある。

 神話には針毛刺繍に夢中になるあまり、冬眠中のヤマアラシを引きずり出す娘が登場するが、レヴィ=ストロースは前巻に登場したハチミツに熱中する娘との共通点を指摘する。ヤマアラシは冬の主であると同時に、刺繍の材料である針毛の提供者でもある。この両義性は誘惑的であるとともに毒性をもつかもしれないハチミツの両義性に通じる。

 ヤマアラシは季節にしたがって針毛を生え変わらせ、生態を変える生き物であり、その循環を乱す行為は、妻の一族に広くゆきわたるべきハチミツを独り占めするのに等しい秩序の破壊行為だというわけである。

 秩序を守ることは時間の循環を守ることであると同時に適切な距離をたもつことでもある。

 カヌーの旅では主人公は中央に、月と太陽は舳先と艫にわかれてすわる。舳先と艫の距離は一定であり、カヌーの旅は月と太陽の運行を秩序づける意味あいがある。

 主人公はペニスがなかったり、ペニスをくっつけてもらったはいいが、あまりにも長すぎて歩けなくなり、背中に背負った籠の中にとぐろをまかせて収納しなければならなくなったりする。

 神話が語ろうとしているのは秩序の重要性ということのようだ。人間、ことに若い娘は秩序の破壊者になりかねないので、作法で縛る必要があるのだ。

 思春期の娘――さらには出産した女性、寡婦と寡夫、殺人者、墓堀り人、聖俗の儀礼の執行者――を対象にした禁止に、ひとつの意味があるとすれば、それはわれわれがべつべつに描いてきたことをひとつにまとめるという条件ではじめて成立することになろう。食事のきまりを破り、食卓や身繕いの道具の使い方をないがしろにし、禁じられたおこないをする、こうしたことすべては、宇宙を害し、収穫をだめにし、狩りの獲物を遠ざけ、他者を病気と飢えの危険に曝すことなのである。そして自分自身に対しては、早すぎる老化の徴候を出現させることで人間の通常の寿命よりも短い生をもたらすことなのである。

 ざっくりまとめると以上のようになるが、余談の部分が実に面白い。たとえば実証主義的な神話研究の代表であるフィンランド学派との比較論。フィンランド学派は神話はある一点から周辺に拡がったと仮定し、分布地域から発生年代を推定する。ヤマアラシの神話群でいえばまず基本形が生まれ、それから太陽と月の諍い、マキバドリの神話と発展したとし、最も古い基本形は18世紀に遡るとする。

 それに対してレヴィ=ストロースは自らの神話研究を次のように位置づける。

 歴史学派が偶然的なつながりと通時的な発展の足跡を見いだそうとしたところに、われわれは共時性において理解することのできる体系を発見した。彼らがひたすら項目の一覧を作ったところでは、我々はさまざまな関係以外のなにものも見なかった。彼らが変り果てた残骸や偶然の寄せ集めをせっせと収集したところでは、意味のある対比を明らかにした。これはフェルフェィナン・ド・ソシュールの教訓を実行に移しただけである。

 神話の異文は単なる偶然の寄せ集めではなく、一つの体系をなしているというわけである。有名な料理の三角形を再考した条もあり、本書には『神話論理』の方法論をあらためて確認するという意味あいもある。

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2014年02月22日

『神話論理〈2〉蜜から灰へ』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

神話論理〈2〉蜜から灰へ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『神話論理』の第二巻である。表題の「蜜」とは蜂蜜、「灰」とはタバコの灰をさす。

 レヴィ=ストロースは本巻では「神話の大地は球である」ことを証明すると大見えを切るが、その前に蜂蜜について説明しておかなくてはならない。本巻に登場する蜂蜜はわれわれがよく知っている蜂蜜とは似て非なるものだからである。

 そもそもアメリカ大陸にはヨーロッパ人が西洋蜜蜂を持ちこむまでは蜜蜂は存在しなかった。しかし蜜を貯める蜂はいる。ハリナシバチやスズメバチの一部で、本巻で「ミツバチ」と総称されるのはこのハリナシバチやスズメバチのことなのである(蜜をつくる蜂の総称を「ミツバチ」とすると紛らわしいので、第三巻以降は「ハナバチ」と訳語が変わっている。本欄でも総称は「ハナバチ」で統一する)。

 驚いたことにハリナシバチやスズメバチは花の蜜だけではなく、樹液や人間の汗、糞尿、腐肉なども餌にしていて、その蜜は苦かったり、酸っぱかったり、有毒だったりする。また水分が多く、すぐに 醱酵して蜂蜜酒になる蜜もある。

 蜜蜂のつくる蜜は花の種類で味と香のバリエーションがあるが、どんな蜂蜜でも完全に甘い側に位置する。ところがアメリカ大陸在来のハナバチの蜜の多様性はそれどころではなく、最上の食品から毒物までさまざまだ。甘いと苦いの対立が蜜の中にあり、おいしいと舐めていると正気を失ったり、吐き気をもよおしたりするかもしれない両義的な食物なのだ。そしてこの両義性が神話の重要な要素となるのである。

(蜜蜂以外の蜂のつくる蜜というのが想像がつかないので検索してみたら、「ミツバチのいる風景」というミニ番組とグアテマラでペンションを経営する日本人女性のハリナシバチ養蜂体験記が出てきた。ハリナシバチ養蜂は西洋蜜蜂に押されて一時衰退したが、西洋蜜蜂がアフリカ蜜蜂と交雑して凶暴化したために、最近復活のきざしがあるという。)

 蜂蜜と対称的な位置にあるのがタバコである。蜂蜜とタバコはどちらも最上の食物であり毒でもあるという両義性で共通しているが、さらに料理ではないという点も同じである。

 料理ではない理由は蜂蜜とタバコでは真逆である。蜂蜜が料理でないのは蜂のつくった自然の賜物であり、人間が火を通す必要がないからだが、タバコの方は火を通すことを飛び越え、火で燃やしてしまうからである。蜂蜜が料理以前だとしたら、タバコは超料理なのだ。

(第三巻の内容になるが、それが端的にあらわれているのは北米大陸の神話における蜂蜜の相当物である。北米大陸ではハナバチはある時期から姿を消してしまい、蜂蜜は知られていないが、北米インディアンの神話には蜂蜜に相当するものがある。ちょっと考えるとカエデの樹液を煮詰めてつくるシロップのようだが、そうではない。スネークベリー(ヘビイチゴ?)などの野生の漿果がそれにあたるのだ。)

 面白いことに蜂蜜の起源神話(M192)では、蜂蜜は最初は栽培植物だったことになっている。

 大昔蜂蜜はオオカミが独占していたが、カメに先導された動物たちがオオカミを焼き殺し、蜂蜜の苗木をわけあった。ところが多くの動物は蜂蜜の苗木を植える前に食べてしまったので、カメはわずかに残った苗木を森にもどし、増えるまで待とうと申し合わせた。カメは言った。「お前たちが携えていくヒョウタンなどの器に入れて採ってくるだけなら、蜂蜜は決してなくならないだろう。しかし運びきれない蜂蜜は幹の中に残し、口をしっかり塞いでおかなければならない。次の時のためである」

 この神話は栽培種だった蜂蜜を野生もどす過程を語っている。この過程は第一巻『生のものと火を通したもの』で語られた栽培植物の起源神話を正確に反転させている。第一巻は自然から文化への移行がテーマだったが、第二巻は文化から自然への退行という逆操作をあつかうのだ。レヴィ=ストロースが本巻冒頭で「神話の大地は球である」ことを証明すると宣言したのは神話素の変換には逆変換があり、群論的に閉じているという意味である。

 ついでにいえば、神話素が群の構成要素なのではない。群の要素は神話素の変換という操作であって、変換と逆変換が閉じた体系を作っているのである。

 本巻では文化から自然への退行を象徴するようなキャラクターが論じられている。「蜂蜜に狂う娘」と呼ばれるキャラクターで、多くの神話に登場するが、短いものを紹介しよう。

 あるインディアンが妻とともに蜂蜜を探しにいった。蜂の巣が見つかった木を倒すやいなや、妻は蜂蜜が我慢できずに木に飛びついた。夫は腹を立てて妻を殺し、死体を切り分けて焼肉にした。

 男は村に帰ると、焼いた妻の肉をアリクイの肉だといって義母や義妹に食べさせた。義兄がもどってきて焼肉を食べると。すぐにそれが何の肉か知った。

 翌朝、義兄は男を草原に連れだした。一本の木の下で火を燃やすと、その木に登らせハナバチの巣を探させた。義兄は男を矢で射殺し、死体を火で焼いた。

 この神話では「蜂蜜に狂う娘」は親族に食べられてしまうが、別の神話では動物に変えられてしまったり、失踪したり、ろくな目にあっていない。

 「蜂蜜に狂う娘」はなぜこんな哀れな最期をむかえるのだろうか。レヴィ=ストロースは蜂蜜は婿入りした男が妻の親族に提供する最大の贈物なのに、それを独占しようとしたためだとしている。

 蜂蜜に狂う娘の過ちは、利己心や食い意地あるいは恨みの程度がひどくなって、姻族間の供与の循環を断つにいたった点にある。彼女は自分一人で食べるために、蜂蜜を抱えこんでしまって、蜂蜜を集めてくる夫から蜂蜜の消費を担当する両親へと、言ってみれば、蜂蜜を流通させなかったのである。

 欲望を抑えられない女ということなら「バクに誘惑される妻」の神話群がある。「バクに誘惑される妻」は不倫相手のバクを食べてしまうが、食べる/食べられるという点では反転するものの、「蜂蜜に狂う娘」と非常によく似ている。どちらも自制心が欠けているために、親族関係を危機に陥らせ、文化から自然へ退行させるキャラクターなのである。

 本巻の後半では「泣き虫の赤ん坊」というキャラクターが論じられるが、レヴィ=ストロースはなんと「泣き虫の赤ん坊」を日本のスサノオと関連づける。

 日本のものもアメリカのものも、これらの神話は同一の図式に驚くほど忠実である。泣き虫の子供は母親に見捨てられた赤ん坊であるか、母親の死後に生まれている。死後に生まれるということは、捨てられる時期が早まっているだけである。……中略……泣き虫の子供は空に昇り、腐敗した世界を生み出す(雨、けがれ、病気の原因である虹、短い命)、あるいは対称的なヴァリアントにおいては、空に昇るのは世界が焼けないようにするためである。これが少なくともアメリカの神話の図式であり、それが日本の神話では二つに分かれ逆転している。

 レヴィ=ストロースが参照しているのは『古事記』と『日本書紀』を翻訳者がまぜこぜにしてフランス語にしたテキストなので、異論のある人もいるだろうが、スサノオを母親に捨てられた「泣き虫の赤ん坊」と喝破した点は鋭いと思う。

 レヴィ=ストロースはアメリカ大陸の神話を記紀神話と比較しているだけではない。「暗闇の楽器」の神話群の変形過程をヨーロッパ中世のシャリヴァリという風習につなげたり、びっこの踊りと中国古代の帝王禹の神話の対称性を浮彫にする。

 旧世界とアメリカ大陸は最後の氷河期が終わる時期、短期間しかつながっていなかった。縄文人が太平洋を渡ったとか、ヴァイキングがハドソン湾に達していたという話もあるが、コロンブスまではほとんど交流はなかったといっていい。したがって神話に共通点があっても、従来の伝播説では説明がつかない。もし新旧両世界の神話に同型性があるとしたら、人類がアメリカに渡る前に形成された人間精神の共通の構造に根ざすのではないか。

 『神話論理』第二巻にいたってレヴィ=ストロースの探求の目指す方向がようやく見えてきた感がある。

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2013年12月26日

『神話論理〈1〉生のものと火を通したもの』レヴィ=ストロース(みすず書房)/『アスディワル武勲詩』(ちくま学芸文庫)

神話論理〈1〉生のものと火を通したもの
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アスディワル武勲詩
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 レヴィ=ストロースの大著『神話論理』の第一巻である。視力が落ちないうちに読みきりたいと思い、手をつけることにした。

 レヴィ=ストロースには『アスディワル武勲詩』という神話研究の傑作がある。わずか120頁の小著ながら、カナダ太平洋岸、バンクーバーのあたりからアラスカにかけて伝承されたツィムシアン族の神話群を水際立った手際で分析してみせ、新しい神話研究の方法論を世に問うた構造分析宣言とでもいうべき本である。

 『神話論理』四部作は『アスディワル武勲詩』の延長上で起稿されたが、最初の二巻が主に南アメリカ、後半の二巻が主に北アメリカと南北両アメリカ大陸を覆い、邦訳にして3000頁近くにおよんでいる。

 規模がこれだけ違う以上、重点の置き方も違ってくる。

 神話にはオリジナルがなく、すべて異文だという立場は同じであり、異文を生みだす神話素をとりだすのに構造言語学の音素分析の方法を援用する(英語話者には law と raw は別の音だが、日本語話者にはどちらも「ロー」で同じ音になるというように)点も共通だが、『アスディワル武勲詩』が神話素とツィムシアン族の習俗や宇宙観の相関関係を重視するのに対し、『神話論理』では神話素の対立が部族から部族をまたいでどのように変形されていくかにより注目している。最終的には現実につながるのかもしれないが、とりあえず神話は現実に根をおろすのではなく、神話固有の時空に枝葉を伸ばしていくのである。

 『アスディワル武勲詩』には神話が部族の現実に直結するという「岩底に達する」ような安心感があったが、『神話論理』では神話が神話を際限なく生みだしていくという浮遊感が広がっている。

 本書の章立ては音楽用語で統一されているが、序文にあたる「序曲」には次のようにある。

 そしてたぶん、すでに示唆してあるが、さらに踏み込んで、主体というものを取り除いて、ある意味では、神話たちはお互いに考え合っている、と想定すべきであろう。というのは、本書で取り出して示したいのは、神話の中に何があるかであるよりは、互いに最大限離れた精神や社会や文化から取り出した具体的資料である無意識に作られたものに共通の意味を与えることのできる、最上のコードを決めている公理と公準の体系だからである。

 「神話たちはお互いに考え合っている」という表現を奇矯と受けとる人がいるかもしれないが、『神話論理』を行きつもどりつしながら読みすすめていくと、まさに神話が神話を考える世界なのだと実感する。わたしは本書を二回読んだが、二回目の方が浮遊感がよりいっそう深い。

 さて『生のものと火を通したもの』である。本書は人間が火を獲得して料理が可能になり、自然と文化が分割されたという料理の起源をあつかうが、出発点となるのは『悲しき熱帯』でおなじみのボロロ族の神話で、『神話論理』全体の「基準神話」ともなっている。

 「鳥の巣あさり」と呼ばれる神話だが、長いのでごくかいつまんで要約してみよう。

 成人式をむかえる若者にペニスの鞘を作ってやるために母親が森にはいるが、若者は森の中で母を犯してしまう。父親は息子が母親を犯したのを知り、死者の霊のがらがらを取りに行かせるが、彼は祖母と鳥の助力で無事にもどってくる。
 父親は若者に崖の上のコンゴウインコをとりにいかせる。巣の高さまで登ったところで棒を倒してしまい、彼は宙吊りになった。どうにか頂上にたどりつき、木の枝で弓矢を作ってトカゲをとらえた。
 若者はトカゲを食い、残りを手足にくくりつけたが、腐ってあまりに臭いので気絶する。そこにコンドルが降りてきてトカゲをたいらげ、彼を尻から食いはじめた。尻を全部食べたところで満腹になり、コンドルは若者を地上に下ろしてやった。
 彼は我に返り果実を食べるが、尻がないので素通りしてしまう。彼は祖母の話を思いだし、塊根を練って尻を作った。
 若者はようやく村にもどるが、村には誰もいない。彼は親兄弟を探してさまよい、祖母と弟を足跡を見つける。彼は恐れからトカゲの姿を身にまとっていたが、ついに決心して真の姿を見せた。
 その夜、嵐になり、村の火が全部水につかり、祖母の火だけが残る。翌朝、村人全員が種火をもらいにきた。父親は何ごともなかったように彼をむかえた。
 若者は父親に復讐するために狩りを催すように仕組む。彼は父親が待ち伏せしている場所を見つけると、偽の角をつけてシカに変身し、父親に突進して突き刺し、湖に突き落とした。父親はブイオゴエの霊(人食魚)に食われ、骸骨は底に沈み、肺は水草になった。
 若者は村にもどると父親の妻たちにも復讐した。

 この神話のどこに料理の起源があるのか、自然と文化の分割があるのかと不思議に思う人がほとんどだろう。ボロロ族の神話そのものは料理に直接は結びつかない。料理につなげるにはボロロ族の隣接地域に居住するジェ語を話す諸部族が伝える火の起源神話を仲立ちにする必要がある。

 本書にはジェ系の火の起源神話の異文が六話収録されているが、その中からカヤポ族の神話を紹介しよう。

 あるインディアンが岩山の頂にコンゴウインコの巣を見つけ、妻の弟のボトケを連れて雛鳥をつかまえにいく。梯子を登ったボトケは巣から卵を投げおろすが、卵は途中で石になり、義兄は怒って梯子をはずしてしまう。
 ボトケは岩山の上で数日間立ち往生し、飢えと渇きで自分の糞便を食べる。
 そこの弓矢と獲物をもったジャガーが通りかかる。ジャガーは地面に映っているボトケの影をとらえようとするがつかまらない。上を見て影だとわかると梯子を治し、ボトケに降りるように言う。
 ボトケが降りてくるとジャガーは彼を背中に乗せ、住家に連れていって焼いた肉を食わせる。人は火を知らなかったので、火を通した肉を食べたのはボトケが最初である。
 ジャガーはボトケを養子にするが、ジャガーの妻は彼をいじめるので森に逃げる。
 ジャガーは彼に弓矢をあたえる。ボトケは継母を射殺すが、怖くなって弓矢と焼いた肉をもって村に逃げる。
 ボトケは夜中に村に着き、母親の寝床を見つけ自分が死んでいないと納得させる。彼は出来事を語り、火を通した肉を配る。インディアンたちはジャガーから火を奪いとることにする。
 インディアンたちはジャガーの留守宅を襲い火を持ち去る。村にはじめて灯りがともり、肉を焼き、竈で暖をとれるようになる。
 ジャガーは火と弓矢を奪った養子の忘恩を怒り、人間に憎しみを抱く。ジャガーは牙で狩りをし、肉を生で食べることにする。

 ボロロとジェの神話は内容こそ異なるが、構造がよく似ている。

 どちらの神話の主人公も鳥の巣を荒らそうとして高所から降りられなくなり、飢える。臭気の原因は異なるが(腐ったトカゲと自分の糞便)、悪臭を身にまとう点も同じである。

 その一方相違点もある。ボロロの主人公は実の父親に棒を倒されるが、ジェの方は姉の夫によって梯子をはずされる。ボロロの主人公は人間の実子だが、ジェの方はジャガーの養子である。ボロロの主人公は母親に近づきすぎてインセストを犯し、父親を殺してしまう。ジェの主人公は養父の方から接近してきて母親のように面倒をみてくれるが、恩知らずにも養母を殺してしまう。

 さらに言えば、ジェの神話が火の起源神話だとするなら、ボロロの方は雨風の起源神話である。内容が真逆なのだ。二つの神話は単に相違するというより、対称性にもとづいた反転関係にあるといった方がいい。

 部族から部族へ神話が伝播する際、神話素に何らかの変換がおこなわれる。変換の理由は部族の習俗の違いによる場合もある。たとえばジェ系の部族の多くは母系で妻方居住なので、村にもどってきた主人公は母親か姉妹によって自分だと認めてもらうが、夫方居住のシェレンテ族の伝える異文では兄弟によって認められるというように変換されている。

 しかし現実だけが変換を左右するわけではない。ティンビラ族の伝える異文では父親によって認められるとなっているが、ティンビラ族は妻方居住なのである。

 神話は蜘蛛の巣状に広がっており、今の言葉でいえばハイパーテキストを構成している。ハイパーテキストのノードからノードへ移る際に変換が起き、変換がくりかえされて元にもどることもある。

 レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』につづいて、本書でも群論に助けをもとめているのも決して根拠のないことではない。厳密な群を構成しているわけではないが、神話の網の目は群に似た閉じた構造をとっているらしいのである。

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2013年11月27日

『親族の基本構造』 レヴィ=ストロース (青弓社)

親族の基本構造 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『親族の基本構造』は1947年に刊行されたレヴィ=ストロースの主著である。レヴィ=ストロースの名を文化人類学の世界で一躍高めるとともに、構造主義の出発点ともなった。

 日本では刊行から40年もたった1987年になってようやく番町書房から最初の翻訳(以下「旧訳」)が出た。学問的に重要な本であるのはもちろん、40年の間には二度の構造主義ブームもあったのに、これだけ時間がかかったのは『親族の基本構造』がそれだけ難物だからだろう。

 旧訳の翻訳にあたったのは日本の文化人類学の一方の中心である都立大の研究者たちで、本書であつかわれる東シベリアからインドにいたる地域で実地調査した経験のある人も含まれていた。

 学問的には申し分ないだろうが、旧訳は読みやすい本ではなかった。わたしは出た直後に読もうとしたが、第一部の手前で挫折した。

 今回もう一度挑戦しようと思いたったが、2001年に青弓社から新訳が出ていたことを知った。最近の現代思想関係の新訳はどれも読みやすいが、本書もすらすら読めて拍子抜けした。

 レヴィ=ストロースは学術論文であってもレトリックに凝ることで知られている。本書の序文は特に気合いがはいって『悲しき熱帯』ばりの美文になっている。旧訳ではこんな具合だ。

 かくして、文化と自然との対照について、真の関係分野はどこまで遡及されるのか、という質疑が出てくる。動物に近いと判定される何とも疑わしい形式を排除するため、荒々しく努力した人類 genre Homo――語意反用的に sapiens[賢明な]と名づけられた――というこの「種」による製作品が、だいたいにおいて、それを指すとするならば、その単純さは人々を迷わせることになろう。数十万年または更に遠い以前に人びとを鼓舞したのと同じく愚鈍にして破壊的な精神が、今日では他の生活の諸様式を根絶させるのを駆進している。それは、このような生活様式を代表する数多くの人間の諸社会が、自然を拒否していないとの理由だけで、誤ってそれらを自然の側に格下げしたからである。あたかも、それのみが始めから自然に対しても文化を具現し、かつ、それが完全に自己抑制可能なる場合を除き、生命なき物質に立ち向かっての生命の化身であると自負するかのように――というわけである。

 一回読んだだけで意味がわかる人はあまりいないと思う。同じ箇所が新訳だとこうなる。

 文化と自然はどこまでほんとうに対立するのか。ホモ属に属する種のうち、皮肉にもサピエンスと呼ばれる種が、もろもろの中間の種をそれが動物に近いと見ればむごたらしく殺戮することに血道を上げ、その様にしてかなりの程度まで文化と自然の対立をこしらえあげたとするなら、二つを単純に対立させるのはまやかしだろう。あの殺戮を思えば、いかにもこの種はすでに何十万年も前から、いやそれ以前から、現在と同じ愚鈍で破壊的な精神に導かれて行動していたらしい。今日でもこの精神を推進力にして他の生命形態を絶滅させようとしている。

 すらすら読めるという感想が決して誇張でないことがわかるだろう。

 旧訳と新訳では絶滅させられた集団の解釈が異なっている。旧訳は未開民族が動物に近いという理由で絶滅させられたと読んでいるが、新訳はホモ・サピエンスがネアンデルタール人のような傍系人類を絶滅させたとしている。原文にあたってみたが、ここは新訳が正しいと思う。レヴィ=ストロースは専門書の中にも分野の違う話題を平気で織りこんでくるのだ。

 新訳は福井和美氏の個人訳である。福井氏はアルチュセールの訳書があることからすると現代思想畑の人と思われるが、文化人類学を専門にしているわけではないということである。専門外の人間が『親族の基本構造』のような難物を訳せたのは専門の研究者集団による先行訳があったからだろう。

 専門外の人が訳す利点は門外漢がどこでつまづかわかる点である。専門家にとっては自明の言葉でも、門外漢はまったくわからなかったり、あるいは日常語と同じだったりすると、わかったつもりになって見当はずれの誤解がそのままになったりする。本書はつまづきそうな用語は本文中に組みこんだ訳注でいちいち解説してあって随分助けられた。

 その一方、直感的にわかりやすくという配慮からだろうか、本書では専門の研究者の間で定着しきた訳語とは違う訳語を採用している例がすくなくない。

 incest は旧訳では「近親婚」だったが、新訳では「インセスト」とカタカナ書きされている。レヴィ=ストロースが問題にしているのは生物学的な近親結婚ではなく社会的禁忌だからというのが理由だ。旧訳を見てみよう。

 近親婚の禁止は両性間の関係に関する限り、「人は何をしてもかまわないわけではない」ということを集団的に確認するだけである。この禁止の積極的な側面は組織を始動させることである。

 次に新訳。

 インセスト禁忌は、要するに、男女関係に関して好き勝手なふるまいは許されないとの集団の側からする主張にほかならない。禁止の積極的側面は組織化の端緒を開くことにある。

 「近親婚」か「インセスト」かは揺れの範囲内かもしれないが、「一般交換」l'échange géneralisée を「全面交換」とするのはどうだろうか。

 一般交換は限定交換と対になる本書の最重要キーワードである。限定交換が二つの集団の間で嫁をやったりとったりすることをあらわすのに対し、一般交換では婚姻関係が多くの集団の間に拡大される。婚姻関係を拡大する上でキモとなるのが嫁をもらう集団と、嫁に出す集団をわけるという仕組である。

 この仕組について触れた箇所を較べてみよう。まず旧訳。

 ゴリド族にあっては、女は母の兄弟の息子と結婚することはできない。というのは、そのことは「彼女の母の血を母のクランに運び返す」ことになるであろうから。しかし、男が自分の母の兄弟の娘と結婚することはまったく可能なのである。かくのごとく、彼にすでにその血を与えた母方のクランは「新鮮な血」を、それも「同じ起源の血」を彼の子供たちに提供しつづける。一般交換の原理をこれ以上に強く、またこれ以上に明瞭に表すことはできないであろう。(強調引用者)

 次に新訳。

 ゴリドでは、女が自分の母の兄弟の息子と結婚することは「母の血を母のクランに戻す」ことになるのでできないが、しかし男が自分の母の兄弟の娘と結婚することは、当の男にすでに血を与えた母方クランが、この男の子供たちにも起源の同じ新鮮な血を提供しつづけることになるので、無条件にできる。全面交換原理のこれほど力強い、これほどはっきりとした表現もほかになかろう。(強調引用者)

 「全面交換」としたからといって、特にわかりやすくなるわけではないと思う。一般交換は「一般交換」でよかったのではないかという気がする。

 新訳は索引が充実していることも注目したい。旧訳は9頁だったが、新訳は18頁と倍増している(活字がひと回り小さいので分量の差はもっとある)。

 内容を見ていこう。

 まず二つの序文だが、第二版の序文の方には「選好」という語の使い方が曖昧だと英米の人類学者に批判されたことに対する言い訳が書いてある。レヴィ=ストロースは結構アバウトな面があるようだ。

 序論では自然と文化の区別をインセストを手がかりに探るという本書の構想が語られている。過去のインセストの説明をいちいち批判しているが、概説書の内容を再確認したにとどまる。

 第1部「限定交換」も概説書でさんざん読んだ内容とそれほど違わない。交叉イトコ、平行イトコ、双分組織……とおなじみの話題であるが、互酬原理の部分は面白かった。

 レヴィ=ストロースは互酬贈与で入手した実利品には自作の品にない神秘的付加価値が伴うが、それは現代社会でも同じだとしてプレゼントを例にあげ、クリスマスのプレゼント交換は巨大なポトラッチだという。

 さらに年代物のワインやフォアグラを一人で食べると罪の意識をおぼえるのは一人で飲み食いすることは一種のインセストだからだと指摘し、安レストランでたまたま座りあわせただけの客同士がワイン交換で盛り上がる情景へと筆を進めていく。

 会食者の胸中には、目に見えない不安がどうしようもなく兆してくるだろう。接触がどんな些細ないとわしさを告げてくるのかわからないがゆえの不安。ワイン交換はまさにこのつかの間の、しかし困難な場面に決着をつけてくれる。それは好意を明示し、相互のおぼつかない気持ちを解消し、並列状態の代りに交流をもたらすのである。だがワイン交換はそれ以上のものである。それは一歩退いた態度をとる権利をもっていた相手を、そこから抜け出るように仕向ける。ワインが供されたならワインを返さなくてはならない、親愛の情には親愛の情で応えなくてはならないのである。

 レヴィ=ストロースは譬え話をしているのではない。彼は本当にパリの安レストランのワイン交換と未開部族の互酬贈与が同じだと考えているのだ。

 限定交換は日本でもおこなわれている。埴谷雄高の『死霊』では三輪家と津田家が互いに嫁をやったりとったりしているが、そうした対になった家系は珍しくない。あれこそまさに限定交換の名残であろう。

 第一部後半からは全面交換に話題が移るが、人口が減って交換規則が維持できなくなった例や複数の部族が合併した例、さらには他の部族に交換規則を学ぶ例などがとりあげられている。サルトルとの論争もあってレヴィ=ストロースは歴史的な視点をもたないと割り切っている概説書がすくなくないが、実際は通時的変化を語っているのである。

 第2部「全面交換」ではビルマのカチン型体系を検討した後、いきなりシベリアのギリヤーク型体系に飛び、両者がよく似た単純な全面体系となっていると指摘し、ビルマ・シベリア軸の可能性に説きおよぶ。

 ビルマ・シベリア軸があるとしたら、その真ん中に位置するのは中国の漢型社会である。漢型社会は親族を270に分類する最も精密な呼称体系を有している(ある人類学者が言語に依存しない普遍的な親族分類体系を作ろうとしたところ、中国の親族呼称体系そっくりになってしまったそうである)ことからもわかるように、もっとも複雑で洗練された全面交換を形成している。

 興味深いことに漢型体系とギリヤーク型体系の中間に位置する満洲型体系と、漢型体系とカチン型体系の中間に位置するナガ型体系はどちらも中間形態をとっている。

 最も進んだ漢型体系に接して中間的な満洲型体系とナガ型体系があり、その外側に単純なギリヤーク型体系とカチン型体系があるのだ。あたかも東アジア中央部で全面交換が進化していき、その影響が同心円状に広まっていかのようではないか。

 レヴィ=ストロースは「蝸牛考」のような伝播説を唱えているのだろうか。

 そうではない。レヴィ=ストロースは伝播説の直前で身を翻す。中国社会では高度な全面交換と混在して単純な全面交換や限定交換が生きた制度として残っていること、カチン型、ギリヤーク型など最も単純な全面交換形式にすら限定交換が執拗にあらわれることを指摘し、一種の発展段階説に向かう。

 漢型体系は、いままで考察してきたすべての体系のなかでも確かにもっとも進化しているが、この体系がそうであるのは、中国社会そのものが、アジア東域を占めるすべての社会のなかでもっとも進化しているからなのである。とはいえ、漢型体系はきわめて純粋なかたちで全面交換定式を保存してきたのであり、ゆえに、この体系が全面交換定式を本来の意味で乗り越えたことは一度もなかった。同様に、クキ型、カチン型、ギリヤーク型などの体系が、いまだ限定交換の波にさらされていないと述べることもまたできない。じつにそれらの体系は限定交換の芽を懐に抱えていて、この芽は、いっさいの外的影響がなくても、自力で成長していくにちがいないのである。全面交換を伴うカチン=ギリヤーク型、全面交換と限定交換が混淆する満洲=ナガ型、限定交換を伴う『爾雅』の語る漢型、我々が出会ったこれら親族体系の三つの型は、要するに一連の文化移動における三つの段階というより、同一の構造の示す三つの様態であるように思われる。しかも我々は、もっとも単純だと見なす形式にあとになってはじめて発展していく性格のすべてをあらかじめ見出しもする。

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2013年09月29日

『理性の不安』 坂部恵 (勁草書房)

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 日本語で読めるカントの研究書として有名な本である。初版は今から30年近く前に出たが、何度か改版をくりかえしてロングセラーをつづけている。

 よく言及されるので気になっていたが、はじめて読んだ。意外だったのは読みやすいことである。研究書というよりエッセイの文体で書いてあるのだ。同じ著者が講談社学術文庫から出している入門書よりよほど読みやすい。

 エッセイ風に書いたのは気まぐれではなく、必然性があったと思われる。

 カントは難解な文章で知られるが、若い頃も難しい本を書いていた。ところが『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙にはいるすこし前、1763年から1770年――年齢にして39歳から46歳――にかけての7年間、一般読者を意識したヴォルテールばりの文体で書いた時期があるのだ。その頃を代表するのが『美と崇高の感情に関する観察』と『視霊者の夢』である。

 『美と崇高の感情に関する観察』はカント生前では最も広く読まれた本で、カントはメンデルスゾーン(作曲家の祖父)やニコライとならぶ通俗哲学の第一人者と見なされるようになった。

 通俗哲学というと大衆向けの哲学のような印象をもつ人がいるかもしれないが、「通俗」には悪い意味はない。当時台頭してきた教養ある市民層を意識した専門用語を使わない哲学がそう呼ばれた。

 著者はカントは通俗哲学時代にアイデンティティの危機に遭遇したと見ており、その克服が批判哲学の誕生につながったとしている。本書は通俗哲学時代の再評価を通じて危機の乗り越えを描きだそうという試みである。

 しかしなぜ危機が通俗哲学とつながるのか。

 カントがヒュームによって「独断のまどろみ」を破られ、批判哲学に向かったことはよく知られているが、ヒューム以上に影響をあたえた思想家がいる。ルソーである。

 カントがルソーをはじめて読んだのは1763年、39歳の時だった。その衝撃で一気に書きあげたのが『美と崇高の感情に関する観察』だが、カントはこの著作で従来の学校文体を捨てて通俗哲学の文体を採用している。

 カントは同書の手沢本に次のように書きこんでいる。

 一時期、私はこのこと〔学問〕のみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。

 カントはそれまで学者仲間に読まれることだけを考えて書いていたが、それではいけないことに気がついたというのだ。カントは専門に閉じこもった学者を「一眼の巨人」にたとえるようになる。『人間学』から引こう。

 私は、そのような学者を、一眼巨人と呼ぶ。彼は、学問のエゴイストであり、そのような人には、もう一つの眼、彼の対象を他人の立場から眺めるような、もう一つの眼が必要である。学問の人間性、すなわち、自分の判断を、他の人々の判断とつきあわせて吟味することによって、それに社会性をもたせるということは、ここにもとづく。

 カントは『人間学』と他の学問の関係は「二つの眼の関係」にあたるとつづけ、『人間学』の眼は学問の眼を超越しているとしている。

 ここには批判哲学の最初の動機がうかがえる。われわれは超越論的観念論の壮大な構築物にばかり眼が行ってしまうが、批判哲学はそもそも理性の批判であり、理性の越権を告発するものだったのだ。

 そうであれば学者相手の学校文体ではなく、教養ある市民に読まれるための通俗哲学の文体を選択するのは必然であり、本質的なことでもあるだろう。

 この転換を端的に示すのが、この時期カントが哲学 Philosophie の代りに用いた Weltweisheit という言葉である。Weltweisheit は「学校概念」と対比して「世間概念」と訳されるが、「世界知」とか「世間知」と訳されることもある。カントは社会に開かれた学問を目指そうとしたのである。

 ところが10年の沈黙の後に世に出た『純粋理性批判』は学校文体の最たるものであり、教養ある市民が目を回しそうな恐ろしく難解な文章で書かれていた。

 もちろん内容が要求した部分もある。『純粋理性批判』は既存の形而上学とその背後にあるスコラ哲学に全面的な戦いを挑んでおり、相手の武器を用いて戦わざるをえず、専門用語だらけになるのは仕方ないのだ。

 だが、そうは言ってもカントがヴォルテール流の文体を二度と用いなかったのも事実だ。批判期を境にカントはもう一度文体を変えたのである。

 著者はその理由を『視霊者の夢』にもとめる。カントは『視霊者の夢』で本当のアイデンティティの危機にはまり込んでしまい、安全のために学校文体にもどったというのだ。

 カントはルソーによって社会とつながる大切さを知り、象牙の塔に閉じこもった学問のあり方を乗り越えようとしたが、それだけだったら深刻なアイデンティティの危機にまではいたらない。カントは私講師になった次の年から自然地理学の講義をはじめており、限定された形とはいえ社会に開かれた学問を実践していたからだ。

 『美と崇高の感情に関する観察』の段階では安全圏の自己変革で済んでおり、自己批判めいたことを書きこんだにしても、それは本当の自己否定ではない。

 ところが『視霊者の夢』でカントはのっぴきならない形で自分自身と対決し、自分が腰かけていた枝を自分で切り落とす破目におちいってしまった。

 青年時代のカントは講壇哲学の神学とないまぜになった宇宙論を拒否し、万有引力の法則のみによって現実の宇宙の姿を説明しようとした。その成果が1755年の『天界の一般自然史と理論』である。この著作は副題に「ニュートンの原則に従って論じられた全宇宙の構造と機械的起源に関する試論」あるように、神の介入を必要としない宇宙論だった。

 原初の混沌からの宇宙の誕生が機械論的法則だけで説明できるというのはまさに理性的推論の勝利だったが、だからといって神が不要になったわけではない。神の手が途中で介入する必要こそなくなったものの、万有引力の法則だけで宇宙が説明し尽くされるとは、宇宙が神の完璧な作品であり、目的論的秩序を隠れた前提としていることを意味する。カントが心血を注いで構築した宇宙論は、実はライプニッツ=ヴォルフ流の講壇哲学を根柢として成立していたのである。

 カントは『視霊者の夢』で感性の夢想家スウェーデンボリをたたき斬り、返す刀で講壇哲学に斬撃をくわえたが、ライプニッツとヴォルフに向けた理性の夢想家という批判はそのまま自分自身に跳ね返ってきた。

 著者は『視霊者の夢』のヴォルテール流の文体が実は自分で自分を笑いのめす「鏡細工」にも似た多層構造になっていると読みとき、その書き方のうちに「不幸なる意識」の圧殺のドラマを透かし見ている。

 著者によれば『視霊者の夢』は単にスウェーデンボリをからかった本ではなく、『ラモーの甥』やルソーの『対話』のように自我分裂と狂気の一歩手前まで行ってしまったという。

 そこまで評価するのはためらわれるが、ドラマチックなことが何もないと思われていたカントにアイデンティティの危機があったという指摘は決して無視できないのではないか。

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2013年09月28日

『カントの人間学』 フーコー (新潮社)

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 カントは1772年度の冬学期から『実用的見地からの人間学』(以下、『人間学』)を開講した。カントは当時48歳で『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙の期間にはいっていた。

 『人間学』はコペルニクス的展開のただ中ではじまった講義であるが、以後1797年に実質的に引退するまでの25年間、冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』を同じ曜日に講義しつづけた。人気のある科目だったので引退してからようやく出版されたが、カントは74歳になっていた。

 『人間学』は『自然地理学』とともに「通俗的」講義と見なされ、長らく等閑にふされてきたが、意外な人物が注目していた。ミシェル・フーコーである。

 フーコーは『人間学』をみずから仏訳するとともに、1961年に提出した国家博士号の副論文のテーマに選んだ。それが本書である(主論文は『狂気の歴史』)。

 フーコーは『人間学』仏訳の序文にするつもりだったが、審査にあたったジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤックはカント研究の枠を越えて発展していく可能性を認め、翻訳とは別に出版することを勧めた。

 その期待にこたえたのが1966年に出版された『言葉と物』である。『人間学』の仏訳は1964年に上梓されたが、短い添書(『ミシェル・フーコー思考集成2』所載)だけをつけた。本書は生前には公刊されず、読むには博士論文を保管するソルボンヌの図書館でタイプ原稿を閲覧するしかなかったが、ようやく2008年になって活字になった。

 カントの『人間学』は1798年の公刊版のほかに1770年代と1780年代の講義草稿、学生のノート(最新は1790年度冬学期)、公刊版と同じ年に発表された「単なる決意によって病的感覚を統御する心の力について」、公刊版の後に出版された講義録『論理学』や研究者がもてあましてきた『オプス・ポストゥムム』、さらに関連する書簡など多くの資料がある。

 フーコーはこうした資料群を「テクストの堆積層」と呼び、「テクストの考古学」、「知の編成」を試みる。

 フーコーは狂気や監獄、性など特定分野のおびただしい資料群、というかそれこそ図書館の一角をまるごと読みきって、力業で「テクストの考古学」をやってのけたが、一人の哲学者の特定の著作を対象に考古学的探求をおこなったのは珍しいのではないだろうか。

 フーコーはまず『人間学』の執筆時期を考証し、1997年の前半に大半が書かれたことを明らかにする。カントは73歳になっており、その頃には耄碌していたという見方が多い。ところが公刊版は過去の講義草稿を単に整理したものではなく、1790年度の学生のノートとも違っており、思想的な発展が見られるというのだ。驚いたことに、フーコーは老人性痴呆症の産物と片づけられてきた『オプス・ポストゥムム』までまともな論考としてあつかっている。

 フーコーがカントの『人間学』と最晩年の思想的発展を重視するのは18世紀にはじまる人間学の潮流と絡みあっているからだ。

 デカルトは意識を神経管の中を流れる動物精気の運動で説明しようとした。デカルトにとって身体は機械の一種であり、物理法則で理解されるべきものだった。物理法則ですべてが覆い尽くされる以上、人間学独自の領域などというものは存在しようがない。

 ところが18世紀になると身体は自然の一部ではあっても物理の一部ではないという考え方が台頭してくる。ヴォルフの体系では生理学はなお自然学の一部門だったが、身体は物理法則ではなく、身体独自の法則で理解されるべきだと考えられるようになっていた。

 ヴォルフは生理学を「特に人間の、生気を与えられた身体」についての学と呼ぶのはなぜなのか。それはおそらく、人間についての認識が魂という形而上学的な特権の規定と、医学という技術的熟練が交わる地点に位置しているからだろう。だからこそ、人間は「自然」と「物理」のあいだのずれによって開けた空き地に、認識にとっての第一の主題としてあらわれることになる。

 カントの『人間学』はこうした潮流をとりこんだが、人間学の方もカントの影響を受けていた。『人間学』は出版こそ1798年だが、学生のノートの筆写というかたちで流布しており、カントを参照する著作はすくなくないという。

 生理学だけでなく心理学や社会学という学問も18世紀の人間学の潮流から生まれようとしていた。カントの『人間学』も社会の中の人間を注視している。

 『人間学』には、会食というささやかな社会のかたちに対する根強い関心が見られる。重要なのはまず「会話」であり、その会話でやりとりされるもの、やりとりされるべきものである。「社交界」は各人がつながりつつ主権をたもちつづける場として、威厳を持った社会的・道徳的なモデルにまで高められる。なにより、語らいが価値あるものとされる。語らいとは、ある者と他の者、もしくは居合わせた者全員のあいだで生まれ、そこで完成されるものだ。つまり人間学の観点からすると、モデルとなる集団は家族でも国家でもなく、「食卓を囲む集い」なのである。

 だがカントの『人間学』を18世紀の人間学の代表と考えることはできないし、人間学を基礎づけたと考えることもできない。カントの『人間学』は人間学の潮流に棹さすようでいて、実は流れに逆らっていたからだ。

 『人間学』は『三批判』と平行して展開されており、表裏一体の関係にある。『三批判』では人間の能力の限界が問われたが、『人間学』では経験の次元でその能力がどう失調し、どう迷うかが観察される。

 カントにとって人間学は人間の否定性と限界の研究である。人間学に人間の根拠を見出そうとしてはならない。人間学を本源にいたる自然な通路と思いこむのは「カント以後の西洋哲学に特有の「錯覚」」にすぎない。本源と思ったところは「人間的本質」という閉域であり、哲学はその中に閉じ込められているのだ。

 実際、歴史的に言って、人間学的錯覚は超越論的錯覚から派生する。というより、それはカントの批判における超越論的錯覚の意味の横滑りから生じたのである。超越論的な仮象の必然性はしだいに、真理と現象と経験の構造としてよりも、有限性のおびる具体的な聖痕として解釈されるようになっていった。超越論的仮象においてカントがなんとも曖昧に「自然的」と呼んでいたのが、客観への関係の根本的な形式であったことが忘れられて、人間本性という意味での「自然」に回収されてしまったのだ。その結果、錯覚はそれを批判する認識論的考察の運動によって定義されるのではなく、批判以前の水準に差し戻されて、二重化と根拠づけをこうむった。こうして、錯覚は真理の真理となった。

 カントの『人間学』は18世紀以来の人間学の潮流の中にありながら、その流れに逆らい、人間学が無根拠であることを示しつづけた。フーコーは『人間学』を読みとくことで人間学の起源と限界を明らかにし、その終焉までをも見透した。『言葉と物』のよく知られたその結語は本書の最後にすでに予告されていたのだ。

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2013年09月20日

『カントの人間学』 中島義道 (講談社現代新書)

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 カントの『自然地理学』と対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の概説本かと思って読んだら、そうではなかった。

 本書の元になった本は『モラリストとしてのカントⅠ』という表題で、『人間学』などを材料に人間研究家モラリストとしてのカントを紹介しているが、なぜそんな人間観になったかという原因をカントの生涯にもとめており、伝記的な側面が大きい。

 「あとがき」には「これまで「よい面」ばかり伝えられて来たのだから、一時的にこれくらいの引き下げ方をしなければ公平ではない」とあるが、実際本書はカントの「悪い面」ばかりをあげつらった観がある。池内紀の『カント先生の散歩』(以下『散歩』)のカントがケーニヒスベルクの上流人士の目に映った白カントだとするなら、本書は意地の悪い同業者から見た黒カントだろう。

