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2013年11月30日

『それからのエリス』 六草いちか (講談社)

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 『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトをつきとめた『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の続編である。著者がついにエリーゼの写真にまで行き着いたことは新聞の報道などでご存知だろう。本書はこの奇跡ともいえる発見の顚末を語っている。

 前著のしらみつぶしの調査の後でまだ調べることが残っているのだろうか、周辺的事実の落ち穂拾いで終わってしまうのではないだろうかと危惧して読みはじめたが、はたして370ページのうち最初の270ページは心配したとおりの展開だった。

 六草いちか氏は調査を再開するにあたり一つの仮説を立てる。エリスは鷗外の子供を身ごもっており、ドイツに帰ってから産んだのではないか、というのだ。

 そう疑う理由はある。まず不幸な結末にもかかわらずエリーゼが鷗外と文通をつづけていたこと。日本くんだりまで行ったのに追い返され(帰りの船の件で森家はエリーゼにひどい仕打をしている)、独身をつらぬくならまだしも、さっさと別の女と結婚した男と手紙をやりとりをするなど、女性としてよほどの事情があったのではないかというわけだ。

 興味深いことに鷗外は毎月海外に謎の送金をおこなっていた。本の注文ではない。鷗外はドイツの書店にまとまった額を送金しておいて随時本を取り寄せ、残金がなくなりそうになると、またまとまった額を送るようにしていたので、書籍代を頻繁に送金する必要はなかった。

 エリーゼ帰国の16年後、鷗外は日露戦争に出征するが、その間送金手続は母の峰が代行していた。それも80円という結構な額である(森家の一ヶ月の生活費は50円)。

 毎回80円送っていたのかどうかはおくとして、鷗外はどうしても毎月「西洋為替」を送らなければならない事情があったらしい。宛先はエリーゼだったのだろうか。エリーゼが産んだ子供の養育費と考えれば説明にはなる。

 六草氏はこの仮説をもとにエリーゼ周辺の出産記録に丹念にあたっていくが、その過程で帰国後のエリーゼとその家族、そして世紀末のベルリンの庶民生活がしだいに明かになっていく。

 発見は多い。たとえば家主とされていたヨハン・ジルバーナーゲル氏はエリーゼの母の再婚相手で、一家はジルバーナーゲル家に間借りしていたわけではなく、年のはなれた弟が産まれていたこと。

 今野勉氏が『鷗外の恋人 百二十年後の真実』でアンナ・ベルタ・ルイーゼ説の物証とした文京区森鷗外記念館所蔵のモノグラムとイニシャル違いの同じ物を発見して大量生産品であることを確認し、クロステッチの部分に暗号が隠されているという見方に完全にとどめをさしたこと。

 鷗外の最初の下宿というふれこみの「ベルリン・フンボルト大学鷗外記念館」は縁もゆかりもない別の建物にあること。

 1908年に『舞姫』の最初のドイツ語訳をおこなった宇佐美濃守がエリーゼに会っていたこと。ベルリンの日本人留学生コミュニティは小さいので『舞姫』が評判にならないはずはなく、エリーゼの仕事場に押しかけるふとどき者もいたらしい(六草氏がエリス探しをはじめるきっかけとなった日本人「軍医」と踊子のロマンスは『舞姫』にかぶれた日本人留学生のしわざだった可能性がある)。

 鷗外研究者なら真っ青になるような事実がいろいろ出てくるが、一般の読者にとってはたいして興味のあることではないかもしれない。

 そしてようやくエリーゼの結婚相手がユダヤ系ポーランド人の「行商人」のマックス・ベルンハルドであり、彼のみすぼらしい「墓石」をつきとめるところまでゆく。

 エリーゼは38歳で結婚したことは公文書によって確認されたが、面白いのはテクストの読解だけで同じ結論を引きだした研究者がいたことだ。

 その研究者とは『森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』の小平克氏で、『うた日記』の「無名草」に掲出されている

前栽の ゆふべこほろぎ 何を音に鳴く
女郎花 君あらぬまに 枯れなんとなく

君をおもふ 心ひとすぢ 二すぢの征箭
折りくべて たけば烟に むせびてぞ泣く

の「君をおもふ 心ひとすぢ 二すぢの征箭」(あなたを想う心は一筋だったのに、二筋の征矢に射られた身となった)という条から「エリーゼは別の男性からの〈想いの矢〉を受け入れて結婚を承諾したので、鷗外には手紙を出さないとの通告があったものと推測される」と結論しているという。

 「無名草」は銃後の志げ夫人になりかわって作った詩歌とされてきたが、鷗外はちゃっかりエリーゼの心情で詠った詩をまぎれこませていたのである(文学少女だった志げ夫人は気がついていたと思われるが、結婚したならいいかと黙過したのだろうか)。

 六草氏は本業で取材しなければならないベルリン映画祭が迫ったこともあり、探索を打ち切ろうとする。

 ここで前著以来たびたび救いの手をさしのべてきた「墓地の彼女」が六草氏を叱咤し、偶然につぐ偶然というか、怒濤の展開がはじまる。そして人知を越えた流れに押し流されたというか、何かに引き寄せられたというか、ついにエリーゼの親族にたどり着き、「行商人」の妻とはかけ離れた生活をしていたと知ることになるのである。

 決定的なのはエリーゼが日本に行ったことがあると一族の間で語り継がれていたことだ。これまでテレビの取材でエリスの親族とされる人が二度出てきたことがあるが、日本に行った話を聞いたことがあるかという問いにどちらも知らないと答えていた。120年も前にドイツから娘一人で日本に旅行するのは大事件であって、語り継がれないはずはないのだ。

 読者の中には最後の100ページの幸運の連続は信じられないという人がいるかもしれない。しかし取材していると、人知を越えためぐりあわせのようなことがままあるのである。わたし自身、どうしても入手できなかった資料が向こうの方から飛びこんできたという経験が一再ならずある。

 エリスをさがす六草氏の探索は大団円をむかえた。海外送金など不明な点はいくつか残るが、120年前のことだからしかたないだろう。よくぞここまで真相に迫ったと拍手を贈りたい。

 最後にもう一つ。前著と本書の二冊は鷗外の研究書としてだけでなく、読物として抜群に面白い。特に「墓地の彼女」のキャラクターは強烈だ。謎解きあり、悲恋あり、観光あり、笑いありで、映画にぴったりだと思うのだが、誰か映画化しないだろうか。

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『森鷗外の『うた日記』』 岡井隆 (書肆山田)

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 森鷗外は明治37年4月、第二軍軍医部長として日露戦争に出征した。以後2年近くを満洲の荒野ですごすが、そのおりおりに書きとめた詩歌をまとめ、明治40年に『うた日記』を出版した。

 本書は『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』につづく本で、『うた日記』をめぐる評釈と随想である。

 『うた日記』は新体詩58編、訳詩9編、長歌9首、短歌331首、俳句168句をおさめ、以下の5部にわかれる。

うた日記 343頁
隕石 39頁
夢がたり 31頁
あふさきるさ 20頁
無名草 51頁

 「うた日記」は『うた日記』の中核部分で、明治37年3月27日から明治39年1月1日までの日付のある新体詩、長歌、短歌、俳句をおさめる。近代デジタルライブラリーで確認できるが、初版では「うた日記」の部分は頁の天に軍刀のカットがあしらわれており、うまいとはいえない挿画もはいっている(著者は編集者まかせにしたのでこういう本が出来上がったのではないかとしている。軍医は戦闘後に忙しくなるので確かに鷗外は多忙だったろう)。

 「隕石ほしいし」はドイツの戦争詩の邦訳9編からなる。創作詩と訳詩を対比させる趣好は次の『沙羅の木』に受け継がれる。

 「夢がたり」は新体詩6編、短歌43首で、文字通り夢想を歌っている。戦陣にあった鷗外の内面がもっともあらわれているとされている。

 「あふさきるさ」とは「ああも思い、こうも思う」という意味で、内地に出した書信に書き添えた即興の短歌28首、俳句12句、新体詩2編をおさめる。

 「無名草ななしぐさ」は妻しげ子になり代わって詠んだ歌で、三好行雄は「集中の白眉」と高い評価をあたえている。

 鷗外は日露戦争をはさんだ明治35年から40年までの5年間、作品をあまり発表していない。短編二編と評伝『ゲルハルト・ハウプトマン』、そして最大のものが『うた日記』である。

 鷗外が久々に上梓した本だったにもかかわらず『うた日記』は同時代的にはまったく話題にならず、まともに論じられた形跡もない。昭和9年になってようやく佐藤春夫の『陣中の竪琴』があらわれている。

 著者は『うた日記』が注目されなかった理由を二つあげている。

 第一に詩歌に不慣れな編集者が担当したのか、ページの上部に軍刀のカットをいれなど詩歌の本としては趣がなく、一般の詩歌好きの読者や、詩人、歌人、俳人には「日露戦争の勝利の記念品」として受けとられていたらしいこと。雅号でなく本名で出版したことも、軍人森林太郎の作品という印象を強めたことだろう。

 軍人として出すにしても、単なる記念品でなく戦争体験を詠った作品として世に問うつもりなら、それなりの序文や後書があってしかるべきだろう。ところが鷗外は序歌にあたるものを巻頭に掲げたにとどまる。本当に記念品のつもりだったのかもしれない。

 第二に『うた日記』は文語体の韻文で一貫しているが、刊行された明治40年という年は近代詩歌史上文語体から口語体に移行する端境期にあたっており、最初から時代遅れと受けとられた可能性が高いこと。

 詩は、文語定型詩から、口語自由詩へと動いて行った。萩原作太郎の『月に吠える』(大正六年)が出たとき、それを評価した鷗外には、むろんこのような近代史詩の推移変貌はわかっていたであろうし、散文の上で『舞姫』など文語の近代的表現を完成させようと同時にそこから「半日」以降、現代語へと自ら書き改めて行った鷗外である。

 時代の流れをわかっていながら、鷗外はあえて文語体の調べにこだわり、韻文として完成させようと工夫を凝らしている。『うた日記』は慣れ親しんだ旧時代の詩形であえてつくられた本らしいのだ。

 鷗外は負傷したロシア士官が従卒につきそわれて治療を求めにくる一場を長歌で詠っている。応急処置をすませた後、鷗外は一応尋問するが、

軍情は  問へど答へず
答へねば 強ひても問はず
傷つける 身をいたはりて
病院へ  やがておくりぬ

 国際法で捕虜の黙秘は認められているから、それ以上追求することはなく、士官は病院に、従卒は捕虜収容所に送っている。ロシア兵の投降、治療、尋問といった戦場の出来事が五七調の優美な調べに自然にはまっている。殺伐とした戦場で慰めに作った歌というしかないだろう。

 新体詩も多くは五七調・七五調で作られていて、音数律においては短歌・長歌・俳句と共通しており、伝統的な韻律の流れに連なっている。新体詩といえども独立した作品としてあるのではなく、前後の短歌・長歌・俳句と響きあって、一つのストーリーを形成しているというわけだ。著者は「うた日記」は「戦陣にあった一人の中年の軍医の長編物語詩」として編纂されたんではないかとまで述べている。

 しかし伝統から一歩踏みだした作品もある。たとえば近年注目されている「罌粟、人糞」。

 「人糞」は「ひとくそ」と読むが、著者はタイトルの「罌粟」と「人糞」の大胆なとりあわせにまず驚く。内容はさらに大胆だ。戦場の性をテーマにしているからだ。

 兵の乱暴を怖れて隠れていた村の娘が見つかり、姦される。詩は兵の服装の描写からはじまる。

紐は黄 はかま
仇見る てだてに慣れて
をみなご たやすく見出でつ
ますらお 涙なく
いなめど きかんとはせで
あす来と 契りてゆきぬ
恥見て 生きんより
散際 いさぎよかれと
花罌粟 さはに食べつ
たらちね かくと知り
吐かすと のませたまひし
人屎ひとくそ 験なかりき

 娘は辱めを受けたまま生きていくよりはと罌粟の花を大量に食べ自殺をはかる。母親は毒を吐かせようと人糞を水で溶いて飲ませるが効果がない。そこで日本軍の野戦病院につれてきて吐瀉剤を懇望し、娘は一命をとりとめる。

 近年、娘を姦したのがロシア兵か日本兵かで議論になっているが、著者はそうした政治的な話柄には近づかず、安定した五七調ではなく、あえて四音・七音という不安定な音数律が選ばれている点に注目する。七五調の微温的な作品がつづく中で、この詩は形式においてもアヴァンギャルドなのである。

 四音・七音では長歌ではなく新体詩ということになるが、この詩の後には短歌が二首、まるで反歌のように置かれているのである。

磚瓦もて小窓ふたげるこやの雨に女子をみなご訴へうさぎうま鳴く

毒ながら飲みし花罌粟ふさはしき子よといはんもいとほしかりき

 一首目の「うさぎうま」とはロバのことで、「瓦をつんで小窓をふさいでいる小屋に雨が降っている。少女は、姦されたあとの苦しみを訴える。そして、同じ小屋の外では、ロバがいななく」というほどの意味である。

 著者は戦場の性をめぐる生々しい詩の後に牧歌的なロバのいななきをもってきた鷗外の手際を賞賛する。

この「うさぎうま鳴く」という結句がいいではないか。あるいは、訴えられている鷗外の、やや距離をとった立場を示しているとも言える。「この毒物である花罌粟にふさわしい美しい少女よと言いながらかわらいらしい思いがする」という二首目も、状況の切迫しているにしては美しすぎる気もする。つまり「罌粟、人糞」のエピソードを、あまり政治的に読む必要はないように思えるのである。あのように、韻律をととのえ、音数律に工夫をこらす詩人の手つきからは、やはり美的効果への関心が、作者鷗外にはあった、と言っていいように思える。

 ドラマチックなのはここまでで、この後は戦いと戦いのあいまの外地の平穏な生活を点描した俳句の連作がつづく。

 鷗外は現場で見聞したであろう戦場の性の問題を美的な慰めにとけこませてよしとしたのだろうか。そうではないと著者はいう。『うた日記』出版後、本格的に文壇に復帰した鷗外は従軍記者の性犯罪を描いた「鼠坂」など、社会的な題材をとりあげた作品をつぎつぎと発表するが、その姿勢は『うた日記』と無関係ではないというのである。

 日露戦争のあと、戦後の世界で鷗外が書いたものは、わたしには、どれも問題小説、課題評論のように思える。それらは『うた日記』を書いて、編んで、出版したことと、どこか深いところで、関連しているように思える。わたしはこの点、結論を急ぐつもりはないが、黙々と二年近くを満州の山野で戦ってすごした鷗外は、その記録を詩歌の形で、日記の形で残した。そしてそれは、必ずしも世の注目するところとはならなかった。このことが、戦後の旺盛で、問題提起的な作品群や、観潮楼歌会、「スバル」などの文学運動をひきおこすことになったのではないかと思っている。

 この推定が正しいなら『うた日記』の位置づけはおのずと変わってくるだろう。『うた日記』は鷗外が文壇に復帰する上で発条となった本なのかもしれないのである。

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2013年11月29日

『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』 岡井隆 (書肆山田)

鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え →紀伊國屋ウェブストアで購入

 医者にして文学者を兼ねた三大家――鷗外・茂吉・杢太郎――の明治の終りから第一次大戦にいたる10年に思いをはせた随想である。

 副題の「テエベス百門」とはルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのことで、木下杢太郎が鷗外の文業を「テエベス百門の大都」と形容したことにちなむ。著者は自分にとっては木下杢太郎と斎藤茂吉もテーベだと冒頭で語っている。

 一貫した論旨はなく、時間軸に沿って語り進めるわけでもなく、日本が世界の一等国に躍り出て、ちょっと気の弛んだこの時期を気の向くままに行きつもどりつし、三人の作品や日記、書簡、係わりのあった人の回想を読んでは感想を書きつらねていく。

 分厚い本であるが、歌人らしい濃厚な語り口に酔わされ、いつの間にか読みきってしまった。どの話題もたいして深まらないうちに次の話題に横滑りしてしまうのであるが、大正デカダンスに沈淪する語りの魅力が圧倒的なのである。

 歌誌「未来」に2004年から2年半にわたって掲載されたということだが、本書の前には『『赤光』の生誕』、後には『鷗外の『うた日記』』としてまとめられた原稿が連載されている。鷗外・茂吉・杢太郎と名前が並んでいるが、鷗外と茂吉については前後の本で語っているので、本書の半分以上は杢太郎にさかれている。森鷗外と斎藤茂吉の条も杢太郎との係わりで話がはじまる。

 森鷗外と木下杢太郎は師弟の関係である。医学生の頃から鷗外の家に出入りし、観潮楼歌会がはじまると若輩ながら出席を許された。皮膚科という専門は鷗外が勧めたものだったし、試験日を間違えて留年した時には天下の鷗外に教授に及第させてくれるよう頼みに行ってもらっている。鷗外がこんなに面倒見のいい人だとは思わなかった。

 斎藤茂吉は東京帝大医学部で杢太郎の一年先輩であるが、学生時代から短歌の盟友であり、観潮楼歌会でも席を同じくしている。杢太郎は大正5年から9年まで渡満し南満医学堂で皮膚科の教授をつとめるが、その間「アララギ」に連載した『満洲通信』は茂吉宛の書簡の体裁をとっていた。

(ちなみに安部公房の父の浅吉は木下杢太郎こと太田正雄が南満医学堂に赴任した年に入学している。おそらく太田教授の皮膚科の授業に出ていたと思われる。)

 この時代の前途有望な青年の常として三人は有力な家から見こまれ、その家の娘と結婚している。茂吉が医学の道に進み、杢太郎がヨーロッパ留学に踏み切れたのは妻の実家の援助によるところが大きい。鷗外の世代は国の後ろ盾がないと留学できなかったが、一等国となってからは民間の力でも青年をヨーロッパに送りだせるようになっていたのだ。

 妻の実家の世話になるには、それだけの葛藤もある。鷗外の場合はエリスの事件もあって早々と離婚しているが、茂吉と杢太郎は煩悶をかかえながら家制度の内部に甘んじていた。

 著者は晩年に関心があると語りながら、本書では杢太郎の青春時代しか語っていない。しかし、それでいいというのである。「杢太郎は二十代こっきりの人」だからである。

 では、杢太郎の三十代四十代(五十代まで入れれば最晩年ということになるが)はなんだったかといえば、青春期をたえず想い出しながら生きたということだろう。一見厖大ともいえる著作があり、全集は二十五巻に及ぶが、そのうちの青春のカオスの部分は、四、五巻分で、あとは、それを反芻して生きた記録だ。回想記に生彩があるのはそのためである。愚痴や嘆きぶしの嫌いなこの人は、濃厚な回想記を書くことによって、三十代以降の自分を支えた。三十代以降の自分とは、主として医師太田正雄の生である。そして、その影に、ひっそりと息づいているむかしの木下杢太郎があった。

 著者は「杢太郎の文芸は後ろ向きのまま充実していた」とも語っている。鷗外・茂吉と深く係わった20代をおさえておけば晩年まで射程におさめることができるというわけだろう。もちろん褒め言葉だが、身も蓋もない言い方である。

 著者自身医者であるから、医学と文学の両立の問題にふれざるをえない。文学はそれだけに没頭しなければディレッタントで終わってしまう。人の命を預かる医者をつづけながら文学にかかわるのは所詮ディレッタンティズムにすぎないのではないか。実際杢太郎は一高時代、医学に進むかドイツ文学に進むかで悩んでいる。

 著者がここで注目するのは杢太郎の獨協中学時代の親友で、ともに一高・東京帝大医学部へと進んだ山崎春雄という人物である。山崎は文学と絵画を愛好し、なかなかの画才をもっていたようだが、美術学校に進もうなどとは考えずにまっすぐ医学の道に進んだ。卒業後は解剖学教室にはいり、敢えて医師免許もとらずに熊本医大と北海道大学で解剖学を教えて一生を終わった。

 著者は基礎医学を選ぶにあたっては決意があったはずだと語っているが、山崎は熊本に赴任する時に文学から手を引き、北大に移る時には絵画も燃やしてしまったという。著者は山崎の弟子と遺族に山崎の人となりを問い合せているが、山崎が学生時代に文学と絵画に没頭していたことも、木下杢太郎の親友だったことも誰も知らなかった。

 わたしが本書をひもといた直接の理由は鷗外の『我百首』の全釈が含まれているからである。

 『我百首』は題詠で詠まれた歌が多く、一貫したテーマはないとされてきたが、小平克氏は森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』でエリスとの係わりを歌った緻密に構成された歌集だと読みといた。無理な解釈もあるが、うなづける部分もすくなくなかった。岡井隆なら『我百首』をどう読むだろうという興味があったのだ。

 結論をいえば「どの一首も独立していて、連作の気味がない」というのが岡井の見立てである。西洋や東洋の教養にもとづく難解な語を用い、一首一首に物語を仕こんでるのはプロ級の歌人の集まる観潮楼歌会の題詠で創作された歌であり、発表の場も『スバル』という高踏的なサロン雑誌だったからだというのだ。

 エリス事件の一部始終を暗号のように読みこんでいるというようなうがった見方は一顧だにされていないが、モチーフの一つとしてエリスの面影が用いられている可能性は否定されていない。

 たとえば「Niscioreeの酒」にはじまる恋歌がつづく部分。

(28) うまいより呼び醒まされし人のごと円き目をあき我を見つむる

(29) 何事ぞあたら「若さ」の黄金を無縁の民に投げて過ぎ行く

(30) 君に問ふその脣の紅はわが眉間なる皺を熨す火か

(31) いにしへゆもてはやす徑寸わたりすんと云ふ珠二つまで君もたり目に

(32) 舟ばたに首を俯して掌の大さの海を見るがごとき目

(33) 彼人は我が目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ

 岡井は27首から30首は男女の意識のすれ違いを老年の回顧的な目で眺めていると読み、31首から33首の目の連作はリルケの第一詩集(『家常茶飯』の参考文献に含まれているから鷗外は読んでいるはず)の「愛」に通ずると指摘している。

愛する君の眼なざしには
光に充ちた 大きな海が宿る、
夢みるいろいろな姿でできている渦の中から
清らかな心が現れるとき。

すると その輝きがあんまり大きいので私はふるえる、
クリスマスの樹が煌めく前で 二枚の扉が
音もなく両側へひらくとき
思わず佇む子供のように。(片山敏彦訳)

