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2014年02月28日

『光秀の定理』 垣根涼介 (角川書店)

光秀の定理 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 さわやかな読後感に驚いた。

 光秀ものというか本能寺ものの小説の結末は重苦しいと相場が決まっている。討たれた信長も無念、討った光秀も無念、そこに大の大人が殴る蹴るのイジメを受ける場面がくわわったり、どす黒い陰謀がくわわったりする。無念の塊になるのは当然だろう。光秀を主人公にした小説はいろいろ読んできたが、さわやかに終わる光秀ものは本作がはじめてである。

 この作品がさわやかなのには二つ理由がある。

 第一は百姓相手に剣術を教えている新九郎と、元倭寇でシャムで原始仏教(正しくは南伝仏教だろう)を学んできた愚息という二人の出世慾とは無縁の自由人の眼から光秀を描いていること。

 光秀は貧窮時代に二人と親友になり、栄達してからも変わらぬつきあいをつづける。彼もまた自由人の気風を共有しているのである。

 第二は細川藤孝の家来になった光秀が足利義昭を救出して出世の糸口をつかみ、信長に一万石という破格の待遇で召し抱えられるという登り坂の時期を描いていること。本能寺の変は最後の章で回想されるにすぎない。

 戦国史に詳しい人なら光秀が細川藤孝の家来だったという点にひっかかるかもしれない。

 光秀の前半生はよくわかっていないが、通説では光秀は美濃の明智光安の甥で、信長の正室の濃姫の従兄ととされている。明智城が斎藤龍興に落とされた後、諸国を遍歴してから越前朝倉家に仕えるようになる。細川藤孝とのつきあいは、藤孝が仕える足利義昭が朝倉家に身を寄せてからはじまり、光秀は義昭の上洛に信長の力を借りることを提案し、濃姫の縁を頼って藤孝を信長に紹介したことになっている。

 この説は本能寺の変の百年以上後に書かれた『明智軍記』ではじめて出てきたが、通説の形成に大きく影響した高柳光壽『明智光秀』では同書は「誤謬充満の悪書」と酷評されている。

 ところが困ったことに『明智軍記』は細川家の正史といっていい『細川家記』(『綿考輯録』)という権威ある記録に全面的にとりいれられているのだ。

 その結果『明智軍記』を否定したはずの高柳は、光秀は藤孝の「かち」ないし「中間ちゅうげん」だったとする史料を『細川家記』=『明智軍記』で否定するという妙なことになっているのである。高柳は次のように書いている。

 この光秀が藤孝の徒のものであったという話は、光秀と藤孝との関係が古くからあったということであり、また光秀の身分が低かったということでもある。しかし徒のものというのは恐らく誤りであろう。『細川家記』には、光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬の身分である。それを『細川家記』が誤るということはまずあるまいと思われる。(『明智光秀』)

 いったんは葬られた光秀が藤孝の家来だったとする説は明智憲三郎氏の『本能寺の変 四二七年目の真実』で脚光を浴びるようになった。同書は最近増補改訂された文庫版が出たが、本能寺の変の謎解きの部分はともかくとして、光秀の前半生を考証した部分は暗黙のうちに軍記物に拠った通説を信憑性の高い史料によって批判的に検討しており、十分議論に値すると思う。

 本作は光秀の経歴に関しては明智憲三郎説を採用している。

 光秀は土岐源氏明智氏の嫡流に生まれるが、嫡流といっても明智氏は土岐氏の庶流にすぎず、斎藤家の家老がいいところだろう。光秀は美濃に埋もれることをいさぎよしとせず、家督を叔父に譲って京に出ることを選ぶ。

 家督を継がなかった光秀は正式な幕臣になることができなくなったので、令名の高い細川藤孝に近侍し陪臣として幕府にかかわるようになる。実家が健在なうちは明智家の京都駐在外交官のような役割を果たしていたが、没落してからは貧窮し、同僚からも軽んじられるようになる。しかし藤孝だけは光秀の能力を見こみ、対等の同志としてあつかってくれた、というわけである。

 もしこれが事実だとしたら藤孝は謀反人の光秀と近すぎることになり、細川家としては『家記』にそのまま書くわけにはいくまい。『明智軍記』の記述をそっくりもってきてお茶を濁したということがあっても不自然ではないだろう。

 光秀が土岐源氏の出身なら、信長が新参の光秀にいきなり破格の知行をあたえたことも理解できる。愚息は光秀の好遇は美濃攻略の直後という時期が影響しているとして、次のように絵解きしてみせる。

「信長にとっては土岐一族からの不信感を払拭する契機にもなり、不満分子の吸収もできる。かつ、十兵衛を頂点に血縁で繋がった強固な地場勢力を、一挙に織田家の子飼いとして内部に取り込むことも出来る」

 事実明智五宿老として明智家の身代を支えた五人の侍大将のうち明智秀満、溝尾茂朝、明智光忠、藤田行政の四人はこの時に採用されている。

 急成長した織田家は実力主義で門地に関係なく出世できた反面、寄せ集めの脆さもかかえており、勝ち戦の時は勢いに乗るが、いったん劣勢になると驚くほど脆かった。信長が鉄砲や新兵器を重視し、常に相手方より大きな兵力で決戦に臨んだのも自軍の弱点がよくわかっていたからだろう。

 それに対して明智軍団が徳川に匹敵する地縁・血縁で結ばれた強さをそなえていたとするなら、明かに旗色の悪かった山崎の合戦で最後まで粘りを見せたことも納得がいく。

 著者の描きだす光秀は愚息や新九郎と馬の合う自由人だが、その一方土岐源氏明智氏流の嫡流として一族の再興を果たさなければならなかった。光秀は各地に散った一族を再結集し、そこに旧幕臣がくわわり、最終的には34万石の大大名となった。指揮下に置く与力大名の所領を合わせると240万石に達する。

 その光秀がなぜ謀反を起こしたのか。

 本作はあえて謎解きはせず、愚息と新九郎に動機を考えさせるだけにとどめている。信長の独裁体制が日本全体を覆い尽くすのを避けたかったのではないかという仮説に落ち着くが、仮説は仮説、それ以上深追いしていないのは見識だろう。

 その点も含めて、すがすがしい終り方をしている。この小説はお勧めできる。

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2014年02月27日

『とまどい本能寺の変』 岩井三四二 (PHP)

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 本能寺の変はもちろん謎だが、変の後に起こった出来事もよくわからないことが多い。

 毛利は一杯食わされて領土割譲を含む和議を結ばされたとわかったのに、なぜ秀吉軍を追撃しなかったのか?

 信長の三男の信孝は四国攻めのために明智軍をうわまわる軍勢を摂津に集めていたのに、なぜ弔い合戦をいどまなかったのか?

 関東で孤軍となった滝川一益は敵地となった上野・信濃・木曾をどのように突破したのか?

 安土に残っていた家臣たちはなぜあっさりと城を捨ててしまったのか?

 本書は安国寺恵瓊、織田信孝、信長の側室のおなべの方など信長周辺のマイナーな人物を主人公とした連作短編集だが、こうした疑問に鮮やかに答えを出し、信長の死で生まれた巨大な空白を前に右往左往する人々をシニカルに描きだしている。

 歴史の脇役を主人公としているだけに、ありきたりの歴史小説では満足できなくなった人向けだが、本能寺の変前後の歴史が立体的に見えてきて実に面白い。

「南の山に雲が起これば」

 毛利家の外交僧、安国寺恵瓊が主人公である。

 秀吉との和議をやっとまとめ、酒を飲んで眠りこんでいたところ、本能寺の変の知らせが届く。恵瓊は独断で高松城主清水宗治を切腹させており、責任を問われかねなかった。

 評定では恵瓊は和議には曖昧な点が多々あり、これからの交渉で割譲地を減らせると説得し、秀吉に恩を売るために追撃はやめることになった。

 恵瓊は引きつづき秀吉側との交渉にあたることになる。三年後、毛利家の首脳が秀吉の元に拝謁するが、恵瓊は豊臣側の大名として毛利側と向かいあっていた。

「最後の忠臣」

 信長の三男織田信孝が主人公である。

 本能寺の変で信長と長男信忠が横死すると、三男信忠を擁立する動きが起こった。次男信雄はバカ殿と悪名高かったからである。

 だが秀吉の三法師擁立で信孝の夢はついえ、頼みとしていた柴田勝家も滅ぼされる。変からわずか一年後、信孝は尾張野間に蟄居させられ、信雄の命令という名目で切腹させられる。

 野間は源義朝が家臣の長田忠致にだまし討ちにされた地である。忠致は平家討伐にあたり、頼朝から「ミノオワリを与える」という言質をもらったが、実際にあたえられたのは「美濃尾張」ならぬ「身の終り」だった。信孝はその故事を踏まえて「むかしより主をうつみののまなればむくいをまてや羽柴筑前」という辞世を作る(昔から主を討つといわれる内海の野間。裏切り者の報いを待っていろよ、羽柴筑前守)。

 本作では信孝は人望がまったくない男として描かれている。本能寺の変後、一夜にして消えてしまった一万五千の軍勢にはじまり、家臣の逃亡があいつぎ、最後に残ったのはうだつのがらぬ六太夫だけだった。信孝は身の振り方を心配してやるが、思いがけない返事が返ってきた。信雄に召し抱えられることになっているというのだ。

「城を追われた殿に、最後まで付き従った忠義の心は見事であると、信雄さまに認められまして、それがしは才気浅く、戦場かせぎも苦手なれど、忠義の心ばかりは自慢でござる」

 この主ありてこの家臣ありという結末だが、信孝の同時代評価は高く、秀吉が急いで切腹させたことからいっても、この描き方は厳しすぎるのではないか。

「久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ」

 信長の近習頭だった堀久太郎が主人公である(表題の「久々」は小姓時代の愛称)。

 久太郎は本能寺の変の直前、軍監として秀吉のもとに派遣されており、そのまま秀吉に臣従し、論功行賞では佐和山城と20万石をあたえられた上、三法師の守役に指名されている。山崎の合戦での手柄もあったが、織田家の近習頭という地位も影響していたろう。

 物語は北ノ庄城の攻城戦にはじまる。久太郎は秀吉にうとまれるのを承知で、勝家の助命をくりかえし懇願し、自分が使者に立ってもいいとまで申し出る。

 ついに秀吉も根負けし、久太郎はすでに占領されている天守閣の一段目にはいり、階上の勝家に呼びかけるが、勝家は念仏を唱える女たちを刺し殺し、自ら城に火をかけて切腹する。

 主家に殉じた勝家が「いっそううらやましく、いっそう憎くなった」という久太郎の述懐が哀しい。

「関東か小なすびか」

 織田家の宿老の一人だった滝川一益が主人公である。おそらく平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』が種本だろうと思うが、読みくらべると歴史作家がどのように話を作るのかがわかる。

 一益は甲州征伐の主力であり、武田勝頼を天目山で討ちとっている。一益は上野一国と信濃の一部をあたえられ、関東全体を掌握する関東取次を命じられるという大変な出世をするが、本人は領地よりも「珠光の小茄子」という名物を所望したと伝えられており、本作の表題となっている。

 一益は本領である伊勢の兵を連れて上野国にはいり、上野と信濃の領主から人質を集めて関東の支配に乗りだしたが、その矢先本能寺の変が起こる。

 領国の支配が確立しないうちに信長という後ろ盾がなくなったのだから、五千の滝川軍は敵地に取り残されたに等しい。

 映画『清洲会議』の一益は忍者だった前歴を活かし、ただ一人山野を駆けて生還しているが、実際はそうではなく、手勢の生き残り三千とともに敵地を突破したのである。

 ここで決め手となったのが人質である。一益は人質を楯に信濃との国境に出ると、上野の国人の人質を解放した。信濃の国衆からとった人質は、木曾通行の安全と引き換えに、信濃に野心をもつ木曾義昌に引き渡している。えげつないが、これが戦国のならいだ。

 本作では一益は厩橋を立つ前に人質を解放するつもりだったしたが、北条を恐れる上野の国人の方から団結のために人質はそのままでいいと申し入れがあったことにし、国境で人質を解放する際には一益に丁重に頭を下げさせている。こう描かれると一益は一まわり大きな大将の器に見えてくる。

 信濃の人質を木曾義昌に引き渡した件も、人質の一人だった真田昌幸の母の提案にしている。「木曾どのに人質という通行賃を払うのよ。わしらも死ぬよりはええしな」というわけだ。

 さすが真田の母だと歴史の機微をのぞき見たような満足感があるが、もちろんフィクションである。

「本能寺の変に黒幕はいたか」

 この章は小説ではなくエッセイである。著者は『光秀曜変』で光秀認知症説という本能寺の変の新たな解釈を打ちだしたが、その背景説明をおこなっている。

 光秀はアルツハイマー型の認知症ではなかったかというのが著者の説であるが、このエッセイで説得力がいよいよ増した。

 ちなみに62歳で没した秀吉はレビー小体型認知症の可能性があるという。

 光秀認知症説とは別に、朝廷陰謀説の傍証とされる近衛前久の怪しげな行動についてもふれているが、「坊ちゃん育ちの甘ちゃん」という見方は当たっていると思う。前久の不祥の子孫は先日の都知事選に担ぎ出されていたが、前久もあんないい格好しいだったのかもしれない。

「カタリナ・おかつの受難」

 安土セミナリヨの院長だったオルガンティノは明智軍の乱妨を恐れて信徒とともに琵琶湖の沖の島に避難するが、かえって湖賊のとりことなり、明智軍に助けだされている。明智側は高山右近を説得する書簡をオルガンティノに書かせた。日本語では明智に味方しろと書いたものの、ポルトガル語では絶対に明智につくなと書いたされている。

 このエピソードを信長の馬廻役の妻で、吉利支丹の女の視点から描いたのが本作である。伴天連の卑怯な振る舞いに棄教を決心するが、京や安土の日常生活が女目線で描かれていて興味深い。

「北方城の悲惨な戦い」

 西美濃三人衆の一人、安藤道足が主人公である。

 道足は稲葉一鉄、氏家卜全とともに斎藤龍興を見限り、信長のもとで数々の功績を上げたが、本能寺の変の二年前、佐久間信盛、林秀貞の二家老とともに領地を没収されてしまう。

 本能寺の変後、道足は旧臣を集め、稲葉家のものになっていた北方城を奪還するが、倍以上の兵力をもつ稲葉勢が押しだしてくるとひとたまりもなくつぶされてしまう。稲葉側も代々親しくしてきた安藤家が相手だけに複雑である。

 信長という重しがなくなり、本作のような旧領回復の動きは各所であっただろう。権力の空白は新たな騒乱を呼ぶのだ。

「信長を送る」

 信長の側室おなべの方が主人公である。おなべの方は信長の子を三人産んだということで吉乃が亡くなった後は正室に準ずる扱いを受け、織田家の奥向きを差配していた。本能寺の変直後の安土の混乱を彼女の目から描いたのが本作である。

 信長から安土城を任されたと自負する彼女は籠城を主張するが、誰もとりあおうとしない。安土城は攻められることを想定しておらず、守れないというのだ。

 ようやく木村次郎左衛門という侍が名乗り出たが、手勢はわずか57人。

 木村が明智軍と一戦まじえようというには思惑があった。木村家は安土土着の領主で、今は山下町の奉行に任じられていた。安土から逃げたら木村家は浪人するほかはない。それなら忠義の者として名を残し、子孫に仕官の芽を残そうというわけだ。

 結局おなべの方も退去することになるが、それには彼女なりの名分があった。混乱する安土の描写はフィクションだろうが、決断は史実である。

 この作品が本書では一番読みごたえがあった。最後にもってきただけのことはある。

 本書は単独でも読めるが、『光秀曜変』をとりまくような構成になっており、あわせて読むと本能寺の変前後の社会が立体的に見えてくるだろう。

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2014年02月26日

『光秀曜変』 岩井三四二 (光文社)

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 表紙には二代目中村鴈治郎のような陣羽織を着た老人が描かれている。ずいぶん老けた光秀だなと思ったが、本作は光秀の享年として67歳説をとっており、老けているのがポイントなのだ。

 二つのストーリーを平行して語るカットバックの手法がとられており、第一のストーリーでは天正7年から本能寺の変までの4年間が光秀の一人称で語られる。

 第一のストーリーの合間にはさみこまれるのが第二のストーリーで、本能寺の変から山崎の合戦、潰走、坂本城落城までが語られるが、語り手は光秀にゆかりのあった人々だ。

 明智左馬助のような一門衆から斎藤内蔵助、藤田伝五のような史書に名の残る明智軍団の幹部、旧幕臣の寄騎衆、現場の指揮官や兵卒、さらには光秀と距離を置いた細川幽斎、筒井順慶、里村紹巴にいたるまで、光秀をとりまくさまざまな立場の人々にめいめいの視点から語らせている。

 本能寺にもっとも早く突入した顛末を書き残したことで知られる惣右衛門も登場する。「本城惣右衛門覚書」は現代語化され、ほぼそのままの形で作中にとりいれられており、迫真性に改めて目を見張った。

 本能寺焼討の前と後で視点が変わるのは、事を起こすまでは光秀の頭の中の出来事だが、いったん事を起こしてからは事態は光秀の手を離れ、光秀とその縁者をあらがいようもなく雪崩のように呑みこんでいったからだろう。

 明智軍団は倍以上の秀吉軍に押しまくられながらもよく戦ったとされているが、本作でも捨て駒になるのを承知で郎党もろとも大軍に突入していく伊勢与三郎など、見せ場が多い。光秀はそれだけ部下に慕われていたわけである。

 下の者はよく戦ったが、肝心の光秀は満足な下知がくだせなくなっていた。これは史実もそうで、信長も信忠も光秀の謀反と知ると水も漏らさぬ緻密な手配りがしてあるのだろうと早々に逃げることをあきらめてしまったが、実際は下京は封鎖しておらず、信長の弟の有楽斎など多くの者が落ちのびている。それどころか信忠のいた妙覚寺を本能寺と同時に襲えばよかったのに囲むことさえしておらず、むざむざ二条御所に逃げこまれてしまっている。かつての光秀とは思えない杜撰さである。

 信長を討った後の対応も精彩を欠いている。諸説あるが、すくなくとも一万以上の軍勢がいたのだから、別動隊を派遣して瀬田の橋を確保しておけばよかったのに焼かれてしまい、安土占拠が三日遅れている。最低限のことはしているが、それだけなのである。

 なぜ切れ者の光秀がこうも寝ぼけた対応しか出来なかったのか。

 その問いは著者の考える本能寺の変の真相と直結している。

 光秀がなぜ謀反を起こしたかについては野望説、怨恨説など光秀個人に原因ありとする説、四国説や山陰移封説のように織田家における光秀の地位の変化に原因を求める説、さらには朝廷説や義昭説、秀吉説のように別に黒幕がいたとする陰謀説までさまざまだが、著者は思いがけない新説を提起している。光秀認知症説である。

 光秀は有職故実に通じ天覧の馬揃えをみごとに成功させるなど周到な気配で知られていたが、本能寺の直前にまかされていた家康供応役を途中で解任されている。上演する能の演目で何らかのトラブルがあったことは史料で確認できるし、軍記物の伝える話なのでどこまで信憑性があるかわからないが、腐臭を放つ魚を料理に出して信長から打擲されたなどという話まである。

 著者はこうした失敗は認知症の症状でないかと推理している。なるほど認知症でもっとも多いアルツハイマー型認知症ではまず嗅覚が鈍くなり、記憶力と集中力に問題が出てくる。

 本作の光秀はまさにアルツハイマー型の認知症で、側近の猪子兵助を常に身近にはべらせてどうにか面目をたもっているが、信長に呼ばれて直接指示を受ける場面では兵助をともなえないので、能の演目や部屋のしつらえの指示を忘れてしまうという失態を演じている。

 光秀は認知症を起こすには若すぎるのではないかと考える人がいるかもしれないが、最も信憑性が高いとされている享年67歳説をとるなら、立派な認知症年齢である。陰謀説のファンとしては残念だが、光秀認知症説はかなり説得力があるのである。

 光秀は認知症でしたで終わったのでは一種の偶像破壊にしかならないが、著者はその先を描こうとしている。認知症という病気も天の配剤ではないかという認識である。著者は敗走する光秀にこう述懐させている。

 鈍くなった頭ながら――いや、鈍くなったからこそ気づいたのかもしれない――、ようやく自分が何と戦わねばならないのか、見えてきていた。それは、信長や猿など足許にもおよばぬ強大な敵だ。
 十数年前におれを信長に引き合わせ、ここまで連れてきたもの。
 上諏訪で、ほんの数歩の差でおれの声を信長に聞かせ、信長を怒り狂わせたもの。  この半年ほどで、おれの頭をおかしくさせたもの……。
 天道だ。気まぐれな天道の仕業だ。

 『光秀曜変』という表題はまさにこの天の配剤を意味している。

 なお最近刊行された『とまどい本能寺の変』は本能寺の変に運命を狂わされてしまった人々を主人公とした連作短編集であり、本作を取り囲む位置にあるといえよう。本作と合わせて読むと、より奥行が深まってくる。

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2014年02月25日

『王になろうとした男』 伊東潤 (文藝春秋)

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 織田家を社員を使いつぶすブラック企業にたとえた人がいたが、ブラック企業でもすべての社員がつぶされるわけではなく、出世の道をひた走って高い地位にのぼりつめる社員もいれば、カリスマ経営者に心服して、出世とは関係なしに会社に献身することに喜びを見出す社員もいるだろう。

 本書は信長周辺の歴史の脇役を描いた連作短編集だが、出世レースに邁進して自滅していく野心家と、信長に惚れこんで運命をともにした忠義者という二つのタイプの武将が登場する。それぞれに面白いが、作品としては忠義者を描いたものの方がすぐれているようである。

「果報者の槍」

 桶狭間の戦いで今川義元の首をとった毛利新助が主人公である。新助は論功行賞で義元の槍をあたえられ、黒母衣衆にとりたてられたが、その後はぱっとしなかった。

 母衣衆は信長の指令を前線部隊に伝える連絡将校であり、いわば司令部勤務といえる。信長のそば近くに仕えるだけに目端がきけばいくらでも出世の糸口をつかむことができたが、槍働き一筋新助にとっては前線からはなれた司令部勤務は活躍の場を失うに等しかった。

 抜擢が足枷になるという新助の皮肉な一生を、幼なじみで母衣衆から侍大将に出世した塙直政(次の「毒を食らわば」の主人公でもある)と対比して描いたのが本作である。

 新助は出世はできなかったが、信長から忠義を認められ、嫡男信忠の側近に抜擢され、本能寺の変の時に最後の活躍の場を得ることになる。

 生一本に生きた侍の清々しい最後を描いた名編である。

「毒を食らわば」

 塙直政といわれてもすぐにわかる人はあまりいないだろう。

 本作によると赤母衣衆から外交官・行政官として頭角をあらわし、浅井討伐後、南山城をまかされ初の国持大名になったとある。

 直政は軍事的にも功績をあげている。長篠合戦では五人の鉄砲奉行に一人に指名され、400丁の鉄砲隊を編成、それに細川・筒井の150丁をくわえた織田軍最大の火力を指揮して武田軍にあたっている。

 本当にこんな武将がいたのかと思って谷口克広『信長軍の司令官』の索引を見たところ、かなり大きな扱いで載っていて「天正二年五月に南山城の守護、翌年三月に大和の守護を兼務。このようにあっという間に出世の階段を登っていった塙直政」とあるではないか。

 明智や羽柴よりも一頭抜きんでいた武将がなぜ歴史から忘れられてしまったのだろうか。理由は直政の最期にある。

 直政は出世競走の先頭を走っていただけに無理に無理を重ね、信長の過大な要求に答えようとして本願寺戦で無残な結末をむかえる。

 著者は出世とは無縁の一生を送った毛利新助と対比することで、出世レースで自滅した直政の生涯をくっきりと描きだしている。

「復讐鬼」

 信長に謀反を起こしながら秀吉の時代までしたたかに生き残った荒木村重が主人公である。

 村重というと人を騙しても騙されることのない海千山千の強者というイメージだが、本作の村重は信用していた側近に騙され、謀反に追いこまれていくお人好しに描かれている。

 お人好しだった村重が一族を皆殺しにされて復讐鬼に変じ、本能寺の変の後、自分をはめたかつての側近にどのように復讐を果たすのかが本作のテーマである。

「小才子」

 本能寺の変の後の混乱で、光秀の女婿となっていた津田信澄が光秀との関係を疑われ、誤って誅殺されたが、その信澄が主人公である。

 信澄の父は信長の実弟の信行である。信行はうつけの信長を差し置いて織田家を嗣ぐと見なされていたが、信長に騙し討ちにされ、息子の信澄は柴田勝家の懇願で助命されたものの、織田家庶流の津田姓を名乗らされるという屈辱を味わっていた。謀反の動機はないわけではないのだ。当時の人々もそう見ていたから、明智の一味という濡衣を着せられてしまったのだろう。

 本作は信澄が実は本能寺の変の黒幕だったという設定で書かれている。信澄は周到に策をめぐらして緻密な計画をつくりあげていくが(最近、文庫版の出た明智憲三郎氏の説を参考にしたと思われる)、策士策におぼれるの言葉通り、最後の最後で逆にはめられていたことに気づく。なんとも皮肉な結末である。

「王になろうとした男」

 信長に近侍したアフリカ人の小姓彌介が主人公である。

 彌介はイエズス会の巡察使ヴァリニャーノがモザンビーク島から連れてきた黒人奴隷の従者で、信長に贈物として献上している。信長は黒い肌に驚き、何度も洗わせて本当に黒いことを確認したというエピソードが伝わっているが、小姓として身近に置いたということは単に物珍しさだけでなく、彌介の忠誠心を評価したということだろう。

 本作では白人から奴隷として扱われていた彌介が、一人の人間として認めてくれた信長に惚れこみ、献身していく姿が描かれていく。

 信長は彌介の純一な心と日本人をはるかに越える身体能力に感嘆し、黒人だけからなる部隊を編成しようとまで考えている。

 黒人部隊はフィクションだが、大陸侵攻の野望はフロイスが書き残しているし、秀吉が実行しているのでじゅうぶんありえたことだろう。本作の信長はさらに気宇壮大だ。

 「日本国が治まった後、わしは全軍をもって大陸に押し入り、明を制するつもりだ。そしてその後――」  信長が地球儀をゆっくりと回した。 「オスマンという国のコンスタンティノープル、伴天連どもの総本山のローマ、そして、カリオンが語っていたイスパニアを制する。つまりわたしは、欧州の富が集まる四つの港をすべていただく。そなたは、怨み骨髄の白人どもを思いのまま殺せるのだ。もちろん、気に入った者は白奴にしてもよいぞ」

 信長と彌介の夢は本能寺でついえることになる。史料には明智軍と戦った彌介が捕縛された後、日本人ではないという理由で釈放されたところまでは記録されているが、その後はフィクションになる。彌介がどのような運命をむかえるかは本書を読んでいただこう。

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2014年02月24日

『織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代』 武田知弘 (ソフトバンク新書)

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 武田知弘氏は国税庁職員から物書きに転じた人で、『ヒトラーの経済政策』や『史上最大の経済改革“明治維新”』などの経済的視点の歴史物で知られている。

 本書も信長の天下統一を経済的視点から見直そうという試みであり、経済力において信長が他の戦国大名を圧倒していたことがさまざまに論証されている。

 信長の天下統一が経済力を背景にしていたことは、織田軍が非常に金のかかる軍隊だったことからもわかる。

 信長は長篠の戦いで三千丁の鉄砲を投入するなど火器を活用したが、鉄砲は高価であり、火薬に必要な硝石は当時は輸入でしか入手できなかった。

 他の戦国大名は依然として農民兵に頼っていたので動員に時間がかかる上に、農閑期にしか戦えなかったが、信長はいちはやく兵農分離を進め、常備兵をかかえていた。戦争専門の常備兵が農民兵より強いのはあたり前だが、衣食住を丸がかえにしなければならなず、農民兵よりも格段に高くついた。織田軍を維持していくには恐ろしく金がかかったのである。

 では信長は厖大な軍事費をどのようにまかなったか。

 信長は足利義昭を将軍に推戴した際、義昭から望みは何かと聞かれて、官位でも領地でもなく、堺・大津・草津に代官をおく許可をもとめた。

 堺は海外貿易の拠点であると同時に日本最大の工業都市だったが、大津と草津も重要な交易拠点だった。明治まで日本の流通は波の荒い太平洋側よりも、内海である日本海側の航路を幹線としていたが、大津と草津は京都から琵琶湖を通って日本海側に出るルートに位置していたのである。

 港の重視は信長の祖父の信定にはじまる。信長の生まれた織田弾正忠家は清洲織田氏の三人いる家老の一人にすぎなかったが、祖父の信定は尾張の玄関口で伊勢湾交易の拠点である津島港の近くに勝幡城を築き、物流をおさえることによって莫大な収益をえた。

 信長の父の信秀は朝廷と幕府に多額の献金をして、尾張守護斯波氏の陪臣の陪臣の身ながら従五位下に叙せられ、将軍義輝に拝謁する栄に浴している。天文10年の伊勢神宮遷宮のおりにも破格の献金をおこない、三河守に任じられた。尾張の小領主にすぎなかった信秀がこれほどの金を献ずることができたのは津島港という金のなる木をもっていたからだ。織田弾正忠家は信長の祖父の代から経済に敏感だったのである。

 経済利権を握ろうとする信長の前に立ちはだかった勢力がいる。大寺院である。大寺院は戦国大名をしのぐ巨大な経済力をもっていた。

 永正5年に細川高国が発した撰銭禁止令は大山崎、細川高国、堺、大内義興、山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔の八者を対象としていたが、その内の五者までが寺院であり、しかも興福寺以外はすべて叡山関連である。

 叡山の荘園は判明しているだけで285ヶ所を数え、京の中心部に3ヘクタールもの土地を所有していた。

 また土倉というサラ金のような金融業者はいずれも大寺院とつながっており、金を返さない者には罰が当たると脅しつけ、それでも返さないと僧兵が取立てに押しかけた。

 叡山は馬借という運輸業者も支配下におき、琵琶湖に11ヶ所の関所を設けて通行税を徴収していた。

 兵庫湊では東大寺が北関、興福寺が南関という税関を設置して津料をとりたてていた。紀州の根来寺は戦国大名に先んじて石垣積みの寺城館を建てており、境内には300もの子院が立ち並び、堺・国友と並ぶ鉄砲の一大産地となっていた。

 新興の本願寺の経済力もすさまじい。本願寺系の大寺院は河口や街道の合流点など交通の要衝につくられており、寺域に寺内町という商工業地区を設けていた。寺内町は楽市楽座を先取りした特権を戦国大名に認めさせて繁栄を誇り、本願寺の経済的基盤となっていた。

 著者は信長が仏教勢力と衝突したのは、大寺院が握る経済利権を奪いとろうとしたからだとしている。叡山や本願寺との戦いは実は経済戦争だったというわけである。

 著者は信長を経済革命の旗手として描きだしているが、信長は中世を離脱できなかったとする谷口克広氏の『信長の政略』を読んだ後では、盛りすぎではないかと思う箇所がすくなからずある。

 しかし信長が大寺院の既得権を奪おうとしていたとする見方は十分説得力があるし、堺・大津・草津の支配が東国の大名に対する経済封鎖を可能にしたという説も興味深い。経済封鎖にあたる荷留は他の大名もおこなっていたし、武田氏が鉄や硝石が入手できずに困っていたという記録もあるそうである。

 本書の中で一番面白かったのは、金・銀を貨幣にしたのは信長だという指摘である(この部分は浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史』に拠っているよし)。

 中世において貨幣とは中国の銅銭だった。南宋滅亡後、元は紙幣の使用を強制したので大量の銅銭が日本に流入し、貨幣経済を促進した。ところが明が銅銭の輸出を禁止したために銅銭不足におちいり、粗悪な私鋳銭(偽コイン)が横行するようになった。長く使って摩り減った銅銭や私鋳銭を拒否する者が多く、取引を円滑化するために為政者はたびたび撰銭禁止令を出さなければならなくなっていた。それでも貨幣不足はいかんともしがたく、米が代用貨幣として使われるようにさへなった。

 銅銭が足りなければ金貨や銀貨を使えばいいと思うかもしれないが、東洋では金・銀は貴重品ではあったが貨幣ではなかった。

 武田信玄は領内で産した金で甲州金を鋳造したが、贈答品として使われただけで貨幣として流通した記録は武田領内でさえ残っていないそうである。

 金・銀を貨幣として認めた法令は本書によると上洛の翌年の永禄12年(1569)に信長が出した撰銭禁止令だという。

  • 今後、米を通貨として使ってはならない
  • 糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと
  • 中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと
  • 金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと
  • 金10両に対して銅銭15貫文で交換すること
  • 銀10両に対して銅銭20貫文で交換すること

 信長の政治的威信によってはじめて金・銀が貨幣として使われるようになったというわけである。

 著者はさらに信長の名物狩りも金・銀の流通を促進させる狙いがあったとしている。確かに高価な茶道具の代金を金・銀で支払えば、それだけ市中に金・銀が出まわるようになるだろう。

 はたして信長がマネー革命を起こしたのかどうか、大いに気になるところである。

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2014年02月23日

『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』 谷口克広 (学研)

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 谷口克広氏は『織田信長合戦全録』や『信長と消えた家臣たち』、『織田信長家臣人名辞典』など、信長関係のレファレンス本を精力的に執筆してきた人である。本欄でも『検証 本能寺の変』をとりあげたことがある。

 谷口氏の本は信長の家臣団や合戦など、特定分野の情報をバランスよくまとめてくれるので重宝してきたが、『信長の政略』も期待通りで、安心して読める。

 本書は「序章」で信長の天下取りのプロセスを概観した後、「第一部 周囲に対する政略」、「第二部 統一戦争へ向けた政略」、「第三部 民衆統治に関する政略」と三部にわけて記述している。

 「第一部 周囲に対する政略」では「外交と縁組政策」、「室町幕府」、「朝廷」、「宗教勢力」という四つの章を立てているが、それぞれについて学説の変遷を簡潔に紹介するところからはじめているのはありがたい。

 対朝廷政策については幕末の勤王思想家は信長を勤王家の先達と評価し、明治8年の建勲神社創建にいたるが、勤王家という見方は田中義成『織田時代史』によって学説として確立され、第二次大戦期まで信長観を支配することになる。

 ところが敗戦後、信長を中世を終わらせた革命家として評価する見方が浮上し、信長は天皇制否定したとする安良城盛昭の説まで出てくる。

 1970年代には以下の三つの論考が出揃い、今日の信長論の基礎が出来あがった。

  1. 朝廷に対しては「一歩離れてこれを操縦」したとする朝尾直弘「『将軍権力』の創出」(1970-4)
  2. 朝廷とは対立・緊張関係だとした奥野高廣「織田政権の基本路線」(1976)
  3. 信長は中世から離脱できず、朝廷に対しては公武協調政策をとったとする脇田修「統一権力と朝廷」(1977)

 1990年代にはいると2の立場を先鋭化した論があらわれた。今谷明の『戦国大名と天皇』と『信長と天皇』である。馬揃えは朝廷に対する武力威嚇だったとか、三職推任が本能寺の変の原因だったとする見方は今谷の本で世に広まった。

 本書の副題が「信長は中世をどこまで破壊したか」となっているように著者は3の脇田の見方を継承しており、今谷説に対しては批判的だ。

 この論説は実のところ史料選択や解釈などにいろいろと問題点があり、後に堀新氏たちによる手堅い反論によってほとんど覆される形となるのだが、「信長の敵=天皇」という新しい図式がインパクトの強さによって一般にかなり受け入れられていったのである。そして、その図式が一人歩きをする形で、本能寺の変には朝廷勢力の一部がからんでいたという「朝廷黒幕(関与)説」まで生まれてゆくのである。

 ばっさり斬ってすてているが、自分の立ち位置を明確にしているので異なる見方の人にとっても本書は役に立つだろう。

 著者は信長は中世から離脱しきれなかったという立場だけに、近年の信長=革命家説になじんだ目には新鮮な指摘が多い。

 信長は仏教に対しては叡山焼討や長島一揆に対する根切りなど、容赦なくたたきつぶしたが、その一方、抵抗しなかった寺院に対しては最後の時期まで寺領を安堵している。信長は敵対した仏教教団に対して厳しく当たっただけで、叡山や長島に対する処断は度重なる裏切りに対する報復であり、特殊な事例にすぎなかったとするのが著者の見方である。

 信長の楽市楽座も限定的であり、関所の撤廃についても皇室の収入源となっている関所は黙認している。検地も太閤検地のような徹底したものではなく、度量衡や升の統一も確かな証拠は残っておらず、名主や領主の中間搾取も「内徳」として認めていた。

 信長の実像はどうも傍若無人な革命家からは程遠かったようである。

 意外だったのは信長が「外聞」を気にして宣伝を重視していたという指摘である。

 信長は将軍義昭を放逐する前に、義昭とその側近の横暴を諌めた「十七ヶ条の異見書」を送ったが、この異見書の写しは各地にたくさん残っているのである。義昭を諌めるだけが目的なら本人に読ませれば用は足りるはずだが、明かに異見書の写しを大量につくり、あちこちに送りつけて、悪いのは義昭だと印象づける世論工作をおこなっていたのである。

 安土で問題を起こした日蓮宗を処罰するにあたっても、まず面前で宗論をおこなわせ、日蓮宗が敗れたことを京都所司代の村井貞勝に宣伝させている。事実公家の日記などにも宗論の顛末が事細かく書き残されている。

 複数の城を攻める場合、信長は一つの城を一気に力攻めで落とし、他の城が降伏するようにもっていっている。力攻めで落城させると攻める側に大きな犠牲が出るが、他の城が戦意をなくして開城するなら全体の犠牲は小さくなるわけだ。

 信長の残虐性というのも宣伝戦略で盛った部分があるのかもしれない。

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2013年08月27日

『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』 NHKスペシャル取材班 (角川書店)

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 2012年1月から4回にわたって放映された同題のNHKスペシャルの書籍化である。

 10年前だったらアート紙でカラー図版をふんだんに入れ、全4巻で出たところだろうが、厳しい出版事情にかんがみ一冊にまとめたということか。

 本書は4章にわかれ、各回の担当ディレクターが執筆している。NHKの取材ネットワークを総動員した4時間の番組を一冊にしただけあって、情報量がすこぶる多い。

 番組では信頼とわかちあいの心ばかりが強調され、脳内お花畑の印象がなくはなかったが、本書を読むと人間性の暗黒面もちゃんと取材していたことがわかり、説得力が格段に増した。

 世界最初の戦争がおこなわれたネムリク遺跡を取材しようとしたが、イラク内戦の激戦地エルビル近郊のために断念した顛末が語られている。なんともいいようがない。

 ウェイド『宗教を生みだす本能』と重なる部分が多いが、本書はさらに一歩を進め、農業誕生にも宗教がからんでいるという最新の説を紹介している。

 『宗教を生みだす本能』では部族間抗争は狩猟採集時代を通じておこなわれており、特に激化したのは2万年前の最終氷期最寒冷期とされていた。考古学的痕跡が残っていないのは抗争が小規模だったためと説明されていたが、本書には棍棒や短剣のような人間に対して使われた武器が出てこないという説が登場する(棍棒は木なので残らないと思うが)。

 本書によると部族間抗争がはじまったのはかなり暖かくなってきた1万年前からである。それは農業の試行錯誤をしていた時期であるとともに、世界最初の宗教施設ギョベクリ・テペ遺跡が建設された時期でもある。

 農業の起源については、これまでは最終氷期が終わって定住したものの、1万1000年前から数百年間の「寒のもどり」(ヤンガードリアス期)があり、食料不足からやむなく農業をはじめたとされていたが、農業の模索は1万3000年前からはじまっており、「寒のもどり」で一気に農業化が進んだわけでもなかった。近東で農業社会が確立したのは8000年前で、農業化には5千年もかかっていた。

 そんなに時間がかかったのは近東では主食になる作物がなかったからである。小麦が決定打となるが、野生の小麦は風で種子がばらばらに飛び散ってしまい、収穫が困難だった。

 そんな稔りのすくない作物の改良を倦まずにつづけたのは小麦がハレの日の特別な御馳走だったからではないかというのだ。小麦からビールがつくられていた可能性もあるが、ビールもまたハレの日のための特別な飲み物だったのだろう。

 最新の農業起源説は「お祭り説」といって、宗教儀礼に使われた効率の悪い作物がだんだんに改良され、主食となるような栽培種になっていったと考える。ちなみに小麦の原産地であるカラジャダー山はギョベクリ・テペ遺跡からわずか60kmの距離である。

 そうした仮説が出てきたのは、農耕をはじめる動機になるような、明確なメリットが見当たらないということがある。農耕をはじめた当初に限れば、「そちらのほうが得することが多い」とか「そちらのほうが安定する」という明らかなプラスがなかったように見える。それは、数千年かけて実現されたことであり、植物の突然変異という思いがけない恩恵によって実現されたことなのである。「好きではじめてしまった」、「つい、はじめてしまった」としか思えない状況なのだ。あるいは、集団の意志という言葉でしか説明できない状況ともいえる。

 主食になるまでの数千年がかりの改良には持続的な集団の意志が必要だろう。そうした集団的意志の持続を可能にするのは宗教だけではないか。

 そこでギョベクリ・テペ遺跡であるが、高さ5mほどの石柱を14~5本サークル状にに並べたエンクロージャーと呼ばれる遺構が20近く存在するが、人間が居住した形跡はない。石器は見つかっているが、さまざまな場所の石器がいりまじっており、各地の部族が集まる聖地というか、宗教センターのようなものだったらしい。

 各エンクロージャーは浮彫の様式が違い、異なる部族がつくったと見られるが、石柱を1本運ぶにも500人が必要で、150人程度の部族単独では無理である。おそらく複数の部族が協力しあってエンクロージャーを一つ一つ建設していったのだろう。

 部族間の協力がみられる一方、この時期は戦争がはじまった時期でもある。ギョベクリ・テペ遺跡から400kmほど離れたところにケルメズ・デーレ、メムリク、ムレファートという三つの遺跡群があり、いずれも防衛しやすい地形であること、穂先が念入りにつくられた武器が出土していること、武器で殺されたと推定される人骨が見つかっていることから、組織化された部族間の戦いがあったと考えられている。

 戦争と大規模宗教施設が登場した1万年前は農業以前の定住性狩猟採集の時代だったが、この定住性狩猟採集から初期の農業の段階、ちょっとだけ豊かになった段階が部族間の激しい戦いが起こりやすいという。食うや食わずなら戦いどころではないが、余裕が生まれると集団の規模が大きくなり、もっと豊かな縄張を手に入れたいという欲が出てくるわけだ。

 戦争の遂行に宗教が重要な役割を果たすのは『宗教を生みだす本能』にあるとおりで、番組ではニューギニアの部族に出撃前の踊りを踊ってもらい、テストステロンとストレスホルモンが上昇することを実証していた。勇壮な踊りは確かに人間の攻撃性を高めるのだ。

 しかしギョベクリ・テペ遺跡が部族間の協力で建設されたことから考えると、宗教は部族間の対立を調停する役割をになっていた可能性

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2013年08月26日

『宗教を生みだす本能』 ウェイド (NTT出版)

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 山極寿一の『暴力はどこからきたか』では狩猟採集時代までのヒトはわかちあいの心をもったやさしい平和な生き物だったが、農業の開始とともに所有の観念が生まれて国家が誕生し、戦争をするようになった。集団内部でも階級が分化し、格差が生じたとしている。一種の原始共産制賛美だが、こうした見方をする人は多い。

 本書は副題に「進化論からみたヒトと信仰」とあるが、狩猟採集民の理想化に冷や水を浴びせかけるような内容である。集団的な暴力は狩猟採集時代の後期に激化し、戦争の起源も、集団に対する献身の起源もそこにあるというのだ。

 著者のニコラス・ウェイドは「ニューヨーク・タイムス」で健筆をふるう科学ジャーナリストで、本欄では人類のグレート・ジャーニーを描いた『5万年前』をとりあげたことがある。

 狩猟採集時代が平和だったというのは戦いの跡が発見されていないことが根拠になっているが、そもそも全体で150人、戦闘可能な男子成人が30~40人程度の集団間の争いでは考古学的な痕跡は残りにくいだろう。

 現代の狩猟採集民に目を転じると、彼らは決して平和的な集団ではない。集団内部では争いを避け、平等にわかちあって暮らしているが、集団と集団の間では抗争があるのだ。ある調査では75%の集団が2年に一度戦い、死者の13~15%は戦死だという(二度の大戦を経験したヨーロッパとアメリカの男性死亡者の戦死者の割合は1%にすぎない)。

 サミュエル・ボウルズによれば2万年から1万5000年前までつづいた最終氷期最盛期に戦闘が激化し、それを勝ち抜いた集団がわれわれの祖先になった。

 戦いに勝つには集団の団結力が強くなければならない。団結の鍵となるのが原始宗教である。

 原始宗教は音楽、言語、心の理論を生みだした。

 アボリジニ、サン族、アンダマン諸島人といった現代の狩猟採集民の日常生活は大半が宗教行動で占められており、歌い踊る宗教儀礼を夜通し、何日もつづけることがある。戦いの前には必ず歌と踊りで精神を昂揚させ、しばしば集団的なトランス状態にはいる。ニューギニア高地の原始的な農業を営む部族も同じである。

 音楽は非生産的な活動と見なされているが、生後6ヶ月の赤ん坊でもメロディを聞きわけることができ、すべての民族が固有の音楽をもっていることからすると、音楽は進化の過程で獲得された生得的な能力といっていい。音楽で団結力を高めることのできなかった集団は淘汰されてしまったと考えられる。

 近代的な軍隊の調連では兵士に単純な動作を延々と反復練習させるが、人間の脳にはリズミカルな反復動作で恐怖心が抑制されるメカニズムが組みこまれているのである。調連のシステムを開発したマウリッツ・フォン・ナッサウは古代ローマの文献にヒントをえたというが、その根は原始宗教にあったのである。

 狩猟採集民の宗教儀礼に歌詞のない歌があることから、言語は音楽の後に生まれたという見方が有力である。言語はコミュニケーション能力を飛躍的に高めたが、しかもそれは集団内限定のコミュニケーションであり、外部の人間には理解できない。初歩的な農業を営むパプアニューギニアには800もの言語があるといわれているが、言語は敵味方をわける有効な手段なのである。

 相手の心の状態を推測する能力を心の理論というが、精霊であれ、祖先の霊魂であれ、原始宗教があがめる超自然的な存在はヒトの心の奥底まで見通し不正を罰っする。

 狩猟採集民の集団は全員が顔見知りだけに怨恨が残りやすく、不正に懲罰をあたえると本人か近親者から後々復讐されかねない。そこで一番近い血縁者に懲罰を執行させるなどの工夫をしているが、誰もがやりたがらない監視と懲罰を超自然の存在が代行してくれるならそれに越したことはない。あらゆる宗教が超自然的な監視と懲罰システムをそなえている。

 ヒトが定住し、農業をはじめ、国家を形成するようになっても宗教の重要性が減ずることはなかった。中近東では紀元前4000年くらいまでは全員で歌って踊る狩猟採集民の宗教儀礼がつづいたが、都市国家がうまれると聖職者階級が成立し、宗教儀礼を独占するようになった。都市国家の支配者は宗教によって支配を正当化した。

 聖職者は神との交渉を独占したが、神と直接交信する願望は民衆に残った。シャーマン的な能力をもった人間がトランス状態にはいって神の言葉を伝えたり、集団的なトランス状態を作りだすと、聖職者は異端邪教として弾圧した。

 異端派は神憑りを売物にして信者を集めたが、一つの宗派として確立すると今度は神憑りを弾圧する側にまわった。宗教の歴史はこの繰返しである。

 その典型がキリスト教で、初期の教会はイエスの手かざしやパウロの異言のように神憑りの要素がたっぷりあったが、ローマ帝国の国教になると信者の熱狂を恐れるようになり、教会音楽は舞踏を誘発しない方向に発達した。教会の座席は情熱的に語る司祭に信者が反応して衝動的に動きだすのを防ぐために設置された。

 本書の後半では三大一神教の発展に宗教の本能がどうかかわったかが跡づけられているが、ユダヤ教徒キリスト教の部分は穏当というか新味がないが、イスラム教の部分では興味深い新説が紹介されている。

 通説ではイスラム教ができてから征服戦争でイスラム帝国がつくられたことになっているが、新説ではまずアラブ人国家があり、その国家を簒奪したアッバース家が支配を正当化するためにつくったのがイスラム教だという。

 7世紀初頭ササーン朝ペルシアとの戦いに疲弊したビザンチン帝国は国境地帯にアラブ人の戦闘集団を移住させ防衛にあたらせたが、近東を支配する力がなくなっていた。アラブ人の戦闘集団の中心だったウマイヤ家は権力の空白をついてアラブ人国家をダマスカスに建国し、領土を広げていった。

 ウマイヤ家のムアーウィヤはシリアに勢力をはっていた単性説キリスト教を信じていたが、領国内にはネストリウス派などさまざまな宗派が存在し、帝国の不安定要因となっていた。

 ウマイヤ家を倒してアラブ人国家の支配権を握ったアッバース家は宗教対立を解決するためにムハンマドの宗教とウマイヤ家を悪者にした系譜を創作した。それがイスラム教だというわけである。

 ウェイドが依拠したのは『Crossroads to Islam』と『The Hidden Origins of Islam』という本で、後者については紹介の動画が公開されている。

 面白い説だが、海外の書評などを見るとトンデモ説の疑いが濃厚である。『5万年前』にもけっこう眉唾な説が紹介されていたが、この人はトンデモ説が好きなのかもしれない。

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2012年12月30日

『科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘』 ウリー (法政大学出版局)

科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘 →bookwebで購入

 本書はラヴレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングの伝記である。

 彼女はある事情からファーストネームのオーガスタではなく、セカンドネームのエイダと呼ばれた。エイダは生前はバイロン卿の娘として著名だったが、現在では世界最初のプログラマーとして知られている(アメリカ軍が用いているAdaというプログラミング言語は彼女の名にちなむ)。

 ロマン派のスーパースターだったバイロン周辺だけあって、何からなにまで極端で登場人物はみな異様に「濃い」。現代の感覚からすると引いてしまう話が多いが、本書に書いてあることは事実として実証されたことばかりである。

 エイダは生後一ヶ月にして有名人だった。母アナベラが出産早々バイロン邸を出て別居生活をはじめ、それをマスコミがおもしろおかしく伝えたからである。

 当時は男尊女卑の時代だったので夫がどんなに浪費家で放蕩者であっても、妻は耐え忍ぶべきだとされた。アナベラは別居を正当化するためにバイロンの異常性をリークし、娘を夫の悪影響から守るためには邸を出る必要があると主張した。バイロンはバイロンで釈明の詩を新聞に発表し、火に油を注いだ。

 世論はアナベラに味方したのでバイロンはナポレオンの馬車そっくりに作らせた馬車で大陸にわたり、シェリーらとスイスやイタリアで乱れた生活を送ることになるが、8年後、ギリシア独立戦争に参加し、36歳の若さでレパントで病死すると国民的英雄になってしまった。

 バイロンは自伝を書き残したが、出版するかどうかを決める会議の席でアナベラの代理人は原稿を火に投じてしまった。彼女が出版を嫌ったのは結婚初夜の様子が書かれていたからだといわれている。もっとも初夜についてあることないこと書いた偽作が新聞をにぎわせることになったが。

 アナベラが別居を決意したのはバイロンが実の姉のオーガスタと近親相姦しているという讒言があったからだった。本書の著者は讒言の主はバイロンをストーカーしていた人妻で、バイロンの気を引くために根元に血のついた陰毛を送りつけてくるような異常性格なので信用できないとしているが、バイロンがオーガスタに姉弟の域を越えるような愛情を持っていたことは各種の証言から間違いない。アナベラにとってオーガスタは何でも相談できる気のおけない義姉だったが、突然、呪われた名前になってしまった。娘はオーガスタではなく、エイダと呼ばれることになる。

 アナベラはエイダの周辺からバイロンの痕跡を徹底的に排除した。バイロンの詩を読ませないのはもちろん、肖像画も隠した(エイダがはじめて父の肖像画を見たのは結婚後のことである)。精神科医のアドバイスにしたがい、理性を育て情念を刺激することがないように徹底した数学の英才教育をおこなった。アナベラ自身、科学に関心のある理系女だったが、その才能を受けついだのか、エイダは理系女として早くから天分をあらわした。

 ところが17歳になり社交界デビューを控えた大事な時期に恋愛事件が起きた。エイダは速記を学ぶために雇った貧しい青年と恋に落ちたのだ。二人は毎夜逢引をかさね、後にエイダが顧問弁護士に語ったところによれば「完全な挿入は避けながら、可能な限りの悦びを味わい尽くした」。逢引が発覚して青年が解雇されると、二人は駆落ち未遂までやらかした。

 すべては首尾よく内密に処理されたが、アナベラは娘が父親の血を引いていることを認めざるをえなくなった。

 社交界デビューと王への謁見は成功したものの、エイダはまたしてもペテン師のような男に熱をあげた。さいわいペテン師はすぐに馬脚をあらわしたので大事にはいたらならなかった。今度はエイダも自分の軽はずみを反省し、母親に「改正案」を書き送っている。

――あらゆる種類の興奮は自分の人生から排除すべし。ただし「知的改良」の興奮は例外なり。キング博士も忠告されたように、科学的思想に専念することによってのみ、想像力と情念が無軌道に走るのを予防しうるが故なり。

――数学の研究に専念すべし。かの善良な博士が診断されし如く、「彼女の最大の欠点は秩序の欠如であり、この欠点を是正するのは数学である」が故に。この学科は感情とは無関係であり、したがって「好ましからざる思念」を掻き立てることは、不可能なるが故に。

 だがエイダにとって数学は「感情とは無関係」ではなかった。彼女はラプラスの大著を翻訳したことで知られる当代随一の女流数学者メアリ・サマヴィルの教えを受けるようになるが、19歳の誕生日を迎えて間もなくサマヴィル家で興奮の発作にみまわれるからだ。

 父バイロンは思索によってかろうじて精神のバランスを保ったが、エイダは詩というはけ口がなかったから別の方法でエネルギーを発散しなければならなかった。

 この時に出会ったのがチャールズ・バベッジと階差機関である。

 バベッジは1791年ロンドンの南に接するサリー州で銀行家の息子として生まれた。子供の頃、母親に連れられてマーリンのからくり博物館で自動人形オートマトンに目を輝かせた。マーリンはバベッジ少年が機械仕掛に興味をもっているのに気づき、屋根裏部屋に案内して二体の踊り子のオートマトンを見せた。銀色の踊り子は彼の記憶に鮮やかに残った。

 長じた彼は生命保険の確率計算に手を染めた後、パリに遊学した。フランスはメートル法を導入したところで、メートル法に対応した対数表が緊急に必要とされていた。対数表を作るにはレティクスの三角表の例でもわかるように厖大な計算が必要で、フランスの計算士を総動員しても無理だった。

 そこに名乗りをあげたのがド・プロニーだった。ド・プロニーは分業で計算するシステムを考案し、一種の数学工場を作りあげた。

 バベッジはド・プロニーの数学工場を知って興奮し、機械化できないかと考えた。「これらの計算が蒸気の力でおこなわれていたならばと、神に願うばかりだ」と彼は手帳に記している。

 バベッジはロンドンに帰ると政府の補助金をえて蒸気で動く階差機関の試作にとりかかった。

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2012年12月29日

『ドレスを着た電信士マ・カイリー』 松田裕之 (朱鳥社)

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 女電信士マ・カイリーを軸にアメリカの電信事業の栄枯盛衰を描いた本で、読物として抜群に面白い。

 マ・カイリーは綽名で、本名をマッティ・コリンズという(カイリーは二度目の夫の姓)。彼女は22歳から62歳まで40年間電信士として働き、引退後の1950年、70歳にして『バグ電鍵とわたし』という自伝を出版した。ちょうど電信の時代の幕が引かれる頃だったので、同書は話題になり女電信士マ・カイリーの武勇伝が後世に残ったわけである。

 表題にあるバグ電鍵とはヴァイブロプレックス社製の横振り式電鍵のことで、商標がバグだったことからその愛称で親しまれた。

 バグ電鍵はレバーを右に振ると短符号が、左に振ると長符号が打てるすぐれもので、手首や肘に負担がかからないので女電信士がよく使った。マ・カイリーが愛用したのもヴァイブロプレックス社製である。

 彼女はジェシー・ジェイムズ一味が暴れまわっていた1880年にテキサス州西部のアタスコサ郡に生まれた。7歳で両親が離婚し一時酒乱の父と暮らすが、母親が幸せな再婚をしたのを期に再婚相手の大家族に引きとられ、恵まれた少女時代をすごした。16歳の時に20歳年上のメキシカン・インターナショナル鉄道で管理職をやっていた20歳年上のフリーゼンに望まれて結婚するが、夫は男尊女卑で妻を物扱いした上に、極度の吝嗇だったので長男カールが生まれたところで離婚。マ・カイリーは子供を連れて実家にもどってくる。19歳の時である。

 継父はデル・リオでホテルを経営していたが、宿泊客から電信士になれば女でも自活できると教えられ、中古の電鍵をもらってホテルの手伝いの合間に練習にはげんだ。電信士は10代半ばで電報配達員になり、勤務の合間に練習するのが普通だったので遅いスタートである。送信の方は独習できたが、受信は無理だった。マ・カイリーは伝手をたよってカムストック駅に出入りできるようにしてもらい、当地のホテルで下働きをしながら信号音を復号する練習にあけくれた。

 3年後、電信士として働くチャンスが訪れた。メキシコのサビナス駅で欠員ができたのだ。彼女は一人息子のカールを連れて赴任するが、12時間勤務で体を壊して一時実家にもどらざるをえなくなる。しかし自活を望む彼女は継父が心配するのを振りきってすぐに駅の夜勤の仕事を見つける。

 電信士には二種類あった。一般の電文(多くは商用文)を送受する商用電信局に勤務する商用電信士と、駅に勤務し列車の運行指令を送受する鉄道電信士だ。鉄道電信士は駅舎で寝泊まりし、信号灯を振ったり、信号機やポイントを切換えたり、通過する列車に指令シートを手渡したりしなければならなかった。