 カントには表面的なつきあいの友人は多かったが、真の友といえるのは貿易商のジョゼフ・グリーンくらいだったという点は『散歩』と同じだが、知りあった時期を『散歩』より10年遅い50歳の時としている。

 グリーンとの関係は次のように描かれている。

 カントは彼から徹底的にかの有名な「時間厳守」を学び、自分の資産を彼の会社に高利で預けて殖やし続けていた。グリーンは「その無能力が詩にまで及び、詩と散文の差異を、前者は無理やりな誇張された音節の配列であるという点においてしか認識できない」程度の男であった。そして、この男にカントは全幅の信頼を寄せ、「『純粋理性批判』には、あらかじめグリーンに示し、その公平でいかなる体系にもとらわれない理解力による批評を受けずに書いた文章は一つとしてない」と明言していたのである。

 「高利で預けて殖やし続けていた」とか、グリーンが「その程度の男」という書き方には悪意を感じる。文学がわかるかどうかは人間の価値とは無関係だし、カントがちまちま貯めた金をグリーンが有利な条件で運用してやったのはあくまで友情からだろう。本書の記述にはいちいち毒がある。

 もっとも『散歩』が公平というわけではないだろう。本書とあわせて読むと、逆の方向に偏った記述だったことがよくわかる。

 たとえばカントが外食に使った店について『散歩』はユンカース通りのツォルニヒやビリヤード台が売物のゲルラッハの名前をあげ、御者や兵士、職人の集まる大衆的な店だったとしているが、本書ではホテルだったとしている。大衆的な店だとカントは気さくな人という印象になり、ホテルだと成り上がり者という印象になるだろう。両方に行っているのかもしれないし、時期によって使う店が変わったのかもしれないが、片方だけだと偏った印象をもつ結果になる。

 『散歩』にはカントが王家に次ぐカイザーリング伯爵家のサロンの30年にわたる常連だったとあるが、本書によるとカイザーリング伯爵家との縁は家庭教師として住みこんだことにはじまる。

 その時カントは28歳だったが伯爵夫人のシャルロッテは24歳で、二人の子供よりも夫人の方が勉強に熱心だった。夫人は晩年にプロシア芸術院会員に推挙されたほどだったから学ぶ意欲の旺盛な人だったのだろう。本書には夫人がカントに秋波を送り、からかわれたと思ったカントは女嫌いになったのではないかという推測が書かれているが、本当のところはわからない。

 『散歩』はカントの少年期や勉学時代については「学制のちがいや、教務体制がややこしいし、今とはまるでちがっている」として省略している。カントの伝記をはじめて読む人はカントは普通の学生生活を送ったので、わざわざ語るほどのことはなかったと受けとるかもしれない。ところがまったく違うのだ。

 カントは貧しい馬具職人の家に生まれたが、抜群に頭がよかったので無料で学べる教会の付属学校にいくことができた。教会の付属学校で学んだ子供は牧師になることが期待されたが(カントの弟は牧師になった)、カントは哲学を志し、分不相応にも大学に進んだ。

 貧乏だった上に父親が病気をしていたから家の援助はまったく期待できなかった。カントは裕福な同級生の家庭教師をしたり、トランプやビリヤードで臨時収入を得たりしてどうにか卒業した(学費が足りずに卒業できなかったという説もある)。

 『人間学』に「流行に従っている阿呆である方が、流行を外れている阿呆であるよりは、とにかくましである」とあるようにカントは服装に気を配ったが、苦学時代は着古した一張羅しかなく、仕立屋に直してもらうまで外出できないこともあった。見かねた友人が新調の代金をこっそり出そうとしたが、カントは断固断った。「負債や他人を頼ることの重荷」を嫌ったからである。

 カントは生家の思い出をほとんど語っていないが、次のような挿話を読むと両親は借金に苦しんでいたのではないかと思えてくる。

 この偉人はよくこう言ったものです。「誰か扉をたたく者があると、私はいつも落ちついた楽しい心で、おはいりなさい、と言うことができました。それは、扉の外には絶対に債権者がいないということが確かだったからです」。

 カントは住込みの家庭教師をしながら就職資格論文を完成させて母校の私講師となったが、私講師は固定給なしの不安定な身分だった。カントはなかなか教授になれず私講師をつづけた。

 そういう苦労人だったからだろう、教授になって生活が安定すると貧民救済基金に毎年多額の寄付をおこない、貧しい学生には受講料の一部ないし全部を免除した。カントが他人のために費やした金額は年俸の1/4から1/3におよんだという。

 その一方、何日に払うといって約束の日を守らなかった学生には厳しくあたった。また次のような一面も伝わっている。

 あるとき私たちが散歩の途中で、たちの悪い若い乞食にしつこくせがまれ、まるでお互いに話もできなかったので、私は数ペニヒの金を与えて乞食を追い払おうとしたのだが、カントはその金を私の手からとり上げ、金の代りに杖で乞食に一打ち食わそうとした。

 乞食に杖を振りあげる姿はわれらが哲学者に似つかわしくないが、若いのだから物乞いせずに働けということか。自分に厳しい人は他人にも厳しいのだ。

 本書だけを読んでカントを判断するのはまずいが、二冊目の本として読むといいと思う。

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2013年09月19日

『カント先生の散歩』 池内紀 (潮出版社)

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 カントというと謹厳実直な哲学者を思い浮かべる人が多いだろう。毎日規則正しく散歩したので時計がわりになったという逸話がいよいよ気難しそうなイメージを強める。

 しかしカントを直接知る同時代人の書簡や回想によると、実際は座をとりもつのがうまい社交好的な人物だったらしい。

 当時の大学の教師には黒ずくめで通したり、身なりに気をつかわない人が多かったようだが、カントは流行に敏感でお洒落だった(表紙の黒服のカントはおかしい。もっと派手な服を着ていなければ)。通いの召使には白と赤のお仕着せを着せていた。白と赤が好きだったからだ。

 授業も形而上学、論理学、神学、倫理学といった難しそうな科目だけではなく、自然地理学実用的人間学という「通俗的」な科目も担当していた。この二つはたいそうな人気で、学生以外も聴講にきていた。

 本書は一般向けの本ではあまりふれられてこなかった社交的なカントに焦点をあわせた伝記であり、哲学上の著作にも社交の影響があるとしている。

 著者はまずケーニヒスベルクの繁栄を描きだす。カントは生涯ケーニヒスベルクを出ることはなかったが、田舎町とか、北辺の港町と形容されることが多い。

 しかしケーニヒスベルクは700年つづいた東プロシアの首都であり、19世紀になってベルリンが台頭するまでは北ドイツ文化の中心地だった。出身者には作家のホフマン、哲学者のハーマン、数学者のゴルトバッハやヒルベルトがいるし、オイラーも縁が深かった。

 ケーニヒスベルク城や大聖堂をはじめとする歴史的建造物が林立し「バルト海の真珠」と称されたが、第二次大戦末期、連合軍の空襲と戦闘で街の98%が破壊された。

 街はソ連に編入されてカリーニングラードと名前を変えられた。ドイツ系住民は追いだされ、代りにスラブ系住民が送りこまれた。ドイツ系住民は一部はシベリアの収容所に、残りは東ドイツに強制移住させられた。

 同じように破壊されたドレスデンとワルシャワは民族の宝として国を挙げた復興事業がおこなわれ、戦前とたがわぬ街並が再建されたが、ケーニヒスベルクはつまらない田舎町になりさがった。ペレストロイカ後、ドイツからの寄付金と要請で大聖堂が復元されたが、市当局はまったく乗り気ではなかった。カント廟は奇跡的に無事だったが、現在のカリーニングラードには往時の繁栄をしのぶものはほとんど残っていない。

 著者によれば、ケーニヒスベルク大学はカントの時代までは新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だった。私講師として不安定な生活をつづけていたカントが他の都市の大学からの誘いを拒みつづけたこともそれほど奇異なことではないのかもしれない。

 南ドイツの大学から教授に招聘された際、カントは身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にした。確かにカントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいた。しかし親友といえるのはジョゼフ・グリーンただ一人だったろう。

 グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商だったが、独身で遊びには興味がなく、自宅で「かたい本」を読むのが趣味という変わり者だった。

 カントは40歳の時にグリーンと知りあったが(50歳説もある。中島義道『カントの人間学』参照)、以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになった。

 名うてのイギリス商人から口づたえに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになったのには、カントにとって十分な理由があった。

 グリーンの部下で後に後継者となるロバート・マザビーが二人が議論する場に同席したことがある。話題は英国とアメリカ植民地の経済問題で、英国側・アメリカ側にわかれてディベートしたが、英製品ボイコットや印紙条例、フランスの財政破綻などその後の展開を的確に予測していた。

 二人が語りあったのは世界情勢だけではなかった。カントは社交の場で哲学の話題にふれることを嫌ったが、グリーンにだけは準備中の『純粋理性批判』の内容を語り、すべての部分で意見を聞いた。

 カント哲学は哲学者カントの頭から生まれたと思いがちだが、そこには二つの頭脳がはたらいていた。商都で成功した貿易商の優雅な客間の午後、思索が大好きな二人が、形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した。十八世紀から十九世紀にかけて、ヨーロッパの富裕層では国を問わずに見られた現象であって、おおかたの哲学書はそんなふうに誕生した。カントの場合のやや風変わりなのは、知的サロンが独身の中年男二人にかぎられていたことである。

 著者は『純粋理性批判』の第一稿には「資本」「借用」「担保」等々の経済用語がまじっていたのではないかと想像しているが、裁判用語が残っていることからするとありえない話ではないだろう。

 カントの時間厳守癖はグリーンの影響だったが、グリーンから学んだことがもう一つある。財テクだ。

 カントは貧乏な職人の家に生れ、かつかつの暮らしをしてきた。グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用してやった。グリーンの薫陶よろしくカントは亡くなった時には一財産残すことができた。

 カントは外食で通していたが、店の開いていない日曜日はグリーン邸で食事に呼ばれていた。『純粋理性批判』刊行の5年後、グリーンが亡くなった。

 親友を失ったカントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にした。クラウスも独身だったが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにした。日曜の食事会はしだいに参加者が増えていった。

 著者は『実践理性批判』でグリーンの役割を果たしたのはクラウスではないかとしている。クラウスは実際的な道徳説を説いており、『実践理性批判』刊行後に仲たがいしたというから当たっているかもしれない。

 『判断力批判』はどうか。もし対話相手がいたとすれば、東プロシア政庁の高官でケーニヒスベルク言論界の影の仕掛人であり、カントの庇護者でもあったヒッペルではないかというのが著者の見立てだ。ちなみに彼も独身だった。

 ヒッペルは讃美歌やグリーンをモデルにした『時計男』という喜劇を書くなど多芸多才だったが、没後、マゾ趣味やきわどい挿画のはいった好色本のコレクションが暴露された。そういう風流才子が『判断力批判』にかかわっていたというのはなかなか楽しい空想である。

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2013年09月18日

『永遠平和のために』 カント (光文社古典新訳文庫)

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 カントが還暦を過ぎてから発表した政治哲学と歴史哲学に関する論文を集めた本である。

 60歳は当時としては大変な高齢だが、カントは3年前に『純粋理性批判』を世に問うたばかりで、本格的な活動はこの頃からはじまる。『実践理性批判』は64歳、『判断力批判』は66歳の時の著作である。

 三批判が発表された時期を批判期、三批判の後の時期を後批判期というが、本書収録のうち「啓蒙とは何か」、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」の三編が批判期、「万物の終焉」と「永遠平和のために」が後批判期となる。

 最後の「永遠平和のために」は100頁あるが他は30~40頁前後で何の引っかかりもなく読めた。翻訳は三批判の画期的な新訳を刊行中の中山元氏で、本書は中山氏のカント・シリーズの一冊目にあたる。

「啓蒙とは何か」

 1784年、カント60歳の時の発表された。

 フランス革命の5年前だというのに革命では人の考え方は変えられないと断言し、大衆の暴力性や扇動者が大衆に復讐されることにまで言及していて驚いた。

 革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。

 カントはフランス革命が方向を失い、恐怖政治に堕ちても革命派を擁護しつづけたが、この論文に書いた洞察のことをどう考えていたのだろう。

 カントは理性の公的な利用と私的な利用を区別し、啓蒙をうながすのは公的な利用だとしているが、公的・私的の区別が現代の用法と反対である。

 間とは軍隊を例にとり、将校が上官から受けた命令の当否をあからさまに云々するのは理性の私的利用で有害だが、戦争が終わった後で学者として命令の当否を論じ、その結果を世に問うのは公的利用で、その自由を妨げられてはならないとする。

 現代の用法では立場が私人か公かで私的・公的をわけているが、カントは目的が公的か私的かで区別しているようである。

 なお「理性」と訳されているのは、従来「悟性」と訳されてきたVerstandである。中山訳の『純粋理性批判』はVerstandを「知性」と訳して話題になったが、この論文でこそVerstandは「知性」とすべきではなかったか。

「世界市民という視点からみた普遍史の理念」

 これも1784年、カント60歳の時の発表された論文である。

 冒頭で人間や人間の集合である国民は「自分の意志」のつもりで「自然の意図」を実現してしまっているという逆説が語られる。

 これはマンデヴィルの「私悪すなわち公益」論の変形だろう。マンデヴィルの「私悪すなわち公益」論は非難されながらも、アダム・スミスの「見えざる手」論などに継承・発展させられていた。統計の話が出てくるあたりも英国の影響をうかがわせる。

 ところが統計的な発想はすぐに消え、ギリシア以来のヨーロッパ史は「国家体制が規則的に改善される道程」であり、人間の愚行や悪とみえるものの背後にも「自然の意図」が働いているとする。

 人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである。

 ここからヘーゲルの「理性の狡知」はただの一歩である。なお注ではあるが、宇宙人を論じた箇所があるのは面白い。カントは理性的存在のうちに宇宙人も含めていたのである。

「人類の歴史の憶測的な起源」

 1786年、カント62歳の発表で、この論文は「たんなる楽しみのための<漫遊>」だと断り、エデンの園の話からはじめる。楽園追放は個人にとっては災厄だったが、人類の使命のためには必要だったと説くが、啓蒙主義者だけに原罪論は否定している。

 先祖の原罪のために、子孫であるわれわれに、罪を犯すような傾向がうけつがれたのだと考えてはならない。人間がみずからの意志によって行なったことに、遺伝的なものがともなうことはありえないからだ。人間はみずからの行為には、完全な責を負うのである。

 面白いのは国家が個人に自由をあたえ、人間性を尊重するのは戦争の脅威のためだとしていることだ。カントは中国は地理的に外敵を恐れる必要がないので、個人の自由は跡形もなく抹殺されていると書いている。

「万物の終焉」

 1794年、カント70歳の時に発表された。前年にはフランスでルイ16世が処刑され、革命派は内訌をくりかえし、すこしでも立場の違う者を断頭台送りにする恐怖政治が最高潮に達した。この年の7月ついにテルミドールの反動が起こり、ロベスピエール派が逆にギロチンにかけられた。

 一方カントの住むプロシアではフランス革命の混乱と歩調を合わせるように政治的・宗教的な締めつけが強化されていった。この論文はこうした騒然とした世情を背景に書かれたのである。

 カントがこの論文で試みているのは黙示録の啓蒙主義的読み変えである。

 黙示録では世界最後の日に隕石が落ちてきたり、怪獣が暴れまわったり、天使の軍団と悪魔の軍団が最終戦争をくりひろげたりとパニック映画さながらのスペクタクルが描かれるが、カントはそうした描写は超感性的で、理論的にしか接近できないな道徳の秩序をわかりやすく目に見えるように示したものだと説く。

 最後の審判の脅しも次のように合理化している。

 イエスみずからが罰を与えると告げていたとしても、この罰という威嚇が、イエスの命令に服従させるための原動力になると解釈してはならない。……中略……これは立法者が愛に満ちて、人々の幸福のために示した警告と解釈すべきなのである。法に違反した場合には、悪が発生するのは不可避なことであるから、それに注意するように示した警告と解釈すべきなのである。

 聖書と啓蒙主義の折合をつけるのは大変である。御苦労様としかいいようがない。

「永遠平和のために」

 1795年、カント71歳の時に発表された。

 この論文は第一章「国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項」と第二章「国家間における永遠平和のための確定条項」と付録にわかれる。

 第一章で内政干渉の禁止と常備軍の廃棄を提唱しているのは有名だが、財貨の蓄積や軍事国債を危険視しているのは興味深い。戦争は財政的裏づけなしにはできないことをカントはおそらく英国貿易商ジョゼフ・グリーンから教えられたのだろう(『カント先生の散歩』参照)。

 第二章では自然状態は戦争状態であって、永遠平和は特別な努力を必要とするという現実主義的な認識から説きはじめている。

 それはいいとして国家の統治形式には君主制・貴族性・民主制の三つがあり、民主制とは専制政体であり、共和政体とは異なると言いきっている。

 今日の常識と大きくずれるが、カントは共和政体は立法権と行政権が分立しているのに対し、専制政体は二権が分離しておらず、国家がみずから定めた法律を独断で執行できると定義している。

 なぜ民主制が専制政体になるのだろうか? 解説を読んでわかったが、ルソーの一般意志論(本書では普遍意志)の影響のようだ。多数決の原理によって、少数派に多数派の意志を強制できるというわけだ。おそらく前年に倒れたフランス革命のジャコバン独裁が念頭にあるのだろう。

 国際法は自由な国家の連合に基礎を置くべきという主張は有名だが、それで戦争を防ごうとしたら国際連盟のようなものにしか行きつかないだろう。現実主義がいつの間にか空想平和主義になってしまった観があるが、この論文の背景にはフランス革命に裏切られたカントの困惑があるような気がする。

 付録では道徳と政治の矛盾を論じているが、本論よりもさらに理想主義的になっていると思った。

 本論とは関係ないが、注でチベットを中国より大きな存在のようにあつかっているのが面白かった。ユーラシア側から見ると中国は広大なチベット語文化圏に囲まれているが、ケーニヒスベルクのカントは太平洋側ではなく、ユーラシア側の視点で見ていたのだろう。

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2013年09月17日

『自然地理学』 カント (岩波書店)

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 『カント全集』の第16巻で『自然地理学』をおさめる。

 『自然地理学』とはカントがケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年の1756年夏学期から事実上の引退をした1798年まで、実に43年間にわたって講義した科目である。1772年の冬学期からは対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の講義を同じ曜日と時間にはじめており、以後25年間にわたって冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』と二つの講義を交互におこなっていた。

 『自然地理学』は前から読みたいと思っていた。理由は二つある。

 まず『自然地理学』はカントが新時代の教養として自負していた科目であり、同時代的な評価も非常に高かったということ。カントが担当した中ではもっとも学生の集まる授業で、評判を聞きつけたケーニヒスベルクの上流人士も講筵に連なった。

 講義の内容は学生が筆記したノートの写本でも流布し(ノートは20種類以上確認されている)、プロシアの大臣だったフライヘルン・フォン・ツェードリッツから『自然地理学』をぜひ出版するようにという書簡をじきじきにもらったこともあった(この書簡が機縁となってカントは『純粋理性批判』を献呈した)。

 講義録を引退まで出さなかったのは当時の大学教師が学生から受講料を直接徴収していたことが大きい。教授には固定給があったが、受講料も無視できなかった。私講師は受講料だけが収入源だった。

 カント自身は財テクに成功していたので経済的には困らなかったが、70歳をすぎると衰えが著しく、学生に敬遠されるようになっていた。唯一学生を集めることができたのが『人間学』と『自然地理学』の講義だった。

 ここで珍事が起こる。かねて『自然地理学』の出版を申し入れていたフォルマーという出版業者がなかなか応じてくれないカントに業を煮やし、1801年に海賊版を出版してしまったのだ。

 老カントは激怒し「フォルマーのもとで不法に出版されたイマヌエル・カントの自然地理学に関する読者への公告」を発表する一方、弟子のリンクに『自然地理学』の出版をゆだねた。こうして1802年に出たのがリンク版『自然地理学』である(本書はこれを底本にしている)。

 読みたかった第二の理由は生まれ故郷から一歩も出たことのない旅行嫌いのカントが地理学をどんな風に語ったか興味があったことだ。カントの入門書には旅行記や探検記を片っ端から読み、それを切り貼りしたとあるが、本当のところはどうなのだろう。

 本書は三部にわかれる。日本版全集で正味400頁あるが、水曜と土曜の午前中2コマづつ、週4コマの授業だったから、半期で十分こなせる分量だろう。

 序論と第一部は1775年の講義の学生のノートにもとづいており、カント自身の訂正がはいっているという。この年カントは51歳、まさに脂の乗り切った壮年期の講義である。

 ところが第二部と第三部は1759年以前のカントの講義草稿をもとにしていた。カントは30代前半、講義をはじめて間もない時期である。出版時点から見ると40年以上前の内容なので、編者のリンクは最新知識(1802年時点の最新だが)にあわせて相当手をいれているよし(解説によると、そのほとんどは「改悪」だそうである)。

 さて、序論と第一部はきわめて体系的に整然と組み立てられている。カントは序論の冒頭で『人間学』と『自然地理学』が一体をなす所以を以下のように述べている。

 われわれは官と官という二重の感官をもっているので、われわれはやはり、外官と内官に即して、世界をすべての経験認識の総体として観察することができる。世界は外官の対象として観察すれば自然であるが、内官の対象として観察すればないし人間である。
 自然に関する経験と人間に関する経験とが一体となって世界認識が形成される。人間に関する知識をわれわれに教授するのが人間学であるが、われわれは自然に関する知識自然地理学ないし自然地誌学に負っている。

 ノートがとられた時期はカントが『純粋理性批判』の執筆に苦吟していた沈黙の十年の真ん中の時期にあたるが、『純粋理性批判』を思わせるような一節もある。

 われわれの認識は感官から始まる。感官がわれわれに素材を与え、理性はその素材に適切な形式を与えるだけである。それゆえ、すべての知識の根拠は感官と経験のなかにあるが、その経験はわれわれ自身の経験か他人の経験のどちらかである。

 カントは文字で記された信頼できる記録ならば他人の経験も認識の源泉になると積極的に認めており、「われわれは諸外国や辺境の地についての報告によって、あたかも自分がそれらの国で生活しているかのように、現代についての認識を拡張する」としている。カントは批判哲学時代にも、こうした実用的な視点をもちつづけていたわけである。

 序論の後半では「数学的予備概念」として天文学から見た地球の概要が語られる。地球がどのような天体か、太陽系においてどのような位置にあるか。

 天文学が地理学とどんな関係があるのか訝しく思う人があるかもしれないが、まず太陽系全体を映してから地球にフォーカスし、どんどんクローズアップしていく映像を思い浮かべればいい。

 第一部は地球物理学編で、まず水の大循環を描きだす。海が太陽で暖められて水蒸気となって上昇し、上空で冷されて地上に雨となって降り注ぐ。降った雨は川となり、大河に集まって海へともどる。

 次に陸の成り立ちに移る。ここでも水の循環から地形形成が説明されるが、その一方、カント=ラプラスの星雲説の延長だろうか、カントは地球がかつてドロドロに融けた球体で、冷えて地殻が硬くなりしだいに地下深くまで硬化していったが、地球の芯はまだ溶融しているというビジョンをもっていた。地球は中心部の熱によってまだ変化の途中にあるというのだ。

 以下の条は現代科学からすると間違っているが、妙に説得力がある。

 地球内部のこの混沌とした状態の内側には、成熟に達した地球の厚い外殻の下に、空気が閉じ込められた多くの洞窟や通路が存在するに違いない。この空気は、活火山によって出口を求めており、大量の物質もろとも圧倒的な力で噴出するものと思われる。しかも地震は火山ときわめて関係が深いので、この力が地震を引き起こすものと思われる。

 「空気」といっているのは実際には火山ガスである。カントは大陸移動説もマントル対流も知らなかったので、陸地の形成をすべて火山ガスで説明している。餅を焼くと膨らんでいくのが陸の隆起と造山運動であるが、膨らみすぎた餅がつぶれたのがノアの大洪水だというのだ。

 陸の次は大気圏で、地球規模の待機の循環を解説してからさまざまな気候の成因に進んでいく。間違っているが、よく考えられている。

 第二部は博物学編で、人間、動物、植物、鉱物という順で話が進んでいくが、講義の態をなしている第一部とは違って断片的な印象が強い。カントはメモ程度の草稿しか作らなかったことが知られており、実際の講義では肉づけがおこなわれただろう。英国人がカントの『自然地理学』を受講し、ロンドンの様子を生き生きと語るのでカントは英国で生活をしたことがあるのだろうと思っていたが、友人からケーニヒスベルクから出たことはないと聞かされて目を丸くしたという逸話が残っている。

 18世紀の博物学であるから珍談・奇談の類が目につく。象が皮膚の下の筋肉を収縮させ、皺で蠅を捕まえるとか、ライオンは女性には危害をくわえないとか、オランウータンは酒を好み、自分で布団をかけて寝るとか、化石を根拠にすべての石は最初は液体だったとか。この辺りの話題は社交生活でも役だったに違いない。

 人種と肌の色に関するトンデモ理論はともかくとして、モンゴロイドをカルムイク人で総称しているのは興味深い。ケーニヒスベルクにカルムイク人が来たことがあるかどうかはわからないが、近い存在だったのだろう。

 第三部でやっと狭義の自然地理学になる。これもメモの域を出ず、珍談奇談の寄せ集めという印象がある。スマトラ島では炎熱の暑さから突然極寒の寒さに変わるとあるが、そういうことを書いた本があったのだろう。

 ダライラマに関して、モンゴルにいるというような間違いはあるものの(チベットには別の大ラマがいると勘違いしている)、ポタラ宮に住んでいて死ぬと生まれ変わるとか、かなり正確な内容を記述している。カルムイク人はチベット仏教を奉じているから、その経路で伝わったのだろうか。

 第二部・第三部はともかくとして、第一部はさすがカントの著作だと思った。

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2013年09月16日

『カント「視霊者の夢」』 カント (講談社学術文庫)/『神秘家列伝〈其ノ壱〉』 水木しげる (角川ソフィア文庫)

カント「視霊者の夢」
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神秘家列伝〈其ノ壱〉
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 『視霊者の夢』は1766年、カントが42歳の時に出版したスウェーデンボリ論である(英語読みではスウェーデンボルグ)。

 スウェーデンボリはカントより36歳年長のスウェーデンの科学者である。英国に留学して天文学(ハレーの助手をつとめたこともある)と機械工学を学び、帰国後は王立鉱山局で鉱山開発に辣腕をふるって貴族に列せられ、国会議員にも選ばれた。ところが59歳で引退すると、それまで隠していた霊能力を公然と披露するようになり、霊界のありさまを克明に描いた神秘的著作を矢継ぎ早に発表した。

 1759年のストックホルムの大火の際には、500km離れた地方都市の夕食会で突然顔面蒼白になって大火の様子を事細かに語りだし、後日その通りだったことが確認されるとヨーロッパ中の話題となった。

 この頃カントは出版社兼書店をいとなむカンターの家に間借りしており、大家でもあるカンターから依頼されて書いたのが『視霊者の夢』である。カンターはスウェーデンボリ・ブームが終わらないうちに急いで出版しようとしたのだろう、原稿段階で検閲を受けるのが原則なのに、ゲラ刷りになってから提出したため1万ターレルという巨額の罰金(50万円くらい?)を課されている。

 『純粋理性批判』以前のカントは科学哲学者として知られていたから、カントは大槻教授のように科学的見地からのスウェーデンボリ批判を期待されていたはずである(カントは山羊予言者騒動の時もカンターに引っ張りだされ、『脳病試論』を書いている)。

 実際に読んでみると、のっけから憂鬱の風が体内で下降すれば屁となり、上昇すれば神聖な霊感になるとか、視霊者は火炙りにするより下剤を飲ませて腸内を浄化すればいいといった調子でスウェーデンボリをからかっており、風刺的文書に分類されるのも納得できる。

 カントは出版社に強要されてしかたなく書いたと言い訳をくりかえしているが、読み終えてみると、はたしてそうかという疑問が起きた。

 本書は第一部「独断編」(ドグマ編もしくは原理編と訳した方がいいのではないか)と第二部「歴史編」にわかれる。スウェーデンボリ批判はもっぱら第二部で、第一部はなぜ霊視がありうるか(たとえ幻覚であっても)、なぜ霊は半透明で透けて見えるのか、なぜ霊は物体を通り抜けられるかについて大真面目に考察している。最後は風刺的な書き方で茶化してはいるが、頭から霊視体験を否定していたらここまで長々と検討することはなかったと思うのだ。

 坂部恵は『理性の不安』で本書を『ラモーの甥』やルソー最晩年の問題作『対話』に匹敵する自己否定の書と読みといたが、スウェーデンボリをからかっているようで自分で自分を笑っているようなところがあり、一筋縄ではいかない。二重底三重底になっているのではないかという気さえしてくる。

 デカルトの心身相関論を踏まえた議論をつづけた後で道徳の根拠の問題に移るのは意外だった。

 思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志にまさにその通りと感じられるように拘束されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。

 『実践理性批判』はこのような道徳観を克服するために書かれたと考えるべきなのだろうか。

 驚いたのは巻末におさめられている「シャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢への手紙」である。フォン・クノープロッホ嬢からスウェーデンボリについて問い合わせる手紙があって、その返信として書かれたらしいが、カントは受講生だったデンマークの士官からストックホルム大火の霊視事件を聞いたこと、もっと詳しく知るためにコペンハーゲンに帰った士官に調査を依頼したこと、それだけでは満足できなくてストックホルム在住の旧知の英国商人に現地調査を依頼したことを伝え、こうつづけている。

 この出来事が信用できないとどうして主張できましょうか? このことを手紙で伝えたわたくしの友人は、すべてのいきさつをストックホルムばかりでなく、二ヶ月にわたりイエーテボリでも調査しました。同市では、彼は有力者たちをたいへんよく知っておりましたし、この事件からわずかしかたっていなかっただけに、大多数の証人がまだ存命中でしたので彼はいわば全市民からきめこまかく事情を教えてもらいました。

 カントは件の英国商人にスウェーデンボリ宛の書簡を託していた。商人はスウェーデンボリと面会して書簡を手渡し、必ず返事を出すという約束をとりつけてくれる。カントはさらに「この奇妙な人物に自ら質問できればいいと切望しています」と今にもストックホルムに飛んでいきそうな勢いである(旅行嫌いでなければ本当に会いに行ったかもしれない)。

 結局、スウェーデンボリからの返信はなく、面子をつぶされたカントは『視霊者の夢』でスウェーデンボリをこきおろすが、それでも半分以上信じていたのではないかという気がするのだ。

 スウェーデンボリについては日本でも多数の本が出版されており、なんと全集まで邦訳されている。しかし『視霊者の夢』を読む範囲でなら水木しげるの『神秘家列伝〈其ノ壱〉』で十分である。この本ではスウェーデンボリのほかにチベットの聖者ミラレパ、ヴードゥー教の創始者マカンダル、日本の明恵上人の四人の神秘家をとりあげているが、時代背景まで含めてコンパクトにまとまっていて便利である。

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2013年09月15日

『悲しき熱帯』Ⅰ&Ⅱ レヴィ=ストロース (中公クラシックス)

悲しき熱帯Ⅰ
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 世界的なベストセラーとなったレヴィ=ストロースの自伝的紀行である。

 原著は1955年に刊行されたが、日本では1967年に『世界の名著』第59巻にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』(これも文化人類学の古典)との合本で抄訳がはいった後、1979年に全訳がオレンジ色の表紙の二巻本で刊行された。本書は2001年に出た新版で、レヴィ=ストロースが寄せた「「中公クラシックス」版のためのメッセージ」(2000年12月付)と、訳者の川田順造の「『悲しき熱帯』のいま――四十六年ののちに」(1979年版の訳者前書の再録を含む)が巻頭に付されている。

 レヴィ=ストロースは「メッセージ」で労働観の比較研究の一環として1977年から12年間にわたってほぼ毎年のように来日し、日本各地の職人を訪ね歩いている。その調査から日本人にとって「はたらく」こととは「西洋式の、生命のない物質への人間のはたらきかけではなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化」だと確信したという。

 その一方、日本の自然破壊、なかんずく隅田川の舟遊びで目の当たりにした現在の隅田川と北斎の版画に描かれた景色との落差に驚き、捕鯨批判と絡めて次のように述べている。

 日本人がある時は自然を、ある時は人間を優先し、人間のために必要なら自然を犠牲にする権利を自らに与えるのも、おそらく自然と人間とのあいだに、截然とした区別が存在しないことによって説明されるのかもしれません。

 川田の「『悲しき熱帯』のいま」では原著が26ヶ国語に翻訳され、現代の古典として現在も広く読まれていること、日本でも700頁近い全訳版が22年間に21版を重ねていることを述べた後、邦題の「悲しき」では原題のtristesの「憂鬱な、暗い、うんざりする」という重苦しい語感との間に距離がある点に注意をうながしている。

 川田はレヴィ=ストロース門下ではないが、しばしば教えを受ける機会があった。ある時、東洋の自然観について質問したところ、レヴィ=ストロースは仏教思想には敬意をいだくものの、特別な修行でしか到達できない輪廻思想などには否定的で、自分は認識論では「ごく常識的なカント主義者」であり、不可知論に立って認識の深化につとめる「ラディカルなペシミスト」だと語ったという。

 本書もペシミズムに深く染めあげられているが、次の条は引用しておきたい。

 地球環境の保護などという考え方も、所詮は人間のアメニティないしは生き残りのための自然維持論であり、先生の壮大なペシミズムからみれば、形を変えた人間中心主義ということになるだろう。『悲しき熱帯』には、一九三〇年代のブラジル奥地の、まだ人間にひどく汚されていない自然と、そこにつつましく生きるインディオたちの、息をのむような叙述がふんだんにある。

 川田はアフリカをフィールドとする文化人類学者だが、本書でとりわけ印象的に語られたナンビクワラ族の居留地を1984年に雑誌の企画で訪れている。「『悲しき熱帯』のいま」というタイトルだとその話を期待してしまうが、本書の前書ではさわり程度である。興味のある人は『「悲しき熱帯」の記憶―レヴィ=ストロースから50年』(中公文庫)を読めということだろう。

 さて本編である。わたしは全訳版を出た直後に読んでいるので、34年ぶりの再読になるが、ところどころ、それもどうでもいいエピソードしか憶えていなかった。

 こくのある文章に魅せられたが、本書の魅力は若書きではないということにあるだろう。

 レヴィ=ストロースは24歳から28歳の4年間サン・パウロ大学で社会学を講じながら、休暇に先住民の調査に出かけていたが、最後の年に補助金をえてキャラバンを仕立て、ブラジル横断を敢行している。その体験を20年間反芻し、40代半ばで一気に書き下ろしたのが本書なのである。

 20年の間に第二次大戦の応召と敗戦による除隊があり、アメリカへの亡命があった。かつて途上国の大学のお雇い外国人として往復した大西洋を無一文の亡命者として渡るのは愉快な経験ではなかったが、同じ船にはアンドレ・ブルトンらも乗り合せていた。たまたま航海士が顔なじみだったために特別待遇を受けることができたものの、土語を書きためたノートは暗号文と誤解されかねず、ヴィシー政権のスパイと疑われてホテルで軟禁状態におかれたこともあった。

 レヴィ=ストロースはもの悲しくもあれば滑稽でもあった亡命行から、夢見るように語りはじめる。学生時代にさかのぼり、順当な学者コースを捨ててサン・パウロ大学に赴任した経緯と新大陸での生活に話を進めていく。新大陸では実際は驚きの連続だったろうが、初発的な驚きは後年のインドの調査や北米での体験と比較・相対化され、セピア色の憂いをおびた夢語りの中に溶けこんでいく。

 満ちて来る忘却の潮の中で私が思い出を転がしているあいだ、忘却は思い出をすり減らし、埋め隠す以上の働きをしたようだ。思い出の断片から忘却が築き上げた深い構築は、より堅固な平衡を私の歩みに与え、より明晰な下絵を私の視覚に示してくれる。一つの秩序が他の秩序に置き換えられた。私の視覚とその対象とを隔てていた二つの谷間の崖を、歳月は崩し、そこに残骸を詰め込み始めた。

 理論的な著作からはうかがいしれない繊細の精神の流露だが、第五部の「カデュヴェオ族」からは幾何学の精神が動きだし、けぶるような映像はきっかりと焦点が合いはじめる。

 カデュヴェオ族は大学の休暇を利用して民族学調査をはじめたレヴィ=ストロースが出会った部族だ。ムバヤ=グアイクル語族という大集団の最後の生き残りで、貴族・戦士・下層階級という一種のカースト制をとっており、世襲貴族の子供と同じ日に生まれた子供は「戦の兄弟」として一代貴族に列せられる。

 堕胎と嬰児殺しが普通におこなわれ、子供は遠征によって他の部族から奪ってくる。本来の部族の血を引いている成員は10%程度という報告がある。

 精緻な工芸品と顔の隈取で知られており、貴族の女は金を払って写真を撮れと、毎日着飾って撮影を強要に来た。レヴィ=ストロースはフィルムを節約するために、金だけ払って写す真似ですませた。

 男は彫刻、女は絵画の伝統を保持していたが、名人芸を維持しているのは少数の老人に限られていた。レヴィ=ストロースは老人たちの作品を買いとり、長い伝統の消滅する時期に最後の逸品を手に入れたとよろこんだが、15年後にブラジル人民族学者が最近収集したという絵を見て驚く。様式も技術も着想もレヴィ=ストロースがもっていたものとほとんど同じだったからだ。

 何とも食えない民族であるが、レヴィ=ストロースはカデュヴェオ族の巧緻を極めた芸術は社会構造の矛盾を芸術に移しかえた結果ではないかと書いている。

 もしこの分析が正しいとすれば、社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現したはずの諸制度を象徴的に表わす方法を、飽くことのない情熱で探し求める一社会の幻覚として、最終的にはカデュヴェオ族の女の絵画芸術を解釈し、その芸術の神秘的な魅惑や、一見何の根拠もないように思われるその錯綜ぶりを説明すべきであろう。素晴らしい文明ではないか、そのクィーンたちは化粧で夢を囲むのだ。化粧は決して到達できない黄金の時を叙述する神聖文字であり、法典がないので、クィーンたちは身を飾ってその時を祝福するのである。そして自らの裸体を現わすように、黄金の時のヴェールを外して見せるのだ。

 次に出会ったボロロ族は二つの半族にわかれた双分組織をとり、それを反映した環状集落を作っていることで知られている。レヴィ=ストロースの構造概念の出発点となった部族で、『構造人類学』や『親族の基本構造』でも大きくとりあげているし、『神話論理』冒頭の「基準神話」もボロロ族のものである。

 環状集落という構造はボロロ族の社会生活、なかんずく儀礼と密接に結びついている。農耕をつづけていると土地が消耗するために村は長くとも30年以上同じ場所にとどまることはない。したがって「村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに記述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現する」というわけだ。

 サレジオ会の宣教師はこの点にいち早く気づき、頑としてキリスト教を受け容れないボロロ族を家が平行にならぶ集落に移住させた。家の並び方が変わっただけで彼らは混乱し、儀礼がないがしろにされるようになり、しだいにキリスト教に飲みこまれていった。

 サレジオ会は民族資料を多く書き残して先住民文化の保存に多大の貢献をおこなったが、民族学的知見をもっているだけに文化破壊にも長けているのである。

 次のナンビクワラ族はレヴィ=ストロースがもっとも哀惜をこめて描いた部族である。写真が何点か載っているが、男も女も岸田劉生描くところの麗子像のような顔立ちで、日本人には親しみがもてる。

 全財産は負い籠におさまってしまい、インディオの発明したハンモックすらもたず、裸で地面に転がって寝る。男はペニスサックさえつけていず、夫婦は他人の前でもいつもじゃれあっている。まさに「人類の幼年期」を髣髴とさせる部族だ。

 この何ももたない純真な部族に文字の概念が入ってきた瞬間をレヴィ=ストロースはとらえている。有名な「文字の教え」の章で、後にジャック・デリダが『グラマトロジー』で大々的に批判したことでも知られている。

 久しぶりに読み直してみたが、ここは実に面白い。

 最後はトゥピ=カワイブ族だが、タペライという首長のキャラが立っている。彼は集団中の結婚可能な6人の女性のうち4人を自分の妻にしているが、妻を仲間や来訪者に貸すことで女の独占を中和している。

 タペライは食えない男だが、彼が独り芝居で演ずる「ジャピンの笑劇」の条は感動的で本書のクライマックスである。

 本書を読み直してみたかった動機の一つに実松克義の『衝撃の古代アマゾン文明』に描かれたような古代文明の痕跡が描かれていないだろうかという年来の疑問があった。レヴィ=ストロースが最後の年に踏破した地域にモホス平原が含まれているのではないかという気がしていたのだ。

 巻末の地図で確認してみると、ナンビクワラ族の遊動する地域がモホス平原とかぶっていた。そして次の一節を見つけた。

 その貧乏ぶりにもかかわらず、身体形質からはメキシコの最古の住民を、言語の構造からはチブチャ王国を髣髴させるこのナンビクワラ族が、真の未開人である可能性はきわめて少ないように思われる。

 あくまで直観であって何も証明されているわけではないが、意味深な感想である。

 古代アマゾン文明とは関係ないが、アメリカ大陸に人類が到達した年代を2万年前としているのにも驚いた。1万3000年前に無氷回廊が開き、クローヴィス文化をもった狩猟民が南下したという説はついこの間まで主流派だったのであり、クローヴィス以前に人類がいたなどといおうものならトンデモ説の烙印を捺されかねなかった。

 ところがレヴィ=ストロースは1955年の時点で、人類のアメリカ大陸移住経路には沿岸ルートがあったはずだとして、次のように書いていたのである。

 太平洋岸全体――アジア側でもアメリカ側でも――にわたって或る強力な活動が生まれ、それが、数千年のあいだ、一つの地域から他の地域へと沿岸航海によって弘まって行ったという仮説を認めることなしに、アメリカ大陸の諸文明の起源を理解するのはむずかしい。……中略……今やわれわれに残されているのは、恐らく第二の誤り、すなわちアメリカ大陸は二万年のあいだ、全世界から切り離されていたという考えを訂正することであろう。西ヨーロッパからアメリカ大陸が切り離されていたというだけの理由で、われわれはそう思い込んで来たのであった。あらゆる事実はむしろ、大西洋の深い沈黙に対して、太平洋を取り囲む全域には、分封する蜂の唸りにも似たざわめきあがあったことを暗示している。

 現在の説ではアメリカ到達は1万6000年か1万7000年前くらいまで遡るとされているが、発見があいついでいるから2万年前までいく可能性はゼロではないだろう。レヴィ=ストロースの直観はないがしろにできない。

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2013年07月20日

哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』 中央公論新社編集部編 (中央公論新社)

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 日本哲学界の総力をあげて編纂された『哲学の歴史』の別巻である。

 10ページにわたる全12巻の総目次と170ページにわたる総索引、40ページにわたる1700年以降の総年表(18世紀をあつった第6巻以降は言語圏別の編集になるため、各巻の年表も言語圏別になっていた)が中心となる内容だが、哲学史をめぐる論考や鼎談、インタビューがあり、さらに19編の「追補コラム集」と執筆者とゲスト151名に対しておこなった感銘を受けた本のアンケートがおさめられている。

 前半の哲学史関係の部分は玉石混淆である。

 巻頭の小林道夫「哲学史研究の意義と今後の課題」は京大哲学科の想い出を長々と語った後、科学技術至上主義に陥らないためには哲学史が必要と説き、最後にクワインの哲学史不要論を批判し、「人間活動の多元性」を把握できるのは哲学だけだと結んでいる。

 この文章に限らず京都大学哲学科の回顧談がやけに目につく。各巻の責任編集者の経歴を見たところ、半数が京都大学出身か京都大学で教鞭をとったことのある人だった。もちろん日本の哲学の歴史において京都大学が大きな貢献をしているのは確かであるが、京大閥が強大だということでもあるだろう。

 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉三氏の「哲学史研究の現在」という鼎談はとても面白かった。

 英米の論理哲学の影響でプラトン、アリストテレスを現代哲学として読めという風潮があるが、それでは古典とわれわれの間にある膨大な注釈の積み重ねを無視することになるという指摘はなるほどと思った。

 カントとヘーゲルは50年しか離れていないが、哲学史の捉え方がまったく異なっているという。カントの時代までの哲学史はラテン語文献中心で、カントはプラトンやアリストテレスの原典を読んでいなかったらしい。それに対してヘーゲルは原典をそれもギリシア語で読んだ明らかな形跡があり、その頃にはギリシア語文献のドイツ語翻訳も本格化していた。

 翻訳でであれ原典を読んだかどうかは大きいというのはその通りだろうが、ドゥルーズはドゥンス・スコトゥスを読んでおらず、ジルソンの研究書をさっと読んですませているという指摘にはおやおやと思った。ドゥルーズのコラージュ的手法についても批判的な論調で、五つの個別研究については正統的な哲学史ではないが、新たな哲学史像を作ったのかもしれないという微妙な評価をおこなっている。同業者からみるとそうなるのか。

 後期スコラ哲学からカントへの移行が用語の問題も含めて研究の焦点となっているらしいが、その関連で16世紀の吉利支丹時代に日本と西洋哲学は一度出会っており、「表象」が「面影」と訳されたり、「身体」は仏教用語の「色身」と訳されたりしていたそうだ。スコラ哲学を日本人に教えるのだから、当然日本語に訳していたわけで、この時に訳語が整備されていれば明治時代の漢字だらけの造語が避けられたのではないかと指摘している。まったくその通りだろう。

 藤田正勝「日本における哲学史の受容」は幕末から明治30年までの西洋哲学受容の歴史を概観した文章である。

 哲学という言葉を作ったのは西周だが、西はコントの細分化された個別科学の統一という思想に共感し、西洋の学問を紹介するにあたり「百学連環」という体系性にこだわったのもコントの影響だという。