 「どうだ、すごいだろう」と自己顕示しているような風は確かにあるかもしれない。

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2012年07月31日

『現代語訳 舞姫』 山崎一穎監修、井上靖訳 (ちくま文庫)

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 『舞姫』の現代語訳が必要とされる現状は残念であるが、井上靖が訳した『舞姫』があるというので読んでみた。

 もともとは1982年に学研から出た『カラーグラフィック明治の古典』シリーズの鷗外の巻のために訳されたが、2003年に筑摩書房から出ている高校用の国語教科書『精選 現代文』に再録された。ちくま文庫版は『精選 現代文』の方を底本としたとのことである。

 表紙には豊太郎とエリスが出会った「古寺」の最有力候補とされてきたマリエン教会の絵があしらってあるが、六草いちか氏の探索によってガルニゾン教会と判明した以上、いずれ変えなければならないだろう。

 鷗外の原文と井上靖の現代語訳にくわえて監修者の山崎一穎氏による60ページ近い解説があり、さらに資料篇として星新一『祖父・小金井良精の記』と小金井喜美子「兄の帰朝」のエリス関連部分の抜粋、前田愛氏の『都市空間のなかの文学』から『舞姫』を論じた「BERLIN 1888」の抜粋が収められている。星新一と小金井喜美子の文章はエリス問題の一次資料として定番だし、「BERLIN 1888」は日本文学の研究に都市論を導入したことで知られる有名な論文である。

 欲をいえば森於莵と小堀杏奴の抜粋がほしかったし(小金井喜美子はなくてもいい)、『うた日記』から「扣鈕」をもってきてもよかっただろう。

 『舞姫』の原文と現代語訳は一回り大きな活字でゆったりと組まれ、下段に注釈がはいるようになっている。原文49ページに対して現代語訳は58ページと20%ほど増えている。日本の作家には大きくわけて和文系統の人と漢文系統の人がいる。鷗外はもちろん漢文系統だが、井上靖もそうである。井上靖の文章も簡潔といわれているが、それでも20%近くも増えてしまうのだ。

 井上靖は『舞姫』をどう料理しているか。豊太郎がエリスと出会う場面を読み較べてみよう。まず現代語訳。

 相手はおしはかれぬほどの深い歎きに遭って、あとさき顧みるひまもなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は憐愍の情に打ち負かされて、私は思わずそばに寄って、「なぜ泣いておられるのか。この土地に繋累のない外国人の私は、却って力を貸して上げ易いこともあろう」と言いかけたが、われながら自分の大胆さに呆れている気持ちだった。

 台詞がまるっきり井上靖調なのが笑える。同じ箇所の鷗外のテクスト。

 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人よそびとは、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 「嘆き」を「歎き」、「係累」を「繋累」のように井上訳の方が見慣れない漢字を使っているように思うかもしれないが、本書に収録された「原文」は高校生向けのテクストなのか、見慣れた漢字に書き直されている。オリジナルに近い「青空文庫」から引用すると以下のようになる。

 彼ははからぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人よそびとは、かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 井上訳は鷗外の措辞をできるだけ忠実になぞろうとしていることがわかるだろう。訳文もほとんど直訳といっていいくらい原文に近い。鷗外に対する敬愛の念がそれだけ深いということだと思う。

 いい現代語訳だと思ったが、高校生は見慣れない漢字に尻ごみしてしまうかもしれない(大学生だって怪しい)。ここは現代語訳と割り切り、著作権継承者の了解をもらった上で普通の文字遣いに変えるのも一法だろう。

 むしろオリジナルに近づけるべきは「原文」である。なぜあのような中途半端な「原文」を載せたのか理解に苦しむ。

 ぜひやってほしいのは本文の校異だ。「舞姫」は1890年に『国民之友』に掲載されたが、1915年に『塵泥』所載の決定版にいたるまでに五つの版があり、推敲を重ねているようである。六草いちか氏の探索では異文が重要なヒントになっていたが、せっかく脚注欄を設けたのだからを異同を示してほしい。原文自体は「青空文庫」でも読めるが、文庫版で改稿の過程がわかるとなれば買おうという人は多いのではないだろうか。

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『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』 荻原雄一編 (至文堂)

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 エリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトの実像が判明したのだから今さらであるが、何が書いてあるのだろうという好奇心から読んでみた。ユダヤ関係では凡人には理解しがたい天才的なひらめきで書かれた本をよく見かけるが、本書も超天才のひらめきを満載した本だった。

 たとえば劈頭に置かれた「『舞姫』再考」の「エリーゼの腸の長さは」という条。この論文の著者で本論集の編者でもある荻原雄一氏はユダヤ人には食物の禁忌があると指摘して次のようにつづける。

 では、ユダヤ人の腸の長さは、どうであろうか。彼らはヨーロッパに住みながら、日本人と似たような食事をしている。鷗外が興味を持たない訳はないだろう。

 しかも、この『日本の食物問題』は、カルルスルーエへ旅立つ十日前に、ベルリンで(それもクロステル街に下宿していたときに)書きあげたのだ。この時期を考慮しながら、エリスのモデル問題に触れると、刺激ある結論が出るのではないだろうか。

 確かに刺激的な結論である。鷗外がエリーゼに近づいた理由は彼女の腸の長さにあったからというのだから。ユダヤ人の腸が東洋人なみに長いとはナチスの人類学者もびっくりであろう。

 同じ論文には豊太郎とエリスが出会った場面で、豊太郎が葬式代のために時計をわたしたのは「小説構成上の破れ目」だという指摘もある。金のもちあわせがないならいったん下宿にとりに帰るかエリスを下宿の前まで連れてくればよく、時計をわたすのは不自然だというのである。

 なぜそれが不自然なのか、わたしは頭が鈍いので理解できないが、荻原氏はエリスがゲットーの住民ならこの問題は解決すると書いておられる。

 ところが、エリスはユダヤ人の貧民階級で、ユダヤ人街、それもいわゆるゲットーに住んでいる設定なのだ。すると、この小説の構成上の破れ目の場面は、少しも破れ目でなくなる。つまり、ゲットーの扉は、夜になると締まってしまうのだ。外部との交流はいっさいできなくなる。このため、豊太郎が下宿にお金を取りに帰って戻って来ても、ゲットーの中に入れない。またエリスをつれて行ったら、今度はエリスが戻れない。

 すなわち、時計を置いてくるしか方法がないのである。

 天才的な着眼で敬服するしかないが、ただ一つ難点がある。ベルリンにはゲットーがなかったことである(山下萬里氏は「森鷗外『舞姫』の舞台・三説」(本書所収)でゲットーがなかったという文献を引用しておられるが、荻原説に疑問を呈してはおられない)。

 他にもエリスの言葉が訛っていたのは両親が地方出身者だからではなくユダヤ人だからだとか、母親がエリスを身売りさせようとしたのは律法にしたがうためだとか(「母の背後には神がいる」)、森家がエリスとの結婚に反対したのは彼女がユダヤ人だったからだとか、天才的な断定が次々とくりだされる(ユダヤ団体が知ったら目を剥くだろう)。しかし後につづく諸論文に一番影響したのは次の条だと思われる。

 結局、ヴァイゲルトもヴィーゲルトもワイゲルトも、みな源は<ヴァイカント>で、ユダヤ人のファミリー・ネームである。このため、カール・ヴァイゲルト博士とエリーゼ・ヴァイゲルト(ヴィーゲルト)に縁故関係があろうがなかろうが、博士もエリーゼもそのファミリー・ネームからユダヤ人なのである。

 根拠といってもヴァイゲルトという姓の著名なユダヤ人がいたという程度のことではないかと思うが、ユダヤ問題のような不案内な分野で自信たっぷりに断言されてしまうと、わたしのような知能の低い人間はそうだったのかと恐れいってしまう(この説になんの根拠もないことは六草いちか氏が『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』でナチスの国勢調査を史料に論証済みである)。

 カール・ヴァイゲルトとエリーゼ・ヴァイゲルトという名前が出てくるが、前者は金山重秀氏の「エリーゼの身許しらべ」(本書所収)が見つけだしてきた名前で、鷗外がライプチヒ大学に籍をおいていた当時、病理学研究所所長代理の職にあった。金山氏はカール・ヴァイゲルトの姉妹がエリスのモデルではないかという説をたてておられる。金山説を発展させたのがテレビ朝日系列で1989年5月に放映された「百年ロマンス・舞姫の謎」で、番組ではカール・ヴァイゲルトの周辺を調査してエリーゼという女性を発見した。鷗外と別便で来日した女性の名前がいくつかの英字新聞の船客名簿に残っているが、一紙だけ Elise Weigertとなっている例があり、まさにその名前の女性が見つかったのである。

 わたしは「百年ロマンス」を見ていないが、本書の中の詳細な紹介によると番組はエリーゼ・ヴァイゲルトを中心に作られていたようである。彼女は1857年にフランクフルトの裕福な銀行家フルダ家に生まれ、実業家のリヒャルト・ヴァイゲルトと結婚した。結婚直後から第一次大戦までベルリンの自宅で文学サロンを主宰していたが、日本文化に関心が深く日本の文物をならべた「日本の間」を作っていた。彼女は鷗外より5歳年長で、鷗外が留学していた頃には二人の子供がいた。もし彼女が鷗外を日本に追いかけてきたとなると不倫ということになる。彼女の息子の嫁と孫にインタビューしたが、日本に行ったという話は聞いていないと答えたとのこと。番組の最後では彼女が埋葬されているユダヤ人墓地が映しだされたようである。番組がヴァイゲルト姓がユダヤ人特有の姓であるとしていたかどうかまでは本書ではわからなかった。

 金山論文のカール・ヴァイゲルト周辺説で提起されたエリス=ユダヤ人説を「百年ロマンス」がエリーゼ・ヴァイゲルトという実在の女性で「実証」した形になり、鷗外研究者にエリス=ユダヤ人説を注目させたが、5歳年長の二人の子供のいる人妻では『舞姫』のエリスと違いすぎる。

 この難点を解決しエリス=ユダヤ人説が認知される契機となったのが荻原雄一氏の「「エリス」再考」という論文のようである。本書には14本の論文が収録されているが、そのうちの12本は「百年ロマンス」が放映されて以降に発表されており、いずれも荻原論文を参照している。

 荻原論文は「日本の間」を作ったこと自体が彼女がエリスではない証拠だと指摘する。愛人を追いかけて日本とドイツの往復に3ヶ月、日本滞在に1ヶ月、合計4ヶ月も家を空けておいて元の鞘におさまるのは難しいし、万が一夫が許したとしても、堂々と「日本の間」を作るわけにはいかないだろうというのだ。

 もっともな推論であるが、ここから荻原氏の超天才の推理がはじまる。

 荻原氏はヴァイゲルト夫人がエリスではないと断定しながら、鷗外とは関係があったはずだという。一例だけにせよ船客名簿と一致したエリーゼ・ヴァイゲルトという名前、エリスというニックネーム、そしてカール・ヴァイゲルトの縁者という点をあげ「これを偶然だ、ではとても片付けられない」とする。

 この矛盾を解決するために荻原氏はヴァイゲルト夫人の文学サロンには男客をもてなすために歌手や踊り子といった芸能関係の仕事に就いている貧しいユダヤ人の娘を集めていたはずだと断定する(実地調査をしたわけではなく、超天才のひらめきにもとづく断定である)。そして、こう書いておられる。

 ここで、一つの推理を提言する。舞姫のエリスのモデルであり、鷗外を追って来日した少女は、エリーゼのサロンの片隅に咲いた、この<小さな草の華>のうちの一人ではなかったか。

 この後、<小さな草の華>説の物証として「百年ロマンス」に登場した九谷焼の皿の考察がおこなわれるが、超天才の炯眼によって謎の少女<A>にたどりつく推理は凡人の頭ではとてもついていけない。

 荻原氏は「百年ロマンス」を批判しておられるが、真下秀樹氏が「『舞姫』と19世紀ユダヤ人問題」で荻原論文を「この番組の結論を延長した線において独自の結論を出している」と評価しておられるように、「百年ロマンス」の否定ではなく批判的継承というべきだろう。西成彦氏も『世界文学のなかの『舞姫』』巻末の「読書案内」で「本論集も大筋では(「百年ロマンス」と)同じ流れに沿っている」と要約しておられる。本論集に掲載された論文はいずれも荻原説を当然の前提として受けいれて論を展開しており、荻原氏のエリス=ユダヤ人説が鷗外研究者の共通理解になっている情況がうかがえる。

 本書には荻原氏以外にも犀利な洞察を披瀝した論文が多数おさめられている。山下萬里氏は豊太郎とエリスの出会った「古寺」を考証し、『舞姫』には少数の読者のみが解読できる一種の暗号が仕込まれていると指摘しておられる。

 『舞姫』には、当時の日本の一般的読者以外に、ベルリン事情に通じた少数の読者もいるはずだった。作者の戦略は、一般読者には「古寺」にマリア教会を想定させ、後者の読者には旧シナゴーグを透視させることであった。テクストには「頰髭長き猶太教徒の翁」とある。これが作者の送るサインである。

 何という鋭い天才的な読みであろう。眼光紙背に徹するとはこのことだ。ただただひれ伏すほかはない。

 なお本書の前年に出版された植木哲氏の『新説 鷗外の恋人エリス』について「<あとがき>にかえて」で荻原論文のパクリという見方が示されているが、植木氏の研究は地道な実地調査によって「百年ロマンス」の結論を全面否定したのであって、超天才のひらめきによって書かれた論文とは性格を根本的に異にする。

 それにしても「百年ロマンス」という番組の影響力には驚かされる(こういうトンデモ番組はぜひ見てみたい。誰かYouTubeにあげてくないだろうか)。エリス=ユダヤ人説はいい加減なテレビ番組が学界をひっかき回した例として記憶されるべきだろう。

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2012年07月30日

『世界文学のなかの『舞姫』』 西成彦 (みすず書房)

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 『舞姫』が海外でどう読まれているかを研究した本かと思って手にとったが、まったく違った。本書はよく知られた名作を従来とは異なった視点から若い読者に紹介する「理想の教室」シリーズの一冊だが、『舞姫』を祖国喪失文学として読もうという試みなのである。著者の西成彦氏はポーランド文学者で、ゴンブロヴィッチなど東欧ユダヤ人の祖国喪失文学を研究している人だ。

 『舞姫』が祖国喪失文学とはどういうことか? 『舞姫』は日本に向かう船がサイゴンに停泊した際、一人船室に残った太田豊太郎が書き綴った手記という体裁をとっている。豊太郎はエリスを捨てて帰朝の途についたが、西氏はサイゴンで手記を書きあげたことで決断の機会をもったのではないかというのだ。

 太田豊太郎には、そのまま日本へ送り返されるがままになるという安易な選択肢もあれば、いっそ思い切って船を離れ、ヨーロッパ行きの船を待つことだってできたのではないでしょうか。

 西氏は『舞姫』は豊太郎の決断を読者の想像にまかせるオープンエンディングの小説だったのではないかと問題提起しているのである。

 『舞姫』を二度読みかえし、井上靖による現代語訳も読んでみたが、「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」という最後の文に豊太郎がエリスの元にもどる可能性を読みこむのはいささか無理筋ではないか。

 しかし西氏が補助線として紹介した伊藤清蔵の生涯は刺激的である。

 伊藤清蔵は札幌農学校で学んだ後、農学研究のためにドイツに留学して下宿先の娘オルガと将来を誓いあうようになる。伊藤はいったん帰国するが、再び渡欧してオルガと結婚、そのまま南米アルゼンチンに移住する。アルゼンチンではアジア人は土地を購入できなかったが、伊藤はオルガ夫人の名義で農場を取得し南米各地の入植地から逃げてきた日本人移民を集めて農場経営を成功させた。

 西氏は伊藤を「南米の豊太郎」と呼んでいるが、『舞姫』がオープンエンディングかどうはともかくとして、恋愛のために祖国を捨てた日本人留学生が現実にいたとは!

 わたしが伊藤の存在に衝撃を受けたのは六草いちか氏が『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の最後にしかけた爆弾が気になっていたからである。

 エリーゼ・ヴィーゲルトは滞日一ヶ月余で説得されてドイツに帰るが、少しの憂いも見せることなく「舷でハンカチイフを振つて別れていつた」(小金井喜美子「次の兄」)という。あまりにも穏やかな別れだったので「人の言葉の真偽をしるだけの常識」に欠けた頭の弱い女とバカにされるほどだった。

 六草氏はエリーゼがおとなしく日本を離れたのは鷗外がすぐに後を追うと約束していたからではないかと推理している(あくまで推理であって、エリーゼ発見の業績とは別である)。

 まさかと思ったが、伊藤清蔵のような人が実際にいたとなると、鷗外がエリーゼに再会を約束していたという仮説は俄然現実味を帯びてくる。

 鷗外はゴンブロヴィッチのような祖国喪失文学者になってドイツ語で作品を発表していただろうか。もしかしたらノーベル文学賞の日本人第一号受賞者になっていたのではないか。

 もし鷗外がエリーゼを選んでいたとしたら日本近代文学はどうなっていただろうと空想するのは楽しいが、現実の鷗外は極度のマザコンだったから母親を捨てることはできず、赤松登志子との結婚を受けいれてしまう。鷗外はエリーゼを二度裏切ったのである。

 六草氏は山縣有朋の欧州視察に随行した賀古鶴所がベルリンでエリーゼと会い、鷗外の結婚を伝えたのではないかと推定している。『舞姫』は賀古の帰国後に書かれているから、もしそうだとするとエリスの狂乱は鷗外の裏切りを知ったエリーゼの姿を反映しているのかもしれない。『舞姫』はいろいろな読み方を誘う作品である。

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2012年07月29日

『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』 六草いちか (講談社)

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 昭和8年に森於莵が父親のドイツ人の恋人の存在をおおやけにして以来つづいていた『舞姫』のモデル探しに終止符を打った本である。

 著者の六草いちか氏はベルリンに20年以上在住するジャーナリストで、リサーチの仕事もしているという。本業の合間に行きつもどりつした探索の過程が書かれているが、まさにプロの仕事で、次々とくりだされる的確な背景情報に圧倒される。的確な背景情報を一つ書くにはその十倍、いやそれ以上の知識が必要になることを考えると気が遠くなってくる。リサーチのプロが本気になるとここまで調べることができるのである。

 六草氏がつきとめたエリスはフルネームをエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトといい、1866年9月15日にシュチェチン(現在はポーランド領)で生まれた。2歳下のアンナという妹がいる。1898年から1904年まで帽子製作者としてベルリン東地区に在住したことが確認されており、小金井喜美子が鷗外からの伝聞として記した「帽子会社」に勤めているという内容と符合する。

(本書の続編の『それからのエリス』で六草氏はエリーゼの親族をつきとめて写真を入手し、さらに彼女が日本に旅行したという話が一族に語り継がれていたことを確認している。)

 父ヨハン・フリードリヒ・ヴィーゲルトは1839年オーバヴィーツコ生まれで、フリードリヒと呼ばれていた。ブランデンブルク第三輜重大隊に勤務した後、ベルリンで除隊。そのままベルリンにいついて銀行の出納係となったが、1882年頃に亡くなっている。

 母ラウラ・アンナ・マリー・キークヘーフェルは1845年シュチェチン生まれで、マリーと呼ばれていた。ベルリンに出てお針子をしていた頃にフリードリヒと知りあい、エリーゼを身ごもって軍人のための教会であるガルニゾン教会で結婚式をあげた。エリーゼの生地がシュチェチンとなっているのは実家にもどって出産したからだろう。夫と死別したマリーは仕立物師として娘二人を育てあげた。鷗外の三番目の下宿の家主であるルーシュ夫人はマリーに仕事をまわしていた。

 鷗外と知りあった頃、エリーゼは20歳か21歳だった。『舞姫』の決定稿ではエリスは「十六七なるべし」となっているが、第一稿には「まだ二十にはならざるべし」とあり年齢的にも一致する。

 母マリーは自分名義で部屋を借りているので下流よりは上の暮らしをしていたと思われるが(ベルリンでは入居審査が厳しく又貸しが多かった)、財産のない母子家庭では日本までの旅費の工面が問題となる。日本までの船賃は一等船室1750マルク、二等船室1000マルク、三等船室440マルクで、エリーゼは一等船室で来日している。陸軍が鷗外に支給した一年間の留学費が当初1000円(4000マルク相当)だったことを考えると、1750マルクはかなりの額である。

 六草氏は鷗外には翻訳の副収入(原稿用紙1枚で12マルク程度)があったので十分可能だったとし、傍証として一等船室を選んだことをあげている。当時は一等も二等も個室だったから、エリーゼが自分で船賃を出したなら二等船室にしたはずだというのである。彼女は鷗外と結婚して日本に永住する覚悟で出国しただろうから、異国の生活にそなえて倹約すると考えるのが自然だろう。一等船室は鷗外が花嫁のために奮発した可能性の方が高そうである。

 エリーゼの周辺が明らかになった結果、『舞姫』には多くの事実や実景が埋めこまれていることがわかってきた。第一稿と決定稿の間で鷗外はエリスの年齢を下げるとか、教会の場所を曖昧化するといった改変をおこなっているが、いずれも事実をフィクション化する方向の改変だった。

 根強く唱えられてきたエリスのモデルがユダヤ人だったとか、エリスはユダヤ人として描かれているという説はまったく根拠がなくなった。

 エリス=ユダヤ人説は一部には以前からあったようだが、1989年にテレビ朝日系列で放映された「百年ロマンス・舞姫の謎」で広く知られ、鷗外研究者の間でも話題になって『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』という論集まで生まれている。「百年ロマンス」ではエリスのモデルはエリーゼ・ヴァイゲルトという鷗外より5歳年上のユダヤ系の人妻としていたが、作中のエリスと違いすぎるのでヴァイゲルト家のサロンで奉仕していた貧しいユダヤ人娘ではないかとか、エリーゼ・ヴァイゲルトという名前の未発見の女性(ヴァイゲルトという姓からユダヤ人とされる)がいるのではないかといった説が広まった。鷗外記念会の機関誌「鷗外」の88号には今野勉氏の番組と著書に関する感想や批判が掲載されているが、エリス=ユダヤ人論が鷗外研究者の間に深く浸透している現状がうかがえる。