 マ・カイリーは商用局でも勤務したが、鉄道で働く方が長かった。加入したのも鉄道電信士組合(ORT)だった。勤務地は大規模な操車場のこともあったが、大平原にぽつんと建つ駅舎のこともあった。ORTのバッジがあれば鉄道はフリーパスだった。彼女はカールを連れて大西部の駅から駅へ渡りあるいた。カールが12歳になってからは学業のために実家に預け、一人で電鍵無宿の生活をつづけカナダにまで足を伸ばした。

 ならず者や追いはぎが跋扈する辺鄙な西部の駅で一人で寝泊まりして勤務するのは並たいていではない。次に引くのは組合の機関誌に載った女電信士の作業環境を描いた文章である。

 停車場には、窓越しに彼女を一目見ようとする粗野で野蛮な男たちが押し寄せ、ぶしつけで無礼な質面をし、想像もできないほどショッキングが冒瀆の言葉を投げつけます。彼女はそれをひたすら耐え忍ばなければなりません。押し寄せる男どもを罰することもできず、自分の身を守ることもままならないのです。
 自分の勤務する管区で鉄道事故が発生すると、夜であろうが嵐であろうが現場に駆けつけ、電線に電信機をつなぎ、冷たい雨でびしょ濡れになりながら、口の悪い男たちの中でただ一人無防備に立ちつづけていなければならないのです。

 ちょっかいを出してくる荒くれ男を怒鳴りつけるくらいでなければ辺鄙な駅の一人勤務はつとまらないのである。

 こういう過酷な生活の中でマ・カイリーは腕を磨き、一流の電信士の技量を身につけた。彼女は二重電信機で送信と受信を同時にやってのけるという神業を披露し、男の一級電信士と同じ65ドルの月給を獲得する。年収にすると780ドルで同時期の男性労働者の平均年収440ドル、女性労働者の273ドルと較べると電信士がいかに高給とりだったかがわかる。

 マ・カイリーは学校が夏休みになるとカールにORTの発行する無料乗車券を送り、勤務地に呼び寄せて夏を一緒にすごした。駅で一人勤務をする女電信士が駅舎で子供を育てるのはありふれた光景だった。

 もっともマ・カイリーの腕をもってしても仕事につけないこともあった。プライドの高い彼女は上司としょっちゅうぶつかっていたし、仲間を大切にする彼女は組合のスト指令を忠実に実行してブラックリストに載せられたこともあった。

 新しい勤務先は組合の斡旋を受けたり、仕事の合間に旅先で知りあった電信士仲間に連絡をとったり、鉄道運行本部に売込の電文を送ったりして見つけたが、それでも仕事が見つからないと保険の外交員をしたり、洗濯婦や家政婦をして食いつないだ。同じ境遇の仲間の援助を受けることもあった。『バグ電鍵とわたし』の中で彼女は「流れ者生活は電信士に必要な自身と力をあたえてくれる」と述懐している。

 こうした電鍵無宿の生活を14年間つづけた末、1916年からサザン・パシフィック鉄道ソルトレーク管区に腰を落ちつけ、1942年の引退まで常勤しつづけることになる。大恐慌とテレタイプの導入で電信士が大量にリストラされた1930年代も職にとどまれたことからも彼女のすぐれた技量の持主であることがわかる。

 息子のカールだが、なんとファースト・ナショナル銀行の頭取にまで出世している。毅然として生きる母親の背中を見て育ったということだろう。

 マ・カイリーの一代記は映画にしたら面白いと思う。主演はアンジェリーナ・ジョリー、人情味あふれる継父はトミー・リー・ジョーンズでどうだろう。

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『モールス電信士のアメリカ史』 松田裕之 (日本経済評論社)

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 副題に「IT時代を拓いた技術者たち」とあるように19世紀の通信革命に現在のインターネット革命の原型を見ようという本である。『ヴィクトリア朝時代のインターネット』とテーマは共通するが、『ヴィクトリア朝』が腕木通信を含めた大西洋両岸の通信革命を巨視的に描いているのに対し、本書はアメリカの電信事業の栄枯盛衰に話を絞っている。

 アメリカに限定したことで現代のインターネットとの相似はより一層はっきりした。ヨーロッパでは腕木通信が政府の事業だったこともあって電信事業は早い段階から政府に管掌され、電信士も公務員化したが(日本も同じである)、アメリカでは電信事業は一貫して民営ベースで営まれ、電信士にも腕一本で世渡りする「電鍵無宿」的な生きかたをする者がすくなくなく、元祖「ネチズン」的な世界を作りあげていた。

 インターネットはアメリカで誕生したシステムであり、ドメインの管理は公的機関ではなく株式会社がおこなっているというように基本的に民営ベースで営まれている。IT技術者やIT起業家にも腕一本で世渡りしようという気概がある。アメリカの電信事業はインターネットの原型そのものだと言っていい。

 本書は電信技術の沿革を簡単に紹介した後、電信士のキャリア形成に筆をすすめる。電信士になろうという若者は貧しい移民が多かった。モールス通信という技能を身につければ格段にいい条件で就職できたからだ。

 著者は例として二人の人物にスポットライトをあてる。鉄鋼王となったアンドリュー・カーネギーと発明王エジソンだ。

 カーネギーの父親はスコットランドの織物職人だったが、機械化で仕事を失い、一家でピッツバーグに移住する。父親はテーブルクロスの行商をするが食うや食わずで、アンドリューは13歳で週給2ドルの糸巻製造工場の見習になる。15歳で電報配達員になり、勤務のはじまる前と後に電信室で練習をして、17歳で月給25ドルの正電信士に。2年後、月給35ドルでペンシルバニア鉄道に引き抜かれる。

 26歳の時南北戦争が勃発。ペンシルバニア鉄道は北軍に協力し、カーネギーは陸軍軍属となって連邦陸軍電信隊を結成し緒戦で活躍する。カーネギーは体を壊して戦線を離れるが、この時の功績で北軍勝利後実業家として飛躍するチャンスをつかむ。

 エジソンは小学校をやめ、駅で新聞の売子をしていた時に電信に興味を持ち、手製の電鍵と電池で電信を独学する。15歳の時、駅長の息子を貨物列車から救った縁で鉄道電信士になり、「塩まき」とよばれる新人の腕試しで逆に古参電信士をやりこめるほどの抜群の聞きとり能力を武器に中西部の駅をわたりあるく。

 カーネギーやエジソンのような大富豪になった電信士は例外中の例外だが、アメリカン・ドリームにつながる職業であったことに間違いはない。

 カーネギーが南北戦争で活躍したと書いたが、彼が戦線を離れた後、北軍の占領地域が拡がり、それにともなって通信路が延び、大量の電信士が必要になった。ウェスタン・ユニオンの幹部だったアンソン・ステガーが電信総監に就任したが、彼は機密と暗号を守るために電信士や修理工、敷設工を電信総監に雇われた軍属身分にし、軍の指揮系統から切り離した。

 電信会社と鉄道会社から若い電信士が千人以上動員され、岩や木の陰、塹壕に身を隠しながら、時に数千語にも及ぶ暗号文を方面軍司令部や各連携部隊に打電したり、敵地深く侵入して敵軍の電線路から電文を傍受するという危険な任務に従事した。

 しかし正式な軍人ではなかったために敵軍に捕まると捕虜にはなれず、監獄につながれたり処刑されることもあった。負傷したり戦死しても軍からは保証されず、軍務を解かれた後も秘密保持義務を課された上、軍人恩給にもあずかれなかった。北軍は電信士を使い捨てにしてしまったのである。

 南北戦争は従軍した電信士にとっては災いだったが、彼らの犠牲によって電信士の社会的地位が高められたのも事実だった。リンカーンは毎日電信本部に通い、時には臨時閣議を開くこともあった。電信は世界の政治指導者にとってなくてはならぬシステムとなった。

 電信は貧しい移民青年だけでなく女性にもチャンスをあたえた。電信士は電鍵をたたき、信号音を聴きとるというデスクワークなので、女性でも男性に伍して働くことができた。経営側も安く使える女性電信士を歓迎した。1846年にマグネティック・テレグラフ社のローウェル支局はローウェル婦人労働改革協会の創設者であるサラ・バッグレイを責任者に抜擢し、女性電信士を採用した。これをきっかけに女性電信士が増えた。1856年に65の独立系電信会社を吸収してウェスタン・ユニオンが誕生すると電信士を確保するために女性向けの無料通信教育を開始した。

 本書では電信界の女丈夫が多数紹介されているが、中心となるのは『大草原の小さな家』の原作者ローラ・インガルス・ワイルダーの次女であるローズ・ワイルダー・レインと、女だてらに渡り電信士として電鍵渡世を送ったマ・カイリーである。この二人については『ドレスを着た電信士マ・カイリー』という本が別に書かれているので言及するだけにとどめよう。

 

 モールス符号を習得したい人向けに信号音を録音したCDが書籍の形で発売されている。そこまで興味はないが、ちょっとだけ聞いてみたい人は『はじめてのモールス通信』という本のサポートページで公開されている音源を聞いたらどうだろうか。

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2012年12月28日

『ヴィクトリア朝時代のインターネット』 スタンデージ (NTT出版)

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 19世紀の通信革命を描いた本である。

 通信革命というと電信の発明が目立つが、革命は電信以前からはじまっていた。フランスのクロード・シャップが発明した腕木通信である。

 シャップは電気的にメッセージを伝えようとしたが、まだ技術的に無理だったので音による通信を考え、最終的に丘の上に腕木のついた柱を立て、腕木を動かすことでメッセージを伝えるようにした。いわば手旗信号の機械版である。

 シャップはこれをテレグラフと名づけた(ギリシャ語の「遠くに書く」による)。日本ではテレグラフには「電信」という訳語があたえられているが、本当は「伝信」と訳すべきだったろう。本書では腕木通信を「光学式テレグラフ」、いわゆる電信を「電気式テレグラフ」と呼んで区別している。

 シャップは腕木通信システムをジャコバン党独裁時代の革命政府に売りこんだ。革命政府は各地の反乱や外国の干渉戦争に悩まされていたのでさっそく採用し、1894年5月にパリ=リール間の通信路が稼働をはじめた。1799年に権力を掌握したナポレオンは腕木通信を重視し、フランス帝国の領土の拡大とともに腕木通信網を拡充していった。一方フランスと敵対する国々、特に英国とスウェーデンも対抗して腕木通信網を敷設していった。

 腕木通信はそれまでの最速の通信手段だった早馬よりも桁違いに速く、パリ=スットラスブール間をわずか36分でつないだが、雨がふったり霧がかかると通信できなくなった。また部外者にも見えてしまうので頻繁にコードを変える必要もあった。

 天候に左右されず、秘密も守りやすい通信方式が求められた。電気式テレグラフである。

 電気による通信は静電気式、電気分解式、火花放電式、生物式等々が試みられたが、いずれも不安定であり使いものにならなかった。しかし1820年にエルステッドが電線の周りに磁界が発生することを発見するとようやく突破口が開けた。

 電気式テレグラフ(電信)の発明者としてはモールスが有名だが、英国ではクックがやや遅れて五針式テレグラフを発明している。クックの機械は協力者の名前をとってホイートストン電信機と呼ばれているが、モールスが符号によって文字をあらわしたのに対し、ホイートストン電信機では五本の針組合せによって20の文字を直接示したので特別な訓練を受けなくても使えた。

 アメリカでは最初からモールスの符号による電信が普及したが、ヨーロッパではホイートストン式などさまざまな方式が乱立した。1851年のロンドン万博では13種類の電信機が展示された。しかし構造が単純で、電信士が熟練していくことで高速の通信が可能なモールス方式が最終的な勝利をおさめた。

 モールス電信網が津々浦々までくまなくはりめぐらされていき世界を変えていくのであるが、電信による通信革命はインターネットによる社会変革と驚くほどよく似ている。

 インターネットはバケツリレー式にメッセージを伝えていくが、電信も同じである。19世紀末まで電池を電源にしていたので、中継局で人間が受信したメッセージを、最短距離になるような次の中継局に送信し直さなければならなかった。ルーターの役割を人間がしていたのである。

 モールス電信士は今日のIT技術者のような地位にあり、仲間内だけでわかる略語を多用したり、暇な時間には電信士どうしでチャットをして遊んでいた。女性の進出も著しく、遠距離恋愛がうまれ、オンライン結婚式までおこなわれる一方、ネットオカマのような女性電信士のふりをする男性電信士もすでにあらわれている。ネット犯罪もちゃんとあり、暗号も使われていた。著者は「ヴィクトリア朝の人々がタイムトラベルをして20世紀に末にやってきても、インターネットには感動しないだろう」と書いている。

 興味深い話がたくさん載っているが、わたしが一番おもしろく思ったのは気送管の沿革である。

 意外なことに気送管は電信が普及した後に、電信を補完する通信システムとして誕生した。1850年代にはいると通信量が急激に増大し、ロンドンでは輻湊が深刻な問題となった。当時の電報の半分は証券取引所関係で、証券取引所内に作られた支局と220ヤード離れた電信中央局との回線がボトルネックとなったのだ。

 電報を一本一本送っていたのでは時間がかかるので、取引所支局=中央局を地下に埋設した1.5インチのパイプで結び、金属のカプセルに電報用紙を5枚まとめていれて空気圧で送る方式が考案された。

 これがうまくいったので気送管はロンドン中にはりめぐらされ、市内は気送管、市外は電信と棲みわけがおこなわれた。気送管網はリヴァプールやパリなど他の都市にも作られたが、ニューヨークでは郵便局の間を気送管で結び、小包や猫まで送ったそうである。

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2012年09月29日

『北朝鮮の軍事工業化』 木村光彦&安部桂司 (知泉書館)

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 李榮薫『大韓民国の物語』で知った本で「帝国の戦争から金日成の戦争へ」という副題がついている。

 日本は日中戦争継続のために朝鮮半島と満洲を兵站基地にしたが、特に現在の北朝鮮地域には多数の鉱山を開き最先端の重化学工業地帯を建設した。戦争には兵器と弾薬だけでなくさまざまな工業製品が必要だが、北朝鮮地域にはそれを供給する鉱山群と工場群があったのだ。日本本土の生産施設はアメリカ軍の爆撃で完膚無きまでに破壊されたが、北朝鮮地域の産業施設はソ連軍の手をへてそっくり金日成に引きわたされた。それは1945年時点では世界有数の規模であり、アジア最大級の生産力を誇っていた。

 だとしたら朝鮮戦争の準備には日本統治時代に構築された産業施設群が使われたのではないか。金日成が開戦に踏みきれたのは日本の遺産があったからではないか。

 まさにコロンブスの卵のような視点だが、これまでこういう研究がなかったのは植民地収奪論の呪縛が大きかったからだろう。

 本書は「前編 1910-1945年」と「後編 1945-1950年」にわかれる。

 前編は1945年8月時点で朝鮮半島に残されていた日本企業の資産目録である。日本の敗戦後、内務省は各企業に朝鮮に保有する資産の概要を報告させた。著者たちはその報告書と各企業の社史をもとに目録を作成した。専門家にとっては宝の山だろうが、素人にとっては無味乾燥なデータの集積なので途中で読むのを放棄した。ただ日本企業が厖大な資産と当時の先端技術を朝鮮半島に残してきたことは十分わかった。

 後編はそうした資産がどのように北朝鮮の手にわたり、朝鮮戦争の開戦準備にどう使われたかを考察している。未整理でデータをそのまま放りだしているような部分も多いが、それでも学術書とは思えない迫力で久々に興奮した。

 従来朝鮮戦争にはソ連の提供した兵器と軍需物資が使われたとされてきた。ソ連の供給はもちろん大きく、1949年3月に金日成とスターリンが締結した秘密軍事協定により空軍機192機、戦車173両、迫撃砲1300門などを保有するにいたり装備を飛躍的に強化したが、本書によるとソ連軍が撤退時に置いていった兵器もふくめてそれらはすべて有償だった。兵器供与は援助ではなく、ビジネスだったのだ。ソ連はドイツとの戦争で受けた損害から立ち直れておらず、アメリカと違って深刻な物資不足におちいっており、無償援助どころではなかった。

 秘密軍事協定に先立って1949年2月3日に金日成・朴憲永(副首相兼外相)から平壌駐箚ソ連大使に宛てた書簡に次のようにある。

 朝鮮政府はソ連から兵器、自動車、諸種の部品を得たい。その代価として鉄、非鉄金属と化学製品を供給する。また、工業再建と人民軍の装備のために3000万ドルの借款を要請する。その返済を1951年から3年間で行なう用意がある。

 金日成はスターリンが要求した武器の代価を飢餓輸出による米と日本企業の設備で生産された金、銀、鉄鋼、レアアース、ウラン鉱石、セメント、肥料等々で支払った。朝鮮戦争までに北朝鮮が日本の残した軍需工場で弾薬を自給できる体制をつくりあげていたことは知られていたが、戦争準備には平和産業も動員されていたのである。

 もっとも生産の再開には時間がかかった。朝鮮半島の生産設備はソ連参戦から敗戦までの一週間にソ連軍の爆撃や艦砲射撃を受けていたし、敗戦後の混乱の中で多くの施設が損傷をこうむっっていたからだ。

 独立後の北朝鮮政府は日本軍・日本人が逃亡の際に産業設備を破壊したと宣伝したが、ソ連軍の報告書によるとそうした例は稀である。

 ほぼすべての鉱山で坑道が浸水したのは電力や燃料の不足のためだし、溶鉱炉と平炉が使用不能になったのは突然の稼働停止で炉が冷却したためだ。北朝鮮地域で徴用されていた朝鮮人労務者は大部分が韓国地域の出身なので、日本の敗戦が伝わるとただちに帰郷をはじめ、設備のメンテナンスができなくなったことも損壊の原因となった。

 一部で軍が日本企業に設備の破壊を命じた例があるが、民間の日本人はむしろ工場を守ろうという姿勢を示し、命令を拒否したり操業を朝鮮人にまかせて設備の維持をはかった。自分たちが苦労して作り上げた施設を破壊するに忍びなかったのと後で罪にとわれることを恐れたためだろう。日本人による意図的な破壊といえるのはラジオ局や電信電話局、変電所くらいのようである。

 世界最大級の発電量を誇った水豊発電所の発電機と変圧器を解体して持ち去ったようにソ連軍による設備の略奪も一部であった。ソ連軍が組織的におこなったのはむしろ物資の略奪・徴発の方だった。1946年6月までにソ連軍は日本企業が生産貯蔵していた鉱工業製品8000トンあまりを「戦利品」としてウラジオストックに搬出している。

 ソ連軍司令部は軍政をはじめるにあたって朝鮮人を日本企業の工場の幹部にして操業を再開させた。当初ソ連は日本人幹部と技術者の立ち入りを禁じたが、技術者は不足しており、急遽呼び寄せられたソ連人技術者には知識不足(ソ連にはない最新の機械が使われていた)と日本語という壁があったので、日本人技術者を積極的に復帰させる方針に転換した。ソ連軍司令部は日本人技術者の登録を命じ1946年1月時点で平壌における登録者は2158名におよんだ。日本人技術者は日本帝国が朝鮮半島に残したもう一つの遺産だった。

 技術者はそれ以外の日本人よりは優遇されたが、優遇とはいってもどうにか食べていける程度だった。

 この状況の中で日本人技術者は、熱意をもって仕事に取組んだ。それは、従来の職場への愛着と事故の技術にたいする誇りがあったからである。また、新国家の建設に取組む周囲の朝鮮人への共感もあった。日本人技術者は1946年から1947年前半にかけて、もっとも活発に活動した。……中略……なかでも、多かったのは旧日窒興南工場と旧日本高周波城津工場で、それぞれ275人、101人であった。これ以外にも各地の中小工場で、おそらく相当数の日本人技術者が残留した。たとえば朝鮮塩化工業鎮南浦工場では、工場を接収した後、日本人の元工場長が1946年9月まで生産を指導した。建築部門では、平南・安州郡で日本人技術者が水利工事の指導にあたった。これは、戦時中に進行していた大規模な工事の延長であった。

 日本人技術者は工場の再建にあたっただけでなく朝鮮人技術者の教育や技術移転に従事した。

 1946年9月までに1034の主要事業所のうち80%が操業を再開したが、生産量の回復は部門によってばらつきがあった。綿布の生産は原料の綿花が自給できたので戦中より増加したくらいだが、重化学工業は原油やコークス炭が不足していたので稼働率が上がらなかった。

 1946年9月にソ連占領地域からの正式な日本人引揚げが合意されたが、技術者の多くは出国が許されなかった。非公式なルートで38度線を超える者も出たが、

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2012年09月28日

『知っていますか、朝鮮学校』 朴三石 (岩波ブックレット)

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 朝鮮学校に批判的な立場の『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』(以下、萩原・井沢本とする)だけでは片手落ちなので朝鮮学校側の本も読んでみた。著者の朴三石氏は朝鮮大学校授で無償化問題で論陣を張っている人である。

 本書も朝鮮学校無償化を訴える内容だが、「一部の教科書の部分的な記述をもって、学校全体を決め付けるという誤り」とあることからすると萩原・井沢本を意識した内容とみてよいだろう。

 全体は5章にわかれる。

  1. 事実を知ることの大切さ―学生の感想から考える
  2. 朝鮮学校で学ぶ生徒たち―日本の学校・地域社会との交流
  3. なぜ日本に朝鮮学校があるのか―在日朝鮮人と朝鮮学校の由来
  4. どのような教科書を使っているのか―反日教育でなく友好のための教育
  5. 朝鮮学校と日本社会―何をどうするべきか

 「1 事実を知ることの大切さ」では著者が関東地方の某大学で「朝鮮学校と日本社会」という講義をおこない、その後に学生が提出したレポートが紹介されている。受講した110人のうち講義の前から朝鮮学校を無償化の対象にすべきと考える学生は52%、講義を聴いてから無償化すべきと考えが変わった学生は44%、講義後も無償化に反対の学生は4%ということである。講義で在日朝鮮人の本当の歴史を知ったとか、「朝鮮人が日本で暮らすようになった経緯などを考えれば、むしろ優先して保護しなくてはならないのではないか」というような学生の文章が引用されている。いくつか否定的なものもあるが感激の声がほとんどで、健康食品の広告を読むような印象がなくはない。

 「2 朝鮮学校で学ぶ生徒たち」は朝鮮学校の課外活動や地域との交流が紹介され、笑顔の写真を多数掲載するなど朝鮮学校は明るく楽しい普通の学校だと強調した内容になっている。

 萩原・井沢本では現在の朝鮮学校在校生の韓国籍と朝鮮籍の比率は8:2としていたが、本書では「それぞれ半数を占めている」としている。地域によってある程度ばらつきはあるだろうが、8:2と5:5ではずいぶん違う。どちらが正しいのだろう。

 「3 なぜ日本に朝鮮学校があるのか」では朝鮮人が日本で暮らすようになった理由の説明で「日本による土地調査事業によって、朝鮮で土地を奪われた人びとが日本に移動しはじめ」と、おなじみの在日論が繰りかえされている。土地を奪ったのは日帝という印象を受けるが、よく読むと日帝とは書いていない。断言せずに印象づけているだけである。李榮薫『大韓民国の物語』のような最近の研究を意識したのだろうか。

 萩原・井沢本では朝鮮学校は在校生の実数を公表していないが、かつて3万5000人いたのが今は6900人くらいとしていた。本書では「全体で約一万人」としている。これもずいぶん開きがある。

 「4 どのような教科書を使っているのか」は全ページ数の3割を占めており萩原・井沢本に対する反論の中心部分である。著者は「朝鮮歴史」以外の科目は民族色が多少あるものの「日本社会と国際社会にかんする知識を幅広く扱っている」と繰りかえし強調している。

 問題の「朝鮮歴史」であるが、在日朝鮮人をとりまく環境を反映して数回にわたって内容が変化してきたとし、三期にわけて説明しているがこの説明が朦朧としている。

1945-54

「日本の植民地支配から解放された在日朝鮮人が解放の喜びを噛みしめつつ、在日朝鮮人の朝鮮史研究成果にもとづいて独自に啓蒙的な内容で編纂」と曖昧模糊とした書き方をしているが、要するに反日一辺倒ということだろうか。

1955-92

帰国事業と「朝鮮分断と冷戦状況」を強く反映したとあるが、「帰国」をうながすような記述と反韓国・反米帝の記述が多かったという意味だろうか。

1993-

日本永住を前提とした内容に変化し、「南北共同宣言」が出た2000年以降は「朝鮮分断の影響が大きかった現代史の記述を大幅に改め」とあるのは韓国攻撃を減らしたということだろうか。

 拉致問題に関しては2011年版から「「拉致問題」を極大化」という「誤解」をまねいた記述を削除したとある。括弧内の語句だけを削ったのか、萩原・井沢本の書評に引用した拉致問題の記述全体を削ったのかははっきりしないが、「朝鮮学校の教科書に「拉致問題」の記述がないからといって、朝鮮学校でこの問題について教えていないということではない」とあることからすると拉致に関する記述全体を削ったのかもしれない。「さまざまな資料を使いながら教えている」とあるが、それならなぜ教科書に金正日が謝罪したと書かないのだろうか。朝鮮学校の教科書は日本の編纂委員会の独自の判断で自由に改訂できるということだが、それが本当なら加筆は簡単なはずである。

 なお朝鮮戦争は韓国からしかけたとする記述と大韓航空機爆破事件が韓国の謀略だとする記述、教科書が秘密文書あつかいされているという点については何もふれていない。

 「5 朝鮮学校と日本社会」では朝鮮学校の無償化は「日本人自身の問題」として無償化を切実に訴えている。

 読んだ印象では朝鮮学校無償化をソフトムードで訴えた政治的パンフレットである。朝鮮学校では反日教育などしていない、普通の教育をしていると繰りかえしているが、肝心な話になると曖昧模糊としてしまう。これでは説得力があるとはいえないだろう。

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『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』 萩原遼&井沢元彦 (祥伝社新書)

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 韓国の歴史教科書を読んだので北朝鮮のも読んでみようと思ったが、邦訳は「星への歩み出版」から出ているものの書店ルートでは流通しておらず、ホームページもないので(ブログはあるが放置状態)、通信販売で買うしかない。昔ながらの通販はおっくうなので代りに本書を読んだ。

 驚いたのであるが朝鮮学校の教科書は秘密文書あつかいで、外部に見せてはいけないのだそうである。教科書には名前を書かせ、貸与ではないのに使い終わったら返却することになっているというから念がいっている(本当だろうか?!)。

 翻訳したのは「朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会」で、朝鮮学校の荒唐無稽な教育内容を広く知らせるために協力者を通じて入手した原本を図版にいたるまで忠実に再現したという。邦訳は無償化問題に関心をもつ国会議員に配り国会の論議に影響をあたえたらしい。

 意外にも訳本は当の朝鮮学校の生徒がこっそり買う例が多いそうである。朝鮮学校に通っているといってもハングル文がすらすら読めるわけではなく予習に時間をかけなければならないが、翻訳を読めば簡単に済むわけだ。

 本書は「専門家の会」で中心的な役割をはたした萩原遼氏と『逆説の日本史』シリーズで知られる井沢元彦氏が朝鮮学校の実態と問題点、さらには北朝鮮がなぜあんな国家になってしまったかを語りあった対談で、随所に教科書の引用がある。

 日帝との最後の決戦のための準備が、着々と推進されていた時期の1942年2月16日、敬愛する金正日将軍様におかれては白頭山密営で誕生された。
 朝鮮人民革命の軍隊員たちは、木や岩などに「あぁ、朝鮮よ! 同胞たちよ! 白頭光明星の誕生をここに知らせる!」、「2千万同胞よ! 白頭山に白頭光明星が独立天出竜馬に乗って出現した!」などの文字を彫りこみ、将軍様の誕生を知らせた。

 朝鮮戦争を起こしたのももちろん韓国側と明記されている。

 米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争へと拡大した。
 共和国政府はただちに李承晩「政府」へ戦争行為を中止することを要求し、もしも信仰をやめないときには決定的な対策をとることを警告した。しかし敵は戦争の炎を引きつづき拡大した。
 6月25日共和国に作りだされた厳重な事態と関連して朝鮮労働党中央委員会政治委員会が招集され、ついで共和国内閣非常会議が開かれた。
 敬愛する金日成主席様におかれては、会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国のやつらに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反攻撃にうつるよう命令をお下しになった。

 大韓航空機爆破事件は「南朝鮮旅客機失踪事件」と単なる事故あつかいし、次のように書いている。

 南朝鮮当局はこの事件を「北朝鮮工作員金賢姫」が引き起こしたとでっち上げ、大々的な「反共和国」騒動をくり広げ、その女を第13代「大統領選挙」の前日に南朝鮮に移送することによって盧泰愚「当選」に有利な環境を整えた。

 原因不明の失踪事件を利用した韓国側の謀略だと言いたいらしい。

 あきれることだらけだが日本人拉致問題のあつかいもひどい。何の前置きも説明もなく、もちろん金正日が拉致を認めたとの記述もなく、次の条が突然登場するだけだという。

 2002年9月、朝日平壌宣言発表以後、日本当局は「拉致問題」を極大化し、反共和国、反総連、反朝鮮人騒動を大々的にくり広げることによって、日本社会に極端な民族排他主義的な雰囲気が作りだされていった。

 期待にたがわぬトンデモぶりだが、こんな嘘八百を暗記しなければならない朝鮮学校の生徒も哀れである。北朝鮮なら集団妄想の中で暮らせるが、日本に住んでいたら将軍様がイルクーツク生まれで、朝鮮戦争が北の奇襲攻撃ではじまった等々の事実は嫌でも耳にはいってくるだろう。敬愛する将軍様が拉致問題で謝罪した事実からだって逃げられない。

 教科書の通りに答案に書かないと進級できないのはもちろん、授業内容に疑問を呈すると教師から殴る蹴るの制裁を受けるのだそうである。事実だとしたらとんでもないことだ。子供の人権に敏感なはずの人権団体はなぜ黙っているのだろう。

 朝鮮学校の卒業生や父兄の一部が「朝鮮学校教育の抜本的改善を求める総連への要望書」を1998年に出したが(民団新聞の記事)、そこには「二重人格をつくるのは子どもたちがあまりにもかわいそうだ」と書かれているそうである。

 朝鮮系の人は教育熱心で、子供に公認会計士や弁護士などの食べていける資格をとらせるために夜は塾にいかせ、日本の大学に入るための受験勉強をさせている家庭が多いという。

 それくらいなら朝鮮学校に通わせなければいいではないかと誰しも思うところだが、帰国事業で親族を人質にとられていて朝鮮学校に入学させろと要求されると断れないとのことである。朝鮮学校の閉鎖を一番望んでいるのは朝鮮学校に子供を通わせている父兄だというのは案外あたっているのかもしれない。

 本書は厳しく朝鮮学校を批判しているが、最近出た朴三石氏の『知っていますか、朝鮮学校』(岩波ブックレット)は本書をかなり意識した内容になっており、本書に対する朝鮮学校側からの反論と読むこともできるだろう。

 なお対談の最初の部分では萩原氏が朝鮮戦争時にアメリカ軍が鹵獲した厖大な文書をもとにまとめた『朝鮮戦争』執筆の裏話が語られていて興味深い。同書も必読である。

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2012年09月27日

『韓国近現代の歴史 検定韓国近現代史教科書』 三橋広夫訳 (明石書店)

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 韓国の高校では一年の時に必修の「国史」を教え、二、三年では「深化選択科目」の「近現代史」を週に4時間かけてみっちり学習させる。教科書も『高等学校国定国史』と『検定韓国近現代史教科書』にわかれている。本書は選択科目の方の教科書である。

 「近現代史」の教科書は検定なので6社から出ているが、本書は大韓教科書社版の翻訳で、韓哲昊、金基承、金仁基、趙王鎬四氏の共著である。原本はB5版多色刷だが邦訳はA4版単色刷である。

 本文の半分以上が「資料」となっており、何番と何番の「資料」をもとに課題を考えさせるという授業の進め方を想定しているようである。ハングルなので資料と史料の区別がつかないにしてもここは「史料」と訳すべきではないかと思ったが、途中で「資料」とした理由がわかった。日本の教科書は「史料」として一次史料の抜粋を載せているが、この教科書の「資料」項目のうち一次史料の抜粋は半分足らずで、残りの項目は教科書著者の見解なのである。「資料」をもとに考えようというが、日本の学校の「史料をもとに考えよう」とは意味が違うのだ。

 さて全体は通史になっていて四部にわかれる。

 「Ⅰ 韓国近現代史の理解」は総論で李朝末期に庶民経済が発展し、両班が君臨する身分秩序がこわれて資本主義の自発的な発展がはじまろうとしていたが、日帝が侵略して自発的近代化を抑圧してしまった。日帝に対し朝鮮民衆は独立運動で戦ったとあるが、みずからの手で独立を勝ちとったとはさすがに書いていない。独立後の経済発展については朴政権の開発独裁の是非を考えようと締めくくっている。

 「Ⅱ 近代社会の展開」は欧米列強の圧迫から大韓帝国成立までだが、日清戦争(韓国では清日戦争)の結果清から棚ぼたで独立したという経緯は『国定国史』同様まったく書かれていない。

 ここでも日清戦争は腫物あつかいで、できるだけふれないように細心の注意をもってあつかあれている。したがって日清戦争が朝鮮半島を戦場に戦われたという事実すら本文には出てこない(挿図の説明には「平壌戦闘」という語句があるが)。他では日帝の悪を執拗に糾弾しているのに日清戦争で国土を蹂躙された件についてはなぜか口をつぐんでいる。

 日清戦争がとりあげられるのはあくまで日本と清の近代化の差という文脈という文脈においてにすぎない。

 清と日本は西洋帝国主義列強の強要によって開国した後、富国強兵のために努力した。しかし両国が選択した道は上の絵[引用者注:下関講和会議の図]に見られる両国役人の服装のようにずいぶん異なり、選択の結果は清日戦争で決着がついた。この戦争は他の国々の予想と違って日本の勝利で終わった。清は日本に領土の一部を割譲し、賠償金を与えるなど、屈辱的な条件で講和条約を結ぶほかなかった(1895)。

 まったくの他人事ではないか。課題としてなぜ清が近代化できなかったか考えてみようとあるが、その前に考えることはいくらでもあるだろう。

 そもそも日清戦争と朝鮮の独立の間に因果関係があることすら伏せられている。朝鮮の清からの独立は下関条約第一条の「清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」という条項によるが、下関条約は「資料」として引用されていないだけでなく、年表で二ヶ所、日清戦争の部分で一ヶ所、甲午改革の背景説明で一ヶ所軽く言及されるにすぎない。

 なにかと話題の独立門の説明を見てみよう。さすがに日本から独立した記念に独立門を作ったとまでは書いていないが、写真の説明に「清の使節を迎えていた迎恩門を壊して」とあるのみで清から独立したという記述ははない。

 独立協会は「朝鮮が独立していることを世界に広め、また朝鮮の後世にもこのとき朝鮮が永遠に独立したことを伝えようという印」(『独立新聞』、1896.7.4)として独立門の建設を推し進めた。

 元の記事には清の冊封体制からの独立と書かれている可能性があると思うが(御教示を請う)、こういう切りとり方をすると朝鮮はずっと独立していたのに諸外国が誤解しているので誤解を知らせるために独立門を作ったと錯覚しかねないだろう。

 日本統治の条では『大韓民国の物語』で批判されていた通りの植民地収奪論が繰りかえされていて笑ってしまった。

 ハングルに関しては案の定日本が研究と普及を妨害したことになっている。よくもまあここまで嘘が書けるものだ。

 『国定国史』より詳しいだけにロシアの領土的野心にはふれられているが、ソ連の悪については曖昧にしか書かれていない。赤軍に編入された洪範図が「多くの同胞たち」とともにカザフスタンに強制移住させられたとはあるが、ソ連極東地区の5万人の朝鮮人が強制移住させられたとは書いていない。ソ連について書くと日帝の悪がかすんでしまうだろうか。

 「深化学習」ということだが、雑学的な知識がけっこう入っている。たとえば黒船(韓国では異様船)に対抗して作った鶴羽船は哀れをもよおす。これでは近代化は夢のまた夢だ。

 11年前に出た勝岡寛次氏の『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(絶版)という本があるが、本書でも基本的な部分では変わっていないことを確認した。勝岡氏の指摘は第七次でもおおむねその通りであるが、東アジアをめぐる列強のパワーゲームという視点がまったく欠落し、朝鮮民衆の反日運動で全世界が動いているかのような近視眼的な記述の異様さは現物を読んでみないとわからない。夜郎自大とはこのことだ。歴史を知らないのは韓国人の方である。

 こんな売れそうもない本を出版しただけでもすごいが、明石書店の「世界の教科書シリーズ」にはもっと売れそうもない国の教科書まではいっている。明石書店の心意気に敬意を表して以下に一覧を掲げておく。

世界の教科書シリーズ

中国小学校歴史
中学校歴史
高校歴史
韓国中学校歴史
放送大学歴史
ベトナム中学校歴史
タイ高校社会
チベット中学校歴史
ブータン小中学校歴史
イラン高校国定宗教
(シーア派イスラム教)
ロシア沿海地方高校歴史
中学・高校歴史 上
中学・高校歴史 下
ドイツ・
フランス
共通歴史教科書
ドイツ高校現代史
フランス高校近現代史
英国中学校歴史
イタリア高校現代史
スイス高校現代史
ポーランド高校現代史
フィンランド中学校近現代史
中学校社会
メキシコ高校歴史
キューバ中学校歴史
コスタリカ高校歴史
ブラジル高校歴史

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『韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史』 三橋広夫訳 (明石書店)

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 昨今なにかと話題の韓国の歴史教科書を読んでみた。高校一年で必修で教える「国史」の『高等学校国定国史』と、高校二、三年で「深化選択科目」として教える「韓国近現代史」の『検定韓国近現代史教科書』である。どちらも明石書店の「世界の教科書シリーズ」から出ている。

 このシリーズからはチベットの中学校歴史教科書、イランの高校国定宗教教科書(シーア派イスラム教)、ドイツ・フランスの共通歴史教科書など、へーというような外国の教科書がたくさん出ている。タイトルを眺めるだけでも面白いので一覧を『検定韓国近現代史教科書』の書評の方に載せておいた。

 『国史』が国定(一種類しかない)で『近現代史』が検定(複数種ある)なのは前者が必修科目で後者が選択科目だからだが、2013年からは必修科目も検定に移行するとのことである。

 まずは『高等学校国定国史』であるが、2003年に改訂された第七次教育課程の高校用韓国史の教科書である。国定なので著者名はない。原本はB5版433ページの多色刷だが、邦訳はA5版458ページの単色刷である。本文が完訳されているかどうかは記載がないが、図版はかなり抜けているだろうと思われる。

 まず目を引くのは先史時代以降は政治史・経済史・社会史・文化史にわけた分野別史になっている点だ。第六次までは通史だったのに第七次から分野別史にかわったが、現場の教師からは教えにくいと不満が出ているそうである。確かに分野ごとに分断されていると時代の全体像がとらえにくいだろう。

 韓国では「近現代史」を選択しない生徒にも近現代史をきちんと教えろという異議が出て「国史」の近現代史部分が増やされたというから、あるいは文化史を学ばない生徒が出ても仕方ないが近現代史を学ばない生徒は出ないようにという狙いがあるのかもしれない。

 以下に各章の内容とページ数を示す。

内容頁数
はじめに14
先史時代27
政治史96
経済史64
社会史60
文化史89

 付録として各王朝の系譜(高句麗・百済・新羅、渤海(!)、高麗、朝鮮)、歴代年号(渤海や後高句麗、高麗末期の地方政権の大為を含む)、爵位・官職表、六十干支、領土の変遷、韓国の世界遺産、文化財の分布状況、古代遺跡の想像図、1948年から63年までのニュース写真、年表、新旧地名の対照表、写真資料・引用文件一覧、韓国史関係のリンク集がつく。

 興味深いのは歴代年号で、よく見ると存在しない期間が長いのである。たとえば新羅は935年までつづいたが、650年までの太和を最後に年号がない。唐の属国になり宗主国の年号を使わなければならなくなったからだが、そのことは明示されてはいない。高麗も最初の45年間はあるが、それ以降がない。李氏朝鮮は建国以来500年間独自の年号がなく、大韓帝国として中国から独立してからようやく年号をもつようになる。

 独自の年号を持てなかったことを隠すためかどうかは知らないが、本文は西暦で統一されている(史料には一部中国の年号が混じることがある)。

 先史時代は石器時代から紀元前1世紀までだが、古朝鮮のうち壇君朝鮮と衛氏朝鮮は出てくるのに箕氏朝鮮が出てこない。殷の王族である箕氏が周の武王によって朝鮮に封じられ紀元前1122年に建国した箕氏朝鮮は中国の正史である『三国志』に記載されていることもあって、高麗時代や李朝時代は朝鮮の祖として壇君以上にあがめられていたということであるが、その記述がまったくないのである。箕氏は伝説的存在ではあるが、それをいうなら紀元前2333年に建国されたとされる壇君朝鮮の方がはるかに伝説度が高い。

 漢の武帝が設けた漢四郡も出てこないし、日本人にも受験でおなじみの楽浪郡は高句麗が「楽浪郡の勢力を完全に追い出した」という条で突然出てくる。「漢は領土を拡大した」という文はあるものの、その領土が朝鮮半島北部を含んでいたという事実は巧妙に避けられている。トンデモとまではいわないが、つっこみどころ満載である。

 高句麗・新羅・百済の三国時代以降は分野別史になるが、新羅滅亡までが古代、高麗が中世、李氏朝鮮が近世、開国以降が近現代という区分である。

 古代の政治史は新羅の三国統一と渤海の隆盛が中心である。韓国の考え方だと南の新羅、北の渤海と南北分立していたことになる。単元の末尾に「深化課程」というコーナーがあるが、その一つに「渤海がわが民族の国家であることを証明できる根拠を資料から調べてみよう」とある。渤海には相当ご執心のようだ。

 中世の政治史は半分以上が北からの脅威の話だ。契丹、女真は撃退したが、元とは「講和」したとある。元から明への交代期に王位にあった恭愍王は政治改革を断行して権門勢族に代わる新士大夫を引きあげ王権の強化をはかったが、改革は失敗に終わった。李成桂は恭愍王の改革を引き継ぐために軍事的実権を握り、李氏朝鮮を建国したという書き方がしてある。実際は明に服属することによって王朝の簒奪を認めてもらい、朝鮮という国号まで明に下賜していただいたわけであるが、そういうことは一切書いていない。これでは中国と朝鮮が対等の関係だったという誤解が生まれるのは仕方がないだろう。

 さて近現代史である。日本が悪玉で登場するのは予想通りだが、おやおやと思ったのはロシアが正義の味方のように見えてくることである。ロシアは朝鮮を植民地化しようとしていたわけだが、ロシアの領土的野心は「日帝は第1次英日同盟を締結して国際的立場を強化した後、韓半島の支配権をめぐってロシアを先制攻撃して戦争を引き起こした」という文でわずかに暗示されるだけだ。通して読んでみるとロシアは領土的野心なしに可哀想な朝鮮を助けてくれたが、日帝は朝鮮の支配権を確立するために朝鮮を庇うロシアをだまし討ちしたというような印象をもってしまう。日露戦争でロシアが勝っていたら韓国は日本統治とは較べものにならない過酷な植民地統治にあえぎ革命後は東欧諸国のような悲劇を体験し、第二次大戦後も近代化は夢のまた夢だったはずだが、この教科書からはそうした現実はまったく見えてこない。

 清からの独立という事実がぼかされている点は勝岡寛次氏の『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(絶版)などでさんざん指摘されてきたが、日清戦争そのものがぼかされていたのにはびっくりした。韓国の独立を決定した下関条約まで出てこないのである。

 本書で日清戦争が言及されるのは本文3箇所、年表1箇所で本文は政治史、経済史、文化史が各1箇所である。文化史は日清戦争後の風俗の変化についてふれた部分なので割愛し政治史と経済史の当該部分を引用しよう。

 まず政治史。開国後「日本の経済的侵入」によって農民層の不安・不満が高まり東学党の反乱(韓国では東学農民運動)が起こったという文脈で次のように出てくる。

 しかし日本軍が清日戦争を引き起こし、内政に干渉すると、農民軍は再び蜂起して外勢を追い出すためにソウルに進撃した。

 これだけなのである。信じられない人は現物を見てほしい。

 朝鮮の植民地化がどのような国際情勢の中でなされたかを知るためには日清戦争と下関条約の知識は不可欠である。それなのに韓国の国定教科書(すべての高校生はこの教科書を教えこまれる)では日清戦争は腫物あつかいで、できるだけ降れないでやりすごそうとしているのだ。

 経済史ではこうだ。

 清と日本は政治・軍事的な威嚇を両用し、自国商人を保護し、経済的利権を奪い取っていった。壬午軍反乱直後、清は不平等条約を強要して外国商人がソウルに店舗を開き、国内各地を行き来しながら営業できる道を開いた。日本は清日戦争を挑発し、鉄道敷設件など利権奪取を率先して行なった。

 不平等条約を結ぶまでは清と朝鮮が対等の関係だったかのようではないか。

 日本の統治政策批判や大韓民国臨時政府がまるで国際的に承認されているかのような書き方、韓国独立の経緯、李承晩に対する低評価は李榮薫氏の『大韓民国の物語』にある通りである。朝鮮戦争(韓国では6・25戦争)については半ページ足らずしか書いていない。

 北朝鮮の政治経済についてはこの教科書から書くようになったということだが、1ページくらいしか割いていない。北朝鮮の工業施設はソ連と中国の援助によるとあるだけで、日本時代の厖大な生産施設を受け継いだとは一言も書いていない。

 文化史では「日本に渡ったわが国の文化」としてわざわざ2ページ割いている。ハングルは1ページだが、創製にあたって多くの貴族が反対した事実やハングルを弾圧した時代が長くつづきハングル文献の焚書がおこなわれたという事実は書かれていない。

 歴史教科書というものは本書の巻頭にもあるように「民族のアイデンティティーを涵養する」ためのものであるから、事実の取捨選択や視点にある程度の偏りがあるのは当然である。しかし歴代の朝鮮王朝が中華帝国の属国でありつづけた事実を曖昧にし、ロシアの脅威を教えないのはいかがなものか。こういう本を教科書にして何を教えるのだろうか。

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2012年09月26日

『世宗大王のコリア史』 片野次雄 (彩流社)

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 最近は韓流ドラマの主人公になり日本でも知名度の上がっている李朝第四代世宗を事績を紹介する歴史読物である。本書は1985年に誠文堂新光社から出た本の再刊で別に韓流ドラマの流行にあてこんで書かれたわけではないが、巻末に網谷雅幸氏の「韓流ドラマに見る世宗大王」というエッセイに追加されている。

 著者の片野次雄氏は朝鮮史関係の読物をたくさん書いている人で、1995年に著述を通して日韓友好に寄与した功により韓国政府から感謝状を授与されたよしである。

 副題に「ハングル創製と李朝文化」とあるのでハングルについて詳しく書いてあるのかと期待したが、倭寇討伐、銅活字の改良、出版事業、火砲の改良、天文観測、ソウル造営といった世宗の事績にそれぞれ一章をあてており、ハングルもその一つとしてとりあげているにすぎない(一番詳しく力がこもっているのは火砲の改良と倭寇討伐)。

 世宗は李成桂の高麗簒奪から30年たって李朝朝鮮がようやく安定してきた頃に即位した王である。在位は32年におよび日本でいうと足利義持から義政までの時代に王位にあった。建州女真の征服や日本への通信使派遣など積極的な対外政策をとったこと、多彩な文化事業を起こしたことを考えれば世宗が即位した年に没した足利義満が近いかもしれない。

 世宗が日本との外交に積極的だったのは倭寇対策もあったが、銅を必要としていたという理由が大きい。銅活字を新鋳するにも、天文観測機器を作るにも、貨幣を鋳造するにも日本の良質な銅が必要だったのだ。国内でも銅鉱山を探させたが大した量は出ず、日本銅への依存がつづいた。

 韓国料理では器も箸も真鍮製だが、そのはじまりは世宗の頃にあったらしい。

 両班とよばれる貴族階層の者たちは、日常の生活用具に、真鍮の製品を使うことを、大いなる見栄とした。逆にいえば、真鍮製品の使用こそ、両班の誇りでもあった。
 たとえば両班たちは、飯椀、汁椀、器、皿、箸、匙などに、しきりに銀製品をつかいたがった。しかし純銀づくりの日用品は、あまりにも高価すぎた。そこで両班たちは、見た眼には銀製品に酷似して、しかもさびにくい真鍮製品を珍重した。

 本書は歴史読物だが銅活字の製法や活版印刷の工夫、硝石の製法、火砲の改良など技術面の解説が多く、出版史や科学史に興味のある人は楽しく読めるだろう。

 韓国の文献を参照しているだけに韓国流の歴史解釈がかなりはいりこんでいる印象があるが、李朝が明の属国であり対等ではなかったことはやんわりした表現ながら明記しているし、ハングル創製に貴族の頑強な反対があったことにもふれている。

 もっとも世宗が仏教を弾圧して朝鮮仏教に致命的な打撃をあたえたことは書いていないし、経典一巻を印刷するのに版木が5~6千枚も必要だとか、高麗大蔵経の最初の版木を焼いたのは倭寇といった筆のすべった箇所が散見する。

 学術書ではないのだから厳密性を要求してもはじまらないが、不案内な分野だけにこういう箇所を見ると心配になってくる。あくまで肩のこらない歴史読物して読めばいいだろう。

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2012年09月25日

『大韓民国の物語』 李榮薫 (文藝春秋)

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 韓国で2006年に日本とアメリカの研究者も参加した『解放前後史の再認識』(以下『再認識』)という論集が出版された。専門的な学術書だったが、実証的な研究にもとづいて従来の通説、特に日本の植民地支配によって韓国の近代化が抑圧されたとする植民地収奪論をくつがえす内容だったので大きな話題になった。本書はその内容を編者で韓国歴史学界の新しい潮流を代表する李榮薫氏がラジオで一週間紹介した原稿をもとに書き下ろした本である。ラジオ放送がもとだけに語り口は平明で随所に小説や詩、流行歌を引用しており、お堅い内容にもかかわらず韓国では異例のベストセラーになったという。

 『大韓民国の物語』という表題は大韓民国という国家の正統性を確認しようという意味あいがある。韓国では大韓民国は間違って建国された国家で、北朝鮮こそが正統な国家だとする左翼史観がいまだに横行しており、歴史教科書にまで影響をおよぼしている。

 大韓民国否定説を決定的にしたのは1979年から10年がかりで刊行された『解放前後史の認識』(以下『認識』)という全6巻の論集だった。あわせて百万部も売れ、いわゆる386世代の歴史認識を決定したという。盧武鉉前大統領も何度も繰りかえし読んだと語っているよし。『再認識』はこの『認識』で広まった通説を覆そうという趣旨で刊行された。

 大韓民国否定説がどのようなものか、李榮薫氏は次のように要約している。

 日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽ったというのです。そして、そのような反民族的な勢力を代表する政治家こそ、初代大統領の李承晩であるというのです。

 これを読んでははあと思う読者は多いだろう。韓国の執拗な反日攻撃の根には韓国内の対立があるのである。

 李承晩が批判されているのは主に農地改革を妨害したとされる点である。韓国でも日本と同じような農地改革が第二次大戦後におこなわれたが、通説では李承晩は農地改革法案の成立を遅らせ、その間に地主は法外な値段で土地を小作農に買わせた。法案成立前に小作農が買わされた土地は農地改革の対象となる土地の半分以上におよんだ。そもそも北朝鮮では地主からとりあげた土地を無償で人民にわけあたえたのに、李承晩は小作農から金をとった、云々。

 意外なことに韓国では農地改革問題は朝鮮戦争の位置づけに直結している。『認識』に大きな影響をあたえたブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』(1981)によれば植民地時代からはじまっていた貧農の革命的要求は日本の敗戦後に激化し、各地で紛争が頻発した。アメリカ軍政は地主側の肩を持ち、農地改革を妨害したが、革命勢力は1946年の大邱暴動、49年の済州島と麗水、順天の反乱、さらには各地のゲリラ活動で抵抗した。朝鮮戦争はこうした階級闘争の一環だから、最初に侵攻したのが南北どちらは問題ではないというわけだ。

 1970年代には朝鮮戦争は北朝鮮からしかけたという証拠がそろい、韓国の北侵ではじまったとする左翼の捏造史観が崩壊しかけていたから、カミングスの「修生説」は大歓迎され、韓国歴史学界を席巻した。『認識』はそうした背景でつくられた論集なのである。

 李承晩が農地改革を遅らせたというのは誤りだ。李承晩は当初こそ地主を基盤とする韓民党を頼っていたが、独裁権を握ると大衆的基盤を固めるために地主層を切り捨て農地改革を積極的に進めた。1949年3月の国会に上程された改革案では農民負担額は平年収穫高の300%となっていたが、無理矢理150%に引き下げさせた。反共主義者で国家の強制という形を嫌った李承晩は法案をちらつかせて地主層に圧力をかけ、自主売買で小作農に土地を売るように仕向けたが、自主売買の価格は法定価格より低いのが一般的だった。

 農地改革が成功したことを何よりも物語るのは北朝鮮侵攻時に農民蜂起が起こらなかったことだ。金日成は北朝鮮軍がソウルを占領すればアメリカ帝国主義に虐げられた小作農が各地で蜂起し、韓国という国家は一挙に崩壊すると信じ、スターリンや毛沢東にもそう請け合っていたが、その目論見は完全にはずれた。全耕地の96%が自作農の私有財産になっていたからだ。むしろ哀れなのは北朝鮮の農民だ。無償で土地を分配されたものの、すぐに国家にとりあげられ、農業集団化が強行されたからだ。

 農地については日本統治時代朝鮮総督府が土地調査を口実に40%の農地を強奪し、日本からの移民に安くわけあたえ日本人地主を大量に誕生させたという土地収奪神話がある。

 この説は比較的新しく1950年代に生まれた。最初に主張したのは李在茂で農民が所有観念が希薄で申告という手続に不慣れなことにつけこみ、総督府は期限を設けることで大量の無届地が出るようにしむけ、その無届地を国有地にして日本人や東拓に廉価で払い下げたとするものだ。この説は1962年に一部の中学用国史教科書に採用されたが、1974年に教科書が検定から国定になった際すべての教科書に載るようになり40%収奪説が定説化してしまった。それに輪をかけたのが歴史小説である。1994年から刊行のはじまった趙廷来の『アリラン』シリーズは土地調査事業の時代を舞台にしており、朝鮮人買弁が日本人巡査と結託して愚かな農民から土地を奪い、抵抗する農民を日本人巡査が即決で銃殺するストーリーだった。

 教科書に載るほどの説なのに学術書が出たのは1982年の慎鏞廈『朝鮮土地調査事業研究』が最初だった。慎氏は「片手にピストルを、もう片手には測量器を抱えて」という扇情的な表現で土地調査事業を批判したが、とりあげられた事例は1918年出版の土地調査事業の報告書からとったもので、紛争当事者の主張を中立的に紹介した原本を、ことごとく国有地と判定されたかのようにねじまげて紹介していた。

 しかし同書の出版に前後して土地調査事業の文書が大量に発見され、実証的な研究がはじまった。李榮薫氏はこの研究を主導した人でその成果を本書で次のように要約している。

 結論的にいえば、総督府は国有地をめぐる紛争の審査においては公正であり、さらには、既存の国有地であっても民有である根拠がある程度証明されれば、これを民有地に転換するという判定を下すのに吝かではありませんでした。そのような紛争を経たのち、残った国有地は全国の四千八百四万町歩の土地の中で十二・七万町歩に過ぎませんでした。それすら大部分は一九二四年までは日本の移民に対してではなく、朝鮮人の古くからの小作農に有利な条件で払い下げられていました。

 そもそも農民の土地の所有観念が希薄だという前提が誤りだった。17世紀には土地私有が事実上認められており、李朝末期には所有観念が成熟していた。総督府の近代的所有権制度が受けいれられ、後の近代化につながったのは所有観念の成熟があったからである。手続に不慣れというのも事実とは違った。農民は三年に一度戸籍を申告しなければならなかったので手続には慣れていた。

 実証的な研究が出たので歴史学の世界では根拠のない土地収奪説は下火になるが、歴史教科書はあいかわらず40%収奪説を載せつづけているという。

 韓国では日本の植民地支配は世界に類を見ないほど過酷で暴力的だったとしているが軍隊が出てきたのは三・一独立運動だけである。日本人人口は最大でも75万人で全人口の2.7%にすぎない。大部分は都市と港湾部に居住し、内陸部では駅の近くに住んだ。農村部では村に5~6人で駐在所の巡査と小学校の校長、教師、水利組合と金融組合の職員くらいである。

 日本の植民地統治は多数の朝鮮人テクノクラートに依存していた。日本の敗戦が伝わると慶尚道の両班村では歓声が上がったが、平民の村は静寂だったという話が紹介されている。李朝時代に差別されていた平安道でも同様の光景が見られたという。

 日本の植民地支配を歓迎する人々がいたのは総督府が身分制度を解体し両班支配を終わらせたからである。1909年に戸籍を作るにあたり賤民とされた白丁も姓と本貫を持つようになり子弟を学校に通わせるようになる。両班は自分たちの子供が通う学校に白丁の子供を通わせることに対して反対運動をはじめたがすぐに鎮圧された。

 総督府に協力したのは代々郡県の行政実務を担当してきた衙前や中人という中間層である。彼らは文字が読め計算ができたが、社会進出には限界があった。1876年の開港後、そうした層から商人や地主になって経済的に成功をおさめる者が出てきた。日本時代の農村は彼ら新興地主が支配し両班層は適応できずに衰退した。

 さて慰安婦問題である。著者は慰安婦をアメリカ兵相手の公娼と同一視したとして世論の吊るし上げを受けたことがあるそうだが、挺身隊は慰安婦ではないと断言し挺身隊=慰安婦という通念が形成された経緯をたどっている。挺身隊が募集された1944年当時から一部では混同があったが一部にとどまり、1960年頃までは挺身隊=慰安婦という集団的記憶は成立していなかったという。しかし大衆小説などを通じて挺身隊=慰安婦の同一視がしだいに広まり、1991年に自分は慰安婦だったと名乗り出た女性が登場したことから一気に社会通念になったとしている。

