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2014年02月28日

『光秀の定理』 垣根涼介 (角川書店)

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 さわやかな読後感に驚いた。

 光秀ものというか本能寺ものの小説の結末は重苦しいと相場が決まっている。討たれた信長も無念、討った光秀も無念、そこに大の大人が殴る蹴るのイジメを受ける場面がくわわったり、どす黒い陰謀がくわわったりする。無念の塊になるのは当然だろう。光秀を主人公にした小説はいろいろ読んできたが、さわやかに終わる光秀ものは本作がはじめてである。

 この作品がさわやかなのには二つ理由がある。

 第一は百姓相手に剣術を教えている新九郎と、元倭寇でシャムで原始仏教(正しくは南伝仏教だろう)を学んできた愚息という二人の出世慾とは無縁の自由人の眼から光秀を描いていること。

 光秀は貧窮時代に二人と親友になり、栄達してからも変わらぬつきあいをつづける。彼もまた自由人の気風を共有しているのである。

 第二は細川藤孝の家来になった光秀が足利義昭を救出して出世の糸口をつかみ、信長に一万石という破格の待遇で召し抱えられるという登り坂の時期を描いていること。本能寺の変は最後の章で回想されるにすぎない。

 戦国史に詳しい人なら光秀が細川藤孝の家来だったという点にひっかかるかもしれない。

 光秀の前半生はよくわかっていないが、通説では光秀は美濃の明智光安の甥で、信長の正室の濃姫の従兄ととされている。明智城が斎藤龍興に落とされた後、諸国を遍歴してから越前朝倉家に仕えるようになる。細川藤孝とのつきあいは、藤孝が仕える足利義昭が朝倉家に身を寄せてからはじまり、光秀は義昭の上洛に信長の力を借りることを提案し、濃姫の縁を頼って藤孝を信長に紹介したことになっている。

 この説は本能寺の変の百年以上後に書かれた『明智軍記』ではじめて出てきたが、通説の形成に大きく影響した高柳光壽『明智光秀』では同書は「誤謬充満の悪書」と酷評されている。

 ところが困ったことに『明智軍記』は細川家の正史といっていい『細川家記』(『綿考輯録』)という権威ある記録に全面的にとりいれられているのだ。

 その結果『明智軍記』を否定したはずの高柳は、光秀は藤孝の「かち」ないし「中間ちゅうげん」だったとする史料を『細川家記』=『明智軍記』で否定するという妙なことになっているのである。高柳は次のように書いている。

 この光秀が藤孝の徒のものであったという話は、光秀と藤孝との関係が古くからあったということであり、また光秀の身分が低かったということでもある。しかし徒のものというのは恐らく誤りであろう。『細川家記』には、光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬の身分である。それを『細川家記』が誤るということはまずあるまいと思われる。(『明智光秀』)

 いったんは葬られた光秀が藤孝の家来だったとする説は明智憲三郎氏の『本能寺の変 四二七年目の真実』で脚光を浴びるようになった。同書は最近増補改訂された文庫版が出たが、本能寺の変の謎解きの部分はともかくとして、光秀の前半生を考証した部分は暗黙のうちに軍記物に拠った通説を信憑性の高い史料によって批判的に検討しており、十分議論に値すると思う。

 本作は光秀の経歴に関しては明智憲三郎説を採用している。

 光秀は土岐源氏明智氏の嫡流に生まれるが、嫡流といっても明智氏は土岐氏の庶流にすぎず、斎藤家の家老がいいところだろう。光秀は美濃に埋もれることをいさぎよしとせず、家督を叔父に譲って京に出ることを選ぶ。

 家督を継がなかった光秀は正式な幕臣になることができなくなったので、令名の高い細川藤孝に近侍し陪臣として幕府にかかわるようになる。実家が健在なうちは明智家の京都駐在外交官のような役割を果たしていたが、没落してからは貧窮し、同僚からも軽んじられるようになる。しかし藤孝だけは光秀の能力を見こみ、対等の同志としてあつかってくれた、というわけである。

 もしこれが事実だとしたら藤孝は謀反人の光秀と近すぎることになり、細川家としては『家記』にそのまま書くわけにはいくまい。『明智軍記』の記述をそっくりもってきてお茶を濁したということがあっても不自然ではないだろう。

 光秀が土岐源氏の出身なら、信長が新参の光秀にいきなり破格の知行をあたえたことも理解できる。愚息は光秀の好遇は美濃攻略の直後という時期が影響しているとして、次のように絵解きしてみせる。

「信長にとっては土岐一族からの不信感を払拭する契機にもなり、不満分子の吸収もできる。かつ、十兵衛を頂点に血縁で繋がった強固な地場勢力を、一挙に織田家の子飼いとして内部に取り込むことも出来る」

 事実明智五宿老として明智家の身代を支えた五人の侍大将のうち明智秀満、溝尾茂朝、明智光忠、藤田行政の四人はこの時に採用されている。

 急成長した織田家は実力主義で門地に関係なく出世できた反面、寄せ集めの脆さもかかえており、勝ち戦の時は勢いに乗るが、いったん劣勢になると驚くほど脆かった。信長が鉄砲や新兵器を重視し、常に相手方より大きな兵力で決戦に臨んだのも自軍の弱点がよくわかっていたからだろう。

 それに対して明智軍団が徳川に匹敵する地縁・血縁で結ばれた強さをそなえていたとするなら、明かに旗色の悪かった山崎の合戦で最後まで粘りを見せたことも納得がいく。

 著者の描きだす光秀は愚息や新九郎と馬の合う自由人だが、その一方土岐源氏明智氏流の嫡流として一族の再興を果たさなければならなかった。光秀は各地に散った一族を再結集し、そこに旧幕臣がくわわり、最終的には34万石の大大名となった。指揮下に置く与力大名の所領を合わせると240万石に達する。

 その光秀がなぜ謀反を起こしたのか。

 本作はあえて謎解きはせず、愚息と新九郎に動機を考えさせるだけにとどめている。信長の独裁体制が日本全体を覆い尽くすのを避けたかったのではないかという仮説に落ち着くが、仮説は仮説、それ以上深追いしていないのは見識だろう。

 その点も含めて、すがすがしい終り方をしている。この小説はお勧めできる。

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