 こうした説が根拠とするのはヴィーゲルトもしくはヴァイゲルトという姓がユダヤ人特有の姓だという頭ごなしの断定だが、実際はどうなのか。六草氏は驚くべき材料を持ちだして決着をつけている。1939年にナチスがおこなった例の国勢調査である。

 この国勢調査はユダヤ人をリストアップするために行なわれたもので、四人の祖父母についてユダヤ系かそうでないかを記録するようになっていて、1/2ユダヤ人とか1/4ユダヤ人という判定ができ、1941年からはじまったユダヤ人強制収容に威力を発揮した(その際活躍したのがIBMのパンチカード・システムで、エドウィン・ブラックの『IBMとホロコースト』に詳しい)。

 まさかと思ったが、その時のデータのうち、ユダヤ人とユダヤ人と同居していたドイツ人60万人分が保存されており、制限つきだが検索可能な形で閲覧できるというのである。

 60万人のうちヴィーゲルト姓は3世帯7人いたが、2人はユダヤ系女性と結婚した非ユダヤ系男性だった。生存者が一人もいないということで六草氏は特別に生データの閲覧を許されたが、ユダヤ系の5人もユダヤ系なのは父方の祖母か母方の祖父母に限られ、父方の祖父がユダヤ系という例は一人もいなかった。ヴィーゲルトという姓はユダヤ人の姓ではないのである。

 ヴァイゲルト姓はドイツ全土で52人、ベルリン市内で29人いた。ヴァイゲルト姓を伝えるユダヤ人がいたのは確かだが、典型的なユダヤ姓かどうかを判定するためにナチスが政権をとる以前の1930年の電話帳と、ユダヤ人の強制収容がはじまって以後の1943年の電話帳の比較をおこなっている。ヴァイゲルト姓は58世帯から34世帯に減っているが、典型的なユダヤ姓とされるコーンが1300世帯から28世帯に激減していることを考えると「ヴァイゲルト姓の中にはユダヤ人もいた」と言えても「ヴァイゲルト姓はユダヤ姓である」とは言えないという結論になる。

 エリスの住居はゲットーに設定されていて、夜間外出ができないので質屋に行けなかったという説についてはベルリンにはそもそもゲットーはなかったと一蹴している。

 鷗外と出会った頃のエリーゼの住所はまだわかっていないが、鷗外の第二の下宿の界隈は貧民街でユダヤ人が多かった。『舞姫』に「頰髭長き猶太教徒の翁」のたたずむ居酒屋が登場するのはエリスの出自を暗示するためではなく、単に実景を写しただけと考えられる。エリスと豊太郎が出会った「クロステル巷の古寺」がシナゴーグという説もあったが、ヴィーゲルト家と関係の深いガルニゾン教会であることが確定した。『舞姫』にはユダヤ的なシンボルがちりばめられているとする見方があったが、単なる半可通の思いこみだったのだ。

 本書で一つ引っかかっていることがある。六草氏がエリス探しをはじめるきっかけとなったM氏のことである。

 射撃練習の後の会食で鷗外と『舞姫』の話題が出たおり、M氏というドイツ人が発した「オーガイというその軍医、その人の恋人はおばあちゃんの踊りの先生だった人だ」という言葉がすべての発端だったが、当該人物はエリーゼが来日した1888年生まれだったとわかり最初の探索は不発に終わる。

 六草氏とM氏のやりとりを読んでいるとM氏の発言はきわめて具体的であり、口から出まかせを言っているようには思えない。もしかすると第一次大戦前夜にベルリンに留学した日本人軍医が踊り子と恋に落ちるという、『舞姫』を地でいくような出来事があったのかもしれない。その頃には『舞姫』は広く読まれていたわけで、ベルリンに留学する軍医が読んでいたとしてもおかしくない。M氏の話の真相が知りたくなった。

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2012年07月28日

『鷗外の恋人 百二十年後の真実』 今野勉 (NHK出版)

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 2012年11月19日、NHK BSで「鷗外の恋人~百二十年後の真実~」というドキュメンタリ番組が放映された。本書はその書籍版である(DVDも出ている)。

 著者の今野勉氏は番組をNHKと共同製作したテレビマンユニオンのプロデューサーで、鷗外を主人公にしたTVドラマ『獅子のごとく』を製作して以来、エリス問題に関心があったとのこと。

 番組は植木哲氏のエリス=アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト説にもとづいているが、植木説には以下のような難点があった。

  1. 船客名簿の名前(エリーゼ)と異なる
  2. 15歳の娘を船旅で40日もかかる日本へ一人で行かせたのはおかしい
  3. アンナ・ベルタが相続した財産が容易に現金化できるか不明
  4. 状況証拠だけで、エリーゼがアンナ・ベルタだという決め手がない

 番組では第一の難点については当時はドイツを出国するにも日本に入国するにもパスポートもビザも不要であり、船の切符は偽名でも買えることを明らかにした。

 第二の難点についてはアンナ・ベルタの両親はカトリックとプロテスタントの結婚であり、出身地も境遇も違うので、周囲の反対を押し切って結ばれた可能性が高い。そうであれば娘の東洋人との結婚にも寛容だったはずだとしている。

 第三の難点についてはアンナ・ベルタの祖父は十数世帯の住む賃貸ビルのオーナーだったので、日本までの船賃は二ヶ月分の家賃でまかなえるとしている。

 第四の難点については鷗外が残したエリスの唯一の形見の品であるモノグラム(刺繍用型金)のクロス・ステッチの部分にアンナ・ベルタ・ルイーゼのイニシャルであるA、B、Lが隠されているとしている。

 番組を見て植木説はいよいよ確定かなと思ったのであるが、放映と同じ月に出版された本書を読んで目が点になった。モノグラムからA、B、Lの文字が浮かびあがるという「発見」をドイツ人の専門家に確認する場面が番組のクライマックスになっていたが、本書には画面に映らなかった取材の経緯が書かれていたのである。

 一方ベルリン市立博物館の「服装と流行課」からの返事は、予想外のものだった。……中略……クロス・ステッチの部分については、次のような返事であった。

「たしかに、M・R、A・B・L・Wは読みとれますが、型金を逆向きにしたりして、さまざまの方向から眺めれば、すべてのアルファベットの読みとりができます。このような型金はかなり自由に使いまわしが利くものなので、特別なアルファベットが隠されていたとは言いがたいと思います。
 刺繍にこめたメッセージや、恋人のハンカチにモノグラムを縫いつけるといった習慣は、どちらかというと十九世紀初期に流行したものです。ちょうど一八〇〇年から四〇年までのロマン主義の時代にあたります。一九世紀後半に差しかかると、布類へのイニシャル刺繍は日常的なことになってきます。」

 この返事に、私の血は少々逆流気味になった。どんな文字でも読みとれる、とは、いくらなんでも乱暴すぎる話ではないか。

 乱暴すぎる話と言いたいのはこちらである。唯一の物証が怪しくなったら、今野氏の推論は全部崩れてしまうではないか。そもそも15歳の少女が無名の元留学生に会いにゆくのに、なぜ偽名で出国する必要があったのか。

(六草いちか氏は『それからのエリス』で問題のモノグラムとイニシャルだけが異なる同系列の製品を発見し、クロステッチがまったく同じであることを確認している。モノグラムが特注品でクロステッチに暗号が隠されていたという仮説は完全に否定された。)

 本書が出て四ヶ月後、エリスの身元について決定的な発見をした六草いちか氏の『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』が上梓された。六草氏がつきとめたエリスはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトといい、1866年生まれ。アンナという妹がいた。来日時点で21歳だったから植木説のような難点はない。

 本書は気の毒な本である。出版が一年遅れていたら六草説をもとにすることができたろうし、一年早ければ六草氏の本とガチに比較されることもなかったろう。

 今野氏にはこれに懲りずに、鷗外関連の番組をこれからも作ってもらいたいと思う。

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2012年07月27日

『森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』 小平克 (同時代社)

森鴎外「我百首」と「舞姫事件」 →bookwebで購入

 難解をもって知られる鷗外の「我百首」を「舞姫事件」を解読格子に読みとこうという試みである。本書でいう「舞姫事件」とはエリスのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトの来日事件だけでなく、最初の妻赤松登志子との結婚と離婚を含む二年にわたる騒動をさす。

 著者の小平氏は本書の前年、『森鷗外論 「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相』においてエリーゼが金目当てに押しかけた「路頭の花」などではなく、鷗外が陸軍を辞めてまでも結婚しようと思いつめた「永遠の恋人」であり、『舞姫』とその前後の作品のみならず、二十年以上後に書かれた『うた日記』、『青年』、『雁』、『ヰタ・セクスアリス』にも面影が書きこまれているとした。

 本書はそれにつづく論考で、従来定まった解釈がなく、一貫したテーマがあるのかどうかもわからなかった「我百首」がエリーゼ来日にはじまる一連の「舞姫事件」を歌いこめたものだとしている。これが当たっているとしたらエリーゼをめぐる六草いちか氏の発見に匹敵する発見かもしれない。

 「我百首」は明治42年(1909)5月に発行された『昴』第五号に掲載された連作短歌である。もともと『昴』の同人十名が短歌百首を発表するというのは創刊号で予告された企画だったが、実際に百首を寄せたのは鷗外と與謝野鐡幹、與謝野晶子の三人だけだった。百首という限定が内発的なものでない以上、それまで書きためた短歌を集めただけかもしれず、そうであれば一貫したテーマがあるという前提そのものがゆらいでくる。

 しかし鷗外は『沙羅の木』に「我百首」を収録するにあたり、序で「あれは雑誌昴のために一氣に書いたのである」と述べている。石川淳が「「倅に持つても好いやうな」異邦人におどろくことができた詩人の若さの歌である」と評したように、「我百首」は短歌に新風を起こそうとした意欲作であり、百首をつらぬくテーマがあると見るのが妥当であろう。

 「我百首」のテーマは「舞姫事件」だというのが本書の仮説だが、エリーゼを暗示するような決定的な歌はあるのだろうか。

 第26首は

(26) すきとほり眞赤に強くさて甘きNiscioreeの酒二人が中は

となっており(以下、行頭に歌の番号をつけて引用する)、これまで「Niscioreeの酒」がなにかは不明だった。小平氏は検索でその典拠がイタリアの作家Antonio Fogazzaroの"Piccolo mondo antico"(1895)であることを発見した。"Piccolo mondo antico"は『昔の小さな世界』というほどの意味だが、望月紀子氏によると両親を亡くして侯爵夫人である祖母に育てられた主人公フランコが、祖母の反対を押し切って密かにルイーザと結婚式を挙げたときの祝杯の酒が「ルビーのように赤く澄み、美味で強いNiscioreeのワイン」と記されているという。

 問題は鷗外が読んでいたかだが、東大のopacで検索したところ、

Die Kleinwelt unserer Zeit : Roman / Antonio Fogazzaro ; Einzige berechtigteUbersetzung aus dem Italienischen von Max von Weissenthurn

という独訳本がまさに鷗外文庫に所蔵されていた! Niscioreeの酒の典拠は確定である(もしかしたら、これも文学史的発見?)。

 つづく第27首から第33首にはともにNiscioreeの酒を飲んだ相手の女性が描かれている。

(27) 今来ぬと呼べはくるりとこちら向きぬ回転椅子に掛けたるままに

(28) うまいより呼び醒まされし人のごと円き目をあき我を見つむる

(29) 何事ぞあたら「若さ」の黄金を無縁の民に投げて過ぎ行く

(30) 君に問ふその脣の紅はわが眉間なる皺を熨す火か

(31) いにしへゆもてはやす徑寸わたりすんと云ふ珠二つまで君もたり目に

(32) 舟ばたに首を俯して掌の大さの海を見るがごとき目

(33) 彼人は我が目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ

 第27首、回転椅子は当時の日本家屋にはまず見られない。洋館か西洋人向けのホテルの室内の情景と考えるべきだろう。第28首、「円き目をあき我を見つむる」はぱっちりした大きな目を思わせる。第31首の「珠二つまで君もたり目に」も日本人離れしたつぶらな瞳を指しているのだろう。

 第29首、「「若さ」の黄金」は金髪の美貌を連想させるが、その若々しいまぶしさを「無縁の民に投げて過ぎ行く」とは西洋人の娘が日本の町を闊歩する姿か。第32首と第33首は一転して悲劇的な色彩に塗りこめられている。いずれの歌も海へ投身自殺するイメージを喚起するのは彼女が日本に定住していないことを暗示するのか。

 第26首から第33首は日本におけるエリーゼを描いたという読みで間違いないと思われる。では登志子夫人との結婚生活を暗示する歌はあるのか。

(36) 接吻の指より口へかがなへて三とせになりぬやぶさかなりき

(37) 掻い撫でば花火散るべき黒髪の繩に我身は縛られてあり

 第37首が金髪の西洋女性に対する黒髪の日本女性の嫉妬を詠んでいることは見やすい。問題は第36首だが、小平氏の評釈をそのまま引こう。

 本歌は曲亭馬琴の『椿説弓張月』にある「僂指かがなへ見れば、いで給ひしより、すでに三箇月に及び」という用例をふまえて作られている。この用例の「僂指」と「接吻の口」を結び合わせて「接吻の指より口へ僂へて」という表現になったもので、エリーゼに接吻してもらった指を口にかがませてはや三年になったのはくやしいというのである。

 とすれば、エリーゼと離別して三年後の心境を詠んだものということになる。三年毎は丸三年であれば明治二四(1891)年、足掛け三年であればその前年の明治二三(1890)年である。どちらかといえば後者であろう。この年に於莵が生まれ、登志子と離婚しているのである。

 これ以上詳しい解釈は本書に直にあたっていただこう。

 第25首の「一星の火」の解釈など、いくつか引っかかるところはあるが、本書の「我百首」の読みが画期的であることは誰しも認めるところだろう。

 ここで疑問に思う人がいるかもしれない。いくら百首詠む機会があたえられたにしても20年以上前の事件を蒸し返すのはなぜなのかと。鷗外はそんな女々しい男ではないという反撥も当然あるだろう。

 著者はその答えも用意している。「我百首」を発表した明治42年の鷗外は公私ともに「舞姫事件」以来の人生の危機に直面しており、しかも圧力をかけてきた人物が「舞姫事件」の時と同じだったというのである。

 啞然とするが、確かにそうなのだ。さすがに今回は離別の圧力ははねのけたものの、鷗外は21年前と同じような四面楚歌の状況にいたのだ。「我百首」は公私にわたる憤懣を観念的に昇華しようとした実験作だったのかもしれない。

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『森鷗外論 「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相』 小平克 (おうふう)

森鴎外論―「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相 →bookwebで購入

 最近『舞姫』のエリスのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトについて決定的な発見があり、エリス問題が再びかまびすしいが、そんなことは所詮モデル探しにすぎず、文学とは関係がないという見方もなりたつだろう。

 エリーゼが『舞姫』という一短編のヒロインのモデルにすぎなかったらその通りにちがいないが、鷗外が彼女のことを終生思いつづけ、多くの作品に陰に陽に彼女の面影を書きこんでいたとしたら、文学と無関係とはいえなくなる。

 諦念の人といわれ、『ヰタ・セクスアリス』で性欲を冷笑的に腑分けしてみせた鷗外に一人の女性を思いつづけるなどということがあったのだろうか。

 小堀杏奴は『晩年の父』で鷗外がエリーゼと文通をつづけ、亡くなる直前に彼女の写真や書簡をすべて焼却したという話を伝えているが、「はじめて理解できた『父・鷗外』」(1979)という文章では小学校に通う途中にある荒物屋の十三、四歳の少年店員が彼女に「生き写し」だったと語っているという。この話の後日譚は岩波文庫版『晩年の父』(1981)の「あとがきにかえて」にあるが、1979年の文章の方が生き生きしているので、孫引きになるが引いておく。

 この少年について、後に母が、少年が独逸時代の父の恋人に、生き写しだと、父が語っていたと教えてくれた。この母の話の方は、私が結婚してから聞かされたように思うから、多分、『晩年の父』には出てこないはずである。母の言葉で、今更に私は、遠く、幼い日々を振返り、感無量であった。少年と語り合っている私や、弟を、軍服姿の父が、微笑を湛え、じっとみつめていた一瞬の表情が、突如、まざまざと、眼前に浮かんだからである。

 少年に似ていたというのだから、エリーゼは凛々しい顔立ちだったのだろう。杏奴の女友達の中にもエリーゼと似ている女性がいたというから、そうした人物の若い日の写真を集めれば鷗外の記憶に残るエリーゼの面影に近づけるかもしれない。

 本書は「「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相」というスキャンダル追求めいた副題がついているが、来日事件にかかわるのは最初の二章だけで、後半の三章はエリーゼが鷗外の文章に残した跡を追跡している。『舞姫』は当然として、別離から20年以上たってから書かれた『うた日記』、『青年』、『雁』、そして遺言にまで彼女の影が揺曳しているという。

 著者はまず存在が隠されていた「空白期」、「路頭の花」とされた「エリス期」、船客名簿から本名がわかって後の「エリーゼ期」の三期にわけてエリーゼ像の変転を跡づけ、第二章では鷗外はエリーゼと結婚するために軍医辞職願を提出していたという仮説を立てている。

(本書は来日した女性を「エリーゼ」と表記しているが、エリーゼ・ヴァイゲルト説をとっているわけではなく、正体は不明という立場である。六草氏の発見によって著者の留保は結果的に正解だったことがあきらかとなった。)

 軍医を辞めるつもりだったではなく、実際に辞表を出していたとは大胆であるが、鍵となるのは母峰子が10月6日に篤次郎と小金井良精に嫁いでいた喜美子を同道して石黒忠悳の私宅を訪ねていた事実である(小金井喜美子は著書ではこの訪問には触れていない)。

 中井義幸氏の『鷗外留学始末』によると石黒は留学中の部下を手なづけるために、石黒自身が留守宅を訪ねたり、妻に命じて家族ぐるみのつきあいを演出させていたから、峰子が弟妹を連れて石黒宅を訪問したこと自体は著者が考えるほど異例の事態ではないと思われる。しかし訪問の理由が特段ないことを考えると、辞表を撤回させるから待ってくれるように懇願にいったという本書の推定は十分説得力を持つ。著者は4日後の鷗外の石黒訪問が辞表撤回だったとしている。

 辞表提出と撤回が事実だとしたらまさにスキャンダルだが、あくまでエリーゼが鷗外の「永遠の恋人」だったことを明らかにして後半の議論の地がためをするためである。

 第三章では『舞姫』の執筆が赤松登志子とのあわただしい結婚と離婚と密接に関連していたことが論証される。『舞姫』は登志子夫人の妊娠中に書かれていた。登志子夫人は出産早々子供をとりあげられ離縁させられてしまうが、妊娠して捨てられ、発狂するエリスの物語をどのように受けとったのだろう。

 第四章ではエリーゼ事件から20年上たって上梓された『うた日記』を俎上にのせる。「扣鈕」の「こがね髪 ゆらぎし少女」がエリーゼであるとは森於莵が指摘したことだし、「べるりんの 都大路」が回想の背景となっていることからも動かない。

 著者は「夢がたり」の

触角を     長くさし伸べ
物来れば    しざりかくろふ
隠処の     睫長き子
人来れば    かくろへ入りて
我を待ち居り

という「蟋蟀」に来日時のエリーゼの面影を見る。隠し妻といいうことだけでいえば離婚後に峰子があてがった児玉せきも候補だが、彼女の容貌は「睫長き子」という形容にそぐわない。「蟋蟀」は異国のホテルで鷗外を待っていたエリーゼだというのが著者の解釈である。

 官能的で謎めいた「花園」がエリーゼのイメージで解けるという指摘は魅力的である。エリーゼを補助線にすると確かによくわかるのである。

 第五章では『青年』、『妄想』、『雁』、『ヰタ・セクスアリス』をとりあげているが、一番納得できたのは『雁』だ。

 山﨑國紀氏は『評伝 森鷗外』でエリーゼ=お玉説を提唱したが、小平氏はむしろお玉が鳥籠にいれて飼っていた紅雀にエリーゼを見ている。

 来日したエリーゼは築地精養軒にとめおかれたまま、彼女を排斥する森家親族の圧力に耐えていたのであって、まさしく彼女は「窓の女」であり、「鳥籠の紅雀」であった。この紅雀が「つがい」であるのは、鷗外が彼女と結婚するつもりで来日させていることをあらわすものであろう。この「つがいの紅雀」を襲う蛇は、二人の結婚を忌避する森家親族の暗喩なのではないか。襲われた蛇にくわえられてぐったりとなった一羽の紅雀は鷗外であって、「籠の中で不思議に精力を消耗し尽くさずに、まだ羽ばたきをして飛び廻ってゐる」もう一羽の紅雀は、『小金井日記』と『石黒日記』との関連的な推論によってひきだされた「エリーゼ来日事件」の経過からみてエリーゼの姿そのものに思える。

 『ヰタ・セクスアリス』については性欲と恋愛を分離する主人公の冷笑的な態度にエリーゼ事件で受けた心の傷を読みとっている。エリーゼ以外の女性は性欲の対象としてしか見ることができなくなっていたというわけだ。

 一歩間違えれば我田引水の深読みになってしまうが、著者の読みは十分議論に耐えると思う。鷗外作品はエリーゼという視点から読み直してみるべきだろう。

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2012年07月26日

『鷗外留学始末』 中井義幸 (岩波書店)

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 表題は「留学始末」となっているが、上京した頃から説き起こし、ドイツ留学から帰って赤松登志子と結婚するまでを語っている。山﨑國紀氏の『評伝 森鷗外』でいうと33ページから109ページにあたる時期に340ページを費やしている(山﨑本は頁あたり1.6倍の文字数がはいるから、正味でいうと3倍の分量か)。

 「始末」という表題が暗示しているように本書はシニカルな見方で一貫している。相当な辛口だが、他の著者がぼやかしていることをずばり書いてくれているのでいくつもの疑問が氷解した。

 詩、書簡、日記、関係者の回想、写真といった一次資料に語らせる手際もあざやかである。留学中、鷗外と家族の間では書簡の往来が密だったが、ライプチヒで撮った肖像写真を前にした家族の会話を篤次郎は一人一人の口調を真似て次のように報告し、千住の森家の茶の間を覗き見るような臨場感がある。