 著者はマスコミの影響には言及しているが、挺身隊=慰安婦と報じた1991年8月の朝日新聞の「誤報」というか捏造報道についてはふれていない。池田信夫氏が「慰安婦について調査委員会を設置せよ」などで再三指摘しているように朝日新聞の関与は重大だが、せめて訳書ではふれるべきではなかったか。

 著者は行政ルートで慰安婦が募集・動員されることはなかったが、総督府の女衒取締りは「はるかに誠意が不足」しており、事実上の黙認状態にあったとことわった上で、以下のように述べている。

 私の考えでは、農村の困窮があまりにもひどく、女性たちを押し出す力が強力だったため、外部からそれを引っ張る力も強力であり、官側としては敢えて強制力を動員しなくてもいい状況にありました。傍観しているだけでおのずから作動するほど、活発に回転する人身売買のマーケットが成立していたのでしょう。その点で、一九四四年八月に日本へ男性労働力を送り出すために発動された国民徴用令の場合とは、事情が異なると思われます。

 韓国でここまで書くのは相当勇気のいることだろう。

 日本は36年間の植民地支配の間に朝鮮半島に多くの資産を残したが、物的資産は北朝鮮に集中していた。木村光彦&安部桂司の『北朝鮮の軍事工業化』に詳述されているように、日本軍の兵站基地となっていた北朝鮮地域は爆撃をまぬがれたので重工業施設はほぼ無傷で残った。一部はソ連軍が持ち去ったが、北朝鮮の一人あたり鉄道長は日本内地以上だった。1960年代まで北朝鮮が韓国より経済的に優位だったのは日本の遺産のおかげである。

 北朝鮮は物的資産は受け継いだものの、制度的資産は日帝の残余として一掃してしまう。植民地時代に教育を受けた官吏や企業人、学者は人的資産というべきだが、その多くは韓国に逃げるか処刑されたり強制収容所にいれられてしまう。

 一方韓国は朝鮮民事令をほぼそのまま大韓民国民法にしたように植民地時代の制度を引き継ぎ、戦時経済で停止されていた市場経済を復活させる。人的資源を親日派として排斥する動きもあったが、李承晩は精神まで日本人になろうとした一部のイデオローグ以外は受けいれ国家運営に積極的に活かした。まさにこの点が盧泰愚政権時代に問題になったわけであるが、著者は現実的な判断として李承晩を評価している。

 日本の植民地支配によって韓国の近代化が進んだとする立場を植民地近代化論というが、それに決定的な影響をあたえたのはエッカートの『日本帝国の申し子』だった。『再認識』にはエッカートも「植民地末期朝鮮の総力戦・工業化・社会変動」を寄稿しているが、著者は植民地支配が人的資源をはぐくんだ点は賛同するものの総督府が民族資本育成策をとり「漢江の奇跡」の開発独裁モデルの先蹤だったという点には異論を唱えている。辻褄があわないが、これも韓国内で発言する限界か。

 著者は韓国の民族主義の起源は日本統治時代にあるとしている。そもそも「民族」という言葉は日本から輸入された外来語であり崔南善が「三・一独立宣言」に用いて広まったにすぎない。「同胞」という言葉は李朝時代からあったが「民族」概念とは無関係だったし、「ギョレ」という語はハングル学者の崔鉉培が「民族」に対抗して「ギョレ・プチ」(血族、一族郎党)から作った造語だ。李朝時代は奴婢と両班が一つの血筋でつながった運命共同体だと考える人はいなかった。白頭山神話も李朝時代は朱子学の自然観を象徴する山だったのを、崔南善が1920年代に民族の象徴として持ち上げるようになってから広まった今できの神話である。

 韓国の歴史において民族という集団意識が生じるのは二十世紀に入った日本支配下の植民地代のことです。日本の抑圧を受け集団の消滅の危機に瀕した朝鮮人は、自分たちは一つの政治的な運命共同体であるという新たな発見に至り、民族という集団意識を共有するに至りました。白頭山が民族の生地に変わるのは、まさにその過程においてです。

 韓国の民族意識は対中国や対アメリカとの関係でではなく対日本との関係で形成されたのだ。韓国の民族主義は反日と切っても切れない関係にあるのだ。著者は民族概念は20世紀の産物で徐々に消えていくとしているが、さてどうだろう。

 著者は朝鮮人の武装独立戦争には実体がなく、朝鮮半島は「アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放された」ことを認め、解放前後史の混乱はこの点を明確にしてこなかったから生まれたとしている。まったくその通りで、韓国でそこまで書くのは大変なことだと思うが、ただし次の条はいかがなものか。

 世界的にみて一九四五年まで存続した帝国主義下の世界体制は、植民地の民族が勇猛果敢に武装独立戦争を行なった結果として解体されたものではないという事実です。私が知る限りではそのような経緯で独立した国は一つもありません。その点において、私たちが自分の力で日本から解放されなかったという事実を恥じる必要はありません。全世界がそうだったわけですから。

 インドネシアやミャンマーやベトナムの人がこれを読んだら怒りだすことだろう。第二次大戦後韓国のように棚ぼたで独立した国もあったが、もどってきた宗主国と民族の血を流して戦い、自力で独立した国の方が多かったのである。著者がまさかそんな常識を知らないとは思えないから韓国ではそこまで書けないということなのかもしれない。

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2012年09月24日

『日本帝国の申し子』 エッカート (草思社)

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 著者のカーター・J・エッカートは朝鮮史を専門とするアメリカの歴史学者でハーバード大学コリアン・インスティチュート所長をつとめている。本書は韓国近代史の基本図書とされている本で、副題に「高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」とあるように、京城紡織株式会社をおこして大財閥となった高敞金氏の発展をたどりながら、韓国資本主義の起源が日本統治時代にあったことを立証した研究である。

 高敞金氏といっても日本ではなじみがないが紡績業で成功をおさめた民族資本家で、1939年には南満洲紡績会社を設立し、役員も技術者も三千人の職工もすべて朝鮮人の大工場を奉天近郊に建設するまでになった。ちなみに韓国三大紙の一つである東亜日報と名門私立大学として知られる高麗大學校は金一族が創立したものである。

 エッカートは朴正煕時代の韓国に平和部隊の一員として滞在し、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる目覚ましい経済発展を目にして朝鮮近代史を専攻することにしたという。

 韓国で通説となっていたのは朝鮮の資本主義の萌芽は17世紀に生まれたが、十分に成長する前に日韓併合によって富が収奪され、民族資本家の成長は1945年の解放まで抑圧されたとするもので、いわゆる李朝資本主義萌芽説である。歴史教科書は今でもこの立場から書かれている。

 だが実証的な歴史学の観点からすると李朝資本主義萌芽説の誤りは明白だ。まず商業の規模が小さすぎたこと。16世紀から17世紀にかけて商業の発達は見られたが、人口百万人の江戸のような大都市が生まれなかったために朝鮮の商人は三井や鴻池には遠くおよばなかったし、商業の発達が李朝の社会構造を変えることもなかった。

 また資本が蓄積しただけでは資本主義は生まれない。資本主義には工業技術の発達が不可欠だが、李朝時代には見られなかった。

 商人資本の蓄積は小規模だっただけでなく、開国の動きに乗れず衰退していった。李朝の商人というと六矣塵と貢人と呼ばれた京城の特権商人と人蔘貿易で財をなした開城商人が双璧だが、京城の特権商人は自国の白銅貨を貯めつづけたために1905年の貨幣改革で大打撃を受けた。開城商人は1898年以降人蔘が完全に政府の統制下におかれると没落した。

 朝鮮の資本主義の担い手となったのは商人ではなく地主だった。開国後、地主層は米の日本への輸出で大儲けをした。投資先となる工業が未発達だったので儲けは農地の買収にまわされ大地主が続々と誕生した。

 高敞金氏の成功の基礎を作った金堯莢もそうした地主の一人だった。彼は貧乏儒者の三男坊だったが、地主の鄭氏と結婚したおかげで湖南平野の小地主となった。米の集散地である茁浦と積出港である郡山港が近かったために米の輸出で財をなし、1924年には朝鮮で3番目に裕福な地主となった。金堯莢には性洙と秊洙という二人の息子がいたがともに日本に留学させ、性洙は早稲田大学政治経済学部を、秊洙は京都帝国大学経済学部を卒業した。

 金性洙は留学時代の友人で東京高等工業学校(現在の東工大)で紡績技術を学んだ李康賢の勧めで1917年に倒産寸前だった京城繊紐株式会社を買収し、これを母体に翌々年京城紡織株式会社(以下、京紡)を設立した。

 京紡は設備を近代化するために株式を募集したが、土地信仰が根強く最初の200万円の募集のところ1/4しか集まらなかった。株式の募集はその後もおこなわれたがはかばかしくなく、株式が全額払いこまれたのは会社設立の14年後のことだった。

 草創期の京紡を支えたのは総督府の補助金と朝鮮殖産銀行の融資だった。1922年総督府は日本資本で釜山に設立された朝鮮紡織株式会社(以下、朝紡)と同額の補助金を出すことを決めた。補助金は1934年までつづき、総額は1935年の払込資本の1/4を上回っていた。

 銀行融資については朝鮮系の7銀行は弱体で高額長期融資は不可能な状態だった。京紡に救いの手をさしのべたのは1918年に日朝共同経済開発のために設立された朝鮮殖産銀行で、ここは和信百貨店の朴興植にも融資している。頭取の有賀光豊について「有賀氏は我々の会社を日本の会社と同じように支援した」と京紡前会長の金容完が語った言葉が社史に残っている。

 技術についてはピアーズを凌駕していた豊田織機の織機を導入し、八木商店と伊藤忠が技術者を派遣した。新人は伊藤忠系の呉羽紡績で研修した。販売についても東洋綿花(三井物産)、八木商店、伊藤忠商事に依存していた。

 総督府が支援したといっても、京紡を日本の紡績会社のように育てるつもりはなかった。朝鮮人の会社はあくまで廉価品を製造する二流の企業にとどめるつもりだった。しかし廉価品に特化したことで京紡は満洲市場に乗りだすことができた。満洲では安価な厚手の布地がもとめられたからである。

 1937年に日支事変がはじまると京紡は軍需品でさらに巨額の利益を上げた。1936年と37年の純利益は半期で6万円程度だったが、38年の上半期には22万円、下半期には60万円と跳ね上がった。純利益は1939年にも増加の一途をたどり、40年下半期には70万円を超えた。1941年上半期には80万円の大台に乗り、終戦までこのレベルが維持された。

 京紡財閥は日本の軍需産業の一翼をになっていったわけだが、だからといって日本の傀儡というわけではなかった。京紡の株主には日本人もいたが、1945年には全26万株のうち日本人は5.6%を所有しているにすぎなかった。

 エッカートは京紡を中心にした日本統治時代の朝鮮の経済発展の研究を次のように要約している。

 植民地時代の歴史のなかで、朝鮮経済史の研究者の目を最も引くものは、植民地であったにも関わらず工業が著しい発展を遂げたという事実である。その次に印象的で、しかもより興味深い事実は、植民地下という状況にありながら、多くの朝鮮人がその工業発展に積極的な役割を果たしたという点である。これは趙自身がおこなった植民地時代の朝鮮人企業家に関する詳細な研究からも明らかだ(本人の意図とは異なるかもしれないが)。趙はそのような企業は日本帝国のシステムの外部で、それに対抗して発展した「民族資本」であると主張することで、大きな矛盾に陥るのをかろうじて避けている。だが、そのような議論は問題を解決するどころか、さらに多くの問題を提起するだけであり、しかもあとで見るように、実際に起こったこととは正反対なのである。

 京紡財閥は「漢江の奇跡」後の経済成長の波には乗れず二流の財閥にとどまったが、大財閥にのしあがっていったサムソン・グループの創業者の李秉喆、楽喜グループの創業者の具仁會も、現代グループの創業者の鄭周永も地主の息子で、日本統治時代に起業した経済人である。彼らは日本統治時代には中小企業の経営者にすぎなかったが、本格的な資本主義を体験し学んだ最初の世代だった。

 朝鮮の社会経済史という観点から見れば、彼らのような人物の出現は朝鮮資本家階級が成長したことを意味している。振り返ってみれば、植民地支配下の朝鮮は、こうした人々にとっての養成所であり、試練の場であったのである。

 妥当な見解だろう。

 エッカートは日本の植民地支配を美化するつもりはないと再三書いているが、韓国での反響は彼を当惑させるもので、完全な韓国語訳はいまだに出ていないという。困ったものである。

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2011年09月22日

『エリュトゥラー海案内記』 村川堅太郎訳註 (中公文庫)

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 世界史をとった人ならこの題名におぼえがあるだろう。エリュトゥラー海とはギリシア語で「紅い海」、紅海をさすが、東西の海上貿易がはじまると紅海につづくインド洋やペルシャ湾もエリュトゥラー海という言葉で総称されるようになった。

 『エリュトゥラー海案内記』は1世紀の半ば――クラウディウス帝からネロ帝の御代――にアレクサンドリアのギリシア系商人が書いた実務本位の地理書で、紅海北端からアラビア半島を経てインドにいたる航路にどのような交易地があり、どのような商品が売買されているか、航行にはどのような危険があるかが記されている。

 インド洋横断航路は南西の季節風の発見で可能になった。本書はその発見者はヒッパロスというギリシア人の舵手だとしているが(この季節風のことを「ヒッパロスの風」という)、フェニキア人やアラブ人がすでに発見していたという説の方が有力のようである。誰が発見したにせよ、プトレマイオス朝期にはエジプトとインドの海上交易がはじまっていたが、本格化するのはエジプトがローマに併合され、アウグストゥスの帝政がはじまってからだ。地中海世界にローマの平和が確立された結果、富裕層が増え東洋の奢侈品の需要が急増したからである。本書はまさにこの時期に執筆されたようだ。

 東西交易というと陸のシルクロードが有名だが、交易量は海上ルートの方がはるかに多かった。冒険的な西方商人はインドの南端を越えてマライ半島まで船を進めていたことが確実視されているが(プトレマイオスの地理書は彼らの情報をもとに書かれたと考えられている)、本書の著者である無名氏はローマ交易の中心地だったインド西北部のバリュガザ(現在のバルーチ)までしか行かなかったらしい。

 実際に訪れた土地については記述が詳しく生き生きしている。バリュガザの条を引こう。

 ところでバリュガザのところの湾は狭いので大海から来た者にとり近づき難い。といのは右側なり左側なりに片寄ることになるからであるが、左側の方が別の側に較べれば楽に進める。即ち右側にはちょうど湾の入口に、マンモーニ村のところに当たってヘーローネーという険しい岩だらけの出鼻が横たわり、一方左手にはこれに向かい合ってアスタカブラの前面の岬があり、パピケーと呼ばれ、その辺の海流のために、また険しい岩からなる海底が錨を切り去るために停泊困難である。

 湾内は浅瀬が多く航行が難しいので、王に仕える漁師がタグボートのような舟で出迎えにあらわれ、定められた船着き場まで曳航してくれるとある。こういうことは体験しないと書けないだろう。

 一方、明らかに伝聞で書いたとわかる箇所もある。中国に関する条である。

 この地方の後に既に全く北に当たって或る場処へと外海が尽きると、其処にはティーナイと呼ばれる内陸の大きな都があり、此処からセーレスの羊毛と糸と織物とがバリュガザへとバクトゥラを通じて陸路で運ばれ、またリミュリケーへとガンゲース河を通じて運ばれる。このティス地方へは容易に到達することが出来ない。というのは此処からは稀に僅かの人たちが来るに過ぎないから。其処は小熊座の直下に位し、ポントスとカスピアー海との最も遠隔の部分に境を接するといわれる。カスピアー海の傍らにはマイオーティス湖が横たわり、大洋に注いでいる。

 ティーナイとは支那チャイナ、ガンゲース河とはガンジス河、カスピアー海とはカスピ海、マイオーティス湖とは黒海北部の内湾であるアゾフ海のことである。中国からカスピ海までの広大な地域がギュッと圧縮されたかっこうだが、歪んではいるにしても中国の絹がバクトリア経由でインド北部にもたらされるという経路は間違っていない。

 本書は二千年前の西洋人の世界観をのぞき見ることのできる珍しい本である。本文は40頁ちょっとだが、見慣れぬ地名や人名(そのほとんどは史書に残らなかったローカルな支配者)ばかりなので、80頁の序論と140頁の註釈がついている。地名の考証や香料や象牙、犀角、珊瑚といった交易品の解説は推理小説的で面白いが、多忙な人には向かないかもしれない。

 原著は奇書中の奇書だが、訳本が出た事情も異例である。「序」は校了直前に書かれたらしいが、その日付が昭和19年10月となっているのである。出版社からたびたび催促されたとか、註釈の組版で凸版印刷に面倒をかけたとあるから、空襲の激しい中、編集作業が粛々と進められていたことになる。

 組み上がった活版はさいわい戦火にあうことなく昭和21年1月末に上梓の運びとなった。あの物資のない時代にこんな不要不急の本がよくぞ出版にこぎつけられたものだと思う。

 先人の労苦に頭が下がるが、このような珍籍が安価な文庫で再刊されたのだから日本の出版文化もまだ捨てたものではない。

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2011年08月30日

『古代ローマ人の24時間』 アンジェラ,アルベルト (河出書房新社)

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 表題のとおり古代ローマの一日を事実にもとづいて再現した架空ルポルタージュである。著者はイタリア国営放送で科学番組のキャスターを長年勤めてきた人だけに、ローマ帝国絶頂期の帝都に実際にテレビカメラを持ちこんで番組を作ったかのような臨場感にあふれている。

 時は五賢帝の二番目、トラヤヌス帝の治政の終わりに近い紀元115年。ちくま文庫版『ローマ帝国衰亡史』でいえば第一巻、塩野七生の『ローマ人の物語』でいえば第九巻にあたる。とある火曜日の夜明けから深夜までを時間を追って描いているが、カメラは奴隷市場から元老院の内部まで自由自在にはいりこみ、歴史書や映画だけではわからない古代都市の生活をリアルに描きだしている。

 この時代のローマは1800ha(新宿区とほぼ同じ面積)に、120万人(新宿区の4倍!)の人口がひしめいていた。新宿西口のビル街にあたるような巨大建築が林立する公共区域や新宿御苑にあたるような神域が大きな面積を占めていたから居住区域は狭く、建物は上に伸びるしかなかった。ドムスと呼ばれる一戸建ての邸宅はわずか1700戸しかなく、かなり裕福な者でも4万棟以上あったインスラと呼ばれる集合住宅に住んでいた。

 インスラの高さは18m以下(6階建相当か)と法令で定められていたが、貸し手市場だっただけに違法建築が後をたたず、後から上に継ぎ足す危険な建物が多かった。現代では眺めのいい最上階が一番高いが、この当時は逆で金持ちは二階に住み、上に行けば行くほど貧乏人が住み、最上階は貧民窟だった。一階は商店や工房になっていたが、商人や職人は中二階を作って家族で住んでいた。

 インスラにはトイレはなかった。昼の間は外の公共トイレを使い、夜はおまるで用をたした。おまるの中味は一階においてある壺にためることになっていたが、上の階に住む者は下まで運ぶのがめんどくさいので、窓から路地に捨てる不心得者がすくなくなかった。見つかればもちろん厳罰である。

 インスラで集めた尿は洗濯屋が金を払って引きとった。尿は洗剤の代わりだったのである。洗濯屋は道路脇に壺を置いて尿を集めたが、それだけでは足りないのでインスラから買ったわけだ。

 現代ともっとも違うのは奴隷がいたことだ。奴隷は戦争捕虜や外国から売られてきた者が多かったが、捨子や犯罪を犯したり破産したりして奴隷身分に落とされた者、貧しさから自分で自分を奴隷に売る者もいた。奴隷はローマ市民の正装であるトガの着用を禁じられており、金属製の首輪をはめられている者もいた。

 奴隷の持ち主は金持ちだけではない。貧乏人でも生計のために奴隷を持つ者がいた。奴隷を賃仕事に貸しだすことで現金収入がえられたのである。能力のある奴隷には主人が資本をあたえ、商売をさせることもあった。大きな利益をあげれば奴隷でもいい暮らしができ、自由を買いもどすこともできた。奴隷の解放は制度化されており、解放奴隷はローマ社会の活力源となっていた。

 労働時間は現代より短く、大体昼には仕事を終えていた。インスラの狭い家にもどっても窮屈なだけなので、ほとんどのローマ市民は浴場で時間をつぶしたり、コロッセオで公開処刑や見せ物を見物した。浴場には温水浴室や冷水浴室などさまざまな風呂があり、運動場が併設されていた。現代のスーパー銭湯とスポーツ・ジムを兼ねたようなものと考えればいいが、現代と異なるのは混浴だったことだ。

 このほか料理や饗宴、剣闘士の試合、裁判、教育、本屋(タキトゥスとすれちがう!)と、生活の細部まで蘊蓄を披露している。

 現代の都市生活そのままの部分もあれば、現代では想像もつかない部分もあるが、ローマ人たちが二千年前とは思えないくらい高度な文明を享受していたのは間違いない。都市に住むというのは25年間の兵役に値する特権だったのだ。

 訳文は平明で読みやすい。服装や髪型などは挿画が理解を助けてくれるが、欲をいうならローマの地図や住居の間取りの平面図もほしかった。

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2011年08月10日

『アステカ帝国滅亡記―インディオによる物語』 トドロフ&ボド (法政大学出版局)

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 もう8年前になるが、レオン=ポルティーヤの『インディオの挽歌』という本を読んで文学性の高さに驚き、感銘を受けた。

 コロンブス到達以前のアメリカというと人身御供にあけくれる石器段階の未開人しかいなかったと思われがちだが、チャールズ・マンの『1491』やライトの『奪われた大陸』にあるように、マヤやアステカ、インカ、アマゾン河流域、ミシシッピー河流域には同時代のヨーロッパやアジアの大国に引けをとらない高度な文明が存在した。そこには知識人階層が存在し、多くが殺されたとはいえ生きのびた者もいた。

 アステカで生きのびた知識人はキリスト教に改宗し、子弟にスペイン語やラテン語の教育を受けさせた。読み書きを学んだ子供たちはナワトル語をアルファベットで書きあらわすようになり、親や兄弟から聞いたアステカ滅亡の顚末を文字にした。布教のためにナワトル語を修得した宣教師の中にも古老の聞書を書き残す者がいた。

 インディオの視点から描いた亡国記は多数あったらしく、ほぼ完全なかたちで現存するものが12点、断片が残るものが40点あるという。『インディオの挽歌』はこうした記録の中から見せ場を抜きだし、ひとつづきの物語になるように編集した本だった。感動的ではあったが、元のテキストはどんなものだったのだろうという疑問が起きた。

 本書はアステカ滅亡を記録した文書を6点選び、現代フランス語に訳した本の邦訳である。『インディオの挽歌』のような翻案と違って学術的な翻訳であり、訳出した部分には省略はないということである。各文書の解題を翻訳にあたったナワトル語の研究者のジョルジュ・ボドが書き、巻末の解説は『他者の記号学』のトドロフが担当している(本書は『他者の記号学』の資料篇として企画されたらしく、同書の翌年に出版されている)。

 ボドによればインディオの記録が残った背景にはフランシスコ会改革派の千年王国運動があった。ヨアキム・デ・フローリスの千年王国論ではキリストの再臨と最後の審判の前には最後の非キリスト教徒の回心により慈愛の王国が地上に実現するとされていたが、一握りのスペイン人があっという間に広大な帝国を征服した奇跡、神の摂理に合致したかのようなインディオの清貧と謙虚な生きかた、インディオの自発的な集団的回心に、フランシスコ会改革派はメキシコこそ千年王国を築くべき地であり、最後の非キリスト教徒とはインディオのことだと考えるようになった。

 フランシスコ会は組織的にアステカ文化の調査に着手した。サアグンの『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』もその一環として編纂されたが、『概史』が完成した直後、フェリペ二世はフランシスコ会の千年王国構想の全貌を知り、『概史』を押収するとともにインディオ文化の研究を禁止した。為政者にとって千年王国は危険思想であり、アメリカ各地では先住民の反乱があいついで不穏な情勢だった。先住民に誇りをもたせるような動きはつぶしておくのが賢明だったろう。

 フランシスコ会が収集し編纂した記録の多くは失われたか行方不明になったが、『概史』の原本は押収の直前ヨーロッパに持ちだされ、いかなる経緯をたどったのかフィレンツェのロレンツォ図書館に収蔵されて19世紀に発見されることになる。

 18世紀にイエズス会がインディオのユートピアを作ろうとした話は『ミッション』という歴史大作になって広く知られているが、16世紀のメキシコでフランシスコ会がこんな動きをしていたとは。

 閑話休題。本書には6篇の記録が納められている。ナワトル語のテクストが3篇、スペイン語のテクストが3篇だが、ナワトル語のテクストにはヤオクイカトル(「戦争の歌」)やイクノクイカトル(「孤児の歌」)といったアステカ伝来の口承文芸の形式を踏襲した条を含んでいるということである。対句や畳句を多用しているので口承文芸であることは翻訳でもわかる。古拙な味わいがすばらしい。スペイン語のテクストは平明だが、味わいが乏しい。

 政治的視点は口承が誕生した地域、もしくは情報提供者の属する地域によって明確に三つにわかれる。

 第一は湖上の帝都テノチティトランに向かう堤道を扼する位置にある都市国家トラテルコの視点である。トラテルコは最後までテノチティトランの同盟者だったが、皇帝とテノチティトラン人には辛辣であり、スペイン人に抵抗した主役は自分たちだと主張している。

 第二はスペインの消極的な同盟者となった都市国家の視点で、自分たちの功績を誇ることもなく公平である。

 第三はスペイン同盟軍の中核となった都市国家の視点で、コルテスに対する忠誠を宣言し手柄自慢が多い。

 アステカ帝国の支配層だったテノチティトランの視点で書かれた記録は残っていない。テノチティトランの人々は虐殺され、生き残った者も奴隷化されたり疫病で大量死したことが考えられる。また征服初期にはテノチティトランの文物が徹底的に破壊されており、絵文書はことごとく焚かれたと考えられる。

 個別の文書に移ろう。まずナワトル語のテクストである。

『フィレンツェの絵文書』

 フィレンツェのロレンツォ図書館で発見されたサアグンの『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』からスペイン征服を語った「第十二の書」を収録している。1550年から1555年にかけてサアグンがトラテロルコでおこなった古老からの聞きとりがもとになっている。

 テノチティトラン陥落から30年たっているが、描写は細かく迫力があり、6篇の中では文学的完成度がもっとも高いと感じた。おそらく征服から間もない時期に口承の叙事詩が作られ伝承されていたのだろう。

 スペイン人来寇の10年前にあらわれたとされる前兆の彗星の描写からはじまっているが、ここではモクテスマが人質にとられる場面を引用しよう。

 スペイン人は宮殿に着き、その中に入ると、モテクソーマをしっかりと捕らえて放さず、ずっと見張っていて、もはやモテクソーマから目を離さなかった。モテクソーマと共にイツクァウツィンがいたが、しかしそのほかの者は出ていってしまった。
 このようなことがおこなわれる一方で、はやくもその時、火のラッパが火を吹いた。目の前の万物が揺れ動いたかと思われた。みな呆然とした目付きで、やみくもに走りだした。方々からパンパンという音が聞こえた。人々はまるで息も絶えなんばかり、ただただ弱り果ててしまい、毒茸にあたってふらふらとなったかのごとく、何か得体の知れないものを目の前にしたかのようであった。

 「火のラッパ」とは火縄銃と大砲のことである。新大陸にいなかった馬をノロ鹿と呼ぶなど、征服当時の呼称が残っていて生々しい。

 スペイン人はテノチティトランで歓待されたにもかかわらず、皇帝を人質にとってウィツィロポチトリ祭に集まった貴族や神官、戦士を虐殺し、神殿に籠城した。その攻防戦の条を引こう。スペイン人は銃、大砲、弩弓、鉄剣、鉄槍、鉄の甲冑で武装していたが、アステカ側は棍棒や石斧、石槍くらいしか武器がない。

 そして四日間の戦闘の後に、優れた戦士のうちから選ばれた勇猛果敢な戦士、勲章に覆われ、白兵戦を生き抜いてきたこれらの選ばれた戦士たちが神殿の頂上によじ登っていった。彼らは二本の大梁と神々の木と言われている何本もの樫の木の太い丸太を上に運び上げた。それらを高いところに持ち上げて、スペイン人の上に投げ落とそうとしたのである。
 しかしスペイン人も、ただちによじ登った。神殿の頂上に向かった。彼らスペイン人は隊列を組んでやってきた。縦と横に隊列を組んでやってきた。先頭にたつ者は、火のラッパを手に持つ者で、彼らはゆっくりと登ってきた。立ち止まることもなく、手持ちの火のラッパを発射しながら前進してきた。人を突き刺すのもこの武器だった。第二列目には金属の弓をもつ者、金属の弓を使用する者がやってきた。第三列は金属の剣をもつ者、こうもり槍をもつ者がやってきた。
 そのとき、勇敢な戦士たちは一丸となって、丸太、巨大な樫の丸太をスペイン人に投げつけたが、まったく無駄なことだった。スペイン人はこの丸太を彼らの盾で実にあっさりと押し返してしまった。たちどころに、この丸太は役に立たなくなった。そしてスペイン人は頂上につくと、そのとき、ただちにメシーカ人に四方八方から襲いかかり、突き刺し、めった斬りに葬った。ただちに、そのとき、勇敢な戦士たちは神殿の階段から身を投げた。それはまるで黒蟻のように、落ちて行った。スペイン人は神殿の上に登っていたすべての勇敢な戦士たちを、その高みから投げ落とした。ことごとく神殿の外に投げ落とした。そのときいち早く逃れ去れる者は一人としていなかった。虐殺を済ませると、スペイン人はそれからすみやかに引きかえした。ただちにもどって籠城した。

 アステカ側はいったんスペイン人を撤退させるが、スペイン側は同盟軍を組織して再び攻め寄せてくる。80日間の死闘の末にテノチティトランは陥落する。住民は逃げようとするが、逃げ道はスペイン人の制圧する堤道か湖しかない。

 舟にいた者、木組の足場の棧敷上で生活していた者、トルマエイェカンの人々、これらすべての者たちの逃れる先は水中のみであった。水はある者には腹に達し、ある者には胸に達し、またある者には首に達した。そして水が深いところでは、何人かは水中に没した。ごく小さな子供たちは大人が背負って運んだ。嘆きの声がいたるところで起こった。陸の道に到達した者は喜び、喚声を上げた。小舟の所有者、舟のあるものはほとんど夜のうちに出ていった。とはいえ、しかしながら昼に立ち去る者もあった。まるで押し合いへし合いのありさまであった。
 一方、道沿いのいたるところでスペイン人は住民から強奪をしていた。彼らが求めたのは黄金であって、翡翠やケツァル鳥の羽毛、トルコ石には目もくれなかった。身分の高い女はこうした黄金を胴着やスカートの中などところかまわず身につけていた。我ら男たちも、腰布や口の中のいたるところに黄金をしまいこんでいた。
 さて、スペイン人は、女、きれいな女すなわち小麦色の身体をした女を列から引きずり出して、選び取った。なかには引きずり出されそうになったときのために、顔に泥を塗り、つぎはぎだらけのぼろを腰にまとって、胴着にはぼろを着こむ女たちもいた。彼女たちは全身ぼろだらけにしたのだった。

 この後、最後の皇帝クァウテモクが投降し、黄金のありかを尋問される場面がつづくが尋問の主役はマリンチェである。奴隷に売られた女がスペイン人に代わって皇帝を問いつめているのだから世は無常だ。

『トラテロルコ編年史』

 テノチティトラン陥落から7年しかたっていない1528年にトラテロルコの無名氏によってナワトル語で書かれた記録である(パリ国立図書館グーピル・コレクション所蔵)。1528年という編纂年は記録中に記載されている。

 記録は五つの文書からなる。最初の四つは王名表や王朝の系図だが、最後の文書はアステカ人の伝説的な移住以前からスペイン人による征服までのトラテロルコの歴史をつづった年代記になっている。

 筆者名はわかっていないが、1523年にはフランシスコ会のペドロ・デ・ガンテ師がトラテロルコで布教を開始しており、テスココに先住民に読み書きを教える学校を開いているから、おそらくフランシスコ会と密接な関係のあったトラテロルコの書記生トラクイロ学者トラマティニであり、ペドロ・アルバラードによる神殿での虐殺の生き残りだろうといわれている。

 神殿の虐殺の場面は俯瞰的な視点ではなく、まさに目の前で起きている事出来事として描かれており、『フィレンツェの絵文書』よりも即物的で生々しい。

 神をたたえる歌を歌うものは衣類はいっさい着けていなかった。身に着けているものといえば、貝殻、トルコ石、唇飾り、首飾り、アオサギの羽飾り、ノロ鹿の足のみであった。長太鼓を叩く者は、瓢箪の鈴、タバコ入れ用の瓢箪をもっている小さな愛すべき古老たちであったが、まさにこの人々にたいしてスペイン人はまず攻撃の火蓋を切った。この人たちの手を切り落とし、頭を突き刺した。そしてすぐに彼らは死んでいった。神をたたえて歌っていた者、見物していた者がことごとくその場で死者となった。
 スペイン人はわれわれを攻撃し、三時間にわたってわれわれを虐殺した。スペイン人は住民を神殿の中庭で虐殺した。それからすばやくスペイン人は建物の中に侵入し、人々を皆殺しにした。それらは水を運んで来た者、馬の餌を運び込んで来た者、トウモロコシの粉を作っていた者、地面を帚ではいていた者、見張りに立っていた者などであった。

 テノチティトラン陥落後にアステカの遺民がなめた苦しみはイクノクイカトルという哀歌形式で書かれている。

通りにも、広場にも、うじ虫がうごめく、
家の壁には、飛び散った脳味噌。
染めたような真っ赤な水、
飲んでみれば、
塩辛い硝石の水。
それでも飲んだ、この硝石の水。

……中略……

ひとの値段が決められた。
若者、神官、
若い娘、子供の値段が
わずかとうもろこし二つかみ分、
沼地バエの平たいパン一〇枚のみ、
ひとの値段がわずか
ギョウギシバの平たいパン二〇枚分のみ、

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2011年07月30日

『他者の記号学―アメリカ大陸の征服』 トドロフ (法政大学出版局)

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 スペインのアメリカ征服を記号学の視点から分析した本である。著者のツヴェタン・トドロフはロラン・バルトの弟子で、文芸批評家として知られた人である。

 なぜアステカやマヤの滅亡に記号学が関係あるのか、なぜ文芸批評家が首を突っこむのかと訝しむ人が多いかもしれない。トドロフはブルガリアからフランスに留学していついた人で、フランスではよそ者である。植民地問題や他者の問題に敏感で『われわれと他者―フランス思想における他者像』のような著書もある。本書もその系列の仕事で、近代ヨーロッパが誕生しようとしていた時に遭遇したアメリカ先住民を鏡にして、近代ヨーロッパのアイデンティティを探ろうという試みである。

 本書は四部にわかれる。「Ⅰ 発見」ではコロンブス、「Ⅱ 征服」ではアステカを記号の力で制圧したコルテス、「Ⅲ 愛」ではインディオ救済に生涯をかけながらインディオとすれ違いを演じたラス・カサス、「Ⅳ 認識」ではインディオをようやく他者として認識するようになった晩年のラス・カサスとインディオ側の亡国の記録を後世に伝えた宣教師たちを論じている。

Ⅰ 発見

 まずコロンブスである。本書ではコロンブスを「コロン」と表記するが、これはフランス語の本だからではなく、コロンブス自身が25歳以降、コロンボという伝来の姓を捨てコロンという表記に固執したからである。コロンブスの業績を書き残したラス・カサスは コロンとは「新たに植民する」、クリストバルとは Christum Ferens で「キリストを運ぶもの」という意味で、コロンブスは自分は姓名が意味するところを実現すべく神に選ばれたという考えに動かされたとしている。

 コロンブスは自分自身だけでなく、すべての事物がそれにふさわしい名前をもたなければならないと考えていた。コロンブスはインディオがどう呼んでいるかにはお構いなく「発見」した土地に美しい平野ベル・プラド銀の山モンテ・デ・プラタ乾いた岬プンタ・セカ等々と勝手に名前をつけていく。

 コロンブスはジェノヴァ語、カスティーリャ語、ラテン語など、ラテン系の言語を自由にあやつる多言語生活者だったが、ラテン系の言語が普遍的と思いこんでいて、異質の言語があるという意識が欠落していたらしい。インドを目指す航海に出発したのもアラビア人天文学者アルファルガニの算出したアラビア海里をイタリア海里と同じと思いこみ、インドまでの距離を短く誤認したからにほかならない。

 異質の文化、異なるコードがあるという自覚のない人間がインディオと出会ったのだから誤解の連続だった。コロンブスはインディオは善良で気前がいいと褒めちぎるが、ほどなく野蛮な泥棒だと評価を逆転させる。コロンブスには自分と同じ人間か、文化をもたない動物なみの生き物かという二つのカテゴリーしかないのだ。トドロフは書いている。

 彼の態度は二つに分けられるが、それはつぎの世紀に引きつがれるだけでなく、実際上、現代の植民地支配者一人一人の、被支配者としての原住民にたいする関係のなかにすでに見たとおりである。すなわち、ある場合には、彼はインディオを、完全な権利を有する、つまり彼と同じ権利を持つ人間だと考える。だがその場合、彼らを対等であるばかりでなく、同一のものと見なしているのであって、こうした態度は同化主義に、すなわち自分自身の価値観を他者へ投影することに帰着する。そうでなければ、彼は差異から出発する。だがこの差異は、ただちに、優越と劣等をあらわす言葉に翻訳される。人は、自己のたんなる不完全な状態にとどまらないような、まったく他者的な人間の本質が存在することを、認めたがらないものだからである。

 コロンブスは人間の平等を信じる素朴な同化主義者であり、それがインドにキリスト教を布教しようという夢とないまぜとなってインディオをキリスト教に改宗させようとするが、従わないインディオは奴隷にしてしまう。キリスト教徒でなければ人間ではなく、平等にあつかう必要がないからだ。コロンブスには自分とは異なるが自分と同じ権利を有する主体という観念が欠けており、この欠落が後の植民地主義に引きつがれていく。

Ⅱ 征服

 他者が欠落していたのはコロンブスだけではなかった。最悪の選択をくりかえしてアステカを滅亡に導いたモクテスマ皇帝も異なる文化の存在が理解できなかった。

 アステカ文化は雄弁を尊び、モクテスマも雄弁で名をはせた優秀な人物だった。モクテスマはコルテス以前の遠征隊を知っていて、海岸を見張らせていた。コルテス隊500人の上陸はただちにモクテスマのもとに知らされ、モクテスマはコルテス隊の動静を監視させた。だがモクテスマは情報収集を活かすことができなかった。コルテス隊を全滅させようと思えばできたのに豪華な贈物を差しだしてスペイン人の黄金熱を刺激し、ついにはおとなしく退去してくれれば帝国を贈ると懇願する始末だった。インディオが書き残した年代記は「モクテスマはうなだれ、まるで死者か啞でもあるかのように、口に手をあてたまま、声もなく、長いあいだじっとしていた。彼には話すことも答えることもできなかった」と伝えている。

 トドロフはモクテスマは捕らえられる前から負けていたのだと指摘する。

 モクテスマはただたんに話の内容を恐れているのではない。このテクストに<死者>と<啞>とが意味ありげに並べておかれていることからも分かるように、彼は文字通りコミュニケーションが不可能なことを示しているのだ。この機能停止はたんに情報収集を弱体化させるばかりではない。アステカの君主とはなによりもまず言葉の支配者であり、したがってその言語活動の放棄は挫折の告白である以上、それはすでに敗北を象徴しているのである。

 モクテスマが茫然自失におちいったのは単に呪術師や美々しく飾りたてた戦士の勇姿がスペイン人になんの効果ももたらさなかったからではない。スペイン人がアステカのコード体系におさまらない他者だったからだ。コロンブスは自分のコードからはずれたインディオを動物と同じにあつかったが、モンテスマはスペイン人を神々と同列に置いた。

 コルテスはモンテスマやコロンブスとは違う種類の人間だった。他の征服者コンキスタドールとも異なっていた。キューバを出発した時は他の征服者と変わらなかったかもしれないが、アステカ帝国の存在を知ると帝国全体を手にいれようと決意し、目先の黄金あさりより情報収集を優先させた。彼は通訳を重視し、マヤ人に奴隷に売られていたマリンチェというアステカ女性を手にいれる。コルテスはマリンチェを愛人にしアステカの内情を学び、アステカ側との交渉には必ず立ちあわせた。モンテスマ逮捕では彼女が指揮をとった。同時代のスペイン人の記録もインディオ側の記録もマリンチェを通訳を超えた存在として描いている。

 スペイン人がアステカやインカを電撃的に征服できたのはダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』やマンの『1491』のように、武器の優位性と意識せずに新大陸にもちこんだ疫病のためだという見方が一般的だが、トドロフは記号の関与に注目する。

 コルテスはマキャベリの同時代人だったが、マキャベリばりに自分の行動がインディオにどう解釈されるかを気にしていた。同盟軍の村でニワトリを二羽うばった部下は即座に絞首刑にした。秘密の保持にも神経を使った。インディオは馬は不死身と思いこんでいたので戦闘で死んだ馬の死骸は夜のうちにひそかに埋めさせた。

 モンテスマとの交渉では相手を混乱させるためにことさら矛盾した対応をとった。ケツァル神との同一視もコルテスは積極的に助長した。わずか500人でアステカ帝国を制圧できたのもアステカ側の内紛につけこんで不満部族をとりこみ、5万人もの同盟軍を組織できたからだった。

 一方、アステカの戦士はスペイン人に対しても伝統的な戦い方を変えない。鬨の声は相手を威嚇するどころか自分の位置を知らせるだけだったし、最後の皇帝クァウテモクは帝室の紋章で飾りたてた舟で逃げようとして捕らえられている。コルテスは記号を武器にしたのに対し、アステカ側は伝来の記号体系に自縄自縛になって自滅したのだ。

Ⅲ 愛

 ラス・カサスがアメリカ大陸における植民者の血に塗れた不法行為を告発し、インディオのために尽力したことはよく知られている。彼は従軍司祭として参加したキューバ征討戦でカオナオ族虐殺を目撃する。彼は自分の農場で使っていたインディオ奴隷を解放し、インディオの立場に立って発現するようになる。

 ラス・カサスはスペイン人に虐げられるインディオを狼に襲われた羊、ファラオに酷使されるユダヤ人、モール人の圧政に苦しむスペイン人に喩えた。だがこれはインディオを悪魔に喩えた論敵の主張をひっくり返しただけではないだろうか。

 ラス・カサスの平等主義はキリスト教にもとづいており、インディオをキリスト教徒にし、同化することは自明の前提だった。植民地化も否定しておらず、1531年のインディアス枢機会議への書翰にあるように、植民地化は乱暴なコンキスタドールによってではなく「神を恐れ、良心と真の賢明さをもつ人々」によっておこなわれるべきだと主張しているにすぎない。彼は国王に対する意見書でインディオを大切にあつかえば乱暴な植民地化以上の利益があがり、陛下のためになると説いている。彼の提言がスペイン当局を動かし、部分的にとりいれられたのは彼の平等主義が同化政策の枠内だったからだ。

 その成果はどうか。ラス・カサスはクマナ地方の平和的植民化事業に乗りだし、修道士と農民入植者を連れてくるが、インディオは彼が期待していたほど従順ではなく計画は失敗に終わる。

 ラス・カサスはインディオを愛しているつもりだったが、自己の理想を投影しただけでインディオがまったく見えていなかったと言っていいだろう。ラス・カサスのインディオ観はコロンブスと五十歩百歩であり、コルテスの方がよほどインディオのことを知っていた。インディオ側もそれに気づいていたらしい。

 この当時のインディオがラス・カサスにたいしてどのような感情を抱いていたかについては、ほとんどまったく知られていない。このこと自体がすでにそれなりの意味をもっている。反対にコルテスは非常に人気があり、スペイン皇帝の代理人である法権所持者をふるえ上がらせる。彼らはコルテスが一声かければ、インディオが蜂起することを知っているのである。

 ラス・カサスよりコルテスの方がインディオに慕われていたとは皮肉な話である。

Ⅳ 認識

 新大陸でインディオのために奔走していた時代のラス・カサスは他者としてのインディオに出会いそこねていたが、最晩年、スペインにもどって『インディアス史』を執筆した時期には自分とは異なる主体であることに気がついていたらしい。

 トドロフはラス・カサスの他者認識はインディオの奴隷化の是非をめぐって戦われたバリャドリード論争の中で醸成されていったのではないかと推測している。

 アリストテレスの奴隷肯定論をふりかざすセプルベタは人身御供の儀式を根拠にインディオの劣等生をあげつらった。定期的に生贄を殺し心臓を抉りだして偶像に捧げるなど、インディオの野蛮さの証拠ではないかというわけだ。

 ラス・カサスは一人息子を生贄にしようとしたアブラハムを引きあいに出し、人が神を愛していることを示す最大のあかしはもっとも貴重なもの、すなわち人間の生命を捧げることだとし、「真実の神、あるいは彼らが真実の神だと考えているいつわりの神」に犠牲を捧げることは宗教感情の発露として肯定されると説く。

 この論法が妥当かどうかはおくとして、重要なのは「真実の神、あるいは彼らが真実の神だと考えているいつわりの神」という言い方をしている点である。インディオの神がインディオにとって真実の神だと認めることは、キリスト教の神を相対化することにつながる。ラス・カサスがキリスト教の神の方が高級だと信じているにしても、それはもはや唯一神ではない。晩年のラス・カサスは宗教的多元主義に踏みこみ、事実上インディオを同化することをあきらめていたらしい。

 ラス・カサスにつづく世代からはベルナルディーノ・デ・サアグンやディエゴ・ドゥランのようにアステカ文化を正確に理解し、後世に重要な記録を残した聖職者が出ている。

 サアグンは1499年スペインに生まれた。ラス・カサスより15歳若い。サマランカ大学で学んだ後、フランシスコ会修道士となり、コルテスがオアハカ侯爵に任じられた1529年にメキシコに渡った。フランシスコ会はナワトル語とナワトル文化の研究に力を入れていたが、サアグンも徹底的にナワトル語を学び、1536年にインディオの聖職者を養成するための修道会付属学校が設立されるとラテン語文法の教授に就任している。生徒の多くはアステカ貴族の子弟だったが進歩は著しく、サアグン自身も彼らからナワトル語とナワトル文化をより深く学んでいく。

 ドゥランは現地のフランシスコ会の支持のもとにインディオの口承文芸を収集し、征服戦争の生き残りから聞書をおこない、『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』という百科全書をまとめあげることになる。

 最初はサアグン同様布教に役立てるためにはじめた仕事だったが、途中からナワトル文化を理解し保存しようという第二の動機が比重を増してくる。彼はナワトル語の本文ができあがると最優秀の教え子を集めて加筆訂正をおこなわせ、完成するとスペイン語の翻訳を添付し、インディオの絵師に挿絵を描かせた。サアグンの『概史』はナワトル語、スペイン語という二つの言語のテキストと挿絵で構成されている。ナワトル語の本文が別にあるので、スペイン語のテキストは逐語訳である必要はなく、注釈を織りこんだ自由訳になっているとのことである。

 『概史』は画期的な仕事だったが、完成した直後フェリペ二世の勅令で禁書とされ、19世紀になるまで図書館の中で埃をかぶることになる。この間の事情については本書の資料篇にあたる『アステカ帝国滅亡記』をお読みいただきたい。

 ドゥランは1537年にスペインに生まれた。ラス・カサスより53歳、サアグンより38歳若い。晩年のラス・カサスがバリャドリードで熱弁をふるっていた頃、家族とともに5歳でメキシコに渡っている。メキシコで育っただけにドゥランは自由にナワトル語をあやつり、アステカの文化・宗教に通じていた。

 ドミニコ会の修道士となったドゥランはインディオと同じように暮らしながら布教につとめるが、インディオがキリスト礼拝に偽装して古い神を拝んでいることを嘆き、偶像崇拝根絶のためにはまず偶像崇拝のなんたるかを学ぶべきだと説いてアステカ文化の貴重な記録を残す。彼はインディオの信仰の中に偏執的に偶像崇拝を嗅ぎだすが、その一方アステカの古い祭儀の中にキリスト教との共通点を見いだし、これほどまでに似ているのは聖トマスがかつて伝道に訪れていたのではないか、ケツァルコアトルとは聖トマスのことではないかという妄想をいだくにいたる。ドゥランはインディオのサンクレティスムを告発しながら、自分自身サンクレティスムにおちいっていたのかもしれない。

 サアグンとドゥランは同時代的には例外的な存在であり、著書は長く埋もれることになるが、その布教・教育活動はスペイン人でもアステカ人でもないメキシコ人という新たなアイデンティティを形成する上で大きな影響をあたえ、ひいてはヨーロッパ人の自己認識を変えていったのである。

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2011年07月29日

『古代マヤ・アステカ不可思議大全』 芝崎みゆき (草思社)
『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』 芝崎みゆき (草思社)

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 ヘタウマのイラストと手書きの文字でつづられたメソアメリカ遺跡案内である。著者の芝崎みゆき氏は『古代エジプトうんちく図鑑』と『古代ギリシアがんちく図鑑』を出しているが、メソアメリカは一冊では書ききれなかったのか紀行篇と蘊蓄篇が独立した本になっている。

 ロットリングで書いたようなナール風手書き文字は読みやすく、難しい話でも肩の力が抜ける。「文」と「女」がまぎらわしいといった書き癖もあるが、すぐに慣れる。これだけの文字量を清書するのは大変だったろう。

 まず『古代マヤ・アステカ不可思議大全』である。著者とおぼしいトウモロコシ風ポニーテイルのキャラクターと水滴頭巾のキャラクターが案内役となって進み、一部マンガになっている。モンゴロイドのアメリカ大陸移住にはじまり、オルメカから時代順に紹介する。順番は違うが、青木和夫氏の『古代メソアメリカ文明』を下敷きにしているふしがある。青木氏は各文明にほぼ同じくらいの分量を割りふっているが、本書はマヤとアステカが中心で全300頁中マヤに115頁、アステカに60頁をあてている。

 不気味カワイイ絵柄なので軽く読める本かと思ったら、情報がてんこ盛りで巻末の参考文献はダテではない。時代遅れの説やトンデモ学説も紹介されいるが、「と見る人もいる」という一歩引いた書き方をしたり、二人のキャラクターが突っこみをいれたり考えこんだりして鵜呑みにしてはいけないとわかる。意外にちゃんとした内容である。6頁かけたマヤ暦の図解は秀逸。今まで読んだ中ではこれが一番わかりやすかった。現在絶版の『ポポル・ヴフ』と『ユカタン事物記』の中味をマンガで紹介している点も貴重。

 マヤ関係の本はけっこう読んでいるつもりだが、それでも知らない話がたくさん出てくる。あまりにも詳しくて消化不良をおこす読者がいるかもしれない。全編手書きにしたことといい、著者は相当しつこい性格なのだろう。

 次に紀行篇の『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』である。2007年にエキという友人とメキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズをバックパッカーとして旅した経験をまとめた本だが、交通機関やトイレ事情、見どころといった観光情報だけでなく、現地の人との交流が描かれている。

 メキシコは不穏なニュースがよく伝えられる国なので著者は身構えて入国するが、案に相違して親切な人ばかりだし、高原部はバス網が発達し便数が多く、旅行しやすい土地だそうである。オクタビオ・パスが「微笑が仮面である」と書くように日本に似た相手を立てる文化があるらしい。

 しかしユカタン半島にはいるとバスが当てにならなくなり、貧しい地域のせいか人々の顔つきが厳しくなる。

 グアテマラとホンジュラスは観光で食べている国なので油断もすきもならない。ベリーズは移民が多く英語が通じるが、遺跡はあまりなく、基本的に物価の高いリゾート地域のようだ。

 中米でもどこにいっても日本のマンガとアニメのオタクがいて、日本人というだけで親切にしてもらえたそうである。欧米人のバックパッカーもオタクの比率が高く、バックパッカー宿で欧米人どうし浦沢直樹や高橋留美子の話で盛りあがっていたりするという。

 一番興味深かったのは福音派教会の体験記である。実松克義氏の『マヤ文明 聖なる時間の書』には何もしてくれないカトリックに代わって福音派の教会が勢力を急速に伸ばしていると書かれていたが、著者はラカンドンで福音派の教会のミサに出る破目になる。宿の子供になつかれてしまい、近くの教会に連れていかれるが、様子が普通ではない。メリハリのない下手糞なゴスペルと牧師の説教が延々とつづくのに信者は異様に熱狂し、帰るに帰れなくなったというのだ。後で福音派だったとわかるが、マヤ意識が強くカトリックを拒否してきたというラカンドンで福音派が受けいれられているとは何を意味するのか。

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2011年07月27日

『古代メソアメリカ文明』 青山和夫 (講談社選書メチエ)

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 『マヤ文明の興亡』の訳者解説がよかったので、同じ青山和夫氏による本書を読んでみた。表題の「古代メソアメリカ文明」とはコロンブス到達以前に中米地域メソアメリカに勃興した文明のことで日本の室町時代に相当する期間までを含み、一般的な意味での古代のことではない。2007年の刊行だが、一般向け概説書としては最新の内容といえよう。

 著者はまず旧大陸中心の「四大文明観」を批判し、メソアメリカと南米中央アンデスにもエジプトやメソポタミアに匹敵した文明が誕生していたとして「六大文明観」を提唱する。アメリカ大陸の文明は金属器を生みださなかったが、高度に発達した石期と土器だけで農業を基盤とした都市を築き、エジプトに匹敵するようなピラミッドを建造した。2世紀から隆盛したテオティワカンはローマをもしのぐ人口を擁し、碁盤の目状の整然とした計画都市を作りあげた。中米・南米ともに大河はないが、乾燥地でも育つトウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャなどが貧弱な野生種から品種改良され、現在では世界中に広まって重要な食料となっている。「六大文明観」に異論のある人はいないだろう。

 本書はメソアメリカの文明を発祥順にオルメカ、マヤ、サポテカ、テオティワカン、トルテカ、アステカとたどっていく。

 メソアメリカでは旧大陸やインカのような大帝国は誕生せず、各地域の文明はゆるいネットワークで結ばれていたが、そこで重要な役割を果たしたのは翡翠や鳥の羽、工芸品といった威信財だった。密林などに阻まれて大量の物資を輸送するのは困難だったが、支配層は持ち運びのできる希少な威信財で自らの権力と権威を正当化したわけである。

 まずオルメカである。オルメカはメキシコ湾の南岸に自生したメソアメリカ最古の文明であり、黒人を思わせる巨石人頭像から以前はオルメカ=アフリカ起源説が唱えられたこともあったが、巨石人頭像のような風貌は現地の先住民に見られ、現在ではオルメカの美術様式と考えられているそうである。

 従来はメソアメリカの他の文明を生みだした「母なる文明」と考えられていたが、現在ではオルメカでモニュメントが作られる以前からメソアメリカのさまざまな地域の間で遠距離交易があって刺激をあたえあい、その中で最も早く文明を形づくったのがオルメカだとする「姉なる文明」説が有力になっているという。

 著者は「姉妹文明」説を踏まえながらも、オルメカには「母なる文明」という面があったのではないかとしている。オルメカ衰退後にメソアメリカ各地で文字と長期暦が同時多発的に発達しており、オルメカに起源があった可能性があるのである。特に文字については2006年にサン・ロレンソ近くのカスハル遺跡でメソアメリカ最古の文字が発見されている。

 文字と暦の起源は置くとしても、オルメカが他地域に先行して政治経済組織を発達させたことは間違いなく、他地域でもオルメカ様式をとりいれた工芸品が作られていた。オルメカの影響は絶大だったのだ。

 次はマヤであるが、『マヤ文明の興亡』の訳者解説に加筆したようなよく似た文章である(ところどころ同じセンテンスがある)。刊行は本書の方が一年早いから、本書のマヤの章を圧縮したのが『マヤ文明の興亡』の訳者解説なのかもしれない。

 コウの『古代マヤ文明』にも書記や絵師、彫刻師の社会的地位が高いことは書かれていたが、著者はアグアテカ遺跡で石器の摩耗痕の調査をおこない、貴族が工芸品を作っていた事実を突きとめている。

 研究の成果としては、第一に、発掘されたすべての支配層住居跡から、美術品および実用品の半専業生産の証拠が見つかり、王家の人びとおよび高い地位の宮廷人をふくむアグアテカ支配層のあいだで、手工業生産が広くおこなわれていたことが明らかになった。男性の支配層書記は、石碑の彫刻や、貝・骨製装飾品や王権の宝器のような美術品の製作をおこなった。支配層の女性も、調理だけでなく、織物や他の手工業生産に半専業で従事した。熟練した支配層工人が生産した、石彫、多彩色土器、貝・骨製品、織物などの美術品は価値が高く、製作活動自体が超自然的な意味を包含したと考えられる。こうした洗練された美術品の製作は、知識教養階層の王族・貴族と被支配層との地位の差異を拡大し、宮廷における権力争いでも重要な役割を果たした政治的道具であったといえよう。

 マヤでは貴族が職人と神官を兼ねていたのである。また焼き畑農業に依存していたというのも正しくはなく、焼き畑と集約型農業を併用していたそうである。

 マヤよりすこし遅れて紀元前500年頃、メキシコ盆地の南に位置するオアハカ盆地の中央にモンテ・アルバンという都市が築かれる。モンテ・アルバンはオアハカ盆地を統一し外部に勢力を広げて紀元後700年頃まで繁栄をつづけることになる。これがサポテカ文明で、「踊る人々」と呼ばれる人身御供にされる戦争捕虜を描いたレリーフやマヤに次ぐ複雑な文字体系を作りあげたが、日本人研究者がいないので日本での知名度は低いということである。

 サポテカ文明がオアハカ盆地の外に進出しはじめた頃、メキシコ盆地の中央でテオティワカンが出現する。テオティワカンの人口は最盛期の紀元後250~500年には20万に近く、ローマをもしのぐ規模だった。モンテ・アルバンとの関係はよくわかっていないが、軍事的に対立していたことはなく友好的な関係だったらしい。

