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2014年02月23日

『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』 谷口克広 (学研)

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 谷口克広氏は『織田信長合戦全録』や『信長と消えた家臣たち』、『織田信長家臣人名辞典』など、信長関係のレファレンス本を精力的に執筆してきた人である。本欄でも『検証 本能寺の変』をとりあげたことがある。

 谷口氏の本は信長の家臣団や合戦など、特定分野の情報をバランスよくまとめてくれるので重宝してきたが、『信長の政略』も期待通りで、安心して読める。

 本書は「序章」で信長の天下取りのプロセスを概観した後、「第一部 周囲に対する政略」、「第二部 統一戦争へ向けた政略」、「第三部 民衆統治に関する政略」と三部にわけて記述している。

 「第一部 周囲に対する政略」では「外交と縁組政策」、「室町幕府」、「朝廷」、「宗教勢力」という四つの章を立てているが、それぞれについて学説の変遷を簡潔に紹介するところからはじめているのはありがたい。

 対朝廷政策については幕末の勤王思想家は信長を勤王家の先達と評価し、明治8年の建勲神社創建にいたるが、勤王家という見方は田中義成『織田時代史』によって学説として確立され、第二次大戦期まで信長観を支配することになる。

 ところが敗戦後、信長を中世を終わらせた革命家として評価する見方が浮上し、信長は天皇制否定したとする安良城盛昭の説まで出てくる。

 1970年代には以下の三つの論考が出揃い、今日の信長論の基礎が出来あがった。

  1. 朝廷に対しては「一歩離れてこれを操縦」したとする朝尾直弘「『将軍権力』の創出」(1970-4)
  2. 朝廷とは対立・緊張関係だとした奥野高廣「織田政権の基本路線」(1976)
  3. 信長は中世から離脱できず、朝廷に対しては公武協調政策をとったとする脇田修「統一権力と朝廷」(1977)

 1990年代にはいると2の立場を先鋭化した論があらわれた。今谷明の『戦国大名と天皇』と『信長と天皇』である。馬揃えは朝廷に対する武力威嚇だったとか、三職推任が本能寺の変の原因だったとする見方は今谷の本で世に広まった。

 本書の副題が「信長は中世をどこまで破壊したか」となっているように著者は3の脇田の見方を継承しており、今谷説に対しては批判的だ。

 この論説は実のところ史料選択や解釈などにいろいろと問題点があり、後に堀新氏たちによる手堅い反論によってほとんど覆される形となるのだが、「信長の敵=天皇」という新しい図式がインパクトの強さによって一般にかなり受け入れられていったのである。そして、その図式が一人歩きをする形で、本能寺の変には朝廷勢力の一部がからんでいたという「朝廷黒幕(関与)説」まで生まれてゆくのである。

 ばっさり斬ってすてているが、自分の立ち位置を明確にしているので異なる見方の人にとっても本書は役に立つだろう。

 著者は信長は中世から離脱しきれなかったという立場だけに、近年の信長=革命家説になじんだ目には新鮮な指摘が多い。

 信長は仏教に対しては叡山焼討や長島一揆に対する根切りなど、容赦なくたたきつぶしたが、その一方、抵抗しなかった寺院に対しては最後の時期まで寺領を安堵している。信長は敵対した仏教教団に対して厳しく当たっただけで、叡山や長島に対する処断は度重なる裏切りに対する報復であり、特殊な事例にすぎなかったとするのが著者の見方である。

 信長の楽市楽座も限定的であり、関所の撤廃についても皇室の収入源となっている関所は黙認している。検地も太閤検地のような徹底したものではなく、度量衡や升の統一も確かな証拠は残っておらず、名主や領主の中間搾取も「内徳」として認めていた。

 信長の実像はどうも傍若無人な革命家からは程遠かったようである。

 意外だったのは信長が「外聞」を気にして宣伝を重視していたという指摘である。

 信長は将軍義昭を放逐する前に、義昭とその側近の横暴を諌めた「十七ヶ条の異見書」を送ったが、この異見書の写しは各地にたくさん残っているのである。義昭を諌めるだけが目的なら本人に読ませれば用は足りるはずだが、明かに異見書の写しを大量につくり、あちこちに送りつけて、悪いのは義昭だと印象づける世論工作をおこなっていたのである。

 安土で問題を起こした日蓮宗を処罰するにあたっても、まず面前で宗論をおこなわせ、日蓮宗が敗れたことを京都所司代の村井貞勝に宣伝させている。事実公家の日記などにも宗論の顛末が事細かく書き残されている。

 複数の城を攻める場合、信長は一つの城を一気に力攻めで落とし、他の城が降伏するようにもっていっている。力攻めで落城させると攻める側に大きな犠牲が出るが、他の城が戦意をなくして開城するなら全体の犠牲は小さくなるわけだ。

 信長の残虐性というのも宣伝戦略で盛った部分があるのかもしれない。

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