〔母君〕コリヤア大層善ヒ男ニナツタ、コレナラ新橋ノ○八デモ何デモ上三かみさんニシテモ羞シクナイ、「タンネン」ノ娘三じょうさんニ見セテヤリタイ

〔潤坊〕コレハ家ニアル「ビスマルク」ノ写真ニ善ク似テ居ルノダヨ

〔父君〕コレハ本ニドウシテモ二百円以上取ル勅任官ト見エルナア

 父静雄が月給を引きあいに出したのは金に苦労したからだろう。静雄は藩主亀井茲監にしたがって鷗外を連れて上京し、向島で開業したが、田舎出の元藩医では患者が集まらず、郡医に任命されるまで家計はつねに逼迫していた。

 鷗外は西家に住みこんだが、西周は鷗外だけは本郷の進文学舎でドイツ語を学ばせた。西は学問の基礎は漢学にあると考え、自邸に集めた親類の少年たちを漢学塾に通わせたが、鷗外だけは既に漢学の基礎ができていたのでいきなり洋学を学ばせた。この特別扱いの背景には鷗外を海軍に進ませた養子の紳六郎とならぶ次代のホープにしようという西のプランがあった。

 進文学舎は十人の小クラスでドイツ人からじきじきにドイツ語を習うという理想的な環境だったが、学費が高かった。鷗外は西周の西洋仕込みの規律が嫌になり父親のもとにもどるが、教科書一冊が父の侍医としての月給の1/3では、西の援助なしにドイツ語の勉強ををつづけるのは不可能だった。鷗外が11歳で官立医学校(後の東京帝大医学部)に入学した件は鷗外の秀才を証明するものと語られるのが常だが、医学校に入学するために進文学舎を退学したのではなく、進文学舎の学費を払いつづけることができなかったので、年齢を二歳偽ってまで医学校の入学を早めたというのが実情だった。

 医学校の卒業席次が八番になった理由を山﨑氏の評伝では「シュルツ教授が、鷗外の外科学の講義ノートに漢文の書き込みがあるのをみつけ、反感を買ったためとも言われている」としていて何のことだろうと引っかかっていたが、本書によると祖父の残した医書で漢方医学を独学していたためである。

 林太郎の東洋医学の勉強は、学校の西洋医学の勉強に使うべき時間を削ったのみならず、その成果を彼が教室に持ち込んでドイツ人教師たちの授業で主張したため、彼らの不興を買い、二重に成績を落とす力として働いた。

 ドイツ人教官にとって漢方医学などは未開の迷信にすぎない。その迷信を授業中に教官にぶつけるとは無謀というべきか誇り高いというべきか。ナウマンとの論争やカールスルーエでの演説、さらには晩年の史傳三部作を生みだす素地は十代の頃にすでにあらわれていたわけである。

 医学校卒業後、留学生の選に漏れて就職浪人のようになっていた鷗外は陸軍にはいり、一転してドイツ留学を果たす。鷗外の陸軍就職は同級生の小池正直の推薦状によるものとされることが多いが、この推薦は石黒忠悳の意を受けたものであり、その背後には鷗外に順天堂閨閥の次代をになわせようという西周の意向が働いていた。任官したての鷗外が軍医本部付という破格の待遇を受けたのはそのためである。

 当時軍医総監だった林紀は松本良順の甥、部内第二のポストである東京陸軍病院長の佐藤進は順天堂主佐藤尚中の養子と、順天堂一族の陸軍軍医部支配はゆるがないかに思われたが、林軍医総監がヨーロッパで客死し、佐藤進軍医監が順天堂を継ぐために退官した結果、橋本左内の末弟である橋本綱常が次の軍医総監に就任した。

 留学中の鷗外は順天堂閥を頼んで独断専行が多かったが、橋本が軍医総監になると無理が通らなくなり橋本とぶつかるようになった。橋本と鷗外の間にはいったのが石黒忠悳である。

 石黒は橋本の同期だったが、何の後ろ盾もなく留学もしていなかったので橋本の下僚になるしかなかった。石黒は鷗外の味方をすることで軍医本部内の地歩を固めようとした。

 石黒はエリーゼ来日問題の当事者の一人なので関連本には必ず登場するが、本書の以下の条を読んでようやく人物像が定まった。

 一切の門閥に縁のなかった石黒は、生まれながらには恵まれなかった人脈を、みずからの手で築いていったのである。茶人況藤として権力の座にある者達と風雅の交わりを結び、医者としてみずから脈をとって次々と彼らの信頼をかち得ていった彼は、一旦結んだ交わりを維持するためにはいかなる労をも厭わなかった。あらゆる知人に宛てて絶えず手紙を書き、病ある者の家には毎日でも出かけて行き、外国へ出て行った者の留守宅を訪ねて家族の無事を知らせやる便りを書き送った。こうして築いていった人脈の輪が広がるにつれて、石黒忠悳はもはやただの軍医ではなくなり、情報通として重宝がられ、人々に憚られる存在となっていった。ことに彼は山県有朋に友人として遇せられ、世に恐れられたこの権力者の家に自由に出入りする数少ない人間の一人になっていたのだ。

 鷗外はたびたび石黒を軽んずる振る舞いをしたが、石黒は二枚も三枚も上手で、橋本から庇護する風を装いながら鷗外を持ち駒としてあやつり、カールスルーエの国際赤十字大会における鷗外の演説の成功を自分の手柄にすりかえ、軍医総監昇進に利用する老獪さを示した。

 鷗外は他の留学生から離れ、一人パリに寄ってからベルリンにはいったが、『舞姫』に先立って発表した『航西日記』にはシャンゼリゼのホテルに泊まったというそっけない記事があるだけでパリの見聞記は含まれていない。鷗外はパリに何も感じなかったのだろうか?

 著者は『舞姫』で豊太郎がベルリン一の繁華街ウンター・デル・リンデンに感嘆する条は実はシャンゼリゼ体験だと指摘する。引用で逐条的に示されているが『舞姫』のウンター・デル・リンデンの描写は岩倉使節団の『米欧回覧実記』のシャンゼリゼの条を下敷きにしている。当時のウンター・デル・リンデンはシャンゼリゼとは比べようもなく『舞姫』に描かれているような「漲り落つる噴井の水」もなかった(噴水があるのはコンコルド広場)。著者は鷗外は『舞姫』の手の内を隠すために『航西日記』から意図的にシャンゼリゼとウンター・デル・リンデンの感想を省いたとしている。

 本書は鷗外の留学生活の実態も身もふたもなく描いている。鷗外は衛生学の研究を命じられて渡欧したが、衛生学よりも当時最先端の細菌学に関心をもっていた。ベルリンに来て念願のコッホ研究所にはいるが、助手から初歩的な講義を受けてから下水の細菌調査という課題をあたえられたものの、汚れ仕事を嫌って引き伸ばしたあげく屠場の排水でごまかしている。衛生学も細菌学も「研究」というレベルではない。鷗外がドイツで熱心に励んだのは晴れがましい場で目立つことと文学書の耽読であり、地道な医学研究とは縁遠い生活をしていたようである。

 ベルリン時代の鷗外はそれまでの勝手がたたって下級軍医のやる隊付勤務(兵舎の当番医)を懲罰的にやらされるが、その間にも石黒のために報告書の材料を集めさせられたり情婦のお守りをさせられたりしている。

 最後の章ではエリス問題をあつかっているが、著者はエリスのモデルの女性に対しても辛辣な視線を向けている。カフェ・クレップスにたむろする娼婦説をとり、来日は彼女が勝手に決めたことで旅費は自分でまかなったとしている。六草いちか氏の『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』が出た現在ではそのまま受けとれないが、エリス関係以外に関しては本書の価値はすこしも減じていないと思う。

 なお「岩波人文書セレクション」として再刊するにあたり、2010年時点における未刊行資料の情況を巻末で紹介している。きわめて貴重な情報である。

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2012年07月25日

『評伝 森鷗外』 山﨑國紀 (大修館書店)

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 2007年に刊行された鷗外のもっとも新しい評伝である。著者の山﨑國紀氏は天理図書館に秘蔵されていた鷗外の母、峰子の明治32年から大正4年にいたる17年間の日記を『森鷗外・母の日記』として翻刻した人で、本書にも重要な資料としてたびたび引用されている。

 本書は大版の上下二段組で800頁を超え、それに20頁の年譜と参考文献、17頁の索引がつく。写真は口絵に二葉、地図は津和野藩と浜田藩のいりくんだ位置関係を示すものが一枚掲載されているだけだが、図版を中心にした本は別冊太陽新潮日本文学アルバムなど入手しやすいものがあるので、これはこれで見識だろう。

 明治十年代、明治二十年代のように元号にしたがって七部にわかれる。明治17年から20年におよんだドイツ留学が第二部と第三部に分断されているのは機械的だが、従来「豊潤の時代」とされた時期を「第五部 明治四十年代」と「第六部 大正時代」にわかつのは本書の積極的な主張にかかわる。

 小倉転勤、日露戦争、軍医総監就任と多忙な時期がつづいた後、鷗外は明治42年から文壇に復帰し活発に作品を発表しはじめる。木下杢太郎が「豊潤の時代」と呼んで以来この名称が定着しているが、著者は42年から明治末年までは地味な小品ばかりで同時代人から評価されず、長編小説を次々と世に送りだして好評を博した漱石に対して焦りをおぼえていた「足ぶみ」の時期であり、本当の活躍は乃木の自決後に書きはじめた歴史小説からはじまるとしている。確かに『青年』や『雁』が完結して上梓されるのは大正にはいってからであり、鷗外の傑作は晩年の十年間に集中している。鷗外は大正期の作家だったのである。

 評伝は伝記記述と作品評価という二つの面をもつが、「序」に日本近代文学の「先覚者」とよべるのは鷗外ただ一人であり、それを証明するために本書をあらわしたと述べるように作品評価に重点を置いており、鷗外作品は〖舞姫〗のように白抜きの隅付括弧で示して一目で区別できるようにしている。各作品について成立の事情や文学史における意義だけではなく、同時代の受けとり方にもふれているのはありがたい。

 すべての翻訳作品に半ページから一ページの梗概と解題をつけている点も注目に値する。鷗外は欧米の文学の果実を日本にもたらすために全集の半分におよぶほどの厖大な翻訳を残した。小堀桂一郎『森鷗外―文業解題〈翻訳篇〉』(岩波書店)や長島要一『森鷗外の翻訳文学』(至文堂)のような案内書もあったが、伝記や創作活動とからめているわけではないし、現在ではどちらも入手できない。鷗外の生涯の中に翻訳を位置づけようとする本書の試みは今後の鷗外研究に資するところが大きいと思われる。

 伝記記述については鷗外は生涯謹厳な人格者だったという見方をしりぞけ、小倉転勤以前の前半生は「人格者」という形容は当てはまらないとはっきり書いている。

 山崎正和氏は弟篤次郎が川田家へ養子にいく話をつぶした件を鷗外が「家長の地位」を確立した画期と位置づけたが(『鷗外 闘う家長』)、本書は森家の実質的な家長は母峰子であり、養子反対も母の意を代弁したものとしている。鷗外は極度のマザコンだったから、こちらの解釈の方が腑に落ちる。

 鷗外にとって母の存在は大きかったが、母以上に影響をおよぼしたのは津和野とその文化的背景だと著者は考えている。

 津和野は西側を長州という大藩と境を接していた。軍事力や経済力では到底かなわないので、文化力で対抗しようという合意ができていて、四万三千石の小藩なのにいち早く藩校養老館を設け、尚学の藩として知られていた。実際、東側で接するやや規模の大きな浜田藩がたいした人材を出さなかったのに対し、津和野は西周、森鷗外を筆頭に十指に余る人物を送りだしている。浜田近郊出身の島村抱月も津和野藩の飛び地の生まれだったという。

 最後の藩主亀井茲監これみの果たした役割も大きい。茲監は藩学を儒学中心から国学中心へと転換させたが、その際、支柱としたのは脱藩して京都で名をなした大国隆正の学問だった。大国は平田篤胤門下だったが、異人を排撃するたぐいの攘夷を「小攘夷」と批判し、「万国をひきよせ、わが天皇につかしめたまはん」とする「大攘夷」を提唱した。養老館が和蘭語を教えるという柔軟さをもちえたのは大国の「大攘夷」思想を中軸としていたからだろう。

 亀井茲監は小藩の藩主ながら明治政府の宗教政策を実質的に決定する神祇局副知事に就任し、後に鷗外と喜美子が和歌の師とする福羽美静とともに朝廷祭祀を天皇が直接おこなう形にあらためている。大国隆正の「祭政一致」の国体観を現実化したのである。

 さて、いわゆるエリス事件である。2011年に六草いちか氏によって『舞姫』のエリスのモデルになったエリーゼ・ヴィーゲルト(本書はとっくに否定されているヴァイゲルト説を採用している)について決定的な発見があったので、この項に関する限り本書の記述は古くなっているが、石黒忠悳宛書簡に見られる「其源ノの清カラサルヿ」、山﨑氏が世に紹介した小池正直書簡の「伯林賤女」という文言、そして子孫がまったく見つからないことを根拠に貧しい健康な少女を性欲処理のために金で囲い者にしたとしている。エリーゼは『雁』のお玉のような境遇にあったというわけで、お玉の描写とエリスの描写に共通点があるという指摘もある。また児玉せきの条では森於莵の「知性も教養も低く、まず一通り善良で相当に美しい気の毒な人」という感想を引き、「あのエリーゼ像と重なってくる」としている(あくまで著者がそう考えるということであるが)。

 「源ノの清カラサルヿ」とあるように動機は不純だったが、鷗外は途中から本気になってしまい、甘い見通しのもとに日本に呼んで事件を引き起こしたというのが本書の要諦である(貧しい少女だったら日本までの旅費はどうしたのかという問題がもちあがるが、その点の考証はない)。

 なぜ鷗外がエリーゼを断念したかは直接は語っていないが、著者が母の意向を想定しているのは以下の条に明らかだ。

 鷗外は、母の徹底した管理の中で育ったため、青年期に至る鷗外は決して強くなかった。〖舞姫〗の豊太郎は、まさに二十代の鷗外の性格でもあった。……中略……帰朝してからの鷗外の執拗な啓蒙活動は、むしろ、弱い自分を鞭打つため、逆に打って出たようなところがあったことは否めない。だから、あのいくつかの論争は不自然さがつきまとい、後世、批判される面も残されたのではなかったか。

 最初の妻赤松登志子に対する仕打ち、医学界における挑発的な言動、年長の外山正一や坪内逍遙にしかけた論争、いずれも八つ当たり的であって「家長」とか「人格者」とかはとても言えまい。

 著者はそこにエリーゼ事件で負った傷を見ている。悲恋、罪の意識、不本意な結婚、おのれの弱さ。そうしたもろもろが若い鷗外の精神を嘖んだというわけだ。

 素人診断ながら、あの鷗外の拘執性は、一種の神経症から来ていたのではないか。神経症にも色々あるが、鷗外の場合、まず被害者意識が己を責め、そこから仮想的な対象が鷗外に補足され、その対象に対し、逆に攻撃的になっていく。神経症状であるから、尋常ならば、一回の攻撃で終わるものが、拘執的になっていく。この神経症は波のように、高いとき、低いときとある。医事論争、文学論争、この明治二十年代の鷗外を、この症状が異常なまでに攻撃的にしたのではないか。

 鷗外自身は陸軍内の順当な人事だった小倉転勤を「左遷」と曲解していたが、小倉への移動がはからずも転地療法的な効果をあげたというわけである。

 しかし小倉転勤以上に鷗外を変えたのはそれに先立つ日清戦争だった。鷗外は第二軍平坦軍医部長として出征し、凱旋もつかの間、ただちに台湾征討軍にしたがって陸軍局軍医部長として台湾にはいっている。著者は日清戦争後「あの青っぽい書生的発想及び、神経症的こだわりがみられなくなった」とし、あれだけの体験があってなお変化がなかったなら「以後の“鷗外”はなかった」と評している。その通りであろう。

 小倉生活をはじめた鷗外は地方の素朴な人情にふれるとともに、ヴントや熊沢蕃山を読み、曹洞宗の玉水俊虠について唯識説を学ぶなど、精神の糧をえようとつとめている。東京では多忙な公務のかたわら、翻訳に創作に八面六臂の活躍をしてきた鷗外だったが、小倉の地でようやく自分自身をふりかえる機会をもったのだ。

 小倉以前の鷗外は全部他人が悪いで通してきた。周囲とのレベル差が圧倒的だったのでそれで済んだわけである。ドイツに留学した際も中井義幸氏の『鷗外留学始末』にあるように目立つことにしか関心がなく、コッホ研究所では下水の細菌を調べろといわれて臍を曲げている。鷗外は中年にいたってようやく自分自身をふりかえるようになったというべきだろう。

 著者は家事と文学が両立できないと不満を訴えてきた喜美子を鷗外が諌めた手紙に注目し、次のように評価している。

 蕃山は、幽閉され無為を過ごしているようにみた客の質問に答え、“天下を治める「大事」と、日常的な「私」の「小事」も、同一の精神作用とみれば何ら違いはない”と述べたのである。「髪を梳り手を洗ふ」という「小事」は、鷗外が喜美子への手紙に書いた「才女がおしめを洗ふ」と同義である。後年、〖カズイスチカ〗の中で、「宿場の医者」たる父が、「詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐる」姿に、「花房」が感服する場面があるが、これは、小倉で生きる鷗外自身への戒めの言葉でもあった。

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2012年07月24日

『別冊太陽 森鷗外』 山崎一穎監修 (平凡社)

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 鷗外森林太郎は文久二年(1862)に石見国津和野で生まれた。2012年は生誕150年にあたる。

 宗像和重『投書家時代の森鷗外』(岩波書店 2004)のように未発見原稿や資料の発掘は今でもつづいているから、本当だったら新しい全集や選集が編まれてもよかったし、なんなら電子書籍で名作選を出すのもおもしろいと思うが、昨今の厳しい出版事情ではそれもままならないのか、記念出版の話はついぞ聞かない。11月に文京区立森鷗外記念館が開館するくらいがニュースか。

 雑誌の特集号も見かけないのは寂しい限りだが(見落としがあるかもしれない)、そんな中でほとんど唯一『別冊太陽』が「森鷗外―近代文学の傑人」として記念号を出してくれた。

 グラフ雑誌であるから関係者や関連する場所、原稿、掲載誌、初版本、日記、書簡等々の写真が集められている。

 子規や露伴、啄木ら文学者から鷗外にあてた書簡類は封筒の表書きといっしょに掲載されているが、宛名は大体「本郷區千駄木町森鷗外先生」となっている。番地なしでも届いたのである。日露戦争で出征中の鷗外に宛てた葉書の住所は「出征二軍軍司令部軍醫部長森林太郎殿」となっている。当時は兵隊を描いた絵葉書なども作られていた。

 幼い鷗外が学んだ藩校養老館の教科書も載っているが、和蘭語の教本があるのは津和野藩の先進性を示すものだろう。

 小倉赴任時代、長男の於莵のために毎週ドイツ語の通信教授を書き送ったが、それも載っている。晩年、末娘の杏奴のために地理と歴史の教科書の抜き書きをつくってやったのは有名だが、「杏奴のために教科書を手作り」として見開きで掲載されている。

 鷗外が園芸に熱心で、現代のガーデニングに近いことをやっていたというのははじめて知った。

 鷗外は武鑑をコレクションしていて、それが史伝三部作につながったが、「美本ではない」と注記があるように、染があったり手垢で汚れたりしている。本は好きでも、状態には頓着しなかったわけである。蔵書には書き入れが多いが、今は東京大学附属図書館の鷗外文庫書入本画像データベースで家にいながらにして閲覧できる。

 写真だけでなく各分野の専門家による記事もあるが、エリス問題は『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の六草いちか氏が担当している。山崎一穎氏が六草氏を選んだということは六草説は公認されたといっていいだろう。

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2012年05月27日

『安部公房文学の研究』 田中裕之 (和泉書院)

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 国語の授業で「それ」は何を意味するかとか、この文節はどこにかかるかといった分析的な読み方を習ったことがあるだろう。曖昧さが身上の日本文学を相手に分析的な読み方が意味があるのか疑問に思っていたが、相手が安部公房だと意外に有効らしい。本書は国語の授業的な読み方を安部公房に対して生真面目に実践しており、大きな成果をあげている。おそらく安部公房が理詰というか粘着質の作家だからだろう。

 本書は日本近代文学研究者である田中裕之氏による安部公房論で、1986年の『砂の女』論から2007年の『終りし道の標べに』論まで20年間にわたって紀要などに発表された論考を集めている。配列は対象とする作品の年代順となっており、三部にわかれる。第一部は最初の長編小説である『終りし道の標べに』論、第二部は1949年の「デンドロカカリヤ」から1952年の「水中都市」まで2年半の間に集中的に書かれた「変形譚」論、第三部は中期を代表する『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』、『箱男』の失踪者四部作論である。

 第一部「〈真善美社版〉『終りし道の標べに』の位相」では安部公房自身が後に語った「実存主義を観念から体験のレベルに投影したらどうなるかという一つの実験」という自作自解を検証しており、第一章は「第一のノート」におけるハイデガーの影響、第二章は「第二のノート」とリルケの「放蕩息子の物語」、第三章は紙をめぐる思索とニーチェ、キルケゴール、ヤスパースの影響をあつかう。

 一部の先行研究に見られる安部公房は『終りし道の標べに』においてハイデガーを離脱して独自の哲学的思索を切り開いたとか、後期ハイデガーを読みこむ見解をはっきり斥け、「第一のノート」が最初から最後まで『存在と時間』のハイデガーを下敷きにして書かれていることを明らかにした点は重要である。また同作における「故郷」が後期ハイデガーの「故郷」ではなく、リルケ的な「故郷」だという指摘もその通りだろう。「第三のノート」と「追録」を神の問題ととらえ、ニーチェとキルケゴールの影響を読みこんだ部分にも教えられた。

 第一部の論は初期安部公房研究における大きな達成だと思うが、いくつか疑問がないわけではない。著者は安部公房が読んだであろう寺島実仁訳の『存在と時間』ではなく、後年の細谷貞雄訳を引用しているが、安部と同世代でやはり『存在と時間』に魅せられた木田元氏が『闇屋になりそこねた哲学者』などの自伝で語っているように当時の翻訳やハイデガー理解には相当問題があった。研究の進んだ現在の理解をもちこむのはどうだろうか。リルケについては鳥羽耕史氏が『運動体・安部公房』で指摘したように大山定一訳『マルテの手記』というフィルターが介在しており、ワンクッションおいて考えなければならないのではないか。