 テオティワカンは黒曜石交易を独占した一大帝国とされていたが、その後黒曜石の大半は域内で消費され、メソアメリカ最大の商業中心地ではあっても、直接統治していた領土はメキシコ盆地に限られていたことがわかっている。

 しかしテオティワカンの権威は絶大で、マヤの王の中にはテオティワカンの衣装をつけた像を作ったりしてテオティワカンとの関係を誇示する者が多かった。テオティワカン人が征服したという説もあったが、被葬者の調査ではマヤ出身であることがわかった。権威づけのためにテオティワカン風の衣装を利用していただけだけのようだ。

 紀元後800年頃になるとテオティワカンとサポテカが相次いで衰退し、メソアメリカは群雄割拠の戦国時代の様相を呈するようになる。その中で頭角をあらわしたのがメキシコ盆地北部にトルテカ人が築いたトゥーラである。

 トゥーラはトルテカ帝国としてマヤまで支配下においていたという説があったが、実際は国際商業都市にすぎなかった。トゥーラを実像以上に持ちあげたのはアステカ人で、トルテカ人との系譜を捏造しトルテカ人の文化を誇張することで自らを権威づけようとした。

 さて最後のアステカだが、貨幣として使われていたカカオ豆の贋物が出回っていたというのには驚いた。カカオ豆の外皮の中に蠟や他の豆の粉を挽いた練り粉や泥を詰めこんであるそうだが、中国人もびっくりである。

 終章ではスペインの征服は従来考えられていたほど完全なものではなく、常に反乱が起こってスペインの統治の及ばない地域が存在しつづけていたこと、先住民は強制された文化要素を取捨選択したり自己流に解釈したりして新たな文化を創造しつづけていたことを指摘している。先コロンブス期の文明は「現代から隔絶したものではない」というのだ。

 先住民のしたたかさを示すエピソードを最後に紹介しよう。アステカがコルテス率いるわずか160人のスペイン遠征隊にやすやすと敗れたのはアステカ人が白人を見てケツァルコアトルの再来と勘違いしたからだという説が広まっているが、これは先住民支配層の捏造だというのだ。

 モクテスマ二世王が、10世紀にトゥーラを追放された、トピルツィン・ケツァルコアトル王の一行が「一の葦」の年にあたる1519年に帰還するという「神話」を信じて、コルテスを神格化したケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇神)の再臨と勘違いしたともいう。これに対して、フロリダ大学のS・ジレスピーは、民族史料を詳細に検討して、アステカ人の王族・貴族が、屈辱的な敗北を正当化するために、「神話」を捏造したことを明らかにしている。

 マヤの都市間の権謀術数を知っている人ならさもありなんと思うだろう。メソアメリカの人々は一筋縄ではいかないのである。

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2011年07月26日

『マヤ文明の興亡』 エリック・S・トンプソン (新評論)

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 本書は1975年に亡くなるまでマヤ学の最高権威として君臨したエリック・S・トンプソンの主著であり、「20世紀最大のマヤ文明のベストセラー」ということである。初版は1954年、第二版が1966年だが、邦訳が出たのは最近で2008年に日本のマヤ研究の第一人者である青山和夫氏によって訳出された。

 第二版からでも半世紀近い時間がたっている。半世紀が短いか長いかだが、この間にマヤ像は一変している。本書の第二版が出版された頃からマヤ文字の解読が急速に進み、碑文から王朝の歴史が読みとれるようになったからだ。今日のマヤ学を代表するマイケル・コウは第二版の出たのと同じ1966年に『古代マヤ文明』を出版したが、現在までに6回改訂版を出している。

 コウの『マヤ文字解読』によると、トンプソンは取りまきとともにマヤ文字の解読の動きを攻撃しつづけ、解読の成果を頑なに受けいれなかった。トンプソンの説は現在では多くが否定されており、本訳書では本文中の現段階で誤りとされている箇所にいちいち脚注をつけ、「その後の調査では……」とか「現在の解釈によれば……」と訂正をおこなっている。さらに巻頭の「訳者序文」ではトンプソンの時代・地域区分を現在の区分の違いを解説し、巻末の「訳者解説」では最新のマヤ文明観を略述している。

 現代のマヤ学の水準から取り残された過去の遺物を青山氏はなぜ半世紀もたってわざわざ翻訳したのだろうか。

 青山氏は困難な野外調査をおこない20世紀前半までのマヤ学を総合したトンプソンの功績を評価する一方、テレビや一般書でおもしろおかしく描かれる「歪められたマヤ文明観」の源流がトンプソンの神秘的マヤ観にあること、20世紀半ばまでのマヤ学がトンプソンに代表される欧米の上流階級出身の趣味的なマヤ学者によってになわれ、彼らの価値観が「神官支配階級と農民の二階層社会」や「農民の反乱による衰退」といった事実にもとづかない解釈を生んだこと、現在のマヤ学がトンプソンの学説との対決を通じて形成されたことを指摘している。いくら過去の遺物とはいっても、議論を細かいところまで理解するには暗黙の前提となっている本書を読んでおく必要があるのである。

 しかし、それだけならマヤ学をこころざす人が原書で読めばすむ話だろう。わざわざ一冊まるごと翻訳したのは青山氏に本書に対するなみなみならぬ思いいれがあったからではないか。本書は注釈を欧米の本のように同じ頁の下部に脚注として組みこんでいる。脚注の方が参照しやすいが、組版に手間がかかるので日本の本ではめったにおこなわれていない。脚注を実現したのは相当なこだわりである。

 わたし自身が本書に興味をもったのはコウが『マヤ文字解読』でトンプソンを愛憎半ばする筆致で描きだし、彼の文体を次のように酷評するのを読んだからだ。

 エリックの発表したものを私が手放しで賞賛しかねる第一の原因は、彼の文章スタイルではないかと思う。彼の学識の深さときたら、並大抵のものではない。論文や本にはいつも、文学や神話からの重々しい引用が詰め込まれている。代表作『マヤ象形文字』では、各章の冒頭に、内容と関係ないイギリスの詩人や散文作家の言葉が引用されているが、私はそれをひどく不快に感じる。そうしたもったいぶった書き方は、わずらわしいだけである。だが、悲しいかな、考古学者、とりわけラテンアメリカの学者には、非常に魅力的にみえるようだ。

 ここまでボロクソに書かれると、逆に読んでみたくなる。本書が3年前に邦訳されていたことを知り、古典というにはまだ早すぎる本をなぜ今訳すのだろうといよいよ興味をそそられた。

 読んでみてわかった。コウは酷評しているが、トンプソンは第一級の文章家であり、ほとんど文学作品のレベルに達しているのである。

 古典期の繁栄の末期に向けて、マヤの諸都市は秋の紅葉のような明るい色合いをなし、その後、落ち葉が落ち始めた。一枚また一枚と、諸都市における様々な活動が停止した。新たな石碑は建立されず、神殿や「宮殿」が建設されなくなった。いくつかの都市では、建設活動が急に停止したために、その上に建物を建てるべく建造された基壇の上に何も建てられずに放棄された。そしてワシャクトゥン遺跡では、最後の建物の壁が未完成のまま残された。マヤ文字の碑文に刻まれた最後の日付から、こうした諸活動が停止した時期を最も正確に推定することができる。
 コパン遺跡では、シャルルマーニュがローマ教皇から西ローマ帝国の帝冠を受けた後800年に、石造記念碑に最後の碑文が刻まれた。

 訳注によればコパン遺跡の最後の日付は822年であることが判明したということであるが、この文章を読むとそれくらいの間違いはどうでもいいという気分になる。

 野外調査を回想した条は神秘とロマンにあふれている。

 小道は南の方へ曲がっていたが、再び熱帶雨林の中に入る急な坂道の前で西に向きを変えた。突然、私たちは畏敬の念を起こさせる光景をちらっと見た。ティカルの大神殿ピラミッド群のうちの4基が、周囲のジャングルの上に聳え立っていたのである。それらは、草木の葉で覆われていた。石灰岩製の古代の神殿を基壇の上に戴き、空を背景に、灰色がかった白色で、まるで頂上に白い雲がかかった緑茂る火山のようだった。私たち「巡礼者たち」は、新世界のカンタベリー市の入口まで来ていたのである。

 トンプソンはティカル入城をチョーサーの『カンタベリー物語』のイメージに重ねて語っている。文学趣味に淫しているといえばその通りであり、コウが論文はヘミングウェイのように簡潔に書くべきだといまいましげにいうのもわからないではないが、文学畑の人間としてはトンプソンのスタイルに魅せられるのも事実だ。勝手な推測だが、青山氏が本書をわざわざ日本語にしたのもトンプソンの文章に惚れこんだからではないだろうか。

 コウが批判するトンプソンのマヤ文字観はどのようなものだったろうか。

 マヤ文字の研究は、今や不確定で欲求不満の段階にある。一部の学者たちは20世紀の半ばから、解読の鍵を見出したと主張しているが、その方法や結果は一致しない。ある1つの文字素について、碑文研究者の数だけ解読があり得る。マヤ文字は部分的に音節文字であり、アルファベット的であるという主張がなされているが、これは承認し難い。遠く離れたシベリアでコンピュータ解析が行われ、この説が提示されているが、コンピュータはソーセージ製造機のようなものである。

 「欲求不満」は「挫折」と訳すべきだろう。1960年代前半の時点で碑文学者の数だけ解読があるような状態だったかどうかはわからないが、「遠く離れたシベリア」とは明かにレニングラードのクノローゾフを指している。レニングラードをシベリア呼ばわりとはひどい言い方だが、トンプソンはクノローゾフの名前をまったく出さずにコンピュータが自動的に解読したかのような揶揄的な書き方をしている。なまじ文才があるだけに印象操作はお手のものだ。

 しかし多くの間違いと偏見を含んでいるにしても、本書は読みふけらずにはおれない本である。神秘とロマンのマヤという古いマヤ観を悪魔祓いするためにも、本書の翻訳は意義があるだろう。

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2011年04月29日

『声と文字』 大黒俊二 (岩波書店)

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 カロリング・ルネサンスのはじまった8世紀末からグーテンベルク前夜の15世紀前半まで、700年余の口語と文章語の関係を跡づけた本である。本書は岩波書店から出ている「ヨーロッパの中世」シリーズの一冊で、著者の大黒氏は中世イタリアを中心に商業史を研究している人だそうである。

 これまで口語と文章語の関係というと11世紀に焦点をあわせた研究が多かった。11世紀以降文書の量が急増したことは諸王の文書発給数や書記局の蠟の消費量の推移などの統計でも裏づけられている。文書が増えるにしたがい書体も変化した。一文字一文字わけて書く丸っこいカロリング小文字体に代わって速書きのできるゴツゴツしたゴシック体が一般化した。11世紀は声中心社会から文字中心社会への変わり目にあたり「大分水嶺」とも呼ばれてきた。

 ところが本書は300年早いカロリング・ルネサンスを出発点に選んでいる。なぜ8世紀末なのか? 文章語に一大変革が起こり、口語との乖離が決定的となったのがこの時代だからである。

 ローマ帝国滅亡後、帝国の北辺では蛮族の話すゲルマン語が主流となったが、ガリア(フランス)より南では依然としてラテン語が話されていた。時代がくだるにつれラテン語は崩れイタリア語、フランス語、スペイン語等々にわかれていくが、聖職者が説教や典礼で用いるラテン語は民衆もある時点までは理解することができた。

 ラテン語がいつ民衆の理解できない言葉になったのかについては諸説があったが、現在では8世紀後半の数十年という短い期間に決定的な変化があったという見方が定説になっている。その直接の契機となったのがカロリング・ルネサンスである。

 民衆の日常語が変化していくと聖職者の話すラテン語も影響を受け、文章語としてのラテン語も徐々に変化していった。それはラテン語が崩れるということでもある。

 西ヨーロッパを統一しキリスト教の権威で統治していこうとしたシャルルマーニュは正しい教えを守るためにラテン語改革に乗りだした。聖職者のラテン語が乱れ地方地方で異なるようになったら何が正しい教えかわからなくなるからだ。

 シャルルマーニュはアーヘンの宮廷に学者を集めて正しいラテン語を定めるとともに、各修道院・各教区に学校を設立させ教育に力をいれた。聖書や典礼書の写し間違いは異端を産みかねないので学者にテキストを校訂させ、正確な写本を生産する体制を整えた。

 ラテン語の記法も一変した。各地で自然発生的に生まれていた小文字体を読みやすく洗練されたカロリング小文字体に統一し、見出しはローマ方形大文字体、本文はカロリング小文字体という使いわけを創始し、単語の分かち書きを広めた。大文字だけで切れ目なく書かれていたラテン語は格段に読みやすくなった。

 その一方、ラテン語の純化は民衆語との断絶を決定的にした。民衆語はラテン語とつながりを失って独自の発展を加速し、イタリア語やフランス語、スペイン語等々に分化していった。

 本書の後半は大分水嶺以降を描くが、著者が注目するのは俗語の読み書き能力である。今日の感覚ではわかりにくいが、当時「文字を知る」とはラテン語が書けることを意味した。大量の手稿を残したレオナルド・ダヴィンチが終生「文字を知らない」と自認していたことからわかるように、俗語の読み書き能力はリテラシーには含まれていなかった。「文字を知らない」人の読み書き能力には幅があって、ラテン語の読みだけができる人や俗語の読み書きができる人、俗語の読みだけができる灯とまでをも含んでいたのだ。著者はこうした読み書き能力を「実用的リテラシー」と呼んで狭義の(ラテン語の)リテラシーと区別している。

 中世後期の俗語のリテラシーとなると山本義隆氏の名著『一六世紀文化革命』と重なってくるが、著者は山本氏の本を意識して話題を取捨選択しているような印象を受ける。これはわたしの勘ぐりすぎなのかもしれないが、山本氏がとりあげている科学書などの話題は等閑視する代わりに、山本氏があまりふれない商業革命や説経師の俗語の説教については多くのページをさいているようなのだ。

 意図したことなのかどうかはわからないけれども、本書は山本氏の『一六世紀文化革命』と補完しあう関係にあるようだ。同書とあわせ読むことによって中世の文章語の世界がより立体的に見えてくるだろう。

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2011年04月28日

『ギリシア・ローマ時代の書物』 ホルスト・ブランク (朝文社)

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 ホメロスの叙事詩が筆記されはじめた頃からローマの公共図書館が荒廃に帰すまでの千年間の書物の歴史を描いた本である。著者のホルスト・ブランクは考古学と文献学を学んだ後、ローマにあるドイツ考古学研究所附属図書館に司書として勤務している人だそうである。

 ギリシア文字とローマ字の起源から書き起こし、古代人の読み書き能力、古代の書写材料と項目がならぶのを見て総花的な本かなと思ったが、読んでみると総花的というより体系的・網羅的な本だった。ドイツ人の几帳面さがいい意味で発揮されていて、現在わかっている限りの知識はすべてここに集められているのではないかという気がしてくる。

 文字の歴史についてはそれなりに月謝を払ってきたつもりだったが、ギリシア数字に先んじてアッティカ方式と呼ばれる数字記法があったとは知らなかった。文字は奥が深い。

 古代の書写材料については無機書写材料と有機書写材料に大きくわけ、無機材料は陶片、漆喰、青銅と鉛の板、錫と銅の巻物、有機材料は木材・布(木簡、蠟引板、樹皮本、布本)、パピルス、羊皮紙を列挙し、それぞれの長所短所と使い方、出土例を解説している。

 古代人の読み書き能力については喜劇に文字が読めることを前提にしたギャグがたくさん出てくることを根拠に前5世紀のギリシアでは読み書き能力は一般化していたと推定している。陶片追放の陶片の筆跡や壺絵のような出土物を中心とする議論が多かっただけに、喜劇に目をつけるとはさすがだ。ローマ帝国でも同様で3世紀頃までは読み書きできるのが普通だったという。そんなのは市民階級だけじゃないかという人がいるかもしれないが、奴隷でも読み書きはできた。なみの市民よりも学識のある学問奴隷までいて、ローマの上流階級は学問奴隷を何人も召しかかえていた。蔵書管理係や写本製作係、朗読係、暗唱係までいた。

 ソクラテスが登場した前5世紀にはギリシア人の交易範囲のすみずみまで本がゆきわたっていたらしい(ソクラテスの弟子のクセノポンはトラキア沿岸で座礁した船の積荷に大量の本が含まれていたことを報告している)。前4世紀になると本の売買に関する記述が格段に増え、珍しい本に大金を積んだという話がよく出て来るそうだ。ギリシア語を記した最古のパピルス断片はこの時代のものである。

 ローマ時代になると著者の活動がかなり詳しく記録されており、売れる著者はすぐに本屋が見つかったが、売れない著者は書写を引き受けてくれる本屋を探すのに苦労したそうだ。本の盗難や略奪(本は重要な戦利品だった)、焚書の話も出てくる。

 後半は図書館の話になる。古代ギリシアには誰でも利用できる図書館はまだなかったようだ。本を集めるのに熱心な僭主は何人も出たが、市民に蔵書を公開することはなかった。プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンに大量の蔵書があったのは確実だが、学員と弟子しか利用できなかったらしい。

 ヘレニズム時代になるとアレクサンドリアにムセイオンと呼ばれる図書館がプトレマイオス朝の国策として作られるが、ムセイオンの蔵書は一般公開はされていなかった。その代わりセラペイオンという一般公開をする別の図書館が作られていた。ムセイオンが母、セラペイオンは娘の関係とされたが、セラペイオンはムセイオンよりも120年長くつづいたという。

 誰もが利用できる図書館が大々的に作られるのは帝政ローマになってからである。そもそもはカエサルの発案だったが暗殺のために果たせず、カエサルの側近だったガイウス・ポッリオが実現した。カエサルの甥で初代皇帝となったアウグストゥスはギリシア語文庫とラテン語文庫を別々の建物とする大規模な公共図書館をつくり、以後、歴代の皇帝や富豪は人気とりに図書館を寄贈するのが習わしとなった。おもしろいのはトラヤヌス浴場やカラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場のような公共浴場に図書館が併設されたことだ。

 今日の感覚からすると公共浴場に図書館をつくるのは奇異な印象を受けるが、公共浴場がギリシアのギュムナシオン的な教育の場でもあったとしたなら不思議ではないだろう。もっとも時代がくだるにつれて娯楽の比重が高まっていくわけだが。

 公共図書館には学術管理者(図書館長に相当)と事務管理者(事務局長に相当)という役職が設けられた。学術管理者には解放奴隷が任命されることもあったが、事務管理者は騎士身分限定でダキア属州総督の年俸が20万セルティウスの時にトヤラヌス浴場図書館の事務管理者は6万セルティウスだった。

 本の貸出サービスは原則としてなかったので公共浴場のロビーで本を読むことになるが、とすると音読ではなく黙読していた可能性が高い。

 写本の時代であるから本の絶対数は限られていたが、古代の人々は予想以上にゆたかな読書生活を送っていたようである。

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2011年04月26日

『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』 箕輪成男 (出版ニュース社)
『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』 箕輪成男 (出版ニュース社)

近世ヨーロッパの書籍業
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中世ヨーロッパの書物
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 著者の箕輪成男氏は東京大学出版会をへて国連大学、愛知学院大学、神奈川大学などで教鞭をとった人で、日本出版学会会長、国際学術出版協会会長を歴任しておられる。ヨーロッパの出版史について『パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち』、『紙と羊皮紙―写本の社会史』、『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』、『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』の四部作を上梓しておられ、類書のすくない分野なので読んだ方も多いと思う。

 わたしは当初四部作を全部読むつもりで、まずグーテンベルクをあつかった『近世ヨーロッパの書籍業』を手にとった。最終巻だからか話はあちこちに飛んでとまどったが、14世紀から15世紀にかけてのロンドンの書籍商の数の推移とか、北イングランドの遺言の調査による本の分野別冊数、英国に現存する236点の写本の装飾の有る無しを分野別で調査した表など興味深い統計がたくさん紹介されている。統計だけでも本書は買う価値があるかもしれない。

 ただし歴史叙述となると首をかしげる箇所がすくなくなかった。著者のグーテンベルク評価は著しく低く、裁判関係の史料しか残っていないことをもって「人間関係がうまくいかない心の狭い人」としている。確かにしょっちゅう裁判沙汰になっていたような印象があるが、数字で同時代人と比較しないと説得力はうまれないのではないか。

 またグーテンベルク聖書の仕上がりの検討もなしに「技術は大したことはなく」、「印刷技術のオタクにもなれず、経営者にもなりきれない、融通のきかない貴族家系につながる夢想家にすぎなかった」と断定するのはいかがなものか。わたしが読んだ範囲ではグーテンベルクは偏執狂的に技術にこだわって採算を度外視するようになったために出資者のフストが不安になり、資金の回収という強硬手段に出たという見方の方が多かった。

 箕輪氏は活版印刷の誕生に係わったグーテンベルク、フスト、シェッファーの三人はユダヤ人だったとされている。箕輪氏は書いている。

 もうひとつ勝手な妄想を許してもらえば、グーテンベルクとユダヤ人の関係がある。ディアスポーラで西欧各地に流れたユダヤ人は不安定な社会的立場から農地入手は魅力的でないため、医者、法律家など知的職業人や商人・金貸しになった。手工業に従った者も多く、金属細工はそのひとつだった。彼らは差別的にそれとわかる苗字を与えられた。印刷・出版史書に書かれていないようだが、上記のシェッファーは間違いなくユダヤ人だろう。シェッファーと綴っているが、シッファー・船頭である。筆写の国連大学時代の同僚にこの名前をもつユダヤ人がいた。そう考えるとグーテンベルクもまたユダヤ的な名前だ。「よい山」だ。これは住んだ屋敷の名前というが、それこそユダヤ人の住みついた町、区域だったのではないか。しかも金属加工はユダヤ人の得意とした稼業である。一方の登場人物フストは銀行家とあるが、宗教上利子をとれないキリスト教国でユダヤ人が金貸し業を営んだことは周知の事実であり、それを今風にいえば銀行家ということになる。

 シェッファーについては材料をもっていないが(わたしの知る限りではシェッファーをユダヤ人と決めつけているのは箕輪氏だけである)、すくなくともグーテンベルクとフストについてはユダヤ人説は無理があると思う。

 まずフストであるが、箕輪氏はフストは銀行家であり、キリスト教徒に許されていないとされる利子をとったことからユダヤ人としている。

 だがジョン・マンの『グーテンベルクの時代』によればフストは鍛冶屋ギルドの親方であり、本業のかたわら写本流通を手がけていた。弟のヤーコプはマインツ市議会の議員兼出納役という名士である。フストが金貸しをしていたかどうかだが、グーテンベルクとフストの裁判については「ヘルマスベルガー法律文書」という一級史料が残っており、富田修二氏の『グーテンベルク聖書』の65ページから71ページにかけて全訳が掲出されているのでそこから引こう。

 彼(フスト)はいずれにせよ、グーテンベルクを満足させることを望み、上記の八〇〇グルデンに追加してさらに新たな八〇〇グルデンを、その義務がないにもかかわらず彼のために借り入れたのであった。またそのため彼は、グーテンベルクのために借り入れた新たな八〇〇グルデンに対する利息として、一四〇グルデンを払わねばならなくなったのだ。そして、上記のヨハン・グーテンベルクは、上記の文書において、彼に対し最初の八〇〇グルデンについて一〇〇グルデン当たり六グルデンを利息として払うと誓ったにもかかわらず、それに続くいかなる年にもこれを支払わなかったため、彼(フスト)は自らそれを支払わざるを得なくなり、その金額は、低く見積もって二五〇グルデンに達したのである。ヨハン・グーテンベルクはその利息、すなわち、最初の八〇〇グルデンに対する利息の支払い、またそれに続く追加の八〇〇グルデンに対する利息もまったく決済しなかった。そこでフストは、さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の間でその利息額を募り、低くみても三六グルデンを払いきらねばならなかった。これで、元金との合計額は約二〇二〇グルデンに上る。そこでフストは、グーテンベルクに対し、事態の収拾とフストの損害に対してその時点での全額を払うことを要求する。(富田修二訳)

 フストは1600グルデンを自己資金で用立てることができず、借金してグーテンベルクに提供していたのである(自己資金がまったくなかったかどうかについては議論があるようだ)。1600グルデンはジョン・マンによれば30万ドル(約2500万円)、箕輪氏によれば3200万円に相当する。この程度の金額を借金するようでは金貸しはできないだろうし、銀行家であろうはずはない。

 他から借金したという申し立ては利息をとったことの言い訳だとする見方もあるが、そうだとしたらユダヤ人説の反証となる。ユダヤ人なら利息をとるのに言い訳は必要ないからだ。

 グーテンベルクであるが、箕輪氏は「グーテンベルクの歴史において「ユダヤ」「ユダヤ人」のひとことも出てこないのはむしろ不自然で、作為を感じる」と書いておられるが、はたしてそうだろうか。グーテンベルクという苗字のもとになったグーテンベルク邸は最初は「ユーデンベルク」(ユダヤ人の丘)と呼ばれておりユダヤ人が所有していた。ところが1282年にマインツで起きたユダヤ人追放で大司教出納役の所有になってグーテンベルク邸に改められ、その後われらがヨーハンの玄父フリロが購入したという経緯がある。ゲンスフライシュ(鵞鳥の肉)という別の苗字や巡礼者をかたどった家紋についてもジョン・マンの本に考証があるので興味のある方は御覧になるとよい。

 箕輪氏はグーテンベルク家は金属細工の技術をもち貨幣鋳造に係わっていたからユダヤ人だとしておられるが、貨幣鋳造はマインツの都市貴族に許された特権だったから、そんなことをいったらマインツの都市貴族はみなユダヤ人ということになってしまう。

 箕輪氏はグーテンベルク聖書の功績はシェッファーに帰せられるべきでグーテンベルクは何もしていないと述べておられるが、よりどころとしているのは1970年代の本でハイテクによる最近の研究は参照していないようだ。

 箕輪氏はグーテンベルクが活版印刷術の発明者だという定説についても「疑問だらけ」とされている。

 グーテンベルクはその後有名になったためその印刷技術創始者としての地位を確かにしているかに見えるが、事実はそれほど単純ではなさそうだ。印刷創始者としてはグーテンベルクの他に例えばオランダ・ハーレムのローレンス・ヤンゾーン・コスターなど何人もの人がノミネートされており、一八世紀から始祖争いの論争が続いている。対抗馬の方の根拠とする証拠がこれまた乏しいために、グーテンベルクのほうが優勢だが、実は疑問だらけである。

 箕輪氏が真の発明者の候補としているローレンス(ラウレンス)・コスターについては富山修二氏は「彼の架空の業績の偽りの詳細が、まったく議論の余地もないほど反証されたのはこの一〇年のことである」として『グーテンベルク聖書の行方』209ページ以降に詳述している。興味のある方はそちらを見られたい。

 次に『中世ヨーロッパの書物』であるが、アイゼンステインの『印刷革命』を批判して写本文化と印刷文化の連続性に注目した狙いは重要であるが、アイゼンステインはそんなに単純な議論はしていないと思う。

 本筋とは関係ないが、イエスを「文盲」としたりキリスト教の教父を仏典の伝訳者に相当するとして長々と比較論を述べるのはいかがかと思う。福音書を読めばわかるようにイエスは文盲であるわけがないし、仏教で教父に相当するのは龍樹や世親のような論師と呼ばれた理論家であって、伝訳者をもってくるのは無理がありすぎるだろう。

 最初は四部作全部を読むつもりだったが、わたしは二冊で読むのをやめた。出版社の経営にかかわった人の書いた出版史として興味深い視点も見られるが、読むには批判精神が必要な本だと思われる。

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2011年04月25日

『印刷革命』 アイゼンステイン (みすず書房)

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 活版印刷術の登場によってヨーロッパ社会がこうむった根本的な変化を研究した本であるが、「印刷革命」という表題は誤解をまねくかもしれない。本書の執筆のきっかけはマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(1962)だったという。アイゼンステインは印刷術が人間の経験を解体し認識能力をも変容させてしまったとする『グーテンベルクの銀河系』の主張に衝撃を受け、本当にそのような変化が起ったのか、印刷術の実際的な影響とはどのようなものだったのかを知ろうとセカンド・オピニオンを探したが案に相違して印刷術と社会の変化の関係を調べた本は皆無だった。そこで自分で調べはじめ1979年に『The Printing Press as an Agent of Changes』という浩瀚な研究を上梓した。本書は同書を一般読者向けに要約したものである。

 印刷術はなるほど革命だったが、口承文化から文字文化への移行ではなく(黙読が印刷術によってもたらされたとするマクルーハンの断定は現在では疑問視されている)、筆写という文字文化から印刷というもう一つの文字文化への移行であり、その変化は漸進的なものだったというのが著者の見解のようである。

 これは印刷術の最大の功績は文書の蓄積力にあったとする見方からきているだろう。筆写の時代は文献が後世に残るか残らないかは偶然に左右されるところが多かった。書き写される数がすくなければ本は簡単に失われた。たった一冊の写本でかろうじて伝わった図書もすくなくない。印刷はこの状況を変えた。他愛のない記録でも桁違いの数の複製が作られたために容易に後世に残り、文献がどんどん蓄積されていったのだ。

 書籍の入手ははるかに手軽になった。中世の修道院では本は修道士の献身的な労働によって作られた貴重品であり、書棚に鎖でつながれていた。『薔薇の名前』に描かれているように、写本の時代には一冊の文献を見せてもらうために山奥の修道院まで旅をするのは当たり前のことであり、わざわざ出かけていっても書庫係の一存で見せてもらえないこともあった。見せてもらったとしても必要な箇所は自分でいちいち筆写しなければならなかった。ところが印刷術によって本は格段に身近になり、学生でも本を個人所有することができるようになった。筆写のための奴隷労働は不要になり、多種多様な文献がどんどん蓄積されていった。本には表題と索引がつき(写本の時代はページの区切が一定しなかったので索引は無意味だった)、図書館ではアルファベット順に本がならべられ(修道院の図書館は書庫係の個人的な流儀で分類された)、図書目録をはじめとする書誌学的資料がつくられ文献探しが簡便になった。

 学問の発展、なかんずく自然科学の発展には印刷術は決定的な影響をおよぼした。科学革命の端緒をつくったコペルニクスにしてもさまざまな記録類にアクセスできるようになったことが重要だとアイセンステインは指摘する。

 コペルニクスの誕生する少し前から、図書の生産方式に現実に起こった革命が、天文学者の利用しうる学術書や数学諸表に影響を及ぼし始めていた。たとえば、一四八〇年代にクラクフ大学の学生だった青年コペルニクスにとっては、おそらくプトレマイオスの『アルマゲスト』を一目でも見ることは――たとえ誤記の多い中世ラテン語写本であれ――むずかしかっただろう。しかし彼は亡くなるまでに三種類の刊本を入手している。さらに、一五六〇年になると、コペンハーゲン大学の学生だったティコ・ブラーエは十四歳にしてプトレマイオスの全著作を買うことができ、その中には『アルマゲスト』のギリシア語からの全訳の改訳も含まれていたのである。ほどなくライプツィヒ大学に転じたティコは、まだやはり十代の若さで、当時のコペルニクスの主著に基づき計算されたばかりの『プロシア表』を入手している。一四八〇年代からそれまでの間に天文学に影響を及ぼすような「目新しい観測」は一つもなされてはいない。ただ、過去の観測記録を伝達する方法に大変革が起ったのである。

 コペルニクスの『天体の回転について』が出た時点では天体の推算表は『アルマゲスト』の学説にもとづく「アルフォンソ表」一つしかなかったが、百年後、ガリレイの時代には六系統の推算表が競合し、どの表が正しいか多くの天文学者が各地で一斉に同時観測をおこなっていた。百家争鳴の観を呈したさまざまな書物のうちどれが正しいかは自然という偉大な書物に照らして判定された。古代の学説の権威は失墜した。

 自然科学以外の分野でも古代の権威は揺らぎだした。写本の時代は学問の進歩は失われた叡智の探求という形をとったが、印刷の時代になると多数の文献を相互比較できるようになり、矛盾が目につくようになった。世に知られていなかった古典の出版が進むにつれ古代哲学には想像以上に多くの学派があることがわかった。歴史的な事件にもさまざまな伝承があり、史料が蓄積されればされるほど伝承間の齟齬は際立つようになった。


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2011年04月23日

『ルネサンスの活字本―活字、挿絵、装飾についての三講演』 ゴールドシュミット (国文社)

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 活版印刷術の登場によって写本の時代は終わったが、二千年以上つづいた写本の文化は一朝にして廃れたわけではなかった。最初の五十年間、揺籃期本インキュナブラの時代には依然として写本の方が格が高く、活字本は写本を真似ようとしていた。グーテンベルク聖書は未製本のまま葡萄酒の空樽にいれて運ばれ、写本の装飾職人によって朱文字や飾り文字、装飾が描きこまれてから製本されたが、揺籃期本の多くは同じ工程をへて完成した。わざわざ活字本を筆写して写本を作るなどということもおこなわれていた。

 写本から活字本への交代は一筋縄ではいかないが、本書はこのひと捻りもふた捻りもある歴史を活字、挿絵、装飾という三つの視点から概観している。著者のゴールドシュミットは書誌学者として知られるが、ケンブリッジ大学卒業後、大学には残らずロンドンで稀覯本専門の古書肆を営んだ人で、彼の編纂したカタログは現在でも重要な資料となっているという。本書は1947年から48年にかけてアメリカに招かれたおりにおこなった一般向けの講演がもとになっている。写本や揺籃期本に囲まれて生活している人だけに平明な語り口ながら書巻の気が悠々迫らぬ風格を生んでいる。

 印刷の歴史がねじれた理由の一つは活版印刷術がルネサンスの本場であるイタリアではなく、中世の遺風の残るドイツで誕生したことにあるだろう。しかも活版印刷術という新しい革袋を最初に満たしたのはウルガタ聖書という古い酒だった。グーテンベルクが最初の活字の書体として針のように尖った中世そのままのゴシック体を選んだのは偶然ではなかったのである。

 イタリアの人文主義者は写字生の使うゴツゴツしたゴシック体を無知蒙昧と唾棄し(野卑ゴシックという呼び方がそもそも蔑称だった)、古代ローマの碑銘に範をとった丸みをおびて優雅なローマン体を好んだ。ローマン体は人文主義書体と呼ばれ、古典古代の本をローマン体で筆写して写本を作ることは真の修辞学や詩に捧げられる敬虔な行為と見なされ、ローマン体を美しく書く能書術カリグラフィーは上流階級のたしなみとされた。15世紀前半は写本芸術が最後の花を咲かせた時代であり、文芸の保護者を任ずる王侯貴族は自邸内に能書家を集め豪華な写本を作らせた。

 そこに活版印刷術が闖入してきたのである。ゴールドシュミットは書いている。

 しかし、活版印刷技術が一四五〇年頃発明されたので、人文主義書体で書かれた美しい写本を所有する流行は短命に終わらざるを得なかった。もっとも、人文主義書体で筆写されたルネサンスの写本芸術が続く限り、本当に熱狂的な写本愛好家はいかなる印刷本も所有することを拒んだという。というのも、彼らはそれらの刊本が、写本を模倣した安っぽくて、劣悪な代用品だと考えていたからである。彼らはむしろ、印刷本を美しい手書きの書体で筆写した写本のほうに喜んで大金を投じようとすらしたが、そのせいか、そうした写本はかなりの部数が残されている。

 グーテンベルク聖書から十年ほどたった1467年、人文主義者でもある教皇パウルス二世の庇護のもとローマにドイツ人の印刷職人が招聘され、ギリシア・ローマの古典の印刷をはじめるが、彼らがまずおこなったのはローマン体活字を鋳造することだった。ローマにつづいてヴェネツィアやミラノでも活版印刷がはじまったが、そのいずれもがローマン体活字を使った。

 ところが人文主義的な著作を買う人は限られていたのでたちまち供給過剰におちいり、多くの印刷所が閉鎖された。生きのびた印刷所は中世の延長で需要の見こめる宗教書や法律書に活路をもとめ、市場にあわせてゴシック体活字に転向した。

 ローマン体活字からゴシック活字への転向という迂路はパリでもくりかえされた。パリは世界屈指の大学があり大量の書籍需要が見こめたが、「福音書記者聖ヨハネ職業組合」という写字生の強力なギルドが頑張っていたために活版印刷の進出が遅れていた。1470年、パリ大学の有力な人文主義者二人がパトロンとなり、バーゼルから三人の印刷職人を招聘し、治外法権であるパリ大学学寮内に秘密に印刷所を設け、キケロのような古典やピウス二世の人文主義的な著作などをローマン体活字で次々と出版させた。ところが2年後パトロンがローマに去ったために印刷職人は自力で市場を開拓しなければならなくなり、神学書や祈祷書の出版に転じた。最初はローマン体活字を使ったが、ゴシック体活字に切り換えてからは好評を博し、他の業者も参入して一大出版都市となった。

 こうしてローマン体活字は一時の流行として消えさるかに見えたが、16世紀にはいると人文主義が最終的に勝利しローマン体活字が復活をとげたという。書体にこんなドラマがあったとは知らなかった。

 次は挿絵であるが、これも中世の写本文化に淵源している。14世紀のゴシック期のフランスでは騎士道物語が流行し、ロマンスの情景を活写した細密画を多数あしらった豪奢な装飾写本が作られた。騎士道物語はイタリアや英国、フランドルでももてはやされたが、言語はつねにフランス語だった。中でも15世紀に繁栄の頂点をむかえたブルゴーニュ公国では立派な装飾写本が製作され、ブルゴーニュ様式というべきスタイルが生まれた。

 活版印刷発明後20年ほどすると活版に木版画を組みこむ技術が開発され、挿絵いりの本が1493年に学生向けのラテン語読本に挿画が使われるまではすべて俗語の本に限られていた。ギリシア・ローマの古典を尊ぶ人文主義者は挿画いりの本を無学な読者向けと馬鹿にしていたからである。

 1480年代にはいると騎士道物語を読んでいた貴婦人たちがギリシア・ローマの古典を読みたいと望むようになり、俗語訳が盛んに出版されるようになった。古典の俗語訳には挿画がはいったが、ギリシア・ローマの英雄たちが15世紀の衣装で描かれ、またしても人文主義者の失笑を買った。人文主義者は遺跡で発掘された彫刻からギリシア・ローマの風俗に通じていたが、時代考証にそった挿画が描かれるようになるには16世紀を待たなければならなかった。

 人文主義者は挿画は馬鹿にしたものの、絵を本にいれることをすべて拒否したわけではない。扉ページを飾る図案や出版業者の商標としてなら受けいれたのである。

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2011年04月21日

『グーテンベルクの時代―印刷術が変えた世界』 ジョン・マン (原書房)

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 『人類最高の発明アルファベット』を書いたジョン・マンによるグーテンベルクの伝記であるが、おそらく決定版といっていいだろう。富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の第二章の伝記と8ページの年譜、高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』の略伝部分をあわせ読めば生涯のあらましはたどれるが、わたしのように中世ドイツの知識のない者はあちこちでつまづいく。

 グーテンベルク家は貴族だったが、われらがヨーハンは母方の祖父が貴族でなかったために貨幣鋳造のギルドにはいれず、その屈辱が発明の原動力となったとされている。しかし貴族がギルドにはいるなどということがあったのだろうか?

 マインツでは貴族と市民の抗争が激化し、市民が虐待の報復として貴族の邸を破壊したのでグーテンベルク家のマインツから避難しなければならなくなったとされているが、貴族が市民を「虐待」とはどういうことか?

 グーテンベルク家のもともとの姓はゲンスフライシュだったが、マインツに「グーテンベルク」という名の邸を手にいれたので、別の家系から手に入れた「ラーデン」とあわせてゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクと称するようになり、略してグーテンベルクと呼ばれるようになったとある。するとゲンスフライシュとグーテンベルクは日本の姓と苗字のような関係なのか?

 われらがヨーハンの聖書刊行プロジェクトに事業家フストが出資したとあるが、15世紀に「事業家」がいたのだろうか? そもそもフストとは何者なのか?

 印刷業の中心都市となったマインツは1462年にアドルフ二世による劫掠を受け、それを機に職人が各地に散って印刷術が普及したとされるが、このアドルフ二世は3年後われらがヨーハンを宮廷従者に任じ年金をあたえている。アドルフ二世というから王様なのだろうが、どこの王様なのか?

 ほかにも理解に苦しむ記述がたくさんあり、わたしのように中世史を知らない人間は考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。

 こうした疑問は本書を読んでほとんど氷解した。ジョン・マンは歴史作家らしく15世紀のドイツ社会とマインツを細密に描くことからはじめる。グーテンベルクに関する史料はほとんどが裁判記録だが、裁判記録を正確に読みとくためには遠回りのようでも搦手からの接近が必要なのだ。背景がはっきり見えてくればグーテンベルクの姿もおのずと明確となる。

 まずわれらがヨーハンの三つの名乗り、ゲンスフライシュ、ラーデン、グーテンベルクだが、すべて邸の名称だった。姓か苗字かということなら、三つとも苗字に相当する。

 この時代は由緒正しい貴族以外のファミリー・ネイムは確立しておらず、所有する領地や邸の名称がファミリー・ネイムの代わりをした。日本の苗字のようなものだが、苗字と異なるのは、領地や邸を手離したなら血統的には何の関係もない新しい所有者がその名乗りを引き継いだことだ。契約によっては前の所有者がひきつづき元の名乗りを使いつづけることもなくはなかったが、原則としてはそうである(時代はくだるが、デカルトはペロンの領地を手離した後もルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗りつづけた)。所有する領地や邸が増えれば、ゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクのように名乗りが長くなっていった。ある一族の名乗りが途中で変わったり、まったく別の一族が同一の名乗りを用いていたりすることが普通にあったのである。

 グーテンベルク家は富田氏は「貴族」、高宮氏は「都市貴族」としているが、ジョン・マンは「有力者」と呼んでいる。マインツの地主層百家族ほどがこの「有力者」にあたり、本人たちは「一族ゲシュレヒター」、「旧家アルテン」と称した。さまざまな独占取引権や免税権、マインツ市から年金を受けとる権利などの既得権をもっていた。マインツ大司教から称号をもらっていたから貴族といっても間違いではないが、近世以降の歴史しか知らない人間が思い浮かべる貴族とはかなりちがうようである。

 称号の一つに「造幣所勲爵士」があった。マインツ市は皇帝から貨幣の鋳造を認められていたが、貨幣の鋳造に係わるには父方母方両方の祖父母がすべて「有力者」の出身でなければならないという制約があった。われらがヨーハンは母方の祖父が内乱で没落した旧家の出だったので「造幣所勲爵士」にはなれなかった。

 「有力者」は市に一時金を支払うことで、毎年その金額の5%を受けとることができるという年金の権利をもっていた。これがマインツ市の財政を逼迫させた。マインツ市を実質的に支える職人層にとって、免税特権を楯に税金を払わず、過去の一時金の対価だけを要求しつづける「有力者」はマインツ市にとりついた寄生虫だった。職人層を束ねるギルドと「有力者」は階級的に対立していたのだ。ギルドとの対立からグーテンベルク家がマインツを追われた頃、マインツ市の収入の40%は「有力者」への年金に消えていたという。

 われらがヨーハンの兄は「有力者」の特権を放棄してマインツにもどり市の幹部になるが、ヨーハンの方は青年時代を他の都市を遍歴してすごしたようだ。長くいたのはストラスブールで金細工師として生計を立てていたらしいが、戦争の危険が迫ったためかストラスブールを離れ、マインツにもどってくる。

 マインツにもどったわれらがヨーハンはグーテンベルク邸に居を構え、親戚から借金して活版印刷をはじめていたが、端物の印刷で技術を磨くという段階だったようだ。

 われらがヨーハンは50歳を越えてからいよいよ聖書の印刷に乗りだすが、出資してくれたのはヨーハン・フストという鍛冶屋ギルドの親方だった。フストは写本や木版本の商いも手がけており、活版印刷という新しい技術に関心があったのだろう。

 フストが出資した額は1600グルデン(現在の価値にして2500万円)で、裁判では全額を借金して用立てたと証言しているが、ジョン・マンは借金したというのは利息を正当化するための口実で、実際はかなりの部分が自己資金ではなかったかと推測している。

 聖書の完成直前フストが訴訟を起こし、われらがヨーハンから刷り上がったばかりの42行聖書と印刷工房をとりあげたのは御存知の通りだ。フストはヨーハンの弟子だったペーター・シェッファーに工房をまかせ後に娘婿とするが、ジョン・マンによるとシェッファーはもともとフストの養子であり、フストの命令で工房にはいったのだという。

 さてアドルフ二世だが、アドルフ・フォン・ナッサウといい、マインツ大司教だった。マインツ大司教が自分の支配する街を略奪するとはどういうことか。

 これにはローマ教皇がらみのややこしい事情があった。マインツ大司教は公爵と選挙候を兼ね、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を司るという栄職だったが、聖職なので世襲はできず選挙で選ばれた。

 1459年ディータ・フォン・イゼンブルクは教皇ピウス二世の支持を受け、アドルフ・フォン・ナッサウに一票差で勝ち、マインツ大司教位につくが、運上金問題で教皇と揉め、ディータは選帝侯会議を召集して教皇のドイツ干渉を非難するようになる。教皇はディータを退位させ、対抗馬だったアドルフ・フォン・ナッサウを新たなマインツ大司教に指名する。マインツは皇帝が推すディータ軍と教皇が推すアドルフ軍が戦う戦場と化したのである。

 この時史上初の活版印刷によるプロパガンダ合戦がおこなわれる。ディータ側のプロパガンダを印刷したのはわれらがヨーハン、アドルフ側の印刷を請け負ったのはヨーハンから聖書と印刷工場を奪ったフストとシェッファーだった。

 戦いはアドルフ側の勝利で終わる。マインツはアドルフ軍の略奪にまかされ、アドルフ側についた市民もすべてを奪われて市外に放逐される。

 アドルフ・フォン・ナッサウは正式にマインツ大司教に就任するが、彼は敵方についたわれらがヨーハンを赦免したばかりか、勲爵士の位と年金をあたえた。なぜこんなに手厚く遇したのか。活版印刷の発明者を顕彰するためだったのだろうか。

 本書を読んでグーテンベルクがはじめて血のかよった人間としてたちあらわれてきた。グーテンベルクに近づくには本書の分厚い歴史叙述が不可欠なのである。

 なお、日本では神秘主義的な思想家として知られるニコラウス・クザーヌスも重要な人物として登場するが、ジョン・マンはクザーヌスを権謀術数をめぐらすしたたかな教会政治家として描きだしており、こういう面があったのかと眼を開かれた。クザーヌスも面白そうである。

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2011年04月20日

『グーテンベルクの謎―活字メディアの誕生とその後』 高宮利行 (岩波書店)

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 丸善が1987年に落札したグーテンベルク聖書は1996年に慶應義塾大学に売却された。ドヒニー本は現在では慶應本と呼ばれている。慶應義塾大学は人類の宝を単に保存するだけではなく、デジタル化して広く世界に公開する決定をし、HUMIプロジェクトを立ちあげた。HUMIの技術はヨーロッパで高く評価され、ケンブリッジ大学所蔵本やポーランド政府所蔵本(『さまよえるグーテンベルク聖書』参照)など7セットのグーテンベルク聖書のデジタル化をおこなっているという(慶應本とケンブリッジ本はHUMIサイトで公開されている)。

 本書はHUMIプロジェクトを推進してきた高宮利行氏が岩波書店のPR誌「図書」に一年にわたって連載したエッセイをまとめたもので、グーテンベルク聖書のみならずグーテンベルクの生涯や活版印刷誕生をめぐる論争、写本時代の出版事情、揺籃期本インキュナブラで活躍した初期出版人を紹介している。

 写本は修道院の写字室で修道僧がこつこつ作っていたと思いこんでいたが、それは11世紀までの話で12世紀以降は写本製作の場は都市に移り専門の書籍商があらわれるようになる。

 おりしもヨーロッパ各地に大学が簇生するが、大学は教科書を確保するために書籍商というか貸本業者を指定し、学生は大学の認めた業者から写本を借りて自分で書き写した。写本の正確性を期すために大学は休暇中に指定業者の保管する写本を検査し、誤りがあったら業者の負担で写本を作り直させた。写本は未製本でペチアにわけて貸し出されたのでペチア方式という。ペチア方式はペストの大流行を期に廃れ、14世紀以降は写本を専門的に生産する写本工房が主役になっていった。

 意外だったのはヨーロッパで木版印刷がはじまったのは活版印刷の誕生するわずか半世紀前、1500年代だということだ。しかも木版印刷はなかなか広まらず、製作が盛んになるのは1455年から1510年にかけてで揺籃期本の時期と重なるのである。

 今日の常識からするとまず木版本の流行があって、木版を効率化するために活版が発明されたと考えがちだが(そのような思いこみから木版印刷が盛んだったオランダで活版印刷が発明されたと主張した学者もいた)、実際は木版本は活版本の廉価版としてようやく認知され、読者に受けいれられるようになったらしいのである。

 グーテンベルクの生涯については富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の方が詳しいし、一冊の本を読む気があるならジョン・マンの『グーテンベルクの時代』という好著がある。マンはニコラウス・クザーヌスとグーテンベルクが接触していた可能性にふれていたが、高宮氏もその可能性に言及している。短い中に多くの内容が語られており、富田氏の本よりも情報が新しいが、この長さで15世紀のドイツ社会の説明までは無理で、現在の感覚で読むとひっかかる箇所がすくなくない。そうした疑問点に解決をつけたい人はマンの『グーテンベルクの時代』を読むといい。

 初期出版人ではヴェネツィアでギリシア語古典を多数手がけたアルドゥス・マヌティウスと、英国に印刷術を根づかせたキャクストンの二人を大きくとりあげている。

 ヴェネツィアには大学はなかったが、コンスタンティノープルからギリシア人学者が多数亡命していた。アルドゥスは最高の学者を工房に集め『アリストテレス著作集』をはじめとする古典の信頼にたるテキストを版行した。アルドゥス工房は単なる印刷所ではなく、同時代最高の知の共同体だったという。

 キャクストンの方は毛織物商人として一家をなした後で、取引先のブルージュで活版印刷と出会い、1475年、印刷機一式をもって英国にもどっている。この時点で50歳を越えている。当時の平均寿命を考えると晩年になって活版印刷という海のものとも山のものともわからない新技術に乗りだしていったのである。すごいことだ。

 キャクストンはウェストミンスターを拠点に上流階級の顧客向けに手堅い商売をつづけるが、跡を継いだド・ウォードは廉価の小型本に主力を移し広い客層を狙い、これがみごとに成功する。キャクストンとド・ウォードの出版活動が標準英語の確立に寄与した事実も見逃せない。

 グーテンベルク研究の最新動向については富田氏の『さまよえるグーテンベルク聖書』よりもさらに突っこんだ話が読める。インクの成分を陽子線で分析するとか最先端のハイテクが使われる時代になっているのである。

 一般向けの本なので広く浅くは仕方ないが、平明で穏やかな語り口は呼んでいて快い。出版の歴史に興味のある人が最初に読む本としておすすめできる。

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2011年04月19日

『さまよえるグーテンベルク聖書』 富田修二 (慶応義塾大学出版会)

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 1987年10月22日、洋書の輸入販売で知られる丸善はニューヨーク・クリスティーズのオークションでドヒニー本として知られるグーテンベルク聖書を490万ドル(当時の邦貨で約7億円)で落札した。オークションの時点で現存するグーテンベルク聖書は48部が知られていたが、いずれも欧米の図書館が所蔵しておりアジアに招来されたのはこれが最初である(おそらく最後でもあるだろう)。

 丸善は1989年に創業120年をむかえたが、前年の1988年から4年かけてドヒニー本グーテンベルク聖書を中心とする印刷文化の展覧会を全国各地で開いた。ドヒニー本は1996年に慶應義塾大学に売却されたが、落札から売却までの9年間、ドヒニー本に係わってきたのが本書の著者富田修二氏である。

 富田氏は正規の勤務の終わった後や土日に出勤してドヒニー本を子細に調査し、1992年に『グーテンベルク聖書の行方』(図書出版)という研究書を上梓しているが、その後もおりにふれてグーテンベルク聖書をめぐるエッセイを書いていて、それをまとめたのが本書である。前著があくまで専門書なのに対し、本書はエッセイ集なので気楽に読める。

 3部15章にわかれているが、第1章「グーテンベルク生誕六〇〇年にちなんで」は2000年にマインツで祝われたグーテンベルク生誕500年祭を枕に、伝記と各地に残るグーテンベルク聖書の現況を紹介している。第2章「グーテンベルクの暦」は聖書以外のグーテンベルクの作品にふれている。グーテンベルクはいきなり聖書のような大仕事にとりくんだわけではなく、まず免罪符やカレンダーなど端物の印刷で技術を磨いたと考えられている。なかでもカレンダーはよく売れて重要な収入源になったらしいが、消耗品なのでほとんど現存しない。わずかに残っている「トルコ暦」と「医学暦」と通称されるカレンダーの考証までが第1部だ。

 第2部は現存する49部のグーテンベルク聖書がそれぞれたどった数奇な運命を語っていて実に面白い。「ナチの手から逃れたグーテンベルク聖書」はナチス・ドイツのポーランド侵攻の数日前、ポーランドの愛国者がポーランドの国宝を守るために奮闘した話を紹介する。歴代ポーランド国王が戴冠式で用いた剣やショパンの直筆楽譜とともにグーテンベルク聖書も密かに国外に持ちだされカナダの修道院に保管されるが、第二次大戦後新たな問題が持ちあがる。国宝を守ったのはロンドンのポーランド亡命政府の人間だったが、ソ連占領下のポーランドでは共産党政権が成立すると、カナダを含む多くの国が正統の政府として承認してしまったからだ。ポーランド亡命政府は今度は共産主義者の手から国宝を守るために戦うが……。

 「モスクワにあったグーテンベルク聖書」も政治がらみだ。ロシアのペテルスブルク帝室図書館が所蔵していたグーテンベルク聖書は革命政府によって売却されたのでソ連にはないはずだったが、1993年にいたって1部存在することが判明した。それは1945年にライプツィヒで行方不明になったグーテンベルク聖書だった。ソ連群が他の文化財とともに強奪し、密かに保管していたのである。ドイツは当然返還を要求したが、ソ連が応じるはずはない。ロシアになっても同じである。

 「タイタニック号遭難とグーテンベルク聖書」はタイタニック号にグーテンベルク聖書が乗っていたということではなく、グーテンベルク聖書を遺贈されるはずだった人がタイタニック号と運命を共にしたのでハーバード大学に寄贈されたという話であるが、この本も数奇な来歴を持っていて歴史の奥深さを感じる。

 「鎖付きのグーテンベルク聖書」は1999年に発見されたグーテンベルク聖書、レンツブルク紙葉の話である。レンツブルク本ではなくレンツブルク紙葉と呼ばれるのは全1282ページのうち260ページしかない不完全な本だからだ。しかも装飾文字の部分が切り抜かれるなど状態がきわめて悪いという。

 ところが15世紀の装釘をそのまま残している上に、本棚につなぐ鎖までついているという他にない特徴をもっていた。グーテンベルク聖書だと気づいた人がいなかったので修復されなかったのが逆によかったのだろう。こういうこともあるのである。

 グーテンベルク聖書というと今でこそ人類の至宝となっているが、ある時期までは写本より低く見られていた。その間の事情を語ったのが「グーテンベルク聖書の誤植」、「落書きされたグーテンベルク聖書」、「写本として売られたグーテンベルク聖書」の三篇で、誤植の訂正を欄外や行間に書きこむならともかく、文字をヤスリで削りとってインクで上書きするといった荒療治をほどこしたものまであるという。

 グーテンベルクは印刷の仕上がりについては徹底した完全主義者だったが、中味のテキストについては無頓着だったというのも意外だった。ありあわせの写本数種をもとに活字を組んだらしく、一部は「パリ校訂本」と呼ばれる悪本にもとづくという。グーテンベルクは職人であって、学者ではなかったのだ。

 「グーテンベルク聖書のオークション」は詳しい記録が残っている1911年のオークションと著者自身が経験した1987年のオークションを対比したもので、後日譚があまりにもそっくりで笑える。なお丸善は7億円の落札で世界的に名をあげたために欧米の古書商から善本の売りこみがあいつぎ、おりからのバブル景気でいいビジネスをしたそうである。

 第3部はグーテンベルク聖書研究の最新の動向である。500年以上も研究されていたらもう何も出てこないのかと思いきや、ハイテク機器の発達で新しい事実が次々と発見されており、グーテンベルクが活版印刷を発明したかどうかを疑問視する見方まで出ているということである。これは目が離せない。

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2011年02月28日

『醜の歴史』 エーコ (東洋書林)

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 『美の歴史』の姉妹編である。造本もレイアウトも『美の歴史』を踏襲した画集・詞華集となっているが、ひとつ異なる点がある。本文の活字が一回り小さいのだ。『美の歴史』は 1行33字だったが、こちらは 1行に36字詰めこんでいる。あてずっぽうだが『美の歴史』より文字量が二割か三割多いようである。

 なぜ『醜の歴史』の方が文字が多いのだろう。一つ言えるのは「美」は「美」単独で語れるが、「醜」の方は単に「醜い」だけでは本として成立しないことがある。虫の好かないものも巧みに模倣されれば美となるというアリストテレスの言葉が序文に引かれているように、本書があつかう「醜」は美的対象に高められた「醜」なのだ。

 もう一つ、幸福な家庭は似たりよったりだが、不幸な家庭はそれぞれ違うと書いた作家がいたが、「美」と「醜」では「醜」の方がはるかに多様なこと。本書を開けば歪んだり、崩れたり、責められたり、血を流したり、苦悶したり、死に瀕していたり、幽鬼のようであったり、怪物じみていたりとおぞましい画像が次々と登場し、「醜」の広がりに圧倒されるだろう。

 「美」の場合は古代ギリシアにおいて比例・調和という柱が確立されたが、「醜」の場合は「悪」が柱となっている。ギリシア文化には地下に黄泉ハデスの国があるが、そこは悪に支配されたおぞましい領域であり、ぞっとするような生き物が徘徊している。それは人を惑わすセイレンであったり、猛禽類と女体が合体したハルピュイアだったり、蛇の髪と猪の蹄をもつゴルゴンだったり、獅子の胴体に人の頭部をもつスフィンクスだったり、人の胴体に牛の頭部をもつミノタウロスだったりする。

 ところがキリスト教が登場すると、「悪」としての「醜」は神の秩序にとりこまれてしまう。宇宙は神が創造したもうた以上、全宇宙は美であり、一見不調和で醜いものも全体的調和の一部だというわけだ(アウグスティヌス『秩序論』)。これでは異教の怪物たちも形なしである。

 それだけではない。キリスト教は罪人として十字架に架けられ惨めに死んだ男を神と崇める宗教であり、「醜」はキリスト教の不可欠な一部なのだ。アウグスティヌス『説教集』から引く。

 十字架にかけられていた主は醜かった。しかし、その醜さがわれわれの美となるのだ。現世では、われわれは醜いキリストにすがりつこう。醜いキリストとはどういう意味か。われらが主イエス・キリストが十字架に架けられなかったら、私が栄光に導かれることはあり得ない。主によって、全人類が私のために十字架に架けられるのであり、私も全人類のために十字架に架けられるのだ。キリストの醜さとはそういう意味だ。

 もっともキリストのむごたらしい死を受けいれるのにヨーロッパ人は千年を要した。初期キリスト教美術で描かれるキリストは理想化された「善き羊飼」であり、十字架は抽象化されたシンボルとしての十字架にとどまった。これにはキリストの神性と人性をめぐる神学論争も関係していたらしい。

 中世後期になると磔刑が写実的に描かれるようになり、ルネサンス以降は十字架で酷たらしく殺され、苦悶するキリストがこれでもか、これでもかと描きこまれる。聖者の殉教もキリスト教美術の重要な画題となる。

 一方、万人に訪れる死を想いださせるための「死の舞踏」や生きている内に悔悟をうながすための「死の凱旋」という画題も流行した。本当は画を貼りつけたいが、無理なのでペトラルカの『死の凱旋』という詩を引用しよう。

此所にて、幸せな人と称されし者ども
教皇、王侯、皇帝ども、今や
まる裸で、悲惨な乞食の有様なり。
かの財宝は、今いずこ? かの名誉、
宝石は、笏杖は、王冠は、
司教位の冠は、緋色の衣は、今いずこ?
滅びゆくものに、希望を抱く人こそ、哀れなるかな!