 西の講義を聞いたものは少数だったが、明治11年に東京大学に赴任してきたフェノロサは井上哲二郎、三宅雪嶺ら多くの学生を指導し、後世に大きな影響をおよぼした。

 フェノロサは日本美術を救った人として記憶されているが、経済学、社会学、哲学と他分野の講義をおこない、哲学についてはカントからヘーゲルにいたる近代ドイツ哲学をはじめて詳しく紹介し、学生の関心を呼び起こした。

 もっとも来日時のフェノロサはハーヴァード大学を卒業したばかりの25才であり、哲学を専門に勉強したわけでもなく、ヘーゲルを読んだのも英訳を通してだったので、もっと深く知りたいという学生の要求にこたえることはできなかった。

 フェノロサの教え子だった井上円了や三宅雪嶺によって本格的な哲学史が書かれるようになるが、クーノ・フィッシャーに拠りながらヘーゲルに重点をおいた三宅の『哲学涓滴』が日本の西洋哲学理解の土台になったようである。「弁証法」という訳語を広めたのも同書だそうである。

 三宅の『哲学涓滴』は近代哲学史だったが、日本で最初にギリシアから当代にいたる哲学通史をまとめ「明治における西洋哲学史受容の一つの到達点」を示すと評価されているのは大西祝の『西洋哲学史』である。

 大西は同書を刊行した二年後に早逝しているが、その翌年、朝永三十郎は「哲学史攻究の旨趣と研究方法に就いて」を発表し、哲学史とは何かという問題を自覚的に問うている。著者は「それがきわめて深い内容をもつものであったことに驚かざるをえない」と高く評価している。

 清水哲郎「日本における中世哲学研究」は中世哲学会の回顧談で、はっきりいって内輪の話である。中世哲学を研究する人は限られているから、みんな顔見知りという世界だろうと想像はつくが、それにしても狭い世界である。

 松永澄夫「哲学/哲学史の読み方」は編集部がまとめたインタビューで、19世紀フランスにおける官製哲学史の誕生を軸に哲学史について聞いている。

 「哲学の場所」は古代、中世、近世、現代において哲学を研究する場がどのようなものだったかを五人の筆者が分担して書いている。

 古代編では書物にするかしないか、書物にしたなら写本がどう伝わったかが簡単に解説されている。

 中世編では教会からの大学の独立と、古代文献の翻訳の経緯が紹介されている。

 近世編はデカルトの懐事情の話である。デカルトは質素に暮らすには十分な資産を相続していたので、外部からの援助はあえて受けずに一生気ままに暮らしたが、同時代のパスカルやスピノザはそんな気楽な身分ではなかった。

 現代編1では大学から追放されたパースに発表の場を提供した「モニスト」という哲学雑誌が紹介されているが、この雑誌には鈴木大拙も関係していており、西田幾多郎にウィリアム・ジェイムズの「純粋経験」概念を伝えた可能性がある。

 現代編2は帝政期から第三共和制にいたるフランスの哲学教育の話で、公務員となった哲学者がたどるコースが紹介されており、そういうことだったのかと長年の疑問がいくつも晴れた。

 内田勝利「哲学の始点における断片的対話」は黄泉の国でプラトンとアリストテレスが対話するという趣向の戯文だが退屈した。最後にソクラテスが登場してひっかき回したら面白くなっただろうに。

 「アンコール」と題された「追補コラム集」は古代から現代まで19編のエッセイを集めているが、ここが一番読みでがあった。

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2013年06月19日

哲学の歴史 12 実存・構造・他者』 鷲田清一編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第12巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 20世紀の三冊目でフランス語圏の哲学をあつかう。副題の「実存・構造・他者」のうち「実存」と「構造」があげられるのは当然だろう。第二次大戦後、フランスの哲学は世界中を席巻するが、1960年を境にそれ以前が実存主義、それ以降が構造主義とはっきりわかれるのである。

 その意味で本巻がベルクソンからはじまっているのは意義深い。第二次大戦前のフランス哲学といえばベルクソニスムをさしたが、スピリッチュアリスムとは別の流れということになってはいても、時間がたってみるとやはり一つの伝統に棹さしていたからだ。

 なお本題とは関係ないが、本巻を読んでいて第一次大戦前後に父親を亡くした哲学者がすくなくないことに驚いた。しかも戦死ということだけしかわかっていないリクールを除くと、あとはいずれも海軍士官なのである。サルトル、メルロ=ポンティ、アンリ、そして本書では無視されているが、ロラン・バルトもそうだ。第一次大戦の戦死者は陸軍の方がはるかに多かったと思うが、フランスの哲学者の多くはなぜか海軍士官の遺児だったのである。単なる偶然の一致だろうか。

「総論 モダンとポストモダン」 篠原資明

 本シリーズの総論は編者自身が書いているが、本巻だけは鷲田清一氏ではなく篠原資明氏が担当している。篠原氏はベルクソンとドゥルーズに関する著作で知られているが、本章もベルクソンからメルロ=ポンティ、さらにドゥルーズへ向かう流れを縦軸として20世紀フランス哲学をまとめている。

 ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズと並べればベルクソニスム、実存主義、構造主義(とポスト構造主義)という三つの時代区分がすべておさまり、伝統的なスピリッチュアリスムとの連結もはっきりするが、このようにまとめてしまうとドイツ哲学が現代フランス思想におよぼした圧倒的な影響が見えにくくなってしまう。

 おそらくその点を考慮したのだろう、本書の真ん中あたりに「自由への横断――ライン川を越えて」という小林康夫氏のコラムがあり、総論とこのコラムをあわせ読むことで20世紀フランス哲学が立体的に見えてくるのである。

「Ⅰ ベルクソン」 檜垣立哉

 第二次大戦前はベルクソン=フランス現代哲学だったが、実存主義の時代になるとすっかり忘れられてしまい、科学哲学としてのみかろうじて名前が残っていた。ベルクソンと科学哲学というと意外に思うだろうが、澤瀉久敬という人が生命科学の批判論として、今にして思えばかなり的外れな持ちあげ方をしてくれたおかげで関心がつづいていたのである(わたしが学生時代の頃だ)。

 ところがポスト構造主義の時代になりドゥルーズが差異の哲学の原点としてベルクソンを評価していて、『ベルクソンの哲学』というすこぶる刺激的な本まで書いていることがわかって再び注目されるようになった。

 本章はドゥルーズ的に強引に再編成されたベルクソンではなく、発展の順序を追ったオーソドックスな紹介であり、メルロ=ポンティやミンコフスキー、アンリに継承されたものまで視野におさめている。刺激は感じないが無難に読める章である。

「Ⅱ 反省哲学」 越門勝彦

 フランス反省哲学といっても知っている人はすくないだろう(わたしは本書ではじめて知った)。本章を担当している越門氏もこれといった著作がないので「非常にマイナーな思潮」と認めている。しかしリクールに決定的な影響をあたえるなど、その影響は思いのほか広く深く、フランス哲学の重要な流れなのだそうである。

 反省哲学というと内観主義のような印象を受けるが、代表者の一人であるナベールの定義によると「つねに精神をその作用ならびにその産出物において考察する」ことである。精神の「産出物」とは行動であり、行動を精神の記号と見なして両者の関係を意味作用と規定するというから、同時代のプラグマティズム、特にパースの思想と共通する部分が多いという印象を受ける。

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2013年02月26日

『ジャン・ボードリヤール』 レイン (青土社)

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 英国人の書いたボードリヤールの入門書である。ラウトリッジ社の Critical Thinkers というシリーズの一冊で、日本では青土社から「現代思想ガイドブック」として発売されている。

 入門書のシリーズだけあって各章の最後には半ページほどの「要約」が載り、「構造主義」とか「ハイパーリアル」のようなキーワードには半ページから1ページほどのコラム的な解説がついている。巻末には監修者であるテリー・イーグルトンの跋文と解題付の「読書案内」(原著は1998年までだが、訳者によって2006年までの分が追加されている)、さらに翻訳では省略されることの多い索引が付されている。元のシリーズのよさを日本版でも伝えようという意気ごみのうかがえる良心的な編集である。

 とはいえ本書に関する限り入門書というよりは本格的なボードリヤール論となっており、ボードリヤールをまったく読んだことのない人にはもちろん、ある程度読みこんでいる者にも歯ごたえがある。わかりやすさを期待するなら塚原史氏の『ボードリヤールという生きかた』をお勧めする。

 本書で特筆すべきは全七章のうち四章をついやしてマルクス主義の関係を掘りさげている点である。ボードリヤールは処女作の『物の体系』を家具や調度品の色や雰囲気といった贅沢品の分析からはじめており、日本に紹介された当時は非常に新鮮であり、マルクス主義とは無縁という受けとり方が多かったと思うが、レインはこの段階のボードリヤールの議論はマルクスの使用価値/交換価値という二分法の中で展開されており、マルクス主義の圏内にあると見ている。

 つづく『消費社会の神話と構造』と『記号の経済学批判』も依然としてマルクス主義の圏内にとどまっており、圏外に出るのはマルクス主義の生産概念を俎上に載せた『生産の鏡』からだとしている。

 確かにマルクス主義とは離れた場所で消費社会論を構築することに力を注いでいた観のあるボードリヤールは同書においてマルクス主義をはじめて正面から批判しており、『生産の鏡』以前と以後で断絶があるとする見方は当を得ているかもしれない。

 次の『象徴交換と死』は日本では『消費社会の神話と構造』とともにもっともよく読まれていると思うが、レインは同書の未開社会のとらえ方を批判し、ポトラッチが本当におこなわれていたのかどうかについても疑問を投げかけている。レインはポトラッチを専門に研究したことがあるそうで、未開社会をもちあげるボードリヤールの姿勢が見過ごせなかったのだろう。

 レインが評価するのは『シミュラークルとシミュレーション』の方で、ボードリヤールと同世代の思想家で映画作家であるギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』と比較して論じているが、ドゥボールは読んだことがないので判断を保留する。

 『アメリカ』以降、ボードリヤールは英語圏でポストモダンのグルと喧伝されるようになるが、レインはドン・デリーロの小説やヴェンダースの映画と対比しながらポストモダンの風景を活写していく。この紹介を読むと後期のボードリヤールも面白そうだと思えてくる。

 最後にインターネット革命が語られるが、原著が刊行されたのが2000年なのでボードリヤール・オン・ザ・の紹介くらいしかない。

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2013年02月25日

『ボードリヤールという生きかた』 塚原史 (NTT出版)

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 ボードリヤールは『湾岸戦争は起こらなかった』に懲りて以来御無沙汰していたが、最近読み直す必要が出てきて、全体像を確認するために本書を開いてみた。

 著者の塚原史氏はフランス留学時代に今村仁司氏から『消費社会の神話と構造』の共訳を持ちかけられたのを機にボードリヤールにかかわりだし、以来10冊以上のボードリヤールの著書やボードリヤール紹介本を翻訳し、来日時には案内役をつとめる仲だという。

 ボードリヤールを読んだことがあるといっても、最後まで読みとおしたのは論文スタイルで書かれた初期の消費社会に関する著作だけだったので、中期以降のボードリヤールの変貌ぶりには驚かされた。『シュミラークルとシュミレーション』が映画『マトリクス』の種本だくらいは知っていたが、まさか写真家になっていたとは。

 本書はボードリヤールの生い立ちからはじめる。ボードリヤールは1929年ランス生まれ。ランスはフランス東北部の古都で、日本でいうと仙台あたりか。祖父の代までは小農だったが、両親の代からランスに出てきて下級官吏になった。ボードリヤールが育ったのは地方の平凡な家庭で、エコール・ノルマルを目指すようなエリート家庭ではなかったわけである。構造主義の大物はレヴィ=ストロースを除くと早死にする傾向があったが、ボードリヤールは著者に「私はひ弱な知識人たちとはちがって、農民の根っこを持っているから丈夫なのだよ」と語ったそうだ。

 ボードリヤールは猛勉強してドイツ語のアグレガシオンに合格、ランスのリセでドイツ語の教師を10年間つとめる。その間アンリ・ルフェーヴルのもとでマルクスとエンゲルスの著作の下訳に従事する。共訳者として名前が出ているのは『ドイツ・イデオロギー』くらいだが、それ以外にも相当な分量の下訳をしていたようである。翻訳という作業は著者の思考を一字一句なぞっていくわけだから、ボードリヤールのマルクス研究はあなどれない。

 下訳の一方、ルフェーヴルの推薦でサルトルの主宰する「レ・タン・モデルヌ」に文学評論やブレヒトの翻訳を寄稿するようになる。「レ・タン・モデルヌ」は当時は相当な権威のあった雑誌である。

 20代のボードリヤールはこの世代の知識人の常としてサルトルとマルクスの強い影響下にあったが、30代になるとロラン・バルトに魅了されるようになり「すべてが一変した」と後に語っている。

 ボードリヤールは文学の科学を標榜していた時代のバルトによって記号論と構造主義に導かれた。1966年に博士論文として提出され1968年に刊行された最初の本『物の体系』(この題名自体『モードの体系』のもじりだ)にはバルトの顕著な影響が見られると著者は指摘する。

 1966年にナンテール校(現在のパリ第10大学)が新設された際、ルフェーヴルに社会学を教えられるかと聞かれ、できると答えたところナンテール校で教鞭をとるようになる。ということはボードリヤールはこの時点ではドイツ語の翻訳者であって、社会学者ではなかったことになる。

 ボードリヤールは途中からぐれてポップ・カルチャー評論家になった社会学者とばかり思いこんでいたが、ポップ・カルチャー評論家が社会学者のふりをしていたというのが実情のようだ。そう考えると、いろいろ腑に落ちることがある。

 1968年の五月革命の際、ナンテール校は反体制派の拠点となった。ボードリヤールは学生との共闘は避けたものの、同僚のエドガール・モランやリオタールとともに自主ゼミやビラづくりを通じて学生にエールを送った。『物の体系』は構造主義革命の産物だが、同時に五月革命の息吹を伝えているといっていい。

 熱狂の後には幻滅が来る。ボードリヤールは『物の体系』でマルクス主義ではもはやとらえられない高度資本主義のありようを消費社会として分析し、旧来の左翼の言論に時代遅れの烙印を捺したが、五月革命の2年後に刊行された『消費社会の神話と構造』では「個性」も「反体制」もすべて消費すべき差異としてとりこんでしまう体制のしたたかさを描きだしている。

 ボードリヤールは書いている。

 「消費のフレーズと反フレーズが一体となって神話ができあがる」と著者は指摘する。この点で、五月革命の反体制派は「モノと消費に悪魔的価値をあたえ、悪魔的なものとして告発し、決定的審級に仕立あげることによって、じつはそれらを超モノとしてしまうことに気づかなかった」という彼の言葉には、重いものがある。

 この後、ボードリヤールは『象徴交換と死』で大きな転換をとげる。本書では『象徴交換と死』を初期の消費社会論から中期のシミュラークル論へ踏みだした最重要の本として詳しく分析している。

 ここで「象徴交換」と呼ばれるのは未開社会の貨幣を介さない儀礼的交換であるが、ボードリヤールは近代社会の合理主義とは別の原理として注目し、消費社会の最先端で発生したシミュラークルと結びつける。

 原始時代に属する象徴交換と半ば未来に属するシミュラークルを結びつけるのは乱暴な話のようだが、そこにこそボードリヤールの洞察がある。

 著者が、なぜあの二つのアイデアを接近させたかといえば、それは等価交換の不可能性という問題にかかわっている。現実=オリジナルの記号化の最終段階であるシミュレーションの時代は、現実との対応関係を必要としない純粋なシミュラークルの出現を特徴としているが、この時代には、世界はその等価物を失い、生産中心の単純な経済原則にもとづく等価交換はもはやフィクションでしかなくなってしまう。
 したがって、あらゆるものが記号化されるこの段階では、社会自体が「システム内部にある反システム原理」として……中略……記号化をつうじた等価交換を拒否する象徴交換を再び登場させないわけにはいかない。

 こう説明されればよくわかる。『象徴交換と死』は大変な射程をもった本だったのである。

 本書の後半では『アメリカ』以降の後期ボードリヤールが語られるが、このあたりは『湾岸戦争は起こらなかった』しか読んでいないので論評はさしひかえよう(正直いうと、ボードリヤールで重要なのは初期と中期であって後期はあまり読みたいとは思わない)。

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2013年02月24日

哲学の歴史 11 論理・数学・言語』 飯田隆編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第11巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本シリーズは20世紀に3冊あてているが、本巻はその2冊目にあたり、ナチスの台頭でドイツ語圏から英語圏に中心が移った論理学を基礎とする科学哲学とフランス固有の科学哲学である科学認識論エピステモロジーという二つの系統の科学哲学をとりあげている。

 この分野はまったく不案内で、「言語論的転回」linguistic turn が20世紀初頭に誕生した論理実証主義をさすということさへ今回はじめて知ったくらいだが、19世紀後半にはじまる前史も、その後の大西洋を越えた思想の展開も実に興味深いものだった。

 もう一つ誤解していたのはウィトゲンシュタインの立ち位置である。論理実証主義はウィトゲンシュタインの前期の仕事に、分析哲学は後期の仕事にはじまると思いこんでいたが、そうではなかった。ウィトゲンシュタインが大きな存在であるのは間違いないが、『論理哲学論考』が出版されたのはラッセルが主要な仕事を終えた10年後だし、『哲学探求』の執筆もオックスフォード学派の初期の活動に刺激されてのことだった。ウィトゲンシュタインは主流になったことは一度もなく、論理実証主義に対しても分析哲学に対しても孤高の批判者の立場を貫いていたのだ。

 英米系の哲学の本というと論理式が延々とつづくものが多いが、本書は論理式は必要最小限におさえ、学説が登場した背景と人間ドラマに焦点をあわせているので読物として面白い。もっとも学説を知りたい人には物足りないだろう。

 微妙なのはエピステモロジーを本巻に含めたことである。エピステモロジーは科学哲学というよりは科学哲学史であって、フーコーとの関係からいっても次巻にまわしたほうがおさまりがよかったのではないかと思う。

「総論 科学の世紀と哲学」 飯田隆

 20世紀は自然科学がそれまでにない急速な発展をとげ、世界のありようを根本的に変えた。変化の速度は21世紀になっていよいよ加速しているが、哲学では巨大化していく科学に対抗して人間精神の場所を確保しようという立場と、科学そのものの内部にわけいって科学的知識の確実性とはなにかを考えようという立場の二つが生まれた。前者が現象学にはじまる現代思想なら、後者は論理実証主義や分析哲学として結実することになる科学哲学である。

 著者は科学哲学の発端を1870年代にドイツとフランスで進められた科学と数学の基礎固めに置いている。

 1870年代には数学の世界で概念の根本的な見直しがおこなわれた。非ユークリッド幾何学が可能なことがわかり、公理とは何かが問い直される一方、カントルとデーデキントによる実数概念の厳密化がはかられ、数学基礎論という分野が開拓された。

 数学が厳密化される過程で伝統的論理学の限界が明かになり、現代論理学が構築された。現代論理学はフレーゲの『概念記法』の出た1879年からゲーデルの不完全性定理が発表された1931年までのほぼ半世紀の期間に成熟するにいたった。論理学の文の方が英語や日本語のような自然言語の文よりも事態の構造をより正確に反映しているとする記述理論という立場が生まれ、形而上学的な問題の多くは論理学の文に書き直すと解決してしまったり、無意味であることがわかるとされた。これが論理実証主義である。

 論理実証主義は伝統の全否定と方法的自覚の二本柱からなっており、哲学上のモダニズムといえるが、対象を論理的に表現できる範囲に限定し箱庭的な分析に終始する傾向があった。

 この点を批判したのが分析哲学であり、分析哲学は自然言語の論理化に向かった。

 本章の末尾の部分では日本の科学哲学を概観している。日本では論理実証主義や分析哲学はごくわずかしか紹介されなかったが、科学に対する信頼は厚く、1960年代まで日本の論壇を支配したマルクス主義も「科学的社会主義」と称したくらいで、科学肯定という点では同じだった。

 ところが1970年代にはいると科学の弊害が広く知れわたるようになり科学の見直しがはじまった。論理実証主義や分析哲学は科学の代弁者と見なされがちだが、素朴な科学信仰を乗り越える思考としてこれから真価が問われる。

「Ⅰ 自然科学の哲学」 今井道夫/小林道夫

 前章で述べられていたように1870年代には数学の土台固めがおこなわれたが、物理学の世界でもマッハやポアンカレによってニュートン力学のよって立つ原理が問い直された。ニュートンの絶対空間の概念に疑問が投げかけられ、アインシュタインの相対性原理につながっていくが、自明と思われた基本概念の再検討には哲学者も参加するようになった。

 ニュートン力学に対する疑問はカントの超越論哲学に対する疑問に直結する。カントはニュートンの絶対空間を直観形式として超越論哲学の土台にすえたが、絶対空間が間違いならどうなるのか。またカントはユークリッド幾何学の公理をア・プリオリな真理としていたので、非ユークリッド幾何学が成立するとなるとア・プリオリな真理そのものが怪しくなる。

 こうしてカントの体系を新しい数学と物理学にどう対応させるかが哲学上の大問題となった。新カント派の一方の拠点だったマールブルク大学が論理実証主義の初期の中心となったのは必然だったのである。

 本章では同時期のフランスの科学哲学も紹介されているが、ポアンカレとピエール・デュエムの二人に集約されている。デュエムが夭折しなかったらフランスにも論理実証主義が根づいていただろうということである。

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2013年01月28日

哲学の歴史 10 危機の時代の哲学』野家啓一編(中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第10巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本シリーズでは20世紀を現象学と西欧マルクス主義をあつかった『危機の時代の哲学』、論理実証主義をあつかった『論理・数学・言語』、フランス現代思想をあつかった『実存・構造・他者』の三巻にわけている。言語圏別でいうと『危機の時代の哲学』がドイツ語圏、『論理・数学・言語』が英語圏、『実存・構造・他者』がフランス語圏である。

 本巻は前半が現象学、後半が西欧マルクス主義を柱としている。現象学とマルクス主義ではまったく接点がないように見えるが、普遍的な真理を追求することになっていた哲学を生活世界に引きずりおろし、気遣いにせよ実践にせよ、現実との係わりあいのただ中から思考するという点では軌を一にする。実際『存在と時間』が『歴史と階級意識』に対抗して書かれたという見方もあるくらいである。

 目次を眺めた際には前半ではヤスパース、後半ではクローチェが場違いかなと思ったが、読んでみるとおさまるべきところにおさまっていた。ヤスパースとクローチェをくわえたことで現象学も西欧マルクス主義も人文主義の伝統を受けついでいることがはっきりした。

 一方、「西欧マルクス主義」の系譜の中にアルチュセールをいれたのはまずかったと思う。アルチュセールはラカン同様、過激な原点回帰を遂行した原理主義者であって、人文主義の伝統とは水と油なのである。

「総論 現象学と社会批判」 野家啓一

 ニーチェの発狂とハイデガーの学長就任という二つのエポックを軸に20世紀ドイツ語圏の思想史をドラマチックに描きだしており、この章だけ抜きだして読んでも面白いだろう。

 ニーチェは1889年1月3日にトリノで鞭打たれた馬に抱きつき、泣きながら昏倒して狂気の淵に陥ったが、奇しくもこの年ハイデガーとウィトゲンシュタインとヒトラーが誕生している。

 世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパは精神の軸を失い、漠然とした不安と頽廃が世に瀰漫していた。この危機を克服するためにフッサールは一切の先入見を排して内的確実性を確立する現象学を創始した。現象学は第一次大戦後のワイマール文化の中で大きな潮流となっていくが、大恐慌の打撃によってワイマール共和国はあえなく崩壊し、ナチスがとってかわる。

 この時期、現象学運動も大きな転機をむかえる。フッサールの目指した現象学は普遍的な真理の再建を目指すものだったが、ハイデガーはフッサールの試み自体が歴史的に条件づけられたものだと喝破し、現象学を混乱した歴史状況を生きる生身の人間の解明に方向転換させてしまったのだ。

 1933年、ユダヤ系のフッサールは大学教育権限を剥奪されるが、その直後、ハイデガーは短期間とはいえフライブルク大学学長に就任する。

 ユダヤ系知識人の拠点だったフランクフルトの社会研究所は解体を余儀なくされ、ホルクハイマーらはアメリカに亡命する。社会研究所に籍を置いていたベンヤミンは亡命途中で進退きわまり自殺している。

 第二次大戦後、アメリカの亡命していたホルクハイマーとアドルノはドイツにもどり社会研究所を再建し、共著の『啓蒙の弁証法』で啓蒙の自己崩壊を指摘し、文化産業によって支配された大衆文化を告発するが、フランクフルト学派第二世代のハーバーマスはそこにニヒリズムを見てとり、理性の再生をはかるべきだと訴える。

 20世紀は激動の時代だったが、哲学もその激動のただ中で苦闘していたのである。

「Ⅰ ブレンターノ」 村田純一

 ブレンターノはフッサールの師として広く知られているが、著作は昭和初年に何冊か邦訳されたものの、現在ではほとんど入手できない。1970年に中公版『世界の名著』のフッサールの巻に短い論文が併録されたが、これも今は絶版である。

 欧米でも事情は同じで、知名度にもかかわらずブレンターノはなぜかまったく読まれておらず、「ブレンターノ・パズル」という言葉まであるそうである。

 つまらない学者だったのかというと、そうではないらしい。第二次大戦前にはブレンターノ学派が活動していたし、論理実証主義者の拠点だったウィーン学団の宣言文には論理実証主義の先駆者としてブレンターノの名前があがっている。ブレンターノは現象学のみならず論理実証主義の源流でもあったのだ。

 なぜブレンターノは忘れられてしまったのだろう。著作よりも講義で真価を発揮するタイプの学者だったことや、晩年失明して集大成的な著作が書けなかった事情も影響しているようだが、ブレンターノが活躍の場とした中欧のハプスブルク文化が第二次大戦で解体してしまったことが一番の理由らしい。独仏で発展した現象学と、英米で発展した論理実証主義は無関係のように見えるが、実はどちらもハプスブルク文化という土壌から同じ時期に生まれていた。ブレンターノは現象学と論理実証主義を育んだハプスブルク文化の申し子だったのだ。

 ブレンターノは1838年ライン河畔の方のマリーエンブルクでイタリア系カトリックの名門に生まれる。ミュンヘン大学などで学んだ後、1862年に『アリストテレスにおける存在者の多様な意義について』で博士号を取得する。ハイデガーがアリストテレス研究からはじめたことは木田元によって知られるようになったが、アリストテレスの存在論という視点をハイデガーに教えたのはこの論文だといわれている。

 1864年にカトリックの司祭になり、1866年には『アリストテレスの心理学』で教授資格をとる。ヴュルツブルク大学で教鞭をとるにあたり自らの基本テーゼを発表したが、その第四テーゼ「哲学の真の方法論は自然科学の方法にほかならない」はドイツ観念論を批判し、哲学も厳密な科学的方法にもとづかなければならないことを主張したもので、現象学と論理実証主義の魁といえる。

 ただしブレンターノのいう「自然科学」とは近代科学のことではなく、アリストテレス哲学のことだった。ブレンターノは晩年に哲学的立場を変えるが、いずれの場合もアリストテレス研究の深化がきっかけとなっている。

 ヴュルツブルクでの講義は講評を博すが、教皇不可謬性のドグマを受けいれることができず還俗して教職を辞し、研究に集中するようになる。

 1874年、ブレンターノは主著とされる『経験的立場からの心理学』を上梓する。ここではアリストテレスの『霊魂論』にヒントをえて志向的内在という概念を打ちだしており、フッサールに現象学の着想をあたえることになる。

 この年ブレンターノはウィーン大学の教授に就任するが、1879年に結婚したために司祭についていた者の結婚を禁ずるオーストリアの法に抵触し、辞職を余儀なくされる。教授職への復帰を望んで私講師の身分のまま教壇に立ちつづけるがついに望みはかなえられず、1895年にイタリアへの移住を決める。

 ドイツ時代はペガサスのような抽象的存在者を対象とする心のあり方を分析していたが、1905年を境に立場を大きく変え、普遍者や抽象的存在者の排する「もの主義」reismの立場を打ちだすようになる。

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2012年12月26日

哲学の歴史 09 反哲学と世紀末』 須藤訓任編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第9巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻はウィーン体制成立から第一次大戦までの百年間のドイツ語圏の哲学をあつかう。副題に「マルクス・ニーチェ・フロイト」とあるようにシリーズの中でも要となる巻だが、マルクス、ニーチェとフロイトは異なる文脈で登場する。

 本巻は12の章にわかれるが、第1章フォイエルバッハから第5章ニーチェまではヘーゲル主義が解体していく過程なのに対し、第6章の新カント学派以降はヘーゲルという重しがとれた後に新しい哲学が簇生していく過程として語られている。マルクスとニーチェは反ヘーゲルという文脈から離れられないが、フロイトは世紀末の精神科学の一つという位置づけなのだ。フロイト単独では哲学史になじみにくいが、ディルタイやジンメル、マックス・ヴェーバーらとならべられることでしかるべき場所をえている。

「総論 マルクス・ニーチェ・フロイト」 須藤訓任

 ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』でドイツ観念論は来るべき革命を予告するものだと高らかに宣言したが、予言とはうらはらにウィーン体制下の反動の時代が到来し、ヘーゲル学派自体も右派、左派、中央派に分裂したというところから語り起こしている。

 ウィーン体制は1848年の3月革命で終わるが、革命もドイツ統一成就せず、以後上からの改革がドイツ各地で進められ、1871年のプロイセンによる「上からの統一」をむかえることになる。

 この時期大学の外で新しい思想が芽吹きはじめる。本巻の前半に登場する6人の哲学者のうち、フォイエルバッハとショーペンハウアーは一応大学で教えたが私講師にすぎず、ニーチェは短期間古典文献学の教授として教壇に立っただけだった。マルクス、エンゲルス、キルケゴールはジャーナリストである。

 彼らは大学と縁がなかっただけでなく社会においても片隅にいた。ショーペンハウアーとキルケゴールは親の遺産で食べていたし、フォイエルバッハは女実業家だった妻に食べさせてもらっていた。エンゲルスは親の工場を嗣いで資本家になり、マルクスはそのエンゲルスに仕送りしてもらっていた。ニーチェは早々に大学を辞め、わずかな年金で糊口をしのいでいた。独立した章はたてられていないが、シュティルナーにいたっては妻の持参金を食いつぶしたあげくに離婚し、借金まみれになって貧窮死した。現代思想の源流と呼ばれる人たちはそろいもそろって穀つぶしばかりである。

 1871年の普仏戦争の勝利によって統一ドイツが誕生すると上からの近代化が急速に進み、ドイツはわずか40年で世界第二の工業国にのしあがっていく。急激な近代化は社会に歪みをもたらしたが、この慌ただしい時代に本巻後半で語られるさまざまな精神科学が誕生している。

「フォイエルバハ」 服部健二

 ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは1804年に南ドイツのバイエルン王国に産まれる。父親のパウルはバイエルン王国の刑法典を制定した法学者で、「法律なくして罰則なし」という罪刑法定主義は近代法学に大きな影響をあたえた人であるが、『バイエルン犯科帳』やカスパー・ハウザーの観察記録を出版している。

 フォイエルバッハは聖書を耽読し、わざわざユダヤ人のラビからヘブライ語を学ぶほどの敬虔な青年だった。最初宗教哲学と神学を学ぶが、後に哲学に転じヘーゲルの講義を受けるようになる。キリスト教では宗教的情熱を満足させられないことに気づき、スピノザの汎神論に引かれるようになったのだ。

 1828年にエルランゲン大学の私講師になるが、1830年にフランスで七月革命が起こると触発されて『死および不死についての考察』を匿名で出版。敬虔主義やキリスト教国家を批判したのがたたって馘になる。

 親の遺産を食いつぶしながら物書き稼業をはじめるが、1837年に女性実業家のベルタ・レーヴと逆玉結婚し、ブルックベルク城の見晴らしのいい二階を書斎にして好きな研究に打ちこむようになる。

 エルランゲン大学でおこなった『論理学形而上学講義』では霊魂としての自然が弁証法的に展開するというヘーゲル論理学を祖述し、『近代哲学史講義』ではカントの二元論を克服したフィヒテの「生命の立場」や自然を自己産出的な創造力ととらえるシェリング、なかんずく生命を学にもらたらしたヘーゲルを評価している。1934年に刊行した最初の哲学史では自然を数量化したデカルトよりも感性を重視したベイコンや自然の質を重視するスピノザ、活動的な力の概念を「物質の運動の究極の根拠」としたライプニッツを重視し、『ピエール・ベール』では啓蒙思想期の科学者はキリスト教神学と結びつくことによって自然を「単なる機械」に貶めたと批判している。フォイエルバッハの自然は生命力をはらんだ感性的な自然であって、近代科学が対象とする数量的・機械論的自然とは別物だったのだ。

 『ピエール・ベール』でもう一つ重要なのはキリスト教神学は「人類を自然から疎外し、自然の身になって感じたり、考えたりする能力を奪った」としている点だ。近代科学による自然の「疎外」という考え方がすでにあらわれていたのである。

 1841年は主著である『キリスト教の本質』を刊行する。フォイエルバッハは疎外の論理を拡大し、宗教は人間の自己疎外であり、「人間は自分の像に似せて紙を創造した」とするおなじみのキリスト教批判を展開するわけだが、これが大きな反響を呼んだ。

 マルクスは当初「社会主義に哲学的基礎をあたえた」と絶賛するが、後に「フォイエルバッハに関するテーゼ」で自然を観照的直観の立場から見るだけで実践の対象ととらえない古い唯物論だと厳しく批判する。

 本章の著者はフォイエルバッハにとって実践は自然を支配するための活動ではなく美的・理論的直観と結びついた活動だったとして、フォイエルバッハの実践概念に近代化至上主義を越える可能性を見ている。

 フォイエルバッハは人間が宗教を作りだしたのは窮迫のためだとしたが、その窮迫は物質的豊かさで解決されるようなものではなく、有限者である人間の条件だった。フォイエルバッハは書いている。

 限界のないところ、時間のないところ、窮迫のないところ、そこにはいかなる質もエネルギーも精神も炎も愛もない。窮迫した存在者だけが必然的な存在者である。窮迫のない存在者は根拠のない存在者である。受苦することができる者だけが実存するに値する。

 フォイエルバッハがこんなに深い思想家だったとは思わなかった。マルクスによって乗り越えられたわけではなく、むしろこれから読み直されるべき人のようだ。

 1859年には妻の経営していた製陶工場が倒産しフォイエルバッハ家は困窮するが、友人たちやシラー財団、ニュールンベルクの社会主義者が援助し、病床に就きながらも1872年に安らかな死をむかえた。

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2012年11月25日

哲学の歴史 08 社会の哲学』 伊藤邦武編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第8巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀末のフランス社会主義から20世紀のホワイトヘッドまで、哲学者というよりはもっと社会の現実に近いところで考えた思想家をあつかっている。とりあげられているのはトクヴィル、コント、デュルケムといったフランス社会学の祖、ベンサム、ミル、スペンサーといった功利主義者、さらにアメリカのプラグマティストでドイツ語圏は一人もいない。

 ドイツ観念論をあつかった前巻、マルクス、ニーチェ、フロイトというビッグネームをあつかう次巻と比べるとマイナーな印象がある。主著もろくに訳されていなかったり名前しか知らない思想家が多く、はじめて聞いた人も何人かいた。

 しかしマイナーと感じるのは日本がドイツの哲学史一辺倒だからで、欧米ではトクヴィルもコントも、ベンサム、ジェイムズ、パースもヘーゲルやニーチェとならぶメジャーな思想家であり現代思想の重要な源泉になっていると編者は力説する。本巻の寄稿者たちも自分たちが研究している思想家の日本での低すぎる評価を変えようと懸命になっており、気合のはいった論考が多い。読むまでは箸休めかなと思ったが、意外にも本シリーズ中もっとも面白く充実した巻だった。

「総論 進歩・進化・プラグマティズム」 伊藤邦武

 19世紀欧米社会はそれ以前の世界から一変したが、この変化をもたらしたのはアメリカ独立とフランス革命だった。反動の動きもあったがせめぎあいをつづけながら市民革命が漸進的に進んでいった。

 後進国ドイツは反動の力が強く哲学者はなかなか変わらない社会に焦燥しながら観念の中で革命を進めたが、英米仏の哲学者はダイナミックな変化にさらされながら社会の中の人間を考えざるをえなかった。

 社会だけでなく科学の世界でも大きな変化が起こりつつあった。やユークリッド幾何学の普遍的な体系やニュートン力学の決定論的世界像が非ユークリッド幾何学や新しい形式論理学、確率論的な不確定な世界像の出現によって疑われるようになった。

 それはニュートン力学を基礎づけることから生まれたカントの普遍妥当的な超越論的主観性が根柢から揺らぎはじめることを意味する。

 複数の幾何学や論理学の可能性は、必然的に知識に関する規約主義や相対主義、あるいは社会的観点からする知識論を生みだすことであろう。そして、唯一絶対の世界認識の担い手としての超越論的主観の否定は、認識や知識の担い手として、それまでにない主観像を必要とするであろう。認識が記号のシステムや幾何学の体系に相対的であるとしたら、その認識の担い手は誰なのだろうか。それは記号のシステムを共有する人々、具体的な認識の規約をシェアする社会的グループにほかならないのではないか。

 著者は新しい認識主体の探求が帰納主義と記号論という二つの軸に向かったことをミルとコントとパースを例に素描して総論を終えている。

「フランスの社会主義」 今村仁司

 この章ではエンゲルスによって「空想社会主義者」のレッテルを貼りつけられて(すくなくとも日本では)葬り去られた思想家をとりあげるが、著者は各論にはいる前に socialism の social とは society のことではなくラテン語の socialis(相互扶助)のことだと断っている。socialism とは「行為の面では相互扶助であり、組織の面では共同体主義」というわけだ。マルクス主義の登場以前は社会主義とは相互扶助しながら非資本主義的な共同生活を目指す思想を意味していた。

「サン=シモン」

 サン=シモンは伯爵で軍人だったが、啓蒙思想に傾倒しアメリカ独立戦争に参加。フランス革命期にはみずから爵位を捨てる。

 産業が社会をよくするという信念から科学者と産業者の共和国を建設することを説き、革命が一段落すると40代になっていたにもかかわらず理系の勉強をはじめる。人類の歴史は

  1. 神学的・軍事的段階
  2. 形而上学の段階
  3. 産業と事物の管理の段階

という三段階をたどり現在はまさに第三段階にさしかかったとする(三段解説はコントの三段解説に受け継がれる)。

 未来の社会は万人が産業で働き「各人はその能力に応じて、各人の能力はその仕事に応じて報酬を受けとる」ようになり、産業の時代という新時代が到来して普遍的調和が実現、世界はジュネーヴの世界議会によって統合されるようになる。

 科学技術によるユートピアであるが、晩年には科学技術だけでは対応できない人間の現実に気づき、社会が安定的に存続するためには人間の情念と想像力が不可欠だと考えるようになる。科学技術はもちろん必要だが、その上に芸術を置くようになり、想像力をもった芸術家が人類の進むべき方向を教えるというビジョンを説くようになる。

 もっともこうした面は後世には影響を残さなかった。サン=シモンが残した影響でもっとも重要なのは国家不要論だろう。事物の管理が自由な人間によって合理的に行われるなら国家は必要ないという考え方で、アナーキズムとマルクス主義の源泉の一つとなった。著者はサン=シモンはその後のあらゆる社会主義思想の「母胎」だったとしている。

「フーリエ」

 フーリエは1772年ブザンソンの裕福な商人の家に生まれた。フランス革命で家が没落し大商店に雇われて地方回りをするようになるが、地方とパリの価格差は商人の詐欺によるものと思いこみ、文明社会批判にまで過激化していく。

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2012年09月23日

哲学の歴史 07 理性の劇場』 加藤尚武編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第7巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀後半から19世紀にかけて隆盛したドイツ観念論をあつかう。カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと巨峰が連なり哲学史の中でもひときわ高く聳える山脈を形成している。

 ドイツ観念論の研究者は偏屈な人が多いのか、編者の意図といい意味でも悪い意味でもはずれた原稿が集まった印象がある。

 いい意味ではずれたのはヤコービ兄弟をあつかった「自然と言語の百科全書」というコラムである。コラムであるから編者はヤコービ兄弟にそれほど重きを置いていなかったはずだが、章に昇格させていいくらい充実した内容で、ヤコービ兄弟が哲学史において重要な役割を果たしたことを教えてくれた。

 ゲーテに一章割かなかったことは惜しまれる。ゲーテをはずしたのは編者のこだわりかもしれないが、どの章でもゲーテに言及しており、せめてコラムとしてでもとりあげるべきではなかったか。

 不満はないではないが、要となるカントとヘーゲルの章が読みごたえがあるので本シリーズ中でも屈指の巻となっている。

「総論 カントとドイツ観念論」 加藤尚武

 編者はドイツ観念論は俗称であり、理想主義であるとか「デカルト以来の自我中心主義がヘーゲルで絶頂を迎えた」といった従来の見方を廃棄するものの、ドイツ観念論というまとめ方を否定しているわけではない。カントの存在はあまりにも大きく、ドイツの哲学者はカントが残した課題の解決を迫られていたと見るからだ。

 その課題を編者は三つに要約する。

  1. 主観性と客観性の根源的統一はいかにして可能か
  2. すべての学問分野を統合する原理は何か
  3. 神に対応する理性的な「絶対者」の概念はどのように把握されるか

 この三つの課題をめぐってドイツの哲学者は半世紀にわたって悪戦苦闘するが、そこに陰に陽に顔を出すのがスピノザである。ドイツ観念論においてスピノザの存在はデカルトより遙かに大きい。

「Ⅰ ヴォルフとドイツ啓蒙主義の暁」 小田部胤久

 ヴォルフはドイツ講壇哲学の大成者とされるが、カントの引き立て役としてしか名前が残っておらず一冊の邦訳もない。そのヴォルフを紹介した貴重な文章である。

 ヴォルフは1679年1月24日ブレスラウに生まれた。マクダレーネン・ギムナジウムで学んだが、ルター派とカトリックの反目を目にして数学の確実な証明に心を向けた。

 1699年、神学を学ぶためにイェーナ大学に入学しデカルト哲学と出会う。ライプツィヒ大学に移った後、1703年「数学的方法によって書かれた普遍的実践哲学」で教授資格を取得。1706年ライプニッツの推挙でハレ大学の数学自然学教授になる。

 ハレ大学は1694年にドイツ語で講義することを提唱したトマジウスが中心になって創設された大学である。トマジウスは哲学に数学的方法を用いることに反対していたので、ヴォルフはライプニッツの忠告にしたがい哲学の講義をおこなわなかったが、1709年からドイツ語で哲学の講義をはじめる。ヴォルフは講義の成果をつぎつぎにドイツ語で刊行したが、体系性と平明な論理が歓迎され彼が作ったドイツ語の術語が広まっていく。

 しかしハレ大学で支配的だった敬虔主義から決定論・無神論ではないかと批判され、1721年には「中国人の実践哲学」という講演が槍玉にあげられる。1723年プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は「勉学中の若者に多大の損害をもたらす教えを述べた」としてヴォルフに国外退去を命ずる。ヴォルフはヘッセン=カッセル方伯の招聘でマールブルク大学に移る。

 1728年からはラテン語著作の公刊をはじめ、ドイツ語圏以外でも読まれるようになる。ディドロの担当した『百科全書』の「哲学」の項目はヴォルフの体系を祖述したものだった。

 1740年プロイセンでフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が没しフリードリヒ二世即位すると再びハレ大学に招聘される。1754年4月9日ハレで死去。76歳だった。

 ヴォルフの哲学はライプニッツの説をもとにスコラ哲学に匹敵する体系をつくりあげたとされているが、本章ではライプニッツの影響や体系性にはあまりふれず(こうした面はカントの章に紹介がある)、心理学とそこから派生した美学に話を絞っている。

 ヴォルフは心理学をあらわす言葉としてpneumatica、pneumatologiaではなくpsychologiaを広めた。ヴォルフは心理学を経験的心理学と合理的心理学に二分し、経験的心理学は天文学を範とした実験的哲学の一部門、合理的心理学は経験的心理学があきらかにした命題を根拠から説明する演繹部門とした。

 『経験的心理学』(1732)は第一部「認識能力」、第二部「欲求能力」にわかれ、「認識能力」は下位認識能力である感性と上位認識能力である知性にわかれる。

 この分類に触発されてバウムガルテン(1714-62)は美学aestheicaという学問を創始した。上位認識能力=知性に論理学があるのにならって、下位認識能力=感性を導く学問として構想したわけである。

 敬虔主義者はヴォルフの心身相関論を人間から自由奪う決定論と決めつけたが、ヴォルフは心身相関論を三つの類型にわけている。

  1. 心身の間に因果関係があるとするアリストテレス説
  2. 神の働きかけで心身が同時に変化するとする機会原因説(デカルト、マルブランシュ)
  3. 神があらかじめ打ち立てた調和により心身が各々の本性にもとづいて自律的に変化していくという予定調和説(ライプニッツ)

 ヴォルフは最後の予定調和説を採用するが、注目すべきはこの説明はあくまで合理的心理学上の仮説にすぎず、仮にこの仮説が間違っていたとしても経験的心理学において明らかにされた事柄までもが否定されるわけではないとしたことだ。合理的心理学は斬新的により正しい説明を求めればよいというわけだ。