 第二部「変形譚の世界」は共産党入党前後に集中的に書かれた変身物語を「変形譚」と一括し、リルケ的な「故郷」を脱して共産主義者としての新たな「故郷」へと向かう物語として解読している。これ自体はよくある読み方で面白くもなんともないが、シャミッソーとの経歴の類似を指摘した第七章「安部公房とシャミッソー」、変形譚を比喩との関連で捉え直した第八章「比喩と変形」は興味深かった。

 第三部「中・後期の文学世界」は著者の方法の長所と短所が一番よくあらわれている部分である。

 第九章「『砂の女』論――失踪者誕生の物語」は主人公のラストの選択に共産党除名を読みこむ解釈で新味はないが、ハンミョウに注目した後半部分は面白かった。

 第十章「『燃えつきた地図』における曖昧さの生成」は同作には分析的な読み方では接近できないと考えたのだろうか、著者には珍しくテーマ批評的な描き方を試みているが、慣れないことをして無理をしているないるという印象を受けた。著者の本領はあくまで分析的な読み方にあるだろう。

 第十一章「安部公房のおける不整合」は書下しで周到に原稿を練りあげたはずの『砂の女』と『他人の顔』に多数の不整合というかミスが含まれているという指摘で、こんなにたくさんあったのかと驚いた。

 もちろん「テクストはまちがわない」というテクスト論的な見方もあるわけだし、著者が特にこだわっている時間的不整合についてはミスといっていいのかどうか、あるいはもともとはミスだとしても、そのまま受けとった方がいいのではないかと思わないではないが、うっかりミスと見た方がいいものが多いのも確かである。どこまで意味があるかは置くとしても労作であることは間違いない。

 第十二章と第十三章は『箱男論』である。第十二章「「箱男」という設定から」は『他人の顔』との関係を中心に論じており、『箱男』には『他人の顔』には見られなかった自閉性がくわわったとして引きこもりやストーカーの先駆を見ている。第十三章「その構造について」はもっとも国語の授業的な部分で、各断片の記述者が誰かを徹底して明確にしようとし、結局「『箱男』は、そのすべてがただ一人の記述者の手になる虚構の産物なのである」という結論を引きだしている。

 記述者探しはロブ=グリエの翻訳で知られる平岡篤頼氏の『迷路の小説論』に触発される形ではじまったようだが、この結論はともかく、安部公房とアンチ・ロマンの関係は見直されてよいだろう。

 最後の第十四章「前衛の衰弱」は安部の絶筆となった「さまざまな父」論で、作品として自立することのできなかった作品に対する割り切れない思いを語っている。安部公房が好きでたまらないという気持がよく出ている。

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2011年12月31日

『安部公房伝』 安部ねり (新潮社)

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 安部公房の一人娘、ねり氏による父親の伝記である。

 実の娘というだけでなく、日本の全集のレベルを越える完全編年体の精緻な『安部公房全集』を編纂した人の書いた伝記だけに、資料的価値が高いことはいうまでもない。さまざまな年譜や事典の記述、最近の『安部公房・荒野の人』にいたるまでに蓄積してきた誤りを正し、安部公房の伝記的事実を明確にしたのはもちろん、別刷の写真ページが48ページもある。それ以外にも多数の写真が掲載されており、そのほとんどが今回はじめて公開されたものだ。

 最後のセクションは「インタビュー」となっていて、『安部公房全集』の月報に掲載された関係者25名のインタビューを再録している。すでに鬼籍にはいった人がすくなくなく、関係者の日記でも発見されない限りこれ以上の話は出てこないだろう。

 安部の小説によく登場する山師のモデルとおぼしき叔父がいたり、安部公房自身も叔父から受けついだ商才を発揮してサイダーの製造で大もうけをしたりといった小説の反映を私生活の中に見つけだすことができるが、他の作家に較べて作品と実生活の共通点はすくない印象を受けた。

 むしろ興味深いのは作品には使わなかった材料が多いことだ。

 たとえば終戦直前、滿洲になだれこんだソ連軍は安部公房の住む奉天にも押し寄せてくるが、その予兆はこう語られている。

 8月の終りにソ連軍が侵攻してきた。ソ連軍侵攻の3日前から、テノールの歌声が荒野の地平から地響きのように聞こえてきた。恐ろしいソ連軍の、天使のような美しい歌声の響く光景を、公房は娘の私に熱心に話した。

 凄絶なまでの崇高美であり、ワグナー的な陶酔と言っていいだろう。もちろん小説家の夢想の産物だろうが、安部公房の小説にはこの種の崇高美はまず出てこない。安部公房は崇高美に魅せられながらも、ファシズムの美学につながりかねない陶酔を自らの作品では封印していたということだろうか。

 本書では政治的には正反対の立ち位置だった三島由紀夫との深い友情が描かれており、ここまで信頼しあっていたのかと驚かされたが、両者は通ずるものが多かったのかもしれない。

 ちなみに福田實『滿洲奉天日本人史』によるとソ連軍の奉天進駐は8月19日に先遣隊入城、20日に本隊入城と司令部設営、21日になってようやく戦車隊到着という順序でおこなわれた。安部公房が語ったようなワグナー的情景とは似ても似つかない散文的な「侵攻」だった。

 安部公房の父浅吉は南滿医学堂(後の滿洲医科大学)を卒業して医師となるが、滿洲の医大に進んだ経緯は次のように語られている。

 しかしタケ(安部公房の祖母:引用者註)から聞かされていた金毘羅歌舞伎の話を思い出した浅吉は神戸に向かい、きらびやかな衣装をまとった女性と男装の女性達が歌って踊る宝塚歌劇に通いつめたという。
 公房によれば、浅吉が気がついた時には医学部の試験が全て終了していた。そして、ふと見た電信柱に南滿医学堂の学生募集の貼り紙があった。

 メルヘン的な印象を受けるが、大学受験のために北海道から上京したのに神戸まで行ってしまい、宝塚に通いつめて受験の機会を逃すなんていうことが本当にあったのだろうか。にわかには信じられないが、浅吉がのほほんとした好人物に思えてくるは確かだ。

 しかし安部公房はこんなメルヘン的な場面を描くことはなかったし、こんな好人物を作品に登場させたこともなかった。安部の小説や芝居に出てくるのは世をすねた一癖ある人物か実存的に懊悩する人物ばかりで、浅吉のような極楽とんぼは出てこない。

 女性像もそうだ。安部公房の父方の祖母安部タケは庄屋の家付娘で夫と子供のある身だったが、夫の出征中、近在の士族黒川勝三郎と駆け落ちをして北海道にわたるというはなはだ活動的な女性だったらしい。

 1984年3月3日、夫が徴兵されたタケは勝三郎と駆け落ちをした。香川から北海道に移民が始まったのはその3年前の1891年のことが。すでに入植していたタケの妹ヤクを頼って汽車に乗って北に向かった。このとき勝三郎は30歳を越えている。駆け落ちには家族も同行した。勝三郎の父弥三郎、兄吉太郎など黒川家の6人に、タケの幼い下の娘ふたりを連れ、若干の資金を持って出発した。

 これもすぐには呑みこめない。駆け落ちに便乗して一家の北海道移住を決めるなんていうことがあるのだろうか。その通りだとしたら黒川家は相当そそっかしい一家ということになる(黒川家側には別の物語が伝わっているかもしれない)。

 それは置くとして、恋人の一家を引き連れて北海道という新天地に向かうタケはタラの丘を目指したスカーレット・オハラに通じる女丈夫に思えてくる。しかしこういう陽性でたくましい女性も安部公房の作品には絶対に登場しない。

 本書を読んでいると、安部公房という人は読者が期待する安部公房像を維持するために多くの可能性を自らに禁じていたのではないかという気がしてくる。安部公房はセルフブランディングをおこなっていたのかもしれない。

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『安部公房の“戦後”植民地経験と初期テクストをめぐって』 呉美姃 (クレイン)

安部公房の“戦後”植民地経験と初期テクストをめぐって →bookwebで購入

 韓国人の安部公房研究者が東大に提出した博士論文をもとにした本である。鳥羽耕史氏の『運動体・安部公房』の二年半後に出た本であるが、『終りし道の標に』から『砂の女』までとあつかっている時代が重なっているだけでなく、政治運動と安部公房という視点を共有しており、鳥羽の論の強い影響下に書かれたといって差し支えないだろう。

 しかし重なっている部分が多いだけに、相違点も際立っている。鳥羽が1950年代の安部にポストモダンの大波に洗われ、脱政治が当たり前になっている現代日本の先駆を見ているのに対し、呉は植民地生まれの愚直なコミュニストとしての安部公房像にこだわっているのだ。

 鳥羽は文化人類学的で人形劇を思わせる『飢餓同盟』をとりあげる一方、滿洲を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』を等閑に付したが、呉は逆に『飢餓同盟』を無視し『けものたち』に一章をさいている。「引き揚げの過程で接する他民族への眼差しの変化」が他の引き揚げものの小説とは一線を画していると考えるからである。

 「壁」の読解も対照的だ。鳥羽は柄谷行人的な『資本論』読解を「壁」に読みこんだが、呉は名刺の「戦時中、反抗できぬ弱虫はただ発狂することをねがった。……中略……そのじめじめした願望を現実にして奴等にたたき返し、うんと言わしてやるのがおれたちの復讐なんだ」という台詞に着目し、こう書いている。

 名刺が「ぼく」に復讐を試みた理由は、人間「ぼく」の愚かさにあった。カルマ、すなわち<罪業>は、戦争に抵抗できなかった「ぼく」の無力さを指している。「ぼく」から名前が逃げた原因は「デンドロカカリヤ」の「コモン君」と同じく<戦争>の記憶にあったのである。したがって、名前と実体の分離という変形は、戦争のトラウマが露呈した形にほかならない。主体として行動できなかった「ぼく」の愚かさは自らを客体化してしまい、その結果、名刺との分裂に羞恥心と虚脱感を感じるほかなくなってしまうのである。

 知識人の戦争に対する悔恨と自責が名前と実体を分離させたとというわけだ。こういう生真面目な読み方はそれなりに説得力がある。

 とはいえ天皇制に対する諷刺とまで言ってしまうとどうだろうか。

 語り手はカルマの名前を消して病院で「十五番」という名を与える。これも敗戦に対する寓意であるが、名前もない存在としてのカルマの羞恥、屈辱は敗戦が招いたことである。アメリカに占領され、<occupied in Japan>になった名前のない被占領状態の日本が否応もなく浮上するのである。さらに名前を失ったカルマをY子が三回も「人間あひる」として戯画化しているにも、極めて暗示的で、それは「人間宣言」によって戦後も存続しえた天皇制への諷刺としても読めるのである。

 こういう読み方はさすがに無茶だろう。

 『東欧を行く』に対する視点の違いも興味深い。鳥羽は安部公房が東欧の民族間の対立にこの時点で気づいており、国家の間の境界=対立ではなく民族集団の間の境界=対立を「国境病」と呼んでいること、社会主義国にも矛盾があるが、その矛盾を「プラスの矛盾」と言い換えて擁護していることを指摘する。一方、呉は植民地と本土の対立や滿洲の民族問題には鋭敏な反応を見せていたのに、安部が東欧で見てとった民族間の対立はなぜか無視し、チェコの共産党には「民主主義」があるという言葉にだけ反応している。安部がさまざまな社会主義的矛盾を指摘していると抽象的に書くだけで、その矛盾の重要なものが民族間の矛盾だということまでは触れていない。東欧旅行後の日本共産党批判にいたる過程となると鳥羽の論の方がはるかに説得力がある。なぜ急に読み方が浅くなってしまったのか、不可解である。

 しかし一番違うのは『砂の女』の評価である。主人公が監視を解かれたにもかかわらず逃亡をあきらめる結末をコミュニズムからの離脱と解釈する点では両者ともに軌を一にしているが、鳥羽はそれを「自らを密室のなかへと幽閉していく志向」として現在のオタク文化の先駆のようにとらえているのに対し、呉は「個人的<主体>への源泉回帰」、「平常時における闘いのあり方」と社会に対する主体的な係わりとして評価している。まさに真逆である。

 こういう論の構えだと『砂の女』の結末の評価は運動をやめた後の安部公房をどう評価するかという問題に直結するが、『砂の女』の読み方はそれだけだろうか。

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2011年12月30日

『運動体・安部公房』 鳥羽耕史 (一葉社)/『1950年代』 鳥羽耕史 (河出ブックス)

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 安部公房の年譜を眺めていると20代から30代にかけて「夜の会」とか「綜合文化協会」、「世紀の会」、「人民芸術集団」、「現在の会」、「記録芸術の会」といったグループに属していたとある。参加者は小説家、評論家、画家、音楽家、映画関係者と幅広く、1960年代以降頭角をあらわす文化人の多くが含まれている。日本共産党への入党も「会」の活動の延長だったらしい。

 1970年代以前にデビューした日本の作家の多くは小説家の卵の集まる同人誌を修行の場としたが、安部の場合『近代文学』の同人にはなったものの、熱心に参加したのは多ジャンルのメンバーが離合集散する「会」の方だった。同人誌の活動が戦中の反動で活発化していたことを考えると、ジャンルを越えた「会」に軸足をおいた安部は珍しい新人作家だったといえるかもしれない。

 安部は岡本太郎らと「夜の会」を立ち上げた直後、自己の実存に視線を集中した『終りし道の標に』を刊行するが、その後社会諷刺という形で視野を広げていき、ルポルタージュ的手法をものにして『砂の女』に結実する硬質な文体を獲得していく。20代後半から顕著になる安部の変貌には「会」の活動がなんらかの影響をおよぼしたと考えるのが自然だろう。

 安部公房を考える上で「会」が重要なのはわかっていたが、『世紀群』などの機関誌の多くはガリ版刷りで復刻版が出ているわけではなく、日本近代文学館に日参するとかしなければ概略をうかがうことすらできない。『人民文学』のような共産党系の雑誌にも当たらなければならないだろうし、花田清輝、岡本太郎をはじめとする「会」の中心人物の伝記や回想録にも目を通しておく必要がある。

 どこから手をつけたらいいのか途方にくれていたところ、まさにまん真ん中を射抜いてくれる本が出た。鳥羽耕史氏の『運動体・安部公房』と『1950年代』である。

 『運動体・安部公房』は三部にわかれる。

 第一部は総論で、潤沢な資金を見返りなしに若手作家につぎこんだ真善美社という特異な出版社を発端に「夜の会」や「世紀の会」が連鎖的に生まれ、それが共産党の引力に引き寄せられて左傾化していき、激動する政治状況の中で記録芸術の理念が若い芸術家の間にわけもたれていった経緯が素描されている。

 第二部と第三部は安部の個々の作品の中に「会」の活動がどのように反映しているかを論じた論文が対象作品の発表年順におさめられている。

 第二部「芸術運動と文学」は1948年の「名もなき夜のために」から「デンドロカカリヤ」、『壁』をへて1951年の「詩人の生涯」までをあつかうが、「マルクス主義と文学」とした方が適切かもしれない。「名もなき夜のために」の章こそ大山定一訳の『マルテの手記』の影響が論じられているものの、他の章はマルクス主義の影響がテーマだからだ。「デンドロカカリヤ」が前後して書かれた花田清輝の社会主義リアリズム批判と軌を一にしているという指摘には目を開かれたが、「壁」の名刺がマルクスの商品論の脱構築であり、「詩人の生涯」はプロレタリア独裁の寓話だというのはどうだろうか。考証部分は勉強になるし、短編集『壁』が画家桂川寛との共同作業だというのは納得できるけれども、当時の文学者が『資本論』の批判的な読解をおこなっていたかどうかは留保したい。

 第三部「<記録>の運動と政治」は1952年の「夜陰の騒擾」から『飢餓同盟』、『東欧を行く』、「可愛い女」、「事件の背景」をへて1961年の『砂の女』までを論じる。それぞれ教えられるところが多かったが、一番面白かったのは『飢餓同盟』論である。鳥羽は『飢餓同盟』が杉浦明平の諷刺小説と柳田國男の民俗学を先行テキストとして成立していると指摘し、一見リアルな背景よりも戯画化された政治的人形の方にリアリティがあるとしている。

 『1950年代』は「記録」というタームを軸に生活綴方、サークル詩、ルポルタージュ絵画、記録映画、テレビ・ドキュメンタリーと、1950年代の左翼文化運動全般に視野を広げており、『運動体・安部公房』以上の労作である。

 共産党員時代の安部公房が党の指令で下丸子の労働者の文化活動の指導にあたっていたことは年譜にあるが、『安部公房全集』月報に載った『下丸子詩集』編集発行人のインタビューくらいしか手がかりがなかったので、具体的にどういう成果をあげていたのか見当がつかなかったし、サークル詩がどういう拡がりをもっていたのかもわからなかった。

 鳥羽によると1950年代前半には「サークル誌」と呼ばれるガリ版刷りの雑誌が各地で族生し、サークルどうしのネットワークで全国的に流通し、『人民文学』のような中央の雑誌が優秀な作品を掲載して広く知らせた。そこまでは同人誌と同じだが、同人誌が作家で身を立てたいインテリのものだったのに対し、サークル誌の担い手は労働者であり、貧困や困難を書き記す生活記録としての性格を強めていき、「へたくそ」に独自の価値を見いだしていったという。

 労働者たちの創作は危機感をあおる紋切り型におちいっていき、高度経済成長とともに生活条件が向上すると運動は退潮していったが、労働者と接触した作家たちには多大の刺激をあたえていた。安部公房がシュールレアリスムのシュール(上へ)をサブ(下へ)に転倒したサブレアリスム(現実の底を潜り抜けていくリアリズム)を提唱していたことを不勉強にもはじめて知った。

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2009年10月21日

『ルードウィヒ・B』 手塚治虫 (潮出版社)

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 『ル-ドウィヒ・B』は「コミックトム」に1987年6月号から1989年2月号まで連載された未完の長編である。2月号が店頭にならんだ一ヶ月後、手塚治虫は61年の生涯を閉じている。『ル-ドウィヒ・B』は手塚の絶筆作品の一つとなった。

 「コミックトム」は「希望の友」を前身とする創価学会系の子供向け雑誌で、横山光輝は『三国志』を15年、『項羽と劉邦』を5年の長きにわたって連載した。手塚も『ブッダ』を12年間連載している。ベートーヴェンの前半生を描いた『ル-ドウィヒ・B』は『ブッダ』につづく伝記漫画で、もし手塚が長生きしていたらベートーヴェンの全生涯をカバーした大河漫画になっていただろう。

 講談社全集版では二巻にわけて収録されているが、ハードカバー一冊の潮出版版で読んだ。この版では冒頭の七頁がカラーで印刷され、巻末にウィーンのベートーヴェン旧居を訪ねた絵入りエッセイと萩尾望都による解説が付されている。

 ベートーヴェンについては多くのエピソードが伝わっており、伝記作家は材料に事欠かないが、手塚はドラマに緊迫感をもたせるためか、生涯を通した敵役――フランツ・クロイツシュタイン公爵を登場させている。

 『アマデウス』のサリエリのような役回りだが、サリエリは実在の人物であるのに対し、クロイツシュタイン公爵は手塚の創作である。モデルになった人物もちょっと思い浮かばないが、強いてモデルをあげるとしたら仏伝の敵役、提婆達多だろうか(『ブッダ』ではダイバダッタとして登場)。

 『ブッダ』のダイバダッタは逆恨みの権化だったが、フランツ・クロイツシュタイン公爵はそれに輪をかけた逆恨み男である。ルードウィヒという名前の孔雀のせいで母親が死んだと思いこみ、ベートーヴェンの名前がルードウィヒだという理由だけで執拗に意地悪をくりかえすのだ。ベートーヴェンにふりかかる災難はすべて公爵の差し金とされており、難聴になったことまで彼の責任になっている。

 いかにも漫画的なドラマ作りだが、史実のベートーヴェンは嫌みの固まりのような男だったので、これくらい強烈な敵役をぶつけないと読者の共感を呼べないと判断したのかもしれない。

 フィクションの中におなじみのエピソードを巧みに織りこんでいるが、残念なことに終わりに近づくにしたがってストーリー展開がざつになっていく。ハイドンとのからみなどはもっと描き方があったと思うが、手塚には余力が残っていなかったのだろう。

 もっとも病状的に一番きつかったと思われる時期に、クロイツシュタイン公爵家にベートーヴェンを撮影したビデオテープ(!)が残っていたという設定で、コマ割りで見せるという遊びをやっている。手塚はアニメの大作を作る一方で実験的なアニメを作りつづけたが、亡くなる直前の時期でも実験を試みていたのはすごい。

 ベートーヴェンが30歳になり「月光ソナタ」を作曲したところで終わっているが、30歳になってもベートーヴェンは子供のままの顔で描かれている。『ブッダ』でもずっと子供の顔のままで、成道してからやっと大人の顔(老人の顔?)になったが、ベートーヴェンもいずれ大人の顔に描かれたのではないか。それは放蕩者の甥が出てくるあたりだろうか、完全に聴力を失ったあたりだろうか。

 未完で終わったのは残念だが、描かれなかった後半を想像するという楽しみもある。

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『ネオ・ファウスト』1&2 手塚治虫 (講談社)

ネオ・ファウスト1
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ネオ・ファウスト2
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 手塚が三度試みた『ファウスト』の漫画化の最後で、絶筆作品の一つでもある。

 亡くなる前年の1988年1月から「朝日ジャーナル」に連載をはじめ、同年11月11日号で第一部が完結している。一ヶ月あけて12月9日号から第二部にかかったが、第二回で中絶した(講談社版全集下巻は第二部の最後に七頁目までできていた第三回の絵コンテを掲載し、「あとがきにかえて」には同年9月に朝日カルチャーセンターでおこなった講演から本作に関する部分を抜粋している)。

 今回の舞台は学園紛争で騒然としていた1970年の日本だ。ファウストにあたる一ノ関博士は70歳の老学究で、メフィストはヒッピー・ファッションに身を包んだ妖艶な美女である。マルガレーテにあたるまり子は博士の大学の学生で、兄が公安刑事なのに学生運動に心を寄せているが、坂根という得体の知れない助手とつきあっている。