 北ヨーロッパは深い森に覆われていたが、そこにはキリスト教によって放逐された異教の怪物たちが逃げこんでいた。中世人たちは怪物に引かれ、聖堂の破風や柱頭を怪物で飾った。また怪物に道徳的寓意をあたえることでキリスト教世界にとりこんだ。『フィシオグロス』などの道徳的動物誌が流行した。その一節を引用しよう。

 ユニコーンは額の中心に角が一本生えている。その狩の仕方であるが、汚れなき乙女を使う。ユニコーンは乙女の膝に飛び込み、その乳を飲み、それから王の宮殿へと連れて行かれる。ユニコーンは救世主の象徴である。実は、ユニコーンは処女マリアの膝を棲処としたのである。

 こうした奇々怪々な動物誌は未探検の土地へのあこがれをはぐくみ、旅行記がもてはやされるようになった。さまざまな旅行記が驚異ミラビリアを伝えたが、もっとも成功したのは12世紀にあらわれた作者不詳の偽書簡『プレスター・ジョンの手紙』である(『バウドリーノ』参照)。その一節。

 余、プレスター・ジョンは君主たちの王であり、天が下にあらゆる富、徳、権力において、地上のあらゆる王を凌駕する。
 われらの領地に生息する動物はグリフォン、虎、ジャッカル、ハイエナ、野牛、サギタリアス、野生の人間、角のある人間、ファウヌス、サテュロス、それぞれの種の雄、ピグミー、犬頭人間、四十キュピットの背丈の巨人、一つ目の動物、サイクロプス、フェニックスと呼ばれる鳥、天穹の下に棲まうほぼあらゆる種類の動物がいる。彼らは皆、天からの食べ物しか口にせず、五百歳まで生きる。しかし、百歳になると、そこにある木の根から湧き出る泉の水を三回飲み、若返って力を取り戻す。われらのうちには姦淫する者はいない。いかなる悪徳もわれらに力を及ぼさない。

 醜い怪物は未知の土地だけでなく、ヨーロッパでも徘徊するようになった。悪魔と魔女である。異教の知恵をつたえる女たちが魔女のぬれぎぬを着せられて火刑にされたが、魔女裁判が猛威を振るったのは意外にもルネサンス以降であり、アメリカを含む新教諸国でも盛んにおこなわれた。

 そもそもルター本人からして悪魔にとり憑かれていた。『卓上語録』には次のような笑うに笑えぬ条がある。

 しばしば私は悪魔をおならで追い払った。ばかげた罪で誘惑されたときには、こう言った。「悪魔よ、昨日もお前におならをしてやったが、ちゃんと帳簿につけたか?」

 目が覚めると、すぐに悪魔がやってきて論争をふっかけるので、しまいにはこう言ってやった。「俺の尻をなめやがれ……」

 敵対する集団を悪魔視する傾向はどの社会にもあるだろうが、イスラム教徒とユダヤ人を罵倒した15世紀のフェリクス・ファブリの『聖地、アラビア、エジプトにおける巡礼』のような文献ほどあからさまな例は他にないだろう。

 サラセン人はある種のひどい悪臭を放つが、そのために彼らにはさまざまな種類の沐浴の習慣がある。また我々ヨーロッパ人は臭わないから、彼らは我々が一緒に入浴しても気にしない。しかし、ヘブライ人に対しては同じように寛大ではない。ヘブライ人はサラセン人よりさらに臭うからである。サラセン人は我々ヨーロッパ人が彼らの風呂に入るのを歓迎する。なぜらなら、レプラ患者でさえ健常者と一緒になると喜ぶように――健常者が侮蔑されているからではなく、レプラ患者が健常者との接触が自分の病気を癒すのに役立つかもしれないと考えるからである――、悪臭を放つサラセン人は我々のように臭わない者と一緒になるのを喜ぶのである。

 いちいち紹介しているときりがないので、最後に『バウドリーノ』の聞手となったコンスタンチノープルの歴史家ニケタス・コニアテスの『年代記』の引用で締めくくりとしよう。ビザンチン皇帝アンドロニコス一世が失脚し、処刑される条である。

 これらの拷問に苦しみ、他にもここでは語らない無限の責苦にあわされたのだが、アンドロニコスは強靭な魂の持主であったから、これらの災いに襲われても、果敢に耐えていた。彼が殴りかかってくる者たちの方を振り返って言ったのはこれだけだった。「主よ、憐れみたまえ」、そして「なぜ、お前たちはこのもう折れている葦を押しつぶすのか?」両脚から吊り上げられた後でも、愚かさきわまりない群衆は、責めさいなまれたアンドロニコスを放っておくことも彼の肉体を容赦することもせず、彼が着ていたものを剥ぎ取り、彼の生殖器を切り落した。悪党が長剣を彼の口腔から内臓へと突き刺した。ラテン人が何人か、彼の肛門に新月刀を突き立てた。そして、周りに並んで剣を抜き、どの剣が一番切れ味がいいかを試し、一撃を加えては自分たちの腕前を自慢しあった。

 他にも面白い文書が目白押しだが、ぜひ図版といっしょに味わってほしい。西洋三千年の文明の底知れなさを垣間見ることができるだろう。

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2011年02月27日

『美の歴史』 エーコ&デ・ミケーレ (東洋書院)

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 エーコが美術史家のジローラモ・デ・ミケーレとともに編纂した西洋三千年の美の歴史である。450ページ近い大冊に300点以上の大判のカラー図版がひしめいており、美しい印刷、ゴージャスな装丁、ずしりとした重さと所有欲を満たしてくれる本だ。

 姉妹編の『醜の歴史』も邦訳されているが、第三作となる "The Infinity of Lists"(『無限のカタログ』)も欧米で好評を博している。

 最初に芸術の歴史ではなく美の歴史だと断ってあるように、本書は単なる美術史の本ではない。図版とともに古代ギリシアから現代にいたるさまざまな文章が引用されており、美をめぐる詞華集ともなっているのだ。

 美術史としては特にどうということはないが、哲学や神学や文学、さらには社会史までからめるとなると博識をもって鳴るエーコの独擅場である。

 古代ギリシアにおいて美が自覚的に論じられるようになった時、ピタゴラス派が比例という決定的な理論を提唱する。万物が秩序づけられているのは数学的法則を実現しているからで、美の原因は比例という数学的秩序にあるというわけだ。

 この比例という観念が解体していくことによって美の歴史が展開していくという構図が本書のおおよその骨格となっている。

 宇宙は存在の源からのただ一つの光エネルギー流で作られるとする新プラトン派の思想を受けて偽ディオニシウスが光の神学をあみだす。神は「光」、「炎」、「輝く泉」だとする偽ディオニシウスの思想は中世社会に広まり、輝きが美の原因として認められるようになるが、輝きは質であって比例ではないだろう。そこで輝きを比例に還元しようという試みが何度かくわだてられたが、トマス・アクィナスにいたって輝きは比例とは別の原理とされ、美が存在するには全体性・輝き・比例の三つが必要ということになった。

 ルネサンス期は古代回帰で比例理論がまた力を持つようになったが、後期になると緊張のねじれから美が生まれるという美の観念が生まれ、マニエリスムやバロックにつながっていく。

 18世紀になると理性・規律・計画を重んじる市民階級が勃興して新古典主義が流行するが、新古典主義は比例を復活させるかに見えて、その実、比例の根拠を掘り崩すことになる。新古典主義もまた美は客体の側ではなく主体の側の現象だとする新しい考え方にもとづいていたからだ。

 実際、18世紀には主体の審美能力に係わる「趣味」「天賦の才」「想像力」「感情」が重視されていた。この新しい美学の代表者はヒュームである。『道徳、政治、文学に関するエッセイ』から引こう。

美や醜は、甘さや苦さ以上に事物に内在する性質ではなく、内的であれ外的であれ、感情に全く属していることは明らかであるが、事物の中に、本性によってそのような特別な感情を産み出すのに適したある種の性質が実在することは認めなくてはならない。……中略……もし同一の性質が、持続した構造内にごくわずかな程度しかないために、ある人にははっきりとした喜びや不安をもって感官に作用しないのであればそのような人は精妙さに欠けるとするのである。

 ヒュームの美学を継承し発展させたのはカントである。カントは美的判断とはすべての花でなく、特定の花が美しいと語ることだとした、なぜなら美的判断は原則ではなく感情にもとづくからである。

 この後にロマン主義の渇望の美学が来る。ロマン主義の時代は産業資本主義の勃興期にあたっていたが、産業が社会を変えていくと変化についていけない芸術家たちが芸術至上主義に引きこもり、デカダンスにあこがれるようになる。そしていよいよ20世紀となるわけだ。

 思想史の側面はこれくらいにして、詞華集の面にもどろう。どんな作品が集められているのだろうか。

 『カルミナ・ブラーナ』はオルフの歌曲で有名だが、もともとはベネディクトボイエルン修道院で発見された俗謡集であり、エーコはこんなけしからぬ詩を選んでいる。

私は目的に近づくが、娘はさめざめと泣き、乙女の扉をあけるのをためらいながら、私の炎をさらに掻きたてる。彼女は泣き、私はその甘美な涙をのむ。こうして私はますます酔い、ますます情熱に身を焦がす。

涙に濡れた接吻のいっそう甘美な味に刺激され、心はさらに内なる愛撫へと向かう。情熱に引きずられ、欲望の炎は私の中でますます激しく燃え盛る。そうするうちにコロニスはしゃくりあげながら苦痛を打ち明け、私が頼んでも静まってはくれない。頼みをくりかえし、接吻をくりかえすが、彼女は涙を流しつづけ、私をののしり、私を憎らしげににらんだり、嘆願するように見つめたり、抵抗したり、懇願したり。私は彼女に懇願するが、彼女の愛撫はますます私の願いを無視してくる。

そこで私は大胆になり、力をふるった。彼女は爪を立てて私を引っ掻き、私の髪をひっぱって泣き、全力で私をはねつけ、体を曲げて、恥じらいの扉が開かぬよう、膝を閉じた。

 これはほとんどポルノではないか。

 一方、純愛に殉じた詩人もいる。『バウドリーノ』のアブドゥラのモデルとなったジョフレ・リュデルというトゥルバドゥールである。

わたしを決して見ることのない彼の地のひとを
わたしが愛したとて驚くことはありませぬ
他の恋を喜ぶ心をもたないのですから
この地でそのようなひとに会ったこともなく
他の喜びがわたしを楽しませたこともなく
どのようにしたらよいかわからないのです
ああ、ああ

 時代がくだってロマン主義の時代になると、ナポレオンが自ら書いた小説『クリッソンとユージェニー』の一節が引かれている。

アメリーは美しい身体、美しい瞳、美しい髪、美しい肌色の持ち主で、17歳だった。ユージェニーは彼女より一歳年少で、美しさでも劣っていた。アメリーが人を見つめると、こんな風に言っているようだった。あなたは私に恋をしているんでしょ、でもあなただけじゃないのよ、他にもたくさんいるの、だから私に好かれたかったら、私の機嫌をとらなきゃだめなのよ。私はお世辞が大好きだし、きちんとした人が好きなのよ。ユージェニーは決して男性をじっと見つめたりはしなかった。想像しうる限りもっとも美しい歯を見せるために、優しく微笑むのだった。彼女が手を差し出すときは、おずおずと差し出し、あっというまに引っ込めてしまうのだった。

 文学作品だけでなく哲学や神学の文章も集められているが、ここでは渋いところでヘーゲルの『美学』から引用しよう。

キリストのこの生涯において重大なのは、彼がこの人間としての唯一の存在を捨てたこと、十字架上の苦しみ、霊の長い苦難、死の責苦である。個人としての直接的な存在、外的な、身体的な見かけが否定的なものとしてのまさに拒絶の苦悩において示されるという内容自体にここには暗に含まれているほどである。それは、精神が主観的な独自性と感受性を犠牲にすることによって真実に、天に到達するためであり、この表現の領域を古典的な造型の理想から全く別のものに切離すためなのである。

 視覚的にも好奇心的にももう満腹と思うかもしれないが、まだ『醜の歴史』という姉妹編がある。

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2010年12月31日

『フーコーの振り子』 アクゼル (早川書房)

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 地動説か天動説かという論争はニュートンの万有引力の発見で決着がついたと思いこんでいたが、そうではなかった。実験で証明されていないとして信じない人がすくなからずいたのだ。

 地球の自転のまぎれもない証拠をつきつけたのがフーコーの振り子と呼ばれるシンプルな実験だった。長い振り子を揺らしていると、振動面がだんだんずれていく。ずれる速度は緯度によって決る。北極点か南極点なら24時間だが、それ以外の場所では緯度をθとすると

24 / sinθ

となる。これを正弦則という。

 振り子の実験と正弦則を考えだしたのはレオン・フーコーである。ジャイロスコープを発明したり、光の速度を当時としては高精度で測定するのに成功したり、博士号に値する成果をいくつもあげているが、アカデミックな経歴を持たなかったために学会からは無視されつづけた。本書はレオン・フーコーと振り子の実験を軸に19世紀前半のフランス科学界を描いた本である。

 フーコーが数々の業績をあげることができたのは創意工夫の才能と機械技術の知識だけでなく、手先の器用さに恵まれていたからだ。職人の生まれかなと思ったが、そうではなかった。フーコーの父親は出版業で成功した人で、フーコーはパリの名門校コレージュ・スタニスラスから医学校に進んでいる。父親は早逝したが、フーコーの没後、母親が資金を出してフーコーの全集を刊行しているから相当な財産家だったと思われる。

 母親がフーコーを医学校にいれたのは手先が器用で優秀な外科医になると期待したからだが、フーコーは血を見ると気分が悪くなった。患者の苦しむ姿にも耐えられず、医学を断念せざるをえなくなる。

 医学校は中退したものの、当時最先端技術だった写真術に通じているのを医学校時代にフーコーの才能に注目した顕微鏡学のアルフレッド・ドネに見こまれ、共著で『顕微鏡学アトラス』を出版した。

 共著とはいっても、学会では単なる実験助手のあつかいだった。ある時期までアカデミズムでは「経験主義者」というレッテルは最大の罵倒語だったが、フーコーはまさに「経験主義者」だった。致命的なのは数学教育を受けていない点だった。18世紀まではラテン語ができることが学者の条件だったが、19世紀では数学が科学者の必須条件になっていた。

 フーコーはドネの推挙でデバ紙の科学記者になるが(同僚に作曲家のベルリオーズがいた)、科学記者としてみごとに職責をはたしたものの、かえって何でも屋のアマチュア科学者という評価を決定的にしてしまった。

 このままだったら一介の科学ジャーナリストで終るところだったが、パリを通る子午線の測定で実績をあげたフランソワ・アラゴーが『顕微鏡アトラス』の写真に驚嘆し、フーコーに光速度測定装置の製作を依頼したことから新たな道が開けた。フーコーはこの仕事をみごとにやりとげるが、学会では依然として実験助手のあつかいだった。

 振り子の実験を思いついたのは光速度測定装置の工夫をしていた時だった。彼はまず自宅の地下室で2mの長さの振り子で予備実験をおこない、次いでアラゴーのはらかいで1851年2月3日、パリ天文台の高い天井のメリディアン・ホールで11mの長さの振り子で本実験をおこなった。実験はみごとに成功したが、一介の実験助手の成功は嫉妬を呼びフーコーはいよいよ孤立することになった。

 ここで手をさしのべたのが共和国大統領で、まもなくクーデタで帝位につくことになるナポレオン三世である。ナポレオン三世はありあまる才能をもちながら不遇なフーコーに自分自身の数奇な生いたちを重ねたのか、フーコーの最大の後援者となった(それがまた嫉妬に油を注いだ)。

 ナポレオン三世は悪いイメージしかもっていなかったが、本書ではフランスの近代化をなしとげた名君として描かれている。フーコーの全集の出版もナポレオン三世の肝煎りだったが、普仏戦争の敗北で退位したために母親が自前で出さなければならなくなった。

 学界や政界のごたごたもおもしろいが、フーコーの振り子の理論的解明は依然として未解決のままだという指摘には目を見張った。フーコー自身は振り子は絶対空間に対して静止していると考えていたが、相対性の原理からいって絶対空間を規準にした議論はできず、問題は一気に難しくなる。著者はマッハとアインシュタインを持ちだしているが、フーコーの振り子の振動面がどんな座標系に属しているかは結論が出ていないそうである。

 相対性をいいだしたら地動説の勝利も怪しくなるかもしれない。シンプルな実験ほど深い闇を宿している。

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2010年12月30日

『磁力と重力の発見』 山本義隆 (みすず書房)

磁力と重力の発見 1
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磁力と重力の発見 2
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磁力と重力の発見
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 ウンベルト・エーコの『前日島』に魔術的な治療法が出てくる。深手を負って腕を切断するしかなくなった銃士を救うために傷口にあてていた布をはがして薬液にひたすと一瞬で痛みがとまり、一週間で完治したというのだ。薬は傷口ではなく、傷口にあてていた布につけただけだが、遠隔感応で効いたのである。

 『前日島』はフィクションだが、傷ではなく、傷にあてていた布や傷つけた刀剣の方に薬を塗るという治療法はルネサンス期に実際におこなわれていた。悪名高いパラケルススの「武器軟膏」で、当時からまやかしと批判されていた。

 ニュートンの万有引力の法則も同時代人には「武器軟膏」同様のまやかしに見えたらしい。力という観念はもともと筋肉感覚に由来し、直接接触することによってのみ伝わると考えられてきた。遠く離れた物体に働きかける万有引力が眉唾と受けとられたのもやむをえないことだったろう。

 「武器軟膏」はともかくとして、否定しようのない遠隔力も存在した。磁力である。

 磁石の発する不思議な力については古代ギリシア以来さまざまな説明が試みられてきたが、ルネサンス期になり羅針盤の実用化から地球自体が磁力を発していることが発見されると、磁力は天体どうしを結びつける力に擬せられるようになった。ニュートンがデカルトの渦動重力理論を捨て、万有引力の法則を提唱した背景には宇宙論にまで拡大されていた革新的な磁力論がある。

 本書は『古典力学の形成』の前史というべき本で、著者は古代ギリシア以来の磁力観の発展がどのように万有引力の法則を準備したかを詳細に跡づけている。

 本書は三巻からなるが、まず第一巻の「古代・中世」から見ていこう。

 磁力について最初に言及したギリシア人はタレスらしいが、タレスにつづく自然学者たちが説明を試み、近代にいたるまでくりかえされることになる二つの類型を早くもつくりあげている。

 一つは類似物どうしの感応という物活論的な説明であり、もう一つは微細物質による機械論的な説明である。類似物の感応についてはふれるまでもないだろう。機械論的な説明をはじめておこなったのはエンペドクレスで、プラトンも似たような説明をおこなっている。ここでは二世紀のアプロディシアスから引こう。

 磁石からの流出物は、鉄の通孔を覆っている空気を押しのけて、それらを塞いでいる空気を動かす。一方、その空気がその場を離れたとき、いっしょに流れ出す流出物のあとを鉄がついてゆく。そして、その鉄からの流出物が磁石の通孔まで運ばれると、それらの流出物がそれらの通孔に対応して適合するがゆえに、鉄もいっしょにそれらの流出物のあとについて運ばれる。(アプロディシアス『問題集』)

 この「流出物」は論者によって「水分」になったり「原子」になったり「エーテル」になったりするが、目に見えない微粒子の流れが磁力の本体であり、鉄が引き寄せられるように見えるのは微粒子の衝撃力に押された結果なのだとする点では軌を一にしている。

 磁力観の発展という点では中世まではワンパターンのくりかえしである。説明が類型的に踏襲されるだけでなく、ダイアモンドが磁力をさえぎるとか、ニンニクを塗りつけると磁石は磁力を失うといった明らかな誤りが延々踏襲されているのだ。ダイアモンドはともかく、ニンニクで磁力がなくなるかどうかはすぐにわかりそうなものなのに、権威ある文献に書いてあると無批判に受けいれてしまうのだろう。

 磁力観的にはおもしろみがないが、紹介される話柄のおもしろさという点ではほとんど澁澤達彦を思わせる。澁澤のフアンならこの巻は読んで損はない。

 第二巻「ルネサンス」は魔術の復活と羅針盤の実用化によって磁力の歴史が大きく進む。

 魔術には悪魔に頼る魔術と頼らない魔術の二つがあるとされていたが、ルネサンスにいたって後者が「自然魔術」の名で容認されたのだ。天界と地上の間には「宇宙の精気」が循環し、相互に影響ををおよぼしあっているという考えが広まり、魔術の理論的根拠となった。天界を知ることは地上を知ることであり、占星術が大きな力をもった。

 羅針盤は船乗りの間の秘伝という形で中世後期から密かに使われていたらしいが、磁針が北に向くのは北極星が引き寄せるからだと考えられた。

 しかし磁針の向きが真北からそれる偏角と水平より下を向く伏角が知られるようになると、磁針を引きつける磁力源が天界ではなく地上にあるという考えが有力になり、ついに地球自体が磁力をもつとされるようになった。

 著者はこれを文献本位から経験重視への転換と評価し、15世紀までの宗教的で思弁的な魔術と16世紀の経験的で実証的な魔術は明確に区別すべきだとしている。経験的で実践的な新しい魔術は職人たちの間で培われてきた技術と結びつき「自然科学の前近代的形態」へと変貌していく。

 磁力は自然魔術として研究されていたが、もはや過去の文献を盲信した記述は影を潜め、長い間混同されてきた静電気力と磁力の違いにも目が向くようになる。

 第二巻の後半は職人の活躍に注目し、『自然魔術』の著者で職人の世界と結びついていたデッラ・ポルタに紙幅をさいている。デッラ・ポルタは素朴ながら磁力の強さを定量的に測定する手段まで考案しており、磁力が魔術的で定性的な作用から物理学的で定量的な力へと転換する決定的な一歩を踏み出したとしている。

 第三巻「近代の始まり」は二千年以上におよぶ磁力の歴史の大団円であり、ギルバート、ケプラー、ガリレイ、デカルト、ニュートンという大物が登場する。

 まず『磁石論』のウィリアム・ギルバートである。デッラ・ポルタの章ではギルバートが自己顕示の塊で先人の発見を剽窃して平然としていると批判されていたが、断片的な発見を一つのビジョンにまとめあげ、磁気現象を磁気哲学という包括的自然観のもとに再編成する剛腕を見ると一時代を画する大学者だったと認めざるをえない。

 ギルバートは地球自体が磁力をもつことを論証し、天界の底に淀む冷たくて不活性で汚い地球というアリストテレス自然学の地球像を一新し、諸天体は磁力によって結びついているという壮大な宇宙観を打ちだした。月は第五元素からなる完全な球ではなく地球と同類の天体であり、「あたかも鎖で繋がれているかのように大地に強く結びつけられている」。磁石の接合力は磁石の大きさ・量に比例するという説は結果的には間違っていたが、ケプラーに引きつがれ、ニュートンの質量概念として結実することになる。ギルバートはそれとは知らずに万有引力の理論を準備したのである。

 ケプラーは『磁石論』を出版直後に読んでおり、フォン・ホーエンブルク宛書簡に「私に翼があるならば、イギリスに飛んでいってギルバートと話をしたいものです。彼の基本法則で惑星のすべての運動は証明できるものと私は信じています」とまで書いている。ギルバートの磁気哲学があったからこそケプラーは天体の間に力が働くという観念に到達し、三法則をまとめることができたといって過言ではない。著者はケプラーの三法則を次のように評価している。

 ケプラーによる天文学の改革は、たんに太陽を中心におき、また円軌道を楕円軌道ととり替えたことにはとどまらない。彼の改革の本質的な点は、惑星運動の動因として太陽が惑星に及ぼす力という観念を導入し、天文学を軌道の幾何学から天体動力学に、天空の地理学から天界の物理学に変換させたことにある。

 ケプラーは万有引力法則の手前まで達していた。『宇宙の神秘』第二版の注でケプラーはこう書いている。

 かつて私は、惑星を動かす原因は霊に違いないと信じ込んでいた。しかしこの主導的原因が距離の増加につれて弱まり、太陽の光もまた太陽からの距離に応じて衰えることを考えてみたとき、ここから次のような結論にいたった。すなわち、この力は、文字どおりの意味ではないが、少なくとも漫然とした意味において、ある物体的なもの(alquid corporeum)である。それはわれわれが光を、非物質的なものでありながら物体から放射されるあるものとして、ある物体的なものであると言うのと同様である。

 ただし、その放射力は「磁気」としてイメージされている。

 自身が磁性体である地球はその〔放出する運動〕形象によって月を動かす。同様に、太陽はおのれの放出する〔運動〕形象によって惑星を動かすのであるから、太陽もまた同様に磁性体であるということ、このことはきわめて確からしい。(ケプラー『新天文学』)

 ガリレイとデカルトに対しては点数が辛い。ガリレイはアリストテレスの「自然運動」と「強制運動」の区別から抜けられなかった。アリストテレス的に考えれば惑星の公転運動は「自然運動」なので太陽は引力をおよぼす必要がない。彼は加速度を発見したが、落下も重量物体の「自然運動」なので、重力という発想にはつながらなかったのである。

 デカルトについては慣性の法則をはじめて正確に定式化したと評価する一方、渦動重力理論や右ネジ・左ネジで磁石のN極S極を説明しようとした磁気理論を「自然にたいする知識があまりにも貧しく限られたものでしかない状態にあっては、およそ現実離れしたものにゆきつかざるをえなかった」と一蹴する。

 ニュートンと引力の逆二乗法則の先取権をめぐって争ったフックについては王立協会の書記という仕事が多忙をきわめた上に、数学的能力が欠如していたので先に進めなかったという評価にとどまっている。

 いよいよニュートンだが、著者はすでに『古典力学の形成』を書いているせいか、あっさりした記述である。

 この後に「磁力法則の測定と確定」と題した長いエピローグがつづく。万有引力の法則はニュートンで一応の解決を見たが、磁力の方は解決したとはとても言えない状態だったからだ。

 磁力が難しかったのは磁力の強度を測定しようとすると反対の極の磁力が影響してしまうことだ。だから磁力は近い距離では距離の三乗に逆比例するが、遠距離では距離の二乗に逆比例するというおさまりの悪い結果しか出てこなかった。

 著者はそれまで自らに禁じていた数式を解禁して楽しそうに問題を解いている。文化史の領域にまで踏みこんだ本書は「無免許運転にも近い無謀」と謙遜しているように著者にとってアウェイの仕事だったが、やっとホームにもどったというところだろう。

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2010年12月29日

『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ』 山本義隆 (日本評論社)

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 『プリンキピア』は微積分ではなくユークリッド幾何学で書かれているが、もともと微積分を使って導きだした命題を微積分がまだ一般的でなかったのであえて古い手法で書き直したという意味のことをニュートン自身が語っている。

 簡単にいうと、未知数をXとして方程式を立てれば簡単に解けるのに、方程式を知らない小学生のためにツルカメ算や流水算といったアクロバット的な解き方でわざわざ解いてみせたというようなことだ。

 『プリンキピア』の命題はもともとは微積分で導出されていたというのは科学史の常識といってよいが、『錬金術師ニュートン』でニュートンの臆面もない二枚舌ぶりにあきれ、ひょっとしたら微積分を使ったというのも、ライプニッツと微積分の先取権を争う過程ででっちあげた与太話ではないかと思うようになった。

 本書を開いたところ、40頁目でもう答えが出ていた。ウェストフォールというニュートン学の第一人者がくまなく調査しても流率法(微分のことをニュートンはこう呼ぶ)で証明していたという証拠は見つからず、それどころか匿名の第三者を装って微積分先行証明説とライプニッツ剽窃説を広める情報操作をおこなっていた証拠まで出てきた。著者は「『プリンキピア』の諸命題は、元々あのような幾何学的なスタイルで証明されたものと考えるのが妥当であろう」と結論している。

 もっともライプニッツの方も一筋縄ではいかない。ライプニッツは「惑星の運動の原因についての試論」で万有引力の法則を微分法で導きだしたが、同論文が『プリンキピア』の剽窃ではないかと指摘されると、執筆時点では『プリンキピア』の書評しか読んでいなかったと反論していた。ところが執筆時点で『プリンキピア』を読んでおり、書きこみまでしていたという証拠が1967年に発見されたのだ(本書の表紙がライプニッツの書きこみ)。

 急いでお断りしておくが、本書は科学史のスキャンダルをあげつらう本ではない。今日「ニュートン力学」として知られている体系はニュートンの没後百年以上かかって多くの学者が構築してきたものだということを資料的に跡づけるのが主眼であって、『プリンキピア』の証明の穴を指摘するのは「ニュートンの力学」と「ニュートン力学」が別物だということを確認するためである。

 ライプニッツの「試論」についても著者は以下のように評価している。

 しかし問題は独立に到達したか否かではなく、重要なのは Leibniz が同一の結果を異なる方法と異なる道筋で得たことである。実際 Leibniz が用いた思考手段もその結果を表す表現形式も Newton のものとは決定的に異なっている。そしてその点にこそ Leibniz の本領と『試論』の意義はあった。というのも、新しい記号法と新しい表現様式の創出は、新しい思考手段と新しい思考方法の創出だからである。とりわけ『試論』は、力学において微分方程式が公に登場したはじめての文書としてきわめて重要である。

 幾何学的方法か、微積分による解析的方法かは単なる好みの問題ではすまない。先に『プリンキピア』の証明法をツルカメ算や流水算にたとえたが、ツルカメ算や流水算は一種の名人芸なのに対し、ax + b = 0 という方程式なら誰でも機械的に解ける。和田純夫氏の『プリンキピアを読む』(ブルーバックス)をのぞけばわかるが、ニュートンは超絶的な技巧を駆使しており、当意即妙のひらめきはとても余人のおよぶところではない。しかしライプニッツの方式なら機械的に解けるのである。ニュートンとライプニッツでは学問のあり方が根本的に変わってしまうのだ。

 本書は二部にわかれる。第1部「Kepler問題」はニュートンはケプラーの法則から引力の逆二乗法則を導きだすのには成功したが、逆二乗法則からケプラーの法則を導くのには失敗したのではないか、そしてそれがニュートン後の課題になったのではないかという仮説にあてられている。

 微積分の式を眺めるのは二十年ぶりなので、議論の細部は正直いってよくわからない。しかし数式を読み飛ばしても論旨はおおよそ摑める。

 第2部「力学原理をめぐって」は不完全なまま放りだされた「ニュートンの力学」を「ニュートン力学」に再構築するまでの学説史でオイラー、ベルヌーイ、ダランベールをへてラグランジュで完成に達する。「ニュートン力学」の形成に動いたのがニュートンを神格化した英国の学者ではなく、ライプニッツの系統を引く大陸の学者だったというのは皮肉である。

 重要なのは「ニュートン力学」の形成が単に力学にとどまらず、大学の理工学部の誕生にかかわっていた点だ。

 18世紀までの大学には理学部も工学部もなかった。大学にあったのは神学部、法学部、医学部という専門学部と、教養学部にあたる哲学部(学芸学部)だけだった。哲学部で学ぶ自由七科には自然哲学的な内容が含まれていたが、幾何学や天文学のような役に立たない学問に限られていた。機械工学や冶金学のような役に立つ学問は大学では忌避されていたのである。

 科学革命を推進するような研究は大学ではなく王立の科学アカデミーでおこなわれていたが、アカデミーの会員になれるのは趣味で科学研究に打ちこめる貴族か、ニュートンのような天才に限られていた。18世紀までのヨーロッパには職業としての科学者は存在しなかったのである。

 この状況を変えたのはフランス革命だった。国家は政策として科学技術の振興をはかり、研究者・技術者養成機関としてエコール・ポリテクニクなどのグラン・ゼコールを設置した。王権に守られて趣味の研究をしていた科学者が教壇に立つようになったのである。

 この変化を体現しているのが「ニュートン力学」の大成者であるラグランジュである。ラグランジュはイタリアの役人の息子だったが、抜群の才能をオイラーに認められてベルリン王立アカデミーの外国人会員に推挙され、プロイセンのフリードリヒ大王の庇護のもとに研究をつづける。フリードリヒ大王の没後は類十六世に招かれ、ルーブル宮に住居をあたえられて『解析力学』を完成させる。

 『解析力学』の上梓の翌年フランス革命が起るが、ラグランジュは革命政府にも厚遇され、エコール・ノルマルとエコール・ポリテクニクで学生の指導にあたり、帝政時代になるとナポレオンから爵位をあたえられている。

 著者はラグランジュの『解析力学』の意義を次のように評価している。

 『解析力学』は、一定レベルを越える学生にたいしては、力学を誰にたいしても教育可能・伝達可能・習得可能・使用可能なものとしたのである。これが力学のマニュアル化であり、そしてこれこそがフランス革命に前後する時代の要請に最もよく応えるものであったといえる。

 著者の山本氏は東大全共闘の議長だった人だが、学説史がはからずも大学論になったのは問題意識のしからしめたものだろう。

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2010年12月28日

『錬金術師ニュートン』 ドッブス (みすず書房)

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 ニュートン錬金術研究の第一人者だったB.J.T.Dobbsの最後の著書の邦訳である(Dobbsは「ドブズ」、「ダブズ」等と表記されることもある)。

 Dobbsはケインズがオークションで落札しキングズ・カレッジに寄贈したいわゆるケインズ手稿を分類整理した研究者として知られている。彼女は手稿の錬金術記号や暗号を解読してニュートンがまぎれもなく錬金術の世界に生きていたことを論証し、その成果を『ニュートンの錬金術』(平凡社から出ていたが絶版)にまとめている。本書はそれにつづく研究で、万有引力理論の形成と錬金術の関係を掘りさげている。

 ニュートンは45歳で『プリンキピア』を出版したが、万有引力の法則自体は23歳の時に発見していたと語っている。ペストの流行のためにケンブリッジから生家にもどり、リンゴの木から実が落ちるのを見て云々という例のお話である。しかしこれは微積分と万有引力の法則の先取権をめぐって争うようになった1710年以降にはじめて出てくる話であって、資料的な裏付はない。

 それどころか『プリンキピア』直前までニュートンがデカルトの渦動重力理論を信奉していたという証拠ならたくさんある。

 『プリンキピア』執筆のきっかけとなったハレーの訪問の9年前だが、渦動重力理論を語っている書簡(オルデンバーグ宛)があるので引用しよう。ニュートンは重力は天空から地球の中心に向かって下降してくるエーテルの圧力によって引き起こされると明確に述べている。

 〔エーテルは〕下降しながら諸物体に浸透していって、そのさい働きかける諸部分すべての表面積に比例する力で運び下ろすのであろう。ちょうど同量の物質が空気の姿をとって、地球内部からゆっくりと上昇することで、自然は循環をなすわけだが、この気体物質はしばしのあいだ大気を構成するにしても、下方から立ち昇ってくる新たな空気、発散気、蒸気によって絶え間なく持ち上げられ、ついにはエーテル空間へ再び消え去るのであり、たぶんそこで、ゆくゆくは性質を和らげ、希薄になって第一原理へと戻るのであろう。

 20代の頃のニュートンはエーテルに重力作用を認めるのみだったが、この書簡を書いた頃になると生命力をもたらす「水銀の精」とエーテルの統一をはかろうとしていた。「日ごとに活力を蘇らせるためのエーテル的気息とヴァイタルな醱酵素」が太陽系全体にみなぎり、天体の「食物」となっているというわけだ。

 ところが『プリンキピア』の執筆中(Dobbsは1684年8~11月の期間と推定している)、天体の運行は向心力の逆二乗法則できれいに解けることがわかり、重力を引きおこすような密度をもったエーテルが天体間に存在するなら必ず起こるはずの天体の減速が一切ないという問題にぶつかる。エーテルが天体の運行の妨げにならないほど希薄だったら重力(下降圧)を生みだすこともないだろう。ニュートンは自明のこととして受けいれていたデカルトの渦動重力理論を放棄しなければならなくなる。

 ここで登場するのが錬金術の「能動的原理」である。

 重力問題では、ニュートンは物質的・機械的原因が役立たずであることを理解しており、物質的原因との訣別を余儀なくされていた。手持ちの証拠は物質的エーテルの存在を否定していた。だが重力は作用しており、まるで諸物体のまさしく中心まで浸透しているかのごとく作用するように思えた。物体の表面かつ/または内部の諸部分の表面への作用によって摩擦抵抗となることなく、そのように浸透しうるのは霊のみであった。ピロンやリプシウスの解釈によるストア思想の文脈では、もちろんすべてに浸透する霊とは、受動的物質原理に浸透して結びつけるべく至るところで働いている能動的原理であった。神の文字どおりの偏在性に包摂された能動的原理、万物をひとつに結びつける霊的力という重力概念は、長年にわたってニュートンの役に立つことになった。ストア派の着想に間違いはなかった。しかしニュートンはそれのプラトン化版を用いた。そこでは絶対者=神は完全に非物質的であり非有形的であるが、しかしすべての浸透する存在であった。

 もっともニュートンはこうした試行錯誤は表には一切出さず、『プリンキピア』では重力がどのように働くかだけが問題で、なぜ働くかは問う必要がないという現象主義の立場を貫いている。

 意外だったのはニュートンは『プリンキピア』以後もエーテルの存在を信じつづけていたことである。ニュートンが否定したのはエーテルの重力作用だけで、生命作用の存在は依然として認めていたというのだ。

 ニュートンには宇宙空間に物質をいくらか残しておく必要があったのであり、現に宇宙エーテルを語る彼の言葉のほとんどには、明かにいくらかの残留物質の存在が読みとれる。『重力について』で彼は、すべての空間は物質に関して空っぽであるとは言わなかった。正しくは、「空っぽの空間」が存在すると言ったのであり、「エーテル空間の圧倒的大部分はエーテル粒子のあいだに散らばる空虚だ」と言ったのである。『重力について』にはいくばくかの粒子が残存しており、ニュートンは刊行された『プリンキピア』でもこの残存宇宙エーテルについて書きつづけたのであった。

 ニュートンは『プリンキピア』の原稿を王立協会に送るとすぐさま錬金術工房にもどり、1684年のハレー訪問で中断したところから実験を再開しているので、意外に思う方がおかしいのかもしれない。ニュートンがまともな科学研究をしていたのは『光学』と『プリンキピア』を執筆していた数年間だけで、それ以外は錬金炉やオカルト文書にはまっていたのである。講義はわけがわからなかったので受講者はほとんどおらず、ルーカス教授職をついだ弟子のウィストンですら講義をまともに聴いたことはなかったという。

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2010年12月27日

『一七世紀科学革命』 ヘンリー,ジョン (みすず書房)

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 マクミラン社の「ヨーロッパ史入門」というシリーズの一冊である(邦訳はみすず書房から)。235ページあるが、本文150ページほどのコンパクトな本で80ページ以上が用語辞典、索引、300冊近い参考文献、訳者解説、日本語の参考文献にあてられている。

 参考文献は著者名と発表年であらわすことが多いが、本書は通し番号であらわし、本文中に埋めこんであるので参照しやすい。すべての参考文献に短評をつけているのはありがたい。

 入門書とあなどって読みはじめたが、見通しのよい明解な記述に舌を巻いた。

 科学革命の解説はまず自然の数学化をどう説明するかがポイントになるが、本書は科学革命以前の天文学はプラトンの流をくむ数学的部分と、アリストテレスの流れをくむ自然学的部分からなる「混合学」だったと大づかみに把握した上で、プトレマイオスの周天円やエカントは実在ではなく、計算のための単なる補助線とみなされていたとつづける。

 プトレマイオスは観測される惑星運動を説明するために数学的なモデルを考案したが、その結果提案された仮設的構築物や作業仮説は、アリストテレス主義的自然学とは整合性がないと考えられた。人々はプトレマイオスの体系をまるごと拒否してもよかっただろうが、実際にはうまくいく天文理論はプトレマイオスのものしかなかった。有用なプトレマイオス天文学を使いつつも、同時に天界の本当の姿はアリストテレスの宇宙論に描かれているものに違いないと考えることで、決着をはかるしかなかった。

 アリストテレス自然学とプトレマイオスの天動説は一体のものと見なすのが一般的なので、両者が調停不能な対立関係にあると言われてもぴんと来ないが、よくよく考えればアリストテレスの質的な説明とプトレマイオスの量的な説明は水と油である。

 オジアンダーは『天球回天論』出版の実務をまかされると地動説(太陽中心説)=計算の道具説をうたった序文を勝手につけくわえ、コペルニクスの支持者から猛反発を受けたが、計算のための道具という点ではプトレマイオス説も同じだったのだ。

 著者はさらに自然学と数学の対立は社会的身分にもおよんでいたと指摘する。自然学を研究するのが大学を出た知識人なのに対し、計算士や建築家、技師はただの数学職人と見なされていた。数学職人の社会的地位は科学革命によって床屋外科医や画家などとともに著しく向上した。

 数学的な自然把握が権威を持ちはじめると一つ問題が持ちあがった。アリストテレス自然学は自明の経験的命題から出発するのに対し、数学的命題は素朴な日常的知識に反するものが多い。たとえばマイナスの数とマイナスの数をかけるとプラスの数になるとはどういうことなのか。数学は人工的な構築物であり、限られた条件下でしか成りたたないのに、なぜ自然に適用できるのだろうか。

 数学的認識の確実性の問題にとりくんだのはカントであり哲学の問題として議論される傾向があるが、著者は哲学論議には向かわず、数学的認識を正当化したのは実験だと指摘する。数学的モデルと一致する実験結果がえられたら、自然はその数学的構造をとっていると見なすわけである。実際、数学化された自然科学の権威を確立したのは『純粋理性批判』よりも実験だったろう。

 マルクス主義歴史観が全盛だった頃は実験的手法は職人によって生みだされたとされていたが、「職人」と見なされていた実験の担い手は錬金術師だったり自然魔術師だったことが明かになっている。そもそも中世以来、実験は錬金術師や自然魔術師の独擅場であり、実験器具も彼らが考案し改良したものだった。

 科学革命の最大の達成であるニュートンの万有引力の発見も魔術とかかわっている。ニュートンが錬金術の研究に打ちこんでいたことはよく知られているが、科学的な研究にも物活論的や万物照応的な魔術的発想を背景にしていることが明かになっている。たとえば『光学』で白色光を七色のスペクトルに分解したが、初期の草稿では七色ではなく五色にになっていた。最終的に青色と橙色をくわえて七色にしたのは音階と光のスペクトルを対応させるためだったという。

 万有引力の法則は機械的接触のない遠方に直接力が伝わるとしているので、同時代のデカルト派やライプニッツ派の学者からスコラ哲学の「隠れた性質」の焼直しだと批判された。ニュートンは表向き、何故ではなく如何にを問うのが科学だとつっぱねたが、裏では魔術的思考にどっぷり浸かっていたことがわかっている。

 第六章と第七章では宗教や文化状況と科学革命の関係を論じているが、あくまで英国の視点であろう。大陸系の本では宗教改革や30年戦争が焦点となるが(コペルニクスは宗教改革の時代に生き、デカルトとケプラーの活動期間は30年戦争と重なる)、本書によると英国ではピューリタニズムが科学革命を促進したという説をめぐって賛否両論がおきているそうである。

 王立協会の会員にピューリタンが多いという指摘は誤りだったようだが、心臓と血液の関係を絶対主義になぞらえ、心臓=王の至高性を語っていたウィリアム・ハーヴィーが1649年のチャールズ一世の処刑後、血液の優位を語りだしたというのは面白い。

 ハーヴィーはともかく、惑星の一つにすぎなかった太陽を宇宙の中心に位置づけ直したコペルニクスの体系が絶対王制を正当化するメタファーとして機能したという指摘は説得力があると思う。

 著者は最終章でニュートンは実際は突破口を開いたにすぎず、力学はむしろ大陸系の学者によって築かれたと指摘している。ニュートンの虚像を作りあげたのは18世紀の啓蒙主義者と広教派国教徒であり、17世紀科学革命という概念そのものも18世紀啓蒙主義の産物だとしている。

 本書は内容もすぐれているが、翻訳がとても読みやすい。英国の視点で書かれていることを承知した上でなら、科学革命を手っとり早く知るための最良の一冊といってよいだろう。

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2010年12月26日

『天文学の誕生』 三村太郎 (岩波科学ライブラリー)

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 いささか誤解をまねく題名である。副題に「イスラーム文化の役割」とあるので、天文学とはいっても近代天文学の誕生にイスラム文化がどう影響したのかを論じた本だろうと察しがつくが、近代天文学についてふれているのは最初と最後の章だけである。本書は天文学という切口からアッバース朝イスラム帝国の王権と文化政策をさぐった本で、アッバース朝の本としては実におもしろく、一般書にはこうした内容の本は他にないのではないかと思う。

(イスラム天文学については『望遠鏡以前の天文学』の第8章が百科全書的にゆきとどいた説明をくわえている。本書はアッバース朝の文化政策に焦点を絞った内容なので、イスラム天文学全般が知りたかったら『望遠鏡以前の天文学』を読んだ方がいい。)

 ムハンマドの没後、イスラム共同体は「神の使徒の代理人」たるカリフが治めるようになるが、第四代カリフでムハンマドの娘婿のアリーが暗殺された後、アリーと対立していたシリア総督ムアーウィヤが第五代カリフとなり、以後ウマイヤ家がカリフの地位を世襲するようになった。これがウマイヤ朝で、ギリシャ語圏の行政システムを採用したためにメルキト派キリスト教徒が行政の中枢を占めた。一方、ムハンマドの血族であるアリーの子孫こそが正統のカリフであるべきだと考える人々はシーア派を形成して対抗勢力となった。

 ウマイヤ朝イスラム帝国はイベリア半島からアフガニスタンまで急激に版図を広げたが、アラブ中心主義に偏して非アラビア人ムスリムに、ムスリムなら課せられるはずのない人頭税や地税を課したために改宗被征服民族の間に不満が広がった。747年、ムハンマドの叔父であるアッバースの子孫がシーア派ペルシア勢力の支援を受けて蜂起し、749年、イラクのクーファでカリフに推戴された。これがアッバース朝である。

 アッバース朝は被征服民族、中でもペルシア民族の力を借りて成立した政権なのでサーサーン朝ペルシアの後継国家という性格を持たざるをえなくなった。サーサーン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としていたが、ゾロアスター教ではすべての学問はゾロアスター教に由来するとしていたために、あらゆる書物の収集・翻訳が国家事業としておこなわれていた。アッバース朝第二代カリフのマンスールはサーサーン朝に倣って翻訳事業をはじめたが(『アルマゲスト』などの天文学書がアラビア語に翻訳された)、それだけでなくサーサーン朝で重んじられていた歴史占星術までも復活させた。

 歴史占星術とは外惑星の合という長い周期によって国家の行く末を占う占星術で、すべての惑星が牡羊座の0度で合となる43億2000万年の約数にあたる36万年を「世界年」としていた。ゾロアスター教では『アヴェスタ』の注釈書に世界誕生の瞬間のホロスコープが記載されるなど歴史占星術が重視されたが、マンスールの宮廷には占星術師が集められ、『カリフの即位と統治』や『宗教と王朝の書』など歴史を占星術的に解釈した書物があらわされた。

 マンスールの時代にはインドの天文学書である『シンドヒンド』が翻訳されるなど、インド天文学の導入も盛んだった。

 インド天文学はギリシア天文学を独自に発展させたものだったが、本書によるとインドにはいったのはヒッパルコスまでで、プトレマイオスははいっていなかった。球面三角法もなく、すべて平面三角法で解かれ、天文定数もヒッパルコス段階のものだった。インド天文学は『アルマゲスト』よりは遅れていたといえるかもしれない。ではなぜ注目されたのか。

 本書はインド天文学が注目されたのはまず第一に実用的だったからだとする。算用数字で位取りで記述するインド式計算法は巨大な数字をあつかうので、位取りで記述するインド式計算法は圧倒的に有利であり、三角法もインドで現在の三角法に近いものに改良されていた。

(この条は『望遠鏡以前の天文学』の第8章の記述とズレがある。同書によると初期のズィージュはインド数字(アラビア数字のことをアラビア語圏ではインド数字と呼ぶ)ではなくアラビア文字による記数法による60進法で記述されており、インドの三角法はもっと現代に近い形に作り直されたという。)

 イスラム圏ではインド天文学の形式に倣った実用的な天文学書があらわされ、ズィージュと呼ばれた。ズィージュにはインド天文学が知らなかったプトレマイオスの手法や定数をとりいれたものも出てきたが、それだけではなく、天文学の重点が計算からギリシア的な論証へと移っていった。

(本書だけを読むとズィージュはマンスールの宮廷ではじめて作られたと受けとりかねないが、『望遠鏡以前の天文学』によると、8世紀にはイスラム帝国の版図になったインドとアフガニスタンで多数のズィージュが編纂されていた。)

 ギリシア的な論証の重視はアッバース朝王権の要請だった。イスラム帝国は内部に多くのキリスト教徒やギリシア哲学を奉じる異教徒をかかえこんでいた。他方ではペルシア人が重きをなすようになっために、ペルシャ人の間に広まっていたマニ教が勢力を拡大していった。アッバース朝王権はギリシア的論証に通じた彼らに対抗してイスラム教の教理を擁護する必要があった。特に危険なのは「二元論者」と呼ばれたマニ教だった。マニ教はグノーシス主義やゾロアスター教の影響を受けて生まれた新しい宗教だったが、論理的に一貫しており、キリスト教の教父が多くの論駁書を書かねばならないほど教理問答に長けていた。

 アッバース朝の宮廷はギリシアの学問をおさめた知識人を顧問として招き、彼らの助言を通じて帝国内のさまざまな声を汲みあげたが、この統治システムはアッバース朝の後の政権でも踏襲されたという。

 最後の章ではイスラム天文学ではじまった『アルマゲスト』批判がコペルニクスに影響をあたえた可能性に言及しているが、史料が乏しいこともあって可能性にとどまっている。

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2010年12月25日

『望遠鏡以前の天文学』 ウォーカー編 (恒星社厚生閣)

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 天文学は望遠鏡の登場で大きく変わったが、本書は望遠鏡以前の天文学を17章にわけて通覧した論集である(邦訳版は13章)。副題に「古代からケプラーまで」とあるが、ヨーロッパだけではなく、インド、イスラム圏、極東(中国・朝鮮・日本)、さらには邦訳では割愛されてはいるが、マヤ、アステカ、アフリカ、大洋州(アボリジニー・ポリネシア・マオリ)、先史巨石文明時代のヨーロッパまでおさえている。この目配りのよさは大英帝国の遺産かもしれない。

 執筆者も多岐にわたり、英米の大学や博物館に籍をおく天文学史、科学史、古典学、考古学の専門家が参加している。中には天文学を専攻したことのある投資家という肩書の人もいるが、趣味で研究をつづけているのだろうか。

 個別に見ていこう。

「エジプトの天文学」(ウェルズ)

 古代エジプト人は一年を365日とする暦を用いていたり、星の位置によってナイル河の氾濫の時期を予測するなど、高度な天文知識を有していたが、その知識は神話とないまぜになっていた。古代エジプト人は天の川を裸の女神ヌウトに見立て、春分の日の日没地点と重なる双子座を口に、冬至の日に日出地点と重なる白鳥座のデネブを産道の出口に擬していた。春分から冬至までは人間の妊娠期間にほぼ等しいことから、古代エジプト人は一陽来復を女神ヌウトの出産と考えていたという。

 エジプト文明は長大なナイル河流域で発展したので北のデルタ地帯の上エジプトと南の溪谷地帯の下エジプトにわかれるが、暦も上エジプトの太陽太陰暦と下エジプトの太陽恒星暦にわかれていた。上下エジプトが古王国時代に統一されると下エジプトの暦が上エジプトの暦の特徴をとりこみながらエジプト全土に広まっていった。

「メソポタミアの天文学と占星術」(ブリトン&ウォーカー)

 牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座……という星占いでおなじみの十二星座はメソポタミアの先住民族、シュメール人の文化にさかのぼる。メソポタミアは天文学と占星術の揺籃の地だった。

 シュメール人を征服したバビロニア人は天体観測を引きつぎ、宗教上大きな存在だった月の運行を予想しようとした。曲線を折れ線で近似する概算法や60進法はバビロニア人の遺産である。ギリシア天文学がメソポタミアの天文学から受けた影響は従来いわれていた以上のものがあるらしい。

「プトレマイオスとその先行者たち」(トゥーマー)

 古代ギリシアではポリスごとにばらばらの暦をもちいており、誤差も大きかった。遅くともBC6世紀にはメソポタミアの天文知識がはいってきていたが、暦の精緻化や統一といった実用的な方向には進まず、天球という透明な殻が入れ子になる宇宙モデルの構築の方に進んだ。

 ここで問題になるのは惑星の逆行現象だが、同心球理論で最初の答えをあたえたのがエウドクソスである(同心球理論はいろいろな説明を読んできたが本書が一番わかりやすい)。同心球理論はどうパラメータをいじっても火星の逆行を説明できないそうで、周天円理論と離心円理論にとってかわられることになる。

 エウドクソスの300年後、ニケア生まれのヒッパルコスが周天円理論と離心円理論を集大成した。彼はメソポタミアから生の観測データと数学モデルを手にいれ、太陽と月の大きさを計算した。彼はまた基本的な観測器具であるアストロラーブを発明し、天文計算を簡略化する三角表を作った。

 さらに300年後、プトレマイオスが『アルマゲスト』によってギリシア天文学を集大成する。プトレマイオス自身は『アルマゲスト』が決定版とは考えておらず、後世の人々に修正されることを望んでいたというが、結果的に1500年にわたって崇められつづけ、ローマ教皇庁公認の宇宙モデルともなった。

「エトルリアとローマの天文学」(ポター)

 ローマ人は他の学問同様、天文学でもギリシアを踏襲しただけだったが、イタリア半島の先住民族であるエトルリア人の迷信好きの影響からか、占星術になみなみならぬ関心を寄せるようになる。占星術師は「カルデア人」と呼ばれ、東方の密議宗教とともに流行し、ストア派にまでとりいれられるようになった。

 東方宗教の一つであるキリスト教が勝利をおさめると占星術は逆に排撃されるようになったが、学問としてプトレマイオスの体系を学ぶことは推奨された。

「ギリシア後期およびビザンツの天文学」(ジョウンズ)

 東地中海世界は1453年のコンスタンティノープル陥落までギリシア語が支配的だったが、古代末期からルネサンスにいたる1300年の間に知的中心はアレクサンドリアからコンスタンティノープルに移り、宗教は異教からキリスト教に交替した。

 『プトレマイオス表』と『簡易表』は古代末期に急速に普及したが、バビロニアの計算方式に完全にとってかわることはなかった。プトレマイオスは難しすぎたので簡単に使えるバビロニア方式との併用がつづいたのである。

 『アルマゲスト』を改良しようという動きはなかったが、注釈書や手引書は多数書かれた。中でも高い水準にあるのは新プラトン派のプロクロスによるものだという。

 ビザンチン帝国時代になるとヘラクレイオス帝が天文学の空白地帯だったコンスタンティノープルにアレクサンドリアのステファノスを招いた。ヘラクレイオス帝はコンスタンティノープルの緯度で使える『簡易表』の著者に擬せられているが、実際の著者はステファノスだったらしい。

 この後、偶像崇拝破壊運動などがあってコンスタンティノープルの天文学は途絶えるが、9世紀になってギリシア語の学問が復活する。パピルスの巻物で保存されて来た写本は長持する羊皮紙の冊子に書き写された。イスラム圏がギリシア語文献を貪欲に移入したのもこの頃である。

 11世紀になるとイスラム圏で独自に発展した天文学を輸入しようという動きがはじまり、『プトレマイオス表』とは異なる数値(ダマスクスでイスラム天文学者が観測した数値)が天文計算にあらわれるようになる。ビザンツ天文学はプトレマイオスの体系を発展させずにそのまま伝えたことに意義があるとされてきたが、後期には独自の展開が見られたことは特筆に値する。しかし第四回十字軍の略奪と1453年のコンスタンティノープル陥落でギリシア人学者とギリシア語写本は西方に流出し、ビザンチン天文学は終幕をむかえる。

「紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録」(フィールド)

 本書は文献記録中心だが、本章は考古学的遺物として残っていたり絵画の中に描かれている天体観測器具をとりあげている。天球儀や日時計などだが、特筆すべきはオーパーツとして有名な「アンティキテラの機械」である。

 「アンティキテラの機械」とは1901年にアンティキテラ島沖の沈没船の中から引きあげられた青銅製の歯車装置である。あまりにも複雑かつ精巧にできていたので古代の遺物とはなかなか認められなかったが、1950年代になってX線写真で歯車と銘文が確認されて研究が本格化し、現在では天文計算をおこなうための機械式計算機だろうと推測されている。

「インドの天文学」(ピングリー)

 暦を改良する試みはヴェーダ時代からあったが、インドで天文学が本格的に研究されはじめるのはギリシアの植民都市経由でメソポタミア天文学と占星術が移入されてからである。占星術はインドに定着し、天文計算の必要からインド独自のサンスクリット天文学が発展した。

 さまざまな学派が興ったが、5世紀にアールヤバタという大天文学者があらわれ、アールヤ学派とアールダラートリカ学派という二つの学派を創始した。アールヤ学派は南インドで栄えたが、アールダラートリカ学派はサーサーン朝ペルシアに伝わり初期イスラム天文学に多大な影響をあたえたという。

 19世紀末までは占星術師や暦製作者は伝統的なインド天文学の天文表を使いつづけたが、20世紀にはいると西洋から移入された近代天文学に変わっていった。

「イスラーム世界の天文学」(キング)

 近年、ヨーロッパ中心主義への反省からイスラム科学と、イスラム科学がルネサンスにあたえた影響が見直されているが、天文学史の世界でもイスラム天文学に注目が集まっている。本章はわずか40ページの小編ながらイスラム天文学の濫觴から独自の発展、ヨーロッパに対する影響までコンパクトにまとめている。

 アラブ民族は砂漠の民なのでもともと天文に対する関心が深く、月の満ち欠けなど天文知識をもっており、『コーラン』にも太陽や月、星が言及されている。断食月のはじまりと終りも月の観測にもとづいている。イスラム帝国が成立すると、帝国の各地に残っていたヘレニズム天文学の遺産をとりこみ、しだいに独自の天文学が発展していった。

 最初にアラビア語の天文学書が作られたのはインドとアフガニスタンで、インド天文学にもとづくものと『アルマゲスト』にもとづくものがあった。

「中世ヨーロッパの天文学」(ペーゼルセン)

 キリスト教世界では占星術は迷信の烙印を押され、古代の伝統は途絶えてしまった。天文学は大学の前身となった司教座聖堂学校で自由七科の一部として教えられるにとどまったが、スペインからアラビア語に翻訳されたギリシア天文学の文献が輸入されるようになった。11世紀にはイスラム圏からアストロラーブという天球儀を平面投影した多機能観測器具がもちこまれた。

 各地で大学が設立されアリストテレスの学問が研究されるようになると地球中心の天球理論が広まったが、プトレマイオスの複雑な体系と両立しないことがわかり二つの学派が生まれた。

 13世紀には占星術が復活し、占星術師(mathematician)が職業として確立した。占星術師は宮廷や都市に雇われ、星占いだけでなく土地の測量や度量器の管理者の役割もつとめた。

「ルネサンスの天文学」(スワドロー)

 コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラーにいたるおなじみの展開をあつかった章だが、コペルニクスに先立つレギオモンタヌスを特筆大書することで新味を出している。レギオモンタヌスについては『コペルニクスの仕掛人』が詳しかったが、本書の方がずっと大きくとりあげている。

 コペルニクスについては「コメンタリオルス」の論点はイスラム天文学者がすでにとりあげており、コペルニクスが「全く先行者たちを知らなかったとは信じ難い」としている。

 コペルニクスとケプラーの天体運行理論は多くの図を使ってわかりやすく説明している。翻訳は読みやすいが、既訳のある文献の題名の訳し方が違うのは不親切である。

「中世後期およびルネサンスの天文器具」(ターナー)

 この章は観測器具の歴史をあつかう。アルミッラ天球儀、アストロラーブ、クロス・スタッフ、四分儀などだが、大航海時代がはじまると海洋上で位置を知るために不可欠な道具となり、改良され大量に生産されるようになった。


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2010年09月30日

『デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナー-一七世紀の英雄的精神と至高善の探求』 カッシーラ (工作舎)

デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナー-一七世紀の英雄的精神と至高善の探求 →bookwebで購入

 哲学者デカルト、劇作家コルネーユ、女王クリスティナの三人を通して17世紀の時代精神を読みとろうとする試みである。本書は仏訳版からの邦訳で原著の一部が割愛されているが、重訳ながら訳文はカッシーラの重厚な風格をよく伝えている。

 原著は「デカルト主義の基本問題」という論文からはじまるが、邦訳はデカルトとコルネイユの間に影響関係はあったのかという問いにいきなりはいる。

 コルネイユはデカルトより10歳若かったが、世に知られたのはコルネイユの方がやや早く、代表作である『ル・シッド』の初演は『方法序説』の刊行された年である。コルネイユが新進劇作家として注目を集めはじめた時期、デカルトはオランダにいて互いに接点はなかった。それでもデカルト哲学とコルネイユ劇に「道徳的親近性」があるとしたら、同じ時代を生きていたからという抽象的な答えをもってくるしかないだろう。ランソンいうところの「平行関係」である。

 カッシーラはデカルト哲学とコルネイユのドラマツルギーが自由というテーマを共有していると指摘した後、ストア主義という補助線を引くことによって二人がともに生きた時代を浮彫りにする。

 ルネサンスを機にストア主義復興の気運が生まれ、デカルトもコルネイユもストア主義礼讃の教育を受けたが、カッシーラは「両者のストア主義には、単なる伝統的教説の反復など認められず、独創と斬新さがありありと窺える」と断ずる。その独創とは情念の肯定である。

 古代ストア主義にとって情念は無条件に悪であり、アパテイア――情念パトスのない状態、魂の平安――が至高善とされていた。アパテイアを実現するには諦念によるしかない。

 だが『情念論』で明確になるようにデカルトにとっては情念は脳の中で動物精気が騒擾する身体現象にほかならず、身体的存在である限りのがれることはできない。デカルトは諦念による情念の抑圧ではなく、むしろ情念に情念をぶつけて積極的に情念を統御する方途を選ぶ。デカルトから見れば古代ストア主義のアパテイアは「非身体的存在のための処方」にすぎず、理想どころか「虚妄」にすぎないのである。デカルトは情念を否定する消極的・受動的な古代ストア主義を情念肯定の積極的・能動的な近代ストア主義に換骨奪胎した。

 デカルトのこの積極的・能動的ストア主義はコルネイユの「悲劇は聴衆の魂のなかに憐みと恐怖を喚起しながら、カタルシスを行わなければならない」とするドラマツルギーと通底する。

 コルネーユの主人公(英雄)を際立たせるのは、情念に対する熟慮の優越にある。どの主人公も、デカルトが『情念論』で最良の技術として称揚したもの、すなわち「魂に固有の武器」を以て情念に立ち向かう技術を、身に備え、行使する。この武器とは、コルネーユの場合にも、「明晰で判明な観念」であり、それに基づく判断である。

 カッシーラは近代的ストア主義という概念によってデカルトとコルネイユに共通する時代精神に明確な輪郭をあたえたのだ。

 クリスティナ女王はどうだろうか。

 デカルトをストックホルムに呼びよせたスウェーデン女王クリスティナは名君の誉れが高かったが、デカルトが亡くなって5年後、従兄弟のカルル十世に禅譲してカトリックに改宗してしまう。みずから王冠を棄てるというだけでも大変なことなのにプロテスタント国の女王がカトリックに宗旨変えしたのだから、古来さまざまな憶測をよび、改宗にデカルトの影響があったかどうかも議論のまとになってきたが、どうも否定論が優勢のようである。

 クリスティナはデカルトから親しく教えを受けたとはいっても、デカルトは4ヶ月で急逝している。女王は多忙なために会う時間を早朝にしか作れず、朝寝坊のデカルトを毎朝五時に宮殿の図書室に伺候させたのに、言葉をかわしたのは週に数回だけだった。ようやく気心が知れてきたところでデカルトは病にたおれた。影響を受けるほどの関係ではなかったいう見方がでてくる所以である。

 カッシーラは17世紀前半のオランダで勃興していた「近代に特有の新しい色彩を帯びた」ストア主義に光をあてることによって、デカルトとクリスティナの師弟関係が4ヶ月にとどまらない広がりと深さを有していたと指摘する。

 ユストゥス・リプシウス、ゲラルドゥス・フォシウス、スキピオス、ヘインシウス……と知らない名前を挙られてもさっぱりわからないが、カッシーラを信じるならオランダに移住したデカルトはこの伝統に四方八方から包囲されていたということだし、クリスティナの方もオランダの文献学者や人文主義者のサークルと親交を結んでいた。

 クリスティナはデカルト哲学を知る以前からストア主義の厳格さに引かれていたが、エピクテートスを尊敬すると言い条、

「しかし、凶暴な主人が単なる気晴らしのためにその片足を切ったとき、この奴隷哲学者が耐え忍んだことは許しがたい。私ならば、哲学などはものともせず、その主人の頭をたたき割ったことであろう」

と言い放つようにもともと血の気が多かったのだ。彼女が情念を肯定するデカルトの新しいストア主義と情念の自然法則を解明した『情念論』に夢中になったのは当然だろう。カッシーラは書いている。

 中世の教義では情念とは罪に他ならず、人間の原初の神聖な起源からの堕落の表れであり結果に他ならなかった。一方、ストア主義にとって情念は病気である。それは理性の不在であり、ほとんど狂気に近い状態であるとされる。デカルトの倫理はこの両極端を排する。情念を独立した目標および善としてでなく、単なる手段と見なす。情念は、人間に自然にそなわった性向であり現象である限り、疑わしいものでも非難すべきものでもない。個々の情念は、たとえどれほど危険に見えようとも、何かよい面をもっている。……中略……この方策で武装した人間は情念を避ける必要もなければ、情念との戦いに空しく身をやつす必要もない。彼はむしろ情念を生活の幸福と感じるが、情念を善用することによりその幸福にふさわしい人間になろうと努力しなければならない。

 デカルト、コルネイユ、クリスティナはこの新しいストア主義に代表される近代の胎動期に生きていたのである。

 きわめて刺激的な論考だが、それだけに邦訳で割愛された部分が気になる。原著からの全訳版が待たれる。

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2010年09月29日

『デカルトの暗号手稿』 アクゼル (早川書房)

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 デカルトがストックホルムで客死してから四半世紀がたった1676年6月1日、デカルトが最期まで手元においていた文書を秘蔵するパリのクレルスリエのもとを若きライプニッツが訪れるところから本書ははじまる。クレルスリエは独占欲が強く、それまで他人にデカルトの手稿を見せるのを拒んできたが、ハノーファー公の紹介状とライプニッツの熱心さに負けてしぶしぶ閲覧と筆写を許した。この時書きうつされた文書類の原本は後に失われ、今ではライプニッツの筆写だけで伝わるが、その中に暗号で書かれたとおぼしい『立体要素について』という覚書があった。デカルトは暗号で何を書き残したのか。

 思わせぶりなはじまり方だが、ネタバレ的なことを書いてしまうと暗号は1987年にピエール・コスターベルによって最終的に解読されている。デカルトは正四面体や正六面体、正八面体といったプラトン立体を研究し、頂点と辺と面の数の間に以下の関係がなりたつことを発見していたのだ。

頂点の数 + 面の数 - 辺の数 = 2

 デカルトはこの式がプラトン立体だけでなく、あらゆる三次元多面体で成立することに気がついた。この式は三次元空間の性質をあらわすものだったのである。

 上掲の式はオイラーの多面体定理として知られているが、デカルトはオイラーより一世紀早く多面体定理を発見していた。もし暗号にしていなかったら、デカルトはトポロジーの創始者としても歴史に名を残していたかもしれないのだ。

 なぜデカルトはせっかくの発見を暗号で隠していたのだろうか。またまたネタバレ的なことを書いてしまうと、薔薇十字団がからんでいたというのが本書の結論である。

 薔薇十字団というとトンデモ本のたぐいかと警戒する人がいるかもしれないが、本書は著者の思いこみを垂れ流したたぐいの本ではない。著者のアクゼルは『天才数学者が挑んだ最大の難問』や『偶然の確率』、『フーコーの振り子』で知られる科学ライターで、オカルト畑の人ではない。デカルトと薔薇十字団の関係については賛否両論かまびすしかったが、近年の研究では関係があったことはほぼ確からしい。アクゼルはエドゥアール・メール、リチャード・ワトソン、クルト・ハヴァリチェクらの研究を手がかりに、薔薇十字団との関係という視点からデカルトの生涯を描いている。

 鍵となるのはファウルハーバーというウルム生まれの数学者である。彼は織物職人ながら算術教室を開き、ウルム市の数学者兼測量士に抜擢されるが、要塞や水車の設計にすぐれていたが、ドイツ遍歴時代のデカルトは彼と親交を結び共同研究までしていた(ロディス=レヴィス『デカルト伝』にも出てくる)。

 ファウルハーバーは錬金術に手を染め、薔薇十字団にも関係していたことがわかっている。彼は著書の中でポピュリオスというライプニッツが筆写した手稿の中にしか出てこないデカルトの偽名に言及しているし、デカルトの方は彼から教えられたらしい秘密の記号を手稿の中で使っている。

 驚いたのはウルム人脈経由でデカルトはケプラーと出会っていた可能性があることだ。本当に出会っていたなら、なぜ書き残さなかったのだろう(ガリレイに会えなかったことは書き残している)。

 本書でもう一つ興味深いのはデカルトに対するライプニッツの愛憎半ばする思いである。ライプニッツはデカルトの公刊本だけではあきたらず『精神指導の規則』のオリジナル原稿を購入したり、クレルスリエを訪ねて未公開手稿を見せてもらったり、エリーザベト王女の妹がハノーファー公妃となるとその縁で晩年のエリーザベト王女と文通しているが、その一方、マルブランシュにデカルトをこきおろした辛辣な書簡を送ったりもしている。

 デカルトに屈折した関心をつのらせるようになったのはニュートンとの微積分の優先権争いが影響しているようだ。ライプニッツは独力で微積分をあみだしたのにニュートンをパクったようにいわれたのがこたえ、他人の影響に神経過敏になっていたらしい。ライプニッツがもっとも影響を受けたのはデカルトであるから、デカルトのすべてを知っておかないと不安で仕方なかったのだろう。

 実はライプニッツはデカルトの暗号を解いていたことがわかっている。ライプニッツは16ページある『立体要素について』を1ページ半写しただけでやめ、余白に短いメモを書き残している。暗号を解いたコンスターブルはそのメモを根拠にライプニッツが途中でやめたのは暗号が解けてそれ以上筆写する必要がなかったからだとしている。ライプニッツがパクリ不安にとりつかれていなかったら、デカルトの秘められた発見を発表していたかもしれない。

 デカルトの業績が世に出る機会はもう一回あった。決定版の伝記を書いたバイエはライプニッツがデカルトの手稿を筆写していたと聞き、内容を問い合せていたのだ。ライプニッツは内容を解説してやったが、バイエは数学がわからないので理解できず伝記にはライプニッツへの謝辞だけが書かれているという。

 本書は薔薇十字団に偏りすぎているとはいえデカルトの伝記としてよくまとまっている。ロディス=レヴィスまでは手がでないが手っとり早く最新のデカルト像を知りたいなら本書をお勧めする。

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2010年09月28日

『デカルト伝』 ロディス=レヴィス (未來社)

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 デカルト研究の第一人者、ジュヌヴィエーブ・ロディス=レヴィスによる伝記である。ロディス=レヴィスは大著『デカルトの著作と体系』(紀伊國屋書店、絶版)とクセジュ文庫の『デカルトの合理主義』(白水社)が邦訳されている。

 デカルトの伝記は1691年に刊行されたバイエの『デカルト伝』(講談社、絶版)が長らく決定版とされ、今でも準一次資料としてあつかわれているが、本書はそのバイエに代わる新たな決定版伝記という評価が定まっているという(小林道夫『デカルト入門』でもそういうあつかいだ)。

 わたしが本書を手にとったのはダヴィデンコの破天荒な伝記小説『快傑デカルト』にどの程度信憑性があるかを確かめたかったからだが、結論はすぐに出た。ロディス=レヴィスは「プロローグ」の末尾に「デカルトの伝記作者たち」という補説をつけ、デカルト没後3年目にでたリプシュトルプから今日にいたる代表的な伝記を俎上に載せているが、「近年では主観的で、偏っていて、しかも攻撃的な視点が盛んに見られるようになった」とし、その中でも最悪のものとしてダヴィデンコの本に言及している。ダヴィデンコはデカルトと聖秘蹟会の敵対関係を後半の軸にしているが、デカルトのスウェーデン招聘に奔走しストックホルム到着後は自宅に泊めて世話を焼いたシャニュは聖秘蹟会の一員だった。ダヴィデンコは新発見の事実をいくつかとりこんでいるものの、間違った読み筋で物語を組み立てていたのである。ロディス=レヴィスは「この著作がすでにあまりにも多くの好奇心を呼び起してしまっているのでなければ、われわれはむしろそれについて沈黙を守るほうを選んだであろう」と吐き捨てるように書いている。

 デカルト家が貴族ではなかったのに貴族とされていた件だが、バイエが祖父のピエール・デカルトを同郷同名の貴族と誤認したのが原因だった。ピエールは医者でフランソワ一世の王妃のエレオノールの侍医をつとめたジャン・フェランの娘と結婚したが、腎臓炎と膀胱結石で早世した。曾祖父にあたるジャン・フェランはピエールの遺体を解剖し、ラテン語の論文の中で所見を報告したという。解剖したということは外科医だったのだろうか。それとも医師であるにもかかわらず解剖したのだろうか。デカルト自身は30代半ばになるまで医学に関心を見せなかったが、科学探求心は隔世遺伝したようである。

 デカルト家は医業で財をなしたが、当時は医者は社会的評価が高くはなく貴族の称号をもつ者は稀だった。デカルトの父ジョワシャンは大学では医学部より格の高い法学部で学び、官職を買って法官となった(当時の官職は買うか相続するものだった)。三代つづけて法官になれば貴族に叙せられた。デカルト家が貴族となるのは1668年(デカルトの死の18年後)のことである。

 デカルト家は貴族への階段をのぼりはじめた新興ブルジョワジーで、デカルトとその兄は一族の期待をになってアンリ四世の肝煎で作られた名門ラ・フレーシュ学院から法学で有名なポワチエ大学にすすむ。

 兄は法官となるが、デカルトはエリートコースを捨てた。もし望めば子供のいない代父ルネ・ブロシャールの官職を相続することができたろうが(ブロシャールはデカルト25歳の時に亡くなるが、デカルトが相続しなかったので官職は売却されている)、彼はオランダでオラニエ公マウリッツ・フォン・ナッサウの軍の志願兵となった。今なら東大法学部を卒業してフランス外人部隊にはいるようなものだ。

 通説では親の意向で箔をつけるために軍にはいったとされてきたが、デカルトは貴族ではなかったので箔づけとなるような地位に出世する見こみはなかった。親の意向どころかむしろ親の反対を押し切って軍隊にはいったと見るべきだろう。

 なぜデカルトは法職の道からはずれたのか。ロディス=レヴィスは『方法序説』の「法学、医学および他の諸学はそれらを修める人々に名誉と富をもたらす」という一節から金になる仕事を嫌ったのだろうと推測している(彼が正業につかずに哲学研究をつづけることができたのは父祖が医学と法学で稼いでくれたおかげなのだが)。

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2010年08月22日

『悪魔くん』/『悪魔くん千年王国』 水木しげる (ちくま文庫)

悪魔くん
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悪魔くん 千年王国
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 悪魔くんは貸本漫画時代の1963年に誕生したキャラクターである。悪魔くんの物語も何度も描き直されているが、ちくま文庫には「少年マガジン」版の『悪魔くん』と「少年ジャンプ版」の『悪魔くん千年王国』がはいっている。発表順としては『悪魔くん』の方が早いが、その前に貸本時代の東考社版『悪魔くん』(何度も復刻されているが、現在入手可能なのは小学館から3分冊で出た普及版)があり、『悪魔くん千年王国』は東考社版の改作なので最初の構想に沿っているというややこしい関係になっている。

 鬼太郎と河童の三平が巻きこまれ型のキャラクターなのに対し、悪魔くんは自分から世直しをしようと動きだす行動型のキャラクターである。悪魔の力を借りてでもユートピアを実現しようというのは一種の暴力革命論であるが、自伝によると貧乏がつづいていたところに大蔵省から自宅の立ち退きを迫られ、社会の仕組に対する怒りからメシア的主人公を思いついたという。

 最初の東考社版は5巻の構想で書きはじめられたがまったく売れず、3巻で打ちきりになった。スフィンクスが悪魔くんと対決するために日本に向かいはじめたこれからという時に悪魔くんは警官隊に射殺されてあっけなく死んでしまう。7年後に復活という予言を最後につけくわえたのはいつかは当初の構想通り物語を完結させたいという作家の意地だろう。

 復活の機会は予言より早く来た。1965年に水木はメジャー・デビューするが、翌年には「週刊少年マガジン」と「別冊少年マガジン」に『悪魔くん』の改作版を短期連載している。主人公が寄目の瓢箪顔で茫洋とした松下一郎から、りりしく賢そうな山田真吾に変わり、物語の重点を世直しから妖怪退治に移した子供向けバージョンだったが、これがテレビで実写映画化され水木人気に火がついた。

 ちくま文庫の『悪魔くん』は山田真吾を主人公とする「少年マガジン」版だが、人気を博したもののユートピアの実現という壮大な目標は途中でどこかへいってしまう。1970年、水木は当初の構想通りの『悪魔くん復活 千年王国』の連載を「週刊少年ジャンプ」(集英社)ではじめる。東考社版の途絶から6年後、悪魔くんはようやく真の復活をとげることになったのだ。これを文庫化したのが『悪魔くん千年王国』である。

 『悪魔くん』の意義は西洋文明の裏で脈々とつづいていたオカルト世界を子供にまで一挙に広めたことだろう。1960年には澁澤龍彥が『黒魔術の手帖』のもとになる連載を「月刊宝石」ではじめていたし、1961年には平凡社世界教養全集からセリグマンの『魔法』の抄訳が出たが、ごく少数の好事家が興味をもっただけで一般にはほとんど知られていなかった。ところが『悪魔くん』で魔法陣やエロイムエッサイムという西洋の呪文が知れわたった。1970年代にはいってオカルトブームが起こるが、ブームを支えたのは子供の頃『悪魔くん』に夢中になった世代である(わたしもその一人だった)。

 「少年マガジン」版『悪魔くん』は第1話「悪魔くん登場」は東考社版を踏襲するが、第2話「悪魔メフィスト」以降の五つののエピソードはテレビ放映にあわせて書かれたもので、善玉悪玉とりまぜておどろおどろしい妖怪が次々と出てくる。全身に目がある百目の異様な姿は今でもまざまざと憶えている。細密描写と偏執狂的な点描の迫力に圧倒されたが、後につげ義春と池上遼一がアシスタントとして参加していたと知りなるほどと思ったものである(NHK『ゲゲゲの女房』には小峰と倉田という名前で登場)。

 妖怪と対決するアクションものになっているが、メフィストがぐうたらな怠け者だったりと水木漫画のコミカルな味は一貫している。

 『悪魔くん千年王国』はプロダクションの分業体制で凝ったことがいくらでもできるようになってから東考社版を改作したものだが、十二使徒はそろうものの結末は東考社版とそれほど変わらない。悪魔くんが社会をどうひっくり返すのか期待していたのだが、千年王国は未発で終わるということだろうか。

 第六使徒の家獣と『ハウルの動く城』についてひと言。家獣は迷宮構造の城塞のように登場したが、正体は生き物で悪魔くんが呼びかけると二本脚で立ちあがって歩きだす。二本脚で歩く城というと誰しも『ハウルの動く城』を思いうかべるだろう。宮崎駿の『ハウルの動く城』はダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作とするが、ジョーンズの moving castle とは黒煙と炎を噴きだしながら空中を移動する魔術的機械であり、邦訳の裏表紙にはラピュタを黒くしたような宙に浮かぶ城の絵が描かれている。シリーズ名もアニメ化の前は「空中の城」となっていた。二本脚で歩く城はアニメ版ではじめて登場するのである。ハウルの歩く城は家獣がヒントになっていた可能性が高いと思う。

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2010年08月21日

『河童の三平』 水木しげる (ちくま文庫)

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 河童の三平も紙芝居時代にさかのぼるキャラクターで、貸本版は1961年から翌年にかけて兎月書房から8冊出ている。メジャーになってからは「月刊ぼくら」(講談社)に「カッパの三平」として1966年1月号から7月号まで最初の部分が改作され、1968年7月には「週刊少年サンデー」(小学館)で連載がはじまった。「少年サンデー」版も基本的は貸本版を踏襲するが、新たなエピソードが追加されている。

 『河童の三平』は漫画でしか描けない世界を描いた傑作で、水木作品が百年先に残るとしたら鬼太郎でも悪魔くんでもなく、これではないかと思う。しかし子供には人気がなかったらしく、あまり本が出ていない。9月に小学館クリエイティブから貸本版の完全復刻版が限定BOXで出るようだが、現時点で入手可能なのはこのちくま文庫版しかない。困ったことに本書は〈全〉とうたっているものの「ふしぎな甕」、「木神さま」、「幽霊の手」、「夢のハム工場」の4話が未収録で、収録作品にも省略部分がある。ページ数の関係だろうが、一冊で出すには無理があったのだ。

 第一話「死神」は山奥の村で祖父に育てられている三平が小学校に入学するところからはじまる。父は大学を出たのにぐうたらで行方知れず、母は三平を大学にやるために東京のパチンコ屋に働きにいっている。三平は学校で河童に似ているとからかわれるが、舟で寝ていたところ、本物の河童に同類と勘違いされ河童の世界に連れていかれてしまう。

 河童の世界に迷いこんだ人間は殺される決まりだったが、顔が河童そっくりなことから特例と認められ(後に河童の血を引いていることがわかる)、人間の世界に留学する長老の息子のかん平の面倒を見るという条件で帰るのを許される。

 人間の世界にもどってみると死神が祖父を迎えに来ていて、ここから死神と三平の腐れ縁がはじまる。三平の努力もむなしく祖父は死神に連れ去られるが、死を悟った祖父が三平を思いやる言葉は惻々と胸に迫ってくる。

 祖父を失った後、三平は森の中に隠棲していた父と再会するが、父は三人の小人を三平に託すと死神に連れ去られてしまう。父は滅亡に瀕した小人を生涯をかけて研究していたが、小人を守るためにあえて発表せず、世に隠れて生きることを選んだのだった。

 三平は祖父も父も失うが、河童のかん平やライバルの義理がたいタヌキ、父の残した三人の小人、そしてしつこくつきまとう小狡い死神がいるので日常はにぎやかだ。

 第二話「空中水泳」では屁を推進力にした河童式泳法で国体に出場し、一冊の長編の分量のある第三話「ストトントノス七つの秘宝」では『指輪物語』ばりの大冒険をくりひろげて、ついに河童大王となる。第四話「屁道」では屁道の二代目に抜擢されるが、最後の「猫の町」では一転して病身の母をかかえて無一文で東京の裏町をさまよい歩き、子供向けの漫画にはありえない方向に転がっていく。うら寂しい結末は記憶に深く残る。

 日本ではついこの間まで死は身近なものだった。死んでも無になるのではなく、思いは残るとみんな信じていた。死は人を自暴自棄にするのではなく、残った朋輩を思いやることにつながった。それが老荘とも仏教とも違う日本の風土に根ざした死生観だった。日本人とはなにかを思いだすためにも、本書は広く読まれてほしい。

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2010年08月20日

『鬼太郎夜話』 水木しげる (ちくま文庫)

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 水木しげるは鬼太郎、河童の三平、悪魔くんという三大キャラクターを生みだしたが、筆頭は鬼太郎だろう。紙芝居時代にさかのぼる最古のキャラクターである上に現在にいたるまで描きつがれ、アニメ・シリーズも1968年版をはじめとして5度にわたって製作され、2008年には貸本時代の鬼太郎が『墓場鬼太郎』としてアニメ化されている。最初のアニメ化で「墓場」という言葉が嫌われ、「ゲゲゲの鬼太郎」に改題したことを考えると感慨深いものがある。

 鬼太郎は長く描きつがれただけに成り立ちが入り組んでいて、他の作品からとりこんだり、同じエピソードが何度も改作されたりしている。本書は長井勝一(『ゲゲゲの女房』の深沢のモデル)の「ガロ」(青林堂)に1967年6月号から1969年4月号まで連載された『鬼太郎夜話』の文庫化だが、これにはオリジナルがある。同じ長井がやっていた三洋社から1960年から翌61年にかけて出た同題のシリーズである(こちらは角川文庫の『貸本まんが復刻版 墓場鬼太郎』の第2巻第3巻として収録)。

 内容ともかかわるので、ここで鬼太郎シリーズの成立事情をふりかえっておきたい。

 鬼太郎は紙芝居作家だった時代、戦前の人気作だった「ハカバキタロー」の題名にヒントをえて描きはじめたシリーズだった。貸本漫画に移ってから1959年に兎月書房(『ゲゲゲの女房』の富田書房のモデル)の貸本誌「妖奇伝」に鬼太郎の登場する「幽霊一家」(角川文庫貸本まんが復刻版『墓場鬼太郎』第1巻に収録)を描き、読者の反響があったことから『墓場鬼太郎』としてシリーズ化された。ところが3巻まで書いたところで原稿料不払いがつづいたために兎月書房と絶縁、長井の三洋社に移って『鬼太郎夜話』シリーズとして書きついだ。4巻までは出版されたが、長井の入院で三洋社が倒産、その混乱の中で5巻目の原稿は失われてしまった。

 ややこしいのは水木が去った後の兎月書房が別の作家に鬼太郎シリーズの続篇を勝手に書かせていたことである。その作家は水木と面識があったので、続編を引き受けるにあたり、水木に1作だけだからと断りをいれたということだが、結果的に16作もつづいたという。

 別の作家の書いた鬼太郎シリーズと平行して書かれたのが本書の原型の三洋社版『鬼太郎夜話』なのである。中盤から「にせ鬼太郎」が登場するのはこうした事情と無関係ではあるまい。

 水木は1965年に「週刊少年マガジン」(講談社)に作品を発表するようになると鬼太郎を子供向きに描きなおして何本か発表するが(「少年マガジン」版はさまざまなところから出ているが、現在入手可能なものでは中公文庫コミック版が完備している)、当初はあまり人気がなかった。しかし『悪魔くん』のテレビ化で水木人気に火がつくと「少年マガジン」に鬼太郎が連載されるようになり、それが1968年の最初のアニメ化につながる。1967年から69年は鬼太郎が国民的キャラクターとして認知されていく時期なのである。

 水木はまさにこの時期に貸本時代の『鬼太郎夜話』を古巣の「ガロ」に描き直している。「少年マガジン」版の鬼太郎はどんどん正義のヒーロー化していったが、ここには煙草も吸えばスリの手伝いもする原点の鬼太郎がいる。多忙な時期にろくに原稿料の出ない「ガロ」に敢えて貸本版鬼太郎を復活させたのは水木の作家意識のあらわれだろう。

 吸血木にとり憑かれる歌手がトランク永井から三島由美夫に変わっていたり、浅沼ネタの省略があるなど細部が変わっているが、大筋は三洋社版と同じである。絵が精密化し完成度が高くなっているものの、荒々しいパワーは薄まっているが、つげ義春がアシスタントをしていた頃なので「寝子さんのようなきれいな子はつげ義春ぐらいの男前じゃなくちゃ」という楽屋落ちがあったりする(つげ義春のタッチを髣髴とさせるコマがあったりする)。三洋社版が角川文庫で入手しやすくなったとはいえ、「ガロ」の雰囲気が濃厚で、これはこれで独自の価値があると思う。

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2010年08月19日

『水木しげる 怪奇 貸本名作選―不死鳥を飼う男・猫又』 水木しげる (ホーム社漫画文庫)

水木しげる 怪奇 貸本名作選―不死鳥を飼う男・猫又 →bookwebで購入

 「恐怖」編につづく京極夏彦氏が選んだ貸本名作選の二冊目で12編をおさめるが、どれも文句なしの傑作ぞろいだ。

「不死鳥を飼う男」

 1963年に貸本誌「黒のマガジン」(東考社)第5号に掲載。

 森の中のあばら家に住む貧乏な漫画家夫婦のところに鳥かごらしき包みをかかえた老人が下宿してくる。老人は羽振りがいいらしく、言い値の家賃を半年分先払いするが、布でくるんだ鳥かごは絶対に覗かないようにと厳命する。

 仕事場に使っていた部屋を老人に明け渡したので漫画家は近くの神社の社殿に勝手に机を持ちこみ漫画を描くが、老人の鳥かごの中身が気になって仕方がない。老人の留守中、ついに覗いてしまうと……

 老人と神主の語る神社理論が妙に説得力がある。この作品の発表後2年足らずで水木家には福の神が住みついたから、ひょっとすると……

「庭に住む妖怪」

 1961年に貸本短編集『スリラー』(秀文社)に掲載。

 鬼太郎に似た風貌のガン太郎ものの一編で、金持ちにする代わりに娘が18歳になったら結婚させろと要求する狐の妖怪を退治する話。ヒロインの娘が妖怪じみた顔をしている。水木しげるは萌えキャラが不得意のようだ

「サイボーグ」

 1960年に貸本誌「恐怖マガジン」(エンゼル文庫)第2号に掲載。同号には「髪」(「恐怖」編に収録)が東眞一郎名義で併載されている。

 ノーベル賞一ダース分の名誉がえられると吹きこまれて宇宙探検のためにサイボーグ化を志願する男の話。一応SFものだが、水木しげるだからどんどん怪談化していく……

 貸本時代中期以降の作品には成功の暗黒面を描いた風刺的な作品が増えるが、これはその端緒となった作品の一つである。

「太郎稲荷」

 1964年に貸本誌「忍法秘話」(加藤書店)第12号に掲載。

 コミカルな時代ものの一編。ツッコミ役はだるま家の番頭、ボケ役の三平は丁稚でねずみ男がくわわる。三平はナショナル屋の松下幸之助のような日本一の金持ちになりたいと願いねずみ男の勧めで太郎稲荷に祈ったところ、ちょうど三越屋の当主がなくなり、彼に憑いていた太郎稲荷が三平に憑いてくれる。三平は見違えるような働き者になり、だるま家の養子にむかえられる。金持ちになったのに太郎稲荷は働け働けと三平をせっつき、三平はちっとも生活を楽しむことができない。そしてついに……

 本作発表の一年後、水木は妖怪おいそがしにとり憑かれるが、それを予感させるような一編である。

「空のサイフ」

 1965年に貸本誌「忍法秘話」(青林堂)第18号に掲載。

 コミカルな時代ものの一編。貧乏神の住みついていたサイフをめぐる奇譚で、これも妙に説得力がある。本作を発表した直後、水木家から貧乏神が去っていくが、なにか会得することがあったのだろうか。

「ろくでなし」

 1965年に貸本誌「忍法秘話」(青林堂)第19号に掲載。

 コミカルな時代ものの一編だがボケ役は登場せず、東考社の桜井昌一氏(『ゲゲゲの女房』の戌井さんのモデル)に似たツッコミ役とねずみ男だけが登場。ツッコミ役は「河童膏」という薬をつくる店に雇われ原料の河童の皿とりをしているが、さっぱり見つけることができない。河童を探して川にはいり溺れかけたところを親切な河童に救われ、川の底の家で歓待されるが、そこへ河童の皿とりの名人があらわれ……

 これも成功の暗黒面を描いた話で、非情になれない主人公はねずみ男から「天使病」と診断される。主人公にはどうしても戌井さんの面影を見てしまう。

「ねずみ町三番地」

 1961年に貸本誌「面」(カナリヤ文庫)第2号に掲載。

 安部公房の『砂の女』と似た構造の話なので驚いた。『砂の女』をヒントにしたのかと思ったら、発表はこちらの方が一年早い。安部公房が貸本屋にいっていたとは思えないが、共通のソースがあったのだろうか。あるいは偶然の一致か。

「水晶球の世界」

 1963年に貸本誌「黒のマガジン」(東考社)第2号に掲載。

 はくせい屋の主人が秘蔵する水晶球をめぐる奇譚。殺人に発展するのかと思ったが、さりげなく終わってしまうところが逆に不気味だ。

「ハト」

 1965年に貸本誌「忍法秘話」(青林堂)第14号に掲載。

 コミカルな時代ものの一編。ツッコミ役は金貸し、ボケ役の三太はその息子だ。金貸しはぐうたらな三太をどうにかしたいとねずみ男に相談したところ、ハトを飼わせろと勧められる。三太にハトの世話をさせたところ、急に模範的な子供になって親孝行をはじめたのはいいが、妙に道徳的になって金貸しはいけないなどと言いだし……。

 成功の暗黒面を描いた作品にはいるだろうが、ぐうたらの勧めというべき飄々とした結末がいい。

「猫又」

 1961年に貸本誌「別冊ハイスピード」(三洋社)に掲載。

 主人公の学生は金持ちの息子に誘われ、金になる鉄屑がたくさんあるという戦時中軍の要塞のあった島に出かける。対岸の漁村ではあの島は猫又の祟りがあるといわれていて誰も船を出してくれない。二人はタライ舟を借りて島にわたるが……

 人面瘡ならぬ猫面瘡の話で、これは怖い。

「群衆の中に」

 1964年に貸本誌「劇画No.1」(東考社)第1号に掲載。

 貸本漫画家の長井は同業の花森と久しぶりに会って酒をともにする。花森の漫画が最近低調なので理由を聞くと、花森は妻は人間ではなく妖怪の一族だなどと妄想じみた話をする。長井は聞きながすが、実は……

 大都会も皮を一枚めくると妖怪の住む異界という現代の怪談である。

「太郎岩」

 1963年に 貸本誌「劇画マガジン」(佐藤プロ)第3号に掲載。

 ダイビングで海底に沈んだ神社から真珠の首飾をもってきたばかりに妖怪少女にとり憑かれる女の話。美少女だったらもっと怖かったと思うが、水木しげるにはやはり美少女は描けないようだ。

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2010年08月18日

『水木しげる 恐怖 貸本名作選―墓をほる男・手袋の怪』 水木しげる (ホーム社漫画文庫)

水木しげる 恐怖 貸本名作選―墓をほる男・手袋の怪 →bookwebで購入

 熱烈な水木しげるファンで知られる京極夏彦氏が選んだ貸本時代の名作選である。「恐怖」編、「怪奇」編の二分冊にわかれ、「恐怖」編は10作品をおさめる。どちらか一冊ということなら、「怪奇」編の方を勧める。

 京極氏の解説は貸本漫画のシステムを解説しており、いろいろ教えられた。『ゲゲゲの女房』のファンならなるほどと思うことがあるだろう。

「墓をほる男」

 1962年に曙出版から単行本として出版された。

 世界的に知られる詩人三島ユキ夫がフランスのジャン・コクトオに髑髏を土産にと頼まれ、深夜にこっそり墓を掘りかえし三つの髑髏を手にいれる。翌日、別の土産を買いにデパートにいくが、存在するはずのない四階に迷いこみ……

 主人公の三島ユキ夫は三島由紀夫をデフォルメした顔だちで(三島由紀夫はまだ存命)、すくない線でよく特徴をとらえているが、彼を異空間に誘いこむデパートガールは「きいちの塗絵」を福笑いにしたような変な顔である。水木はあれだけ絵がうまいのに、なぜか美少女だけは不得意のようだ。

 そのまま「世にも奇妙な物語」に使えそうなストーリーだが、作品としてはどうだろうか。すくなくとも巻頭にもってくるほどの出来とは思えないのだが。

「髪」

 1961年に貸本誌「恐怖マガジン」(エンゼル文庫)第2号に東眞一郎名義で掲載。同号にはメインディッシュにあたる「サイボーグ」(「怪奇」編に収録)というSF怪談を水木しげる名義で発表している。こちらはどちらかというとデザート的な作品である。

 杉浦は高校時代から若禿に苦しみ、卒業後うっぷんを晴らすために他人の髪を切る理髪師になる。ある日、1日10cmも髪が伸びるという男が店にあらわれ、杉浦は男の毛根を自分の頭皮に移植すれば若禿の悩みを解消できると思いつき……

 傑作。水木しげるならではのとぼけた味で笑わせておいて最後は恐怖で締める。まさに名人芸だ。

「永仁の壺」

 1960年に貸本誌「恐怖マガジン」(エンゼル文庫)第1号に掲載。

 河童の卵のはいった壺を見つけたばかりに大騒動に巻きこまれる言語学専攻の学生二人組の話で、前年に起きた加藤唐九郎の永仁の壺事件がヒントになったのだろうが、怪しげな国宝候補という点以外に事件との共通点はない。

 「神様」の語源は「髪様」ではないかという人を食った仮説がはじまりだが、絵は最初から妖気を漂わせ一気に水木ワールドになだれこむ。細密画タッチの画風は一人で描いていた頃から一貫していたことがわかる。

「手袋の怪」

 1964年に貸本誌「劇画No.1」(東考社)第2号に掲載。

 怪奇作家の五味は怪奇評論社の社長の提供してくれた家に無料で住みはじめるが、宙に浮く手袋があらわれ原稿を書こうとする五味にあれこれ指図して幽霊肯定論を書かせる。原稿を受けとった社長は家のいわれを明かす……。

 五味康祐をモデルにしたと思われる狷介な作家が手袋の言いなりになるのが笑える。滑稽味と恐怖のあわせ技は水木の独擅場だ。

「鉛」

 1963年に貸本誌「黒のマガジン」(東考社)第4号に掲載。

 主人公の学生は子供のいない伯父の家に遊びにいき、酔いにまかせて夫の耳の中に融けた鉛を注ぎこんで殺した女の話をする。数日後、胸騒ぎがして伯父を訪ねると伯母が突然死したと聞かされる。伯父は急速に衰弱して死んでしまい主人公が財産を相続する。伯父の家に移った主人公は中に鉛の玉のはいった髑髏を発見し……。

 死相がだんだんあらわれてくる主人公の顔が怖い。

「陸ピラニア」

 1965年に貸本誌「忍法秘話」(青林堂)第16号に掲載。

 「忍法秘話」は白土三平の忍者ものがメインディッシュで水木はデザート的なコミカルな時代ものを提供した。登場するキャラクターは二人で漫才のボケとツッコミのようなかけあいをする。ボケ役は三太とも三平とも呼ばれる鬼太郎・ガン太郎系のキャラクター、ツッコミ役は水木作品でおなじみの「メガネをかけた出っ歯のサラリーマン」の時代ものバージョン(モデルが同じなので『ゲゲゲの女房』の戌井さんにそっくりだ)。ここには出てこないが、ねずみ男がくわわることが多い。

 本作の二人は百姓役で、顔のイボかと思ったら人間を食うりくピラニアという凶暴な生物にとりつかれていて、二人は陸ピラニアのドレイにされる。ひょうひょうとした味わいは絶品。

「半幽霊」

 1961年に貸本誌「面」(カナリヤ文庫)第1号に掲載。

 主人公の水木は漫画家になろうと上京して出版社に原稿をもちこむが一蹴され、代わりに死森という人気怪奇作家の助手にならないかと誘われる。人里はなれた幽霊屋敷のような死森家に住みこんで助手になるが、死森は締め切りが迫っているのに散歩にばかり出て原稿を書こうとしない。散歩にはついてくるなと厳命されていたが、水木はこっそり死森の後を追い……

「安い家」

 1963年に貸本誌「黒のマガジン」(東考社)第3号に掲載。

 権利金は高いが家賃は相場の1/10という格安の貸家のカラクリとは……

 恐怖ものというよりは怪奇ものだが、これは怖い。

「怪忍」

 1964年に貸本誌「忍法秘話」(青林堂)第10号に掲載。

 トペという抜忍を追って隠家にはいった主人公が出会った怪異とは……

 怪異の内容が複雑すぎてあまり怖くない。

「草」

 1963年に貸本短編集「砂の巨人」(東考社)に掲載。

 朝寝坊つづきで会社を馘になった主人公がやはり馘になった川田とともにヤワタママノオロチの宝を探しに山陰にいく。川をさかのぼってそれらしい島を見つけて野営するが、宝を守るために草が二人に襲いかかる……

 草の細密描写がすごい。一人でよくここまで描きこんだものだ。

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2010年08月17日

『大空戦―水木しげる戦記選集』 水木しげる (宙出版)

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 貸本時代の航空戦漫画7編とメジャーになってからの1編をおさめた戦記漫画短編集である。巻末に戦記ものの発表の舞台となった貸本誌「少年戦記」について聞いたインタビューを載せる。

「ごきぶり」

 「サンデー毎日」(毎日新聞社)1970年2月6日増刊号「これが劇画だ」に掲載。『敗走記』収録のものと同じである。パイロットが主人公なので本巻にはいったのだろう。

「撃墜」

 1959年に貸本誌「陸海空」(兎月書房)第1号に掲載。

 扉に「『坂井三郎空戦記録』の一部」とうたってあるように、開戦第一目のマレー攻撃における坂井三郎の活躍を描いた短編。リアルなタッチのコマと漫画的に簡略化されたタッチのコマが混在している。水木はこの作品のために坂井に取材し解説も書いているよし。

「絶望の大空」

 1959年に貸本誌「陸海空」(兎月書房)第3号に掲載。

 坂井三郎がガタルカナル上空で被弾し、片目の視力を失いながら奇跡的に帰還したエピソードを45頁にまとめたもの。本書で一番読みごたえがある傑作。

 あとがきがついていて、別のテーマで書く予定だったが撃墜王特集に坂井三郎がないのはおかしいので編集部の要望で急遽書くことになったとある。

「ブーゲンビル上空に涙あり」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第4号に掲載。『白い旗』所収の同題の作品のオリジナル版である。

 水木は1959年にも山本五十六遭難をアメリカ側の視点から描いた「山本を落とせ!」(本巻に収録)という24頁の短編を発表しているが、これは日本側の視点もとりいれて42頁に描き直したもの。前半は日本側、後半はアメリカ側と視点が交代し、奥行が生まれている。

 山本五十六遭難は「山本を落せ!」(1959)、「ブーゲンビル上空に涙あり」オリジナル版(1964)、同改作版(1970)と3回描いているが、この1964年版が一番いい。

「山本を落せ!」

 1959年10月に貸本誌「世界戦記」(セントラル出版社)第2号に掲載。上掲の「ブーゲンビル上空に涙あり」の項を参照。

「零戦とグラマンの血闘」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第2号に関谷すすむ名義で掲載。

 撃墜された零戦のパイロットが三八式歩兵銃一丁で戦車を破壊し、魚雷艇に救助されてからは空母を轟沈させるという大活躍をみせる。

「壯烈台風爆弾」

 1959年に兎月書房から単行本として出版される。

 扉に「製作助手 阿部一夫 米替富子 原作 水木しげる」とあるが、登場する二人の娘が他の絵柄とはまったく違う当時の少女漫画の顔であることからすると、娘を担当したのは米替氏だったのかもしれない(ということは米替氏が『ゲゲゲの女房』で南明奈が演じた河合はるこのモデルか?)。

 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦にも参加した空母鳳翔の活躍を描いた98頁の中編。鳳翔ははじめから空母として建造された世界最初の空母だったが、大正11年就役という老朽艦だったので艦隊の最後尾についていくのがやっとで、そのためにミッドウェーでは損傷を受けずにすんだ。

 史実ではその後訓練用空母になり無傷のまま敗戦をむかえたが、本作では第一次ソロモン海戦で囮になって日本軍を勝利に導き、さらにアメリカ軍に奪われた新兵器「台風爆弾」(なんと原爆!)をとりもどすために出動する。クライマックスでは空母サラトガと一騎討ちの戦いになるが、かなり無茶な展開である。

「零戦総攻撃」

 1961年に曙出版から武取いさむ名義で出版される。

 アメリカの撃墜王ブラックの挑戦に日本の撃墜王村上が応えて一騎討ちの空中戦をおこなうが、ブラックの正体は実は……という話。この作品も応対に困る。

 B29がひしめく敵飛行場上空で「タコ爆弾」を爆発させ炎上させるというエピソードが出てくるが、綿引勝美氏の解説によると「タコ爆弾」は黄燐を飛びちらせるクラスター爆弾の一種で実戦で使われたそうである(戦果はめったにあがらなかったらしいが)。

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2010年08月16日

『鬼軍曹―水木しげる戦記選集』 水木しげる (宙出版)

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 貸本時代の作品11編とメジャーになってからの作品2編をおさめる戦記漫画短編集である。

 タイトルの「鬼軍曹」とは貸本誌「少年戦記」の編集をまかされていた時代に作った陽気なキャラクターで、ぐうたらぞろいの部下を救うために獅子奮迅の働きを見せる。

 水木は「少年戦記」に毎号メインディッシュとなる「水木戦記シリーズ」を書いたが、ほかに解説記事や軍艦の図面、イラストなど、1号あたり6~12本の作品を提供していた。「鬼軍曹」シリーズはデザートといったところか。「水木戦記シリーズ」以外は別名義か無署名だったが、「鬼軍曹」シリーズは関谷すすむ名義をもちい、絵柄は素朴で単純、いかにも当時の漫画という感じだ。

 「鬼軍曹」シリーズは「少年戦記」に5本発表されるが、兎月書房と喧嘩別れした後、「戦記日本」第2号に最後の作品となる「硫黄島の白い旗」を水木名義で書いている。同作はなぜか『ああ玉砕』の方にはいっているが、こちらに収録した方がよかったと思う。

 本書で特筆したいのは水木と兄の宗平氏との対談が載っていることだ。宗平氏は海軍大尉で敗戦をむかえたが、ニューギニア時代に撃墜したアメリカ軍パイロットの処刑にかかわったことでB級戦犯になるが、パイロットとは片言の英語でお喋りした仲だったので処刑命令を受けた時はつらかったそうだ。

「鬼軍曹~それは何だったのか~」

 「ビッグコミック」(小学館)1995年8月増刊号「終戦五十周年記念特集」に掲載。

 自伝系の話で、鬼という姓の軍曹が出てくる以外、貸本時代の「鬼軍曹」シリーズとは共通点がない。貸本時代の鬼軍曹は豪胆なスーパー軍曹だったが、こちらの軍曹は出世に汲々とするせこい中間管理職で、なまじ勇ましいことを言ったためにひっこみがつかなくなり、みじめな最期をとげてしまう。顔もまったく違うしモデルということはないだろう。なぜこの作品が巻頭に来ているのかわからない。

「鬼軍曹」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第5号に関谷すすむ名義で掲載。

 「鬼軍曹」シリーズの第一作で、タコ壷にもぐって敵戦車のキャタピラーを破壊し、戦車から出てきたアメリカ兵と殴りあいをやって負かしてしまう。重い話を読んだ後の口直しにちょうどいい。

「鬼軍曹 ちょいと居眠りの巻」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第6号に関谷すすむ名義で掲載。

 鬼軍曹が塹壕で一人居眠りをしていると敵戦車が突進してくる。鬼軍曹はすかさず手榴弾で戦車を走行不能にする。敵機が機銃掃射をくわえてくると鬼軍曹は敵戦車の砲塔に飛び乗り、戦車の機銃で敵機を撃墜する。

「鬼軍曹 ちょいとスリルの巻」

 1960年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第8号に関谷すすむ名義で掲載。崖の上の敵の斥候を鬼軍曹が発見、射殺する。

「鬼軍曹 土人の手紙」

 1960年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第11号に関谷すすむ名義で掲載。部下が原住民に頼まれた手紙を鬼軍曹は適中突破して届けにいくが、それは実は原住民から自分にあてた手紙だったとわかる。

「鬼軍曹の冒険」

 1960年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第12号に武良茂名義で掲載。

 鬼軍曹の分隊は敵に包囲され全滅は時間の問題だった。中隊に救援を求めにいかなければならないが、部下たちは誰も志願しないので鬼軍曹がみずから行くことに。途中、鬼軍曹は敵戦車を奪って敵の砲兵陣地をつぶし戦闘機を撃墜する。

「戦車對戦闘機」

 1960年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第9号に武良茂名義で掲載。燃料切れで敵軍に占領された飛行場に強行着陸した零戦が戦車と機銃を撃ちあいながら正面衝突したという実話を紹介した4頁の掌編。おそらく埋草として書かれたのだろう。

「乃木将軍と二〇三高地」

 1959年に貸本誌「陸海空」(兎月書房)別冊日露戦争特集号に掲載。『坂の上の雲』以前に書かれたので、神格化された乃木将軍像を何のひねりもなくなぞっている。

「ダンピール海峡」

 1959年に貸本誌「陸海空」(兎月書房)第2号に掲載。『敗走記』収録のもののオリジナル版で改作版の40頁に対し61頁ある。カット割が自然でこちらの方が迫力がある。しかし60頁目の欄外の「数日後、この軍旗は無事に海軍部隊によって救出する事が出来た!!」という注は興をそぐ。

「ケ号作戦裏話 脱出地点」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第4号に武良しげる名義で掲載。

 ガタルカナル島の負け戦をアメコミ風のドライな絵柄で描いた異色作。カット割もアメリカの派手な戦争映画を意識しているようだ。こういう対蹠的な作品があると水木戦記ものの湿度の高い密林の瘴気の立ちこめた作風がよりはっきりする。

「マリアナの竜」

 1960年に貸本誌「陸海空」(兎月書房)第4号に掲載。

 扉に「原作 ジョージ・本田 構成 水木しげる」とあって「少年戦記の会」のマークが描かれている。原作つきというふれこみだが、本当にそういう原作者がいたのかどうかはわからない(ご存知の方は御教示願いたい)。

 マリアナの竜と恐れられた月形治大佐を暗殺するために日系二世の兵士が送りこまれるというストーリーで応対に困る。月形大佐もいかにも漫画的なヒーローで実在の人物とは思えない。

「二人の中尉」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第1号に掲載。『敗走記』に収録のものと同じである。

「敗走記」

 「別冊少年マガジン」(講談社)1970年2月号に掲載。同題の短編集に収録のものと同じである。

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2010年08月15日

『ああ玉砕』 水木しげる (宙出版)

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 6編をおさめる戦記漫画短編集である。A5版と大きい上に貸本時代の作品や単行本化されていない作品が収録されており、宙出版の「水木しげる戦記選集」の中でも特にお買い得感の高い一冊である。

 そのためか版元品切中で一部でプレミアがつきはじめている。しかし流通在庫はまだあって、わたしは今月になって新本で手にいれたし、紀伊國屋BookWebでも在庫ありとなっている。人気のある本なので増刷される可能性もなくはないだろう。

「セントジョージ岬―総員玉砕せよ」

 『総員玉砕せよ!』の短編版で、長編版刊行の直前、「劇画ゲンダイ」(講談社)1970年8月1日増刊号に掲載された。書き下ろし作品の宣伝という意味もあったろう。

 長編版の350頁に対して短編版は32頁に圧縮されている。玉砕から生き残った兵士に待ち受ける過酷な運命を描いているのは同じだが、最後が違う。長編版は実際に近いややこしい経緯が語られているが、短編版は衝撃的な結末でスパッと終わる。こういう展開は現実にはありえないが、この結末で短編版は単なるダイジェストではなくなった。

「硫黄島の白い旗」

 1962年に貸本誌「戦記日本」(兎月書房)第2号に掲載。

 題名からすると「白い旗」(同題の短編集に収録)の別バージョンのようだが、こちらは「鬼軍曹」シリーズの一編である(『鬼軍曹』参照)。硫黄島に送られた鬼軍曹が獅子奮迅の活躍を見せるが、敗北が明白になった後部下を救うために白旗を掲げ味方から射殺される。

 「鬼軍曹」シリーズは「少年戦記」に口直しのユーモア戦記ものとして関谷すすむ名義で掲載されたが、シリーズ最後の作品となった本作は水木しげる名義で発表され、指がもげ首が飛ぶ生々しい話になっている。

「地獄と天国」

 「少年ワールド」(潮出版社)1979年1月号と2月号に分載。

 水木が戦場で片腕を失いながら生きのびた経緯は『マンガ水木しげる伝』や『ゲゲゲの人生』などで語られてきたが、これは子供向けにダイジェストした中編でエロチックな話は省略されている。

 歩哨に立っていたために敵の奇襲から生き残った主人公は死地を突破して中隊に収用されるものの敗残兵としていじめられ、マラリアで倒れる。高熱で寝ているところに敵の上陸があり、砲弾の破片で腕を失う。主人公につらくあたっていた中隊長は自分から輸血を申しでた上、最後のダイハツに乗せて後方に送還してくれる。中隊は全滅し、主人公はまたも生き残る。

 主人公はラバウルの野戦病院にいれられるが、薬も食料もとぼしく自分で食物を調達するしかない。歩けるようになると主人公も機銃掃射の危険を冒してジャングルに食料探しにいくが、原住民と仲よくなり歓待されるようになる。兵士は原住民との接触が禁じられており主人公の行動は問題になるが、温厚な軍医がとりなしてくれてことなきをうる。

 敗戦になり引きあげがはじまるが、主人公は原住民との暮らしが楽しく現地除隊してジャングルにとどまりたいと言いだすが、親切にしてくれた軍医の説得で日本にもどることになる。

 主人公が生きのびることができたのは特異な資質もさることながら、ひどいとはいっても軍隊も人間の集団なので最低限の善意があったからだろう。どんな状況でも楽天的だった主人公の明るさが善意を呼び起こしたのかもしれない。

「駆逐艦魂」

 1961年に曙出版から出た単行本版をそっくりおさめる。小学館クリエイティブから出ている『駆逐艦魂 完全復刻版』と同じもので、カラーページが白黒化されているくらいの違いしかない。この作品だけでも値段以上の価値がある。