 カントはヴォルフを独断論と批判したが、当のヴォルフは独断的ではなかったらしい。

「Ⅱ カント」 福谷茂

 カントは1724年ケーニヒスベルクに生まれた。ケーニヒスベルクは現在のポーランドのカリーニングラードにあたる。ドイツ騎士団が建設したハンザ同盟の港町で、最盛期でも人口は5万を超えなかったが大学と不凍港をもち、スコットランド人、英国人、オランダ人、ユダヤ人などが集住する多文化多民族都市だった。

 父ヨーハンはティルジット出身の馬具職人の親方でカントはスコットランド系と思いこんでいたが、明確な根拠はない。母アンナ・レギーナはニュールンベルクからの移住者の家系だった。両親は敬虔主義の信奉者で、カントの敬虔主義の影響のもとに育った。

 1732年敬虔主義者のシュルツが校長をつとめるコレギウム・フレデリキアヌムで古典語を学び、1740年ケーニヒスベルク大学に入学、恩師のクヌッツェンにニュートンを教えられる。ニュートン力学と啓蒙主義の影響で敬虔主義からは離れていった。

 1746年『活力測定考』を提出して卒業。住込みの家庭教師となってケーニヒスベルクの周辺を転々とする。

 1755年修士論文と教授資格申請論文を提出して私講師になり、自然哲学の論文をつぎつぎと発表して注目される。1762年ケーニヒスベルク大学の詩学教授のポストが空くが辞退する。他の大学から招聘されたこともあるがやはり辞退している。

 私講師は受講者の数による出来高払いだが、自然地理学の講義に聴講者がつめかけるなどカントの講義は人気があったので経済的には困らなかったようである。

 1770年ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授になり、『感性界と叡智界の形式と原理について』を出版するが、これから『純粋理性批判』まで有名な沈黙の10年にはいる。

 『純粋理性批判』は大陸合理論とイギリス経験論の綜合といわれるが、本章の著者はニュートンらの自然学の成果を懐に含むことのできる形而上学の構築と位置づけている。形而上学とはドイツ・アリストテレス主義といわれるライプニッツ=ヴォルフの講壇哲学である。

 ルターがアリストテレスを憎悪したためにドイツのプロテスタント地域では形而上学が壊滅していた。ライプニッツが形而上学を復興させるために手本としたのは皮肉なことにイエズス会士スアレスがアリストテレスとトマスを近世的に再編成した「第二スコラ哲学」であり、ヴォルフが大成した講壇哲学もスアレスの体系をもとにしていた。『純粋理性批判』はアリストテレスに淵源する古い講壇哲学と、デカルト、ロック、ニュートンらの新しい自然科学的哲学を無理矢理に近い形で融合させる試みだった。そこがさまざまな解釈をうむ要因でもあり魅力でもある。

 1781年にやっと『純粋理性批判』の出版にこぎつけるが、最初はまったく理解されなかった。そこで『純粋理性批判』を要約した『プロレゴーメナ』(1783)や自作自解といわれるようになる『純粋理性批判』第二版(1787)を刊行し、しだいに理解者を増やしていった。

 カントは『純粋理性批判』を基礎に『人倫の形而上学の基礎づけ』と『自然学の形而上学的原理』を書きあげ、講壇哲学に対応した一応の体系を完成させるが、その後理性を主役にした独自の体系を構想するようになり『実践理性批判』(1788)と『判断力批判』(1790)を刊行する。

 1796年に大学を退職するが研究と著作はつづけ、1798年には神学部・法学部・医学部の下におかれていた哲学部を他の三学部と並び立たせることを主張した『諸学部の争い』を刊行している。

 1804年死去。80歳だった。カントは意外に多くの財産を残しており、「はじめて哲学で財産を残した男」ともいわれている。

 カントはヒュームによって掘り崩された因果律をア・プリオリな総合判断として再建しようとしたが、本章ではそもそもア・プリオリな総合判断はありうるのかという視点から『純粋理性批判』を検討し、『実践理性批判』と『判断力批判』につなげていく。すこぶる見通しがよく、三批判をふりかえりやすい。

 本章で興味深いのは遺稿について立ち入った考察をくわえている点だ。カントは亡くなる直前まで思索と執筆をつづけたが、晩年はさすがに呆け気味であり、遺稿は断片の集積だったこともあってきちんと論じた人はあまりいなかったのではないかと思う。本章の著者は遺稿を『純粋理性批判』と表裏をなすものと位置づけ、今後のカント研究の重要なトピックになるとしている。

「Ⅲ ハーマン」 栗原隆

 ハーマンと聞いてすぐにわかる人はあまりいないだろう。わたしも知らなかったが、カントの友人でソクラテスの無知やヒュームの懐疑を武器に啓蒙主義の理性崇拝に警鐘を鳴らした思想家で、カントとドイツ観念論に大きな影響をあたえたという。

 ハーマンは1730年ケーニヒスベルクに理髪外科医の息子として生まれた。1746年、ケーニヒスベルク大学にすすみ、カントの師であったクヌッツェンに哲学を学んだ。カントより6歳年少の後輩ということになる。在学中から『ダフネ』という雑誌を創刊し文筆活動をはじめるが、なんら資格をとることなく大学を修了する(当時は珍しくない)。

 住込みの家庭教師の後、1757年リガの商会にロンドンに派遣される。商談はまとまらなかったが、ハーマンは生計の当てもないままロンドンに一年間逗留した。異国で極貧生活を送りながら聖書を読みこんだことがハーマンの思想に大きかったといわれている。

 1759年『ソクラテス追想録』を刊行する。ソクラテスは啓蒙主義の英雄ともてはやされていたが、ハーマンはそれを逆手にとってソクラテスの仮面をかぶって啓蒙主義批判をおこなった。思考の手前の現実をキルケゴールに先立って実存と呼んだことも今日注目されている。

 カントから子供のための自然学読本を共同で書こうという提案があるが、啓蒙主義的な教科書という趣旨に反発し断っている。この前後のカント宛書簡が残っているが、前批判期の自然学的神学の傾向を人間の有限性を忘れたと批判し、ヒュームの重要性を説いている。カントを「独断のまどろみ」から醒ましたのはハーマンだった可能性がある。

 1762年『美学提要』と『愛言者(文献学者)の十字軍行』を刊行し、認識主体を対象の上に立てる科学は人間のたかぶりと批判する。啓蒙主義が斥けた聖書の美的世界や身体的比喩を肯定し、疾風怒濤とロマン主義の先駆けになったとされる。

 当時は文筆活動では生計を立てられなかったのでいろいろな職を転々としていたが、1767年カントの紹介で税関に勤務するようになりようやく生活が安定する。『純粋理性批判』は校正刷りで読みいち早く書評を書いている。

 1787年ガリツィン公爵夫人アマーリエに招待されミュンヘンにおもむき、デュッセルドルフに足を伸ばしてヤコービを訪ねている。1788年帰国間際に死亡。58歳だった。

 はじめて名前を知った思想家だが、ゲーテが『詩と真実』で高く評価したり、ヘーゲルが長文の書評を書いたり、現代神学から注目されたりしているそうである。

つづく

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2012年08月28日

哲学の歴史 06 知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって』 松永澄夫編 (中央公論新社)

知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第6巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀の哲学をあつかうが、前半は英国経験論、後半はフランス啓蒙主義である。フランス啓蒙主義は英国の先進性に学ぶという姿勢があったから、この順序には必然性がある。

 もっとも冒頭でとりあげられるのはヴィーコだ。ヴィーコはコモン・センスの復興という点で英国道徳哲学に通ずるが、18世紀の思想史の中ではおさまりが悪く、時代を超えているところがある。

「総論 人間の科学に向かって」

 3巻以降の総論は面白くなかったが、この巻の総論は力がはいっている。自然哲学が自然科学に変貌した17世紀を受けて、18世紀には「近代人」が誕生し「自然」概念が更新されたとする。

 人間の経験自体が自然科学の対象となり、宗教、道徳、政治、感情生活、経済、教育、自由意志等々が探求され、権威や慣行までもが批判的に検討された。

 社会の主役は地主や貴族から実業家に交代し、実業家の活躍する英国が最先進国として仰ぎ見られた。

 医学や博物学の進歩により従来の物質/精神という対立から生命のない物質/生命という対立に分割線が移動し、精神は生命の一形態と考えられるようになった。物質・生命・精神が連続しつつ階梯をなすと見る世界像が広まり、それはスピリッチュアリズムを帰結する一方、コントの実証主義をも生みだした。

「Ⅰ ヴィーコ」

 ジャン・バッティスタ・ヴィーコは1668年ナポリの小さな本屋の息子に生まれた。早くから文法学校に通ったが、7歳の時に階段から落ちて頭蓋骨損傷で3年間学校にいけなかった。12歳でイエズス会の学校に移るがすぐに退学。

 ヴィーコは独学を通したといわれるが、まったくの独学ではなくインヴェスティガンテ(自然探究者)と呼ばれる知的サークルに出入りし、デカルト、ガリレオ、ガッサンディ、ベイコンらの新知識を吸収した。

 1686年ヴァトッラという僻地の領主の家庭教師になった後、1699年王立ナポリ大学の修辞学教授になる。修辞学教授の俸給は法学教授の1/6だったので、本人は法学教授を希望しつづけたが、最後までかなえられることはなかった。

 修辞学教授は開講講演をおこなうのが慣例だったが、1708年は特別だった。当時ナポリはハプスブルク家のカールの軍隊に占領されており、大学は恭順の意を示すために開講講演をカールに捧げることにしたのである。ヴィーコは特に力をいれて講演を準備し、翌年大学の費用では『学問論』として出版された。

 若い日のヴィーコはデカルトらの新思潮の影響下にあったが、『学問論』では数学の明証性を範とするデカルトの真理の基準をクリティカと呼んで批判し、クリティカに先行するトピカの復権をはかるとともに「真らしく見えるものの」を擁護した。幾何学化された自然学と自然自体を同一視するのはおかしいという指摘もあり、フッサールの『幾何学の起源』を先取りしたという評価もある。

 『ラテン語の紀元から導き出されるイタリア人の太古の知恵』、『普遍法』の後、1725年に『新しい学』を刊行する。『新しい学』は1730年に全面的に書き直した第二版が出て、没後に増補改訂版が出ている。1728年には『自伝』をカロジェラ編『学芸文選』に発表する。

 1735年王国修史官に就任し1744年に死去。享年75。

 ヴィーコは主著は『新しい学』だが、新しい学とはなんだろうか。ヴィーコは社会制度や文化は人間が作ったものであり「それの諸原理は私たち人間の知性の諸様態のうちに見出すことができる」として、人文科学が学問として成立することを宣言した後、文化の初源にさかのぼり、最初の人間たちは野暮で知性を欠いていたが、全身感覚と想像力の塊であり、天性の「詩的知恵」で神々の像や英雄の像を創造したと考えた。「異教世界の最初の諸国民は自然本性上の必然からして詩人であり、詩的記号によって語っていた」というわけである。

 ヴィーコは「人類の共通感覚」を真理の唯一の規準とする「新しい批判術」と古語や古物に痕跡をとどめる「言語すべてに共通の知性のうちなる語彙集」の発掘を提唱した。「感覚的トピカ」こそが人類最初の知性の形態だというわけである。

「Ⅱ ロック」

 ジョン・ロックは1632年サマセット州リントンのピューリタンの家に生まれた。ジェントリーの家柄で父ジョンは法律を学び治安判事ポパムの書記になった。1642年に内乱がはじまるとポパムは議会派軍の大佐になり、父もしたがった。議会派の勝利の後、国会議員になったポパムの推薦でロックはウェストミンスタースクールに入学し、オックスフォードのクライスト・チャーチ学寮に進み医学を学んだ。

 ロックは旧来の学問にあきたらずロイヤル・ソサエティの前身である実験哲学クラブに出入りし、ロバート・ボイルから実験科学と微粒子説を学んだ。ピューリタンの信仰には距離をおくようになったらしい。

 1667年アシュリー卿に気に入られて侍医兼政治顧問となり、以後、政治的浮沈をともにするようになる。1672年アシュリー卿はシャフツベリー伯になり大法官に就任するも、翌年解任。シャフツベリーはホイッグ党の前身を結成して国王派に対抗するが、ロックにも火の粉が降りかかりフランスとオランダに亡命する破目に。フランスではナントの勅令廃止でユグノーが虐殺され、追放されるのを目撃する。オランダでは後のピーターバラ伯爵の推薦でオラニエ公ウィレムの助言役になっている。

 亡命中の1686年『人間知性論』を書きあげる。『人間知性論』の抜粋が仏訳され、ロックは哲学者として知られるようになる。1689年名誉革命がなると、ロックはロンドンにもどり『統治二論』と『人間知性論』を刊行する。大使の職を勧められるが、訴願局長という閑職について執筆に専念するようになる。1704年マシャム夫人にみとられて亡くなり、遺体はハイレイヴァー教会に埋葬された。享年72。

 『人間知性論』はタブララサ説が有名だが、本章の要約を読む限り『純粋理性批判』とよく似ている。カントはヒュームの影響を明言しているが、『人間知性論』にも相当影響されたのではないか。

 ロックは唯名論を継承し「唯名的本質」nominal Essenceと「実在的本質」real Essenceを区別する。人間の心は実在的本質を知ることはできず、唯名的本質で一つの種類に分類するだけだとされる。実在的本質とは唯名的本質を支える物質的構造ということだが、カントの記号論との関係はどうなっているのだろう。

 ロックの政治論は自由主義と寛容論が柱だが、ロックにおける寛容とは日本人の考えるような寛大さではなく異質な立場を我慢することだという指摘はコロンブスの卵だった。確かにtolerateの語源のtoleroは「我慢する」「忍耐する」という意味だ。カトリック教徒と無神論者は寛容から除外されていたというのには驚かされた。政教分離という思想もまだ生まれておらず、統治者の刑罰権は宗教から分離されるべきとする刑教分離にとどまっていたというのもむべなるかな。

 自由主義については個人財産の保護である「プロパティの原理」がすべての基礎になっており、笑ってしまうくらい論理的に一貫している。

 ロックは前半生を政治闘争についやしただけに悪政に対抗する権利の確立に力を入れている。個人の発動する抵抗権、国民の発動する革命権にくわえて、緊急避難的な「天への訴え」の原理を提唱している点が興味深い。「天への訴え」an Appeal to Heavenとは戦争状態や無政府状態で裁判官が不在だったり、公平な裁きを行なわない場合の最後の手段で、良心的判断にもとづき実力を行使して権利回復してよいとする権利だ。神を恐れない現代には成立しない考え方である。

「Ⅲ バークリ」

 ジョージ・バークリは1685年アイルランドのキルケニーに生まれた。大バッハやヘンデルと同い年でバロック時代のまっただなかに生をうけたことになる。スウィフトも学んだキルケニー・カレッジで学んだ後、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学する(当時は14、5歳で大学に入学した)。

 1707年、トリニティのフェローになり義務として聖職についた。この頃に書いた『哲学的評注』という思索ノートが残っており、バークリの哲学が形成されていく過程が手にとるようにわかるという。1709年に『視覚新論』、翌年『人知原理論』を刊行する。わずか24、5歳で哲学史に残る本を書いたわけである。

 1712年にはアイルランドを出てロンドンとオックスフォード、さらにはイタリア、フランスにまで足を伸ばす。

 1720年にロンドンにもどり、バミューダ島に大学をつくって学問と不興の拠点にしようという「バミューダ企画」にとりかかる。1728年に結婚すると、英国政府の下賜金がおりないうちにアメリカにわたる。「バミューダ企画」自体は資金のめどがつかずに挫折するが、2年間の滞在中にアメリカの知識人と交流し多大な影響をあたえた。今日アメリカにバークリーの名を冠した地名や学校が多いのはこのためだという。

 1734年アイルランドにもどり、クロインの監督Bishopに就任する。1752年にはオックスフォードに移り、翌年死去。67歳だった。

 バークリはロック、ヒュームとともに英国経験論の三羽烏としてあつかわれてきたが、最近はロックの影響よりもマルブランシュの影響の方が重要だという見方に変わってきているという。ヒュームがバークリを読んでいたかどうかは怪しいらしい。

 バークリというと唯物論者が戯画的に槍玉にあげる、物質の存在を否定した絵に描いたような観念論で有名だが、難物だけに本章の解説も一回読んでわかるというわけにはいかない。記述は錯綜しているが、最後まで読むと抽象観念批判と「黙従モデル」と呼ばれる身体論が二本柱になっているとわかってくる。

 『視覚新論』は読んだことがあるが、触覚で知覚された世界が最初にあって、視覚でとらえられた観念は触覚でとらえられた観念の記号にすぎないという考え方に虚を突かれたものだった。本章ではバークリの哲学の核心は『視覚新論』にあるとし、触覚を精密化したのが受動性をはらみつつも身体の活動によって観念が産出されていくとする「黙従モデル」なのだという。

 物質が存在しないという悪名高い主張については抽象観念批判の一環という解釈のようだ。カントの物自体のような知覚されない抽象観念としての物質を否定しただけで、実在そのものを否定したわけではない。バークリは知覚された実在が観念と呼ぶが、「私たちは観念を食べ、観念を飲み、そして観念を着ている」「私たちは自然の中のいかなるものも奪われることはない」というわけだ。『人知原理論』は読まなくては。

「Ⅳ ヒューム」

 デビット・ヒュームは1711年エディンバラにジョゼフの次男として生まれた。父ジョゼフはイングランド国境のナインウェルズの小ジェントリーで、冬季はエジンバラで弁護士をしていた(地主が冬にエジンバラに集まるのは当時の習慣)。

 エジンバラ大学で学ぶが、当時の習慣で学位をとらずに学業を終え、自宅で法律の勉強をつづける。次男で家を出なければならなかったヒュームは1734年ブリストルで貿易商に雇われるがすぐに辞め、フランスに留学する。ランスに滞在するが、生活費の安いラ・フレーシュに移り、デカルトの学んだ学院の図書館に通いながら『人性論』執筆する。

 1739年から翌年にかけて『人性論』を刊行するがまったく売れなかった。エッセイなら売れるかと思い、『道徳政治論集』を出版。そこそこ売れて自信をとりもどす。

 1744年エジンバラ大学の教授に招聘されるが『人性論』に無神論の嫌疑がかかりかなわず。この後も大学から何度か話があるが『人性論』のために教職にはつけなかった。

 1748年セント・クレア将軍の軍事使節に随行しウィーンとトリノに。同年出版された『法の精神』に感銘を受け、モンテスキューに書簡を送る。モンテスキューはヒュームを認めた最初の思想家となる。

 ナインウェルズにもどって著述に専念するが、兄が結婚したのでエディンバラに移りアダム・スミスと知りあう。1752年エディンバラ法曹協会図書館長に就任。3万冊の蔵書が自由に使えるようになり『イングランド史』の執筆にかかる。『イングランド史』は1754年から62年にかけて刊行し、生前最も評価された著作となる。1753年からは著作集刊行するが『人性論』は除く。名前があがるとともに批判も多くなる。

 1763年駐仏大使となったハートフォード卿に随行しフランスへ。サロンで「ル・ボン・ダヴィッド」と呼ばれ人気者に。ブルレール伯爵夫人、ダランベール、ディドロ、ドルバック、ルソーらと親しくなる。1766年の帰国にあたっては周囲の制止にかかわらずルソーをともなうが、すぐに関係が悪化。喧嘩別れする。

 1770年エディンバラに引退。1776年『自伝』を完成させた後、療養のためにロンドンとバースに。スコットランドにもどって死去。

 1750年に書きあげていたが発表できずにいた『自然宗教に関する対話』を1779年に甥が出版する。

 『人性論』の解説は観念の定義から因果関係の発生まで手際よくまとめてあり、『人性論』を読んでいなくても十分論理がたどれるだろう。

(つづく)

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2012年07月23日

哲学の歴史 05 デカルト革命』 小林道夫編 (中央公論新社)

デカルト革命 神・人間・自然 →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第五巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は副題が「デカルト革命」となっており、17世紀に起きた知の大変動をあつかう。従来の哲学史でいうと大陸合理論にあたるが、最後の章でニュートンをとりあげていることからもわかるように科学革命をも視野におさめている。

「総論 神・人間・自然」

 17世紀はルネサンスにつづく時代だが、こと哲学の世界ではルネサンスの新思潮は影が薄く、依然としてアリストテレス主義=スコラ哲学の支配がつづいていた。

 アリストテレス主義=スコラ哲学に対するさまざまな批判がはじまっていたが、本書ではデカルトの『省察』に付された「論駁と答弁」が当時の思想状況そのものを反映すると評価し、前半では「論駁」をおこなった六人の哲学者からホッブズ、ガッサンディ、アルノーの三人を選んで論述を進め、デカルト革命の意義を明らかにする。

 デカルト革命とはアリストテレスの学問体系を根柢から解体し、機械論的自然学を確立することにほかならない。その成果が『哲学原理』であって、ニュートンは『哲学原理』第二部をベースに天体力学を構築することになるが、一度このような体系が立てられると、対抗してさまざまな体系が提案されるようになる。スピノザ、ライプニッツ、マルブランシュ、フォントネルらで、いわゆる大陸合理論の系譜である。

「Ⅰ ホッブズ」

 ホッブズはスペイン無敵艦隊襲来が噂された1588年に英国南部のマームズベリ近郊で牧師の息子として生まれた。早くから古典語で才能をあらわし、オックスフォード大学のモードリン・ホールに学び、1608年に学寮長の推薦でキャヴェンディッシュ家の家庭教師になる。

 家庭教師は貧しい若者が聖職者にならずに学問をつづけるための職業で、教え子が成人した後も秘書兼顧問として仕えることが多かった。当時の貴族は手紙や文書を代筆したり、通訳や翻訳のできる人材を必要としていたのである。

 大貴族の家庭教師になってしまうと一家を構えることができなくなるが、主家の蔵書と人脈が利用できた。ホッブスはガリレオを訪問し、デカルトと会食する機会をもったが、これはキャヴェンディッシュ家の人脈のおかげだった。

 ホッブズの教え子のウィリアム・キャベンディッシュは38歳で急逝するが、その息子のデヴォンシャー伯爵の家庭教師になり、またウィリアムの従兄弟のニューカスル伯とその弟のためにも働くようになる。ニューカスル伯は王党派の指導者だったので、清教徒革命がおこるとホッブズもパリに亡命し、亡命宮廷でチャールズ二世の教育をまかされることになる。

 ホッブズは主家の意を受けて王党派の論客となるが、『法の原理』と『市民論』は歓迎されたものの『リヴァイアサン』では裏切り者と排撃される。ホッブズの主家は議会と妥協して帰国する道を選んだが、『リヴァイアサン』は議会との妥協を正当化するために書かれたと見なされた。

 王政復古で即位したチャールズ二世はホッブズを庇ってくれたが、『リヴァイアサン』の悪評は尾を引き、ロンドンの大火まで『リヴァイアサン』のせいにされてしまう。

 とはいえ晩年のホッブズはデヴォンシャー伯爵家に引きとられて穏やかに暮らし、好きな古典の翻訳を手がける毎日で、1679年に91歳という非常な長命で生涯を閉じた。

 ホッブズと言えば『リヴァイアサン』であるが、その前提となる体系は『哲学原論』三部作で展開されていた。『物体論』、『人間論』、『市民論』という構成からわかるように、唯物論的な自然学を基礎に人間を説明し、その身もふたもない人間観を基礎に国家の必然性を説明した。高度な知的能力も物理的・生理的な過程に還元されるという立場を貫徹し、国家をも「物体」と見なして、そのメカニズムを腑分けした。

 『物体論』の「あらゆる推論は加算と減算という精神が行なう二つの操作へと還元される」という主張から人工知能研究の祖父と見なされているそうである。

 『リヴァイアサン』ではこのラジカリズムをキリスト教に適用し、聖書批判にまで踏みこんでいるという。

 こんな面白い人だとは思わなかった。『リヴァイアサン』はぜひ読もう。

「Ⅱ メルセンヌ」

 メルセンヌはホッブズと同じ1588年にフランス北西部のオワゼに農民の子として生まれた。ル・マンのコレージュで古典語を学び、1604年に近くにラ・フレーシュ学院が設立されると特待生となった。ソルボンヌで神学を修め、1611年、ミニム会で修道士となった。1619年からはパリのロワイヤル広場のミニム会修道院に定住し、公式にはマレ地区修道院の司書として活動した。同修道院の蔵書は1644年に8000冊、革命で閉鎖された時には2万冊を超えていたという。

 ミニム会の名はフランチェスコの教えを徹底して「最も小さな者」と称したことにより、最も厳格な規律で知られていたが、総会長から料理番にいたるまですべて選挙で選ぶという面もあった。

 16世紀には新教徒の改宗をうながす説経師として活躍し、17世紀になるとオラトワール会とともにフランスカトリック再生に尽力した。ヘルメス主義やピュロン主義などルネサンスの異教哲学と対決したが、スコラ哲学にもどれないことにも気がついていて、新しい自然学の動向を積極的に受けいれ、多くの研究者を出していた。

 メルセンヌがデカルトに協力して機械論的自然学の確立に邁進したのも、こうしたミニム会の方針にそったものだった。機械論的自然学によって異教的自然哲学や懐疑論が論駁できると目論んでいたわけだ。

 保守的な修道院にいて、メルセンヌはなぜあんな勝手なことができたのだろうと不思議に思っていたが、ミニム会の特質から説明されると理解できる。

「Ⅲ ガッサンディ」

 ガッサンディは1592年、プロバンスのディーニュ近郊の村で農民の子として生まれた。ディーニュのコレージュで人文学を学び、1604年に剃髪式を受け聖職者になる。エクス大学で哲学と神学を修め、1614年にはアヴィニョン大学で神学博士の学位をとり、1616年にはエクス大学の哲学教授になるが、1622年、エクス大学の教授職がイエズス会に委ねられたために辞職。1624年以降は同郷の有力者ペイレスクの庇護のもとにパリとエクスを行き来しながら研究をつづける。

 ペイクレスは青年時代にイタリア、英国、オランダを旅し、各地の学者と交流し、自然誌的観察と実験を重んじた。占星術や魔術を否定、自宅図書室と陳列室を学者に開放して科学の普及につとめた。

 ガッサンディは1626年からエピクロス研究にとりかかるが、1628年にオランダを訪れベークマンと知りあい原子論の可能性を知らされ、エピクロス復興に本腰をいれる。

 エピクロス復興は20年がかりの大仕事になるが、その途中、メルセンヌからの依頼でデカルトの『省察』に論駁を書き論争になる。ガッサンディのデカルト批判はその後にあらわれる批判を先取りするラジカルなものだったが、ガッサンディ自身にも正統信仰とエピクロス流の唯物論の矛盾をつきつけることになる。ガッサンディは信仰との整合をはかるために唯物論の一貫性を放棄しなければならなくなる。

 1645年にはパリ王立学院数学教授に推挙され、一年間天文学を講じる。1655年、63歳で死去。

 ガッサンディはリベルタンの系譜の人かと思いこんでいたが、まったくの誤解だった。信仰のために唯物論から後退し、魂の非物質性を論証していたとは意外だったが、知識は漸進的に進歩するという経験的な懐疑主義は維持したということである。

「Ⅴ アルノー」

 アントワーヌ・アルノーは1612年オーヴェルニュ出身の法服貴族の家系に生まれる。同名の父はパリ高等法院の弁護士だったが、なんと20人の子供に恵まれた。アントワーヌはその末子である。

 父は1594年のパリ大学とイエズス会の紛争で大学側の代表として勇名を馳せ、イエズス会の追放に一役買ったが、そのためにアルノー一族はイエズス会に狙われることになる。

 アントワーヌ・アルノーは法律家を目指すが、サン=シランの影響で聖職者の道に進み、1641年ソルボンヌの神学博士になる。母カトリーヌは夫と死別後、ポール・ロワイヤル修道院にはいり、姉たちもプロテスタントのイザク・ルメートルと結婚した長姉カトリーヌ以外はすべてポール・ロワイヤルの修道女になる。中でも高名なのはアンジェリク教母と呼ばれたジャクリーヌで、弛緩していた規律を立てなおし、1602年にポール・ロワイヤル修道院の院長に就任する。ポール・ロワイヤル修道院がジャンセニスムの拠点となり、弾圧を受けたのはよく知られている。

 アルノーはポール・ロワイヤルの理論的指導者になり、八面六臂の活躍をくりひろげるが、1655年パリ大学から追放され、1679年にはルイ14世の弾圧のためブリュッセルに亡命を余儀なくされる。

 アルノーは『省察』の論駁を依頼されると、デカルト哲学はキリスト教の新たな支柱になると確信し、アウグスティヌスとの一致を強調した第四論駁を書く。デカルトはアルノーの論駁を最も評価し、懇切な答弁を返した。

 アルノーは四折版で42巻の全集ができるほどの厖大な著作を残したが、その多くは他人の本の批判や論争文だったので、独自の思想が見えにくく、今日では『ポール・ロワイヤル論理学』を除くとデカルトとパスカルの関係で言及されるにとどまっている。

「Ⅵ デカルト主義の発展」

 デカルトの体系はアリストテレス=スコラ哲学に全面的にとってかわるものだった上に、神の自己原因論や永遠創造説など神学にもおよんでいたために、カトリック、プロテスタント双方で問題視され、生前からユトレヒト事件やレイデン事件のような迫害を受けていた。

 その一方、メルセンヌやアルノーのようにデカルトをアウグスティヌス化し、護教論としてとりこもうという動きも盛んだったし、デカルトの体系の難点を過剰解釈で解決しようという意識的・無意識的を問わず横行していた。

 本章はそうしたデカルトの体系をめぐる右往左往をとりあげている。

 まず、遺稿の管理をまかされたクロード・クレルスリエである。クレルスリエは熱烈なデカルト主義者で、熱心さのあまりデカルト自身が目を通した『省察』のリュイヌ公の仏訳を修正したり、デカルトが望まなかった「第五論駁と答弁」を仏訳『省察』に掲載したりした。1905年にはホイヘンス宛自筆書簡が発見され、クレルスリエの編纂した書簡集は改変されていたのではないかという疑惑がもちあがる。

 またクレルスリエは心身相関の疑問を解決するために松果腺は脳内精気の速度を変えることはできないが、方向は変えられるという「方向転換テーゼ」をすべりこませた疑惑もある。デカルト自身は速さの変化と方向変化を区別していなかったし、『情念論』などでは精神の介入で運動量保存則が破られるとしていたから、この解釈は明らかにこじつけである。

 デカルトのアウグスティヌス化は没後に本格的になるが、内面回帰による自己確認は確かに軌を一にするものの、「人間精神の無力化」までいってしまうと箇条解釈であろう。デカルトはストア主義を堅持していたからである。

 没後出版の『人間論』の図解と注釈に協力した医師のラ・フォルジュは1665年に刊行した『人間精神論』で機会原因論をデカルトに読みこみ、精神と身体の能動・受動を「相互依存関係」「連動関係」に希薄化しているという。

 1664年にデカルト『世界論』の付録として「物体作用論」を発表したコルモドアは『物体と魂の識別』で人間精神が身体を動かせない根拠として不随意運動をあげ、心身関係についての機会原因論を展開しているそうである。

 精神と物体を峻別した以上、精神が物体を動かすというのは無理があり、背後にいる神が精神と物体を同時に動かすという論理構成にしないとおさまりがつかないのだろう。マルブランシュ以前から機会原因論がデカルトの体系の内在的批判として提唱されていたのは注目していい。

「Ⅶ パスカル」

 ブレーズ・パスカルは1623年クレルモンの法服貴族の家に生まれた。姉に弟の伝記を書いたジルベルト、妹にポール=ロワイヤル修道院に入ったジャクリーヌがいた。父エティエンヌは租税法院副院長だったが、母の早逝後、子供たちの教育のために官職を売却してパリに移る。

 パスカル家の財産はパリ市債に投資されていたが、支払いが停止されたために父は抗議活動に参加、お尋ね者になってしまう。ジルベルトはリシュリューのための子供芝居で赦免を願った詩を朗読、父は許されノルマンディーの徴税副総監に抜擢されて一家はルーアンに移る。

 パスカルは早くから数学の才を発揮し、17歳で「円錐曲線論」を発表、射影幾何学におけるパスカルの定理を確立する。父の徴税業務を手伝い、歯車式計算機を考案したのもこの頃だ。

 20代になるとサン=シランの弟子たちの感化を受けジャンセニスムに接近するが、健康を害してパリにもどり社交生活と科学の実験にあけくれる。特筆すべきは一時帰国していたデカルトと会ったことだ。科学者としての名声は国際的になっていたのである。

 1653年ヤンセンの五命題が異端とされ、アルノーがソルボンヌから追放されるとパスカルは『プロヴァンシャル書簡』と呼ばれることになるパンフレットを書いてジャンセニスム擁護の論陣をはる。難解な神学論議を軽妙かつ明快に解説したフランス古典主義時代屈指の名文である。

 この頃から『キリスト教護教論』の執筆にとりかかり、そのためのメモが没後『パンセ』として出版されたのはご存知の通りである。

 体を壊し、『護教論』の執筆は何度も中断を余儀なくされている。1662年救貧活動のためにパリで初の乗合馬車会社の設立に参加するが、8月に姉の家で亡くなる。39歳だった。

 『パンセ』が『護教論』の下書だったことは確かだが、だからといって『護教論』にすべて回収されてしまうわけではない。『護教論』からはみだした部分もあるのだ。この章の筆者は以下のように述べている。

 『パンセ』を護教論の土俵に閉じ込めることはけっしてできない。それは、『護教論』の構想を中心にして、その手前側には人間と理性の領域、その向こう側には神と信仰の領域が三層構造をなして果てしなく広がる、未完の書物である。そしてそれぞれの断章(パンセ)は散乱しながら、目には見えない全体を己の内に映し出している。『パンセ』は比較的小ぶりな体裁の中に、幾重もの無限を包み込んだ、一つの小宇宙なのである。

 ライプニッツのモナド論を下敷きにした書き方だが、ある面を言い当てていると思う。

「Ⅷ スピノザ」

 ベネディクトゥス・スピノザは1632年アムステルダムのユダヤ人居住区で生まれた。父ミゲルはイベリア半島から逃れてきた「マラーノ」で、家ではポルトガル語を使っていた。地中海の果物の輸入に従事し、ユダヤ人共同体ではパルナシム(行政監事)を歴任した有力者だった。

 マラーノはイベリア半島で世俗的な生活を送っていたので信仰心が弛んでいた。異郷で暮らしていくためにアシュケナージ系ラビから律法を学んで結束を高めたが、一方厳格な戒律に違和感をいだく者もいた。

 スピノザはタルムード・トーラー学院に入学し伝統的な宗教教育を受けた。学院には後にスピノザに破門を言いわたすことになるサウル・レヴィ・モルテラのようなアシュケナージ系の厳格なラビがいる一方と、クリスティーナ女王やグロティウスと文通していたメナッセ・ベン・イスラエルのような開明的な知識人も教えていた。

 1652年第一次蘭英戦争で船が沈められ、スピノザ家は大損害をこうむった。2年後、父が亡くなり、多額の借金が残った。スピノザは弟とともに貿易業をつづけたが、取引を通じてコレギアント派というリベラルなキリスト教徒と親しくなった。コレギアント派とは主流となった厳格なゴマルス派以外の諸派のことで、デカルト主義者が多かった。

 スピノザは自由思想家のファン・デン・エンデンのラテン語塾に通ってデカルトを学び、ユダヤ教に対する疑問を公然と口にするようになった。

 1656年当人不在のまま破門宣告文がシナゴーグで読み上げられた。破門の背景にはオランダにおける反デカルト主義の高まりがあったようだ。破門を機にスピノザはバルーフというポルトガル名ではなく同義でラテン語のベネディクトゥスを名乗るようになった。

 ユダヤ人共同体にいられなくなったスピノザはコレギアント派の友人の支援を受けて各地を転々とした後、1661年頃にはレイデン近郊でコレギアント派の本拠地であるレインスブルフに居を定めたらしい。レンズ磨きと光学研究をはじめたのもこの頃だ。レイデン大学でデカルト派の講義を聴講し、学生もスピノザのもとを訪れた。神学生ヨハネス・カセアリウスが下宿するようになり、デカルトの『哲学原理』第二部を幾何学的に再構成してカセアリウスに筆記させた。後に友人たちのもとめで第一部も幾何学的に再構成し、『デカルトの哲学原理』として刊行したが、マイエルの序文でスピノザはデカルト一辺倒でないことが明記された。

 ロイヤル・ソサエティのオルデンバーグが来訪し文通がはじまった。オルデンバーグがボイルの論文を送ったことからボイルと論争になる。

 スピノザは『エチカ』を準備していたが、デカルト派と神学者の対立が激化すると執筆を中断して『神学・政治論』にとりかかった。スピノザは哲学と神学は両立しないという偏見が対立の原因と考えたが、1670年に匿名出版するとデカルト派からキリスト教の根本に対する「猛毒」を含んだ無神論の書と非難された。今読むとまったく当たり前のことしか書かれていないが、現在の当たり前が17世紀には「猛毒」だったわけである。

 1673年、『デカルトの哲学原理』を読んだプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒ(エリザベートの兄)の肝煎りでハイデルベルク大学から招聘されたが、スピノザは断った。オランダに侵攻していたフランス軍司令官コンデ公から招待されたこともあったが、コンデ公が帰国したために会見はかなわなかった。

 1675年『エチカ』出版にアムステルダムに行くが、無理と悟った。翌年、帰国途中のライプニッツ訪問し、『エチカ』の一部を読んだ。

 1677年2月21日、肺結核で死去、34歳だった。同年、ラテン語遺稿集とオランダ語訳が後援者たちによって刊行されるが、すぐに「不敬で無神論的で冒瀆的な書物」として禁書になる。

 さて『エチカ』だが、本章の著者は幾何学的順序にこだわらず、基本用語の意味を種明かししている箇所から読めと勧めている。具体的には第二部冒頭から「自然学的付論」にいたるまでの箇所、特に定理7備考(平行論テーゼ)である。

 延長実体を電光掲示板になぞらえた解説はわかりやすい。

 われわれに立ち現れるさまざまな物体やそれらの振る舞いは、運動と静止という二タイプの様態が描き出す図柄にすぎない(すなわち、基体としての物体が存在するわけでも移動するわけでもない)。それは、電光掲示板に立ち現れる物体やその振る舞いが、光と闇という二つの状態が描き出す図柄にすぎないのと類比的である。

 倫理説については個体に内在する自己保存の努力(コナトゥス)を中心に整理していてわかりやすいが、永遠性の気づきをハムレットが作者に気づくという比喩で説明しようという条はわりきりすぎではないだろうか。

「Ⅸ マルブランシュ」

 マルブランシュはルイ14世と同じ1638年に生まれたが、亡くなった年も同じ1715年である。父はリシュリューのもとで徴税財務官をつとめたやり手だったが、マルブランシュは生まれつき脊椎に異状があり病弱だった。学校に通いはじめたのは16歳になってからだった。

 ソルボンヌで神学を修めてから1660年にアウグスティヌスを奉じるオラトワール会にはいり、修道院の中で研究一筋の生活を送った。唯一事件といえるのは1664年に露店で手にしたデカルトの『人間論』に衝撃を受け、数学とデカルト哲学に専心するようになったことくらいか。1699年『運動伝達の諸法則論』で王立科学アカデミー会員に推挙され、1713年にパリ滞在中のバークリーと会見したことも事件といえるかもしれない。

 マルブランシュの思想はロビネにしたがって五段階にわけて考えるのが一般的だそうだが、思想は段々に深まっていき、深まりにともなって過去の著作を何度も改訂している。デカルトの全集が6巻なのに対し、マルブランシュの全集は20巻を数える。

 マルブランシュはデカルトの「精神から感覚を引き離す」というテーゼから出発したが、それを神中心に組み換えていく。マルブランシュの考える観念は個々の人間精神に内在する観念ではなく神の内なる観念であり、真の認識は「注意」を機会に神の内なる観念が魂を触発して生じる。「神においてすべての事物を見る」わけだから人間の認識はそれ自体で普遍性を有するとされる。

 ここで叡智的延長étendue intellgibleという異様な概念が登場する。

 神は永遠かつ普遍的な存在だから、神の内なる観念は事物の創造に先立って存在していなければならない。事物の原型としての観念があるはずであり、それが叡智的延長である。あくまで原型なので実際の拡がりはもたないが、神は観念間の関係を数学的な「大きさの関係」という真理として認識しており、叡智的延長は物体認識の普遍的・関数的な条件となっている。

 しかも叡智的延長は無限にありうる可能世界の原型であり、神は栄光を顕現させるために一つの可能世界を自由な選択で創造するとされる。人間が認識する個別の感覚化された観念は叡智的延長の一部でしかない。

 読んでいてどきどきしてきた。これ、ロイドの『宇宙をプログラムする宇宙』やサイフェの『宇宙を復号する』、ビレンケンの『多世界宇宙の探検』で語られている量子情報理論そのままではないか。マルブランシュは量子情報理論を先取りしていたのだろうか。

「ⅩⅠ ベール」

 ピエール・ベールは1647年ピレネー山麓の寒村ル・カルラに改革派(カルヴァン派)の貧しい牧師の子として生まれた。学校に行く余裕はなく、父から古典語の手ほどきを受けたが、1668年になってピュイローランスの改革派大学に入学するも満足できず、トゥールーズのイエズス会の学院に移る。イエズス会の学院で学ぶためにカトリックに改宗したが、1670年にはプロテスタントにもどり忌み嫌われた「再転落者」になってしまう。ベールはフランスにいられなくなってジュネーヴに亡命し、家庭教師をしながらジュネーヴ大学で神学とデカルト哲学を学ぶ。

 1675年にセダンの改革派大学の哲学教授になるが、同僚に後に仇敵となるジュリュー(1637-1713)がいた。ルイ14世の親政とともにはじまったプロテスタントに対する圧迫は過激化し、ドラゴナードと呼ばれる強制改宗運動が猛威をふるい、最終的に数十万人が亡命することになる。セダンの改革派大学は1681年に閉鎖させられ、ベールはロッテルダム高等学院の哲学・歴史教授職に招聘された。この頃、1680年にあらわれた彗星をめぐる迷信を批判した『彗星雑考』を刊行している。

 1685年にマンブールの『カルヴァン派史』に対する反論を匿名で発表するが、ばれてしまい、故郷で牧師となっていた兄ジャコブに累がおよぶ。ベールは「自然の光」にもとづく批判精神を堅持し、絶対の寛容を説いた。信仰においては強制はいっさい排除されるべきで、プロテスタントも例外ではない。ベールはカトリックに対しては暴力を用いてよいとするプロテスタント正統派を「半寛容派」として糾弾した。1693年ベールはプロテスタント内の路線闘争に敗れ職を失う。1706年ロッテルダムで死去。

 ベールの主著は1696年に初版の出た『歴史批評事典』である。体裁は人名事典だが、生涯と事績の後に長大なベールの注解がつく。ベールはこの事典を「文芸共和国」と呼び、「この共和国はきわめて自由な国家である。そこでは真理と道理の支配しか認められず、両者の庇護のもとに誰と戦争をしても罪にはならない」とした。

 18世紀啓蒙主義は『歴史批評事典』から宗教と形而上学の破壊だけを読みとったが、ベール本人は「理性は証明し建設するより、反駁し破壊することに長けている」と理性の限界を説き、「理性を用いるにあたって、神の援助を必要としないものはいない」という信仰主義を基本とした。

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2012年06月23日

哲学の歴史 04 ルネサンス』 伊藤博明編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第四巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は15世紀から16世紀に勃興したさまざまな思潮をあつかう。副題は「ルネサンス」となっているが、人物で言えばペトラルカからフランシス・ベイコンまでで、間にルターの宗教改革をはさむ。ペトラルカやマキャヴェッリのような従来の哲学史ではあまりとりあげられない名前やはじめて見る名前が多く、なかなか刺激的である。

「Ⅰ ペトラルカ」

 一応聖職者でありながら、享楽的な生活と文学趣味にあけくれたペトラルカがなぜ哲学史にとりあげられるのだろうと戸惑ったが、古典古代の作品の継承に自覚的な使命感を持ってとりくみ、アウグスティヌスの『告白』をきっかけに宗教文学に転じた後半生を見ると、ルネサンスにおける彼の立ち位置がわかってくる。雄弁の尊重すらも神への愛に由来していたのである。ペトラルカの意義を簡潔にまとめた一節を引こう。

 ペトラルカの古典文学熱は、キケロの文体に対する「美的」心酔とともに始まる。しかしペトラルカの中核的関心は倫理的で、「よく生き、幸福に生きること」にあった。そしてこの関心とのからみで、「人間性をまとい獣性を脱ぎ捨てる」人間形成が切実な問題となる。だが、この倫理的問題を追究すればするほど、人間の無力を自覚させられて神の恩寵を求めざるをえず、「宗教的」要求が喚起される。こうしてペトラルカにおいては、倫理的要求を核として、「美的」、「倫理的」、「宗教的」要求が深く結ばれ合っていた。これが典型的表現を得ている作品は、散文では対話篇『わが秘密』、韻文では『俗語断片詩集』であろう。

「Ⅱ 市民的人文主義者」

 人文主義者は聖職者であったり、学者であったりする例が多いが、政治家や官僚、実業家として活躍しながら人文主義の担い手となった者もいる。そうした人々は「市民的人文主義者」と呼ばれているが、本章ではブルーニ、アルベルティ、パルミエーリの三人をとりあげている。

レオナルド・ブルーニ

 ブルーニは1370年頃アレッツォの有力な家系に生まれたが、アレッツォがフィレンツェの支配下に置かれるとフィレンツェに移住する。教皇庁秘書官をへてフィレンツェの市民権を獲得し、1427年にフィレンツェ共和国書記官長に就任。終生在職し、執政の地位についたこともあった。