 死の前年に描きはじめられたとは思えないくらい力のこもった出だしで、まり子もメフィストも色っぽく描かれている。一ノ関博士の貫禄もなかなかのものである。

 博士はスト中の大学の研究室で、あと30年生きられたら宇宙の真理を解き明かせるのにと嘆くが、そこにまり子に化けたメフィストが登場し、博士に余命が5分しかない、宇宙の真理が知りたければ今すぐ契約書にサインしろと迫る。

 博士は5分で死ぬなら真理を知ったところで無意味だ、それくらいなら20歳に若返らせろと条件をつける。メフィストは承諾する。

 契約が成立するやメフィストは博士を股にはさんで時間をさかのぼり、博士が20歳だった1920年に向かうが、博士が暴れたために1964年に不時着し、それからすこし先に進んで1958年4月1日に落ち着く。

 1958年4月1日は売春防止法が施行された日である。メフィストは閑散とした赤線に博士を連れていき、最後の稼ぎをしようとする売春婦に老いた身のまま挑ませ、敗北感を味わわせる。老いのつらさを思い知った博士は胎児の黒焼きから作った怪しげな若返りの秘薬を飲み干すが、薬が強すぎたために若返えったはいいが、すべての記憶を失ってしまう。

 こうして20歳に若返った博士は1958年以降の昭和史を別の人間として生きなおすことになるが、別の人間というのが1970年のくだりで登場したある人物で、タイムパラドックスものの趣向をとっている。

 1958年から1970年にかけての日本は高度成長期だったから、いくらでも話を膨らませることができたはずだが、未発に終わった東京湾干拓事業が出てくるくらいで、あっさり1970年までもどってしまう。第一部の後半は明らかにストーリー展開を急いでおり、前半の緻密さがなくなっている。手塚に時間があったら、話がもっと広がっただろう。

 第一部と第二部の間の一ヶ月間のブランクは手塚が胃癌で倒れ、緊急入院した時期にあたるようだ。入院中は危篤状態になったとも伝えられているが、そんな状態にもかかわらず第二部を開始した手塚の漫画に賭ける意欲には脱帽するしかない。

 「あとがきにかえて」には、ギリシャ神話の世界にはいっていく条を地球の歴史を古生代から地球誕生へと遡行していく旅におきかえるという構想が明かされている。この構想が実現していたら『ネオ・ファウスト』は『火の鳥』に匹敵するスケールをもちえたかもしれない。かえすがえすも残念である。

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2009年10月20日

『ライオンブックス(5)』 手塚治虫 (講談社)

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 講談社全集版では「ライオンブックス」シリーズ第五巻として収録されているが、中味は1971年に「少年ジャンプ」に連載された『百物語』である。

 手塚治虫はゲーテの『ファウスト』を三度漫画化したが、『百物語』は二度目にあたる。舞台は江戸時代の東北地方に移され、主人公のファウストは一塁半里という下級武士、メフィストフェレスは娘に化けた妖狐として登場する。一塁半里という名前ははハインリヒ(半里)・ファースト(一塁)の語呂合わせで、変身後は不破臼人ファウストと名乗るようになる。完全に時代劇に換骨奪胎されていて、作品の完成度は三つの中では一番高い。

 物語は勘定方の下っ端の一塁半里がお家騒動に巻きこまれ、切腹させられるところからはじまる。一塁は武士とはいっても剣術はさっぱりの意気地なしで、死ぬのが怖くてたまらず、風神の屏風に「死なないでいいんならタマシイを売ってもいいからよォ」と愚痴る。

 それを聞いていたむく犬が切腹の場に駆けこんでくる。むく犬は一瞬狐の正体をあらわしたかと思うと妖艶な娘の姿をとり、スダマと名乗る。スダマはタマシイとひきかえに三つの願いをかなえてやろうと一塁にもちかける。

 切腹しないですむのだから否も応もない。一塁は「たっぷり人生を楽しむ」、「天下の美女を手にいれる」、「一国一城のアルジになる」ことを条件にタマシイを売る契約を結ぶ。

 あわやのところで命拾いした一塁はイケメンに変身し、不破臼人と名前を変えるが、剣術は弱いままだ。スダマに苦情をいうが、三つの願いに「強くなる」を入れなかったのが悪いと突き放される。

 実の娘に恋されたり、恐山に巣くう玉藻前という女妖怪に精を抜かれそうになったりと不破はバカをくりかえすが、いざかなってしまうと欲望は虚しい。彼は努力をして剣術を修行するようになり、人間的に成長していく。スダマはそんな不破に引かれるようになる。

 修行の甲斐があったのか、物語の大詰では不破は晴れ晴れと腹を切る。不破の骸から抜けだした魂をスダマは一度は抱きとり、いとおしそうに頬ずりするが、最後は悪魔の掟を破って解放してやる。この場面はただただ美しい。

 原作では自分がかつて裏切って絶望の淵に突き落としたマルガレーテの許しがファウストに救いをもたらしたが、『百物語』では修行で煩悩を克服していく不破の姿にスダマ=メフィストがほだされるのだ。

 キリスト教徒は別として一般の日本人には原作が高らかに歌いあげる恩寵は理解の外ではないか。知識としてわかったつもりになっても、腑に落ちることはないと思う。1950年版の『ファウスト』ではとってつけたような救いで終わっていたが、あれがウソであることは手塚自身よくわかっていただろう。

 救いをリアリティのあるものにするために、手塚が選んだのは煩悩と解脱という仏教的な救済譚に換骨奪胎することだった。『ファウスト』の二度目の漫画化を時代劇に仕立てたのは必然だったのである。

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2009年10月19日

『ファウスト』 手塚治虫 (講談社)

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 ゲーテの『ファウスト』の漫画化で、1950年に書下ろし作品として発表された。大人の読む文学作品を漫画にした例はそれまでなく、後の世界名作漫画ブームの先駆けとなったといわれている。

 手塚治虫は『ファウスト』を三回漫画化している。本作と1971年連載の『百物語』、絶筆の一つとなった1988年連載開始の『ネオ・ファウスト』である。ファウストは手塚が生涯追求しつづけたテーマとされている。

 いつかは読もうと思っていて今回ようやく読んだのであるが、有名なエピソードは一応抑えているものの、原作とは別物で、「どこがファウスト?」というのが第一印象だった。これだったら『罪と罰』の方がまだ原作の匂いを伝えている。

 原作ではメフィストは人間に理性をもたせることの是非を神と議論し、理性の権化であるファウストを悪の道に引きずりこめるかどうかという賭を神にもちかけるが、手塚版のメフィストは孫悟空のように天上界で大暴れして捕まり、傲慢の鼻をへし折るために下界に送られる。そんなに力があると思うならファウストを悪の道に引きこんでみろというわけだ。原作はファウストが試される話だったのに、手塚版ではメフィストの力が試される話にひっくり返っている。

 手塚版ではファウストの影が薄い。理由ははっきりしている。ファウストに悪事を犯させないからだ。

 原作では若返ったファウストは酒場で乱暴狼藉をはたらき、清純なマルガレーテを妊娠させ、あろうことか彼女に嬰児殺しの罪をかぶせて獄死させてしまう。そういう裏切りをおこなったファウストが最期はマルガレーテに救われるのである。マルガレーテのエピソードを割愛したら『ファウスト』ではなくなるではないか。子供向けでは刺激が強すぎるということかもしれない。

 ファウストの影が薄い一方で、メフィストは可愛らしい黒犬の姿で登場して大活躍する。手塚は主人公をメフィストに変えているのだ。

 「あとがき」を読んで謎が解けた。手塚はエルショフの原作によるソ連製アニメ『せむしの仔馬』を見て感銘を受け、その影響が決定的だったというのである。

 「せむしの仔馬」の美術デザインの影響が、この「ファウスト」には、かなり顕著にあらわれています。また、設定もかなり「せむしの仔馬」的です。まず、悪魔のメフィストフェレスは、この作品では終始黒犬で登場しますが、原作ではご存知のとおり、最初のくだりにちょいと出てくるだけです。つまり、「せむしの仔馬」のイワン少年と仔馬のコンビネーションが、この作品ではファウストと黒犬という関係になっているのです。ファウストが黒犬にまたがって空を飛ぶところなんか、これはもう完全に「せむしの仔馬」です。

 『火の鳥』も『せむしの仔馬』の影響を受けているそうだし、最晩年には『青いブリンク』として『せむしの仔馬』の再アニメ化にとりくんでいる。手塚が生涯追いつづけたのは『ファウスト』ではなく、『せむしの仔馬』だったということか。

 講談社全集版『ファウスト』には「赤い雪」が併録されている。

 「赤い雪」は1955年に「少女の友」に連載された中編で、赤い雪が降った日に生まれたばかりに魔女あつかいされてきた少女が歌の才能を発揮し、王子様と結婚してめでたしめでたしとなる話だが、ソ連製アニメ『氷の女王』の影響が濃厚である。

 この作品が「ファウスト」に併録されたのはソ連製アニメという括りからだろうと思われる。手塚治虫におけるソ連製アニメの影響はきちんと論じられる必要がありそうだ。

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2009年10月18日

『罪と罰』 手塚治虫 (講談社)

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 手塚治虫は1952年に医師免許を取得してから大阪から東京に居を移し、プロの漫画家として八面六臂の活動をはじめるが、ちょうどその頃、書下ろし作品として執筆したのが本作である。

 ドストエフスキーの漫画化だが、同じ原作ものにてしても1950年の『ファウスト』は当たったのに、こちらはさっぱり売れなかったらしい。

 それでも年齢の高い読者の受けは非常によかったそうで、「これほど学生やおとなの読者から、おほめの言葉をいただいたものはありませんでした」と述懐している。

 世評がいいのは知っていたが、まだ漫画が子供向けの娯楽だった時代に描かれた『罪と罰』はたいしたことあるまいとたかをくくっていた。今回はじめて読んだが、なかなかやるじゃないかというのが第一印象だった。

 長大な原作をたった130ページにまとめたのだから、大胆な省略と改変がおこなわれている。神学的な議論は跡形もなく削られ、ラスコーリコフの葛藤は犯行が発覚するかもしれないというサスペンスに単純化されている。

 はっきり言って原作とは別物だが、首尾一貫した作品になっているのはさすがである。

 ただ、どうしょうもなく古い部分もある。

 原作では悪徳資本家だったはずのスヴィドリガイロフが手塚版では颯爽たる革命家になっており、クライマックスではラスコーリニコフに金持ちの側につくか労働者の側につくか決断を迫り、ついには労働者を扇動して武装蜂起に踏み切る。『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段のようなコマも出てくる。

 最後にラスコーリニコフが群衆から孤立するのは同じだが、原作では魂の問題に目覚めて孤立したのに対し、手塚版では革命についていけない遅れた人間として民衆からはじき出されている。

 ドストエフスキーは『悪霊』で革命家グループを狂信的なテロ集団として描いたが、『罪と罰』でも革命運動に対する懐疑が濃厚である。ところが手塚治虫は『罪と罰』を原作とは正反対の革命礼賛漫画にしているのだ。

 手塚が革命運動を本気で礼賛していたとは思えない。なぜ魂の問題が革命の問題にすりかわってしまったのだろうか。

 推測だが、手塚が革命礼賛のポーズをとった背景には、まだ市民権をえていなかった漫画を一生の仕事として選んだことが関係しているのではないか。当時は左翼全盛時代だったから、革命礼賛のポーズをとっていれば漫画家でも文化人としてあつかってもらえると思ったのではないか。

 そもそも『罪と罰』を漫画化するという無茶な企画自体、漫画をなんとかして芸術として認知させたいという下心が働いていなかったとはいえまい。若い人には想像もつかないだろうが、この作品が描かれたのはそういう時代だったのである。

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2009年10月17日

『雑巾と宝石』 手塚治虫 (講談社)

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 先日、名画座で「襤褸と宝石」という1936年のハリウッド映画を見た。自尊心に振りまわされる男女をコミカルに描いた痛快なコメディで、すっかりファンになってしまった。

 書店の手塚治虫コーナーを物色していると、どこかで見たようなタイトルを見つけた。本書、『雑巾と宝石』である。表紙が洋画っぽいし、ひょっとしたら『襤褸と宝石』の漫画化か。セロファンで中味がわからなかったが、とにかく買ってみることにした。

 読んでみると――1955年から1969年にかけてサラリーマン向け週刊誌に掲載された作品を集めた短編集だった。「あとがき」によると、表題作の「雑巾と宝石」は確かに『襤褸と宝石』の原作小説にあやかったものだったが、手塚が興味をもったのは邦題の「襤褸」と「宝石」という対比だけで、中味はまったくの別物だったのである。

 表題作の「雑巾」はヒロインの地味なOL、「宝石」は男前のスター俳優をあらわしている。普通だったら出会うはずのない二人が交通事故で出会うわけだが、自動車に頭をぶつけると醜女が美人に変わり、男前の俳優が醜男に変わるという設定で行き違いのコメディになっている。美醜にこだわる世間をからかった風刺的な作品である。

 1957年の連載で、手塚としてははじめての「ヤングもの」である。続編を依頼されるほど人気があったそうだが、今読んでどうだろうか。

 表題作以外の感想も簡単に書いておく。

「第三帝国の崩壊」

 1955年に「漫画読本」に発表。「モダンタイムス」風の独裁者風刺漫画。コマ割を使わない実験的な手法が見どころか。

「昆虫少女の放浪記」

 1955年に「漫画読本」に発表。アリに体液を吸わせて共存するアリマキの少女を売春婦に見立て、売春防止法とからめた風刺漫画。

「スター・ダスト」

 1965年に「漫画読本」に発表。UFOが排泄物を地球に落としていくが、その中から宝石が見つかるという星新一にありそうな話。

「日付健忘線」

 1967年に「漫画読本」に発表。国境にこだわる大人をからかった風刺漫画。小島功のお色気マンガをかなり意識している。

「アポロはなぜ酔っ払ったか」

 1969年に「漫画読本」に発表。これも小島功風の色っぽい絵である。奈良林ならぬ奈良森先生に人生相談するという趣向で、ホステスに振りまわされた男の悲哀を描く。

「われ泣きぬれて島と」

 1966年に「漫画読本」に発表。船から身投げした男が絶海の孤島に漂着して生きのびる話に水爆実験をからめている。初期のモンキーパンチの絵柄に似ている。

「やぶれかぶれ」

 1966年に「漫画サンデー」に発表。絶対に墜落しない飛行機を作ったら着陸もできなくなっていた。それをどう着陸させるかに、女性をどう落とすかをからめたギャグ漫画。

「怪談雪隠館」

 1969年に「漫画サンデー」に発表。手塚本人がカンヅメになるために山奥の旅館に泊まるが、そこはアダムス・ファミリーのような化物家族が経営する宿だったというオチ。

 こんな作品まで描いていたのかという驚きがある。劇画誕生以前の大人向け漫画がどんなものだったか知りたい人には貴重な作品集だろう。

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2009年10月16日

『鉄の旋律』 手塚治虫 (講談社)

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 表題作の中編と短編二編を収録した作品集である。

 まず、「鉄の旋律」。「増刊ヤングコミック」に1974年6月から半年にわたって連載されたどろどろの復讐譚である。米原秀幸によって『Dämons』としてリメイクされていることで知られているが、まったく救いがない。

 檀の妹の亜理沙は檀の親友でエディというイタリア系アメリカ人の好青年と婚約する。檀は渡米して盛大な結婚式に出るが様子がおかしい。それもそのはず、エディはマフィアの御曹司だったのである。

 檀はたまたま目撃した殺人事件をFBIに証言するが、ファミリーの係わった事件だったために裏切者と決めつけられる。エディに助けを求めるが、彼は冷たく突き放すだけだ。檀は荒野で両腕をトロッコで切断され放りだされる。

 檀は復讐を誓うが、両腕を失って何ができるというのか。そんな時、彼はスラムでベトナム復員軍人のバーディと知りあう。バーディは両脚を失っていたが、ロボットのような松葉杖のおかげで常人を越えた力を発揮していた。

 驚いたことにその松葉杖は単なる鋼鉄の棒で、何のしかけもなかった。バーディはPK(念動力)で松葉杖をあやつっていたのだ。

 檀はバーディにマッキントッシュ博士を紹介してもらい、死に物狂いでPK能力の訓練を受け、鋼鉄製の義手を自由自在にあやつれるようになる。

 エディと亜理沙はファミリー企業の日本進出のために日本にもどっていたので、檀も彼らを追って日本にもどる。いよいよ復讐にとりかかろうとした矢先、彼が眠っている間に義手が勝手に復讐をはじめたことを知る。彼の潜在意識が知らないうちに義手を動かしていたのだ。鋼鉄の固まりの義手が意識のコントロールをはずれて動きだす恐怖。結末は徹底して暗い。「鉄の旋律」は「鉄の戦慄」でもあるだろう。

 「白い幻影」は1972年に「女性セブン増刊号」に発表された短編。連絡船の沈没でヒロインは恋人の則夫とともに海に投げだされる。彼女は救助されるが、則夫は行方不明になる。

 自分だけ助かったという罪悪感のためか、彼女の目には則夫の最期の姿が焼きつき、幻影を振り払うことができない。彼女は則夫の幻影とともに生きることを選び、独身のまま老境をむかえる。

 ある日、昔の海難事故で記憶喪失になったという初老の男が妻とともに訪ねてくる。唯一記憶に残っている少女を探しているのだという。彼女は心当たりはないと答え、心の中で則夫の幻影に別れを告げる。すべては彼女の一人相撲で、彼女は人生を棒に振ったわけだ。

 「レボリューション」は1973年に「漫画サンデー」に発表された怪談話で人格転換をあつかう。これもまた救いがない。

 『ブラック・ジャック』で復活する前の低迷期の作品だけに三編とも暗いが、このようなところまで突きつめていたから『ブラック・ジャック』のヒューマニズムに奥行が生まれたのではないか。

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2009年10月15日

『奇子』1-3 手塚治虫 (講談社)

奇子1
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奇子2
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奇子3
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 奇子と書いてアヤコと読む。アヤカシのアヤだろう。

 「ビッグコミック」に1972年1月から1年半にわたって連載された長編で、最初の構想では『カラマーゾフの兄弟』のような大河漫画になるはずだったが、ヒロインの数奇な生い立ちを語り終え、いよいよというところで終わっている。未完で終わったのは残念だが、現状でも十二分に読みごたえがある。

 奇子は青森の大地主天外作右衛門の次娘として生まれたが、それは表向きで、本当は作右衛門が長男の嫁のすえに産ませた子供だった。長男の市郎は天外家の財産を独占させるという口約束を信じて、妻を父親にさしだしていたのだ。

 物語は次男の天外仁朗がフィリピンの捕虜収容所から復員してくるところからはじまる。仁朗は収容所で生きのびるために米軍の内通者になったが、復員後もGHQのエージェントをつづけており、労働運動家の殺害に関与する。返り血を浴びた仁朗は血まみれの服を洗っているところを奇子に見られてしまう。

 労働運動家を殺した手口が、その直後に起きた国鉄の下山総裁事件(作中では霜山総裁)の手口と酷似していたことから、警視庁が注目するところとなり東京から刑事が派遣されてくる。

 スキャンダルを恐れた天外家は親族会議を開き、奇子を死んだことにして土蔵の中の座敷牢に閉じこめることを決める。奇子は6歳から23歳までの17年間、座敷牢の中で暮らすことになる。

 一族のどろどろあり、近親相姦あり、政治的陰謀あり、裏社会の駆引ありで、手塚流の劇画路線の集大成の観があるが、『地球を呑む』から4年たっているだけに手塚流の劇画スタイルを確立しており、完成度が違う。

 ヒロインの奇子がエロチックなのである。『地球を呑む』のゼフィルや『人間昆虫記』の十枝子のヌードはダッチワイフのようにしか見えなかったが、成長した奇子はぞくっとするほど色っぽく肌の火照りが伝わってくる。もし続編が描かれていたが、奇子は十枝子以上の悪女ぶりを発揮していたことだろう。

 奇子が十枝子の後身と考えられる理由はもう一つある。一仕事終えた十枝子は故郷の村に帰り、亡母の蠟人形に全裸になって甘えかかるが、亡母はどう見ても老婆の姿であって、母子というより祖母と孫にしか見えない。

 奇子は長男の嫁が産んだ子供なので、戸籍上の母親は祖母の年齢にあたり、しかも十枝子の年の離れた母そっくりなのである。

 十枝子が亡母の蠟人形に甘えるのは胎内回帰願望といっていいが、奇子は座敷牢育ちのために、何か不安なことがあるとすぐに箱の中にはいってしまう。奇子は十枝子に輪をかけた胎内回帰願望の持主なのである。

 手塚はなぜ強烈な胎内回帰願望をもった悪女をヒロインにすえたのだろう。男が胎内回帰願望をもつならわかるが、女性の胎内回帰は珍らしい。

 わたしの妄想かもしれないが、奇子と十枝子は単なる女性キャラクターではなく、手塚のアニマだったのではないか。手塚は自分の傷ついたアニマを癒すために、胎内回帰で元気をとりもどすヒロインを造形したのではないか。

 『奇子』のラストは炭の貯蔵穴というまさに胎内そのものの密室空間が舞台になるが、彼女はここで第二の誕生を経験する。もし彼女が手塚のアニマだとしたら、手塚は傷ついたアニマの再生を描いたのかもしれない。

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2009年10月14日

『空気の底』 手塚治虫 (秋田書店)

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 「プレイコミック」に1968年から1970年にかけて読みきり連載の形で発表した短編を一冊にまとめたものである。『地球を呑む』と同時期の製作で、この後に『人間昆虫記』がつづく。

 大都社版、講談社全集版、秋田書店版の三種類があるが、一番収録作品の多い秋田書店版で読んだ。劇画調の暗い話ばかりで玉石混淆だが、傑作もすくなくない。

「処刑は三時に終わった」

 元ナチス親衛隊の中尉はユダヤ人虐待で処刑されようとしていたが、すこしも動じない。彼はユダヤ人の天才科学者から時間延長剤という秘薬を手に入れており、処刑の瞬間に逃げだせると思っていたのだ。

 ところが、思わぬ計算違いが……。

 切れ味のいい結末だが、想像すると恐ろしい。

「ジョーを訪ねた男」

 南部出身のガリガリの人種差別主義者の大尉が戦闘で重傷を負い、部下の黒人兵の心臓をもらって生き延びる。黒人の心臓で生かされているという事実を隠すために、事実を知っている遺族のところに口封じにいくが、心臓以前に輸血用の血液は黒人が売血した血だと教えられ愕然とする。輸血用の血液を持ちだすところが医学部出身の手塚の面目躍如だ。