「海の男―戦艦大和の艦長有賀大佐の最期!!」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第2号に掲載。『姑娘』におさめられた「海の男」と扉も含めて同じものだが、版型が大きいので迫力がある。

「戦争と日本」

 「小学六年生」(小学館)掲載の〈シリーズまんが現代史〉から戦争の部分を抜きだしたもの。ねずみ男が砂かけ婆に日本の過ちを語るという趣向だが、いわゆる南京大虐殺の20万人説など疑問が出ている説を子供向けの作品で事実のように語るのはいかがなものか。

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2010年08月14日

『ああ太平洋』上下 水木しげる (宙出版)

ああ太平洋 上
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ああ太平洋 下
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 水木しげるは1957年に他の作者が途中で放棄した作品を補筆する形で貸本漫画業界にはいり、翌年2月実質的なデビュー作である『ロケットマン』を、3月には『戦場の誓い』を発表する。オリジナル第二作にして戦記漫画を書いているのである。この年水木は20作品を出版するが、そのうちの4作品は戦記ものだった。

 戦記ものはそこそこの部数が見こめたのか、水木を専属のように使っていた兎月書房は1959年5月に貸本誌「少年戦記」を創刊する。水木は執筆だけでなく編集までまかされ、カバー絵を小松崎茂宅にとりにいったりコラムや図解を書いたり、同じ号に別名義で複数の作品を書きわけたりした。原稿料の不払いがもとで翌年水木は兎月書房と絶縁するが、それまでに「少年戦記」は15号が出ている。1959年にかかわった24点の貸本漫画のうち19点が戦記関係である。NHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』の「少年戦記の会」のエピソードはこの頃の話がもとになっている。

 兎月書房を離れた後も水木は一定の需要のある戦記ものを描きつづけた。貸本時代の水木作品の中で戦記ものは一大山脈を作っているが、多くはマニア向けの高価な復刻本でしか再刊されなかったのでなかなか全貌を知ることができなかった。宙出版の「戦争と平和を考えるコミック」シリーズから出た全5冊の「水木戦記選集」は貸本時代の作品を中心に「少年戦記」のコラムを一部再録しさらに水木のインタビューと綿引勝美氏の解説をくわえており、水木戦記漫画の集大成となっている。貸本漫画と同じA5版で各巻400頁を越えるのに価格は1365円におさえられている。紙質がよくないのと書誌データがないのが不満だが、この値段では文句は言うまい。

 なお、本欄の書誌データは山口信二氏の労作『水木しげる貸本漫画のすべて』(YMブックス)によっている。水木ファン必携の素晴らしい本だが、絶版なので本欄では紹介することができない。ここに注記して感謝をあらわしたい。

 さて『ああ太平洋』である。水木は「少年戦記」に「水木作戦シリーズ」と銘打って大東亞戦争の主な海戦を次々と描いたが、このシリーズを中心に海軍関係の作品を史実の順に編集したのがこの二巻本である。上巻は真珠湾攻撃から第一次ソロモン海戦まで、下巻はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦を描く。上巻は玉石混淆だが、負け戦になってからの下巻は文句なしの傑作である。水木サンは負け戦を描く時の方がボルテージが上がるようだ。

 上巻から紹介しよう。

「カランコロン漂泊記 戦争論」

 「ビッグコミック」に連載されたエッセイ『カランコロン漂泊記』から小林よしのりの『戦争論』にふれたショートコミックを抜きだしたもの。

 『戦争論』を読んで戦前の勇ましさを思いだし「非常に懐かしかった」が、同時に「何だか輸送船に乗せられるような気持ち」もしたと複雑な心境を語る。

 メジャーになってからの戦記ものは反戦色が濃いが、戦争で興奮する自分を否定しては戦争観が薄っぺらになる。貸本時代、ある意味で好戦的な戦記ものを描きつづけたのは需要があったからだけではないだろう。『ゲゲゲの女房』に極貧時代、夫人から「わが家にはそげな軍事予算はありません」と苦情をいわれながらもプラモデルで連合艦隊の再建をめざすエピソードが出てくるが、仕事と割り切って描いていたなら「「あ号作戦」と南雲中将」や「決戦レイテ湾」のような傑作は生まれなかったはずである。

「山本元帥と連合艦隊」

 1961年にカナリア文庫から発行された貸本誌「ああ太平洋」第1号と第2号に分載。山本五十六の死までを5部にわけて描く予定だったが、「ああ太平洋」が2号で終わったので続編は書かれなかった。

 第一部は大正8年の駐在武官としてのアメリカ勤務と真珠湾攻撃、第二部は「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈したマレー沖海戦を描くが、出来はいまいちである。

「印度洋作戦」

 1959年に兎月書房から単行本として出版。

 南雲機動部隊が英国東洋艦隊を撃滅するためにスリランカ沖まで出ていったインド洋作戦を描く。陸軍と海軍の意志が統一できず目的が曖昧で批判の多い作戦だったが、迎え撃つ英国側のハリケーン飛行中隊の視点をとりいれることで緊迫感が生まれた。海に不時着した日英のパイロットが力を合わせてフカと戦うエピソードが見せ場となっている。

「珊瑚海大海戦」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第2号に掲載。

 史上初の航空母艦どうしの対決となった珊瑚海海戦をパイロット兄弟を軸に描くが、かなり無理のあるストーリーだ。こんなにひねらなくてもよかったと思うのだが。

「ミッドウェイ作戦」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第1号に掲載された「水木作戦シリーズ」の第一弾である。

 よけいなひねりはくわえずほぼ史実通りだが、澤地久枝の『滄海よ眠れ』の前なので「運命の五分」説で話が組み立てられている。水木には澤地の発見にもとづく真実のミッドウェーを描いてほしかった。

「空母飛龍の最期」

 1959年に貸本誌「少年戦記 別冊空母戦記」に掲載。

 ミッドウェー海戦では「赤城」、「加賀」、「蒼龍」があっけなく戦闘不能になる中、はなれたところを航行していた「飛龍」が唯一反撃をおこなったが、本作は「飛龍」の奮戦と最期を艦とともに運命をともにした山口多聞少将を軸に描いている。上巻では一番読みごたえのある作品である。

「急襲ツラギ夜戦」

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第3号に掲載。

 ツラギ夜戦として知られる第一ソロモン海戦については1964年にも「奇襲ツラギ沖」(『姑娘』に収録)を書いている。主人公とストーリーはほぼ同じだが、出来は1964年版の方がずっとよい。

 以上が上巻で次に下巻。

「波の音」

 「週刊朝日」(朝日新聞社)1974年4月20日増刊号に掲載。

 南の島に遊びに来た日本人観光客が波うちぎわの髑髏から死の経緯を聞かされる。髑髏は生前は日本兵で最後の突撃で生き残り敵対する原住民に追われながら何とか生還するが、中隊では生きていてはいけない卑怯者だといじめられ、みじめに戦病死する。「敗走記」や『総員玉砕せよ!』の別バージョンといえよう。

「「あ号作戦」と南雲中将」前編・後編

 1959年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第5号と第6号に分載。

 南雲忠一中将は日米相討ちの形となった南太平洋海戦の後、昭和19年3月中部太平洋方面艦隊司令長官を拝命してサイパン島に着任する。サイパン島にはアメリカ軍の上陸が迫っていた。日本海軍はサイパンに向かうアメリカ艦隊とマリアナ沖で決戦をいどむが、いわゆる海軍乙事件で作戦計画書がまるまるアメリカ軍の手にわたっていた上に作戦自体に無理があったことから、日本の機動部隊は壊滅する。連合艦隊が救援に来てくれるという期待もむなしくサイパン島の日本軍は孤立無縁のままアメリカ軍の上陸をむかえ玉砕していく。南雲中将は最後の訓示の後、自決したとも兵の先頭に立って突撃したともいわれているが、本作では自決説をとっている。

 サイパン島守備隊の視点から見たマリアナ沖海戦という視点は新鮮である。ミッドウェーの敗北の責任から自分を責めつづける南雲の暗い心情が基調となっているが、『ああ太平洋』中随一の傑作である。

「決戦レイテ湾」

 1959年から1960年にかけて貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第7号~第12号に連載(第9号には第3部と第4部を同時掲載)。

 栗田艦隊がアメリカ軍輸送船団がひしめくレイテ湾の手前までゆきながら反転したについてはさまざまな説がたてられているが、その謎解きを軸に捷一号作戦を描いた全7部272頁の雄編である。

 水木の描く栗田は表向き「自分はどうでもよい。ここは犬死により、部下を救ってやろうと決意した」と温情ある決断を下したことになっている。しかし最初から通して読むと「犬死に」とは輸送船団ごときと差し違えるのは嫌だという意味であり、日本軍の悪弊である兵站無視の結果だったことがわかるしかけになっている。多くの論者が批判するようにレイテ湾に集まったアメリカ輸送船団は連合艦隊と引き換えにするだけの戦略的価値があった。栗田艦隊は海軍エリートたちのわがままから戦機を逃がしたのかもしれないのである。

 部下の犬死にを避けるという栗田の決断が神風特別攻撃隊の誕生をうながしたという皮肉な対比も本作には仕組まれている。確かにそういう一面はあっただろう。日本はなんと幼稚なエリートたちに国の命運を託していたのだろうか。

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2010年08月13日

『駆逐艦魂 完全復刻版』 水木しげる (小学館クリエイティブ)

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 小学館クリエイティブの「復刻漫画シリーズ」の一冊で、1961年に曙出版から出た貸本漫画を版型から装丁、広告にいたるまで忠実に復元している。

 カバーはリバーシブルになっていて、表側にはバーコードと小学館クリエイティブの文字がはいるが、裏返すと曙出版版そのままのカバーになる。本文は最初の8ページはカラーで、それ以降は丁ごとに印刷インクの色が変わっている(昔の漫画は確かにそうだった!)。ページの脇には「爆雷が潜水艦の近くに落ちた場合、艦がゆるみ重油がもれる」のように注釈がはいっている。奥付は曙出版版のものの後に小学館クリエイティブのものがある。ハードカバーでないのをいぶかしく思う人がいるかもしれないが、貸本漫画はソフトカバーで無線綴じが多かった。本書のオリジナルもそうである。

 折込の付録として梶井純氏の「深刻さと陽気さが交錯する怨念の地平」という解説と「復刻漫画シリーズ」の広告がはいっている。同シリーズの水木作品には1958年の『怪奇猫娘』、『地獄の水』、1962年の『火星年代記』など単行本8作品と『戦記漫画傑作選 限定BOX』のようなBOX版3作品がある。単行本版はどれも1995円だが、ここまでやってくれてこの値段はリーズナブルだと思う。

 本作は後に「幽霊艦長」(『敗走記』に収録)として改作されているが、曙出版版の143ページに対して改作版は50ページと短くなっている上に、ストーリーも変わっている。改作版は日本海軍最後の勝利となったルンガ沖夜戦をフィクションをまじえて描いているが、曙出版版に描かれる二度の海戦はどちらも負け戦である。水木の戦記漫画は華々しい勝利よりも負け戦を描く時に本領を発揮するが、改作版と曙出版版を読みくらべてもそれは言える。本書ではその曙出版版が読めるのである。

 登場人物も変わっている。改作版は駆逐艦「旋風」で伝令として勤務することになった武田二等水兵が視点人物だが、曙出版版では水木中尉が視点人物だ。水木中尉は海軍兵学校をビリの成績で卒業したので、40トンの掃海艇の艇長に配属され揚子江で機雷処理にあたっていた。南方と同じく内地の三倍の給料をもらっているが、艦隊勤務で華々しく活躍している同期生に引け目を感じている。「しかしあまりパッとしない海軍もあった」というわけだ。

 このパッとしない水木中尉にチャンスが訪れる。ラバウルを泊地とする第27駆逐艦隊の「旋風」の機関長に抜擢されたのだ。

 通常は大尉がなる機関長に中尉の水木を抜擢したのは第二水雷戦隊司令の塚原大佐だった(改作版では宮本艦長。塚原、宮本は塚原卜伝、宮本武蔵からとったものだろう)。塚原司令は白髪茫々の異相の老人で、水木の父に世話になったので恩返しに機関長にしたと明かす。

 改作版ではルンガ沖夜戦の勝利とその後の第二次輸送作戦を描くが、曙出版版ではまずウェワク島へ向かう輸送船団護衛のエピソードがある。僚艦が次々と撃沈され、ただ一隻生き残るという現実の海戦を水木ははじめて体験する。

 クライマックスは架空のベラベラ島沖夜戦であるが、ルンガ沖夜戦のような日本の圧勝ではなく日本艦隊はアメリカ艦隊と魚雷艇に全滅させられる。海に放りだされた日本兵には情け容赦なく機銃掃射がくわえられ、最後は塚原司令が魚雷にまたがって敵艦に体当たりするという壮烈な結末である。

 絵は荒っぽいが本来のカット割なので海戦のダイナミックな展開に圧倒される。改作版はなまじ史実に近づけたために艦長が人間魚雷になるという終わり方に異和感があったが、こちらの展開なら納得できる。

 水木は「幽霊艦長」として改作しただけでなく、ルンガ沖夜戦を史実通りにたどった「田中頼三」(『白い旗』に収録)も描いている。ここまでこだわるのは一時田中の部下だった兄宗平氏から田中の活躍を聞いていたこともあるだろうが、それだけではなく日本海軍がバカにしていた輸送船の護衛という地味な、しかし実は一番重要な任務に田中が全力でとりくんだことが大きいだろう。水木は日本軍の兵站軽視を「決戦レイテ湾」(『ああ太平洋』下に収録)でも批判しているが、艦隊決戦至上主義という海軍の幼稚な戦争観のためにどれだけ多くの日本兵が溺死しジャングルで餓死にしたかわからない。

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2010年08月12日

『姑娘』 水木しげる (講談社文庫)

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 表題作を含め5編をおさめる戦記漫画短編集である。表題作以外は貸本時代の作品で、印刷は悪いが貸本時代の荒々しいタッチを見ることができる。

「姑娘」

 「リイドコミック」(リイド社)1973年4月増刊号に掲載。「あとがき」によれば中国戦線に出征した友人から聞いた話がもとになっているという。

 戦乱にレイプはつきもので昔から中国の村では軍勢がはいってくると娘を隠したが、女狩りをしたのは日本軍も同じだった。ある村で広州の大学で勉強した村長の美しい娘が日本軍の女狩りでつかまり、中隊長に献上されることになる。中隊に向かう最初の夜、分隊長は娘をレイプするが彼女は処女だった。彼女は二夫にまみえることはできないので妻にしてくれ、どんな困難があってもついていくと分隊長に懇願する。

 次の夜、分隊ナンバー2の上等兵がレイプしようとするが娘は激しく抵抗する。仲裁にはいった分隊長に彼女はこんなあさましいことをあなたが許したのかとなじる。分隊長は上等兵をなだめようとするが誤って彼を殺してしまう。軍隊にいられなくなった分隊長は自分と上等兵は戦死したことにしてくれと部下たちに言い含めて娘と脱走する。

 四十年後、観光で中国を訪れたかつての部下は昆明の田舎で年老いた分隊長と偶然再会し、その後の運命を聞く。なんとも哀切な短編である。

「海の男」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第2号に掲載。最後の大和艦長となった有賀幸作大佐を主人公に大和の水上特攻を描いた短編である。

 史実をなぞるにしては短すぎる。大和轟沈後、有賀大佐が息子の夢枕に立つという結末が水木らしいと言えるかもしれない。

「此一戦」

 1962年に貸本誌「戦記日本」(兎月書房)第1号に掲載。水木は1959年にも「ミッドウェイ海戦」(『ああ太平洋』上に収録)を描いており二度目の漫画化となるが、山本五十六を主人公にすることで新味を出そうとしている。

「奇襲ツラギ沖」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第3号に掲載。ツラギ沖夜戦として知られる第一次ソロモン海戦を描く。水木は1959年にも「急襲ツラギ夜戦」(『ああ太平洋』上に収録)を描いているが、ストーリーはほぼ同じで「鳥海」の水上偵察機パイロットを主人公にした点も共通するが、本作の方がすぐれている。

「戦艦比叡の悲劇」

 1961年発行の戦記漫画短編集『大夜戦』(兎月書房)に掲載。第三次ソロモン海戦を戦艦「比叡」を中心に描く。

 額縁の物語がついていて「比叡」最後の艦長だった西田正雄大佐の息子が戦記マニアの友人からお前の父親は卑怯者だとなじられ、「比叡」自沈にいたる顛末を探るという設定になっている。

 海戦のややこしい経緯をときほぐしながら迫力ある漫画に仕立てた手並みもみごとだが、艦長として最善をつくしながら生き残ったがために卑怯者呼ばわりされた西田の雪辱という柱が一本通っており、含蓄の深い作品になっている。

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2010年08月11日

『白い旗』 水木しげる (講談社文庫)

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 表題作を含め4編をおさめる戦記漫画短編集である。いずれも貸本時代の作品だが、「ブーゲンビル上空涙あり」以外は貸本版を複製してほとんどそのまま再録しているので現在とは違う荒々しいタッチを見ることができる。

「白い旗」

 1964年に貸本誌「日の丸」(日の丸文庫)戦記増刊号に「二人の中尉」(『鬼軍曹』に収録)として発表された作品の改題版で「ガロ」1968年5月号に掲載。見開きだった扉が1頁に描き直されている以外はオリジナルと同じである。

 「あとがき」によると兄宗平氏の親友で硫黄島の海軍陸戦隊に配属された西大条中尉の戦死の状況について雑誌に奇妙な記事が掲載された。その記事を読んだ水木の母がぜひ漫画にするようにと手紙で知らせてきたのが執筆の動機だという。

 ということは実話をもとにしたということになるのだろうが、擂鉢山の攻防戦が終わった後に島を脱出した日本兵がいたとはにわかに信じられない。しかしこういう話が伝わっているということは内地に生還した兵がいたということだろうか。

 硫黄島の激戦はクリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」で若い人にも知られるようになったが、この作品も読みつがれてほしい。

「ブーゲンビル上空涙あり」

 1964年に貸本誌「日の丸戦記」(日の丸文庫)第4号に掲載した同題の短編(『大空戦』に収録)の改作版で「文春漫画読本」1970年7月号に掲載。42頁が31頁に圧縮されている。

 前半は山本五十六、後半は山本機を撃墜したフライヤー中尉と視点が交代している。42頁なら視点の交代は奥行をうむが31頁では印象が散漫になった。この作品はオリジナルの方が断然いい。

「田中頼三」

 1960年に貸本誌「少年戦記」(兎月書房)第15号に掲載。

 ルンガ沖夜戦は「幽霊艦長」(『敗走記』に収録)でも描かれているが、怪奇もの風に脚色していてラストはほとんどファンタジーだった。

 こちらは史実に忠実に海戦の経過を描いたものでタッチは荒っぽいし刊本から複製したので細部がつぶれているが、「幽霊艦長」よりも迫力がある。

 田中頼三の事績はアメリカ海軍は高く評価しているのに日本海軍では冷遇され、戦後もあまり知られていない。輸送船団の護衛という地味な任務にあたったせいだろう。日本軍の兵站軽視の悪弊はこんなところにもあらわれている。

「特攻」

 1961年に曙出版から単行本として出た『壮絶!特攻』の改題版。前半は戦艦大和の水上特攻、後半は8月15日の玉音放送前におこなわれた特攻を描いた141頁の中編で本書中で一番読みごたえがあった。

 沖縄に向かう大和には20機の零戦が掩護にあたったが、燃料のために途中で引き返している。主人公の撃墜王上代守大尉は帰途についたものの大和を見捨てるにしのびず、もう一度引きかえし、大編隊に波状攻撃をかけられ激戦の末に沈没する大和を見守る。

 鹿屋基地にもどった上代には神風特別攻撃隊を先導し援護するという新たな任務が待っていた。いわば死の案内人であるが、皮肉なことに最後の任務で特攻に志願した実の弟を先導しなければならなくなる。弟の特攻を見とどけた上代は自分自身も空母に体当たり攻撃をかける。

 史実では玉音放送前の最後の特攻は鹿屋基地ではなく百里原基地から発進し、敵艦隊にたどりつくまえに消息がわからなくなっている。本作はあくまでフィクションで実際はこんな勇ましい話ではなかったのである。

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2010年08月10日

『敗走記』 水木しげる (講談社文庫)

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 表題作を含め6編をおさめる戦記漫画短編集だが、どれも読みごたえがあり完成度が高い。貸本時代の作品とメジャーになってからの作品が混在しているが、貸本時代の作品は描き直されているのですべて細密画風の現在のタッチである。もし水木の戦記ものを1冊だけ読みたいなら本書がお勧めである。

「敗走記」

 『総員玉砕せよ!』の原型にあたる作品で、「別冊少年マガジン」1970年2月号に掲載。

 昭和19年、ニューブリテン島の最前線を守る分隊が爆撃と機銃掃射で全滅してしまう。歩哨に立っていた主人公は助かりもう一人生き残った鈴木とともに30キロ離れた中隊司令部に向かうが、一帯の原住民は連合軍から武器を支給されて日本軍と敵対しており敵中を突破するに等しい。

 主人公はなんとか中隊にたどりつくが、歓迎されるどころか敵前逃亡罪に問われるという不条理。『総員玉砕せよ!』のエッセンスがここにある。

「ダンピール海峡」

 貸本時代の作品を描き直して「文春漫画読本」(文藝春秋社)1970年7月号に発表したもの。貸本版(『鬼軍曹』に収録)は61頁だったが、改作版は40頁に圧縮されている。絵柄はオリジナルに似せているが荒々しさはない。

 ダンピール海峡とはニューブリテン島とニューギニア島を隔てる海峡で多くの日本の輸送船が沈められた。本作は輸送船が撃沈され海に投げだされてなお軍旗を守ろうとする軍旗衛兵たちの話で最後は怪奇譚になる。どこの国の軍隊でも軍旗は物神的に崇拝されるが、日本軍の軍旗崇拝はことのほか強烈だったので、こうような鬼気迫る話が生まれたのだろう。

「レーモン河畔」

 「ビッグゴールド」(小学館)1980年6月号掲載の短編。戦争で一番迷惑をこうむるのは戦場となった場所にいた民間人だが、これは日本軍とオーストラリア軍の境界地帯に住みながら全員無事に戦争終結をむかえた幸運な一家の実話である。

 ホセはフィリピンからの入植者でレーモン河畔に椰子農園を拓いていた。妻はドイツ人で二人の娘は日本人と結婚していたが、大東亞戦争がはじまると日本人の婿はオーストラリア軍の収容所にいれられてしまう。

 昭和17年、日本軍がラバウルを占領しホセ一家の農場をはさんでオーストラリア軍と対峙するようになると一家は微妙な立場に追いこまれる。婿をオーストラリア軍に人質にとられているのでスパイにならざるをえないが、スパイだとわかったらおしまいである。事実スパイの嫌疑を受けるし二人の娘を慰安婦にしようという話が持ちあがるが、日本軍守備隊の隊長と末端の兵士たちの温情によってラバウルの収容所に送られることになる。一家が最後のダイハツでラバウルに去った後、農場は激戦地となり守備隊は玉砕する。

 日本の敗戦後、二人の婿はオーストラリア軍から解放され一家はふたたび農場を再開する。

 事実は小説より奇なりとはいうがこんな話があったのかと啞然とした。「白骨は何も語らないが……即ちみんなで助けてやろうという意志が働いていたことは確かだと、ぼくは思う……」という結語が心に響く。

「KANDERE」

 1980年に「カスタムコミック」(日本文芸社)第7号に掲載。ブーゲンビル島の沖にあるグリーン島の守備隊が奇跡的に生還する話である。表題の「KANDERE」とは現地語で「同族」を意味し、二等兵の津田が酋長の娘と恋仲になり分隊長の許可をもらって結婚したことから分隊全体が「同族」としてあつかわれることになる。奇跡の生還は「同族」になったおかげなのであるが、そこにいたるまでにはさまざまな曲折があった。原住民との一筋縄ではいかない関係や生き残った者の葛藤が描かれていて、実際はこうだったのかという驚きがある。

「ごきぶり」

 「サンデー毎日」(毎日新聞社)1970年2月6日増刊号「これが劇画だ」に掲載。

 水木しげるの兄は戦犯で巣鴨プリズンで服役したが、巣鴨で見聞した実話がもとになっているという。

 隼搭乗員の山本はニューギニア上空の空戦で被弾しジャングルに不時着する。原住民につかまって捕虜収容所にいれられるが、作業中、監視のオーストラリア兵に男色行為を迫られ抵抗しているうちに誤って殺してしまう。そのまま脱走して友軍に助けられるが、敗戦後、戦犯と死刑判決を受ける。別の刑務所に送られる直前脱走し在留邦人にまじって帰国するが、故郷で待っていたのはGHQの手先となって戦犯狩りをする日本の警察だった。山本は妻を連れて北海道に逃げるが、結局逮捕され再度死刑判決、一年後処刑される。遺骨をわたされた母親は「むすこの一生はまるで逃げまどうゴキブリのような一生じゃった……」とつぶやく。

「幽霊艦長」

 本作は1961年に曙出版から長編戦記漫画第二弾として出た『駆逐艦魂』の改作版で月刊「少年」1967年9月号の別冊付録として発表された。曙出版版は小学館クリエティブから「完全復刻版」として再刊されている。

 日本海軍の最後の勝利とされる昭和17年のルンガ沖夜戦をもとにしたフィクションである。実際の戦闘を指揮したのは田中頼三少将で生還しているが、本作では司令が戦死したので白髪を振り乱した幽鬼のような宮本艦長が指揮し、ラストでは魚雷にまたがって敵艦に突入するという壮絶な最期を遂げている。もちろんフィクションであるが、史実に即した海戦の経過は『白い旗』に収録された「田中頼三」で読むことができる。

 曙出版版の143頁を50頁に圧縮しており、ストーリーは史実に近づける方向で改変されている。絵は本作の方が精密になっているが、迫力は曙出版版の方がある。

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2010年08月09日

『総員玉砕せよ!』 水木しげる (講談社文庫)

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 水木しげるが戦記漫画を描いていて評価が高いことは知っていたが、陰々滅々な話だろうと敬遠していた。しかしNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』で水木が戦記物に注いだなみなみならぬ情熱を知り、思い切ってまとめて読んでみることにした。

 水木の戦記漫画は過去にさまざまな版で出ているが、現在書店で買えるのは完全復刻をうたった小学館クリエイティブ版を除くと講談社文庫版と宙出版版の二つである。

 講談社文庫版は大東亞戦争開戦50年目にあたる1991年に講談社コミックから出た『水木しげる戦記ドキュメンタリー・全4巻』の文庫化で、長編の『総員玉砕せよ!』と3冊の短編集(『敗走記』、『白い旗』、『姑娘』)からなる(短編集には15編をおさめる)。

 宙出版版はA5版400頁の大冊で『ああ太平洋』上下、『ああ玉砕』、『鬼軍曹』、『大空戦』の5巻が出ている(『大海戦』が予告されていたが出版されなかったようだ)。

 宙出版版と講談社文庫版は多くの作品が重なるが、同じ作品でも別バージョンを収録しているので(宙出版版は初出に近いものが多く、講談社文庫版は改作が多い)、水木漫画が好きなら両方買った方がいい。

 さて『総員玉砕せよ!』である。1970年の短編「敗走記」(同題の短編集に収録)をもとに1973年8月8日に書き下ろし長編として講談社から出版された。出版に先だって「劇画ゲンダイ」1973年8月1日増刊号に「総員玉砕せよ! 聖ジョージ岬・哀歌」として短編版(『ああ玉砕』に収録)が発表されている(短編版は32頁、本作は350頁と長さが10倍以上違う上に結末が変わっているので、別作品と見た方がいいかもしれない)。

 水木は昭和18年にニューブリテン島ラバウルへ送られ爆撃で左腕を失うが、入院中に所属する成瀬大隊(作中では田所支隊)が前線のズンゲンで「玉砕」している。「玉砕」前後の不条理な経緯を描いたのが本作で、「あとがき」には「九十パーセントは事実です」と断り書きがある。

 玉砕というと硫黄島のような逃げ場のない小さな島で守備隊が全滅するという受けとり方をする人が多いだろう。わたしもそう思いこんでいたが田所支隊の「玉砕」は違った。

 そもそもニューブリテン島は九州くらいの面積のある大きな島で、島の北部のラバウルには陸海軍あわせて10万近い日本軍が一大要塞を作りあげていた。あまりにも日本側の兵力が大きいので連合軍は包囲して空爆をくわえるにとどめ、日本軍は敗戦までラバウルを保持しつづけた。レイテ島やガダルカナル島の惨状から較べればニューブリテン島ははるかにましだったのである。

 田所少佐(実際は成瀬懿民少佐)率いるバイエン支隊500名は連合軍の上陸が予想されるワランゴエ河(実際はメベロ河)河口に進出し、激しい爆撃を受けながら陣地構築にあけくれる。昭和20年3月、いよいよ連合軍が上陸してくる。虎の子の大隊砲と水際に展開していた中隊は爆撃と艦砲射撃で吹き飛ばされ、田所支隊は二つの中隊だけになり後方を敵にふさがれてしまう。

 ここで若い田所少佐は早々と玉砕を提案するが、ゲリラ戦を主張する中隊長らの反対にあう。美しい死に場所をもとめる成瀬少佐とラバウルを守るにはゲリラ戦が効果的とする中隊長たちの対立は埋まらず、田所少佐はついに最後の斬りこみと重症者の自決を命じラバウルの兵団司令部にその旨打電する。

 司令部では唐突な玉砕に驚き最後まで陣地で戦えと返電するが、応答がなかったので玉砕と大本営に報告してしまう。玉砕は軍事的には何の意味もなかったがラバウルの弛みかけた軍規を引き締める効果はあった。

 ところが数日後、聖ジョージ岬(実際はヤンマー)警備隊からありうべき機密電報が届く。「玉砕」したはずの田所支隊の兵士が将校に率いられて生還したというのだ。

 玉砕を急ぐ田所少佐は副官から「でも……大隊の兵の心が玉砕に統一されておりません」と制止されるが、十万の友軍が目と鼻の先のところで「惰眠をむさぼっている」のに、死ねといわれて死ねるものではないだろう。田所少佐は美学に酔って現実が見えていなかったのだ。

 しかし司令部が「玉砕」と発表した以上、彼らは生きていてはいけない人間である。かくして田所支隊の生存者をもう一度「玉砕」させるべく参謀が送りこまれることになる。

 やりきれない結末だが、南洋のうだるような暑さの中でつづく単調な軍隊生活の中で単調に人が死んでいく感覚など戦争を体験した人にしか描けないリアリティがある。一度は読んでおくべき作品だ。なおNHKで放映された『鬼太郎が見た玉砕』は本作のドラマ化、『水木しげるのラバウル戦記』(ちくま文庫)は同じ時期を描いた絵文集である。

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2010年06月30日

『宇宙の神秘―五つの正立体による宇宙形状誌』 ヨハンネス・ケプラ- (工作舎)

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 ケプラーが25歳の時に出版した処女作である。この本がチコ・ブラーエに認められ、共同研究者格(実質は助手)で招かれ、ケプラー三法則の発見につながっていく。ケプラーの三法則がなかったらニュートンの万有引力の理論もなかったわけで、科学史上きわめて重要な著作である。

 しかし……これは奇書である。仰々しい献辞と読者への序につづいてコペルニクスの宇宙論の要約がくる。次の第二章からが本論になるが、神学的かつ数秘術的な牽強付会の連続で、コペルニクスの『回転論』から70年もたってから、こんな本が書かれたとはとても信じられない。いや、これが当時の標準なのか。コペルニクスはあの時代にしては驚異的に近代的な頭をしていたらしい。

 コペルニクスの宇宙論では惑星は六だけで、地球は太陽から数えて三番目である。ケプラーにとってはこの地球の位置こそ神意のあらわれだった。というのも地球の内側には太陽・水星・金星、外側には火星・木星・土星とそれぞれ三つづつ天体が存在し、地球は宇宙の中心からはずれたとはいえ、特別席がわりあてられているからだ。

 ケプラーはなぜ惑星は六しかないのかと問いつづけ、とんでもない妄想に飛躍する。すべての面が同一の正多角形からできている立体を正立体というが、正立体は正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五しかない。惑星が六しかないのは惑星を含んだ各天球殻の間に五の正立体がはいるからなのだとケプラーは結論する。

 神は、惑星を創造するとき、内側と外側が動く軌道によって飾られていないような正立体がもはや一つもなくなるまで、正立体を軌道に、軌道を正立体に、次々と内接させていった、と言うほかないのである。……中略……もし五つの正立体を、それぞれの立体のあいだに球を入れ、またいちばん外側と内側を球で閉ざすように相互に組み合わせたら、われわれはまさに六という数の軌道球を得るだろう。

 ケプラーによれば水星と金星の間には正八面体がくる。水星の天球殻はこの正八面体の内接球、金星の天球殻は外接球になる。同様にして金星と地球の間には正二十面体、地球と火星の間には正十二面体、火星と木星の間には正四面体、木星と土星の間には正六面体がはいる。おなじみのケプラー・モデルの図である。  本書の後半では各天球殻の大きさの比率が正立体の内接球と外接球の比率になっているかどうかが検証されている。土星と木星の比率以外は大体あっているとケプラーはいうが(本書時点ではケプラーには計算能力がなく、実際に計算したのは恩師のメストリンのよし)、訳注によるとケプラー全集を編纂したカプラーがコペルニクスの値で計算し直したところ、本書の数値は間違いが多く、実際はもっといい数値になるそうである。

 数値のずれをケプラーは天球殻の厚みで調整しようとしている。本書の時点では惑星の軌道が楕円形だということはわかっておらず周天円を必要としていたので、惑星を含む天球殻は周天円の直径分の厚みをもたなくてはならない。

 そうなると問題は地球である。コペルニクスの体系では地球は五重の周天円で運行していたが、さらに地球の天球殻は月の軌道も含みこまなくてはならない。

 月の軌道まで含むとなると、地球の天球殻は相当ぶ厚くなり、内接する正二十面体や外接する正十二面体にはみだしてしまうのである。  しかし、そのことによってはからずもケプラーの宇宙モデルの物理構造がはっきりした。ケプラーは書いている。

 ところで、月の軌道は、地球の軌道そのものの中に隠され閉じ込められていないと、〔地球軌道に〕隣接する正立体の広がりに圧迫され押しつぶされてしまうのではないか、と心配する必要はない。それというのも、これらの正立体を、ほかの立体の通行を阻むようなある素材でおおわれたものとして宇宙の中に立てるのは、不条理で途方もないことだからである。……中略……われわれが全くコペルニクスに賛成して運行するものとして考えているこの地球は、どんな梃子、どんな鎖、どんな天の綱によって、その軌道の中にはめこまれているのであろうか。そういうものがあるとすれば、それは、すなわち、地球の表面を取り囲んで住むわれわれ人間すべてが吸い込んでいるもの、空気にほかならない。われわれは手をもって、身体をもって、空気の中に入り込むが、だからといってそれを押しのけたり除去したりはできない。というのも、空気こそ、媒介として天体の影響力をその内にある物体に伝達するものだからである。……中略……たとえ月の小軌道が地球軌道〔の球殻〕からはみ出すとしても、〔火星軌道に内接する〕正十二面体もしくは〔金星軌道に外接する〕正二十面体に、月の小軌道の通過を妨げるどんなものがあるというのか。

 啞然とするしかないが、しかしここまで惑星の軌道の比率にこだわったからこそ、ケプラーは第三法則の発見にいたったのだ。

 ケストラーはケプラーはインドを発見しようとしてアメリカ大陸を発見したと評しているが、本書はさしづめインド往きの間違った海図にあたるだろう。若き日のケプラーは神の摂理の証明という見当はずれの方向に船出しながら、万有引力の法則の一歩手前に行きついた。しかも、死ぬまでそのことに気がつかず、自分は神の摂理を発見したと思いこんでいたのである。

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2010年06月29日

『ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』 ジョシュア・ギルダー&アン=リー・ギルダー (地人書館)

ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録 →bookwebで購入

 1601年10月24日、チコ・ブラーエは亡命先のプラハで54歳で急死した。死因は尿毒症か尿路感染症とされてきたが、本書は水銀製剤による毒殺であり、下手人は共同研究者だったケプラーだと告発している。

 400年もたってなぜそんな話が出てきたのだろうか。発端は1991年にさかのぼる。ベルリンの壁崩壊後、チェコ・スロバキア新政府はブラーエの亡骸が眠る教会でブラーエを記念する式典を挙行し、出席したデンマーク大使にブラーエの口髭の一部を贈呈した。口髭はデンマークに持ち帰られ、死の直後からささやかれていた毒殺説を検証するために微量元素の検査をおこったところ、高濃度の水銀が検出された。

 この結果だけだったらまだ毒殺とは断定できない。ブラーエは錬金術にも造詣が深く、塩基性硫酸第二水銀を万能薬として製造していたので、知らず知らずのうちに水銀が体内に蓄積していた可能性があるし、また死の原因となった尿路感染症を治療するために水銀製剤を過剰摂取した可能性も否定できないからだ。

 ところが1996年になって最新のPIXE(粒子線励起X染分析)という技術によってブラーエの頭髪を検査したところ、死の13時間前に大量の水銀を摂取していることが判明した。水銀蓄積説はまちがっていたわけである。しかも鉄とカルシュウムの濃度も高まっていることもわかった。

 水銀と鉄を含む薬剤はブラーエの錬金術工房に存在していた。不溶性の塩基性硫酸第二水銀を製造する過程で作られる可溶性の硫酸第二水銀溶液で、それには還元剤として使われた鉄イオンが含まれていた。

 練達の錬金術師だったブラーエが猛毒とわかっている硫酸第二水銀溶液を誤飲するとは考えにくい。まして進んで飲むなどということはないだろう。

 ブラーエは10月13日の夜、夕食会から帰ってから尿の出ない病気で倒れ、苦しんだあげく11日後に亡くなっている。著者は13日の夕食会の前と死の前夜の23日に硫酸第二水銀溶液を混入したミルクを飲まされたのだと推理している。

 毒殺かどうかはともかくとして、なぜケプラーが犯人なのだろうか。

 著者があげる理由は三つに要約できるだろう。

 第一にデンマークから亡命後、ブラーエのもとからは助手が逃げだしてしまい、この時期ブラーエのもとには新参者のケプラーしか残っていなかったからである。

 第二にブラーエの死によって一番得をしたのはケプラーだからである。ケプラーは神聖ローマ帝国数学官という地位をブラーエから引きついだばかりか、ブラーエが40年以上かけて蓄積した精密な天体観測データを横領し、ケプラーの三法則を発見して後世に名を残した。

 第三にケプラーは悲惨な生い立ちで性格がねじ曲がり、何をするかわからない男だったからである。

 なんの予備知識もなしに本書を読んでいたら著者の推理を受けいれていたかもしれないが、ケストラーの本やケプラーの『宇宙の神秘』を読んでいたので相当無理のある結論のように感じた。

 確かに結果としてケプラーは得をしたが、当時はブラーエ家の食客にすぎず、帝国数学官になれるという保証はなかった。『宇宙の神秘』を上梓していたものの同書を評価してくれたのはブラーエと恩師のメストリンだけで、どこにも就職の口はなかった。帝国数学官に抜擢されなかったら、ブラーエを失ったケプラーは家族をかかえて路頭に迷うところだったのである。

 ブラーエをよく描きすぎている点も気になった。著者はブラーエの宇宙モデルを独創的と評価し、同様のモデルを発表したウルススを剽窃と決めつけているが、ブラーエのモデルはコペルニクスが一度検討して捨てた折衷案にすぎず、独創的でもなんでもなかった。ウルススが独立に考えだした可能性は十分あるし、そう解釈する人の方が多いのではないか。

 ケプラーが性格的に問題のある人物なのは確かだが、損と知りつつプロテスタントの信仰を守りつづけた頑固さといい、ガリレイに対する無防備な人のよさといい、どうも憎めないのである。完全犯罪をたくらむにしては不器用で正直すぎると感じるのはわたしだけだろうか。

 本書はなかなかおもしろい歴史推理だったが、憶測の域を出ていないと思う。

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2010年06月28日

『ヨハネス・ケプラー』 アーサー・ケストラー (ちくま学芸文庫) / 『The Sleepwalkers』 (Penguin)

ヨハネス・ケプラー―近代宇宙観の夜明け
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The Sleepwalkers
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 ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』は科学史の本として異例のベストセラーとなった『The Sleepwalkers』(1959)の第四章の邦訳である。あまりにも面白かったので原著をとりよせて最初から読んでみた。

 「人間の宇宙観の歴史」と副題にあるように本書は古代バビロニアで天文観測がはじまった紀元前3000年から17世紀の科学革命までの五千年近い流れをあつかっているが、力点は近世の科学革命におかれている。全600ページのうち、古代ギリシアの宇宙観を述べた第一章「英雄時代」70ページ、ヨーロッパ中世の宇宙観を述べた第二章「暗黒の間奏曲」30ページに対して、コペルニクスを描いた第三章「臆病な聖堂参事会員」は100ページ、ケプラーを主人公にした第四章「分水嶺」は200ページ、ガリレオとニュートンを論じた第五章「道のわかれるところ」は90ページを占めている。

 最初の二章は科学革命の前ふりにすぎないが、イオニア学派とピタゴラス学派の驚くべき科学的知見を述べた部分は力がこもっている。アリスタルコスはコペルニクスと同じ太陽系モデルを作りあげていたし、アルキメデスはガリレオの直前まで達していた。ヒポクラテスとパラケルススを隔てる距離はただの一歩にすぎない。ところがこの一歩を越えるために1500年かかったのである。

 1500年も回り道をしなければならなかったのはプラトンとアリストテレスによって観念論が打ち立てられ、古代唯物論が忘れられてしまったからだとケストラーは断ずる。唯物論対観念論という図式で片づく問題だとは思わないが、本書のテーマは科学革命にあるので宿題にしておこう。

 いよいよ第三章だが『コペルニクス―地球を動かし天空の美しい秩序へ』などで思い描いてきたコペルニクス像とのあまりの違いに啞然とした。

 コペルニクスの兄のアンジェイに問題があるらしいことはギンガリッチの本や『回転論』の二種類の邦訳の解説でほのめかされていたが、ケストラーによると問題があるどころではなかった。

 アンジェイもまた伯父の司教のコネで聖堂参事会員という実入りのいい聖職につき大学にいくことができたが、同僚の聖堂参事会員から多額の借金をしたり、聖堂の公金を使いこんだりといった金銭スキャンダルもさることながら、イタリア留学からもどった時には梅毒に感染していた(記録では「癩病」となっているが、ケストラーは新大陸から持ちこまればかりの梅毒だろうと推測している)。

 梅毒が進行してとうとう顔にまで症状が出た。参事会はパニックにおちいり少額の年金と引き換えに辞任と市から退去を求めたが、アンジェイは馬耳東風、梅毒で崩れた顔で市を歩きまわり、参事会の席にまであらわれた。参事会はついに音を上げ、聖職者の身分を保証するとともに高額の年金をあたえることでイタリアに追い払った。

 ケストラーがこういう個人的スキャンダルをあばいたのはコペルニクスが太陽中心説の公表に及び腰だった理由をさぐるためだ。

 ガリレオが言ったことになっている「それでも地球は動いている」という台詞が有名なので、コペルニクスが『回転論』を長く篋底に秘めていたのも宗教裁判を恐れたのだろうと考えがちだが、この推定には根拠がない。確かに『回転論』は教皇庁によって条件付き禁書に指定されたが、それは初版刊行後70年以上たってからのことであり、ガリレオの巻き添えになったという面が強い。

 コペルニクスの太陽中心説は噂でローマに伝わり教皇の耳にも達していて、好意的にむかえられていた。シェーンベルク枢機卿はもっと詳しく教えてくれという書簡まで出している(『回転論』初版の冒頭に転載)。親友のギーゼ司教などは『回転論』を出版するように何度もせっついている。太陽中心説はすくなくともコペルニクスが生きている間は問題になる心配などなかったのだ。

 コペルニクスは何を恐れていたのか。ケストラーは世間の笑い物になることを恐れていたのだろうと述べている(実際、地動説が笑い物になっていたという記録がある)。

 聖職者にあるまじき恥さらしの兄をもったことで、青年時代のコペルニクスは世間的にも参事会の内部でも孤立していたろうし、嘲笑には人一倍敏感になっていたろう。ケストラーはコペルニクスをいじけてひねくれた人物として描いているが、晩年のダンティスク司教に対する非礼からするとこの描写には説得力がある(ダンティスク司教は悪役にされることが多いが、やり手の外交官出身だけに礼を失するようなことはしていない)。

 兄アンジェイはレティクスとの関係にも影を落としているとケストラーは述べている。社交的なレティクスにコペルニクスはアンジェイの面影を見たのではないかというのだ。また『回転論』に自分の名前が一度も言及されなかったのでレティクスはコペルニクスに裏切られたと思いこんでいた可能性も指摘している。

 確かにレティクスは多数の計算間違いをふくんだ『回転論』の改訂版を出すようにもとめられたのに手をつけずじまいだった。しかし『コペルニクスの仕掛人』では三角表の作業に労力をとられたこととパラケルスス医学への傾倒が原因だとしている。感情の行き違いがあったかどうかはわからないが、レティクスは各地を転々とした間もギーゼから託された『回転論』の手稿を保管しつづけ後世に残したのだから、師に対する敬意は失わなかったというべきだろう。

 さて本書の立役者というべきケプラーだが、コペルニクスに輪をかけた困った人物なのである。恩師のメストリンにあてた書簡がたくさん引用されているが、文面は自己憐憫と傲慢のかたまりで、こういう手のかかる弟子と文通をつづけたメストリンの忍耐力に感服した。

 ケプラーの生涯にはチコ・ブラーエとガリレオもからんでくるが、どちらも問題だらけの人物で苦笑しながら読みすすんだ。天才だからしょうがないともいえるが、あれくらい人格が歪んでいないと後世に残る仕事はできないのかもしれない。

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2010年04月29日

『日本人になった祖先たち』 篠田謙一 (NHKブックス)

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 母系で伝えられるミトコンドリアDNAで日本人の成り立ちをさぐろうという本である。

 この分野ではブライアン・サイクスの『イブの七人の娘』というベストセラーがあるが名著があるが、ヨーロッパ人に多い七つの変異型ハプロタイプしかとりあげておらず、日本人を含む東アジアに多いハプロタイプは付録で言及されるだけだった。英国の人類学者が英国の読者のために書いた本だから当たり前といえば当たり前だが。

 本書は日本の人類学者による日本人のミトコンドリア・ハプロタイプを考察した本で、十章にわかれる。第一章から第四章まではミトコンドリアDNAと人類遺伝学の解説だが、自信のなさそうな書き方でおもしろくない。オッペンハイマーの『人類の足跡10万年全史』あたりを読んだ方がいい。

 第五章は日本人に見られる12のハプロタイプの紹介で、それぞれの分布からそのハプロタイプが生まれたと推定される地域と年代を推定している。サイクスの本ではハプロタイプをもった最初の女性に名前をつけ、境遇を小説仕立てで語っていたが、本書はそこまでの洒落っ気はなく、地味な科学解説書のスタイルである。

 第六章から第八章まではミトコンドリア・ハプロタイプから日本人の重層的な成り立ちを考察しており、本書の中心部分である。著者は古人骨のDNA解析を手がけている人なので、古人骨関係の記述が充実している。第九章はミトコンドリアDNAが母系の系譜であるのに対し、父系の系譜であるY染色体からみた日本人の起源をあつかう。第十章はまとめである。

 日本人の起源については旧石器時代に南から島伝いに日本列島にはいってきて定着した縄文人を基層に、朝鮮半島から稲作文化をもって弥生人が侵入してきて、徐々に混血して現代日本人が成立したという二重構造モデルがほぼ定説となっていた。弥生人は数十万人規模ではいってきたので縄文人は南北の辺境や山間部に追いやられ、言語も弥生系に変わったという説もあった。琉球人とアイヌ人は縄文人の直系で同根という見方も有力だった。

 ミトコンドリアDNAでも縄文人と弥生人という二系統は確認されたが、従来の説をくつがえす発見もあった。縄文人は南方から北上してきた東南アジア系の人々とされてきたが、ミトコンドリアDNAの解析によれば縄文人は複数のルーツを持ち、南から来た人々少数派で、多数派は東北アジア系の人々だったことがわかった。

 縄文人が朝鮮半島南部に進出していたことも判明した。縄文人と同じDNAをもつ人は現代でも朝鮮半島南部にすくなからずいるのである。弥生人の渡来前から北九州と朝鮮半島南端は共通の文化圏だったらしい。

 ミトコンドリアDNAで見る限り、従来考えられていたよりも弥生人の影響は限定的で、縄文人を引きついでいる人が多いことがわかったが、これは弥生人侵略説を否定するものではない。ミトコンドリアDNAは母系でのみ伝えられるので、男ばかりの弥生人集団が土着の縄文人の女性に子供を産ませても同じ結果になるからである。実際、アメリカ大陸の先住民の場合、ミトコンドリアDNAはアメリカ系のままだが、Y染色体はヨーロッパ系が圧倒的だという。

 弥生人が暴力的にはいりこんできたのかどうかは父系で伝わるY染色体を見なければわからない。結果は縄文人と目されるY染色体が効率で存在していることがわかった。弥生人は平和裡に定着したらしい(崎谷満『新日本人の起源』と中堀豊『Y染色体からみた日本人』により詳しい記述がある)。

 日本国内のサンプル数は決して十分とはいえず、日本周辺の少数民族にいたっては調査の空白が多いということだから、これで確定ではないが、ミトコンドリアDNAによって明らかになったことは予想以上に多い。今後の研究が期待される。

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『人類史のなかの定住革命』 西田正規 (講談社学術文庫)

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 縄文時代を人類学の視点から研究してきた碩学による論集である。原著は1986年に出たが、2006年に講談社学術文庫にはいっている。松木武彦氏の『進化考古学の大冒険』でも大きくあつかわれていたが、有名な本らしく、おもしろくて一気に読んでしまった。

 おりおりに書かれたエッセイや論文を集めた本なのでスタイルはさまざまだが、三つの部分にわけることができる。

 第一章「定住革命」から第二章「遊動と定住の人類史」、第三章「狩猟民の人類史」、第四章「中緯度森林帯の定住民」、第五章「歴史静態人類学の考え方」までは定住革命に関する論考。第六章「島浜村の四季」と第七章「「ゴミ」が語る縄文の生活」、第八章「縄文時代の人間―植物関係」は西田氏がフィールドにした福井県島浜村の縄文遺跡を手がかりにした縄文論。第九章「手型動物の頂点に立つ人類」と第十章「家族・分配・言語の出現」は書下ろしの人類起源論であり、定住革命のエピソード1である。

 巻頭に置かれた「定住革命」はコロンブスの卵というか、みごとな価値転換をおこなった目の醒めるような論考だ。下手な要約をするより西田氏の水際だった文章を引こう。

 定住化の過程について、それを支えた経済的基盤は何であったかとのみ問う発想の背景には、遊動生活者が遊動するのは、定住生活の維持に十分な経済力を持たないからであり、だから定住できなかったのだ、という見方が隠されている。すなわちここには、遊動生活者が定住生活を望むのは、あたかも当然であるかのような思いこみが潜んでいるのである。
 だが考えてもみよ。人類は、長く続いた遊動生活の伝統のなかで、ヒト以前の遠い祖先からホモ・サピエンスまで進化してきたのである。とすれば、この間に人類が獲得してきた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適したものであったと予想することもできる。そのような人類が遊動生活を捨てて定住することになったのである。とすれば、定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ、という視点が成立する。

 まさにその通りだろう。遊動生活に適応するように進化してきた人類にとって定住は幸福な生活どころかストレスであり、そのストレスを緩和するために発明されたのが文明だと西田氏はたたみかける。

 定住苦痛論は二章以下で周到に肉づけされている。わたしは素人なので一々の当否はわからないが、どれも十分説得力があるように読んだ。

 つづく島浜村遺跡を中心とする縄文論は交響曲でいえば緩徐楽章で、怒濤の展開の後にほっと息がつける。

 中休みの後、ふたたび怒濤の展開がはじまる。今度は動物の進化史全般を背景にした人類起源論である。

 西田氏はルロワ=グーランの示唆を受けて動物を手型動物と口型動物にわける。口型動物は霊長類以外のほとんどの動物で、攻撃・採食・餌の運搬・育児・身体清掃・毛づくろいを口でおこなう。もちろん、哺乳類だけでなく魚類、両生類、爬虫類、鳥類も口型動物である。

 それに対して手型動物というか霊長類はこうした作業を口だけでなく、手でもおこなう。霊長類の中でも原猿類やサル類は口を使う比率が高いが、類人猿ではより手を使うようになり、人類にいたって手の使用が頂点に達するというわけだ。

 人類が脳を巨大化できたのは頭を振りまわさなくてもよくなったからだという指摘は意表をつかれた。脳が重くなると頭を動かしにくくなるだけでない。頭を激しく動かすと脳が損傷を受けるのだ。脳は豆腐のように軟らかで、壊れやすいのである。

 手型動物となった人類は漸新世以降大型化してきたヒヒなどオナガザル類に対抗するために石や棍棒を持ち歩いたと著者は推定する。初期人類はヒヒと同じくらいの大きさで、生活圏が重なるヒヒと競合関係にあったらしい。

 ちょうどいい石や棍棒はどこにでも転がっているわけではないから、持ち歩くしかない。加工をくわえたとなれば、なおさらだ。石は肉食獣の食べ残しの骨を砕くのに、棍棒は地中の根や昆虫を掘りおこすのに使うが、振りまわせば武器になる。石と棍棒という得物が初期人類と他の動物の関係を変えただろうと著者はいう。

 だが、武器は他の動物に対してだけでなく、仲間に対しても使うことができる。石や棍棒は鋭利な犬歯以上の凶器となる。石と棍棒を持ち歩くようになった初期人類は集団内に危険をかかえこんでしまったのだ。

 著者は人類が言語を発達させたのは仲間どうしの殺しあいを避けるためではないかと空想する。

 人類は、満身の怒りを言葉に託し、それを投げつけて、暴力を回避することができる。「口より先に手が出る」ということがあるが、多くは口のけんかで済ますことができるのである。そんためにぜひとも必要な言葉は、アホ、バカ、マヌケ、カス、ボケナス、シニソコナイといった類のものである。……中略……棍棒や石を持ち歩き、大きな破壊力を手にした人類社会が発達させたであろう原初的な言語は、現代のわれわれの言語活動になぞらえて言うなら、挨拶やムダ話、罵倒や非難などの場面で使う「安全保障のための言語」活動であっただろう。

 ダンパーは霊長類の毛づくろいは集団を維持する上で不可欠なコミュニケーションであり、ヒトの言語は毛づくろいコミュニケーションの延長で発達したという説を唱えたが(『ことばの起源』)、西田氏のアホ、バカ、マヌケが言語の起源だという説はその先を行っており、まさにコロンブスの卵である。

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2010年04月28日

『進化考古学の大冒険』 松木武彦 (新潮選書)

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 「進化考古学」とは聞きなれない言葉だが、著者流にとらえなおした認知考古学のことだそうである。もともとは発表を意図しない勉強ノートだったというが、論文と違って奔放というか連想のおもむくまま無防備に思いつきを語っていて刺激的だ。

 松木氏は学生時代に出会った史的唯物論の影響で考古学に興味をもったと明言しているが、農耕の評価などどう考えても史的唯物論とはあいいれない。マルクス主義を奉じる学者から批判されたと戸惑い気味に書いているが、逆の立場なのだから攻撃されて当たり前だ。

 順に見ていこう。

 第一章「ヒトの基本設計―進化考古学とは何か」はホモ・サピエンスがどのように誕生したかで、旧石器時代前期と中期をあつかう。

 初期人類は肉食獣が食べ残した骨を食料にしていたとする島泰三氏の『親指はなぜ太いのか』とミズン(本書ではマイズンと表記)の『心の先史時代』を参照しながら、オスのセックスアピールの場は身体から石器作りや装身具作りのワザ(文化)に移ったのではないかという魅力的な仮説を引きだす。

 第二章「美が織りなす社会―ホモ・エステティクスの出現」はこれを受けて、美の認知は原人段階ですでに生まれていたのではないかという仮説が述べられる。というのも旧石器時代前期の石器には実用には必要ないほどの左右対称性や表面の研磨が見られるからだ。

 いくら物証があっても原人が美を感じるというのはピンと来ないが、松木氏は美は情報の縮減に成功した際に脳にあたえられる報酬だとしている。

 ヒトの脳は、環境の中の複雑な現象を一定の秩序やカテゴリーに当てはめて整理することによって、思考のコストを節約している。情報の縮減ないしは体制化と呼ばれるこの作業に成功したとき、脳は報酬として快感をえるようにできている。聴覚では、協和音やメロディやリズムの感知がこれに当たる。音の体制化である。また、物事が起こるときの一定の規則、すなわち因果関係を経験の中から発見しようとすることも、情報の整理による縮減という点で、同じ脳の働きに根ざすものである。

 美の認知もまた生存に有利だから生じたというわけだ。そういうことなら原人が美を感じてもおかしくないかもしれない。

 第三章「形はなぜ変化するのか―縄文から弥生へ」は縄文土器の変化を例に、流行のように変化していくモードの層から変化しないスタイルの層を分離し、スタイルの層を支えているのが集団の文化的約束事スキーマにほかならないことを指摘する。

 文化的約束事スキーマが変われば古いスタイルは消滅して新しいスタイルが生まれることになる。松木氏は縄文から弥生への移行は縄文人から弥生人への交代ではなく、文化的約束事スキーマの変化ではないかと示唆している。

 第四章「狩猟革命と農耕革命―現代文明社会の出発点」は定住から農耕がうまれた経緯をたどるが、従来の考古学が農耕の開始(新石器革命)を人類の一大転機と評価するのに対し、西田正規氏の『人類史のなかの定住革命』を援用して、むしろ定住の方が重要だとしている。

 新石器革命以後、戦争や遠隔地交易が盛んになったのは農耕によって生産力が飛躍的に増大したからだと説明されてきたが、松木氏は西田説によりながら、何万年も遊動生活をおくり遊動生活に適応してきた人類が急に定住しなければならなくなったことが原因だとする。

 第五章「われら倭人なり―民族の誕生」は民族集団が形成されるプロセスを倭人を例に考察するが、レンフルーの『先史時代と心の進化』でも語られたコッシナの民族考古学の再評価という微妙な話柄にふれている。

 第六章「ヒトはなぜ巨大なモノを造るのか―人類史のなかの古墳時代」はモニュメントの建設を手がかりに国家の問題に踏みこんでいる。『先史時代と心の進化』と問題意識が重なるので、詳しく読みくらべるとおもしろいだろう。

 第七章「文字のビッグバン―国家形成の認知考古学」は国家論であり、古墳が作られなくなったのは日本が文字社会に移行したからだという仮説が述べられている。

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『先史時代と心の進化』 コリン・レンフルー (ランダムハウス講談社)

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 本欄では以前、ミズンの『心の先史時代』と『歌うネアンデルタール』をとりあげたが、認知考古学をより広い視点から見直すために本書を読んでみた。

 著者のレンフルーはケンブリッジで長く教鞭をとった世界的な考古学者で、『考古学―理論・方法・実践』という浩瀚な入門書が邦訳されている。

 本書は二部にわかれる。

 第一部「先史時代の発見」は18世紀のポンペイ発掘から現代にいたる考古学の歴史で、「先史時代」という概念がどのように生まれ、変遷してきたかを目配りよく紹介している。

 多種多様な出土品を整理するために、進化論と地質学の影響のもと、石器時代・青銅器時代・鉄器時代という三分類が生まれ精緻化されていき、ゴードン・チャイルドの『ヨーロッパ文明の曙』(1925)と『文明の起源』(1936)によって集大成されるが、そこにはナチスに加担したとして悪名高いグスタフ・コッシナの文化史的アプローチがとりいれられていること、チャイルドの提唱した「新石器革命」がマルクス主義の史的唯物論から着想されていたことをレンフルーは見逃さない。

 一歩一歩発展してきた考古学は第二次大戦後、科学の進歩と植民地の独立で飛躍期をむかえる。

 科学の進歩とは放射性炭素C14による年代測定や湖底コアや氷床コアの分析、DNA解析のような手法があいついで開発されたことである。なかでもC14革命の衝撃は決定的だった。相対的な年代しかわからなかった考古学に絶対年代という物差しをもたらしたからだ。エジプトやメソポタミア、インダス、中国、新大陸の年表を書き換えただけでなく、遠隔地の年代が比較できるようになった。世界規模の先史学がようやく可能になったのである。

 植民地の独立も影響が大きい。考古学は欧米の研究者がずっと担い手だったが、独立によって自国の過去に関心が生まれ、地元の研究者が育つようになった。

 新興国の中には社会主義陣営にくわわった国がすくなくなかったが、そうした国では史的唯物論が先史時代への関心をかきたてた。史的唯物論の先史時代論はモーガンの『古代社会』(1877)の焼き直しにすぎなかったが、先史時代に注目させたという意味では十分功績があったのである。

 第二部「心の先史学」から認知考古学にはいっていくが、レンフルーは認知考古学の初期の達成であるミズンの所論とは別の立場をとっている。

 ミズンによれば原人・旧人段階の人類の脳は特定分野の処理に特化したモジュールの集まりだったために、骨を道具の素材にするといった簡単なことが思いつけなかったが(骨の判別は博物学的知能、道具の加工は技術的知能が担当)、ホモ・サピエンスになるとモジュールを隔てていた仕切がとりはらわれ、分野をまたいで融通がきくようになったとする。ミズンはこの能力を認知的流動性と呼んでいる。

 レンフルーは最近の神経科学はモジュール仮説を支持する証拠を見つけておらず、ホモ・サピエンスに移行する時に遺伝子がどのように変化する必要があるのかもわかっていないと疑問を呈した上で以下のように述べている。

 これについては、人類初期に社会集団を、実際の姿に沿って、霊長類の社会システムの進化という視点から考えるアプローチが非常に有望である。人類への移行を推し進めたと思われる、より強力な社会的相互作用がホミニドの間で徐々に発達していく過程については、ロビン・ダンパーが著書『ことばの起源――猿の毛づくろい、人のゴシップ』で詳しく論じている。前期および中期旧石器時代の考古学的記録は、現在この視点から検討されることが多くなっている。今では通説として、完全な文法構造を持った言語が発達したことで、狩猟採集者の集団は環境に適応する上で非常に大きな利点を得たと考えられている。このように、この場合は進化論的アプローチが有効なのである。

 旧人からホモ・サピエンスが誕生した種形成段階では遺伝子変化と文化の発達が共進化していたというわけである。

 レンフルーはさらに「ホモ・サピエンス・パラドックス」と呼ぶ謎を提起し、真に重要なのは種形成段階ではなくその後だとする。

 ホモ・サピエンスは15万年から10万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカ外に拡散したと考えられているが、遺伝子的には現代のわれわれと同等だったはずなのに、彼らは依然として旧石器時代中期の生活をつづけていた。新石器革命がはじまったのはようやく1万年前にすぎない。

 どんなに遅くとも出アフリカの起きた6万年前には現在と同様の知能をもっていたはずであり、6万年前の子どもをタイムマシンで現代に連れてくれば、普通の現代人に育つことだろう。それなのに農耕と牧畜をはじめるまでになぜ5万年もかかったのか? レンフルーはこれをホモ・サピエンス・パラドックスと名づける。

 体格や皮膚の色の面では人類のゲノムは変化しつづけたが、行動面はもはや遺伝子が決める段階は終わっており、学習のみによって身につける段階にはいっていた。ゲノムの変化が重要でなくなった段階をレンフルーは「構築段階」と呼び、認知考古学はこちらに注目すべきだとしている。

 新石器革命はどのように起こったのか?