 共和制的自由を擁護し、『フィレンツェ史』ではフィレンツェをローマの共和制の伝統の後継者と讃えた。

レオン・バッティスタ・アルベルティ

 アルベルティは1404年にジェノヴァに亡命したフィレンツェ貴族の息子として生まれた。ペトラルカの伝統の生きるパドヴァで教育を受けて1432年に教皇庁秘書官となり、以後、32年間その職にあった。聖職者だったので「市民的人文主義者」の定義からははずれるが、公務奉仕と学問追究を両立させたという意味では「市民的」といっていい。

 イソップ、ルキアノス、アプレイウスなどの古代異教文学の影響を受けて『寓話』をものにし、再発見されたルクレティウス『事物の本性について』の唯物論的快楽主義にも引かれたが、本人は謹厳実直な人柄だったらしい。

マッテオ・パルミエーリ

 パルミエーリは1406年フィレンツェの薬種商の息子として生まれ、フィレンツェの公職を歴任する。パルミエーリはギリシア語は不得意でもっぱらラテン語訳や二次文献を通じてプラトンとピタゴラスの思想に親しんだが、輪廻思想を語った『生命都市』は異端の嫌疑をおそれ公刊を差し控えた。

 『市民生活論』では古典古代の作家の書き残した市民生活を理想と讃え、中世のお粗末な教科書と教師では普遍的教養は形成できないとしたうえで、賢慮、勇気、節制、正義の四枢要徳を説いているという。世俗を肯定する道徳観を打ちだした点がルネサンスといえるだろう。

「Ⅲ ニコラウス・クザーヌス」

 とてもわかりやすい好論文である。クザーヌスは「知ある無知」や「反対物の合致」のような禪を思わせる逆説で日本でも人気のある思想家であるが、ジョン・マンの『グーテンベルクの時代』では権謀術数で市民階級から枢機卿になりあがった、権力欲旺盛な教会政治家に描かれていて驚いたものだった。

 本章の描きだすクザーヌスはそれとは対照的である。なるほど教皇のために東奔西走してドイツ諸公を説得してまわり、その功績で枢機卿に抜擢されたのは事実だが、早くからイスラム教に関心をもち、カトリックとプロテスタントの教義的対立を相対化するようなビジョンをもっていたらしい。東西教会の合同のための教皇派使節団に選ばれるや、東方教会総主教の信頼を勝ちえてヴェネツィアに招くという成果をあがることができたのも、儀礼の違いを越えた信仰があるという宗教寛容論のゆえだろう。

 親友だったピッコローミニが教皇ピウス二世として即位し、対トルコ十字軍を提唱するや教皇を批判、コーランは不完全ながら福音を含むとする『コーランの精査』を発表する。しかし教皇の命令には従わざるをえず、兵を率いて参陣する途上、トーディで病没する。三日後にピウス二世もアンコーナで没し、十字軍は中止される。

 クザーヌスの心臓は私財を投じて故郷に設立した聖ニコラウス養老院の礼拝堂に埋葬されたが、この養老院は現在でもホスピスとして存続しているよし。

 「知ある無知」とか「神聖なる無知」と訳される docta ignorantia は「(神によって)知らされた無知」と「深く覚った無知」という二つの意味が含意されているとして本章では「覚知的無知」という訳語があてられている。「反対の合致」は対立するものの融合ではなく両者が共通の関係に立つことであり、人間の認識能力の段階に応じて説明される。すなわち、

  • 感性(sensus)においてはいかなる反対対立の合致も存在しない
  • 理性(ratio)においてはカテゴリー的に包含される反対対立の合致
  • 知性(intellectus)においては矛盾するものの反対対立の合致
  • 神においては万物が相異なしに一致する

 イエス・キリストは「神性と人性が合致する場」とされ、創造者にして被造物、有限者にして無限者、引き寄せる者にして引き寄せられる者である。

 真理は厳密性においては到達不能であり、人間のあらゆる積極的言明は憶測にとどまるが、不可知論と異なるのは人間の精神活動は推測・憶測として一定の有効性をもつと評価している点であり、神の思惟と人間の思惟は<原像-似像>関係とされる。

「Ⅳ フィチーノ」

 ルネサンス期の要となる思想家だが、幹となる説明がなく、話題があちこちに飛んで枝葉末節だけが繁茂している印象を受けた。異教の哲学者という従来のフィチーノ観を越えようとしているのは重要だが、一般向けの論集なのだから、その前に『プラトン神学』がどういう内容かしっかり説明しておくべきだろう。プラトン・アカデミーの存在を自明としているが、なかったという説もあるのだから、ちゃんと説明してほしかった。

 宇宙のヒエラルキアにおける魂の特権的な位置は本巻冒頭の「総論」とピーコをあつかった次章に祖述されているので、そちらを読んだ方が早い。「総論」とピーコの章はたまたまなのか、本章と同じ著者が書いているが、格段に平明で充実した内容である。「総論」とピーコの章を熟読した上で本章にもどった方がいい。

「Ⅴ ピーコ・デッラ・ミランドラ」

 ピーコは1463年にミランドラで領主の三男として生まれた。ボローニア大学で教会法を学ぶが、人文研究に引かれ、フィレンツェでプラトン・アカデミーと交流をもった後、パドヴァ大学でアヴェロエス的なアリストテレスを学び、パリにも遊学している。1482年にフィチーノの『プラトン神学』が刊行されるとフィチーノに書簡を書き送っている。

 ピーコは早くから才能を認められ23才の時にはロレンツォ・デ・メディチの肝煎でローマで討論会を主宰することになるが、この討論会のためにまとめたのが『九〇〇の論題』で、『人間の尊厳について』はその開会の辞にあたる。『九〇〇の論題』は教皇から異端とされ、ピーコはフランスに亡命して逮捕されたり、ロレンツォの働きかけで釈放されたりと波乱の後半生を送り、わずか31才で早逝する。

 『人間の尊厳について』の革新性を要約した条を引用しておく。

 ピーコはフィチーノのように、人間に対して、宇宙のヒエラルキアにおける<中間物>としての特権的な地位を付与するのではない。むしろこのヒエラルキア内に固定されず、自己の地位を自由に選択する存在とみなす。他方、人間の本性については、伝統的な人間=ミクロコスモス観から離脱し、万物をすべて内に内包するものとしてではなく、いっさいの規定を欠きあらかじめ定められていないものとして捉える。

 こうした人間観は占星術に対する態度にもあらわれている。フィチーノは占星術をある程度認め、星の悪影響を抑制するためには音楽と護符が効果的としたが、ピーコは星の影響は自由意志とそこなうとし、占星術は欲深い嘘つきのペテンと全否定した。近年、ルネサンスをオカルトの復活と捉える見方が有力だが、ピーコのような本当の近代の萌芽もあったのである。

「Ⅵ ポンポナッツィ」

 ポンポナッツィは1462年にマントヴァで生まれ、アリストテレス研究で知られるパドヴァ大学で哲学と医学を学んだ後、パドヴァ、フェラーラ、ボローニャなど北イタリアの大学で自然哲学を講じた。

 北イタリアの大学は法学部と医学部が中心で、神学部中心のパリ大学と異なり哲学を哲学として研究することが可能だった。中世には顧みられなかった『詩学』や『政治学』、『動物誌』が読まれるようになり、新しい正確な翻訳や古代の注釈書の出版によって新しいアリストテレス像が生まれようとしていた。その中心となったのがポンポナッツィである。

 『霊魂論』第三巻の能動知性論は霊魂の不滅性と世界の永遠性に係わるので12世紀以来議論の的となっていたが、ポンポナッツィは身体器官なしに普遍的なものを認識する知性体に対し、人間の認識には表象像をつくる身体器官の活動が不可欠とし、人間霊魂は普遍的なものを個別を通じて間接的に認識すると結論した。つまり身体器官の滅失とともに認識も滅失するのである。

 近代的な考え方をしているようにも見えるが、奇跡や魔術は超自然ではなく自然の活動の結果とし、魔術師の治療はダイモンではなく魔術師の隠れた力によると考えた。

 ポンポナッツィはアリストテレスの生物学を大学で講じた最初の一人だったが、あくまで本の学問であって、ハーヴィのような解剖や比較観察はおこなわなかった。あくまで過渡的な思想家だったようである。

「Ⅶ マキアヴェッリ」

 ニッコロ・マキャヴェッリは1469年に繁栄の頂点にあったフィレンツェに生まれる。マキャヴェッリ本家は大貴族だったが、ニッコロの生まれた分家は中流に没落していて、父ベルナルドは法学の学位をとった愛書家だった。どのような教育を受けたかは不明だが、サヴォナローラの没落後、30歳になっていたマキャヴェッリは突如フィレンツェ政府第二書記局長に選ばれ、以後、外交に内政にと八面六臂の活躍をはじめるのはご存知の通りだ。

 あのマキャヴェッリがなぜ哲学史にと思ったが、同時代の混乱を古代ローマを鏡として理解しようとするにあたり、単に教訓を得ようとしたり古代を理想化するのではなく、社会制度の問題として理論的に考察した点が評価されているようである。『ローマ政体論』については次のように論評されている。

 ローマは三つの善き政体の混合政体とみなされ、しかもそれは平民と元老院の不和対立のゆえにもたらされたものだと、この点がとくに強調されている。マキャヴェッリの視座は、古代ローマ共和国が創出した「市民的生活」を理論的に紡ぎ出すにあたり、天上にも偶然にも神にもその根拠を求めることは頑なに慎み、地上の世界における諸力の葛藤から生ずる法と諸制度ならびに住民の気質といったものの関連をよりどころに解きほぐそうとする。

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2011年12月28日

哲学の歴史 03 神との対話』中川純男編(中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第三巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻はキリスト教神学の基礎となった2世紀のアレクサンドリアの哲学からルネサンス直前の14世紀のマイスター・エックハルトまでの1400年間をあつかう。中世というくくりになるが、年代的に長大なだけでなく、ギリシア哲学を継承し西欧近代に伝えたビザンチンとイスラムの哲学、さらにはユダヤ思想までカバーしている。これだけ多彩な思想の営みを一冊に詰めこむのは無茶であるが、従来の哲学史だとまったく無視するか、ふれても普遍論争に言及する程度だったことを考えると、中世の巻を設けてくれただけでもありがたい。

 このシリーズは編集がゆるく執筆者を選んだらまかせきりという印象があるが、本巻はその傾向が特に強く出たように思う。後半ではラテン・アヴェロエス主義が台風の目となり、トマス・アクィナスやボナヴェントラ、ヘンリクスらをあつかった章ではラテン・アヴェロエス主義が仮想の論敵として大きく取りあげられているが、当のラテン・アヴェロエス主義を論じた章ではラテン・アヴェロエス主義などというものは存在しない、実態はソルボンヌ内部の派閥争いだったとしているのだ。執筆者間の連絡がなんとかならなかったのだろうか。

 他にも不満はあるが、一般向けの本がすくない分野だけに貴重な本であることは間違いない。

「Ⅰ アレクサンドリアの神学」

 ユダヤ思想家のピロン(フィロン)と初期ギリシア教父のクレメンス、オリゲネスのさんにんをとりあげている。

 ピロンは活動期がキリスト教の成立時期と重なるために注目され、35タイトルの著作がほぼすべて今日に伝えられているということである。

 ピロンは聖書の比喩的解釈の先鞭をつけ、ギリシア哲学との折衷をはかったことがキリスト教神学に大きな影響をあたえた。律法をノモイと訳し、「ノモイに従う人はコスモポリテース(世界市民)である」と自然法的に解して普遍化をはかるなどである。「創世記」については一日目に範例となるイデア界が、二日目以降に可感的世界が創造されたとというプラトンに準拠した二段階創造説を提唱しているが、面白いのは二つの資料の不一致を二段階説で辻褄をあわせていることである。「創世記」には「人間は神の像になぞらえかたどられた」と「ヤハウェ神は地の塵から人間を造った」という二つの人間創造説があり、今日では起源の異なる二つの文書をいっしょにしたためだとわかっているが、ピロンは一の日に創造されたエイコーンは形をもたないイデアだとして神人同形論を回避し、可視的世界の人間はイデアの影(神の影の影)で神から隔たっているために堕罪の可能性があるとする。もっともイデア=神の思考だと明言してしまうと神の一性に抵触するので、比喩にとどめる。神の思考という発想はアウグスティヌスにも継承されるという。

 クレメンスはキリスト教徒のための最初の学校をパンタイノスが設立したことが知られているが、主著の『雑録集』は「綴れ織り」という意味で「高齢から来る忘却への薬」としてさまざまな著作からの断片を記録している。仏陀に関するキリスト教文献最初の言及を含むということである。

 オリゲネスはエウセビオス『教会史』第6巻など伝記資料がたくさん残っている。アレクサンドリアの主教とまずくなってカイサリアに移住し学園を開いたが、没後、異端宣告を受けたために著作が散逸し、ラテン語訳の形でしか残っていない。ところが蔵書の方はカイサレイア主教バンピロスによって図書館が建てられ保存されたという。七十人訳の校訂をおこない、さまざまな翻訳を一覧できる『六欄対訳聖書』を刊行したことも功績とされている。

 『ケルソス論駁』で復活批判に反論したが、コリント書15:42を根拠に復活した肉体は復活前と異なるとする。「朽ちるものとして播かれ、朽ちないものとして甦る」というわけだ。

「Ⅱ アウグスティヌス」

 どこかで読んだ話ばかりで新味はない。

 ドナトゥス派との論争の条でキルクムケリオネスという暴力的な土地を失った下層民集団が無法を働くとあるが、映画「アレクサンドリア」に登場した「修道兵士」のようなものかなと思った。

 もう一方の論敵のペラギウス派はギリシア的教養に通じたローマの富裕層が基盤だった。アウグスティヌスはペラギウス派には容赦なかったが、ドナトゥス派にはずいぶん寛容である。ドナトゥス派にある種の共感を抱いていたのだろう。

 『三位一体論』についてはかなり立ち入った紹介がある。いつか読んでみたい。

「Ⅲ 継承される古代」

 前半では自由七科に代表されるギリシア的教養を中世世界に伝えたボエティウスとカッシオドルス、後半では神学をいきなり高みに押しあげた偽ディオニュシオス・アレオパギテスとエリウゲナを紹介しているが、後者について「古代の継承」というのはどうだろう。この章は二つにわけるべきだったのではないか。

 ボエティウスはギリシア語を理解できなくなった同胞の教育は政治家の義務と任じて、東ゴート王国の宰相という激務のかたわら、自由七科の教科書を編纂し、アリストテレスの論理学書と『エイサゴーゲー』をラテン語に訳し、注解をくわえた。

 ボエティウスというと『哲学の慰め』が名高いが、カロリング・ルネサンスで評価されるまでは埋没していたという。

 カッシオドルスはボエティウスの地位を襲い、学問的にもボエティウスの衣鉢をついだが、神学と世俗的学問(自由七科)の両立を提唱し、引退後は故郷のスキュラケウムに隠修士のための修道院と世俗的学問のための修道院ウィウァリウムの二つを建設した。後者には膨大な蔵書を納めた図書館を設けた。写本工房もあったらしく、ウィウァリウムの蔵書は後に教皇のラテラノ宮の図書室に移管され、各地の各地の修道院に貸与されたり贈与され、広く流布したという。

 偽ディオニュシオス・アレオパギテスとエリウゲナはそれぞれ独立の章をたててもおかしくない大物だが、百科事典的なコンパクトな記述で終わっている。

「Ⅳ アンセルムス」

 最初のスコラ哲学者と呼ばれている人だが、北イタリアの貴族の家に生まれ、父親に修道院入りを反対されて出奔し、フランスの修道院にはいったという激しいところもあった。

 神の存在証明で知られているが、同時代人からも批判が出ていたという。あれが証明になっているとはとても思えないが、20世紀になってからカール・バルトとハーツホーンが再評価しているそうである。どう再評価したのか、知りたいところだ。

「Ⅴ ビザンティンの哲学」

 坂口ふみの『<個>の誕生』でであった名前や学説、議論に再会して懐かしかった。ここに書かれているのはほんのさわりだけだけれども、ビザンチンの神学は深い。

「Ⅵ 一二世紀の哲学」

 12世紀ルネサンスをアベラルドゥスを中心に描いている。アベラルドゥスとは『アベラールとエロイーズ』のあのアベラールである(最近、岩波文庫から新訳が出た)。

 アベラールといえば普遍論争だが、普遍的な物の実在を否定したために語と対象が対応する理由の説明に苦しみ、ストア派のレクトンに近いstatusという概念を編みだすが、十分発展させることなく撤退してしまったという。

 アベラールの神学についてはかなり詳しい紹介がある。アンセルムスと対立的にとらえる従来の説は誤りで、著者はアベラールが軸足を置くのはアンセルムスの論理学的神学だとする。サン=ヴィクトル学派のフーゴーとの影響関係などもおもしろい。

 アベラールは頭はめっぽういいが性格的に問題のある人だった。教え子のエロイーズを妊娠させてしまったこともそうだが、恩師を片っ端からバカ呼ばわりしているようなところがあり、敵が多いのも当然である。異端審問にかけられたのだって神学的内容よりも性格がまねいた面があったようだ。

 こんなにおもしろい神学者はいない。誰か映画化しないものか。

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2011年08月29日

哲学の歴史 02 帝国と賢者』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第二巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻では紀元前4世紀から紀元後6世紀まで、アリストテレスの没後からユスティアヌス帝によるアカデメイア閉鎖までの850年間をあつかう。ヘレニズム期から古代の終焉まで、つまり古代後期というくくりになるが、一冊本の哲学史だと数頁ですましているものが多い。数頁でもさくならいい方で、まったく無視しプラトン、アリストテレスからいきなり中世末期の普遍論争へ飛ぶという書き方をしている本もすくなくない。

 従来の理解だとヘレニズム期は不毛な折衷主義の時代、ローマ哲学はギリシアの模倣で片づけられ、新プラトン派にいたってようやく評価されるものの、キリスト教教父哲学に影響をあたえたという視点からの評価にすぎない。古代後期は哲学的には不毛な時代と決めつけられて来たのだ。

 しかし暫く前からこうした捉え方が変わってきているらしい。きっかけはソクラテスとプラトンの地盤沈下である。

 ソクラテスとプラトンにいたってギリシア哲学が完成したという見方はニーチェ以来大きく揺らいでいる。ハイデガーやハイデガーに影響を受けた木田元氏の『反哲学史』のような哲学史ではプラトンのイデア説はギリシア土着の考え方とは異質であり、プラトン没後、揺りもどしが起こってソクラテス以前の自然哲学が復活したという見方が出てきている。

 古代後期においてソクラテスとプラトンは懐疑主義の伝統から理解される傾向にあり、イデア説はお伽話の一つでしかなかったらしい。イデア説が復活したのは新プラトン派のおかげであり、キリスト教教父哲学にとりいれられたのは新プラトン派的に改変されたプラトンだった。今日我々が知っているようなプラトンは古代後期においては知られていなかったといっていい。プラトンの巨大な影をとりさってみれば、850年におよぶ思惟のいとなみはまったく別の相貌を見せるだろう。

 「総論 地中海世界の叡知」はこうした価値転換を踏まえながら古代後期の哲学史を概観しており、すこぶる刺激的である。ここでは次の一節を引いておこう。

 古代哲学を総体として俯瞰するかぎり、主要な動向としては、プラトン、アリストテレスの哲学を別格の(あるいはほとんど孤立した)存在として傍系に置き去りにするようにして、初期ギリシア的な思想基盤がそのままヘレニズム以降にまで連続一体的に継承されていったものとみなすべきであろう。この時代を代表するストア学派やエピクロス学派は、個々人の生死のあり方に関わる倫理的問題に哲学の焦点を当てながらも、その一面においては、「ソクラテス以前」の宇宙論的体質をきわめて強く受け継いでいるのを見て取ることができる。彼らは共通して、宇宙世界がどのように形成され、現にどのようにあるかについての考察を第一義とし、それを踏まえることで人間の生の意味と運命を洞察しようとしている。

 注目されるようになってから日が浅いので研究はまだ進んでおらず、編者の内田氏は「豊穣な未開拓地」と呼んでいる。この未開拓地には今日的な意義がある。ポリスというまとまりがこわれ危機と混乱にあけくれたヘレニズム期はグローバリズムに揺れる現代の状況と共振するものがあり、「埋もれた叡智」の再発見が喫緊の課題だというのだ。

「Ⅰ エピクロスと初期エピクロス学派」

 古代後期をあつかう本巻がまずとりあげるのはエピクロスである。エピクロスはBC341年に生まれ、アリストテレスが亡くなったBC322年には21歳だった。エピクロス派とともに古代後期を代表するストア派を開いたキティオンのゼノンはBC335年頃に生まれたという説が有力で、エピクロスよりやや年少だったらしい。

 アリストテレスが亡くなる前年、アレクサンドロス大王が崩御しアテネではマケドニアに対する反乱が起きた。エピクロスはサモス島の生まれだったが、アテネの市民権を得ようとアテネに加担して戦う。だがアテネが敗北したためにサモス島にいられなくなり、当時蔑まれていた読み書き教師をしながら各地を転々とする。この遍歴時代に原子論と出会い、独自の立場を確立していったらしい。

 32歳の時、かつてアリストテレスが逗留しアテネに次ぐ学問の中心だったレスボス島で自分の学園を開いたが、ペリパトス学派と対立したためか小アジアのランプサコスに移り、ここで35年間すごし主著の『自然について』の大半を書いている。アテネで「エピクロスの園」と呼ばれる学園を開くのは72歳になってからである。

 エピクロスはデモクリトス以来の原子論にクリナメンという概念を導入し、自由意志を根拠づけたとされているが、クリナメンはルクレティウスの造語でエピクロスは「逸れる運動」と呼んでいたらしい。クリナメンは空間の極小単位から単位への飛躍であり、一部で言われているような斜めにずれる運動ではない。本章の著者は決定論の否定であっても、自由意志の証明ではないと注意をうながしている。

「Ⅱ ゼノンと初期ストア学派」

 エピクロス派の次はストア派である。ストア派はアテネのアゴラわきの彩画列柱廊ストア・ポイキレを本拠にしていたことからそう呼ばれている。

 開祖のキティオンのゼノンはキプロス島のフェニキア人植民都市の出身でセム系ではないかという説もあるそうだ。アテネに出てきたゼノンは本屋でクセノポンの『ソクラテスの思い出』を読んで感じるところがあり、小ソクラテス派に学んだが(ストア派の論理学はメガラ派の影響があるらしい)、ソクラテスが斥けた自然研究に傾斜し、魂の主導的部分は物体としての気息プネウマという立場を確立していった。ロゴスと一致した生き方がストア派の金科玉条であり、宇宙論の延長上に倫理説がある。

 ゼノンの学説を発展させ論理学・自然学・倫理学の三部門を整備したのは第三代学頭のクリュシッポスだが、その浩瀚な著作はほとんどが失われてしまい断片が残るにすぎない。クリュシッポスが完成したストア派の論理学はアリストテレスの主語=述語論理学とは発想を異にする命題論理学であり、現代の数学者によって再評価されているが、同時にレクトンという意味を中心とした言語論でもあり、この面はジル・ドゥルーズが『意味の論理学』でスリリングな読み直しをおこなっている。

 ストア派というと克己主義の道徳を連想する人が多いが、現代思想に直結する思索をおこなっていたのである。

「Ⅲ 古代懐疑主義」

 アリストテレスが去った後もアテネでは諸学派が学説を競いあい、学問の都として地中海世界に君臨しつづけた。諸学派の交流は盛んで、論争をつづけるうちにしだいに旗幟が鮮明になっていった。

 新興のストア派とエピクロス派はそれぞれ強烈なドグマを主張していたが、実証主義のペリパトス派はドグマが弱かったためにアテネでは影が薄くなってしまった。

 アカデメイア派はドグマを持たないという立場を打ちだし存在感を示した。その代表者は第六代学頭となったアルケシラオスである。アルケシラオスはペリパトス学派やストア派に学んだ後、最終的にアカデメイア派を選ぶ。彼は無知の自覚に立ち論駁に徹する初期対話編のソクラテスを理想とし、判断保留エポケーを提唱する。

 アルケシラオスの判断保留の立場の背景にはもう一つ、エリスのピュロンの無動揺主義があった。ピュロンはアレクサンドロス大王の東征に従軍し、インドで火に焼かれても動じない行者を見て強い印象を受けた。動揺しないためにはあらゆる判断をさしひかえる必要があるというわけだ。

 アルケシラオスの判断保留はあらゆる議論を袋小路に追いこんだソクラテスに倣い問答法と結びついていたが、アカデメイア派は問答法から離れ、無知を積極的に主張するようになる。不可知論がそれ自体ドグマになると、到達不可能な絶対の認識を目指すストア派と原理的に変わらなくなってしまう。紀元後のアカデメイア派はストア派と五十歩百歩になっていたようだ。

 1世紀のアイネシデモスはアカデメイア派に学んだが、ストア派化したアカデメイア派にあきたらなくなり、ピュロンの原点に返ろうとしてピュロン主義を提唱する。このピュロン主義がルネサンス以降に復活し、近代懐疑主義を生みだすことになる。

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2011年07月28日

『マヤ文明 聖なる時間の書』 実松克義 (現代書林)

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 青木和夫氏は『古代メソアメリカ文明』で日本人が仏教という外来宗教から神仏習合の日本仏教をつくりだしたように、マヤ人も多神教的なフォーク・カトリシズムをつくりだしたと指摘しているが、現代マヤ人の精神世界とはどのようなものなのだろうか。

 まさにその疑問に答えてくれる本がある。宗教人類学者の実松克義氏の『マヤ文明 聖なる時間の書』である。実松氏はグアテマラ太平洋側のキチェー地方を1994年から1999年まで6年間フィールドワークし、現代マヤのシャーマン(みずからをサセルドーテ・マヤと呼んでいる)から聞きとり調査をおこなったが、本書はその記録である。

 キチェー地方はマヤの『古事記』というべき『ポポル・ヴフ』が発見された土地でマヤ文化の色彩が濃く、現在でも多くのサセルドーテ・マヤが活躍している。キチェーのサセルドーテ・マヤは『ポポル・ヴフ』を特に重視しており、本書の後半は『ポポル・ヴフ』(著者は『ポップ・ヴフ』と表記すべきだという立場に与しているが)の話になる。

 先住民の呪術師というと教育のない貧しい拝み屋さんというイメージがある。確かにそういうサセルドーテ・マヤが多いが、著者の出会った中には大学教育を受けたインテリもいる。実業家として成功していたり、大学で教えていたり多士済々で、人気のあるサセルドーテ・マヤのところには国外からも依頼者が来ている。教育があるのになぜイニシエーションを受けて呪術師になるのだろうか。重病をサセルドーテ・マヤに治してもらい、自らの運命に目覚めるというパターンが多いようだ。

 サセルドーテ・マヤは宗教を聞かれると一様にカトリックと答えているが、やっていることはおよそカトリックではない。神聖暦で占いをし、壇を築いて火の儀式をおこなう。十字を切るものの、マヤ十字という別の意味あいの十字である。グアテマラのカトリックはマヤ古来の信仰と混淆しているのである。

 シンクレティズムの象徴というべきはサン・シモンという神格である。サン・シモンというといかにもカトリックの聖人のようだが、聖書に出てくる9人のシモンとは関係がなく(関係があると言い張っている人もいるが)、シモン兄さんとかシモン兄貴と気安くお願いできる現世利益の神様として広く信仰を集めている。

 サン・シモンは10月28日が誕生日だったり、「五人の博士」という治癒神になったり、マシモンという怖い神様に姿を変えたり得体が知れないが、研究者によると信仰の歴史は古くはなく150年ほど前、教会の土着信仰弾圧を期にはじまったらしい。サン・シモンといういかにもカトリック的な装いをまとわせることで土着の神の温存を図ったということだろう。

 マヤ十字も興味深い。マヤに十字架のシンボルがあったことはパレンケのレリーフでも明らかだが、もともとは世界樹だったマヤ十字がキリスト教の十字架と習合してしまい、「父と子と聖霊、聖人の名において」という祈りの言葉は同じながら、心の中では死霊の住むマヤの世界が表象されているというのだ。マヤ十字の詳しい意味あいについては人によって異なるが、十字架の横棒が黄道、縦棒が黄道と交差する銀河、さらに十字架の二次元に垂直に雨の軸が貫き、マヤの立体的な宇宙像をあらわすという解釈まである。

 260日周期の神聖暦も考古学上の遺物ではなく占いの暦として普及していて、日本の神宮暦くらいにはポピュラーなようだ。

 神聖暦にはいろいろな解釈があり、サセルドーテ・マヤごとに違うといっても過言ではないらしい。しかし時間を生命の動きそのものとしてとらえるという点では共通しているようだ。

 最後に『ポポル・ヴフ』だが、これが一筋縄ではいかない。16世紀にキチェー人の貴族がアルファベットで音写したキチェー語の原本を18世紀にフランシスコ・ヒメネス神父がチチカステナンゴで発見し、筆写してスペイン語訳を付して書庫に残した。それが150年後に再発見されるという経緯をたどるが、ヒメネスがつくった写本しか残っていないのでテキストの信頼性に疑問がもたれているのである。

 『ポポル・ヴフ』には十を超える現代語訳があるというが、その中でキチェー語のテキストを本来の形に復元するところからはじめたチャベスの翻訳があり(『ポップ・ヴフ』はチャベスが復元した発音)、キチェーのサセルドーテ・マヤの多くから支持されているというのである。

 本書の後半ではチャベス訳を評価するヴィクトリアーノ・アルヴァレス・フアレスと彼が主宰するグアテマラ・マヤ科学研究所の見解が紹介されている。実松氏はチャベス訳について『マヤ文明 新たなる真実』という本を別に書いておられるので、興味のある方はそちらを見られたい(中公文庫の『ポポル・ヴフ』とはまったく違う)。

 一つ気になったのは民衆のカトリック離れが進む一方で福音派教会が急速に勢力を伸ばしているという記述だ。カトリック教会はコフラディアという信徒会に支えられていて、中にはサン・シモンの護持をしているところもあるというが、改宗者が続出したために解散したコフラディアがかなりあるらしい。教皇庁が「解放の神学」にブレーキをかけた結果がこれだとしたら皮肉である。

 福音派教会については芝崎みゆき氏の『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』に偶然ラカンドンの教会に連れていかれた時の体験が書かれている。福音派はアメリカからの豊富な資金で信者に援助をあたえるといわれているが、芝崎氏の伝える熱狂ぶりからすると援助だけが理由ではないのかもしれない。

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2011年07月23日

哲学の歴史 01 哲学誕生』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中央公論社は創業120周年を記念して2008年から『哲学の歴史』全13巻を刊行した。近年にない大規模なシリーズで2008年度の毎日出版文化賞特別賞を受賞しているが、新書に近い手軽さで読めることがわかったのでこれから一年かけて紹介していこうと思う。

 通史ではあるが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むというつきあいかたでもかまわないだろう。

 各巻は目次の後、「イメージの回廊」として地図や写真、図版が12頁にわたっておさめられている。第1巻でいうと哲学者の彫像の写真が2頁、『ニコマコス倫理学』の15世紀の写本の書影が1頁、エーゲ海をはさんで小アジアからギリシアにかけての地図が見開き2頁、ギリシア的な世界観の基本である四大元素(地・水・火・空気)関連の図版が9頁である。

 責任編集者の総論につづいて、ソクラテス以前の哲学者からアリストテレス学派まで、8章にわたって専門の研究者による各論がつづく。章の末尾には灰色の紙に印刷された数頁のコラムがつく。たとえば「ギリシア七賢人」では選ばれる顔ぶれにかなりのバリエーションがあるが、その多くは政治家であり、ギリシア人の考える叡智の原型が示されているとし、「プラトンとアトランティス伝説」ではアトランティスに関する史料はすべてプラトンにさかのぼり、プラトンの創作の可能性を否定できないと指摘した後、プラトンがアトランティスにこめた意図を忖度している。

 巻末には索引と参考文献、執筆者略歴、年表、代表的な哲学者の生没年を図示したクロノロジカル・チャートがおさめられている。参考文献は各章ごとに「原典と翻訳」と「研究文献」にわけて記載されており簡単なコメントがつく。パルメニデスの「原典と翻訳」では井上忠氏と鈴木照雄氏の著書があげられているが、コメントはこんな具合である。

 現在参看できる日本語の専門的研究書はこれら二書のみ。両書が描き出すパルメニデス像は比較することが意味をもたないほど異質である。

 こんなことを書かれたら、読みたくなってしまうではないか。

 さて、第1巻である。「総論 始まりとしてのギリシア」ではタレスからアリストテレスにいたる250年間の営みをまず次のように一筆描きする。

 もともと彼らのあいだにあっては、哲学とは何か一個の学術として固定されたものではなかった。本質をなすのは「知」それ自体ではなく、むしろ既成の知に満足することなくそれを超え出てさらなる知の高みを求めようとする意欲(ピロソピアー=知の愛求)にあった。

 次いで本巻の構成にしたがって、時代順に政治情勢をからめながら学派を紹介していくが、最後に哲学史はアリストテレスが創始したものであり、今日に伝わる断片はペリパトス学派の学説誌をソースとしていると指摘していること、実際は「より広汎な「知」の伝統が、けっして無視できない力で、哲学の形成を促してきた」ことに注意を喚起している。

 各論に移ろう。

「1 最初の哲学者たち」

 タレスとミレトス学派をあつかう。ギリシアの知の営みはオリエントの先進地域と接した小アジアのイオニア地方ではじまったが、ギリシア人は複数の先行文化に直面することによって、単に受けいれるのではなく相対化しつつ脱神話化して摂取することができたとする。

 タレスでいえば、水に着目したその思想の背後にエジプトやバビロニアで一般的だった水神創世神話があったのは確実だが、単に水の神を受けいれるのではなく、宇宙全体を水という統一的視点から把握しようというスタイルはタレス独自だったというわけだ。

 宇宙全体を統一的に把握しようとするタレスのスタイルはアナクシマンドロスやアナクシメネスという後継者をうることで確固とした知の営みとして発展していくが、ペルシアの圧力によってイオニアは衰退し、ピュタゴラスらは南イタリアに移住することになる。

「2 エレア学派と多元論者たち」

 哲学の新たな中心となったのは南イタリアのエレアで、この地で生まれたパルメニデスは初期ギリシア哲学の分水嶺となった。パルメニデスはあるものはあり、あらぬものはあらぬと同語反復のようなことを説いたが、これはあるものはずっとあり、あらぬものはずっとないということであり、あらぬものからあるものが生じることはないという変化の否定を含意している。ゼノンの有名な背理もこの変化否定の応用問題にすぎない。

 パルメニデスの命題は同語反復だけに反論のしようがない。しかし変化はある。変化をどう説明したらいいのか。

 この難題を解決するために編みだされたのがエンペドクレスの四大に「愛」と「争い」をつけくわえた宇宙論であり、万物は不生不滅の原子の組みあわせからなるとする古代原子論である。

「3 ソフィスト思潮」

 前5世紀はじめにペルシャの侵攻をスパルタとともに阻止したアテナイは政治的にも経済的にも文化的にもギリシア世界の中心となる。アテナイは成人男性市民による直接民主政で治められており、弁論術を柱とする市民教育の需要が増大した。こうしてギリシア各地から一流の知識人が集まった。

 彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術を教えるところからいかがわしいと見なされることが多かった。普通のアテナイ市民から見ればソクラテスやプラトンもソフィストの一味である。

 ソフィストは多彩な背景を持った人々であり一致した教説があったわけではないが、法律・慣習はポリスごとに異なるという相対主義では共通しており、本章ではそれを「ソフィスト思潮」と呼んでいる。

「4 ソクラテス」

 ソクラテスはペルシャ戦争勝利後のアテナイの高度成長期に青年時代をすごした。『弁明』では否定しているが、若い頃イオニア自然学にかぶれたことがあるのは確実だろうという。

 しかし40歳の頃、繁栄に酔いしれていたアテナイはスパルタとペロポネソス戦争に突入し、20年間の戦いの末に敗北することになる。同盟国は離反し、政治は混乱をきわめる。ソクラテスに対する告発と刑死はこの混乱の中で起きた。

 中年以降のソクラテスは自然学探求から離れ倫理の問題に集中するが、この方向転換の説明がクセノポンとプラトンでは異なる。この違いから「無知の知」を深めていく条が本章の読みどころだろう。

「5 小ソクラテス学派」

 ソクラテスの一面を引きついだとされるキュレネ学派、キュニコス(犬儒)学派、メガラ学派をあつかう。

 不可知論で快楽主義のキュレネ学派、芝居がかった詭弁を弄するキュニコス学派、屁理屈のメガラ学派がいずれもソクラテスから出ているとされているのは興味深い。

「6 プラトン」

 プラトンはペロポネソス戦争のさなかに生まれた。23歳の時にアテナイは全面降伏に追いこまれ、その5年後、師であるソクラテスが刑死する。プラトンも亡命を余儀なくされ、以後十年以上にわたって地中海各地を遍歴しギリシア以外の思想にふれることになる。

 40歳でアテナイにもどったプラトンはアカデメイアを創設し教育と執筆にたずさわることになる。「優れた資質をもって名家に生まれたアテナイ市民たる者が、国家公共の場から身を退いてあたかもソフィストたちが行っているような仕事に専念することは、途方もなく果敢な決断を要したはずである」とあるが、決断にいたったのは祖国の混乱と師の刑死に直面して教育の重要さに目覚めたからであろう。

 プラトンといえばイデア説だが、本章ではプラトンを懐疑主義者と見なす解釈が古来からあったと指摘している。対話篇の中ではイデア説は対立する教説の一つにすぎず、結末では決定不能に宙吊りにされる。実際、プラトンの没後、アカデメイアは古代懐疑論の中心となるが、本章の筆者はプラトンがあらゆる言説を相対化していたと見なすのは短絡だとしている。「ソクラテスの対話的活動が対話相手の思いなしを客観的な吟味の場に引き出すことを意図していたように、「対話篇」とは知と真理を客観的なものとして成立させるためのスタイルであった」というわけだ。

 『国家』が政治論として読まれ、主著と見なされるようになったのは19世紀の英国がはじまりだったという指摘は面白い。エリート政治の模範が描かれているともてはやされたが、20世紀になり社会主義やファシズムが台頭すると逆に独裁政治を正当化としてして指弾されるようになる。逆説とアイロニーに満ちた対話篇をモノローグに単純化したことからうまれた誤読である。

 『パルメニデス』以降の後期思想にかなりの紙幅をさいている点も本章の特徴だろう。最後の『法律』やオカルト好きの間で重視されている『ティマイオス』の宇宙論を紹介し、『ピレボス』では「ミレトス学派以来の「生ける宇宙」を継承・賦活せしめるとともに、より深い意味をそこに込めた」としている。

 面白いと思ったのは実践的な政治家養成を目指したイソクラテスの学校からはたいした人材が出なかったのに対し、実学とは無縁のアカデメイアから多くの政治家が出たという指摘である。アカデメイアは中断はあったにせよ900年近くつづいたのだから立派なものである。

「7 アリストテレス」

 アリストテレスはプラトンの最晩年、アカデメイアを離れて小アジアのアッソスやレスボス島で研究教育活動をおこなった後、マケドニア王フィリッポス二世からアレクサンドロスの家庭教師に招聘されている。12年後アテナイにもどるが、アカデメイアに復帰することなくリュケイオンに自分の学校を開いている。

 ディオゲネスの『哲学者列伝』にプラトンの言葉として「アリストテレスは、私を蹴飛ばして行ってしまった。まるで仔馬が生みの母親をそうするように」とあることから、アリストテレスとプラトンは不仲だったとか、実力第一なのに学頭に選ばれなかったので飛びだしたとか、いろいろなことが言われてきたが、本章の筆者はアカデメイアの施設はプラトンの個人財産だったと考えられ、プラトンの甥のスペウシッポスが相続するのが自然であり、アテナイ市民でないアリストテレスが継承する可能性は最初からなかったと指摘する。アッソス行きにしてもアカデメイア第三代学頭となるクセノクラテスが同行しており、アッソスの僭主のヘルミアスがアカデメイアと関係が深かったことから、アッソスにアカデメイアの分校が開かれた可能性があるという。

 学説についてはアリストテレスの知の区分がヨーロッパの学問の基本となっていること、論理学を支える論証以前の知の形態としてヌースを考え、ヌースは経験から帰納的に生まれるが、個別的な経験を蓄積しても普遍的な原理にはならず、知はわれわれの精神に本源的に備わっていると洞察していたことを指摘している。ヒュームからカントへという近代哲学の大転換をアリストテレスが先取りしていたということだろうか。カテゴリー論の元祖もアリストテレスである。

 生々流転する現実を考究する部門として『自然学』がある。有名な四原因説も『自然学』にあるが、『自然学』のあつかいが軽いように感じた。本書に限らず、日本では『自然学』がないがしろにされているような気がする。『動物学』よりはるかに重要だと思うが、なぜ文庫版が出ないのだろう。

 一方『魂論』(『心とは何か』という題で文庫になっている)についてはかなりつっこんだ記述がある。アリストテレスの考える魂が思考能力だけでなく、栄養摂取能力も含むことにわれわれは異和感をいだくが、それはデカルト以後の考え方にならされているからだという指摘はわかりやすい。著者は「心的活動も生命の働きの一つの発現のかたちである、というのがアリストテレスの根本的な思想である」としている。身体の変化が感覚知覚だというスピノザを先取りするような視点もあったらしく、アリストテレスの心身相関論は近年注目されているようだ。

 『形而上学』は実体論争を中心に紹介しているが、きわめて難解とだけ言っておこう。

 アリストテレスの幸福――善く生きる――とは何かを追求して倫理学という学問をはじめたが、人間の生き方は社会のあり方と不可分なのでアリストテレスの倫理学は政治学と連続していると言える。本章では政治学は倫理学との関連で論じられている。

 興味深いのは最後にとりあげられる奴隷肯定論である。本章の著者はアリストテレスは奴隷制度を自明のものとは考えていなかったし、当時の奴隷制度を無条件に肯定しているわけでもなく「戦争捕虜のようなかたちで多くの人々が奴隷とされていることへの批判」が潜在的に含まれていると弁護しているが、逆にいうと知的・身体的能力が不十分な人間は奴隷にしていいことになり薮蛇だろう。天下のアリストテレスが奴隷を認めていた事実は大きく、トドロフの『他者の記号学』によると、ほぼ2000年後の16世紀にアメリカ先住民の奴隷化の是非をめぐってもちあがったバリャドリード論争でも『政治学』の奴隷肯定論が持ちだされたということである。

「8 テオプラストスと初期ペリパトス学派」

 アリストテレスは弟子たちと散歩しながら講義をおこなったのでアリストテレス学派のことを逍遙ペリパトス学派という。ペリパトス学派は名前こそ有名だが哲学史の扱いは小さく、まったく無視したり数行で片づける本が多い。本書はこのマイナーな学派に一章をさいている。

 アリストテレスの学統はエウデモスがロードス島に開いた学園とデメトリオスがプトレマイオス朝に招聘されて作ったアレクサンドリア図書館で継承され、一世紀のアリストテレス復活を準備したとされているが、問題はリュケイオンでつづいたペリパトス学派である。

 アテナイのペリパトス学派でもっとも有名なのは第二代学頭に指名されたテオプラストスだ。テオプラストスはレスボス島出身でアカデメイアに学び、アッソス行以降アリストテレスと行動を共にしたと見られている。

 多数の本を書いたと伝えられるが、今日完全なかたちで残っているのは『植物誌』や『人さまざま』くらいしかなく、大部分は失われてしまった。

 失われた著作の中でもっとも重要なのは『自然学説誌』だろう。自分の時代までの哲学者の学説を集大成した本で、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』やアエティオスの『学説誌』、ストバイオスの『自然学抜粋集』などの種本だったとされている。テオプラストスが『自然学説誌』をまとめなかったらソクラテス以前の哲学者の断片の多くは後世に残らなかった。

 資料を重視するアリストテレスの研究スタイルはペリパトス学派に受けつがれ、数学などさまざまな分野の学説誌がまとめられたらしい。資料の取捨選択や配列はペリパトス学派の見解が軸になる。見えないかたちながら他学派にあたえた影響はすこぶる大きい。

 資料を集め事実に即して考えるという学風はアレクサンドリアで文献学を生んだが、リュケイオンでは独自学説の発展をうながした。アリストテレスの見解に異を唱えるのも自由だった。テオプラストスはアリストテレス形而上学の要である「不動の動者」を否定したと伝えられるし、論理学では様相の概念をくわえてストア派の命題論理学に近いところまでいっていたらしい。アリストテレスの『魂論』は魂を身体を統括する原理とみる立場と身体のあり方とみる立場の二つを含んでいたが、ペリパトス学派は後者に向かい、魂の存在を否定する者まで出たという。独自学説が発展した結果、ペリパトス学派の求心力が低下し学派としての存在感が薄れていったということらしい。

 アリストテレスの見解に距離をとったペリパトス学派の活動は一世紀のアリストテレス復活以降忘れられてしまったが、近年本格的な研究ははじまったそうである。今後の展開が楽しみである。

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2011年02月26日

『記号論と言語哲学』 エーコ (国文社)
『テクストの概念』 エーコ (而立書房)

記号論と言語哲学
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テクストの概念
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 エーコの記号論を二冊紹介しよう。

 エーコは記号論関係の本をたくさん書いているが、中心となるのは記号論三部作と呼ばれる『記号論』、『物語における読者』と今回とりあげる『記号論と言語哲学』である。

 『記号論』はソシュールからパース、イェルムスレウ、記号論理学、情報理論にいたるまで、記号に関するさまざまな視点を網羅し整理した記号論大全というべき本で、記号を論ずる上での基本図書中の基本図書といえよう。

 『物語における読者』は『記号論』の整理をもとにテクストに複数の読み方が成立するメカニズムを精密に跡づけた本で、1982年の『開かれた作品』の深化といえる。読みの複数性を様相論理学の可能世界論で記述したのがポイントだろう。