「夜の声」

 休日に乞食になって息抜きをする青年実業家が悪漢に追われたユリという少女を助ける。彼女が好きになった実業家は自分の会社であることを隠して、秘書に応募するように勧める。彼は秘書となったユリに結婚を申しこむが……。

 ユリは手塚が初期に描いていた女の子の顔で、いかにも純朴だが、前科者であることを告白した後はほんのちょっとの変更で、蔭のある表情に。

「野郎と断崖」

 妄想を見せるという崖に迷いこんでしまった脱獄囚の話。残虐無道な犯罪者の心の奥底にもやさしい純なものが残っている。

「グランドメサの決闘」

 西部のガンマンの復讐譚が実はもう一回り大きな復讐譚になっていた。西部開拓時代の終わりという時代の変化で、一捻りしたのが効いている。

「うろこが崎」

 公害もののホラーだが、手塚が売春島に興味をもっていたというのが面白い。

「暗い窓の女」

 近親相姦に悩む男が医者の友人に別の人間にしてくれと懇願する。別の人間になれば妹と結婚できるというのだが、そんなことは出来るはずもなく、物語は悲劇に終わる。近親相姦を医学の問題と考えているところが手塚の限界か。

「そこに穴があった」

 敵対する組の人間を殺し、追われているヤクザが不時着した小型機のパイロットを図らずも助けてしまい、時の人になる。復讐を恐れたヤクザは助けたパイロットに高飛びを助けてくれるように頼むが……。

 凛々しいパイロットの変貌がショッキングだ。

「わが谷は未知なりき」

 ウォード・ムーアの「新ロト記」の後日譚のような話。

「猫の血」

 田舎回りの映画興行師が猫神崇拝の村で美しい娘を見そめ、強引に頼みこんで結婚する。彼は妻を近代的な女に教育するために東京に出るが……。

 ヒロインの猫娘が魅力的に描かれている。映画館の中で村人の目が猫のように光る光景を映像化したら不気味だろう。

「電話」

 内ゲバ事件をヒントにした話。漫画好きの赤学派のリーダーのところに、深夜、未知の女性から電話がかかってきてデートに誘われる。

 待ちあわせ場所に行ってみると、待っていたのは凄まじいブス。誘った女性は対立する青学派の女性活動家で、一ヶ月前に死んだといわれる。

 からかわれたと思ったが、また同じ女性から電話がかかり……。

 この時点で、内ゲバを単なるネタに使っているのは珍らしい。主人公の読んでいる漫画がつげ義春だというのが興味深い。

「カメレオン」

 学生運動でゲバ棒をふりまわしながら、卒業したとたん、企業戦士に化ける世渡りのうまい人種を、手のこんだ復讐劇で本当のカメレオンにしてしまう手塚マジック。

「聖女懐妊」

 土星の衛星チタンの基地で一人観測する南川には女性ロボットという伴侶がいた。二人の仲むつまじい暮しはフォボスの刑務所を脱獄してきた囚人たちによって破壊される。南川は殺され、女性ロボットは酷使されるが、彼女の体にある異変が……。

「カタストロフ・イン・ザ・ダーク」

 事故を防ごうと思えば防げたのに、何もしなかった人気DJが罪悪感から自滅する話。

「ロバンナよ」

 一番いい。人里離れた家で妻と暮らす旧知の天才科学者を訪ねる。科学者はロバンナというロバを可愛がっており、ロバンナもなついている。

 病気で出てこなかった妻は深夜、ロバンナを殺そうとする。夫は妻は狂っているといい、妻は夫は動物しか愛せない不能者だという。

 ところが天才科学者はまったく別の真相を告白する。一口にいえば「蝿男」のロバ版だが、ラスト、妻は科学者とロバンナを殺すために家を爆破する。

「二人は空気の底に」

 冒頭、熱帯魚の水槽の中で愛しあっているグッピーの雌雄が、人間の投げいれた煙草の吸殻で死ぬエピソードが語られる。

 核戦争で人類が滅亡した後、全自動の宇宙旅行用カプセルの中で生き残った。

 男女二人の物語はグッピー同様の悲劇で終わる。

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2009年10月13日

『人間昆虫記』 手塚治虫 (秋田書店)

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 「プレイコミック」に1970年から翌年にかけて連載された長編漫画である。講談社版全集では上巻下巻にわかれているが、ハードカバーで一冊本の秋田書店版「手塚治虫・傑作選集」で読んだ。値段は講談社版とほぼ同じだが、造本がしっかりしていて版型がひとまわり大きい。

 十村十枝子という女性が先輩を食い物にしてのしあがっていくという女版ピカレスクである。

 彼女はまず女優として頭角をあらわし演出に手を広げ、グラフィック・デザインで世界的な賞をとり、小説を書いて芥川賞を受賞する。大企業の重役夫人におさまったかと思うと、海外で写真家として名声を博するという具合である。

 彼女は多彩な才能を発揮するが、実は模倣の才能だけでオリジナリティはなく、評価された仕事も先輩の構想段階の作品を盗んだ結果にすぎない。盗まれた方は腑抜けのようになって落ちぶれるか、彼女を恨みながらも崇拝しつづけるか、盗作を言いたてて崇拝者に殺されるか、悲惨な末路をたどる。

 色と慾にまみれたいかにも劇画的な題材を手塚流の丸っこい絵柄で描いているので、かなり異和感があった。

 手塚の絵は少年漫画の時代からエロティシズムが隠し味になっていたが、そこはかとないエロティシズムだったからよかったので、エロスを前面に出すとなると別である。十枝子は一仕事終えると、隠れ家にしている田舎の家で亡母を形どった蠟人形に全裸になって甘えるが、ヌードの絵がさっぱりエロチックではないのだ。1970年前後の手塚は劇画ブームにすりよろうと無理をしていたという見方があるが、この作品については一理あると思う。

 『地球を呑む』よりは劇画が板についてきたが、エロチックな場面はまだ成功しているとはいえないし、十枝子の勝ち誇った表情もどうかなと思う。だが時おり見せる悔しそうな表情や、見捨てられたような空虚な表情は可愛らしくも魅力的である。

 手塚は悪の魅力を描こうとしたが、悪に徹しきれない弱さの部分で十枝子はようやくリアリティをもちえた。ピカレスクものとしては不徹底である。手塚がヒューマニズムの枠を越えるには手塚劇画の最高傑作『奇子』を待たなければならない。

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2009年10月12日

『地球を呑む』1&2 手塚治虫 (講談社)

地球を呑む1
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地球を呑む2
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 今年は手塚治虫の生誕80周年にあたり、江戸東京博物館で「手塚治虫展」があったり、「鉄腕アトム」がハリウッドで「ATOM」としてリメイクされたり、新しい文庫全集の刊行がはじまったりとにぎやかである。

 「手塚治虫展」を見たが、原画の迫力にうなった。線の躍動感と切れ味のよさは印刷ではわからない。しかも高いレベルが晩年まで持続しているのである。

 作品の拡がりもすごいが、展示を見ていてあることに気がついた。1960年代末に青年向けコミック誌が一斉に創刊され手塚も狩りだされるが、この時期の手塚漫画を読んでいなかったのである。中学から高校の頃で漫画離れしていた時期に当たっていたこともある。それだけではなく、このあたりの手塚漫画は低迷していたとされており、当時話題になることがすくなかったこともあるだろう。

 評価が低いにしてもなぜ低いのか気になり、この機会に読んでみた。まずは「ビッグコミック」創刊号から連載のはじまった『地球を呑む』である。

 第二次大戦中、アメリカ兵が南太平洋の島で異世界に迷いこみ、謎の美女に出会うというラファティの「崖が笑った」のような出だしである。「崖が笑った」はまだ訳されていなかったはずだが、ちょっと似すぎている。ハガードの『洞窟の女王』を南太平洋に置き換えたような、両者のもとになる作品があったのかもしれない。

 謎の美女はゼフィルといい、アメリカ兵は彼女の写真をもって逃げだすが、その写真はアメリカ兵をとらえた二人の日本兵のものとなる。以上が「プレリュード」である。

 この後、舞台は現代の日本に移り、南太平洋の島からやってきたゼフィルが世界企業をあやつって国際的な陰謀をしかける。その陰謀をさぐるために日本兵の息子の五本松が調査を依頼される。男という男はゼフィルの魅力に負けてしまい、言いなりになるが、五本松は酒以外に慾というものがなく、ゼフィルにたぶらかされることはない。こうなるとゼフィルは心穏やかではなく、なんとかして五本松を籠絡しようとするうちに、逆に五本松に引かれはじめる。

 ゼフィルのたくらむ陰謀であるが、法律の大もとである自己同一性と経済の大もとである貨幣を一挙に破壊し、世界を原始時代にかえそうという途方もないほら話なのである。一応復讐譚の体裁をとっているが、現代文明の破壊という結果は動機とくらべて巨大すぎる。こんなほら話は漫画でしか成立しない。

 「あとがき」で手塚は青年コミックという新しいジャンルをはじめるにあたり、他の作家は読切短編を依頼されたのに自分だけ長編という注文に戸惑い、不満だったと書いている。そして危惧したとおり物語がひろがりすぎてしまい、中だるみに陥ったので、一時読切形式に変えたと書いている。

 上巻から下巻の変わり目、12~14章のことを言っているのだろうが、主筋の枠を越えて暴走していき、むしろ一番の読みどころになっている。特に13章の贋家族のエピソードは独立の短編としても傑作である。この暴走部分がなかったら、凡作で終わっていただろう。

 お色気や世界経済をいれたのは大人の鑑賞に耐える漫画を模索していたからだろうが、とってつけたような感を否めない。この作品の読みどころはむしろ中盤の漫画的なはみ出しにあって、まとまりのなさが最大の魅力になっていると思う。

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2009年09月22日

『火天の城』 山本兼一 (文春文庫)

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 映画化された話題作である。信長の登場する小説は枚挙にいとまがないが、安土城を建てた実在の大工の棟梁、岡部又右衛門を主人公にした小説ははじめてだろう。

 安土城は謎の多い建築だが、近年、近世城郭の常識を越えた破天荒な構造だったことが明らかになり、信長の天才の表現という見方も出てきている。その安土城を作る話なのだから、面白くないはずがない。

 又右衛門と信長の出会いの条が秀逸である。信長は桶狭間の戦いの直前、熱田神宮で戦勝祈願をしたことが知られているが、その時、熱田神宮付きの宮大工だった又右衛門に義元の首を載せるための輿を作れと命ずる。信長は戦う前から勝つつもりなのである。

 又右衛門は急いで小さな輿を作りあげて後を追ったが、途中、凱旋してくる信長軍と出くわす。

 今川義元のお歯黒首が、輿にとりつけた三方に置かれ、首の根が味噌で固定された。四人の足軽が輿を担いだ。

 もちろん、このエピソードはフィクションだろうが、「首の根が味噌で固定された」というディティールにはっとした。そんな習わしがあったのかどうかは知らないが、味噌は兵糧として常備品だったし、傷薬としても使われていた。生首を味噌で固定するという記述にはリアリティがある。

 又右衛門は信長に重用され、数々の城普請をまかされるようになる。史実の又右衛門は武装して合戦にしたがい、工兵隊長のようなことをしていたらしいが、この小説の又右衛門は大工の棟梁の分を越えていない。

 大工は建築家であるから理詰めであり、数字で考える。安土城のような大きな普請では職人を住まわせるための長屋を大量に建てなければならない。長屋を建てるには坪あたり二石の木材が必要になる。付属の御殿は坪あたり八石、天主は坪あたり十二石で、いずれにせよ膨大な木材を調達しなければならない。

 問題は三本の通し柱である。五層の天主の通し柱に使えるような木など、なかなかあるものではない。あるとしたら木曾だが、木曾は武田方の木曾義昌の領地である。又右衛門は無理を承知で義昌に頼みに行くが、義昌は意外にも協力を約束してくれた。義昌は信玄の娘を娶り武田一門につらなっていたが、落ち目の勝頼が無茶な要求をしてくるので、武田からの離反を考えていた。通し柱の一件は織田方によしみを通じる格好の機会だったのである。

 木曾氏の裏切りは武田家崩壊劇の幕開けとなるが、そうした政治のどろどろを吹き飛ばすように、丸太の急流下りという前半最大の山場がくる。せっかくの巨木も折れてしまっては柱に使えない。急カーブを丸太を無事に通せるか、手に汗にぎる場面がつづく。

 一間の長さの問題も興味深い。通常、一間は六尺であり、武家建築でも六尺半だが、安土城は内裏と同じ七尺なのである。

 六角方の乱波は井戸に汚物を投入するなど小技で工事を妨害するが、蛇石という巨岩を運びあげる機会をとらえて大勝負に出る。スペクタクルとしてはなかなかだが、この後に通し柱の短縮という後半の見せ場が来る。信長の厳命で大砲に耐えられるように壁の厚みを変更したために、天主の骨組が想定以上にで沈下してしまい、通し柱との間に不均衡が生じたのだ。又右衛門は息子とともに沈下量を計算し、通し柱の根本を四寸切りおとす決定を下す。作業は精密を要するために他の職人を締めだし、岡部一門だけでおこなったが、ここははらはらした。

 せっかく完成した安土城だが、本能寺の変で事態は急変する。又右衛門も本能寺に滞在していたが、信長の命令で安土城を守るために寺を脱出する。だが、城は灰燼に帰した。

 誰が安土城に火をかけたのかは謎だが、本作は最も常識的な説にしたがっている。ここであっと言わせてくれたら文句なしだったのだが、終わり方がちょっとおとなしいかなという感想をもった。

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2009年04月29日

『安部公房全集〈30〉1924.03 - 1993.01』 安部公房 (新潮社)

安部公房全集〈30〉1924.03 - 1993.01 →bookwebで購入

 1997年に刊行のはじまった『安部公房全集』がこの3月7日、最終巻の刊行にこぎつけ、12年ぶりに完結した。

 27巻まではほぼ毎月出たが、28巻から間隔が開き、29巻から最後の30+巻までは8年以上かかっている。しかし、補遺篇が182頁、書誌篇が682頁、さらにCD-ROMがつくという充実ぶりで、8年かかったというのは納得できる。

 安部公房のファンだったり安部公房を研究したいという人で、全30巻をそろえる余裕がないという人は本巻だけでも入手しておいた方がいい。近代日本作家の全集としては例のないくらい充実した書誌が図書館から全集を借りる時の道しるべになってくれるし、付属のCD-ROMはほとんどの図書館では貸し出しに制限があるからだ。CD-ROMには書誌データのみならず、フォトギャラリー、音声、初版本のすべての装釘、伝記資料の宝庫と言うべき「贋月報」の既刊分がおさめられており、安部公房に関心のある人にとっては必須のアイテムである。昨今の出版情況からいって、おそらく増刷されることはないと思われるので、在庫があるうちに買っておくことを強くお勧めする。

 内容を見ていこう。

 補遺篇ではなんといっても新発見の埴谷雄高宛書簡が興味深い。全部で19通あるが、なんと1947年9月7日付の最初の書簡が含まれており、文学史の一場面に立ち会ったような興奮をおぼえた。

 花田清輝宛書簡は2通だけだが、従来、距離ができていたと考えられていた時期に『第四間氷期』の好意的な書評に感謝したり親しく家を訪ねていたことがわかり、これも興味深い。この時期はまた共産党との関係が決裂した時期でもあるから、たった2通とはいえ今後重要な意味をもってくるのではないか。

 意外だったのは『砂の女』刊行の半年後に映画化のための梗概を書いていたことだ。しかも主人公はアメリカ人であり、細部がかなり違う。映画『砂の女』関係の資料は2007年に開かれた「勅使河原宏展」でも展示されていたが、関係者が健在なうちに映画完成までにどのような経緯があったの、誰か調べてくれないだろうか。

 書誌篇には詳細な年譜と娘の安部ねり氏による「安部公房伝記」が重要である。「伝記」では安部公房の祖父母が北海道に出奔した事情にまで立ち入っている。「贋月報」とあわせ読むと、安部公房が実は旧制高校的な友情の人だったことがわかる。

 最後の「贋月報」には三浦雅士氏による全力投球の安部公房論が掲載されている。

 安部公房は1951年に共産党に入党し、1961年に除名されるまでの10年間、共産党員だった。1956年の東欧旅行以降、共産党との関係が険悪化するが、それまではすくなからぬ文学者を入党させるなど熱心に党の活動をおこなっていた。当然、党活動は作品にも反映していて、マルクス主義を生な形でもりこんだ図式的な作品が目につく。

 三浦論文を一言でいうなら、マルクス主義から安部公房を救いだすための試みといえる。三浦氏は十代の安部公房のリルケ体験に注目する。十五年戦争期、日本ではリルケが流行していたが、それは大山定一流のセンチメンタルなリルケだった。三浦氏は安部の最初期の作品を手がかりに、安部のリルケの読み方が同時代のセンチメンタルな読み方とは一線を画す言語論的な読み方だったことを示す。安部は後のハイデガー的なリルケ理解を先取りしていたというわけである。

 三浦氏はついで中期・後期の安部公房のテーマが言語論的・ハイデガー的リルケ体験の発展にほかならないことを示す。名辞の剥ぎとられた世界は安部の生涯をつらぬくテーマだったのだ。こうした展望に置き直すと、安部公房におけるマルクス主義は本質的なものではないことが明確となる。

 三浦論文に反発する人も出てくるだろうが、意を同じくするにせよ、反発するにせよ、ここに示された読み方が今後の安部公房研究を方向づけることになるのは間違いないだろう。

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2007年04月25日

『信長燃ゆ』 安部龍太郎 (新潮文庫)

信長燃ゆ(上)
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信長燃ゆ(下)
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 本能寺の変の真相については諸説あるが、近年、朝廷陰謀説が人気がある。信長に既得権益の破壊者を期待する小泉前首相的な読み方には古い権威の象徴である朝廷と対決し、つぶされたとする解釈が一番整合するからだろう。すくなくとも、怨恨説よりスケールが大きく、信長がより大物に見える。

 本作は朝廷陰謀説の集大成といっていいかもしれない。小説としても面白い。

 織田家の遠祖は神官とされており、先代の信秀の時代から朝廷に分不相応な献金をおこなってきた尊王の家系であり、信長自身、朝廷によって何度も危機を脱している。しかし、晩年の信長と朝廷の間に対立があったことは御所の隣で軍事パレードというべき馬揃を天正九年に二度もおこなったことからいっても、朝廷が国師号をあたえた快川和尚を焼き殺したことからいっても、間違いないと思われる。

 ただし、陰謀で殺さなければならないほどの危機感を朝廷側がいだいていたかどうかは議論がわかれるし、仮に危険視していたとしても、本能寺の変を演出するような力が朝廷側にあったとは考えにくい。

 本作はこうした疑問に対して説得力のあるストーリーを組み立てている。光秀が謀反に踏みきった動機として、秀吉に対する焦りが云々されることが多い。近年有力な四国問題が変の背景にあったという説にしても、長宗我部に加担した光秀が反長宗我部工作をおこなった秀吉に負けたと説明されている。

 しかし、信長から見た場合、光秀を失脚させて秀吉一人勝ちの状況を作るのは危険である。変後の動きを見てもわかるように、秀吉に対抗できる家臣は光秀しかいなかった。秀吉に筑前守、光秀に日向守の名乗りを同時にあたえたことからわかるように、信長は両者を拮抗させて使う意向だったろう。

 本作の信長は光秀にずいぶん気を使っている。四国問題にしても、信雄の副将に光秀の娘婿の織田信澄をあて、長宗我部が土佐一国に甘んじるなら本領安堵するつもりだったとしている。あくまでフィクションだが、信長の心の動きは納得できる。

 近衛前久と信長の葛藤の描き方もリアリティがある。朝廷陰謀説では近衛前久が朝廷側の黒幕とされることが多いが、前久は信長ときわめて親しく、最後まで関係がよかったことがわかっており、朝廷陰謀説の有力な反証とされている。しかし、表向きの関係がよくても、心の裏側まではわからない。心の裏側を描くのは小説の独擅場である。

 もう一つ特筆すべきは小説にだけ可能な手法によって朝廷の奥の手に光をあててている点である。

 朝廷側の奥の手とは女官である。天皇の意向は側近にはべる女官たちの女房奉書として伝えられることが多かった。女官が勅使として派遣される例もすくなくなかった。女官は天皇の外交官として政治の表舞台だけでなく裏舞台でも活躍していたのだ。

 近衛前久が朝廷側の切札として送りこむのは、あろうことか皇太子である誠仁親王の夫人で、後光厳天皇の生母である勧修寺晴子(後の新上東門院)である。家柄的に皇后にこそなれないものの、皇太子妃といっていい立場の女性を信長にさし向けたのだ。

 この時代、朝廷の因習に反発し、信長に憧れる公家がすくなからずいた。前久の嫡男の信基がその代表だったし(実際に信長の近く侍っていた)、前久自身にもその傾向があった。そして、本作に登場する勧修寺晴子も信長に魅せられ、皇太子妃としてはあるまじき行動に出る。戦前だったら不敬罪ものだ。

 もちろんフィクションにちがいないが、読んでいる間はひょっとしたらという気分になり、皇太子妃の危ういロマンスに一喜一憂させられる。

 すぐれた作品だが、不満がないわけではない。朝廷方の人物は生き生きと書けているのに信長以外の織田方の武将の影が薄く、単なる将棋のコマにしか見えないのである。明智光秀が人物として生きていたら本作は傑作になっていたろう。

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2007年04月23日

『信長の棺』 加藤廣 (日本経済新聞社)

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 本能寺の変後、信長の遺体が見つからなかったことは変の背景とともに日本史上のミステリーとなっている。本作はその謎解きに挑戦した話題作で、今年の正月にはTVドラマになっている。

 本能寺の変と信長の遺体の行方の謎解きを試みた小説はこれまでにもあったが、本作が卓抜なのは『信長公記』の筆者、太田牛一を探偵役にしている点である。

 太田牛一はただの物書きではない。若い頃は弓衆として従軍し、中年になってからは事務官僚として信長に近侍し、晩年は秀吉の側室の松の丸殿や秀頼の警護役となっている。信長のそば近くに仕えていただけでなく、第一線の戦闘員として合戦を経験し、秀吉政権の中枢にも近かったのである。『信長公記』は第一級の史料とされている。