 マルクス主義の史的唯物論をはじめとして、以前は安定した農耕システムが確立されてから定住がはじまったとする説が一般的だったが、現在では農耕より定住の方が早かったことがわかっている。海産物などが豊富な場所でまず定住がはじまり、社会関係が複雑化していった結果、認知能力が発達し、耕作の開始をふくむ新石器革命にいたったというわけだ。

 レンフルーは新石器革命から階級分化、価値概念の発生、文字の発明までをやや駆足で概観していくが、認知能力の進化を単に脳内の出来事とするのではなく、社会関係と物質表現という視点からとらえるという方法論で一貫している。

 300ページ足らずの本なのでやや食い足りなくもあるが、目配りよくコンパクトにまとまった好著だと思う。

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2009年09月27日

『信長殺し、光秀ではない』 八切止夫 (作品社)

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 高柳光壽『明智光秀』がまともな歴史研究の古典なら、こちらは陰謀説の古典である。八切止夫氏はトンデモ歴史の大家で、上杉謙信女性説などの珍説奇説で知られている。

 謙信女性説でこりていたが、谷口克広氏の『検証本能寺の変』で諸悪の根源のような言われようだったので、逆に興味をもった。藤本正行・鈴木眞哉両氏による『信長は謀略で殺されたのか』でも最大限の罵倒を浴びせられている。錚々たる研究者にこれだけ目の敵にされているとなると、何かありそうな気がしてくる。で、この機会に読んでみた。

 著者は最初に「ノンフィクション・ノベル」だと断っているが、書きぶりはどう見ても歴史エッセイで、小説ではない。強いて小説的というなら、本能寺の変を考証した章の間に現代のマカオに南蛮史料を探しにいった旅行記の章をはさむ書き方が小説でよく使われるカットバックの手法にあたるだろうか。

 著者が本能寺の変に興味をもったのは学生時代のことである。当時、モラエス研究家のT.H.先生(花野富蔵氏?)の研究室でアルバイトをしていたが、ある時、T.H.先生から「信長を殺したのは光秀ではない。ちゃんと目撃者もいる」とモラエスが書いていることを教えられる。その言葉が気になり、以来23年間、本能寺の変の研究をつづけたという。

 考証部分ではいきなり光秀にはアリバイがあると断定する。根拠は公卿の日記で、光秀が在京したのは午前9時から午後2時までであり、光秀が京都にあらわれた頃には本能寺の変はあらかた終わっていたというわけだ。

 そして夜、光秀は坂本城にもどったのだから、変の前夜は坂本城にいたはずだと決めつけ、丹波から一万三千の兵を率いてきたのは光秀以外の人間だとたたみかける。

 単独犯行による暗殺事件ではないのだから、現場にいなかったことがアリバイになるとは思えないが、丹波勢一万三千の謎でぐいぐい押していくので、いぶかりながらも先を読んでしまう。

 丹波勢の謎で思わせぶりに長々と引っ張っるが、終わり近くになって、なんのことはない、丹波勢を率いていたのは斎藤利三だと明かされる。長宗我部問題で切羽詰まっていた利三は光秀に無断で丹波勢を動員し、信長と信忠の二人を屠りさった。謀反という既成事実ができてしまったので、光秀は利三の書いたシナリオに乗るしかなかったというわけである。

 斎藤利三が暴走したという味つけがしてあるが、これは要するに現在有力な長宗我部説である。

 陰謀説の首魁にしてはあまりにも普通の結論で、おやおやと思ったが、これで終わりではなかった。最後の最後になって、斎藤利三を操っていたのは信長の正室の奇蝶(帰蝶)だったという落ちがつくのである。奇蝶の後半生はほとんどわかっておらず、どうとでもいえるだけに説得力はないが。

 斎藤利三の暴走といい、奇蝶の謀略といい、いかにも無茶な決めつけだが、あなどってはいけない。これは相当考え抜いた末の説である。

 長宗我部説の難点は、長宗我部問題は斎藤利三にとっては重要だが、光秀にとっては謀反を起こすほど重要ではなかった点にある。長宗我部説をとる人は長宗我部問題が光秀にとっても重要だったことを論証しようと苦労するわけだが、斎藤利三が勝手に軍団を動かしたことにすれば、難点はあっさり解決する。

 奇蝶黒幕説はいかにも馬鹿げているが、実は陰謀説の根本的な問題の解決になっている。

 本能寺の変は信長を殺しただけでは成立しない。織田家の家督はすでに信忠が継いでおり、信忠は武田攻めの成功などで信長の後継者としての権威を確立していた。信忠とその官僚団が健在な限り、信長が暗殺されても織田体制はゆるがないのである。信忠がいきのびていたなら、美濃に健在な織田本軍を率いてただちにとってかえし、明智軍を撃破していたはずだ。もちろん、秀吉の出番はない。

 信長と信忠が少数の手勢だけで同時に京都に滞在するという偶然がそろわない限り、本能寺の変はありえなかった。こんな御誂え向きの偶然を作りだすのは朝廷でも無理だ。陰謀説の致命的な欠陥である。

 ところが奇蝶が黒幕なら、理屈の上では、信長と信忠の同時在京という状況を作りだすことは不可能ではない。あくまで理屈の上でだが。

 八切氏は長宗我部説はもとより、陰謀説の本質的な矛盾を知り抜いた上で、トンデモ歴史で遊んでいたらしい。洒落のきつい人である。

 もう一つ特筆しなければならないことがある。丹波勢一万三千の謎で長々と引っ張ると書いたが、引っ張る間に朝廷陰謀説、義昭陰謀説、家康陰謀説、秀吉陰謀説、さらにはイエズス会陰謀説から信長爆死説まで、今日までに登場している陰謀説のパターンがあらかた登場しているのである。

 本書は1967年に発表されており、本能寺の変陰謀本の嚆矢といってよいが、陰謀説のパターンはバージェス動物群のように、本書の段階でほとんど出つくしていたのだ。本書は陰謀ネタの宝庫であり、以降に出た陰謀本は本書の脚注にすぎない。目の敵にされるだけのことはあったのである。

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2009年09月26日

『明智光秀』 高柳光壽 (吉川弘文館)

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 明智光秀研究の基本図書とされている本だが、今回、はじめて読んだ。発表されたのは1958年だが、1976年に新装版が出て現在でも版を重ねている。

 いくら名著とされていても、史料の出揃っていなかった半世紀前の本を今さらと手にとらなかったが、読んでみるとこれは凄い。小説やTVドラマでおなじみのエピソードを根拠を明示しながらバッサバッサと否定していくのだ。

 物理的に不可能な場合や前後の矛盾、確定した史実と相違する場合はどう不可能か、どう矛盾するか、相違するかを簡潔に説明しているし、良質な文献をもとに否定する場合は典拠とした文献を一つ一つあげている。有無をいわさぬ迫力で、読んでいて快感である。

 「誤謬充満の悪書」として特に槍玉にあげられているのは『明智軍記』と『太閤記』だ。『太閤記』については堀尾吉晴の手柄話が出てきたら「例の偽りか」と思えと言い切っている。

 『細川家記』と『総見記』については是々非々で、曖昧にぼかすことなく、ここまでは当てになる、ここからは当てにならないと白黒をはっきりさせている。問題があったらいくらでも批判してくれと手駒のすべてをさらしているわけで、恐るべき自負である。最近、トンデモ説を発表する学者が少なくないが、内容的には大胆でも、論証は曖昧模糊として全然大胆ではない。学者も半世紀で劣化したのだろう。

 おなじみのエピソードが全否定された後に何が残るのか。信長そっくりの果断な合理主義者としての光秀である。

 彼が牢籠の身から信長に抜擢され重用されたのは、彼が信長と同じような合理主義者であり、信長と同じような目的を持っていたからであると思われる。……中略……彼は新日本建設の助力者であっても、決してそれの妨害者ではなかった筈である。ただ彼は日本の社会革命の主人公である信長に代わろうとして敗れただけである。

 本能寺の変の動機については当時主流だった怨恨説を一つ一つ検討し、「要するにそれは後人の想像に過ぎず、しかも事情に殆ど通じない、いってみれば一知半解の説」と全否定している。

 変の後、光秀は守旧派勢力に接近し大盤振る舞いするが、これは信長に脅威をおぼえていた守旧派勢力なら確実に支持してくれると計算したからで、決して光秀の保守性を示すものではないとしている。

 著者は基本的には野望説をとるが、謀反の引き金を引いた直接の要因として長宗我部問題をあげている。長宗我部説は最近注目されたものと思いこんでいたが、実は半世紀前に本書で特筆されていたのだった。

 本書の成果の多くは後の研究者に引き継がれているが(無断で引き継いでいる人もすくなくない)、引きつがれていない成果もある。光秀の教養についての評価である。

 「時は今あめが下しる五月哉」という『愛宕百韻』の発句があまりにも有名なので、光秀は高い教養の持主のようなイメージがあるが、実際のところはどうだったのか。「時は今……」の謎解きをする人はすくなくないが、光秀の教養を論じた人は寡聞にして知らない。

 著者はこの問題についてもふれている。『明智軍法』の内容については評価しているものの、末尾につけられた制定の次第を述べた文章については「気取った文字を使用しているが、難渋であるとうだけで悪文というべきものである」とにべもない。当時の流行の文体なので、学者でもない光秀を責めることはできないと断ってはいるが。

 里村紹巴宛書簡に添えられた発句については「幼稚ではあるが古典と結びつけようとする気持ち」を評価し、「それはやはり光秀の教養といってよいであろう」としている。武将にしてはなかなか勉強していますね、という程度の評価だろう。

 一方、光秀の筆跡にはいい点数をつけている。本書には光秀直筆の文書が写真版で掲載されているが、行書は「謹厚」の風があるとし、「なかなか味深い文字である」と評価している。草書については「すこぶる闊達な感じを与える。小事に拘泥する風は見えない。しかもその間に一種の迫力があり余韻さえある」という誉めようだ。

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2009年09月25日

『本能寺の変 四二七年目の真実』 明智憲三郎 (プレジデント社)

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 著者の明智憲三郎氏は光秀の庶流の子孫と伝えられる家に生まれた人である。明智の名をはばかって代々明田を名乗ってきたが、明治になって曾祖父が古文書など証拠の品とともに明智への復姓を願い、認められたという(古文書類は関東大震災で焼失)。

 家系伝説の信憑性はともかくとしても本書の議論は実に興味深く、円堂晃氏の『「本能寺の変」本当の謎』とともに、現在、最も説得力のある陰謀説といっていいだろう。

 内容は四部にわかれる。

 第一部「作りかえられた歴史」では史料批判によって怨恨説と信長不仲説を否定するが、このあたりは学問的に決着がついていて新味はない。注目したいのは光秀の経歴を考証した部分である。

 通説によれば越前朝倉家に仕官していた時、細川藤孝と知りあい、足利幕府再興について話しあって意気投合した。光秀は讒言を受けて朝倉家を去り、信長に仕えるようになると、藤孝を信長に紹介し、互いに連繋して足利義昭の上洛を実現する。光秀は信長側の代表として幕府の行政に参加し、頭角をあらわしていった、とされている。

 ところが永禄6年の幕臣名簿に「明智」の名があり、これが光秀ではないかという説がある。また、『多聞院日記』とフロイス『一五八二年日本年報追加』という第一級史料に光秀は藤孝の家来だったと記されている。

 後者については光秀と藤孝の親密な関係が誤って伝えられたものとする解釈が主流だが、著者はこれこそが事実であり、朝倉被官の方が誤りだとする。朝倉被官は『細川家記』と『明智軍記』に出ているが、『細川家記』は『明智軍記』を史料として名をあげており、しかも両者の記述は一致するので、朝倉被官の根拠は『明智軍記』という信頼性の乏しい史料だけになる。

 『細川家記』は永禄11年に藤孝を信長に引きあわせたのは光秀だとしているが、他の確かな史料によると藤孝は信長とそれ以前から行き来しており、光秀が引き合わせる必要はなかったはずである。

 著者は永禄6年の幕臣名簿については前半部分は確かに永禄6年の名簿だが、後半は永禄8年の義輝謀殺後、藤孝が義昭体制を立ちあげた際の名簿ではないかとしている。義輝とともに多くの側近が討死にした上に、幕臣は義栄擁立派と義昭擁立派に割れていた。義昭を擁立した藤孝は急遽人材を集める必要に迫られ、家来だった光秀を幕府の直臣にとりたてたというのだ。

 これが事実だとしたら、光秀は信長のもとで栄達し、旧主である藤孝を組下にかかえたことになる。光秀と藤孝の親密な交際はつとにしられるところだが、内心まではわからない。著者は光秀に対する屈折した感情が本能寺の変前後の藤孝の動きに影響したと推測している。

 第二部「謀反を決意した真の動機」では三つ要因があげられている。第一は土岐氏再興の野望、第二は長宗我部問題である。

 長宗我部原因説の難点は樋口晴彦氏の『本能寺の変 光秀の野望と勝算』が指摘しているように、長宗我部氏の滅亡は斎藤利三にとっては切実だが、光秀にとっては敢えて謀反を起こすほど重要ではなかった点にある。著者は利三の実兄で、長宗我部元親の正室の義弟であり、元親の嫡男信親に娘を嫁がせた石谷辰頼を前面に押しだすことによって、長宗我部問題と土岐氏再興問題が一体であり、長宗我部氏の命運が光秀にとっても重要だったと論証しようとしている。

 残念だが、著者の試みは成功しているとはいえない。辰頼についてはほとんど史料が残っておらず、光秀との関係は憶測に憶測を重ねるしかないからだ。

 しかし、第三の要因はおもしろい。信長は武田滅亡で利用価値のなくなった徳川家をとりつぶそうとしており、本能寺の変は本来は家康討ちのはずだったというのだ。それが光秀の翻意で信長討ちにすりかわってしまった。すなわち、光秀=家康密約説である。

 光秀=家康密約説は以前からあったが、著者は徳川討伐計画が発動直前まで進んでいたとする。激戦が予想されるので、侵攻は光秀軍団を主体とし、信忠率いる織田本軍は温存する。旧徳川領は恩賞として光秀にあたえられ、明智家は丹波から三河・遠江・駿河に移封されることになるというわけだ。

 著者によれば、信長の甲州遠征は徳川討伐の下見だった。信長は光秀、藤孝、筒井順慶の三人をともなって、新たに征服した信濃・甲斐をまわり、帰路、徳川領で盛大な歓迎を受けているが、これは光秀軍団の幹部に徳川領侵攻作戦の下見をさせたのだと著者は推測する。ヒトラーがオリンピックの聖火リレーをヨーロッパ征服の下見に使ったようなものだろう。

 本能寺の変を家康謀殺と勘違いした者がいたという史料が複数残っていることからわかるように、当時の状況として家康謀殺の可能性は十分ありえた。明智軍が大軍であるにも係わらず、怪しまれずに京都に入城できたのは、信長自身が呼びよせたからということになる。

 なぜ光秀は家康ではなく、信長を討ったのだろうか。光秀は変の二週間前まで饗応役として家康と親しく接する立場にあり、密約を結ぶ機会があったが、それ以上に家康は光秀の同盟者となりうる位置にいた。

 秀吉の中国大返しがあまりにもみごとだったために見えなくなっているが、著者はすぐに畿内にもどれる軍団がただ一つ存在していたとする。甲斐22万石に封じられていた河尻秀隆軍である。秀隆は信忠元服時に補佐役に指名され、信忠をいただく織田本軍を実質的に仕切ってきた。河尻軍が西上していたら、美濃でちりじりになっていた織田本軍を率いて光秀と決戦に臨んでいた可能性が高い。しかし、そうはならなかった。

 いちはやく領国にもどった家康が武田の遺臣を扇動し、甲斐信濃を侵す挙に出たからだ。秀隆は家康の使者を斬り殺して、徳川に対決する姿勢を明確にしたが、国一揆をおさえきれず横死している。

 密約云々は別にしても、結果を見れば家康は本能寺の変に乗じて織田領を脅かし、光秀を助けた形になっている。

 家康は命からがら伊賀越えをしたことになっているが、穴山梅雪の死に方といい、信忠に扈従しながら二条御所から生還した水野忠重といい、甲斐信濃の簒奪が清洲会議で黙認されたことといい、確かに妙なことが多すぎる。

 第三部「本能寺の変はこう仕組まれた」はいよいよ事件の再構成である。家康は5月29日から堺に逗留し、変の当日の6月2日、京都に向かった。変がなければ同日中には本能寺につき、信長に謁見していたはずである。

 著者の推理が正しければ、信長は京都に入る直前の家康と重臣一行を明智軍に襲わせ、その後徳川領に向けて進発させていたことになる。そのシナリオがなぜ、どのように狂ったか。本書の推理は実に巧みに組み立てられており、半ば以上説得されてしまった。

 第四部「新説を裏づける後日譚」はフロイス文書と家康のその後を光秀=家康密約説の視点から再検討している。これもおもしろすぎる。

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2009年09月24日

『検証 本能寺の変』 谷口克広 (吉川弘文館)

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 『本能寺の変 光秀の野望と勝算』で藤本正行・鈴木眞哉の『信長は謀略で殺されたのか』と並べて評価されていたので読んでみたが、独自の見解を打ちだした本ではなく、これまでの本能寺の変研究を紹介したレビュー本だった。新書判の倍の値段だが、初心者向けではないからこれでいいのだろう。

 プロローグとエピローグを別にすると、四部にわかれる。

 第一部では本能寺の変の流れを追いながら、途中で史料を信頼性の高い順に四グループに分類し紹介している。

(1) 手がかりとなる史料(記録・日記)
『言経卿記』、『兼見卿記』、『晴豊公記』、『日々記』、『多聞院日記』、『御湯殿の上の日記』など
(2) 手がかりとなる史料(覚書・編纂物)
『信長公記』、『惟任謀反記』、『立入左京亮入道道隆左記』、『本城惣右衛門覚書』
(3) 参考になる史料
『川角太閤記』、『豊鑑』、『当代記』、『イエズス会日本年報』、『甫庵信長記』、『三河物語』
(4) そのまま信じてはいけない史料
『総見記』、『明智軍記』

 どういう由来の史料で、信頼できる点とできない点を簡潔にレビューしており参考になる。

 第二部では本能寺の変研究の流れを江戸期、明治からNHKで大河ドラマ『信長』が放映された平成四年まで、それ以降の三期にわけて概観している。大河ドラマ『信長』が目印となるのは放映をきっかけに陰謀説が大々的に流行し、今日につづいているからである。

 江戸期は儒学的にも、庶民の人気的にも、信長は残虐非道な暴君として評判が悪く、本能寺の変はもっぱら怨恨が原因と考えられていた。時代が下ればくだるほど、怨恨に尾鰭がついていったということである。江戸期に信長評価の先鞭をつけたのは頼山陽だったが、彼とても怨恨説の枠を出ることはなかった。

 明治になると信長の業績が評価されるようになったが、本能寺の変については怨恨説がもっぱらだった。その原因として著者は実証史学が未成熟で、『総見記』や『明智軍記』のような尾鰭のいっぱいついた俗書を無批判に信じこんだからだとしている。

 こうした流れを変えたのが戦国史の泰斗、高柳光壽氏の『明智光秀』(1958)だった。高柳は史料批判によって怨恨説の論拠をすべて否定し、良質な史料にもとづいて野望説をとなえた。これに対してもう一方の権威、桑田忠親氏が反論し、イエズス会史料など、それまで参照されていなかった史料をもとに怨恨説を主張し、論争となったのは知られているとおりである。

 歴史学の世界では高柳・桑田論争以後、本能寺の変研究は停滞期をむかえるが、一般向け読物の世界では目端のきいた著者がつぎつぎと本能寺の変をとりあげはじめる。その中で世間の注目を集めたのはトンデモ歴史の大家、八切止夫氏だという。

 さて、こうして大河ドラマ『信長』の放映をむかえるわけであるが、雨後の筍のように出てきたさまざまな陰謀説の中で朝廷黒幕説だけは一考の価値があるとしている。

 第三部は陰謀説の紹介と再検証にあてられている。一考の価値ありとした朝廷黒幕説に半分以上の紙幅が使われているが、結論としては「先入観に導かれて史料を曲解するところあら生まれた」とにべもない。

 陰謀説は一通り目を通したつもりだったが、本願寺の教如上人黒幕説などというものまであるそうである。

 最近の陰謀説として井上慶雪、円堂晃、小林正信三氏の著書をとりあげ批判しているが、円堂氏の『「本能寺の変」本当の謎』については批判としては不十分ではないかと思う。著者は一万三千もの大軍で京都に進軍したのはなぜか、市中に分宿していた馬廻衆が駆けつけなかったのはなぜか、信忠を同時に襲わなかったのはなぜかという円堂氏の疑問を「いちおうもっとも」とするものの、明智軍が三隊にわかれて進軍したと考えれば説明がつくと片づけている。

 そうだろうか。円堂氏が提起した一番の問題はあのような大軍が完全軍装で早朝の京都に入城したのに、なぜ京都所司代や馬廻衆は気がつかなかったのかという点なのだ。三隊にわけたとしても数千の軍勢が、庶民が朝の支度をはじめていた時間に市中に展開したのである。著者の批判は批判になっていないのではないか。

 さて、第四部では本能寺の変の原因の諸説を検討し、最終的に長曾我部説に軍配を上げている。現時点では最も妥当な結論だろう。

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2009年09月23日

『本能寺の変 光秀の野望と勝算』 樋口晴彦 (学研新書)

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 本能寺の変から山崎の合戦にいたる経過を良質の史料を用いて再構成した本である。最初はトンデモ説に反駁する本を書こうとしたが、藤本正行・鈴木眞哉『信長は謀略で殺されたのか』と谷口克広『検証本能寺の変』に尽くされているので、ドキュメント風の書き方に改めたということである。

 この方針転換は成功していて、本能寺の変をはさんだおおよそ三週間の日本各地の状況を鳥瞰する本書が出来あがった。こういう重宝な本が廉価な新書で入手できるのはありがたい。

 序章では光秀の人物像をとりあげている。小説やTVドラマ、映画、最近はゲームによって紋切型の光秀像――伝統第一主義の神経質で小心なガリ勉タイプ――がすっかり定着した観があるが、著者はそれをリセットし、伝統的な権威をものともしない、近代的で果断で独裁的ともいえる光秀像を描きだしている。

 たとえば、叡山焼討である。司馬遼太郎の『国盗物語』には光秀が信長に焼討を思いとどまらせようと必死に諌める条があり、類似の場面はTVなどでくりかえし映像化されてきたが、史実は逆で、叡山周辺の土豪の懐柔に積極的に動いていたことを示す書状が残っている。焼討後、信長は光秀を志賀郡五万石の大名に抜擢しているが、これは光秀が叡山攻めの最大の功労者だったことを示すものだろう。光秀は叡山を扼する坂本に築城して延暦寺関連の荘園を容赦なく接収しており、後に無関係な荘園まで押領したと朝廷から苦情が来ている。

 坂本城が交通の要路に城下町と一体化して築かれた城で、安土城やその後の近世城郭の手本となったという指摘や、検地の断行と知行高にもとづく軍役の再編の先鞭をつけたのが光秀だったという指摘も重要である。信長の天才的な施策のいくつかは光秀がはじめたものだった。高柳氏が指摘したように、信長と光秀は似た者同士で馬が合ったのである。

 変後の光秀の動きについては無駄が多いとか、時間を空費したとか、厳しい見方が多いが、著者は京都で掃討戦に時間をかけ信長の馬廻衆を全滅させた点を重く見ている。馬廻衆は単なる親衛隊ではなく官僚機構であり、織田政権の頭脳だった。馬廻衆の全滅で織田政権は脳死状態におちいったわけである。

 琵琶湖畔の城郭群をすべておさえた点も北陸の柴田勢を仮想敵とした万全の備えだったと評価している。柴田勝家は6月16日には北の庄城にもどっており、もし秀吉が毛利に釘付けになっていたら、柴田勢と明智勢の間で決戦がおこなわれていたはずである。琵琶湖の制圧を喫緊の課題と考えたのは当然だろう。

 さて、秀吉軍の中国大返しである。あまりにもうまくいきすぎた上に本能寺の変の最大の受益者が秀吉だったので、陰謀説のかっこうの根拠となっているが、著者は強行軍を可能にした条件として二つの要素をあげている。第一に信長本隊のために街道沿いに手配されていた大量の兵糧、人足、休息施設。第二にその手配を担当していた奉行の堀秀政が秀吉についたこと。著者は堀秀政は黒田長政とともに参謀として秀吉の天下取りを支えたとしている。

 本書は大筋においては通説を踏襲しているが、大胆な新説がないわけではない。それは光秀は秀吉が協力者になってくれるものと一方的に片想いしていたという見方である。秀吉陰謀説のように事前に連絡があったとするわけではないが、外様でありながら異例の出世をとげた同志、たがいに通ずるものがあったというわけだ。著者は秀吉の妻や生母が長浜城から逃亡するのを光秀が黙認した可能性にふれ、さらには秀吉に変の第一報を知らせたのは光秀自身だったという見方まで披瀝している。

 光秀の動機の推理は本書の主要テーマではないが、本能寺の変をあつかう以上、動機にふれずにすますわけにはいかない。

 怨恨説でおなじみの家康饗応が決して名誉な仕事ではなかったという指摘はコロンブスの卵だった。後世の人間は家康が天下をとったことを知っているので饗応役からはずされたことを大変な屈辱と錯覚するが、この時期の家康は同盟者とは名ばかりで、実質的には織田軍の東海方面軍司令官にすぎなくなっていた。家康の相手をしているより、毛利攻めで手柄をたてたほうが得なのである。

 意外なのは近年最有力視されている長宗我部説をとっていないことだ。長宗我部の苦境を「天下の情勢が見えない田舎大名が、光秀の忠告を聴かずに自滅の道を選んだというだけ」と見きり、長女の嫁ぎ先だった荒木村重ですら攻めた光秀がずっと縁の薄い長宗我部家のために謀叛に踏み切るなどありえないと断定している。

 長宗我部外交からはずされて面子を失ったという見方に対しては、四国平定などは信孝程度でつとまる小事で、毛利攻めとその後に控えている九州征服の方がはるかにリターンが大きいとしている。

 著者がとるのは単独野望説だが、著者も賛同する光秀六七歳説との整合性の点でどうだろうか。当時の六七歳は今の八〇歳くらいにあたるだろう。八〇歳になって天下とりは無理があるのではないか。

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2007年04月30日

『だれが信長を殺したのか』 桐野作人 (PHP新書)

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 著者の桐野作人氏は以前は朝廷陰謀説をとっていたが、2001年の『真説 本能寺』で自説をとりさげ、光秀単独犯行説に転じた。立場を変えた直接の理由は『晴豊公記』の輪読会に参加し、信長と朝廷の間に深刻な対立などなかったと確信したからだという。本書は『真説 本能寺』の内容をさらに深めたもので、有名な「ときは今」の歌仙が巻かれた日に書かれた新発見の書簡など、最新の知見が盛りこまれている。

 『信長は謀略で殺されたのか』でも説かれているように、機密保持という点でも、変後の光秀の泥縄な動きという点でも、共謀説は無理のようである。光秀単独犯行となれば、問題点は動機に絞りこまれる。桐野氏は謀反の動機として領国の再編問題と四国問題をあげている。

 領国の再編問題とは京都に近い領国は信長の息子たちが独占し、家臣は遠国に移封されることをいう。江戸幕府は江戸の周辺を親藩譜代で固め、外様大名を遠方に配したが、織田幕府が誕生したとすれば同様の政策をとった可能性が高い。

 怨恨説でよくいう「まだ敵地の出雲・石見をあたえる代わりに丹波を召し上げた」という『明智軍記』のエピソードは荒唐無稽にしても、都の隣の丹波から遠国に転封されることは「惟任日向守」という名乗りをあたえられた時点でわかっていたはずだ。

 むしろ重要なのは四国問題である。四国で勢力を伸ばしつつある長宗我部を取りこむか排除するかで光秀と秀吉の間に路線対立があったことはこれまでにも指摘されてきた。著者は領国再編問題のからみで、対立がもはや光秀対秀吉ではなく、光秀対信長に移っていたと指摘する。本願寺が大坂に健在な間は大坂の背後に控える長宗我部に利用価値があったが、本願寺の降伏とともに利用価値はなくなり、むしろ邪魔な存在になっていった。信長が四国渡海軍の総大将に息子の信雄を指名したことは四国の都に近い東半分が信雄の領国になることを意味していた。長宗我部は排除されるしかなかったのである。

 ここで明智軍の主力、美濃譜代衆をたばねる斎藤利三の存在が浮上してくる。利三は春日の局の実父として有名だが、長宗我部元親と姻戚関係にあり織田側の親長宗我部の代表者だった。長宗我部の排除で利三は立場を失っただけでなく、稲葉家から明智家に移った時の遺恨を蒸し返され、一時は信長に切腹を命じられるほど追いつめられていた。本能寺の変では利三の活躍が目立つが、彼には謀反を主導したとしてもおかしくない動機があったのだ。

 陰謀j説ファンとしては寂しくもあるが、本能寺の変の真相は本書が説くところで決まりかもしれない。

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『信長は謀略で殺されたのか』 鈴木眞哉&藤本正行 (洋泉社)

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 本能寺の変をあつかった本やテレビ番組は夥しい数にのぼるが、その多くは明智光秀の謀反の背後には共犯者ないし別の真犯人がいるという陰謀説をとっている。近年の信長人気の高まりとともに、陰謀説はいよいよ花盛りであるが、本書はそうした陰謀説を一網打尽にして、斬って棄てた本である。

 著者の鈴木・藤本両氏は先に『偽書『武功夜話』の研究』を上梓している。『武功夜話』とは1959年の伊勢湾台風で崩れた愛知県の旧家の土蔵で発見されたと称する古文書群だが、保存状態がきわめて悪いという理由で一部を除き外部の人間には見せず、本文の写真版すら公開していない。刊本に載っているのは一族の吉田蒼生雄氏による読み下し文である(吉田蒼生雄氏は歴史の専門家でも古文書の専門家でもない)。

 オリジナルを出していないという点からして怪しげだが、信長や秀吉の秘話が小説的に描かれている上に、朝日新聞とNHKが御墨つきをあたえたことから世間の注目を集めた。遠藤周作『男の一生』、津本陽『下天は夢か』、NHK大河ドラマになった堺屋太一『秀吉』等々、『武功夜話』をもとに書かれた作品は枚挙にいとまがない。

 同書は『武功夜話』を学問的に検討した最初の本と思われるが、用語・文体・形式・内容の両面から問題点をあらいだした後、墨俣一夜城の条を検討している。全四巻に補巻まである中で墨俣一夜城をとりあげたのはNHKの歴史番組で大々的に紹介されよく知られているからだろう。

 『武功夜話』では中洲の真ん中に東西120間、南北60間の砦を建てたことになっているが、史実では中洲の端に作り、陸続きを塀で遮断する構造になっていた。もし『武功夜話』のように長方形の砦を作ったとすると、四方に防壁と堀を巡らせたことになる。それでは工事が大変だし、四方向から敵が来るので守るのも大変である。船着き場と砦が離れているので、敵に囲まれたら補給ができなくなるという致命的な欠陥もある。通常、塀際の土塁の上に建てる櫓が敷地の中央にあるのも不合理だ。『武功夜話』の一夜城は実際の合戦を知らない人間が空想ででっち上げた代物なのである。

 『武功夜話』は同書によってとどめを刺されたといってよい。オリジナルが公開されていないので成立過程については断定を避けているが、偽書が盛んに作られた江戸時代後期に『武功夜話』の原型になる文書が創作され、現代においてさらに潤色されたという推定は説得力がある。

 さて、『信長は謀略で殺されたのか』であるが、本書は二部にわかれる。第一部で『信長公記』や「本城惣右衛門覚書」のような信憑性の高い史料をもとに、本能寺の変の実像を現在わかっている範囲で記述し、第二部ではさまざまな陰謀説を紹介・検討して五つの共通点をあぶりだしている。

 第一部については簡単なものなので、やや不満が残る。信忠周辺の動向など、もっとわかっていることはあるのではないか。ただ、機密保持の点から共謀説がありえないという指摘はくつがえすのが難しい。このハードルを越えない限り、陰謀説は成立しない。

 第二部では夥しい陰謀説の中から、足利義昭黒幕説を提唱する藤田達生氏の『謎とき本能寺の変』と、朝廷黒幕説からイエズス会黒幕説に転じた立花京子氏の『信長と十字架』の二冊を選び検討している。

 批判だけを読んで判断するのは公平を欠くので二冊とも目を通してみたが、本書の批判はすべて当たっていると思う。

 『信長と十字架』は批判されているとおりのトンデモ本だったが、『謎とき本能寺の変』の前半は京都追放後の足利義昭の活動を紹介していておもしろかった。TVドラマなどでは都落ちした後の義昭は影が薄いが、室町幕府発祥の地である鞆の浦に幕府を開いて九州に影響力をおよぼよし、外交活動まで展開していた。義昭はバカ殿として描かれることが多いが、実際は二枚腰のしたたかな人物だったようである。

 これから陰謀説を提唱する人は本書があげた疑問点に答える必要があるだろう。

 なお、本筋とは関係ないが、陰謀説好きを日本人の特性と決めつけているのはおかしい。『ダ・ヴィンチ・コード』が世界的なベストセラーになったことでもわかるように、歴史に関心の高い国ほど陰謀説を楽しむ文化が育っているのである。

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『二人の天魔王』 明石散人 (講談社文庫)

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 最近はイエズス会陰謀説などという奇説まであらわれていて、本能寺の変の謎解きは煮詰まった感があるが、本書はまったく新しい視角から信長と本能寺の変に光をあてた本である。新しい視角とは室町幕府第六代将軍足利義教である。

 義教は籤引きで将軍になった男と揶揄的に語られるか、後南朝をあつかった本に悪役として顔を出すくらいで、知名度は信長とは較べるべくもない。しかし、一般に知られていないだけで、信長をしのぐ大変な傑物だったのである。

 義教は26歳で天台座主という仏教界の最高位にのぼりつめるが、甥の第五代将軍義量が早逝したために、34歳の時、籤引きで将軍に選ばれる。天台開闢以来の逸材と見られていただけに、当初は仏教にもとづく慈悲深い政治がおこなわれると期待されていたが、還俗した後の義教は大胆に旧弊を改めて将軍の独裁権力を強化し、室町将軍の頭痛の種だった関東を平定してからは琉球から奥州までを制圧してしまった。参勤を怠った大名は容赦なく改易し、天魔の所行と畏れられた。そして、なんと、明国出兵の構想までもっていた。重臣による暗殺がなければ実現していたかもしれない。

 信長の非道なおこないとされる比叡山焼討や蘭奢待切りとりも義教がすでにやっていた。それだけでなく、茶、能、相撲、弓、示威行動としての富士遊覧等々、信長にあたえた影響はきわめて大きい。

 著者によれば、義教を補助線にすると、信長と義昭の関係は従来とはまったく違った様相を呈してくるという。義昭の将軍就任直後、細川信良邸でおこなわれた能興業、特に「弓八幡」をめぐる両者の鞘当ての解読はなるほどと思ったが、どこまで妥当か判断する知識はわたしにはない。しかし、きわめておもしろい見方ではある。

 義教を中心に見ると、信長は義教になろうとしてなれなかった亞流にすぎなくなる。昨今の信長人気に冷水をあびせかけるような視点転換である。

 そうした視点からあらためて信長の生涯を見直すと、疑問点が次々と出てくる。信長の生母は信秀正妻の土田御前であり、家督を争った信行と同腹とされてきたが、本当にそうか。弟喜六郎が織田孫十郎家臣に討たれた時、信行は仇を討とうとしたが、信長は傍観している。信行と喜六郎が同腹で、信長の生母は別だったのではないか。もしそうなら、信長は嫡流の信行を騙し討ちして織田家の家督を簒奪したことになるし、父の葬儀での無礼なふるまいや守役平手政秀の諫死、信長の兄弟と叔父たちが十人も死んでいることも別の意味を帯びてくるだろう。

 著者の新説がどこまで妥当なのかはわからないが、次の一節は妙に説得力を感じた。

 『町をお通りの時、人目をもはばかりなく、栗、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくいになされ、町中に立ちながら餅をまいり、人によりかかり、人の肩につらさがり……』、この文に視えるのは、誰からも愛されない、そして孤独な若者の姿です。僕は信長が誰も信ぜず誰も必要としなかったと言いましたが、言葉を変えれば誰も信長を信じなかったし、誰も信長を必要としなかったと言えるのです……。信長にとっての織田家は、己から始まり、信長が織田家の祖なんです。無論宗家は信長に直系の系譜を持つ者がなるのです。これを実現するには、同時代に生きる叔父、兄弟、まして織田宗家なんていうのは邪魔なだけでした。信長は全てが己から始まればよいと考えていたのです……。この結果信長十人殺しが起きたのです。

 本書には信長に対する偶像破壊的な新解釈が多数含まれている。義教は全国を遊行してまわる時宗を保護することによって日本全土を覆う情報網を掌握したが、信長は一向宗と敵対したために情報戦で後手にまわったという見方はなるほどと思った。ただし、桶狭間の新説などは想像の域を出ないと思う。

 ついでながら、加藤廣氏の『信長の棺』に、太田牛一が信長の不名誉になる史料を片端から握りつぶす場面があるが、その大部分は本書中の新説である。加藤氏は『信長の棺』の参考文献リストで本書に『信長公記』の次、『武功夜話』の前という目立つ位置をあたえているが、ここまで依存しているとなると、あとがきに注記するくらいのことはした方がよかったのではないか。

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『「本能寺の変」本当の謎』 円堂晃 (並木書房)

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 わたしが本能寺の変に興味を持ったきっかけは半村良の『産霊山秘録』だった。

 もう30年以上前になるが、『石の血脈』で華々しく再デビューした半村良がSFマガジンで『産霊山秘録』の連載を開始した。皇室を守るために歴史の背後で暗躍するヒ一族の活躍を追った伝奇小説だが、「真説・本能寺」と題された第一回を読み、バットで頭を殴られるような衝撃を受けた。『産霊山秘録』という小説自体は龍頭蛇尾だったが、「真説・本能寺」の章だけは傑作中の傑作だと思うし、あれを越える陰謀説には出会っていない。

 以来、そんな馬鹿なとは思いながらも、半村説を頭から払いのけることはできなかった。それどころか、1990年代にはいると信長と朝廷の間に深刻な対立があったとする今谷明氏の研究や、光秀の謀反の動機は「非道阻止」にあったとする小和田哲男氏の説(『明智光秀』)があらわれるようになり、「真説・本能寺」は最初の印象ほど荒唐無稽ではなかったのではないかと思うようになった。1972年時点で信長と朝廷の対立に着目した半村は慧眼だったといわなければならない。

 さて、本書であるが、おそらく半村説を発展させた最初の本である。わたしにとっては30年間待ちつづけていた本ということになる(著者の円堂氏は『産霊山秘録』をあげておらず、半村とは独立に同一の結論にいたったのかもしれないが)。

 本能寺を襲った明智軍の規模は二万人説、三万人説と諸説あるが、『川角太閤記』の一万三千人説がもっとも妥当とされているようだ。一万三千人だとしても、姉川の戦いの浅井朝倉連合軍や長篠の戦いの武田軍と同規模の大軍である。

 著者は現在とは較べものにならないほど小規模だった当時の京都(本能寺のあった下京は南北2キロメートル、東西1キロメートルほど)にとって、一万三千の軍勢がいかにも巨大で、奇襲にそんな大軍を動かすのは不合理であり、危険だったと指摘する。

 事件当夜は雨が降って桂川や堀川は増水し、道はぬかるんで迅速に動けなかった。家の建てこんだ市中に完全装備の大軍を展開させるには時間がかかったろうし、鎧を着て完全武装して歩くとガチャガチャ音がする。夜中に一万三千の軍隊が市中を動きまわったら相当やかましいはずだ。

 信長は少数の手勢しか連れておらず不用心だったといわれているが、信忠は10日前から二千の馬廻衆を率いて京都に駐屯していたし、本能寺の門前には京都所司代村井貞勝の屋敷があった。大軍に囲まれなければ逃れられたはずだし、逃れられないような大軍が動けば事前に察知できたはずなのである。

 『川角太閤記』によると明智軍が紫野(野条)を発したのは酉刻(午後8時頃)だから、明智軍の先鋒が本能寺に達したのは午前3時、最後尾が到着したのは午前5時と推定される。『言継卿記』という一級の史料によると攻撃開始は卯の刻(6月だと午前4~5時)だから、明智軍は全軍が集結するのを待ってから本能寺に攻めこんだことになる。信長を逃したら一巻の終わりなのに、なにをもたもたしていたのだろう。

 一年三ヶ月ぶりの信長の上洛で厳重に警戒していたはずの京都所司代や市中に分宿していた信忠の馬廻衆が一万三千の大軍の到着に気づかなかったとは考えにくいが、そもそも当時の午前5時は現代人の考える午前5時とは違うと円堂氏は指摘する。

 当時の人は薄明るくなれば仕事を始めた。日中猛暑の夏はなおさらのことである。男は田植えの終わった後の田圃を見回ろうとする時刻。雨の間に伸びてしまった家の周りの草取りも忙しい。商家は一日の仕込みの頃である。女は朝食の準備、泥鰌でも捕ろうというのか、近くの小川には子供の姿が見える。梅雨に閉じ込められていた人たちには、晴れた朝は夜明けから仕事が山積していた。  空には雲があり、真夏の日の出は赤かった。梢に蟬はまだ鳴かない。
 そんな時刻に本能寺の変は起きたと考えればいい。
 つまり本能寺の変は、衆人の見守る前で起きたことなのである。

 信長が寝ていたのか起きていたのかはわからないが、すくなくともドラマでおなじみの夜襲ではなかったようだ。本能寺の変は成功してしまったことが最大の謎なのである。

 この謎に著者が用意した答えはこうだ。明智軍を京都にいれたのは信長自身だった、と。

 実は南蛮史料には信長が明智軍の京都入城を承知していたことをうかがわせる記述があるという。まず、『一五八二年のイエズス会日本年報追加』。

 明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗するものがなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗い終わって手拭で清めていたのを見た。而してその背中に矢を放った。信長はこの矢を引き抜いて薙刀、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に銃弾を受けてその室に入り戸を閉じた。

 貿易商人として日本に来ていたアビラ・ヒロンの『日本王国記』にはこうあるという。

 信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったということである。

 本書の後半は、なぜ信長が明智軍を京都にいれたかの解明にあてられている。著者の結論は半村説に近いが、半村説ほど過激ではない。

 しかし、著者の説は成立しないだろう。もし著者の考えるとおりの事態が起きていたなら、光秀は細川幽斎に援軍を懇請した書簡に必ず書いていたはずだからだ。半村良の光秀は皇室を秘かに守護する勅忍という立場だったので真相をあかすことができなかったと説明されているが、自己保身ないし野望のためのクーデタなら信長の非道は最大の大義名分になったはずである。この難点を解決しない限り、非道阻止説は無理である。

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2006年05月30日

『中国が海を支配したとき』 ルイーズ・リヴァシーズ (新書館)

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 鄭和の南海遠征を大きな歴史のうねりの中に位置づけた本である。著者のリヴァシーズはジャーナリストだが、中国、台湾、英国、アフリカの専門家に広く取材し、特に鄭和がゆかりが深く、養子の子孫が残る(!)南京には長期にわたって滞在したようである。先日、NHKが放映した「偉大なる旅人・鄭和」に出演していたが、あの番組は本書を踏襲した部分が大きい。

 リヴァシーズは儒教 vs 商業と、ヨーロッパの帝国主義 vs 中国の冊封体制という二本の対立軸を設定する。

 まず、儒教 vs 商業という対立軸である。

 華僑の活躍でわかるように中国人は世界でも有数の商業民族だが、その一方で商業を蔑視する儒教を生みだしている。漢以降の歴代の王朝はいずれも儒教を国教とし、儒教を修めた者の中から官僚を選抜してきた。儒教官僚は農本主義的で新奇なものを嫌い商業の野放図な活動を警戒してきた。

 例外はモンゴルの建てた元と南遷後の宋である。元が儒教を一顧だにせず東西貿易の収益を基礎にした通商帝国を築いたことはよく知られている。一方、華北の領土を失い南に移った宋は貿易収入に依存せざるをえなくなった。宋は沿岸航路を整備し、強大な海軍を作って貿易を保護した。リヴァシーズは宋代の新儒教には商業利潤を正当化する努力が見られるとしている。

 リヴァシーズはまた朝貢とは儒教官僚の反対を押し切って貿易をするための方便だとしている。夷狄が天子をしたって貢物をもってきたのだから、中華文明の精華を下賜してやるのだという名目にすれば、儒教の徒としては反対するわけにはいかなくなる。

 しかし儒教の側からは絶えず反商業の強い力が働いていた。永楽朝の積極外交の担い手はいずれも宦官であり、朝貢貿易は宦官勢力の利権になっていた。儒教官僚対宦官という権力闘争を念頭におけば、鄭和の遠征の記録が隠滅された経緯が理解しやすくなる。

 一方、ヨーロッパの帝国主義 vs 中国の冊封体制という対立軸はNHKの番組がもっとも力をいれて描いた部分である。鄭和の遠征は明の皇帝に対する形式的な臣従をもとめただけであり、見返りに絹や磁器のような貴重な宝物をふんだんにあたえたのに対し、貧しいヨーロッパ人は武力で土地を奪い、アラブ商人やユダヤ商人の支配していたインド洋交易圏を解体して、沿岸の文明に致命的な打撃をあたえた。鄭和の平和的な外交とは大変な違いだというわけだ

 しかし中国は南シナ海での無法な島嶼強奪やインド洋周辺に対する軍事進出、アフリカでのなりふり構わぬ強奪を押し進めている。NHKはそうした事実を隠し、歴史ロマンの外観で中国の侵略を美化している。

 リヴァシーズは中国の貿易の裏面を指摘することを忘れてはいない。唐代以来、裕福な家ではアフリカ東海岸から連れてきた黒人奴隷(鬼奴)を門番にする例が多かったが、彼らは牛馬なみにあつかわれ寿命は短かった。鄭和の航海はすくなくともNHKが褒めちぎるような美しいものではなかったようだ。

 鄭和後の朝貢体制の頽廃も深刻だ。リヴァシーズはこう書いている。

 朝貢貿易体制の箍は少しずつゆるみはじめていた。外国使節団が山のような朝貢品をたずさえてくることはもはやなかったし、かたや皇帝の方も下賜品をいちいち出し渋るようになった。また、「使節団」とはいいながら、その正体はこれまでになく怪しい者が多くなっていた。中にはあきらかに盗人か密輸業者としか呼べない者も混じっている。さらに、地方の官吏や商人たちまでが貿易による膨大な利益のうわまえをはねようと狙い、北京に運ばれる朝貢品を堂々と横取りしていった。

 『1421』のメンジーズは、紫禁城焼亡という凶事がなければ、鄭和の艦隊がヨーロッパにあらわれたり、あるいはすくなくとも、インド洋を睥睨しつづけ、ヨーロッパ人の覇権を阻んだろうと惜しんでいたが、どうもそういうロマンチックな推測はなりたたないようである。中国の大航海時代はしかるべき理由があって幕を閉じたと考えた方がよさそうである。

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2006年05月29日

『1421―中国が新大陸を発見した年』 ギャヴィン・メンジーズ (ソニーマガジンズ)

1421―中国が新大陸を発見した年 →bookwebで購入

 本書は出た直後に読んでいたが、先日NHKが放映した「偉大なる旅人・鄭和」でとりあげられていたので読みかえしてみた。

 鄭和の七度におよぶ南海遠征はよく知られている。通説では東アフリカに達したとされているが、本書の著者メンジーズは記録の隠滅された第六回遠征においてアメリカ大陸に到達していたとする。表題の「1421」は鄭和の艦隊がアメリカに上陸したとメンジーズが推定する年にほかならない。

 第六回遠征は南海16ヶ国の使節団を故国に帰すためにおこなわれたが、鄭和自身はマラッカで引きかえしている(紫禁城の落成式典に出席するためだったらしい)。メンジーズによれば鄭和はインド洋沿岸諸国の使節団を送りとどけさせた後、艦隊にアフリカ南端の喜望峰を越えて世界を一周するように命じ、実際にそれをやり遂げたというのだ。NHKの番組ではメンジーズ説を鄭和艦隊がアメリカ大陸に達していたとする説とだけ紹介していたが、実際はもっと気宇壮大な仮説なのである。

 メンジーズが根拠とするのはアメリカやアフリカ、南極、オーストラリアが記載されているコロンブス以前の古地図と、世界各地で発見された中国文明の痕跡である。

 こうした古地図は「オーパーツ」(時代的に存在するはずのない遺物)と呼ばれ、オカルトマニアしか話題にしてこなかったが、潜水艦乗りとして世界中の海を航海してきたメンジーズは地図の書きこみが現地を知っている人間にしか書けない内容を含んでいることに気がつき、詳しく検討していくうちに古地図に書かれている位置や地形は現実とずれているが、そのずれ方に一定の法則があることを発見する。

 こうした古地図が残っているということはコロンブス以前にアメリカ大陸に到達し、さらには世界を一周した人間がいたはずである。メンジーズはそれが可能だったのは鄭和の艦隊だけだとしている。

 鄭和の艦隊は宝船と呼ばれる全長120mの史上最大の木造帆船を何十隻もつらね、護衛のための坐船、戦船、食料を運搬する糧船、飲料水を運搬する水船、馬を運搬する馬船等々がしたがった。総乗組員数2万を越える動く海上都市だった。

 メンジーズは宝船の構造を詳しく推定しているが、NHKの番組はCGによって一目で威容がわかるようにしてくれた。百聞は一見に如かずである。

 メンジーズは同時代のアラビアやヨーロッパをはるかに凌駕していた中国の航海技術を検討し、鄭和の艦隊なら世界一周が可能だったと結論し、『武備志』をもとに中国の当時の航法を復元し、古地図と実地のずれが中国の航法に原因があったと推定している。

 メンジーズはモロッコ沖のカーボヴェルデ諸島付近で艦隊は三つにわかれと考え、鄭和の副官の名前をとって周鼎隊、洪保隊、周満隊と呼び、それぞれのルートを推定しているが、もしメンジーズの説が正しかったとしても、周鼎、洪保、周満がそのルートを担当したという根拠はないはずである。

 最初に読んだ時は圧倒されたが、時間をおいて読み直してみると、すべてを第六回航海に帰してしまうのは無理があるように感じたし、中国政府の新帝国主義に利用されているようにも感じた。

 しかし以下のような仮定は眉唾とはわかっていても、ひょっとしたらと思わせるものがある。

 鄭和の艦隊がさらに航海をつづけていれば、その行き先には、世界のなかで彼らがまだ到達し地図に描いていない地域――ヨーロッパ――がふくまれていただろう。その可能性は北京での大変動で断たれたが、もしも一四二〇年代に中国の宝船艦隊がヨーロッパの水平線上に現れていれば、世界のその後の歴史はどうなっていただろうか? ひとつたしかなことがある。永楽帝の跡を継いだ皇帝たちが、中国人の海外進出を禁止する孤立状態にひきこもってしまわなければ、世界の支配者はヨーロッパではなく、中国になっていたはずだ。

 現在品切のようだが、中公新書から宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』という本が出ている。この本は鄭和の遠征を明史や東西交易史の中に位置づけ直した好著で、メンジーズが見逃している多くの事実が指摘されている。

 たとえば永楽帝が派遣した朝貢をうながす使節は鄭和の艦隊だけではなかった。チベットとベンガルには侯顕、内陸シルクロードには李達、黒龍江の北には亦矢晗を送っていた。いずれも辺境出身の宦官である(鄭和のように、拉致されて宦官にされた異民族の子弟だったのだろう)。小室直樹は『日本人のための宗教原論』で、諸悪の根源のようにいわれてきた宦官は、官僚制の欠陥を補うためのカウンターバランス機構として機能したと指摘していたが、正確な指摘だろう。

 そもそも中国人の海洋進出は唐代からはじまっていた。宮崎は広州とペルシャ湾を結ぶルートが確立した8世紀を第一次大航海時代、東南アジアのジャンク船交易圏とインド洋のダウ船交易圏が交流した宋代を第二次大航海時代、元の開いた海上交易路を明が継承した鄭和の時代を第三次大航海時代と呼んでいる。世界各地に残る中国文明の遺物は鄭和の第六回航海だけが残したと考えるより、600年におよぶ中国人の交易活動の厚みが背景にあると考えた方が無理がないだろう。

 なお、メンジーズは1421.comというサイトを開いて最新情報を提供している。メールマガジンも発行していて、数ヶ月に一度新しい発見を知らせてくれるので、興味のある人は登録するといい。

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