 『記号論と言語哲学』は前二作における共時的な議論を歴史的にとらえなおした本で、若い日にスコラ哲学を学んだエーコならではの学説史が展開されている。

 『記号論と言語哲学』は読者は前二作を読んでいるという前提で書かれているが、困ったことに『記号論』の邦訳も『物語における読者』の邦訳も絶版(長期品切?)であり、入手がむずかいくなっているのだ。

 エーコ自身がチェックした英語版で読むという手もあるが("Theory of Semiotics"と"The Role of the Reader")、幸いなことに両著をダイジェストした本が邦訳されている。『テクストの概念』である。

:『物語における読者』は2011年3月に新版が刊行され入手可能になった。翻訳は篠原資明訳の方が格段に読みやすい)

 『テクストの概念』はサンパウロ大学大学院で1979年にエーコがおこなった講義をブラジルで出版したもので、『記号論』と『物語における読者』を要約した内容となっている。いわば二番煎じ本だが、あれもこれも詰めこみすぎの二作と較べるとずいぶん見通しがよくなっているのも確かだ。原著はポルトガル語でイタリア語版は出ていないが、翻訳にあたって講義のもとになったエーコのイタリア語原稿をとりよせたということだから重訳ではない。

 『記号論』にあたる部分ではパースとイェルムスレウを統合した

       解釈項
     /    \
  代表項………………直接対象
  (記号)    (イメージ)
             ↓
           力動的対象
           (物自体)

というおなじみの図式からはじめ、構造意味論で意味の階層構造を紹介した後、換喩と提喩の考察に移っていく。

 換喩とは「沖の白帆」のように「帆」という部分で「船」という全体をあらわすことをいい、提喩とは「痩せたソクラテス」のように「ソクラテス」で「賢者」という上位概念をあらわすことをいう(上位概念で下位概念をあらわしてもいい)。では「春秋をかさねて」のように「春秋」で「歳月」をあらわす場合は換喩だろうか、提喩だろうか。

 こういう曖昧なケースをどう受けとるかは読者の問題になり、ここで読者論に話が移る。読者論では『物語における読者』と同様、アルファンス・アレーの二編の笑劇を題材にして考察しており、大筋は同じである。

 訳文がややぎこちないのが難だが、本書を出してくれたことは感謝したい。

 さて『記号論と言語哲学』である。エーコは言語や人為的記号のみならず、煙が火事をあらわすといった自然的記号をも統一的に論ずるパースの立場を引きついでいるが、それに対するギルバート・ハーマンという論理学者の批判を槍玉にあげることからはじめる。

 ハーマンはパースの記号論は三つの異なる分野の理論――意図された意味の理論、徴候の理論、絵画的表示の理論――を含んでいるが、これら三つの分野が共通の原理にもとづいているという証拠はないとしている。エーコはストア派から中世のスコラ哲学、ロック、フッサール、ヴィトゲンシュタインにいたるまで、こうした三つの分野のための共通の基盤を見いだそうと試みてきたと反論するが、ここで重要なのは「ストア派から」と書いている点である。ストア派の論理学が出てくるまでは言語と記号は別ものと考えられていたからである。

 記号はギリシア語ではセーメイオンだが、糸口、徴候、症状の同義語とみなされていた。一方、言葉は名称オノマと同一視されており、パルメニデスは記号セーマタ名称オノマゼインを対比して論じていた。アリストテレスも記号と言葉は区別しており、言葉にはシンボルという語をあてていた。アリストテレスが記号に距離をおこうとしたのは糸口、徴候、症状という意味での記号は三段論法の根拠として不十分だからだ。熱があるからといって、風邪をひいているとは限らないのだ。

 これに対してストア派の論理学は p⊃q という命題論理学であり、語の意味するものも霊魂の状態でもイデアでもなく、非物体的なものという範疇があらたに設けられ(本書では「無体的」と訳しているが、ストア派の訳語としてはあまり使わないのではないか)、言語理論と記号理論の統合が試みられている。

 言語理論と記号論を最終的に統合したのはアウグスティヌスだそうで、いよいよスコラ哲学者エーコの本領が発揮されるが、興味のある方は本書を読んでほしい。

 ややこしい議論にはこれ以上立ち入らないが、特筆したいのは最後の章で鏡像は記号といえるのかどうかという意表をついた問題提起をしていることだ。鏡を代名詞になぞらえるなど面白い観点を次々とくりだし、記号とは何かという問いに哲学史とは真反対の角度から光をあてている。映画の最後にNG集をつけるようなもので、お堅い本でこういう読者サービスをやるところがエーコである。

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2011年02月23日

『セレンディピティー―言語と愚行』 エーコ (而立書房)

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 ウンベルト・エーコは多くの本を出しているが、主著から派生した著作がすくなくない。いわば二番煎じ本である。

 二番煎じとはいっても、エーコの場合はそれなりの存在理由がある。まず主著では使わなかった材料を用いて主著とは違った視点を打ちだしている場合があること。

 第二にエーコは若い頃にトマス・アクィナスを研究しただけに大全コンプレックスとでもいうべき網羅癖があり、特に主著にあたる本にはあれもこれも詰めこみすぎる傾向があるが、二番煎じ本ではエーコ自身によって要点が絞りこまれ、見通しがいいこと。

 第三に日本の特殊事情だが、エーコの主要著作の邦訳は大手版元から出ているためにすぐに絶版になってしまう。『開かれた作品』、『記号論』、『物語における読者』、『完全言語の探求』、『カントとカモノハシ』、『前日島』はエーコを語る上ではずすことのできない重要な本だが、いずれも絶版ないし増刷の予定のない長期品切である。一方、二番煎じ本は小回りのきく小出版社から出ているためか、現在でもほとんどが書店で買えること。

 本書であるが、ウソから出たマコトを集めた第一章は別として、第二章以降は『完全言語の探求』(平凡社、絶版)の二番煎じである。

 第二章「楽園の諸言語」は起源の言語をさがす試みについてで、バベルの塔以前の人類は何語を話していたか、神は何語でアダムに話しかけたかが真剣に問われた時代の話である。

 旧約聖書がヘブライ語で書かれている以上、失われたアダムの言語は原ヘブライ語と考えるしかないが、起源の言語の探求がラテン語に対する俗語の優位という思想を生みだしたという指摘はおもしろい。

 第三章「マルコ・ポーロからライプニッツへ」は文字の話で、ライプニッツの考えた普遍表記法や普遍文字としての漢字がとりあげられている。

 第四章「アウストラル国の言語」は人工的に作った理想言語を論じているが、『完全言語の探求』ではふれていなかったガブリエル・フワニのユートピア小説『既知の国アウストラル』を例にしている点は注目したい。

 第五章「ジョゼフ・ド・メートルの言語学」では『完全言語の探求』では題名が言及されたにすぎない『サンクト・ペテルブルクの夜』に考察がくわえられている。

 『完全言語の探求』が入手できない現在、本書の存在は貴重だが、谷口訳はあまり読みやすいとは言えない。たとえばこんな具合だ。

 問題への一つの解決策は、マリーア・コルティが提案している。今日までに一般に認められているのは、ダンテを聖トマス・アクイナスの思想の正統な踏襲者としてだけ見なすわけにはいかないということである。状況次第で、ダンテはさまざまな哲学的・神学的典拠を活用した。
 さらに、彼がシジェ・ド・ブラバンを主たる代表者とするいわゆる過激アリストテレス主義のさまざまな流派に影響されたこともよく突き止められている。過激アリストテレス主義のもう一人の重要人物はダキアのボエティウスであって、彼はシジェと同じく、1277年にパリ大司教から破門された。ボエティウスはいわゆる様態論者なる文法家グループの一員だったし、論文『表意様態論』を著したのだが、これは――コルティによると――ダンテに影響をおよぼしたらしい。

 原文を確認したわけではないが、この条は『完全言語の探求』の第三章の使い回しらしい。上村忠男・廣石正和訳の相当箇所を引用しよう。

 マリア・コルティは、この問題にたいするひとつの解決法を提案している。ダンテを理解するにはたんにトマス主義の正統な継承者と見なしていてはだめだというのは、いまや異論の余地のないところである。ダンテは、時と場合によって、哲学や神学のさまざまな源泉を参考にしている。そして、ブラバンのシゲルを最大の代表者とする急進的アリストテレス主義のさまざまな潮流に影響されていたのは、うたがいない。ことに、急進的アリストテレス主義の面々のなかには、様態論者と呼ばれる文法学者たちの最大の代表者のひとりであるダキアのボエティウスもいた(この人物は、シゲルとともに、一二七七年にパリ司教が発布した非難宣告の対象となっている)。このダキアのボエティウスの『表意様態について』からダンテは影響をうけていた可能性があるというのである。

 「シジェ・ド・ブラバン」と「ブラバンのシゲル」はフランス語読みかラテン語読みかの違いである。原文が Siger de Brabant になっているのか、 Sygerius de Brabantia になっているのかはわからないが、大した問題ではないだろう。

 問題は谷口訳ではシジェ/シゲルとダキアのボエティウスが破門されたことになっていることだ。調べてみたが、破門はされていないようである。破門と非難宣告は大変な違いなのだが。

 精力的にエーコを翻訳してくれる谷口氏と而立書房の功績は多としたいが、訳文は日本語としてこなれているとは言いにくいし、全体に荒っぽい印象があるのは否めないだろう。それでもないよりはあった方がいいのは言うまでもない。

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2010年03月29日

『<中性>について ―コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度』 バルト (筑摩書房)

<中性>について ―コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度 →bookwebで購入

 コレージュ・ド・フランスでの二年目の講義ノートである。講義は1978年2月18日から6月3日まで13回にわたっておこなわれたが、第一日目に断っているように講義の準備をはじめようとする時期にバルトは母を亡くしている。

 『彼自身によるロラン・バルト』を読んだ人ならおわかりのように、バルトはきわめつけのマザコンであり、母にべた惚れし、母以外の女性にはまったく興味がなかった。そういう重症のマザコン男が母と死別したのだから、悲しみに打ちひしがれ気力を失ったことは想像にあまりある(悲しみから立ちなおろうとした記録が『喪の日記』として残されている)。

 二年目の「<中性>について」というテーマは一年目の講義が終わった直後に事務局に提出していたの変更することはできないが、母の死をへて「中性」の意味あいが変わってしまったとバルトは語る。

<中性>について語ろうとする主体は、もはやそれについて語ろうと決意した主体とは同じではありえない→当初は、闘争の解除についてお話しすることが問題だったし、これからお話しすることは、やはりそのことである。なぜなら、コレージュの掲示を変えることはできないからだ。しかし、梗概と方法をお伝えしたこの言説のなかに、わたしは自分自身、今日、束の間、ある別の音楽を聞いている。どのような音楽なのか。次のようにして、この音楽の住まう領域、彼方を位置づけてみよう。つまり、最初の疑問から分離した第二の疑問として、最初の<中性>の背後にかいま見える第二の<中性>として。

 第二の<中性>についてふれるに、そもそも<中性>という言葉がなにを意味するかについて確認しておきたい。

 日本語で<中性>というと男性でも女性でもない中性という意味にとられやすい。特にバルトの場合ゲイであることをカミングアウトしているので、そう受けとる人はすくなくないだろう。

 だがそれは「零度のエクリチュール」を「凍りつくエクリチュール」とうけとるのと同じで、まったくの誤解である。バルトが「わたしは<中性>Le neutre を、範列の裏をかくものと定義する」と語っているように、<中性>と訳された Le neutre は中立とかニュートラルという意味であって、対立を回避し、やりすごすところに重点がおかれている。

 なぜバルトは<中性>というテーマを選んだのだろうか? 初年度のバルトは「いかにしてともに生きるか」という標題で抑圧のない共同体は可能かと問うた。二年目はそれを受けて、抑圧のない言語活動の可能性を考えようとしたのである。

 言語は分類であり、単語は対立によってなりたっている。言語で語った瞬間、われわれは対象を対立の一方と決めつけ、分類表に、つまりは範列に押しこめてしまう。言語とは本質的に抑圧的なのである。

 さらに他者とコミュニケーションしようとする場合は両者の力関係がからんでくる。コミュニケーションの過程でわれわれは自分自身でありつづけること、アイデンティティを押しつけられる。なによりも自我の一貫性がもとめられ、強固な自我をもつことがよしとされる。自我の一貫性があいまいだとうさんくさい奴と決めつけられ、しまいには狂人に分類される。

 バルトは分類を回避する言語活動の理念型として懐疑主義と否定神学と禅と老荘を援用する。

 「正当な信仰は言葉を経由する」とボシュエが語ったように教会は言葉を使って祈れと命じ、神秘主義者の沈黙に敵意を向ける。これに対して懐疑主義者は沈黙で答える。懐疑主義者の沈黙は単なる口の沈黙ではなく、「思考」「理性」の沈黙である。

 懐疑主義は分類からの退却だが、否定神学は未分化なものに積極的な意義を見出す。バルトはシレジウスの詩句を引く。

あらゆる形<あらゆる色>を失いなさい、そうすればあなたは神と等しくなるだろう、
あなたの空は、静かな安らぎのうちに、あなた自身と等しくなるだろう。

 さらに禅と老荘は未分化を肯定するのみならず、攻勢に転じる。バルトは鈴木大拙の公案の紹介と岡倉天心の『茶の本』によりながら、言語の裏をかくコミュニケーションの可能性について語っている。

<中性>は、目印と目印とのあいだに適切な距離を保つという微妙な実践となるだろう:<中性>=間隔(空隙をつくりだすこと)。それは異化や、距離を置くことではない。という、きわめて重要な日本の概念:時間、空間の間隔こそが、時間性、空間性を決定している:それらを決定しているのは、積み重ねでも、「過疎化」でもないのだ。

 日本人にとってはこそばゆくもあるが、これはあくまで 『記号の国』の日本像と同じバルトの夢想であって、そのことはバルト自身が何度も念を押している。

 禅や老荘をもちあげているといっても、バルトはフリッチョフ・カプラのように東洋神秘主義に淫しているわけではない。バルトが公案の突飛な戦略になみなみならぬ関心をいだくのは西洋の抑圧的な思考から逃れるためであって、東洋に真理が隠れているなどというニューエイジの物理学者のようなナイーブな期待はもっていないのだ。

 だから、バルトは無我の境地を実体化したり崇めたてまつったりはしない。公案はあくまでずらしであり、言語体系の揺さぶりであって、真理に通じる道ではない。公案で獲得した自由は西洋的自我を相対化するために用いられる。バルトはヴァレリーの『テスト氏』について語っている。

今日ヴァレリーの作品において時代遅れのようにみえるのは、自我である。というのも、自我が心理的(観念論的)実体とみなされているからだ。しかし実際には、ヴァレリーは自我を一つの異常、異常性として扱っている→テスト:流行ではこの主知主義的錯乱を理解できないために、ますます周辺的に見える、極度の周辺性の記述→絶対的に、反画一主義の本。わたしが話そうとしている意識、そしてテスト氏のなかには、完全に魔法にかけられたような自我との関係、自我による捕獲がある。

 バルトは自我の権化とされてきたテスト氏を自我の脱構築として評価しているのである。

 さて、いよいよ第二の<中性>である。当初、バルトが講義で語ろうとしたのは言語体系をやりすごし、アイデンティティのくびきをすりぬけるような<中性>だった。ところが母の死を経験して、そうした<中性>の背後に別の<中性>が垣間見えるようになったという。

 バルトはそれをパゾリーニの「ある絶望的な活力」という詩とダンテの『新生』を引きながら、生きる意欲と区別された「生命力」と表現している。それが何かは三年目の講義『小説の準備』を待たなければならない。

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2010年03月28日

『いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度』 バルト (筑摩書房)

いかにしてともに生きるか ―コレージュ・ド・フランス講義 1976-1977年度 →bookwebで購入

 フランスにはコレージュ・ド・フランスという毛色の変わった学校がある。入学試験も卒業証書もなく、知的好奇心のある人は誰でも無料で自由に受講できるのだ。

 というと市民講座のようなものかと思うかもしれないが、市民講座とは格が違う。創立は1530年でフランソワ一世の時代。教授陣は世界的に名の知られた学者で、最近ではレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・モノーがいた。ちょっと前だとメルロー=ポンティ、レイモン・アロン、ポール・ヴァレリーがいたし、歴史をさかのぼればキュリー夫人の夫のジョリオ・キュリーやミシュレもそうだった。市民サービスなどは一切考えずに、世界最高の学者が最先端の研究成果を世に問う場所なのである。

 コレージュ・ド・フランスの教授になることはその分野でフランス最高の権威と認められるに等しいが、面白いのはアカデミズムと微妙に対立関係にあることだ。

 たとえば、ベルクソンである。ベルクソンは20世紀前半を代表する哲学者だったが、アカデミズムの世界では長らく異端あつかいされ、ソルボンヌでは教授になれなかった。そのベルクソンを教授にむかえたのがコレージュ・ド・フランスなのである。

 コレージュ・ド・フランスとアカデミズムとの微妙な関係は設立の経緯から来ているのかもしれない。コレージュ・ド・フランスの前身はフランソワ一世が1530年に設立した王立教授団だが、フランソワ一世はレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンであったことからもわかるようにルネサンスの自由な学問を保護した開明的な君主であり、王立教授団の創設には教会と結びついたソルボンヌの権威を削ごうとする狙いがあった。王権によって教権と対抗する権威を作りだそうとしたのである。

 ロラン・バルトはミシェル・フーコーの推挙でコレージュ・ド・フランス教授に選ばれ、1977年1月から亡くなるまでの4年間「文学記号学」の講義とセミナーを主宰したが、彼にとってはコレージュ・ド・フランス教授が一番おさまりのいいポストだったかもしれない。

 バルトは大学院大学にあたる高等研究院の教授としてアカデミズムの一角に地位を占めていたが、大学教授資格アグレガシオンも博士号ももっていなかった(フランスでは大学で教えるにはアグレガシオンが必要)。だから院生しか教えることができないのに、博士論文の指導はできないという中途半端な立場だった。さらにまた『ラシーヌ論』をめぐるバルト=ピカール論争のしこりもあった。

 アグレガシオンをとれなかったのは20代を結核療養所ですごしたからだが、博士号をとらなかったのは自分の選択だった。バルトは『モードの体系』を博士論文として書きはじめたものの、途中で論文のスタイルで書くことに嫌気がさし、彼一流の文体で書き直してエッセイとして出版した。記号学の大きな成果が退屈な論文調ではなく、ちょっとお洒落な、きびきびした名文で書かれたのは読者にとっては幸いだったけれども。

 バルトのコレージュ・ド・フランス教授就任は文学的な事件だった。文壇のスーパースターになっていたバルトの講義を聞こうと世界中から聴衆が押し寄せ、一番大きな教室でもはいりきらず、もう一つの大教室に急遽スピーカーを設置する破目になった(二教室体制は最後までつづいたそうだ)。

 1977年1月7日におこなわれた開講講義はすぐに出版され、『文学の記号学』として邦訳されているが、本講義の方は遺族の意向でCD版が出たのみで活字化はされていない(現在入手可能なのはCD-ROM版。なお、権利関係が不明なのでリンクはしないが、ネットを探せばmp3で公開しているサイトがある)。

 ところが2002年になって講義ノートの出版が許され、三巻本として上梓された。本書はその第一巻の邦訳であり、1977年1月12日から5月4日までの初年度の講義14回分のノートをおさめる。

 バルトの講義は流れるようで即興で喋っているようだったというが(録音を聞いた印象もそうである)、実際は綿密にノートをつくってほぼ原稿通りに読みあげ、脱線や余談はあまりなかったそうである(邦訳では脱線や余談は訳注で補われている)。

 初年度のテーマは「いかにしてともに生きるか」で、アトス山の独居修道士の生活を紹介したラカリエールの著書に触発されたものだという。講義は23の断章にわかれ、Akèdia(虚脱状態)から Xéniteia(異国での滞在)までアルファベット順に並べられている(当初13回の予定が14回になったので、最後の断章は Utopia だが)。

 修道院というと厳格な規則と時間割でがんじがらめにされ、窮屈な共同生活を営むところと決まっているが、そのような修道院(共住修道院)ができたのは四世紀末にすぎない。それ以前の修道士は山の洞窟や砂漠、矌野で独居生活をおくり、一人孤独のうちに神とむきあっていた。バルトは書いている。

一切が4世紀に決せられたことがわかるだろう。少なくともこの年代をおさえておくことで、事態がはっきり理解できるという印象がある。独居修道生活を一新するものとしての共住修道院は、キリスト教を迫害される(殉教者たちの)宗教から国家の宗教へ、つまり「非=権力」(無権力)から「権力」へと移行させた逆転とまったく同時代のものなのである。テオドシウス帝の勅令の年、380年は、ひょっとしたら私たちの属する世界の歴史において最も重要な年(そして隠蔽された年、なにしろ誰も知らないのだから)かもしれない。

 アトス山には独居修道士の伝統が残っており、普段は一人で修道生活を送り、週一回集まって共同で儀式をおこない、一週間の手仕事の成果と引換に食物など生活必需品を受けとるというゆるい信仰共同体が維持されている。バルトはこのゆるやかな関係を「イデォリトミー」と呼んでいる。

野生のイデォリトミー(エジプト、アントニオス):いかなる組織もなし。唯一の共同体的行為:毎週の共同儀式、仕事(ござ)とパンの直接交換。この野生状態は、官僚制度が存在せず、国家権力の萌芽も、個人と小グループのあいだの物象化、制度化、モノ化されたいかなる関係も存在しないことによって厳密に定義づけられる。
共修制の誕生:相接して同時に、ごく萌芽的なものとはいえ、官僚制装置の誕生。執行部:週番制。

 バルトは多分に理想化されたこのイデォリトミーという概念を縦糸にして、抑圧をともなわない共同体が可能なのかをトーマス・マンの『魔の山』 、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、サドの『ソドムの百二十日』、ゴールディングの『蠅の王』、ジッドの『ポワチエの監禁された女』などを材料に考察していく。

(最後の『ポワチエの監禁された女』は未読だが、実の母に25年間監禁されつづけた女性の話で、1901年に実際にあった実話にもとづいている。監禁されていた女性は監禁が長期にわたった結果、監禁状態を受けいれてしまい、救出を拒否するまでになっていたという。)

 本書を読みながら、わたしは安部公房のことを思っていた。そして、なぜここで『砂の女』や『友達』にふれないのだろうとやきもきした。

 まったく言及していないところをみると、バルトは安部を読んだことがないのだろうが(日本贔屓のバルトのことだから、読んでいたら言及したはずである)、バルトの講義は安部公房的な問題圏を何度も横切っているのだ。

 バルトは1876年にマラルメ、マルクス、ニーチェ、フロイトがスイスで出会う可能性について語っているが、わたしはバルトと安部公房のありえたかもしれない出会いの方が気になった。もし安部公房と出会っていたら、この講義はもう一段深いものとなっていただろう。

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2009年12月31日

『哲学史講義』上中下 ヘーゲル (河出書房新社)

哲学史講義 上巻
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哲学史講義 中巻
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哲学史講義 下巻
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 哲学史をまとめて読んでいるうちに哲学が発展していくというストーリーに異和感をもつようになり、発展臭さがあまりない堀川本熊野本や年表形式で発展ストーリーと無縁な『年表で読む哲学・思想小事典』を新鮮に感じるようになった。

 岩崎本の序論にあるように、哲学の歴史を単なる列伝ではなく理性の発展の歴史としてとらえ、一つの学問にしたのはヘーゲルである。発展ストーリーの是非を考えるなら、どうしても張本人のヘーゲルの哲学史に当たらなければならないだろう。

 幸いヘーゲルの『哲学史講義』にはわかりやすいと評判の長谷川宏訳がある。前から読みたいと考えてきたが、この機会に読んでみることにした。上中下三巻、総ページ数1350ページ余の大冊で、なんとか最後まで読み終わった。

 確かにヘーゲルの本とは思えないくらい読みやすいが、それでも難物であることに変わりはない。

 『哲学史講義』は三つの部分からできている。

  1. 哲学者の伝記
  2. 哲学者の思想内容
  3. 発展段階の概観

 伝記部分は要するに伝記だからすらすら読める。発展段階の概観も尾根から見はるかす部分なのでわかりやすい。問題は思想内容で、絡みあった藪を山刀で打ち払い、かきわけていくような体力勝負だ。

 山刀が必要になるのはヘーゲル論理学の用語が蔓のように絡まりあっているからである。「否定」や「抽象的」、「概念」といった言葉がしきりに出てくるが、これらはすべてヘーゲル語であって、普通の「否定」や「抽象的」、「概念」ではない。他人の思想内容を無理矢理自分の用語で絡めとろうとしているのだから、もとの思想の難解さにヘーゲル論理学の難解さがくわわる。しかし、もとの思想の知識があればヘーゲル論理学の思考パターンが透けて見えてくるという利点がある。特に哲学史の本をまとめて読んだ後だったので、思ったよりも理解しやすいという印象があった。

 たとえば運動を否定したゼノンのパラドックスの条で運動とは「否定性と連続性の統一」という、いかにもヘーゲル的な表現が出てくる。このままではわけがわからないが、ちょっと先で次のように敷衍されている。

 わたしたちが一般に運動について話すとき、わたしたちは、物体がある場所にあり、つぎにはべつの場所にあるという。が、運動している物体はもはや第一の場所にはないし、いまだ第二の場所にもない。どちらか一方にあるとすれば、それは静止していることになる。二つの場所のあいだにある、というのも正確ないいかたではない。二つの場所のあいだのある場所にあることになって、おなじ困難が生じるからです。だが、運動するということは、この場所にあると同時にこの場所にないことである。それが空間および時間の連続性ということであり、それによってはじめて運動が可能になるのです。

 この説明がゼノンのパラドックスの解決になっているかどうかはともかくとして、ヘーゲル論理学のわかりやすい説明になっているのは御覧のとおりだ。

 ヘラクレイトスの「なる」を説明した条でははからずもヘーゲル論理学の核心を語っている。

 「なる」はまだ抽象的なものですが、しかし同時に具体への第一歩、すなわち、対立する観念の最初の統一体です。対立する存在と非存在は、「なる」という関係のなかでは静止せず、生き生きとうごくことを原理とします。……中略……だから、ヘラクレイトスの哲学は過去の哲学ではない。その原理はいまも不可欠で、わたしの『論理学』でも、はじまりのところ、「存在」と「無」のすぐあとに位置をしめています。「ある」(存在)と「あらぬ」(非存在)は真理なき抽象概念であり、「なる」こそが第一の真理だ、ということを認識するには、大きな洞察力が必要です。分析的思考は、「ある」と「あらぬ」をべつべつにして、どちらも真にして有効なものと考えます。ところが、理性は一方のうちに他方を、一方のうちに他方がふくまれることを認識し、――こうして、絶対的な全体は「なる」と定義されるのです。

 ヘーゲルは「真理とは、「なる」過程のこと」という言い方もしている。ヘーゲル論理学というか、ヘーゲル弁証法を勉強したいなら『論理学』より本書の方がはるかにとっつきやすいかもしれない。

 ここで目次を掲げておく。まず、上巻。

序論

  1. 哲学史とはなにか
  2. 哲学史と哲学以外の領域との関係
  3. 哲学史の時代区分、資料、論じ方

東洋の哲学

  1. 中国の哲学
  2. インドの哲学

第一部 ギリシャの哲学

はじめに
七賢人
時代区分


第一篇 タレスからアリストテレスまで

第一章 タレスからアナクサゴラスまで

  1. イオニアの哲学
  2. ピタゴラスとピタゴラス派
  3. エレア学派
  4. ヘラクレイトスの哲学
  5. エンペドクレス、レウキッポス、デモクリトス
  6. アナクサゴラス

第二章 ソフィストからソクラテス派まで

  1. ソフィストの哲学
  2. ソクラテスの哲学
  3. ソクラテス派

 哲学史とはなにかを論じた条は一番面白かった。ヘーゲルによれば「哲学史の全体が内部に必然性のある一貫したあゆみ」であり、「哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている」としている。ただ、こういうことが言えるのは自己展開する絶対精神を認めた場合のことである。

 東洋の哲学を論じた条はずっと興味があったが、東洋を頭から幼稚と決めつけている上に、ブッダと老子を混同していてがっかりした。知らないことは書かなければいいのに、世界のすべてを理解しなければならないという強迫観念がヘーゲルらしいところだろうか。

 「第一章 タレスからアナクサゴラスまで」はヘーゲル流の発展ストーリーで完全制圧していて、本人としては得意なのだろう。

 「第二章 ソフィストからソクラテス派まで」のソクラテスを論じた条は自己へかえっていく意識と共同体が視野にはいってくる。『精神現象学』ではどうなっていただろうか。

 意外だったのは『雲』でソクラテスを笑いものにしたアリストファネスを「冗談の底にはまじめなポリスへの思いが横たわっている」と絶賛していることだ。『雲』は読んだことがあるが、そんな高級な喜劇ではない。

 次は中巻である。

第一部 ギリシャの哲学


第一篇 タレスからアリストテレスまで(つづき)

第三章 プラトンとアリストテレス

  1. プラトンの哲学
  2. アリストテレスの哲学

第二編 独断主義と懐疑主義
  1. ストア派の哲学
  2. エピクロスの哲学
  3. 新アカデメイア派の哲学
  4. 懐疑派の哲学

第三編 新プラトン派
  1. フィロン
  2. カバラとグノーシス主義
  3. アレクサンドリア派の哲学

 プラトンの条は力がこもっているのはわかるが、かなり無理があるのではないか。『エンチクロペディ』よろしく「弁証法」、「自然哲学」、「精神の哲学」にわけて論じており、「弁証法」を代表する作品として『ピレポス』、『ソフィスト』、『パルメニデス』、「自然哲学」を代表する作品として『テアイテトス』、「精神の哲学」を代表する作品として『国家』を論じている。この中では『国家』しか読んだことがないので「弁証法」と「自然哲学」は留保するが、プラトンの理想国家批判はいかにもヘーゲルである。

 すなわちプラトンの国家観はギリシアの発展段階(個の原理が確立せず、共同体の原理こそがすべての基礎をなす)にもとづくもので「どんな人も自分の時代をとびこえることはできない」のだから、近代的な視点から批判するのは見当はずれな見解をうむだけだというのだ。

 そう言いながらも、こう批判している。

 そもそも一つの理想が理念ないし概念の力によって真なる内容をもつとき、それは幻ではなく、真理です。そして、そのような理想は余計なものでも無力なものでもなく、現実的なものです。真の理想は実現されるべきものではなく、現実そのものであり、唯一の現実である。――そのことが第一に信じられなければなりません。ある理念が実現するには立派すぎるとすれば、それは理念そのものにいたらないところがある。プラトンの国家が幻であるとすれば、それはその国家をうけいれるほどには人類が立派ではないからではなく、立派に見える国家が人類にとって欠けるところがあるからです。

プラトンをうまくヘーゲル化できなかったので、面倒くさくなって滔々と自説を開陳したということだろうか。

 アリストテレスも『エンチクロペディ』に準じた論じ方をしているが、こちらはプラトンの条よりも無理がなく、説得力があるように感じた。

 「第二編 独断主義と懐疑主義」と「第三編 新プラトン派」は読んだことのない哲学者ばかりだが、発展ストーリーにうまくはまっていると思った。専門家の評価は別かもしれないが。

 中巻を読むのは骨だったが、下巻は一番面白かった。まず、目次。

第二部 中世の哲学

はじめに

第一篇 アラビアの哲学
  1. 議論派の哲学
  2. アリストテレスの注釈家たち
  3. ユダヤ人の哲学者たち

第二篇 スコラ哲学
  1. スコラ哲学とキリスト教の関係
  2. 歴史的概観
  3. スコラ派全体の一般的立場

第三篇 学問の復興
  1. 古代研究
  2. 哲学独自のこころみ
  3. 宗教改革

第三部 近代の哲学

はじめに

第一篇 ベーコンとベーメ
  1. フランシス・ベーコン
  2. ヤコブ・ベーメ

第二篇 思考する知性の時代

第一章 形而上学の時代

  1. 第一部門(デカルト、スピノザ、マルブランシュ)
  2. 第二部門(ロック、グロティウス、ホッブス、カドワース、プーフェンドルフ、ニュートン)
  3. 第三部門(ライプニッツ、ヴォルフ、通俗哲学)

第二章 移行期

  1. 観念論と懐疑主義(バークリー、ヒューム)
  2. スコットランド派の哲学(リード、ビーティ、オズワルド)
  3. フランスの哲学

第三篇 最新のドイツ哲学
  1. ヤコービ
  2. カント
  3. フィヒテ
  4. シェリング
  5. むすび

 「第二部 中世の哲学」の「はじめに」では原罪の意外な解釈が出てくる。ヘーゲルは「人間が生まれつき悪だ」というのは苛烈すぎるとし、こう述べている。

 原罪の観念をわたしたちのことばでいえば、人間のうまれつきの素朴なありかたは、神を前にした本来のありかたとはちがうもので、本来のありかたを実現しなければならないことが、まさに原罪を負っていることです。

 まさか智慧の林檎を食べたのは人間の本来の姿からの逸脱だと言っているわけではないだろうが、思いきったことを言うものだ。

 「第一篇アラビアの哲学」は固有名詞の羅列で終わっているが、近世西洋哲学の発展がアラビア哲学に負っていることをいち早く認めていたことだけでも評価すべきかもしれない。

 「第二篇スコラ哲学」では形式論理に終始したスコラ哲学を徹底的に罵倒しているが、注目すべきはスコラ哲学を生んだのはゲルマン民族の民族性だとしている点だ。ヘーゲルは自らもその一員であるゲルマン民族の野蛮さをこきおろすが、そこには後段につながる伏線が仕こまれている。

 この民族[ゲルマン]のうちには無限の苦痛、途方もない苦悩がうずまいていて、そのありさまは十字架上のキリストにも比すべきものです。かれらはこのたたかいをもちこたえねばならなかったので、たたかいの一面をなすのが哲学ですが、最初は外からおそいかかった哲学が、やがて精神の内部に位置づけられる。この未開民族は野蛮な鈍感さをしめしつつも、心や心情には深いものがあって、そこに精神の原理がはいりこむと、精神と自然のたたかいがどうしてもはげしい苦痛をもたらさないではすまない。

 ゲルマン民族が内包し、苦しんでいた矛盾から宗教改革と近代哲学が立ち上がってきたという見立てがヘーゲルの哲学史の肝になっているようである。

 野蛮で愚鈍だが、内心に敬虔な魂をもったゲルマン民族の代表者としてヘーゲルが最大の評価をあたえているのはベーメである。ベーメは「はじめてのドイツの哲学者」とされ、ベーコンやデカルトと同格かそれ以上に重く位置づけられている。Ich(わたし)と Nichts(否)にひっかけた Ichts という造語を堕天使ルチフェルとからめて考察した条は鬼気迫るものがあり、シェリングの『人間的自由の本質』に通ずるものがある。

 デカルトのことは千年の迂回の後に「哲学の土台をあらたにつくりだした英雄」と持ちあげているが、主体への回帰を評価しているだけで本心ではそんなに買っていないのではないか。

 意外だったのはスピノザに対する冷たい扱いである。近代哲学の中心に位置するとか、スピノザ主義にあらずんば哲学にあらずと書きながら、冷たく突きはなした書き方になっていて、ベーメに対する熱っぽい語り口とは対照的である。

 デカルトやスピノザに較べれば、英国の経験論者の方が共感をこめて語られている。ヘーゲルはベーコンを思いのほか買っているし、ロックに対しては罵詈雑言を浴びせる一方で個体性への注目を評価している。デカルトやスピノザが独断論的なのに対し、ベーコンやロックは外物にぶつかり、格闘し、乗り越えるという「経験」を重視しているからだろう。

 「第三篇 最新のドイツ哲学」はカントからフィヒテ、シェリングにいたるドイツ観念論を論じており、ヘーゲル哲学史の白眉というべき部分である。勝利者の傲慢さか、はっきり言って上から目線で書いている面がなきにしもあらずだが、先輩哲学者に真剣勝負を挑んでいて、思想のドラマの大団円をみる思いがする。

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『年表で読む哲学・思想小事典』 フォルシェ- (白水社)

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 哲学史関係の記事を年代順にならべた「読む事典」で、紀元前2300年頃のエジプト神学の誕生からドゥルーズ=ガタリの最後の共著『哲学とは何か』(1991)までをカバーしている。

 書店で本書を手にとった時、たまたま開いたのが529年にユスティアヌス帝がアカデメイアを閉鎖させた記事だった。そこにはこうあった。

 この年は古代哲学が終わりを告げる象徴的な年となる。
帝国のまとまりを維持するためには、宗教的統一が必要であった。そこで皇帝は、反キリスト教的なギリシア哲学者たちに対して教育活動を禁止した。彼はギリシアの方々の哲学学校を閉校させ、その後それらの財産を没収した。
ダマスキオス、シンプリキオス、エウラミオス、プリスキアノス、ヘルミアス、ディオゲネス、イシドロスといった六人の哲学者たちはペルシアに亡命し、五三二年にはメソポタミアのハランに定住した。この地はその後、イスラーム文化に対する〔ギリシア哲学の〕中継基地の役割を果たすことになる。

 6世紀にアカデメイアが900年余の歴史を閉じたことは知っていたが、それがユスティアヌス帝の哲学禁止令の一環であり、アカデメイア以外の哲学学校も閉鎖されていたとは知らなかった。しかも哲学者たちがペルシアに亡命してイスラム圏に哲学を移植したことまで書いてある。これは「買い」だと思った。

 原著はフランスのクセジュ文庫から古代・中世篇と近代篇の二分冊で出ているが、日本版は一冊にまとめ、堅牢なハードカバーで出た。値段ははるが、手もとにおいて長く使うにはこの方がありがたい。

 西洋哲学だけでなく、東洋やイスラム圏、ビザンチン圏の思想・宗教上の事件や世界史的な事件も載っている。ぱらぱらめくって拾い読みしていたが、面白くてつい何ページもつづけて読んでしまう。たとえば、アナクシマンドロスが謎めいた言葉を書きつけた頃、ペルシアではゾロアスター教が開教され、イスラエルでは第二イザヤの「主の僕の歌」や『ヨブ記』が書かれていた。中国で孔子が諸国を遊説していた頃、ギリシアではアイスキュロスやソフォクレスが悲劇を書いていた。ストアのゼノンがストア派を創始した頃、アレクサンドリアでは図書館の建設がはじまり、七十人訳聖書が翻訳されつつあった。

 錯覚にも気づかせてくれる。ストア派は普通の哲学史だとエピクロス派とこみでオマケのように語られるだけだが、本書にはストア派関係の項目が頻出し、紀元前3世紀から紀元後2世紀まで500年以上つづいた一大思想運動だったことがわかる。

 新プラトン派は教父哲学の前が定位置なので、プロティノスはキリスト教以前の人のように思いこんでいたが、なんとオリゲネスよりも後だったのである。ということはグノーシス主義よりもずっと後だ。グノーシス主義は新プラトン派の影響を受けたように書いた本があるが、そんなことはありえないのだ。

 ここで目次を紹介しておく。

第1章 哲学の創始者たち

  1. <始まる>ということの意味の問題
  2. 場所の問題―哲学はどこで始まったのか
  3. 目安となる時代
  4. 年代確定の問題―哲学の重要な創始者たち

第2章 理性の時代


第3章 大転換

  1. 歴史的遠近法による転換
  2. 古代の連続性

第4章 再開と再生の時代

  1. 中世は<暗黒時代>なのか、<未知の時代>なのか
  2. 中世の年代確定の問題―輪郭の揺らぐ中世
  3. 場所の問題―哲学は各地を放浪する

第5章 ルネサンス哲学―実り多いが曖昧な時期


第6章 古典期の哲学


第7章 啓蒙の時代


第8章 十九世紀―哲学と科学


第9章 哲学の二十世紀

 熊野本岩崎本を読んで、発展ストーリーで整理することに疑問をもったが、本書を読んでいくと発展ストーリーが多くの錯覚をうむということがよくわかる。本書は哲学史にありがちな錯覚を避ける上でも役に立つ。

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2009年12月30日

『西洋哲学史』 岩崎武雄 (有斐閣全書)

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 学生時代に読んで感銘を受けた本である。本書は1952年に初版が出て以来、半世紀以上にわたって版を重ねているロングセラーであり、簡にして要を得た哲学史として定評がある。今回、書店で健在なことを発見し、おおと声をあげた。

 本書は1961年と1975年に改訂されているが、1975年改訂では冒頭に「哲学史とは何か」という序論が追加されている。わたしは熊野純彦氏の『西洋哲学史』の感想を書いた際、哲学には発展などということがあるのかという疑問を述べたが、本書の序論はまさにこの問題をあつかっているのである。

 岩崎はヘーゲルによってはじめて哲学史は学問になったと認める一方、絶対精神の展開というヘーゲル流の形而上学を捨て去っても「なおかつ哲学史のうちに哲学思想の展開を見ることができるのみならず、むしろそう見るべきではないかと考える」と断言する。核心部分を引けばこうである。

 哲学者自身がたとえそれ以前の哲学と対決するという意識を持たず、ひたすら自己の思索によって新しい哲学思想を持つにいたったとしても、もしその新しい哲学思想が何らかの時代的意義を持つものでないとしたら、すなわちそれがそれ以前の哲学思想の持つ限界を乗り越えるという意味を持っていないとしたら、それは多くの人々にその意義を認められることはないであろう。そしてまた哲学史のうちに残ることもなく消えてしまうであろう。……中略……私はもとより哲学史上における思想の展開が論理的に必然的なものであったということを主張しようとするものではないが、少なくとも哲学史上に残ってくる哲学はそれ以前の哲学の限界を何らかの意味で越えてゆくという意味を持っているのであり、この意味で哲学史のうちには一貫した思想の展開が存すると考えるのである。

 岩崎の考え方を一言でいえば適者生存説の哲学版になるだろう。後世に残った哲学は残らなかった哲学を「越えている」というが、この場合の「越える」ことは前代の思想を否定しつつ保存することだとは限らない。前代の思想とはまったく無関係な思想が残ったら、それまでの伝統は途切れてしまう。後代の思想がそれまでの思想を内側に保持しつづけないとしたら、単なる流行の交代であって発展とはいえないだろう。絶対精神抜きの哲学史は成立するのだろうか。

 発展史観の問題は釈然としないが、今回岩崎本を読みかえして気がついたことがある。

 まず、目次を示そう。

序論 哲学史とは何か


第1編 古代哲学

第1章 創始期の哲学
  1. ミレトス学派
  2. エレア学派およびヘラクレイトス
  3. ピュタゴラス学派および多元論者
第2章 アテナイ期の哲学
  1. ソフィスト
  2. ソクラテス
  3. プラトン
  4. アリストテレス
第3章 ヘレニズム・ローマ時代の哲学

第1期 倫理時代

  1. ストア学派
  2. エピクロス学派
  3. 懐疑派

第2期 宗教時代

  1. ピロン
  2. 新プラトン学派

古代哲学の概観


第2編 中世哲学

第1章 教父哲学
  1. 護教家
  2. アレクサンドリアの学校
  3. アウグスティヌス
第2章 スコラ哲学
  1. 初期のスコラ哲学
  2. 中期のスコラ哲学
  3. 後期のスコラ哲学

中世哲学の概観


第3編 近世哲学

第1章 過渡時代の哲学
  1. 文芸復興期の哲学
  2. 自然科学確立期の哲学
第2章 17世紀の哲学
  1. デカルト
  2. ホッブス
  3. スピノザ
第3章 啓蒙時代の哲学
  1. ライプニッツおよびヴォルフ
  2. ロック
  3. バークリ
  4. ヒューム
第4章 カントの哲学
第5章 ドイツ観念論の哲学
  1. フィヒテ
  2. シェリング
  3. ヘーゲル
第6章 ヘーゲル以後の哲学

第1期 19世紀前半の哲学

  1. ショーペンハウアー
  2. ヘルバルト
  3. フォイエルバッハ
  4. コント

第2期 19世紀後半以降の哲学

  1. 実証主義的傾向
  2. 批判主義的傾向
  3. 非合理主義的傾向

近世哲学の概観

 波多野精一の『西洋哲学史要』の目次と比較してみるとわかるが、両者はよく似ているのである。新カント派時代の哲学史という大枠が共通している以上、似てくるのは当たり前だが、古代と中世の部分ではドゥンス・スコトゥスの条のように論旨の運びまで似ている箇所があったり、グノーシス主義のように見出しだけで実質的な中味のとぼしい箇所があったりする。

 プラトンとアリストテレスについては掘りさげた考察がおこなわれているが、古代編と中世編のそれ以外の話題については岩崎本は波多野本の強い影響下で書かれたらしい。

 もっとも本書の本領は近世編にあり、とりわけカントからヘーゲルにいたるドイツ観念論を祖述した条は岩崎本の独擅場で、今回読み直して多くを教えられた。ドイツ観念論をこんなにわかりやすく、魅力的に紹介した本は他に思いつかない。

 進化史観できれいにまとまりすぎているという印象はなくはないが、本書は伝統的な哲学史としてはもっとも完成度の高い本ではないかと思う。今後も哲学史の古典として長く読みつがれていくだろう。

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『西洋哲学史』上 熊野純彦 (岩波書店)
『西洋哲学史』下 熊野純彦 (岩波書店)

西洋哲学史 上巻
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西洋哲学史 下巻
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 ヘーゲルは『哲学史講義』の最初の部分で哲学史は単なる私見の陳列室であってはならず、発展する体系でなければならないと述べているが、ヘーゲル的な絶対精神が説得力を持たなくなった今日、発展ストーリーで整理する方がおかしくはないだろうか。