 TVドラマ版では松本幸四郎が牛一を演じていたが、とってつけたようにチャンバラ場面がはさまれ、本当はどうなのだろうと思った。原作を読んだところ、チャンバラはなかったものの、すべて会話で説明してしまうという素人くさい書き方をしていた。エピソードを積み重ねて物語を進めるという基本ができていないので、TV版は無理矢理チャンバラ場面を挿入したのだろう。最後の謎解きも、牛一が生命を助けた女の縁ですべてを知る人物から真相を解説してもらうという書き方だった。

 会話の説明ですますのは小説として稚拙にすぎると思うが、作者の加藤廣氏はもともとエコノミストで、小説ははじめてのようだから仕方なかったのかもしれない。

 小説としてはお粗末だが、謎解きとしてはなかなか面白かった。基本的には朝廷謀略説だが、本能寺と信長が保護した南蛮寺が近い点に注目し、抜け穴があったが、その抜け穴を掘ったのが秀吉の息のかかった鉱山技術を持つ山の民だったために、明智の謀反をいちはやく摑んだ秀吉が遮断を命じたとする。朝廷の陰謀だけなら逃げられたが、秀吉が逃げ道を塞いだので信長は横死したというわけで、二段階謀略説といえよう。

 ちょっと気になったのは、秀吉が『信長公記』を検閲したことになっている点だ。牛一は崇敬する信長の伝記を書くために準備をしていたが、それを聞きつけた秀吉が大金を積み、自分の文庫に納めるために書くように命じる。牛一は完成した稿本を伏見に持参したが、秀吉は目の前で読みあげさせ、牛一の記述にいちいち突っこみをいれる場面がTV版の中盤の見せ場になっていた。牛一は触れずにすませたかった信長の残酷な面を加筆させられてしまうが、秀吉に復讐するように、一度文庫に納めた稿本に秀吉が書く必要なしとした永禄十一年の上洛以前を描いた「首巻」をこっそり追加する。『信長公記』の構成上の問題を逆手にとったのはいい着眼である。原作ではどうなっているのかと思ったら、ほぼTV版の通りだった。

 『信長公記』に異本が多い点、信長の事績を顕彰するために書かれたはずなのに、信長の残虐行為に触れている点を謎解きしようとしたのだろが、そもそもそれが謎なのだろうか。

 作中の牛一は「後の世にいくつもの異なった『信長公記』が流布し、作者としては、とんだ恥さらしになるわ」と、「首巻」のない写本や秀吉の検閲前の稿本が流出したことを地団駄踏んで悔しがっているが、藤本正行氏の『信長の戦争』によれば、牛一自身が盛んに異本を作っていたのである。

 『信長公記』は明治になって活字化されるまでは一度も印行されたことがなく、もっぱら写本で伝わったが、晩年の牛一は有名人だったので、大枚の謝礼を払っても牛一自身の手になる写本を求める人がすくなくなかったという。牛一は半ば記憶で書き写したらしく、間違いというか異文が多かったし、依頼者によってはその家に係わる記述を増やすというようなサービスまでおこなっていた。牛一は中世人であり、牛一や『信長公記』を近代的な尺度でとらえようとするのは正しくない。

 『信長の戦争』に詳しく書かれているが、『信長公記』の真価が最近までわからなかったのは近代的な偏見によるものらしい。

 太田牛一の没した翌年、小瀬甫庵という医者が『信長記』というまぎらわしい題名の信長の伝記を刊行する。『信長記』は『信長公記』を「増補」したものとされてきたが、「増補」部分は甫庵の創作だったことがあきらかになっている。桶狭間の「奇襲」も、武田信玄の「騎馬軍団」も、長篠の「三段撃ち」も、すべて実際の合戦を経験したことのない甫庵の空想の産物であり、事実ではなかった。しかし、近代的に考えれば、寡兵の信長が今川の大軍を破ったのは「奇襲」だと考えた方が通りがいいし、「騎馬軍団」を鉄砲の「三段撃ち」で殲滅したというとわかったような気になる。実際の合戦を知らない甫庵が空想で合理化した『信長記』が世に広まり、事実を伝える『信長公記』が忘れられたのも無理からぬことだったのかもしれない。

 『信長の棺』は学者と歴史マニアにしか知られていなかった太田牛一を広く世に知らせた点では功績があったが、『信長公記』の真価を伝えてはいない。残念なことに、偽書であることが明白な『武功夜話』の与太話までとりこんでいる。『信長公記』に興味を持った人は藤本正行氏の『信長の戦争』を読んだ方がいい。

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2006年09月26日

『日本沈没 第二部』 小松左京&谷甲州 (小学館)

日本沈没 第二部 文庫上巻 文庫下巻


 『日本沈没 第二部』が谷甲州氏との共著という形で上梓された。映画のリメイクに合わせたのだろうが、1973年版の映画TV版もDVD化されている。


 第一部は1970年代末に起こった日本列島の沈没で終わったが、第二部はそれから25年後の日本人の運命を描いている。幻の作品で終わるのかと半ば諦めていただけに、まずは完結をよろこびたい。


 沈没までの二年に日本政府は8千万人の国民を海外に脱出させたが、8千万人という巨大な難民の出現は世界各地で軋轢を生んでいた。日本政府は世界各地に機能を分散させて活動をつづけていたが、熱帯雨林の開発事業には重点的に投資しているものの、他の国々に引きとられた国民にまでは手がまわらない状態らしい。多くの国では入植地の過酷な条件に見切りをつけ、大都市のスラムに流入する日系人が増え、治安上の問題になっているのに有効な手を打てないでいる。旧ソ連圏に入植した日系難民は、ソ連崩壊で退去したロシア人の後釜にすわり、一時は社会の支配層にのぼったが、それが妬みをかい集団虐殺まで起こっている。第一部の主人公だった小野寺が日系ゲリラ(!)の隊長になっているという趣向もある。


 日本が沈没した後の空白地帯は火山活動がおさまらないことを理由に制限海域とされ、調査や航行までが国際的に禁止されていたが、日本政府は国民の統合の象徴とするためにわずかに顔をのぞかせていた岩礁を中心に人工島を建設しようとする。しかし中国は北朝鮮に侵攻して日本海への出口を確保しており、日本の復活を阻止するために制限海域の国際共同管理を主張する。


 唯一うまくいっていた熱帯雨林開発も成功したがために現地の妬みをかい、欧米の環境団体からは地球温暖化の元凶と指弾されるようになって、それ以上の開発を進めるのが難しくなっている。


 国土を失った日本人は四面楚歌の状態だが、日本沈没が起こらなかったこちら側の世界の状況と微妙に重なっており前半はおもしろく読んだ。


 日本政府は再難民化した日本人の行き場を確保するために熱帯雨林開発をさらに大規模に進める決定をくだす。そして環境負荷のかからない開発であることを国際的にアピールするために、こちら側の世界でも実現している地球シミュレータを開発し気象のシミュレーションをはじめる。


 ところがここで思いがけない答えが出る。地球は温暖化するどころか寒冷化に向かい、間もなく氷河期が再来するというのだ。


 原因は日本沈没の際の火山活動で成層圏に吹きあがった噴煙である。大規模な噴火が寒冷化を引きおこすことは知られており、最後の氷河期は7万4千年前に起きたスマトラのトバ火山の巨大噴火が引き金になったという説もある。


 このストーリーは小松左京の最初の構想に沿ったものらしい。『日本沈没』の刊行後、小松は異常気象の取材を進め、『異常気象 地球が冷える』というノンフィクションを1974年に刊行している。インタビューによればこのプランで原稿用紙140枚くらいまで書き進めという。だが、寒冷化という設定は放棄され、沈没後の日本人の物語が小松自身によって書かれることはなかった。


 理由は1970年代以降、地球温暖化説が有力になってきたためらしい。


 もちろん地球温暖化はまだ仮説であって、最近マイクル・クライトンの『恐怖の存在』が話題になったように、疑問視する人はすくなくない。しかし生活実感として暖かくなっているのは事実だし、日本で熱帯の動物が自然繁殖するようなことが起こっているという現実の前では寒冷化説ははなはだ分が悪い。日本沈没を読者に納得させたように地球寒冷化のロジックを組み立てようとしたものの、小松の剛腕をもってしても難しかったのかもしれない。


 『日本沈没 第二部』の後半は地球寒冷化が軸となるが、残念ながら読者を説得できるだけのリアリティが生まれているとはいえない。長さ不足が大きかったと思うが、肝腎のロジック構築をデータ不足で逃げたのは致命的だった。SFなのだからなにか途方もない理論をでっち上げてほしかった。


 不満はもう一つある。第一部では日本人が沈没に対処する道を考えるために、三人の学者と宗教者が山にこもり、未来の日本人に向けた文書を起稿していた。その文書に何が書かれているか、30年間、ずっと気になっていたが、第二部ではその文書がまったく出てこないのだ。


 中田首相と鳥飼外相のコスモポリタニズムをめぐる議論が文書の名残なのかもしれないが、あれではあまりにもちゃちである。鳥飼外相のコスモポリタニズムは非武装中立論の変形にすぎず、人類総難民化というようなパニック状況が生まれない限り絵空事でしかない。


 小松左京は戦後民主主義とナショナリズムの共存という大いなる矛盾をかかえた作家だった。その矛盾の最高度の表現が『日本沈没』だった。中田首相に最後の台詞を言わせたことからすると、第二部を書いた谷氏は戦後民主主義もナショナリズムも信じてはいないだろう。作品が薄っぺらになってしまった根本の原因はそこにあると思う。


 第一部をリアルタイムで読んだ人間としては不満だらけだし、かつて書いた小松左京論に加筆する必要も感じないが、リメイク版の映画よりはましだったことは申しそえておく。

文庫上巻
文庫下巻

2006年02月28日

『バースト・ゾーン』吉村萬壱(早川書房)

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 『ハリガネムシ』で芥川賞を受賞した吉村萬壱の近未来SFである。早川書房から出ているので、おやと思ったが、半分まで読んで理由がわかった。これは100%まごうかたなき純正SFなのである。
 三章にわかれるが、第一章はテロリンと呼ばれる正体不明のテロリストの暗躍によって荒廃した日本が舞台である。高度情報社会はサイバーテロによって崩壊しており、ラジオが主要なメディアとして復活している。テロリンに対する恐怖から、人々は猜疑心のかたまりになっており、ちょっとでも普通と違う人間を見かけると、テロリンだという声が起こって、リンチがはじまる。経済は逼迫し、国民は食うや食わずの貧窮生活をおくり、ダニと奇病が蔓延している。
 主人公の椹木武の妻と娘も奇病にかかっており、彼は治療費を捻出するために「処理局」に雇われ、テロ現場の後始末という危険な仕事をしているが、それだけでは足りず、愛人の小柳寛子に売春をさせ、金をせびりとっている。ほとんど焼け跡闇市時代の日本である。
 昨今は昭和レトロと称して高度成長時代以前の生活を美化し、懐かしむ風潮が流行しているが、吉村の描きだした近未来は昭和レトロブームの逆転であろう。
 正体の見えない敵によって破壊が連続する展開は『エヴァンゲリオン』を思わせないでもない。昭和レトロ版『エヴァ』といってもいいかもしれない。
 逼塞した状況の中で、椹木があたためる唯一の夢は志願兵となって大陸にわたり、テロリンを殺しまくることだった。しかし、後に残していく妻子は奇病に侵されており、入所すれば半年はもたないといわれている介護施設入りが確実であり、踏み切れないでいる。
 しかし、第一章の最後で家族で久しぶりに出かけた「太陽と月のデパート」と呼ばれる闇市マーケットで最大規模のテロがあり、妻子は行方不明になってしまう。
 第二章は軍に志願して大陸にわたった椹木と、彼を追って自分も志願兵となった寛子、そして寛子をストーカーする素人画家の井筒俊夫の大陸での異常体験を描く。
 寛子は廃船寸前のタンカーに乗せられて大陸に送りだされるが、サイバーテロなのか、単なるミスなのか、士官が乗り組む前に船は出港してしまう。コンピュータ制御なので航海はつづいたが、指揮系統のない船内は無法状態になっていき、地獄絵の惨状を見せはじめる。
 その時、海を押し渡ってくる牛のような動物の大群に遭遇するが、この牛のような動物は「神充」と呼ばれており、吉村の仮構した近未来社会の核心となる存在である。
 「大陸」は明らかに中国なのに、中国やその他の国々の存在を無視した展開がずっと気になっていたが、半ばまで読むと、理由がわかる。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、SF的に首尾一貫しているのである。
 第三章で舞台は再び日本にもどり、近未来社会の秘密が明かされ、世界観が明らかとなる。村上龍や星野智幸の近未来小説はSF的ではあってもSFではなかったが、この小説は設定の一貫性にこだわっている点で100%純正SFといってよい。
 吉村はデビュー作の『クチュクチュバーン』以来、筒井康隆やラファティのようなナンセンス系SFとのつながりが指摘されてきたが、この作品を読んで、むしろブライアン・オールディスに近いと思った(具体的には『暗い光年』である)。
 反近代というか、進歩に対する懐疑という点で、吉村とオールディスは共通するものがあるが、オールディスは近代社会を呪詛する一方、近代化以前の世界を牧歌的に描きだしており、ウィリアム・モリスの伝統に連なっているといえる。個人的な好みになるが、オールディスの小説の一番の魅力は牧歌的な部分である。
 吉村の場合、現代日本をエログロでひっくり返してみせ、それはそれで痛快だが、殺伐としているばかりで、ほっとする要素がない。これは作家の資質の差というより、田園風景を復元した英国と、荒廃させたまま放置する日本の差なのかもしれないが、いささか寂しくもある。

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2006年02月27日

『NHKにようこそ!』滝本竜彦(角川文庫)

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 引きこもり問題をあつかった記事や座談会でよく言及される作品で、引きこもり小説の傑作ということになっているようだ。
 ご大層な解釈をする論者が多いが、実物はコミカルなライトノベルで、あっという間に読めた。ナイーブというか、衒ったところのない、普通におもしろい小説である。
 主人公の佐藤は大学を中退し、4年間、アパートに引きこもっている若者である。たまたま隣室に高校時代の後輩が引っ越してきて、二人でエロゲーをつくり、一旗揚げようということになるが、資料としてわたされた画像に刺激され、彼は重度のロリコンになってしまい、引きこもりがさらに深刻化する。
 ここで、岬ちゃんという美少女のヒロインが登場する。彼女は新興宗教の熱心な信者である叔母について、主人公のアパートを訪れるが、彼が重症の引きこもりだと見てとると、引きこもり脱出のためのカウンセリングを無料でやってあげるともちかける。
 カウンセリングといっても、彼女は高校を中退し、大学検定試験を準備中の十代の少女で、図書館で借りてきた本の受け売りをするくらいのことしかできない。  彼女がカウンセリングを口実に彼に接近したのは、彼女自身が親にネグレクトされて育ち、深い心の傷を負っているからだった。彼女はすべての他人から嫌われていると思いこんでおり、他人と親しくなろうとすると、見捨てられ不安が昂じてしまう。しかし、彼はロリコンで引きこもりという二重苦を負った最低のダメ人間だった。こういう男が相手なら、「あたしでも見下せる」と安心することができたのだ。
 カウンセリングが一段落したところで発せられる次のセリフはあまりにも痛い。

「佐藤君なら、あたしを好きになってくれるよね」と言った。
「だってさ、あたしよりもダメ人間だもん。……こうやって長い間、頑張って計略を推し進めてきたんだから、もう、あたしのとりこでしょ?」

 通常、対人不安をかかえた者どうしの相互依存の関係は距離がとれなくなり、ヤマアラシジレンマと呼ばれる深刻な葛藤を引きおこすことがおおいというが、この作品の場合はそうはならない。
 岬ちゃんはカウンセリングをはじめるにあたり、佐藤と契約を結んでいる。精神分析やカウンセリングの治療契約は、治療者とクライアントが接近しすぎるのを防ぐために結ばれるが、この二人の場合は逆である。
 契約といっても、破ったら罰金百万円というような幼稚な代物だが、両者ともおっかなびっくりで人格的に交流しておらず、契約という形で拘束しあうことで、距離が広がるのをかろうじて防いでいるのだ。
 この小説には人格的な交流が一切欠如している。最後の部分にクライマックスと呼べそうな条があるが、そこですら、本当には人格は触れあっておらず、レモン水のように、さらさらとライト感覚で流れている。
 コミカルに語られているが、そこには深刻なシニシズムが底流している。それがもっともよくあらわれているのは表題である。
 表題の「NHK」とは「日本引きこもり協会」の略で、佐藤は自分が引きこもりをつづけざるをえないのはNHKの陰謀だと思いこもうとし、岬ちゃんに対して、こんな臭いセリフを吐く。

「俺がひきこもりになったのも、実はNHKのせいだ。岬ちゃんが苦しんでいるのも、奴らのせいだ。それが真実だ。俺はとあるルートから、その真理を教えて貰ったんだ。そうして俺は、奴らと戦っていた。ずっと奴らと戦っていた。……だけどな、もうダメだ。奴らの魔手が、とうとう俺を捕まえた。俺はもうすぐ奴らに殺される。だけど岬ちゃんは大丈夫だ。君は元気に生きていくんだ」

 しかし、そんな陰謀論が嘘だということは本人自身が一番よく知っているし、崇高な自己犠牲となるはずの行動もみっともない結末をむかえる。
 佐藤と岬は宗教的妄想を信じることもできなければ、陰謀論を信じることもできない。この作品は最後までさらりとして口当たりがよいが、読み終わった後になんともいえぬ苦さが残る。現代を描いた作品である所以である。

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2006年02月23日

『告白』町田康(中央公論社)

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 昨年の文芸界最大の話題作であり、町田康の(現在までの)最高傑作といっていいだろう。
 この小説は明治23年(1893)に実際に起きた「河内十人斬り」をモデルにしている。事件のあらましは帯に紹介されているが、Wikipediaをリンクしておこう。
 チンピラ二人組が痴情と金のもつれから、村の顔役一族十人を惨殺するという猟奇的な事件だが、民衆の同情はむしろ犯人側に集まり、主犯の城戸熊太郎の物語は河内音頭や芝居、浪曲に仕立てられ、関西では国定忠次や雷電為衛門なみに有名らしい。河内音頭はCDになっている。河内家菊水丸の三枚組の口演は絶版だが、熊太郎の妻が弟分の弥五郎にまでちょっかいを出すというバージョンが『唄う爆弾30連発!河内家菊水丸の新聞詠み河内音頭』に活字化されている。また、本宮泰風口演のDVD『修羅場の侠たち 伝説・河内十人斬り』が入手可能である。
 こういう民衆のヒーローはピカレスク・ロマンとして書いてもよかったはずだが、町田康は近代小説として書き、主人公の城戸熊太郎を自意識の強い「思弁的」な男に設定した。
 熊太郎は百姓仕事を馬鹿にして遊び暮らし、いっぱしの侠客を気どっていたが、それが虚勢であり、「贋の侠客」にすぎないことは本人が一番よく知っていた。

 俺は侠客っぽく振る舞っているけれども心のどこかでこうして百姓仕事をしないで極道をしていることを申し訳なく思っていて、だから人がきたりすると咄嗟に、あっ、すんません、などと言って自分が避けてしまう。だから俺が駒太郎に手伝いを申し込んだのも実は、俺の立場を悪くしないため、と俺は思っていたけれど本当はそうではなく、それは俺のみなに申し訳ないという基本的な思いから出たものかも知れず、その申し訳ないという気持ちがどことなく態度に表れているからみなが俺にばかり、退け、というのか。案外それが一番大きいかも知れない。

 現実の熊太郎がこんなにしおらしい男だったかどうかはわからない。多分、違うだろう。しかし、町田康は熊太郎をインテリになりそこなった男として描くことで、内面と外面の齟齬という近代小説の王道をなぞってみせる。この小説は最初から最後まで、恥ずかしい内面の「告白」なのだ。ただし、その「告白」は無色透明な標準語ではなく、コテコテの河内弁でおこなわれており、抱腹絶倒のパロディと化している。
 しかし、パロディにせよ、内面描写が身体描写というか、器官描写に切れ目なしに移行していく先鋭的な作品を書いてきた町田康が近代小説への本卦がえりするなど、後退ではないのか。
 この後退は戦略的なものだ。というのも、熊太郎の悲劇の根本原因は内面を表現する言葉をもっていないことに求められているからだ。

 そんななかでひとり思弁的な熊太郎はその思弁を共有する者もなかったし、他の者と同様、河内弁以外の言語を持たず、いきおい内省・内向的になった。もちろん熊太郎がそのことを明確に自覚していたわけではなかったが、このことが熊太郎の根本の不幸であったことは間違いない。

 事件の起きた1893年は日本の近代小説の揺籃期にあたる。二葉亭四迷が『浮雲』を放りだしたのは6年前の1887年、『其面影』を書きはじめるのは3年後の1896年。河内の片田舎だけではない。当時の日本には内面を語る言語などなかったのだ。
 熊太郎は日常の言語では掬いきれない思いを楠木正成に託す。自らを楠公の生まれ変わりと思いこもうとし、「義」を自分の行動の裏づけにしようとする。物語のどんづまりで十人斬りの凶行に踏み切らせるのも、「正義」の実現という妄念である。
 もちろん、この妄念は破れる。正義の審判者のはずだった妻はただの淫乱女だったし、十人殺しても何も変わらなかった。救いは訪れなかった(「ここが行き止まりだとおもってぶち当たった壁は紙でできていて、ぶち当たった途端に破れ、その先には変わらぬ世界があったのだから笑う」)。
 最後の最後に熊太郎が見た内面の風景は空虚そのものだった。

 矌野であった。
 なんらの言葉もなかった。
 なんらの思いもなかった。
 なにひとつ出てこなかった。
 ただ涙があふれるばかりだった。
 熊太郎の口から息のような声が洩れた。
「あかんかった」
 銃声が谺した。

最期の言葉が「あかんかった」だったとは、なんともやりきれない。
 町田康は近代小説が後生大事に祭りあげてきた内面が空虚でしかないことを、近代小説誕生の時点において暴いてみせたのである。『告白』は近代小説への贋の回帰であり、日本近代文学の伝統に風穴を開けるものとなっている。

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