 哲学史ではヒュームの懐疑論に答えるためにカントが超越論哲学を編みだしたとか、カントの二元論を克服するためにフィヒテ、シェリングをへてヘーゲルが登場したというようなストリーが語られるが、ヒュームの提起した問題は本当にカントによって解決されたのだろうか。ヘーゲルの弁証法はカントの二元論を止揚したのだろうか。すくなくともカントによってヒュームが不要になったわけでも、ヘーゲルによってカントを読む意味がなくなったわけではないだろう。

 そもそも哲学の発展などということがありうるのだろうか。もし発展がないなら、歴史上の学説を陳列しただけの哲学史こそが望ましいのではないか。

 熊野純彦氏の『西洋哲学史』を読みながら、そのような疑問が頭に浮かんだ。

 急いでお断りしておくが、熊野氏は哲学には発展はないなどという暴論を主張しているわけではない。熊野氏の本はいい意味で陳列室的な哲学史なので、私が勝手に上記のような妄想をめぐらしただけである。

 熊野本が陳列室的だというのは二つの理由による。まず、新書判で上下巻あわせて500ページという限られた分量なのに、50人近い哲学者を原典のさわりを引用しながら紹介している点。

 概念的な説明だけだったら発展しているように見えたかもしれないが、原典の引用が並ぶと、それぞれが哲学史上の名だたる本だけに存在感が強烈で、とても発展の図式にはおさまりきらないのである。

 第二に学説の紹介にあたり、同時代の文脈から説明するだけでなく、時代を越えた反響にまでふれている点。

 ヘラクレイトスの条ではヘーゲルのヘラクレイトス解釈が引かれているし、古代原子論の提出した真空の問題ではデカルトとガッサンディの真空論争が言及されている。アンセルムスの神の存在論的証明ではデカルトやカント、ヘーゲルだけでなく、フレーゲの二階述語論理まで呼びだされる。ドゥンス・スコトゥスでは「想像的誤読」と断った上でだが、ドゥルーズの存在の一義性をめぐる議論が紹介されている。

 熊野本は一見バランスのとれた優等生的な哲学史に見えるが、中味を読んでみるとスリリングな刺激的な本である。

 ここで目次を紹介しよう。まず、上巻。

古代から中世へ

第1章 哲学の始原へ
タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス
第2章 ハルモニアへ
ピタゴラスとその学派、ヘラクレイトス、クセノファネス
第3章 存在の思考へ
パルメニデス、エレアのゼノン、メリッソス
第4章 四大と原子論
エンペドクレス、アナクサゴラス、デモクリトス
第5章 知者と愛知者
ソフィストたち、ソクラテス、ディオゲネス
第6章 イデアと世界
プラトン
第7章 自然のロゴス
アリストテレス
第8章 生と死の技法
ストア派の哲学者群像
第9章 古代の懐疑論
メガラ派、アカデメイア派、ピュロン主義
第10章 一者の思考へ
フィロン、プロティノス、プロクロス
第11章 神という真理
アウグスティヌス
第12章 一、善、永遠
ボエティウス
第13章 神性への道程
偽ディオニシオス、エリウゲナ、アンセルムス
第14章 哲学と神学と
トマス・アクィナス
第15章 神の絶対性へ
スコトゥス、オッカム、デカルト

 「ハルモニアへ」では万物流転はミレトス学派の共通の前提だという指摘がある。「知者と愛知者」ではソクラテスは「無知の知」を主張したことはなく、そもそも「無知の知」は論理的におかしいという見方が有力だとある。「生と死の技法」ではストア派の論理学の現代性にふれている。

 「古代の懐疑論」はあまりとりあげられることのないマイナーな哲学者の話で面白かった。「神という真理」ではデカルトの方法的懐疑の原型がアウグスティヌスにすでにあると指摘し、さらに時間論について踏みこんだ解説をくわえている。

 「一、善、永遠」はボエティウスを詳しく紹介していて、上巻では一番面白かった。「哲学と神学と」はトマス・アクィナスをあつかった章だが、アリストテレスの『霊魂論』の能動知性説をめぐる論争が興味深かった。「神の絶対性へ」ではオッカムよりもスコトゥスを大きくとりあげている。最近はスコトゥスの方が評価が高いようである。

 次は下巻である。

近代から現代へ

第1章 自己の根底へ
デカルト
第2章 近代形而上学
スアレス、マールブランシュ、スピノザ
第3章 経験論の形成
ロック
第4章 知識への反逆
バークリー
第5章 モナド論の夢
ライプニッツ
第6章 経験論の臨界
ヒューム
第7章 理性の深淵へ
カント
第8章 言語論の展開
コンディヤック、ルソー、ヘルダー
第9章 自我のゆくえ
マイモン、フィヒテ、シェリング
第10章 同一性と差異
ヘーゲル
第11章 批判知の起源
ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ
第12章 理念的な次元
ロッツェ、新カント学派、フレーゲ
第13章 生命論の成立
ベルクソン
第14章 現象の地平へ
フッサール
第15章 語りえぬもの
ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス

 「経験論の形成」ではロックの想定した論敵はデカルトではなく、ケンブリッジ・プラトン主義者だったという指摘し、生得観念やタブラ・ラサ説に話をつなげている。「モナド論の夢」ではライプニッツと易経の関係までふれている。

 「知識への反逆」はバークリー論だが、下巻ではここが一番面白かった。「経験論の臨界」ではドゥルーズのヒューム解釈が俎上に載せられている。

 「言語論の展開」は啓蒙主義時代をあつかうが、よくある百科全書とか英国かぶれといった視点ではなく、当時流行した言語起源論という視点が新鮮だ。バークリー論とともに下巻の白眉だろう。

 「自我の行方」はフィヒテとシェリングをあつかった章だが、この両所よりもマイモンというリトワニア出身のユダヤ人哲学者の方に紙幅をさいている。ドイツ観念論という難物をあつかうにしては分量が短すぎて何がなんだかわからない。もっと詳しい解説が読みたい。

 「理念的な次元」はフレーゲの数学基礎論の仕事にふれている。最後の章の「語りえぬもの」ではハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスにくわえてデリダまで出てくるが、この長さでは無茶である。

→上巻

→下巻

『エピソードで読む西洋哲学史』 堀川哲 (PHP新書)

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 哲学者には奇人変人が多く、紀元前三世紀には珍奇なエピソードを集めたディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』のような無類に面白い本まで書かれたが、本書はもしかしたらその近代版を意識したのかもしれない。堀川哲氏はデカルトから現代のリチャード・ローティまで、30人以上の哲学者の学説と肩の凝らないのエピソードを平明な語り口で披露している。

 もちろん哲学者は最終的には残した著作で判断されなければならないが、本書のようにどうやって食べていたか、どんな学校で勉強したかにこだわって見ていくと、通常の哲学史では切りおとされているものがいろいろ見えてくるのである。

 デカルトはラ・フレーシ学院というイエズス会がやっていた全寮制のエリート校で勉強したが、生来体が弱く、学院長が親族だったこともあって、朝寝坊してよい特権があたえられた。若い頃、軍隊にはいったが、無給士官というお客様待遇だったので、費用一切を自分で賄うかわりに戦闘義務がなく、朝寝坊の習慣もつづけることができた。デカルトは母親から一生困らないだけの財産を受け継いだが、その財産をすべて現金に換え、当時経済大国だったオランダで投資をした。今でいう財テクである。デカルトは朝寝坊の生活をつづけたが、晩年、名声が災いしてスウェーデン宮廷に強引にまねかれ、極寒の地で早起きしなければならなくなった。デカルトはわずか三ヶ月で体調を崩し急逝した。

 デカルトのような財産に恵まれなかった哲学者は若い頃、貴族の家庭教師や大学の私講師で食いつないだが、家庭教師や私講師の生活がどんなものだったかも紹介されている。アダム・スミスは週15時間、カントは週20時間も授業をやっていたそうである。

 18世紀の初版部数は千部が相場だったが、スミスの『国富論』は半年で売りきったのでベストセラーとされたが、ヒュームの『人性論』はまったく売れなかった。ヒュームは真面目な本は売れなかったが、『道徳・政治論集』のような軽いエッセイ集はベストセラーになったという。ディドロが論文ではなく、小説の形で思想を表現したのは本をたくさん売って生活費を稼ぐ必要があったからだった。

 マルクスの妻のイェニーは世界的な家電メーカー、フィリップスの創業者一族につらなる名門の出だったが、マルクスは政治的に過激なので定職につけず、収入がなかった。

 収入もないのにマルクス家の生活は贅沢である。生活水準を落として、労働者階級並の生活で我慢しようなどとはけっして考えない。では、生活費はどうしたか。友人のエンゲルスが面倒をみたのである。こういうのはスピノザと似ている。

 生涯独身で質素に暮らしたスピノザと、お金持ちのお嬢様と結婚し、四人の娘と一人の隠し子をもうけたマルクスを一緒にするのはおかしいが、友人頼みは共通している。本書ではふれられていないが、マルクスもロンドンで事務員になろうとしたことはあった。しかし字が汚いのと計算が不得意だったので採用にはいたらなかった。

 下部構造が上部構造を決定するというマルクスの主張はマルクス自身については当たっているのかもしれない。

 19世紀以降、フランスの名だたる哲学者のほとんどは高等師範学校エコール・ノルマル・シュペリウールという超エリート校(学生は公務員待遇で給料が出る)の出身だが、そのこととフランスの現代思想の反体制傾向が関係していると堀川氏は書いている。

 なぜサルトルもボーヴォワールも、その後の世代の知識人たちにしても、リベラル・デモクラシーでOKとならなかったか、それにはさまざまな理由があるけれど、どうやら一つにはエコール・ノルマル(高等師範)特有の心理もありそうである。彼らは資本主義が嫌いだというよりも、大衆社会が嫌いであるらしいのである。
 サルトルたちもまた民衆が自立した自由で民主的な社会を望むわけである。しかしデモクラシーは実際のところは大衆民主主義というかたちでしか実現されることはない。そこには愚民政治的な要素はあるし、非知性的でだらいのない大衆文化が登場するわけだ。ディズニーランド、援助交際、「ケータイを持ったサル」の世界が登場するのである。これがまあ言ってみれば現実のデモクラシーの社会である。この社会を(吉本隆明のように)基本的に肯定できるかどうか、そこに知識人の真価が問われることになる。

全面的に首肯はできないが、一つの見方ではあるだろう。

 ここで目次を見ておこう。

第Ⅰ部 これがモダンだ(十七~十八世紀)

第一章 機械と神
デカルト、スピノザ
第二章 イギリス人の哲学
ホッブス、ロック、ヒューム
第三章 百科全書派とルソー
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー

第Ⅱ部 調和の快感(十八~十九世紀)

第四章 モダンの優等生
アダム・スミス、カント
第五章 歴史の哲学
ヘーゲル、マルクス、エンゲルス

第Ⅲ部 歴史の終わり(二十世紀)

第六章 超人と精神分析
ニーチェ、ルー・ザロメ、ハイデガー、フッサール、アレント、フロイト、ウィトゲンシュタイン、ラッセル
第七章 フレンチ・コネクション
サルトル、高等師範学校、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ
第八章 コンピュータとDNA
ウィーナー、ドーキンス
第九章 リチャード・ローティのアメリカ
ローティ、チョムスキー、ロールズ

 御覧のようにアダム・スミスやローティに一章があてられるなど英米の哲学者が重視されている一方、ライプニッツ、フィヒテ、シェリングあたりは無視されており、総じてドイツの哲学者が弱い。それは中味についてもいえる

 英米哲学についても認識論で重要なバークリーは落ちていて、ロックやヒュームも認識論の面からではなく、社会契約説の面から評価されている。アダム・スミスがカントと同等か、それ以上に重視されていることからもわかるように、著者の関心は社会論にあり形而上学にはない。ロック、ヒューム、ルソーの社会系約説の比較はとても勉強になったけれども。

 20世紀についても同じで、英米哲学重視といっても、分析哲学にはほとんどふれず、ローティももっぱら社会運動家的側面からとりあげられている。

 面白い本ではあるが、これ一冊だと一面的になりかねない。岩崎武雄の『西洋哲学史』のようなドイツ哲学を中心とした本をあわせ読んだ方がいいだろう。

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2009年12月29日

『反哲学入門』 木田元 (新潮社)

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 本書は題名からして『反哲学史』とかぶっているが、中味も完全にかぶっている。異なるのは『反哲学史』が大学の講義を元にしているのに対し、本書は哲学とは縁遠い若い女性編集者に語った録音を原稿に起こし、新潮社のPR誌『波』に連載した点である。『反哲学史』も驚異的にわかりやすかったが、本書はそれ以上にわかりやすい本を目指しているのである。

 結果はどうか?

 わたしの見るところ、デカルト以降は本書の方がいいが、古代・中世をあつかった前半部分は前著の方がよかったと思う。

 急いでつけくわえておくが、本書は前著の二番煎じにならないように、前半部分にも新しい論点が追加されている。ギリシア土着の自然観と日本土着の自然観がよく似ているという指摘は前著にもあったが、本書では丸山眞男の「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』所収)に出てくる、世界のさまざまの民族の宇宙創成神話が「なる」「うむ」「つくる」という三つの動詞のどれかに分類できるという説を引き、ギリシアと日本の土着の自然観がともに「なる」系なの対し、プラトンはセム民族の「つくる」系の自然観を持ちこんだとしている。ちなみに西欧の「自然」という言葉の語源となったラテン語の natura は「うむ」系だそうである。

 芽生え生長していく、おのずから「なる」自然から生命力を奪い、「つくられる」自然、材料としての自然に置き換えたところに哲学的思考の本質があるとするのがニーチェにはじまる哲学批判の流れである。

 「なる」「うむ」「つくる」という分類は面白いが、その点を考慮しても本書の前半部分は前著におよばないような感想をもった。前著がそれだけみごとに書かれているからだが、それだけでなく、本書の前半部分はちょっと崩しすぎではないかという印象を受けるのだ。

 一方、近代をあつかった後半部分は本書の方が断然いい。前著は講義が元だけに学期末が迫ってきて駆け足になり、十分展開しきらなかった憾みが残ったが、本書は数学化された自然の成立を実にすっきり説明しており、「主観」と「客観」という言葉が近代にまって逆転した顚末などほとんど名人芸を見る思いがする。

 また最終章は「反哲学」の大成者であるハイデガーにまるまるあてており、「反哲学史」がようやく完結したという手応えをもつことができた(推測だが、木田氏自身、前著の後半部分には満足していなかったので、本書の企画に乗ったということはないだろうか)。

 勝手なことを言うと、前著の1~6章の後に本書の4章以降をつなげ、序文で「なる」「うむ」「つくる」の三類型にふれた本を作れば、最強のハイデガー系哲学史になるのではないか。

 最後に目次を載せておく。

第1章 哲学は欧米人だけの思考法である
第2章 古代ギリシアで起こったこと
第3章 哲学とキリスト教の深い関係
第4章 近代哲学の展開
第5章 「反哲学」の誕生
第6章 ハイデガーの二十世紀

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『反哲学史』 木田元 (講談社学術文庫)
『現代の哲学』 木田元 (講談社学術文庫)

反哲学史
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現代の哲学
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 『反哲学史』は立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)で波多野精一の『西洋哲学史要』とともに哲学史の名著として紹介されていたが、すごい本である。こんなにわかりやすく、しかも核心を素手で摑みとってきたような哲学史が日本語で書かれるようになったのだ。

 著者は日本の哲学者には珍らしい波瀾万丈の前半生を送っているが、そのこととざっくばらんな語り口は無関係ではないだろう。

 『反哲学史』という表題はケレンのようだが、決してケレンではない。「反哲学」という言葉を使いはじめたのはメルロ=ポンティだったが、メルロ=ポンティがそのようなことを言いだした背景には「西洋哲学」が決して普遍的な真理ではなく、非常に偏った一種病的ともいえる思考様式にすぎないとするニーチェ以来の「哲学」批判の潮流がある。ハイデガーの「存在の忘却」批判も、構造主義の西洋中心主義批判も、デリダの脱構築も、後期フッサールの「生活世界」への還帰もこの流れに棹さすものといえる。「反哲学」は現代思想の本流なのである。

 著者はプラトン以来の「哲学」とは「この現実の自然の外になんらかの超自然的原理を設定し、それに照準を合わせながらこの自然を見てゆこうとする特殊なものの考え方、思考様式」であり、自然を植物のようにおのずから芽生え生長する「フュジス」としてとらえたギリシア土着の考え方とは異質だと指摘する。科学が自然を死物視する非ギリシア的な「哲学」という思考様式の上に立脚していることは見やすいが、問題はなぜこのような思考様式が生まれたかだ。

 ハイデガーやデリダは「哲学」の起源を秘教的な言葉で語ったが、著者はプラトンがギリシア本来の考え方に逆らって「哲学」を編みださなければならなかった事情をアテネの没落とソクラテスの刑死という時代状況から説明している。自然の内なる生命力を肯定するギリシア土着の考え方にしたがう限り、ポリスのコントロールはできない。ポリスをコントロールし、ソクラテスの刑死のような衆愚政治に歯止めをかけるには世界を被造物ととらえるセム系の考え方に切り替える必要がある。あまりにもわかりやすすぎて拍子抜けしないではないが、なるほどと思う。

 プラトンの編みだした「哲学」はアリストテレスによって一旦はギリシア土着の考え方に引きもどされるが、超自然的原理から自然を説明するという根本は変わることはなく、キリスト教に合流することになる。

 「哲学」は近代の科学革命の流れの中で新たな展開をはじめ、自然を数量化してとらえる力学的自然観となって全世界を席巻するようになった。

 本書は力学的自然観の完成と19世紀末に表面化したそのほころびまでをあつかっている。以下に本書の目次を示す。

第1章 ソクラテスと「哲学」の誕生
第2章 アイロニーとしての哲学
第3章 ソクラテス裁判
第4章 ソクラテス以前の思想家たちの自然観
第5章 プラトンのイデア論
第6章 アリストテレスの形而上学
第7章 デカルトと近代哲学の創建
第8章 カントと近代哲学の展開
第9章 ヘーゲルと近代哲学の完成
第10章 形而上学克服の試み
後期シェリングと実存哲学
マルクスの自然主義
ニーチェと「力への意志」の哲学
終章 十九世紀から二十世紀へ

 第6章までは間然するところのない叙述であるが、第7章以降、駆け足になってテンションが下がったような印象がある。大学の講義を元にした本なので、学期末にあわせて話を急いだのだろうか。そこが本書の唯一の不満である。

 この目次構成を見ると、新田義弘氏の名著、『哲学の歴史』(講談社現代新書)と似ていると思う人がいるかもしれない。どちらもニーチェ以来の「哲学」批判の流れの中で書かれた本なので似てくるのは当然だが、木田氏はハイデガー、新田氏は後期フッサールに依拠しているので、視角はかなり異なる。より深く理解したい人は両著を読みくらべるといいだろう。

 『反哲学史』は19世紀末までしかカバーしておらず、20世紀については『現代の哲学』を読んでほしいとある。そこで読んでみたが、『現代の哲学』は『反哲学史』の単純な続編ではなかった。

 『反哲学史』は1995年刊行だが、『現代の哲学』はそれより四半世紀前の1969年に刊行されていたのである。『現代の哲学』といっても、1969年時点での「現代の哲学」であり、構造主義は最後の章でわずかにふれられる程度、ポスト構造主義にいたっては影も形もない。文章は若書きで今ほどわかりやすくはないし、肝腎の「反哲学」の視点も明確には出てこない。

 『現代の哲学』に『反哲学史』の続編を期待するとがっかりするが、読み進むうちに本書には別のよさがあることに気がついた。

 どのような構成になっているのか、目次を示そう。

序 理性の崩壊
1 20世紀初頭の知的状況
1 科学の危機
2 人間諸科学をめぐる問題
3 現代哲学の課題
2 人間存在の基礎構造
1 事象そのものへ――生活世界への還帰
2 世界内存在(一)――物理的構造と有機的構造
3 世界内存在(二)――シグナル行動とシンボル行動
4 世界内存在(三)――フッサール
5 世界内存在(四)――ハイデガー
6 情動の現象――サルトル
3 身体の問題
1 心身の関係(一)――幻影肢のばあい
2 心身の関係(二)――心身の区別と統一
3 身体的実存(一)――精神盲のばあい
4 身体的実存(二)――シンボル機能の基盤
5 性的存在――フロイト
4 言語と社会
1 言語(一)――話者への還帰
2 言語(二)――ことばのもつ実存的意味
3 言語(三)――ソシュール
4 相互主観性(一)――サルトルとメルロ=ポンティ
5 相互主観性(二)――ヴァロン
6 人間と社会構造――レヴィ=ストロースとマルクス
7 状況と自由――意味の発生と意味付与
5 今日の知的状況
1 マルクス主義哲学の問題(一)――レーニン主義と西欧マルクス主義
2 マルクス主義哲学の問題(二)――人間主義と構造主義
3 構造主義――レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー
4 構造と人間

 本書は現象学の視点からというか、身体論の延長で言語を考察した本なのである。メルロ=ポンティは動物行動学や人類学、児童心理学の成果を大胆にとりこみ、ハイデガーもユクスキュルの環境世界論の影響を受けていたが、本書も科学の知見を積極的に参照している。

 構造主義の流行以降、言語を数学的なシステムと見る見方が主流になった。ポスト構造主義は言語=システム観を批判したものの、数学的なシステムにおさまりきらない余剰に注目したにすぎず、言語=システム観から抜けきれていない。

 本書を読んで、メルロ=ポンティ的な身体論から言語に接近する方法は決して古びていないと再認識した。構造主義以後の言語観しか知らない人は本書から得るものが大きいだろう。

→『反哲学史』

→『現代の哲学』

2009年12月28日

『西洋哲学史要』 波多野精一 (未知谷)

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 立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)で木田元の『反哲学史』とともに哲学史の名著として紹介されていた本である。

 波多野精一は『基督教の起源』(岩波文庫)、『原始キリスト教』(岩波全書)で知られている宗教哲学者だが、本書の評価も高く、現在ではマルクス学者の牧野紀之氏による再話版(現代語訳)が版を重ねている。

 牧野氏の再話がどのようなものか、冒頭部分で見てみよう。まずオリジナル。

 西洋古代の哲學史は殆ど全く希臘哲學史といもいふべきものなり。只アリストテレース以後の時代に於て希臘の哲學思想は羅馬帝國に傳はりて其の人文の一大勢力をなしたるものの、其時すら創始原造の見とては殆ど無く、皆希臘に於て旣に唱へ出でられたるものを或は補充し或は通俗化したるものに過ぎざりき。

 きびきびした躍動感あふれる名文だと思うが、文語体に慣れていない人には敷居が高いだろう。牧野氏はこれを次のように現代日本語に移している。

 西洋古代の哲学史はほとんど完全にギリシャ哲学史と重なる、と言って好いと思います。たしかにアリストテレス以後の時代、ギリシャの哲学思想はローマ帝国に伝わってその文化の一大勢力となりましたが、その時でもローマで広まった思想には独創的な点がほとんどなく、皆ギリシャで既に唱えられたものを補充したり通俗化したりしたものにすぎませんでした。

 オリジナルの断定を「と言って好いと思います」とやわらげている分、躍動感が薄れたような印象があるが、明快な論旨はちゃんと受け継がれている。

 オリジナルは明治34年(1901年)に弱冠25歳だった波多野が書いている。いくら名著の評判が高いとはいえ、100年以上前に25歳の青年の書いたものがどれほどのものかという興味で読んでみたが、面白くてたちまち引きこまれた。

 哲学史は哲学の学説史という視野で完結する傾向があるが、波多野は時代背景を簡潔に紹介した上で、どういう課題に答えるためにその哲学が出てきたかという視点で叙述しているのである。

 ギリシア哲学はギリシア本土ではなく小アジアのギリシア植民都市で生まれたが、それは本土がいまだ未開だったのに対し、小アジアの植民都市は地中海貿易で諸国と交流し商業が栄えていたからだと説明している。プラトンの哲人政治説にしても、プラトンの時代のギリシアは国運衰退期にあたり、政治が乱れていたのであのような理想国家を説いたのだとしている。

 ここで全体の構成を紹介しておく。

古代哲学史

第1篇 アリストテレスにいたる迄のギリシャ哲学
第1章 ミレトス学派
第2章 生成の問題
第3章 生成の説明
第4章 開明時代の哲学
第5章 デモクリトスの唯物論とプラトンの観念論
第6章 アリストテレス
第2篇 アリストテレス以後のギリシャ哲学
第1章 倫理時代の哲学
第2章 宗教時代の哲学

中世哲学史

第1篇 教父時代の哲学
第1章 ニカイア会議以前の時代
第2章 ニカイア会議以後の時代
第2篇 スコラ哲学
第1章 スコラ哲学の発生
第2章 実在論と名目論
第3章 トマスとスコットゥス
第4章 スコラ哲学の衰頽

近世哲学史

第1篇 カント以前の哲学
第1章 過渡時代
第2章 イギリス経験論
第3章 デカルト
第4章 スピノザ
第5章 ライプニッツ
第6章 ロック
第7章 バークレー
第8章 ヒューム
第2篇 カント及びカント以後の哲学
第1章 カント
第2章 フィヒテ
第3章 シェリング
第4章 ヘーゲル
第5章 ヘーゲルの反対者
第6章 ヘーゲル派の分裂と唯物論の勃興
第7章 唯物論の反対者
第8章 一九世紀の英仏の哲学

 アリストテレスを古代哲学の頂点と評価するが、波多野は早くも共通感覚に注目している。

 これらの感覚を統合して事物全体の知覚を作ったり、諸々の感覚器官に共通な事物の関係とか時間的空間的な関係と運動の状態を看取したりするのは中央器官で、これはここの感覚器官とは別に備わります。アリストテレスはこれを「共通感覚」と呼び、その座は心臓にあるとしました。この中央器官にはさらに自覚の働きがありまして、外界の物を知覚するだけでなく、その知覚の働きを知覚する作用があります。外界の刺戟が去ってからも知覚に痕跡が「想像」として残るのはこの中央器官の働きによるのです。この想像が過去の知覚の模像である場合には、それは「想起」となります。

 意外だったのは哲学史では軽視されがちな古代後期から中世にかけての叙述が充実していることである。新プラトン派については「学者の宗教」と断った上でかなり立ち入った紹介をしているし、アウグスティヌス一辺倒になりがちな教父哲学についてはニケア信経確立以前の混乱期について一章をさき、正統信仰を脅かしたグノーシス主義に踏みこんでいる。また、ドゥンス・スコトゥスをトマス・アクィナスと対等に扱っている点も目を引く。1901年の時点でこういう本が日本で書かれていたとは驚くべきことだ。波多野の宗教哲学の本を読んでみたくなった。

 古代篇と中世篇は今読んでも新鮮だが、近世篇となるとちょっと古いかなという印象は否めない。もっとも古さも徹底すると面白くて、「ヘーゲルの反対者」としてヘルバルトとハルトマン、「唯物論の反対者」としてランゲ、フェヒナーといった今日では忘れられた哲学者を挙げている点は興味深い。

 波多野は宗教哲学者として名前が残っているが、本書の隠し味となっているのは宗教哲学とは正反対の唯物史観だと思う。唯物史観一辺倒だと賞味期限切れになるが、唯物史観的な見方を踏まえた上で、それを乗り越えようと努力したことが生気あふれる記述につながったのではないか。

 こういう素晴らしい本を現代に甦らせてくれた再話者の牧野氏には感謝したいが、現代的視点からの注をくわえるのは必要にしても、いささか出しゃばりすぎという印象がなくはない。巻末にマルクス主義についての紹介が再話者によって追加されているが、古色蒼然たる反映論で、百年前に書かれた本篇よりよほど黴臭いのである。

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2009年10月31日

『ロシア 闇と魂の国家』 亀山郁夫&佐藤優 (文春新書)

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 『カラマーゾフの兄弟』の新訳で一般読書界にも知られるようになった亀山郁夫氏との対談本である。

 亀山氏も佐藤氏も今ではジャーナリズムのスターであるが、もともとロシア語業界というマニアックで狭い世界の住人だけに、『罪と罰』のソーニャの聖書というディープな話題にいきなりつっこんでいく。

 ソーニャがもっていた革装の聖書については故江川卓氏が古い訳だったことをつきとめ、分離派ラスコーリニキィの影響説の傍証としたが、分離派の共同体の中で育った「黒い大佐」ことアルクスニスをよく知る佐藤氏は分離派は動物の革を教会にもちこむことを嫌うから、江川説は無理だと指摘する。そして当時の聖書はいつでも換金できる高価な商品だったので、ソーニャは財産保全か投機のために革装の聖書をもっていた可能性があるとつづける。いざという時のために純金の十字架を身につけておくようなものだろう。

 こういう話にぞくぞくするかどうかで、本書を楽しめるかどうかが決まる。わたしはぞくぞくする方なので舌なめずりしながら読んだが、佐藤氏に実学の知識を期待する人にとっては無用の本かもしれない。

 無用の話をつづける。ソ連時代はインテリにとっては息苦しかったが、庶民にとっては幸福な時代だったらしい。スターリン時代はいつ収容所送りになるかわからない緊張感があり、フルシチョフ時代もその緊張感が残っていたが、ブレジネフ時代になると規律がゆるみ、一日三時間しか働かなくても食うには困らない「甘い腐臭」のただよう社会ができあがる。ウォッカでへろへろに酔った時の陶酔感とか、ユーフォリアの時代とか、貧しい平等とか、両氏はさまざまに形容して思いいれたっぷりに語り、亀山氏にいたっては「あの時代のソ連なら、住んでも悪くない」とまで述べている。

 ブレジネフ時代が一種の「黄金時代」だったことについては『国家の崩壊』に冷静な分析がある。オイルショックの結果、産油国であるソ連には潤沢なオイルマネーがはいるようになったが、ブレジネフ政権は肉とウォッカとパンの価格をひきさげ、国民にたらふく食わせて飲ませる愚民政策をとっていたというのである。愚民政策の時代を本書では手放しで賞賛し、懐かしがっているわけで、両氏ともすっかりロシア人の気分になっているようだ。

 キリスト教の美徳であるケノーシスがロシアでは集団主義と融合して独特の発展をとげているという指摘も興味深い。ケノーシスは「謙遜」とか「へりくだり」と訳されることが多いが、ロシア的なケノーシスに佐藤氏は「他者のための奉仕」、「まこと心」、亀山氏は「おバカさん」という日本語をあてている。欧米人には日本の「神風の精神」は理解不能だが、ロシア人はドイツとの大祖国戦争をケノーシスで戦ったので理解できるというのである。中国や韓国・北朝鮮が靖国に神経をとがらせるのに、同じ隣国でありながらロシアが不問に付しているのはケノーシスのためではないかという。

 本書は佐藤氏の著作の中では密教系に属する本だろう。深い話が読めて満足だったけれども、誤解を招きそうな部分もすくなくない。

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2009年10月30日

『なぜ私は生きているか』 フロマートカ (新教出版社)

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 佐藤優氏が私淑するチェコの神学者、ヨゼフ・ルクル・フロマートカの自伝である。佐藤氏自身が翻訳しているが、佐藤氏の本のようにすらすら読めるわけではない。本文わずか140ページだが、読みきるのに三日かかった。

 本書が読みにくいにはいくつか理由がある。

 まず第一にチェコの歴史・地理を知っている読者向けに書かれていることである。わたしは本文から読みはじめたが、いきなりプロテスタントが山の中に立て籠もる話が出てきて面食らった。よほどチェコに詳しい人でない限り、まず巻末の解説を熟読した上で本文にかかった方がいい。

 第二に自伝とは言い条、具体的な話があまり出てこないこと。生い立ちと経歴にふれているのは最初の30ページだけで、それ以降は抽象的な時代分析に終始している。まるで牧師の説教のようなのだ。

 第三に「プラハの春」に向かう時期に書かれたとはいえ、共産党政権とソ連に対して非常に気をつかった書き方になっていること。留保に留保をかさね何重にも逃げをうっているので、読んでいて苛々してくる。

 たとえば、第二次大戦後のソ連による東欧侵略についてはこう書かれている。

 東ヨーロッパすなわちソ連とのチェコスロバキアの同盟は、私見によるならば、戦前の過ち、戦争の惨禍の不可避の結果であり、ソ連で実現した社会革命の到達目標であった。大戦中のソ連国民の惨禍は筆舌につくし難い。ソ連国民の犠牲者は数えきれないほどである。戦間期にソ連が国際社会から排除されていたことを忘れてはならない。新秩序建設におけるソ連の権利は、ソ連国民が血で払った勝利に基づいている。ソ連は戦争を強いられ、またソ連のエルベ川への進撃は、支配をもくろむ攻撃的傾向から生じたのではなく、生死を賭けた闘争の結果である。さらに、最も困難な危機の際に、チェコスロバキア国民は西欧諸国から見捨てられ、ナチス・ドイツの手に渡されたことを忘れることはできない。

 「支配をもくろむ攻撃的傾向から生じたのではなく」などと書いてあると、バルト併合やポーランド分割はどうなのだと茶々をいれたくなるが、もちろん、フロマートカはそんなことは百も承知のはずである。こういう書き方しかできなかったということはわかるが、それにしてもソ連に気を使いすぎではないか。「赤い神学者」という批判ももっともかと思わないではない。

 真意のとりにくい折れ曲がった文章をたどるのは気分が滅入るが、我慢して読みすすんでいくと、二枚腰のつよさがだんだんとわかってくる。ソ連に迎合しているのは表面だけで、その下には不屈の精神が底光りしているのである。フロマートカはキリスト教のめざすものと共産主義のめざすものは同じであり、キリスト教がやるべきことを怠っていたから共産主義が代わりにやったとくりかえすが、これは迎合すると見せかけて共産主義をキリスト教に呑みこもうとしているのではないか。そう考えると、次の条などは感動的だ。

 教会は、常に動いている信徒の共同体であり、そして信徒は聖なる慈愛に満ちた神に向かってへりくだって行くのである。教会は、人間の強さと弱さのすべての中で、喜びと絶望の中で、人間を忘れたことは決してない。このことによってわれわれは、無防備なところからわれわれを十字架の陰へと導いて下さる方が最終的勝利者であり、今後も最終的勝利者であることを信じることができるのである。

 神学のことはわからないが、共産主義政権と妥協しながらも信念を貫こうとした学究がここにいるということは感得できる。

 こういう人がどんなドストエフスキー論を書いたのだろうか。読んでみたいものである。

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『神学部とは何か』 佐藤優 (新教出版社)

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 「非キリスト教徒にとっての神学入門」という副題がついているが、佐藤優氏が母校の同志社大学で非キリスト教徒の学生に神学に関心をもってもらうためにおこなった講演がもとになっており、神学がいかにおもしろいか、神学部の勉強がいかに役に立ったかが力説されている。あろうことか現存する六つの大学の神学部の入学案内がコラムとして挿入されていて、卒業生の行き先なども書かれている。

 神学部の客引きをはじめたのかと思ったが、そういう面は確かにあるものの、すくなくとも第一章「神学とは何か」に関する限り、学問論として出色の文章となっている。

 最初に「神学は虚学である」と宣言しているのがうまい。「虚学」というのは著者による造語で「見えない事柄を対象とする知的営為」をさし、普通の学問=実学の「実」を土台でら支えるのが「虚」の部分であり、ヨーロッパでは神学部がないと university(綜合大学)を名乗れないとたたみかける。

 著者によると哲学や文学は神学と比べるとまだ「実学」なのだそうである。その証拠として著者は神学の二つの特徴をあげる。「神学では論理的整合性の低い方が勝利する」ことと「神学論争は積み重ねられない」ことである。

 文学は微妙だが、哲学については論理的整合性の高い方が勝つし、三千年にわたってつみかさねられてきた哲学史が厳然と存在する。哲学は間違いなく学問といえる。ところが神学は「論理的に正しい者が負けて、間違っている者が政治的に勝利する」傾向がある上に、同じような論争が数百年周期でくりかえされる。無駄というならこれほど無駄な営みはないだろう。

 神学がそうなる理由を著者は「絶対的な結論が出ない問題について議論している」からだと喝破する。それは神学は真理の探求ではないと言っているに等しい。神学論争とは真理に到達するための論争ではなく論争のための論争であり、神学的思索もまた思索のための思索だろう。しかし、真理を求めない学問に何の意味があるのだろうか。

 著者はだから神学は役に立つと開き直る。人間は有限で、いつかは死ぬ。人生とは何かと考えても、答えは出るはずがない。人生とは何かを考えなければならなくなった時に、答えのない思索をくりかえしてきた神学こそが役に立つというわけだ。

(実にみごとな弁証法で、こういう黒を白といいくるめる技術を身につけるには神学が一番だという見本を見せてくれている。)

 神学の四分類(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)が簡潔に紹介してあるのはありがたい。佐藤氏によってにわかに知られるようになった「組織神学」とは言語学における共時言語学のようなものらしい。

 第二章「私の神学生時代」の最初と最後は『私とマルクス』と『自壊する帝国』の二番煎じでどうということはないが、真ん中の部分はボンヘッファー、カール・バルト、フロマート力という現代を代表する神学者の仕事を紹介していて勉強になる。ナチスが「ドイツ的キリスト者」という国家教会運動を推進していたとか、興味の引かれる話が出てくる。

 第三章「神学部とは何か」は神学業界の話で、これがおもしろい。

 前半は欧米の、後半は日本の業界事情で、全共闘運動以降、日本の神学は聖書神学一辺倒になり、組織神学が著しく縮小したことを「神学が本来持っていたはずの大事なものを落としてしまった」と批判している。

 部外者もそれは感じている。田川健三氏の影響が大きいと思うが、非キリスト教徒の目にはいる神学書は聖書神学の本ばかりで、組織神学という分野があることを佐藤氏の本ではじめて知ったという人は多いと思う(わたしもその一人だが)。

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2009年10月27日

『私のマルクス』 佐藤優 (文藝春秋)

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 佐藤優氏の思想的自伝である。いくら『国家の罠』がすごい本だからといって、自伝を書くのは30年早いんじゃないかと思ったが、これはこれで腹にこたえる読物になっていた。

 両親の経歴にはじまり、生い立ちから高校時代、同志社大学神学部入学と進んでいくが、そのすべてが「濃い」のである。

 たとえば高校時代。生徒会と文芸部と応援団(!)をかけもちしたというだけでも常人ではないが、高校一年の夏休みにはチェコのペンフレンドを訪ねて東欧の一人旅に出ているし、二年の時には社青同向坂派に加入してマルクス主義文献の学習会に通い、教会にも顔を出している。

 キリスト教とマルクス主義は佐藤氏の思想的バックボーンだが、このミスマッチな組みあわせのルーツは母親にあったようだ。佐藤氏の母は沖縄出身で、第二次大戦中、女学生ながら電話交換手や看護士として軍にしたがい、あわや自決というところまでいったという。戦後、キリスト教の洗礼を受ける一方、後に社会党の県会議員になる兄の影響で熱烈な社会党支持者となる。

 十代にしてキリスト教とマルクス主義という二大思想をかかえこんだ著者は無神論の研究を志し、そういう無茶苦茶なことをやりたいなら同志社の神学部しかないといわれて同志社の門をたたくことになる。

 同志社大学は東京の大学からは想像もつかないくらい「濃い」大学で、「同志社ガラパゴス」と呼ばれているほどだそうである。その同志社の中でもとびきり「濃い」のが神学部だった。

 これまでに読んだ佐藤氏の本はモスクワとか外務省とか東京拘置所といった異世界が舞台だったが、本書は大学が主な舞台となっているのでやけに生々しく、むせかえるような体臭がもわっと襲ってきた。絶対にかかわりあいになりたくないタイプである。

 佐藤氏は神学部自治会が不法占拠位していた「アザーワールド」と呼ばれる研究室にいりびたるが、神学部の教授会はこの不法占拠を黙認していた。

 あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序にはまらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。

 理屈はいくらでもつけられるだろうが、要するに血の気の多い学生が集まっていたということである。血の気の多い学生は左翼運動で騒いでいても、最後はクリスチャンになると牧師でもある教授たちは見切っていた。佐藤氏も洗礼を受けて正式のクリスチャンになっている。

 氏のライフストーリーはどうでもいいし、労農派マルクス主義にも興味はないが、面白い知見がそこここにちりばめられている。

 マルクスの文体が三回変わり、『ドイツ・イデオロギー』以降はタルムード的になるというのはその通りだろう。マルクスはアジア的生産様式を低く見ていなかったのに、ソ連の公式イデオロギーは「アジア的」に否定的な意味あいをつけくわえたというのは知らなかった。ソ連のイデオロギー官僚はそういう改変をする一方、アジア的生産様式を評価したメモを全集に収録して、インテリゲンチャとしての使命を果たしているという。

 田川健三と廣松渉については突きはなした見方をしているが、宇野弘蔵には賛辞を捧げている。宇野が労農派の流れから出てきたということもあるが、経済学を純化するために唯物史観を経済学の外にくくり出した理論構成が、キリスト教とマルクス主義を結合するのに具合がいいということもあるようだ。

 著者が学部と大学院を通じて研究対象にし、外務省にはいるきっかけともなったフロマートカと東欧神学に関する記述には力がはいっている。

 西欧ではカトリック内改革運動とされるフス派の運動は、東欧では宗教改革の第一期に位置づけるそうだ。カール・バルトの弁証法神学が19世紀の自由主義神学と連続しているという見方が東欧では当たり前になっているという指摘もへえーである。佐藤氏が訳したフロマートカの自伝を読みたくなった。

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2008年11月30日

『1冊でわかるユダヤ教』 ノーマン・ソロモン (岩波書店)

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 オックスフォード大で教鞭をとっていたラビによるユダヤ教の入門書である。

 本書は9章にわかれる。1~3章はユダヤ教とユダヤ人の長い歴史を解説し、4~6章はユダヤ教の風習を紹介する。7~9章では19世紀以降の激動の歴史の中で試行錯誤してきたユダヤ教の姿を描いている。

 小さい本なのに情報量が多いが、百科事典的な羅列ではなく、血の通った叙述になっている。ユダヤ人をなんとかわかってもらいたいという著者の姿勢のゆえだろう。

 ユダヤ教はキリスト教の母体といわれることが多いが、旧約聖書にもとづく信仰をそのまま残しているわけではない。キリスト教がわかれた後、ユダヤ人は信仰の中心だった神殿をローマ帝国によって破壊され、イスラエル王国の故地からも追われる。イスラエル王国時代のユダヤ教はサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派等々多様な流れがあったが、離散生活の中でファリサイ派の流れだけが生き残り、ラビと呼ばれる宗教指導者によってユダヤ人のアイデンティティが維持された。異民族の中で律法を守りつづけるために口伝が重視され、口伝とその解釈を記した膨大なタルムードが編纂され、旧約聖書に次ぐ典拠として尊重された。いわゆるユダヤ教とは、このラビ的ユダヤ教のことなのである。

 本書の内容は多岐にわたるが、一番の読みどころはユダヤ人のアイデンティティを論じた第一章「ユダヤ人は誰か」だと思われる。

 ユダヤ人はキリスト教圏でもイスラム教圏でも差別を受けたが、差別の不当性を強調するあまり、サルトルの『ユダヤ人』のように、ユダヤ人とは「他の人々がユダヤ人と考えている人々」と極論するのは、ユダヤ人のアイデンティティを無視した暴論だろう。外部から見れば差別問題であっても、ユダヤ人の側から見ればユダヤ人としてのアイデンティティの問題なのだ。

 ゲットーに閉じこめられていた中世、ユダヤ人のアイデンティティは自明で、そんなことで悩む者はいなかった。迫害を受けても、「主は愛する者を懲らしめられる(「箴言」)で、「選ばれた民」である証と受けとられた。ところが啓蒙主義の時代になり、市民としての権利がユダヤ人にも認められるようになると、ユダヤ人としてのアイデンティティがゆらぎはじめる。差別が薄れたことで、「選ばれた民」である自信が怪しくなったからである。

 だが、啓蒙主義時代が終わり民族主義が勃興すると、ユダヤ人差別が再び激化し、近代的な反ユダヤ主義が形成されていく。ユダヤ人の側にも迫害に対抗する宗教的熱情が生まれ、それがシオニズムにつながっていくが、すべてのユダヤ人がユダヤ人の誇りを取り戻そうとしたわけではないという。

 近代社会に同化することを選んだユダヤ人もいて、彼らはユダヤ人蔑視の価値観を受けいれ、自らがユダヤ人であることを恥じるようになっていく。著者がその例としてあげるのは、カール・マルクスである。

 カール・マルクスの初期の論文「ユダヤ人問題によせて」は、ユダヤ人の自己嫌悪の知的形態を示す好例である。彼は、「ユダヤ人性」とは宗教でも民族性でもなく、獲得しようとする欲望である、と論ずる。その際に彼は、中部および東部ヨーロッパの膨大な数のユダヤ人プロレタリアートの存在を完全に黙殺し、ユダヤ人と、そのユダヤ人から生まれた宗教であるキリスト教を信じるキリスト教徒とを「敵」と――すなわちブルジョワ資本主義者と――同一視する。マルクスは明らかに、自分自身がユダヤ人であるということから逃避し(彼は六歳のときに洗礼を受けていたが、両親ともユダヤ教のラビの家系である)、反セム主義的なフォイエルバッハの文化的環境に「同化」し、フォイエルバッハのかたよったユダヤ教の定義を採用し、そして、社会主義的国際主義の中にユダヤ的な特殊主義からの避難所を見出したのである。

 マルクス主義がユダヤ教の濃厚な影響を受けていることは多くの論者が指摘するところだが、ユダヤ人の眼から見るとマルクスは裏切者ということになるらしい。

 日本で出ているユダヤ教関係の本は意外に多く、訳者による日本語文献案内は12ページにおよぶが、なぜかボール・ジョンソンの『ユダヤ人の歴史』(最近、徳間文庫から三分冊で再刊された)がはいっていない。あの本は読み物として抜群に面白いし、内容も信頼できると思うのだが、どうなのだろう。

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2007年08月31日

『根源の彼方に―グラマトロジーについて』 ジャック・デリダ (現代思潮社)

根源の彼方に・上
→『根源の彼方に―グラマトロジーについて』上
根源の彼方に・下
→『根源の彼方に―グラマトロジーについて』下

 デリダを一躍有名にした初期の代表作である。ロゴス中心主義批判とか、フォネー批判とか、原エクリチュールなど、デリダのおなじみのスローガンはこの本に登場する。

 現在、書店に並んでいる本は1996年の新版で、普通のカバーがかかっているが、1972年の初版は茶色いボール紙の箱に青いビニールの本が剥きだしてはいっていて、「グラマトロジーについて」というオリジナルの題名よりもはるかに大きく「根源の彼方に」という邦題が印刷されていた。このそっけない装丁が、「グラマトロジー」(文字学)という謎めいた言葉とあいまって、蠱惑的なオーラを放っていた。

 大学にはいって早々わたしはこの訳書に挑戦したが、何度読んでもさっぱりわからなかった。「グラマトロジー」という題名のもとになったゲルプの "A Study of Writing" を大学図書館で読もうとしたが、これもわけがわからなかった。

 今年になってゲルプの本を読んだ勢いで、デリダの本に30数年ぶりで再挑戦してみたが、今度はわかった。

 デリダはプラトン以来の形而上学を転倒するとか大風呂敷を広げているが、本書の仮想敵はソシュールのようである。もちろん、ソシュールの背後には、当時隆盛をきわめていた構造主義があり、だから第二部ではルソーの前にレヴィ=ストロースをやっつけている。ソシュールを戴く構造主義に挑戦状をたたきつけ、ソシュールの音声中心主義をソシュール自身の論理を使ってひっくりかえしてみせたのが『グラマトロジーについて』という本だったのである。

 デリダのいわんとしていることは次の一節に尽きていると思う。デリダは音声的な差異(=離散的な音素)というモデルは文字から借用してきたと伏線を張った上で、こうたたみかける。

 差異はそれ自体では、また定義上、けっして感覚的な充溢ではなく、その必然性は、言語の生来音声的な本質という主張に矛盾する。それはまた同時に、表記的な<意味するもの>のいわゆる自然的な依存関係にも異を唱える。それはまさしく、言語の内的体系を規定する緒前提に逆らってソシュール自身がひきだす結論である。今や彼は、彼に文字言語エクリチュールを除去することを許していたまさにそのものを、つまり音を、そして音と意味との「自然的な絆」を、排除せざるを得ない。

 言葉の意味は内的な声に宿っているというのは錯覚で、実際は文字のような離散的な音素のくみあわせから生みだされる宙ぶらりんのものだというわけだ。この直観を手を変え品を変え、さまざまに変奏したのが本書の第一部である。

 本書の後のデリダは書き方がうまくなって、ややこしくからみあった文章の中に直観を巧妙によりこんでいくが、この時点ではまだ若書きなので直観が生な形でとりだせてしまうのである。

 第二部ではデリダの代名詞となった「脱構築」がぎこちなく素朴な形で実践されており、手の内が透けて見える。デリダも一日にしてデリダになったわけではなかったのだ。

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2007年05月31日

『グノーシス』筒井賢治(講談社選書メチエ)

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 日本の新世代のグノーシス研究者によるグノーシス概論である。従来のグノーシス紹介は「厭世的」、「禁欲的」、「反体制的」、「実存的」などのキーワードが定番だったが、本書の描きだすグノーシス像はずいぶんちがう。

 グノーシス主義はこの世のすべてを悪と決めつけ、霊魂の故郷に帰ることを願う運動なのだから、切羽詰まったキーワードがくっつくのは当然といえばいえるが、異和感もないではなかった。そもそもこの運動はなぜ「グノーシス」(知識)と呼ばれるのか。

 本書はそうした異和感が決して根拠のないものではなかったことを教えてくれた。

 グノーシス主義を論じる人の中にはグノーシス主義を一般的な傾向ととらえ、さまざまな時代にグノーシス的なものを読みとる論者もいるが、本書はグノーシス主義がもっとも盛んだった時代、すなわち二世紀のキリスト教グノーシスに話を絞り、二世紀の地中海世界という時代背景の中でとらえている。

 二世紀の地中海世界ではローマ帝国が五賢帝時代という最盛期をむかえていた。都市文化は爛熟をきわめ、教養をそなえた有閑階級がかつてなく増え、人間とは何か、人間はどこから来てどこへ向かうのかという哲学的問いが流行した。知的好奇心が高まり、そうした欲求に応えるものとして「知恵文学」が誕生した。

 著者はこうした時代を象徴する作品としてアプレイウスの『黄金のろば』、なかんずく「アモールとプシケ」をあげ、「好奇心」のために破滅し、神の援助によって救われるという構造がグノーシス主義と同型だと指摘する。

 こうしてみると、理論ないし話のパターンがアプレイウスの『黄金のろば』と驚くほど同じだということがわかる。プトレマイオスにおけるソフィアとアプレイウスにおけるプシュケーおよびルーキウスは、いずれも自らの好奇心によって破滅しかかるが、自分より上位の存在(それぞれプレローマ、アモル神、イシス神)からのめぐみによって助けてもらう。もう少し踏み込んで言うなら、自分から知りたがるという「好奇心」が悲劇をまねき、相手から知らせてもらうという「啓示」が救いをもたらすという構造が共通している。

 注意しよう。著者は「アモールとプシケ」 がグノーシス的だと言っているのではない。グノーシス主義もまた「アモールとプシケ」同様、哲学的関心というか、ゆとりから生まれたと言っているのだ。

 ちょっと乱暴な単純化だが、グノーシス主義のそもそもの担い手は暇をもてあましたインテリだったかもしれないのである。

 そう考えると、腑に落ちることがいろいろある。グノーシス文献にはひどく手のこんだ複雑怪奇な創世神話が書かれているが、あんなややこしいお話は相当な暇人でなければ考えつくものではない。神の超越性をめぐる煩瑣な思弁も同じである。

 また、グノーシス主義者には貧しく無学なキリスト教徒をバカにしている傾向があるが、ああいうエリート主義もグノーシス主義者が暇をもてあましたインテリだったと考えれば説明がつく。

 もちろん、五賢帝時代といえども繁栄を楽しんだのは一部にすぎず、社会の下層には多くの虐げられた人がいた。そうした人たちはキリスト教にすがった。

 こう考えると、グノーシス主義は一時の徒花だったのかもしれない。

 しかし、仮にそうだとしても、グノーシス主義は思想として純化されていき、後のカタリ派など多くの異端運動に思想的基盤を提供した。閑暇の産物であっても、徹底的に考え抜かれた思想は力を持つのである。

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2007年05月30日

『禁じられた福音書』 ペイゲルス (青土社)

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 おどろおどろしい題名だが、『トマスによる福音書』を中心に、グノーシス文書を一般読者向けに解説した本である。『トマスによる福音書』は早くに隠滅され、1945年にエジプトでナグ・ハマディ文書の一部として発見されるまでは幻の書だっただけに『禁じられた福音書』という邦題は当たっていなくもない。

 著者のエレーヌ・ペイゲルスは初期キリスト教史の研究者だが、ハイスクール時代は福音主義にかぶれ、『ヨハネによる福音書』の熱烈な読者だったという。しかし、友人が交通事故で死亡した時、教会の仲間たちは彼がユダヤ人だという理由で自業自得のようにくさした。ペイゲルスは信仰に疑問をおぼえるようになり、大学では初期キリスト教史を専攻した。初期の純粋で単純な信仰に立ちかえれば疑問が晴れるかもしれないと考えたのだ。しかし、疑問は晴れるどころか、逆に深まった。最初の二百年間のキリスト教はさまざまな思潮が流れこんで混沌としており、純粋でもなければ単純でもなかったからだ。

 ハーバード大学の大学院に進学し、当時、まだ未公開だったナグ・ハマディ文書と出会ったことはペイゲルスにとって決定的だった。彼女は文書を解読する作業に参加し、1978年という早い時期に『ナグ・ハマディ写本』を刊行している。同書は『トマスによる福音書』や『マグダラのマリアによる福音書』など、グノーシス系の福音書を時代背景とともに歯切れよく紹介していて、グノーシス主義に関する基本図書の一つといってよく、現在でも読みつがれている。

 ペイゲルスのことは複数の人が美人と書いているが、『ビジュアル保存版 ユダの福音書』のDVDを見ると可愛らしいオバサンで、確かに若い頃は美人だったろう。

 本書は『トマスによる福音書』と『ヨハネによる福音書』の類似性に着目するところから本論をはじめている。両者の類似性は新井献編の『トマスによる福音書』でもすでに指摘されているし、両者は共通の資料にもとづいて書かれたという説もあるようである。ペイゲルスはさらに踏みこみ、『ヨハネ』の著者は『トマス』を危険視していたのではないか、『ヨハネ』は『トマス』に対する反論として書かれたのではないかと推論する。

 根拠はいくつかあるが、もっともわかりやすいのは『ヨハネ』だけがトマスという弟子をうたぐり深い愚か者として印象づけていることだ。復活したイエスが弟子たちの前にあらわれる条では、イエスはトマスに自分の身体を手でふれさせてから、こう叱りつける。

「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20-29)

 他の福音書ではトマスは特別扱いされいないのに、『ヨハネ』だけがトマスを執拗に馬鹿にしている。トマス派とでもいうべき一派を意識して書いたという仮説は説得力がある。

 なぜ『ヨハネ』の著者は『トマス』を危険視したのか。神の光の分有という思想は両者に共通しているが、『トマス』は神の似像である人間はすべて神の光を分有していると主張しているが、『ヨハネ』は「神の一人子」であるイエスのみが神の光にあずかれるとしたのだ。

 『トマス』の思想はキリスト教神秘主義の系譜からみても独自であり、過激である。キリスト教神秘主義は聖テレジアにせよ、ベーメにせよ、自己と神の同一視は慎重に避けているのに対し、『トマス』は自己の内に神の光が隠れていることを堂々と宣揚しているからだ。

 本書の後半はニケア信経に代表されるキリスト教正統信仰形成の過程で、『トマス』の思想がいかに排除されていったかに焦点をあわせている。ニケア信経をまとめた神学者たちは、神の似像論に対しては、アダムは確かに神の似像として作られたが、原罪によって決定的に損なわれてしまったととどめを刺している。

 ペイゲルスは『マルコ』、『マタイ』、『ルカ』の読み方には暗黙のうちに『ヨハネ』のキリスト論が混入していると指摘し、もし『ヨハネ』の代わりに『トマス』が第四の福音書に選ばれていたら、共観福音書は別の読み方がされ、別のキリスト教、別のヨーロッパが生まれていただろうとしている。今さらそんなことを言っても死んだ子供の年を数えるようなものだが、魅力的な仮定ではある。

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2007年05月29日

『捏造された聖書』 バート・アーマン (柏書房)

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 きわものめいた題名だが、原題は Misquoting Jesus(間違って引用するイエス)で、まっとうな聖書文献学の入門書である。

 新約聖書については、日本でも田川健三の『書物としての新約聖書』や加藤隆の『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』のようなすぐれた入門書が出ているが、ちょっと敷居が高い印象があった。本書はアメリカ人の聖書学者がアメリカの読者に向けて書いた入門書なので、巧みな話術で飽きさせない。

 アメリカは進化論を学校で教える是非が裁判になる国で、聖書を一字一句すべて真実と信じこむ人がすくなくない。著者のアーマン自身、ハイスクール時代にキリスト教原理主義にかぶれ、原理主義ゴリゴリの神学校に進んだという。ところが聖書文献学の授業を受講し、聖書は筆写に筆写を重ねて伝わる中で多くの異文が生まれていたこと、しかも意図的な改変や加筆まであったことを知り、愕然とする。イエスや使徒の言葉が正しく伝承されていなかったとしたら、聖書を金科玉条とする原理主義は土台から揺らいでしまう。信仰の危機に直面した著者はさらに研究を深め、ついには原理主義から転向する。

 それゆえ、本書は原理主義的な読者をかなり意識した書き方になっている。語り口はあくまでざっくばらんだが、その下には論争家の鎧が隠れている。

 キリスト教原理主義者を相手に、いきなりここは後世の改竄だなどとやったら、そこで本を閉じられてしまうだろう。著者はキリスト教はどのように広まったのかと、搦手から話をはじめる。

 初期のキリスト教はユダヤ教の新興宗派であり、離散ユダヤ人の間で信仰されたが、しだいにユダヤ人以外、多くは貧しい虐げられた階層に広まっていき、4世紀にはローマ帝国に公認されるまでになる。

 使徒の手紙はイエスの死の10年後くらいから、福音書は30年後くらいか書きはじめられたと考えられている。初期のキリスト教には教会はなく、最初はユダヤ教のシナゴーグを借りて、ユダヤ教徒の関係が悪化してからは裕福な信者の家で密かに集会を開いていた。集会では読み書きのできる信者が使徒の手紙や福音書を読みあげたが、そうした文書類は信者の中の読み書きのできる者がボランティアで書き写したものであることがわかっている。

 ローマ時代、読み書きのできる者はすくなかった。文書を専門的に筆記する書記という職業もあったが、キリスト教の文書が専門の書記によって筆写されるようになるのは4世紀以降と推定されており、最初の300年間は素人によって書き写されていたらしい。その結果、夥しい写し間違いが生まれた。

 著者はどのような手続で後世の改変や加筆と判断するのかを噛んで含めるように説明した後、いよいよ神学的改竄という微妙な問題に踏みこむ。語り口はざっくばらんながら、地雷原を歩くような緊張感が伝わってくる。アメリカの聖書学者は大変である。

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2007年05月28日

『乗っ取られた聖書』 秦剛平 (京都大学学術出版会)

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 聖書が「乗っ取られた」とは穏やかではないが、「七十人訳聖書」を一般向けに紹介した本である。聖書文献学の入門書にはおもしろい本が多いが、本書もめっぽうおもしろい。

 「七十人訳聖書」とは妙な名称だが、アレキサンドリアに大図書館を築いたプトレマイオス二世のために、エルサレムから招聘された七十二人の長老が七十二日間かけて「モーセ五書」のギリシャ語訳を完成させたという伝説があるので、こう呼ばれている。長老たちは別々に翻訳をおこなったが、出来あがった訳文をもちよってみると、一字一句にいたるまで完全に一致していた。「七十人訳」は神の霊感を受けて完成した完全無欠な翻訳であり、いかなる改変も許されないとされてきた。

 もちろん、これは伝説にすぎない。伝説中の史実に誤りがあるだけでなく、「七十人訳」は完全無欠どころか、問題だらけだからだ。難解な箇所はヘブライ語を音訳してすませることがすくなくなく(カタカナだらけの邦訳のようなものか)、地名などはパレスチナを実地に知っていれば絶対おかさないような間違いをおかしているという。

 そうした語学力不足や単純ミスだけでなく、確信犯的な超訳もあるらしい。「七十人訳」はヘブライ語を解せなくなったアレクサンドリアのユダヤ人のために作られたという説が有力だが、秦剛平はすくなくとも「創世記」と「出エジプト記」はギリシャ語を読み書きする知識人に読ませるために訳された可能性を指摘している。

 「七十人訳」が成立したのはヘレニズム期だが、この頃は各民族が起源の古さを競いあっていた。

 「創世記」に登場する人物の多くは百年以上生きたことになっているが、「七十二人訳」の「創世記」ではさらに数十年づつ下駄をはかせていて、「創世記」全体では千年以上サバを読んでいる。ユダヤ民族の歴史をより長く見せたいという動機があったのは間違いないだろう。

 この時期、ユダヤ人について芳しからぬ風説が流布していた。モーセと出エジプトはユダヤ人以外にも広く知られていたが、モーセはハンセン氏病に罹ったエジプトの神官で、同じ病気に苦しむ賤民とともにエジプトを追放されたのがユダヤ人の起源だというのだ。

 誤解を晴らすには「モーセ五書」をギリシャ語に翻訳するのが一番いいが、「モーセ五書」にはモーセがハンセン氏病に罹っていると誤解されない箇所がある。一つは神が力を示すためにモーセの手を一時的にハンセン氏病に侵されたように見せたという「出エジプト記」の記述であり、もう一つはハンセン氏病に罹っていたモーセの姉ミリアムが神の奇跡によって回復するという「民数記」の記述である(新共同訳では「重い皮膚病」と訳されている)。「七十人訳」ではこの二箇所とも、ハンセン氏病という言葉が省かれているそうである。

 「七十人訳」の最初の動機がユダヤ人の名誉回復と、歴史の古さの宣伝にあったことは間違いないだろうが、皮肉なことに聖書の権威はキリスト教徒に利用されることになる。

 初期のキリスト教はユダヤ教の一派と見なされ、離散ユダヤ人の間に広まっていったが、キリスト教徒はユダヤ人に「七十人訳」を見せ、キリストの到来はあなた方の聖典に予言されていると説いたのだ。以後、「七十人訳」はキリスト教徒の聖書として流布していく。「七十人訳」はキリスト教徒に乗っとられたのである。

 ユダヤ人にとってこんなに腹の立つことはないだろう。対抗策として、彼らは「七十人訳」よりもすぐれたギリシャ語訳を作りだし、キリスト教徒に利用されそうな箇所をつぶそうとしたが、うまくいかなかった。多少の問題はあろうと、先に広まってしまったものの方が強いのである。

 こうなると「七十人訳」の実物が読みたくなるが、著者の秦剛平によって邦訳が進行中で、すでに「モーセ五書」が完結している(『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』)。

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2006年12月30日

『サド、フーリエ、ロヨラ』 ロラン・バルト (みすず書房)

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 ちょっと大袈裟なことをいうと、本書はわたしにとって青春の書である。学生時代に読んでガーンとやられてしまい、その後、英訳で読み、気にいったところだけだがフランス語で読み、多くのものを学んだと思っている。

 しかし、青春の書などという割には手抜きをやっていた。本書はサドの『ソドムの百二十日』、フーリエの『愛の新世界』、ロヨラの『霊操』(訳書中では『心霊修行』)を論じているが、そのどれも読んでいなかったのだ。

 読もうにも、当時は邦訳が出ていなかった。厳密にいえば、『ソドム』には澁澤訳があったものの、全体の1/6にすぎず、読んだうちにははいらない。『霊操』にはエンデルレ書店というその方面の出版社から翻訳が出ていたが、「エンデルレ書店」という名前に恐れをなして注文しなかった。

 その後、『ソドム』と『霊操』は入手しやすい形で出版されたが、今年、『愛の新世界』の完訳が出たのを機に、三冊を読んだ上で『サド、フーリエ、ロヨラ』を読み直してみた。

 当たり前の話だが、元の本を読んでいないとわからないということを確認した。

 批評として見ると「サドⅠ」と「フーリエ」はやや強引な印象がなくはなかったが、「ロヨラ」と「サド⅞」はみごとというしかない。ロヨラとプロテスタントのバルトの接点は一見なさそうだが、バタイユが論じていたということだし、『旧修辞学』でラテン語のレトリックをとりあげた縁がある。バルトのロヨラ論の核心はレトリック論にあるような気がする。

 バルトは脱皮を繰りかえしていて、1973年の『テクストの快楽』から後期バルトがはじまるとされてきた。

 しかし、1971年の本書の段階で「テキストの快楽」という言葉は出てきているし、「フーリエ」と「サド⅞」はテキストの快楽の実践となっている。

 本書の出た1971年には片想い的日本論である『表徴の帝国』も上梓されている。記号学的バルトから後期の快楽のバルトへの転回には日本体験が決定的だったとする見方があるが、本書はまさに日本体験を反芻していた時期に書かれた。実際、本書には記号学的バルトと快楽のバルトが混在していて、バルトの作品史の上で重要な位置にあるといえるだろう。久々に読み直し、やはりすごい本だと確認できたのは幸福だった。

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『霊操』 イグナティウス・デ・ロヨラ (岩波文庫)

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 イエズス会の創始者、イグナティウス・デ・ロヨラが後進の指導のためにまとめた瞑想の指導書である。カトリックにはこれだけ具体的・組織的に書かれた本が他にないので、イエズス会以外の修道会や一般信徒も本書を使って瞑想しているそうである。

 ロヨラはカルドネル河畔で神秘体験を経験し、それによって人間が変わったとされているが、本書はロヨラと同じ体験に導くために書かれた。ロヨラは以前にも神秘的な体験をしているが、カルドネル河畔の体験はイメージを伴わない純粋に知的な直観だった。それゆえ、『霊操』はイメージを通じた神との一体化ではなく、神の意志を探し見いだすことに主眼がある。

 訳者の門脇佳吉氏はこの点に注目し、『霊操』と禅が似ていると指摘している。門脇氏はイエズス会の会士だが、高校時代から参禅していて、『霊操』の修行を実践して禅との共通点をいよいよ感じたという。具体的には次のような点である。

  1. 万物は道/神の活動で活かされているという自覚
  2. 「無」/「不偏」の相似性
  3. 自愛心からの脱却
  4. 世俗の生活から離れて集中的に黙想

 門脇氏は西田哲学の用語を援用し、デカルト的自己が「意識的自己」なのに対し、『霊操』の自己と「行為的自己」だとして、次のように書いている。

 『霊操』における観想は、キリストが御父の御意志をどのように実行され、このキリストの模範に促されて、われわれがどのようにキリストに従って「父なる神」の御意志を実行して行かなければならないかを観る。その場合、キリストも父なる神も人類救済のために「働く方」であり、行為的主体として観られ、それと同じように霊操者も「働く者」である。霊操者はキリストにならって、どのように神と人類に奉仕して行けばよいかを探求する。観想修道会のように、静寂の中に神を観想し、讃美し、祈ることが中心課題ではない。

 門外漢としてはなるほどと思うしかないが、実際に読んでみると、イメージを多用していて、禅より密教や浄土教の観想に似ていると感じた。たとえば、こんな具合である。

四、私のこの生身が朽ち果て、醜い骸になることをじっくりと視る。

五、私のこの身が潰瘍や膿腫におかされ、そこからおびただしい罪と悪事とが吹き出し、汚らわしい膿が流れでるのを観察する。

 こういう観想は密教や浄土教以外の宗派でもやっているようだが、次に引くようなシナリオにしたがった瞑想は密教や浄土教の観想によく似ている。禅ではこういう瞑想はやらないのではないか。

第一前備 歴史的出来事である。ここでは、「われわれの貴婦人」が御懐妊九ヶ月の身でありながら、ナザレをどのような様子で出発されたかを想う。雌ろばに乗られ、牛を連れたヨセフと婢に伴われてベトレヘムに旅立たれた。それはローマ皇帝がすべての国に課している貢物を納めるためであった。

第二前備 想像力を使って場所を見ながら、現場に身を置く。想像の目でナザレからベトレヘムへの道を見、その道の長さと幅、また、平坦であるか、谷や丘を超えて行くか、を見る。同様に御降誕の場所(洞窟)がどれほど大きいか、小さいか、どれほど低いか、高いか、どのように調度品が置かれているかをよく見る。

 あるいはイメージは単なる道具であって、イメージの先にある経験が重要ということなのかもしれない。『霊操』には夥しい注釈書が書かれているというが、多分、口伝の類もあるだろう。これはもう実地に指導を受けて、やってみないことにはわからない。

 瞑想のやり方だけではなく、修行生活全般の注意点も具体的に書かれている。瞑想修行を深めていくには体力が必要だと喝破し、体力を維持するためにパンは減らさない方がよく、減らすなら副食の方だとアドバイスしている。禅病や魔境にあたるような症状についても記述がある。

 禅なのか密教なのか浄土教なのかはおくとしても、東洋で育まれてきた身体知に通ずるものがあるのは間違いない。井筒俊彦は『意識と本質』で仏教、道教、ヒンズー教、イスラム教の身体知の共通の基盤に注目したが、多分、カトリックも例外ではなく人類共通なのだろう。

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2006年12月29日

『愛の新世界』 シャルル・フーリエ (作品社)

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 「空想的社会主義」という言葉がある。マルクス主義を差別化するために作られた言葉で、他の社会主義が「空想的」(原語ではユートピア的)なのに対し、マルクス主義は「科学的」だというのである。

 自分の思想がエセ科学なのをさしおいて、他の思想を「空想的」と決めつけるなど一方的なレッテル貼りだが、しかし、ことフーリエに関しては「空想的社会主義」という呼び方がぴったりくるような気がする。フーリエの本には「空想的」という罵倒語をプラスに変える力があるのだ。

 フーリエが36歳の時にはじめて出版した『四運動の理論』という本がある。翻訳物の思想書がすぐに絶版になる中、今でも現役をつづけている珍らしい本だが、これがとんでもない代物なのである。

 フーリエは人類社会の生存期間は8万年であり、最初と最後の5千年は不幸の時代、真ん中の7万年は幸福の時代だと断定する。現在は最初の不幸の時代の後半にあたっているが、幸福の時代が近づくとオーロラの光がどんどん強まり、「北極冠」という北極をとりまく光の環を形成する。北半球の高緯度地域は「北極冠」によって煌々と照らされ、肥沃な耕地に変わっていく。北極と南極の氷は解け、海の水は甘くなって、人類は調和世界を実現するというのだ。

 SFもびっくりの未来図であるが、これで驚いていてはいけない。フーリエの真骨頂は集団を左右する情念の力学にあり、世界が調和的に発展するのに必要な情念の運動法則なるものを明らかにしていくのである。「四運動」の「運動」とは政治運動のことではなく、情念の運動のことなのである。

 さて、『四運動の理論』が初期の代表作なのに対し、中期の代表作であり、現代におけるフーリエ評価を決定的にした『愛の新世界』が今年ようやく完訳された。

 この本は長らくノートの形で埋もれており、フランスでも出版されたのはフーリエ没後134年をへた1967年のことである。フーリエが残した98冊のノートのうち、5冊が『愛の新世界』の遺稿だったが、首尾一貫した状態ではなかったので、編纂者のシモーヌ・ドゥブーがフーリエのプランにしたがって編集したそうである。

 訳者の福島知己氏はドゥブー版を底本に、フーリエのノートのマイクロフィルムを参照しながら訳したということだが、翻訳物の思想書としては最上の日本語になっており、とても読みやすい。

 本書を読んでいくと「求愛者たちは、ぜひとも天使の快楽を両面で[ ]しようと考えるのである」のように[ ]ではさまれた空白が目立つが、これはフーリエが執筆中に適当な言葉が浮かばず、後で埋めるつもりでこういう形で残したのだそうである。また、「┐」という記号が出てくるが、これは行間に書きこまれた挿入箇所を示すとのこと。読みはじめる前に凡例を確認しておいた方がいい。

 序文の次にいきなり「第四部第一〇節」という見出しが出てきて面食らうが、これは『大論』という未完の大著の一部として構想された名残である。フーリエは純愛(本書中では「セロドン愛」)をとっかかりに、肉体的恋愛と精神的恋愛の種々相を分類していくが、『四運動の理論』を読んでいないと、話が見えにくいかもしれない。

 恋愛とは富裕な者のいとなみなのである。どれほど手広く事業をしていようが、富裕者はいつでも恋愛をしているのだ。反対に、年老いた貧しい怠け者は恋愛しない。貧乏人は若いうちでさえほとんど恋愛しないものだ。

 社会主義者にあるまじき暴言に聞こえるかもしれないが、本書で語られているのはユートピアが実現している時代であり、調和世界には貧乏人は一人もいないことを思いだそう。それゆえ、

 だれもかなり高齢に至るまで恋愛にいそしむことができる。だれもが恋愛という情念に一日の一定時間を充てるから、そこでは恋愛がなによりも大事な問題になる。このため恋愛法典、恋愛法廷、恋愛宮廷その他の諸制度が制定されている。

 調和世界で恋愛とならんで重要なのは美食である。

 調和世界のメカニズムを奥底まで知れば次のことが理解される。つまり、新秩序では叡智とは健康法と料理の二部門からなるということである。両者を組み合わせることにより、野心と大食という第一次長調情念が保証される。この享楽の一大部門を際立たせるため、美食の実践に長調聖人位が与えられる。

 19世紀初頭、王政復古から七月王政にいたる動乱期に、フーリエは恋愛と美食が一大関心事となったユートピアを考えていたのである。まさに空想的社会主義者の面目躍如だが、歯を食いしばって、我慢に我慢を重ねて、理想社会を建設しようとした社会主義が民衆の抑圧と粛清という悲惨な末路をむかえたことを考えると、欲望を肯定したフーリエの「空想」が輝いて見てくる。今日の高度資本主義社会では、近代化型の社会主義はことごとく馬脚をあらわし、悪い冗談と化しているが、フーリエの冗談のような社会主義は逆に思想的衝撃力をもちはじめている。

 ユートピア物語では、ユートピアを知らない人間にユートピアを訪問させる趣向が多いが、本書も途中から戯曲仕立てに変わり、北インドから西欧の調和世界を訪問するという聖英雌ファクマの旅が語られる。さすがフーリエというか、調和世界への訪問者は一人や二人ではなく、千人の黄水仙群団であり、それ自体が一つの共同体となっている。

 この劇中劇をどう考えるかは、もうちょっと時間が必要である。

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2006年06月30日

『グノーシス考 』大貫隆 (岩波書店)

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 『グノーシスの神話』の編訳者であり、日本のグノーシス研究をリードしてきた大貫隆氏によるグノーシス論集である。さまざまな機会に書かれた論文を集めているが、もっとも完成されたグノーシス文書とされている『ヨハネのアポクリュフォン』をめぐる論考群が柱となっている。

 六部にわかれるが、第五部までは文献学的研究で、話が微にいり細をうがっている。専門的すぎて素人にはついていけない部分もあるが、イメージの使い方を手がかりにした考察が多いので、半分くらいはおもしろく読めた。

 第一部ではグノーシス派の禁欲を正統的なキリスト教の禁欲と比較しているが、グノーシス文献に頻出する性的比喩、特に世界を子宮に見立てる比喩の解明から話をはじめているのでとっつきやすい。

 グノーシス文献では至高神を子宮に見立てる例はないことはないが、圧倒的多数の用例では悪しき世界のメタファーとしているという。魂が肉体をとって誕生するということは悪しき子宮に墜落することであり、死はそこからの解放を意味する。子宮が呪わしい現実世界の比喩であるなら、そこから性欲嫌悪はただの一歩である。

 グノーシス主義は表舞台から姿を消した後も歴史の闇の部分を伏流水のように流れつづけ、カタリ派など、過激な禁欲をともなう異端を生んできたが、子宮としての世界というイメージが根柢にあったと考えればわかりやすい。

 第二部では「ヨハネの第一の手紙」に、それより後に書かれたはずの『トマスの福音書』の一節を想定した反論が書きこまれている点に着目し、『トマスの福音書』の素材となった伝承を推定しているらしい。文献学の顕微鏡的議論であり、素人には読みとおせなかった。

 第三部は『ヨハネのアポクリュフォン』の現存する四つの写本の先後関係を推定するといういかにも文献学らしい論考で、きわめて微細な議論がつづくが、意外におもしろかった。

 『ヨハネのアポクリュフォン』はもともとはユダヤ教の一派の文書だったらしいが、キリスト教グノーシス的に改変されていき、それがさらにコプト語に翻訳された形で残った。ある写本で「母」となっている箇所が別の写本では「母父」、それも「光のプロノイアの母父」になっている。こうした語句の異動から、グノーシス運動の歴史を読みとっていこうというわけである。

 第四部は第三部の補遺にあたる論考である。第三部はグノーシス運動の深化の目安として、ストア派批判の度合を使っていたが、クイスペルという研究者から『ヨハネのアポクリュフォン』が直接批判の対象としているのはストア派ではなく、中期プラトン主義ではないかという指摘を受けて書かれたもので、これも素人にはついていけなかった。

 第五部は『ヨハネのアポクリュフォン』が中期プラトン主義から受けた影響を否定神学という視点から検証したもので、素人にも十分おもしろかった。

 第六部は文献学からはなれ、『ヨハネのアポクリュフォン』を実存主義とユング心理学という現代思想の見地から読み直そうというもので、クールダウンにちょうどいい。

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2006年06月29日

『グノーシスの神話 』大貫隆 (岩波書店)

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 グノーシス主義を原典に語らせたアンソロジーである。

 グノーシス主義を紹介した本はたくさんあるが、原典にはなかなかふれることができない。『ナグ・ハマディ文書』は岩波書店から学問的な翻訳が全四巻で出ていたが、現在は品切で入手できない。『トマスによる福音書』は文庫で手に入るが、この文書は比較的早い時期に書かれたものなのでグノーシス主義の複雑怪奇な神話はうかがいしれない。今回邦訳された『原典 ユダの福音書』は完成されたグノーシスの神話体系を背景にしていることがうかがえるが、神話そのものは語っていない。そうした中でグノーシス文書を抜粋し、テーマごとにならべた本書は貴重である。

 本書は五章に分かれる。最初の章はグノーシス入門だが、ありきたりの入門ではない。天地万物を讃美した旧約詩篇とストア派の『ゼウス賛歌』を引用した後、グノーシス主義の生き残りというべきマンダ教の葬儀で用いられる歌と対比して、グノーシスのグノーシスたるゆえんを原典によってあきらかにしているのだ。マンダ教の葬儀の歌はこんな感じである。

幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、
  汝は今この世を立ち去れり。
汝は立ち去れり、滅びと
  汝が住みし悪臭のからだ、
悪しき者たちの住まい、
  もろもろの罪に溢れたこの場所を、
闇の世界、
  憎しみと妬みと不和の世界を……

 グノーシス主義がどのようなものかはいろいろ読んでいたが、どんなよく書けた解説もオリジナルの迫力にはかなわない。

 第二章はナグ・ハマディ文書から、第三章はマンダ教の経典から、第四章はマニ教文書からの抜粋が集められている。各章は半ページから数ページの長さの断章をテーマごとに編集し適宜解説をくわえており、とてもわかりやすい。

 グノーシス文献では悪しき造物主の作った汚れたこの世界に、真実の世界から魂が落ちてきて、身体に閉じこめられるという創世神話がさまざまに語られるが、その一端を『ヨハネのアポクリュフォン』から引用する。

 その時、ヤルダバオートはアダムの傍らに若い女が立っているのを見た。彼は愚かな思いでいっぱいになり、彼女から自分の子孫を生じさせようと欲した。彼は彼女を辱しめ、一番目の息子を、続いて同じように二番目の息子をもうけた。すなわち、熊の顔をしたヤハウェと猫の顔付きをしたエローイムである。その一方は義なる者であるが、他方は不義なる者である。エローイムが義なる者、ヤハウェが不義なる者である。

 イヴを凌辱するヤルダバオートとはこの悪しき世を創造した造物主である。『ヨハネのアポクリュフォン』では旧約聖書の神、ヤハウェは悪しき造物主ですらなく、不良造物主がレイプして生まれた出来そこないの息子とおとしめられている。

 『魂の証明』では、肉体をまとってこの世に生まれるとは無垢なる魂が凌辱されるようなものだと語られている。

 彼女(魂)が一人で父のもとにいた間、処女であり、同時に男女おめの姿をしていた。しかし彼女が身体の中に落ち込み、この命の中に来たとき、そのときに彼女は多数の盗賊の手中に陥った。そして無法者どもは交互に彼女を襲い、彼女を辱しめた。ある者は暴力で彼女に障害を与え、ある者は偽りの贈物で彼女を説得した。要するに彼らは彼女を凌辱したのである。こうして彼女は処女を失った。

グノーシス文献は思想も過激だが、表現も過激である。

 『フィリポによる福音書』では、創世神話は洗礼の儀礼の意味づけに使われている。

 活ける水とは身体である。われわれが活ける人間を着ることは適切なことである。それを着ようと、彼が水へと降りて行くときに裸になるのはそのためである。

美しい表現だが、この身体は服のように魂を覆うものにすぎず、魂の本来のすがたをとりもどすためには、身体を脱ぎ捨てなければならないという含意がある。グノーシスの徒にとっては身体もこの世も邪魔物なのだ。

 魂がもともと属していた真実の世界はプレローマーとかバルベーローと呼ばれる。『ユダの福音書』でも、ユダはイエスに「あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました」と呼びかけるが、『ヨハネのアポクリュフォン』からバルベーローに言及している箇所を引用する。

 霊の泉が光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンとあらゆる形の世界の支度をした。彼は自分を取り巻く純粋な光の水の中に自分自身の像を見たとき、それを認識した。すると、彼の「思考」が活発になって現れ出た。それは光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。

 この今や現れ出たものが万物に先立つ力であり、万物の完全なる「プロノイア」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。

 イエスがバルベーローからこの世に来てまたバルベーローに返っていく存在であるなら、受難の意味はまったく変わってしまう。『ペトロの黙示録』ではこう書かれている。

 救い主は私に言った、「あなたが見ている十字架の傍らで笑っている人物は、活けるイエスである。しかし両手と両足を釘で打たれているのは、彼の肉的な部分、すなわち彼の『代価』である。活けるイエスの模倣物として成ったものを彼らは辱めているのである。しかし、あなたはその模倣物と私を区別しなさい」。

 十字架にかけられたイエスの肉体はイエスそのものではない。真のイエスは磔刑ごときで傷付けられはしないのだ。イエスが笑うことも含めて、『ユダの福音書』の発想とよく似ている。

 ナグ・ハマディ文書からの抜粋が一番多く、第二章は本書の半分近くを占める。マンダ教の経典の抜粋を集めた第三章はそれほど長くないが、内容は実に興味深い。

 いや、マンダ教そのものが興味深いと言いなおそう。マンダ教はもともと洗礼者ヨハネの教団の流れをくむ宗教共同体がグノーシス化したもので、ヨルダン川流域を本拠としていたらしいが、ユダヤ人がローマ帝国に対して反乱を起こした前後、ユダヤ教団の迫害を逃れてチグリス・ユーフラテス河下流の湿地帯に移ったようである。当初はゾロアスター教徒に、イスラム教が広まってからはイスラム教徒に迫害されたが、二千年にわたって独自の信仰を守りつづけたというから、気が遠くなってくる。不幸なことに、マンダ教徒の居住地はイラクとイランの国境地帯にあたるために、イラン・イラク戦争と湾岸戦争でかなりの被害を受けたと見られている。

 本書にはマンダ教の根本経典『ギンザー』の抜粋がおさめられているが、これがまた面白いのである。

 マニ教から抜粋した第四章はほとんどファンタジーの世界で、この宗教が生きのびてくれていたらよかったのにと思った。

 最後の「結び」では一時流行したチャネリングや宮台真司氏の女子高生論を引きあいにだして、グノーシス主義の現代性についてふれているが、この章はあまりおもしろくなかった。現代の若者がグノーシス主義と同質のメンタリティをもっているのは確かだろうが、このくらいのスペースで論じられる問題ではないと思う。中途半端に現代性に触れるより、もっと抜粋を載せてほしかった。

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2006年06月26日

『原典 ユダの福音書』 ロドルフ・カッセル編 (日経ナショナル・ジオグラフィック社)

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 1700年ぶりに発見された『ユダの福音書』の翻訳に文書の修復にあたった専門家チームの解説と解題をくわえて一冊にした本である。翻訳部分は50ページあるが、注釈が多いので本文だけなら20ページ足らである。

 翻訳にあたっての後書や解題がないので断定はできないが、訳者の顔ぶれが『ユダの福音書を追え』と重なっていることからすると、コプト語からの翻訳ではなく、英語からの重訳だろう。素人が好奇心から読むには十分だが、おそらく10年後か20年後、岩波書店から出ている『ナグ・ハマディ文書』のような学問的な翻訳が刊行されることになるのかもしれない。

 裏切者とされてきたイスカリオテのユダが実はイエスのもっとも忠実な弟子で、イエスの命令によって彼を当局に通報したという内容だが、要するにグノーシス派の文献であって、こういう解釈もあるというだけのことである。わたしは信仰に無縁な人間だが、信者が読んでも信仰が揺らぐようなことはないだろう。

 同じグノーシス派の文献でも、『トマスによる福音書』には、イエスの時代にさかのぼるかもしれないと思わせるような言葉がそこここにみられが、『ユダの福音書』にはそうした生々しさは感じられなかった。素人の感想だが、グノーシス派の複雑な宇宙生成論が完成した後に書かれた教義の絵解きにしか思えなかった。

 おもしろいと思ったのは、ここに出てくるイエスはよく笑うことである。四福音書には、イエスが笑う場面は一つも出てこない。正統的なキリスト教からは笑いは排除されており、ウンベルト・エーコはそれをモチーフに『薔薇の名前』を書いた。

 笑うイエスは興味深いが、ただ、この笑いは大らかな笑いではなく、馬鹿にしたような笑いで、笑われた弟子たちは傷ついたり、怒ったりしている。このあたり、インテリの宗教であるグノーシス派の本質が出ているのだろうか。

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2006年06月23日

『ユダの福音書を追え』 ハーバート・クロスニー(日経ナショナル・ジオグラフィック社)

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 死海文書やナグ・ハマディ文書の発見に匹敵するといわれる『ユダの福音書』の発見の経緯を描いたドキュメンタリーである。著者のクロスニーはTVジャーナリストだが、本書も文書の数奇な運命を追いながら文書の歴史的背景と意義をおりこんでいくというTVのドキュメンタリー番組のような構成になっている。

 『ユダの福音書』はグノーシス派の文献として名前は知られていたが、四世紀には失われたと考えられてきた。それが千七百年ぶりに出てきたのである。本書には発見から修復完了までの30年間の歴史が書かれているが、悲鳴をあげそうになる箇所がいくつもある。裏切者ユダを主人公としているだけにこの文書には不運と裏切りがつきまっとっているのだ。

 『ユダの福音書』を含むパピルス写本がナイル河中流域で発見されたの1970年代後半だったらしい。その後、古美術商どうしの諍いから盗難にあいエジプトから秘かに持ちだされた。

 古美術商間の手打ちがすんだ結果、パピルス写本は最初の所有者のエジプト人古美術商の手にもどる。彼は欧米で買い手を探すが、内容がわからなかったにもかかわらず300万ドルという桁外れの金額をふっかけた。文書は売れず、16年間アメリカの貸し金庫の中で劣化しながら死蔵されることになる。

 文書を貸し金庫の中から救いだしたのはフリーダ・ヌスバーガー=チャコスというギリシャ系の古美術商だった。彼女は30万ドル前後で購入し、買い手候補のエール大学のバイネッキ図書館に寄託して詳しい調査を依頼したところ、『ユダの福音書』が含まれていたと判明する。エール大学は文書が本物だという確信をもっていたが、不法にアメリカに持ちこまれた疑いがあったために購入を見送ってしまう。

 資金繰りに困ったチャコスはブルース・フェリーニという稀覯書ディーラーに250万ドルで転売するが、これがとんでもない食わせ者だった。フェルリーニは日本企業を巻きこみ、東京の印刷博物館で展示公開した後、文書の複製版と翻訳を出版しようともくろむが、後援者との間にトラブルが生じ計画は空中分解してしまう。

 結局チャコスに代金が払えなくなり、パピルス文書は彼女に返却することになるが、フェリーニは文書に致命的なダメージをあたえてしまう。パピルスに絶対にやってはいけない凍結保存を試みてボロボロにした上に、文書の状態をよりよく見せかけるためにページの順番をいれかえていたのだ。しかもチャコスに返却するする際には一部のページを抜きとり、勝手に売却していた。

 ナグ・ハマディ文書は早い段階でエジプト当局に押収されたのでそれ以上の劣化をまぬがれたが、『ユダの福音書』を含む写本は良好な状態で発見されたにもかかわらず、間にはいった古美術商たちの無知と強欲のために、四半世紀の間劣化しつづけた。チャコスがとりもどした時にはボロボロに崩れる寸前だった。

 チャコスは修復の費用をまかなう余裕がなかったので、フェリーニとの交渉に尽力してくれたロバーティ弁護士の設立したマエケナス古美術財団に将来エジプト政府に文書を返還するという条件で寄贈した。『ユダの福音書』を含むパピルス写本は、彼女に敬意を払って「チャコス写本」と呼ばれることになった。

 マエケナス古美術財団はコプト学の権威でナグ・ハマディ文書にもかかわったロドルフ・カッセルに修復と出版をゆだねた。カッセルのチームは修復にとりかかった。パピルスの破片をジグソーパズルのように組みあわせる作業をつづけ、5年かかって文書を判読可能な状態にした。この事業には本書の版元であるナショナル・ジオグラフィック財団が資金援助をしているということである。

 『ユダの福音書』にふさわしく本書には裏切り者が何人も登場する。フェリーニについてはすでに紹介したが、オランダ人で古美術業界のスキャンダルを売物にしたArtnewsというニュースサイトを運営しているファン・レインもなかなかのものだ(彼の視点から見た『ユダの福音書』騒動の顛末はこちらのページで読むことができる)。

 文書の修復が完了し公開される時期にあわせたかのように『ダ・ヴィンチ・コード』が世界的なベストセラーになり、映画が公開されるというのもなにかのめぐりあわせかもしれない。『ダ・ヴィンチ・コード』はイエスとマグダらのマリアが結婚していて娘までいたというスキャンダラスな内容だが、この余波でグノーシス関係の専門書が書店の目立つ場所にならぶという珍事態が生まれている。

 『ユダの福音書』は世紀の発見とはいっても、あくまで聖書学やグノーシス主義というマイナーな分野の発見である。もし盗難前にエジプト政府が押収し、1980年に公開していたら、あるいは2001年にフェリーニが東京で公開していたら、本書が日本の書店で平積みになるようなことはなかったろう。宿命というものはやはりあるのかもしれない。

 なお、本書中には『ユダの福音書』は紹介されているにとどまるので、本文を読みたい人は同じ版元から出ている『原典 ユダの福音書』を買う必要がある。

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