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2014年02月28日

『光秀の定理』 垣根涼介 (角川書店)

光秀の定理 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 さわやかな読後感に驚いた。

 光秀ものというか本能寺ものの小説の結末は重苦しいと相場が決まっている。討たれた信長も無念、討った光秀も無念、そこに大の大人が殴る蹴るのイジメを受ける場面がくわわったり、どす黒い陰謀がくわわったりする。無念の塊になるのは当然だろう。光秀を主人公にした小説はいろいろ読んできたが、さわやかに終わる光秀ものは本作がはじめてである。

 この作品がさわやかなのには二つ理由がある。

 第一は百姓相手に剣術を教えている新九郎と、元倭寇でシャムで原始仏教(正しくは南伝仏教だろう)を学んできた愚息という二人の出世慾とは無縁の自由人の眼から光秀を描いていること。

 光秀は貧窮時代に二人と親友になり、栄達してからも変わらぬつきあいをつづける。彼もまた自由人の気風を共有しているのである。

 第二は細川藤孝の家来になった光秀が足利義昭を救出して出世の糸口をつかみ、信長に一万石という破格の待遇で召し抱えられるという登り坂の時期を描いていること。本能寺の変は最後の章で回想されるにすぎない。

 戦国史に詳しい人なら光秀が細川藤孝の家来だったという点にひっかかるかもしれない。

 光秀の前半生はよくわかっていないが、通説では光秀は美濃の明智光安の甥で、信長の正室の濃姫の従兄ととされている。明智城が斎藤龍興に落とされた後、諸国を遍歴してから越前朝倉家に仕えるようになる。細川藤孝とのつきあいは、藤孝が仕える足利義昭が朝倉家に身を寄せてからはじまり、光秀は義昭の上洛に信長の力を借りることを提案し、濃姫の縁を頼って藤孝を信長に紹介したことになっている。

 この説は本能寺の変の百年以上後に書かれた『明智軍記』ではじめて出てきたが、通説の形成に大きく影響した高柳光壽『明智光秀』では同書は「誤謬充満の悪書」と酷評されている。

 ところが困ったことに『明智軍記』は細川家の正史といっていい『細川家記』(『綿考輯録』)という権威ある記録に全面的にとりいれられているのだ。

 その結果『明智軍記』を否定したはずの高柳は、光秀は藤孝の「かち」ないし「中間ちゅうげん」だったとする史料を『細川家記』=『明智軍記』で否定するという妙なことになっているのである。高柳は次のように書いている。

 この光秀が藤孝の徒のものであったという話は、光秀と藤孝との関係が古くからあったということであり、また光秀の身分が低かったということでもある。しかし徒のものというのは恐らく誤りであろう。『細川家記』には、光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬の身分である。それを『細川家記』が誤るということはまずあるまいと思われる。(『明智光秀』)

 いったんは葬られた光秀が藤孝の家来だったとする説は明智憲三郎氏の『本能寺の変 四二七年目の真実』で脚光を浴びるようになった。同書は最近増補改訂された文庫版が出たが、本能寺の変の謎解きの部分はともかくとして、光秀の前半生を考証した部分は暗黙のうちに軍記物に拠った通説を信憑性の高い史料によって批判的に検討しており、十分議論に値すると思う。

 本作は光秀の経歴に関しては明智憲三郎説を採用している。

 光秀は土岐源氏明智氏の嫡流に生まれるが、嫡流といっても明智氏は土岐氏の庶流にすぎず、斎藤家の家老がいいところだろう。光秀は美濃に埋もれることをいさぎよしとせず、家督を叔父に譲って京に出ることを選ぶ。

 家督を継がなかった光秀は正式な幕臣になることができなくなったので、令名の高い細川藤孝に近侍し陪臣として幕府にかかわるようになる。実家が健在なうちは明智家の京都駐在外交官のような役割を果たしていたが、没落してからは貧窮し、同僚からも軽んじられるようになる。しかし藤孝だけは光秀の能力を見こみ、対等の同志としてあつかってくれた、というわけである。

 もしこれが事実だとしたら藤孝は謀反人の光秀と近すぎることになり、細川家としては『家記』にそのまま書くわけにはいくまい。『明智軍記』の記述をそっくりもってきてお茶を濁したということがあっても不自然ではないだろう。

 光秀が土岐源氏の出身なら、信長が新参の光秀にいきなり破格の知行をあたえたことも理解できる。愚息は光秀の好遇は美濃攻略の直後という時期が影響しているとして、次のように絵解きしてみせる。

「信長にとっては土岐一族からの不信感を払拭する契機にもなり、不満分子の吸収もできる。かつ、十兵衛を頂点に血縁で繋がった強固な地場勢力を、一挙に織田家の子飼いとして内部に取り込むことも出来る」

 事実明智五宿老として明智家の身代を支えた五人の侍大将のうち明智秀満、溝尾茂朝、明智光忠、藤田行政の四人はこの時に採用されている。

 急成長した織田家は実力主義で門地に関係なく出世できた反面、寄せ集めの脆さもかかえており、勝ち戦の時は勢いに乗るが、いったん劣勢になると驚くほど脆かった。信長が鉄砲や新兵器を重視し、常に相手方より大きな兵力で決戦に臨んだのも自軍の弱点がよくわかっていたからだろう。

 それに対して明智軍団が徳川に匹敵する地縁・血縁で結ばれた強さをそなえていたとするなら、明かに旗色の悪かった山崎の合戦で最後まで粘りを見せたことも納得がいく。

 著者の描きだす光秀は愚息や新九郎と馬の合う自由人だが、その一方土岐源氏明智氏流の嫡流として一族の再興を果たさなければならなかった。光秀は各地に散った一族を再結集し、そこに旧幕臣がくわわり、最終的には34万石の大大名となった。指揮下に置く与力大名の所領を合わせると240万石に達する。

 その光秀がなぜ謀反を起こしたのか。

 本作はあえて謎解きはせず、愚息と新九郎に動機を考えさせるだけにとどめている。信長の独裁体制が日本全体を覆い尽くすのを避けたかったのではないかという仮説に落ち着くが、仮説は仮説、それ以上深追いしていないのは見識だろう。

 その点も含めて、すがすがしい終り方をしている。この小説はお勧めできる。

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2014年02月27日

『とまどい本能寺の変』 岩井三四二 (PHP)

とまどい本能寺の変 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本能寺の変はもちろん謎だが、変の後に起こった出来事もよくわからないことが多い。

 毛利は一杯食わされて領土割譲を含む和議を結ばされたとわかったのに、なぜ秀吉軍を追撃しなかったのか?

 信長の三男の信孝は四国攻めのために明智軍をうわまわる軍勢を摂津に集めていたのに、なぜ弔い合戦をいどまなかったのか?

 関東で孤軍となった滝川一益は敵地となった上野・信濃・木曾をどのように突破したのか?

 安土に残っていた家臣たちはなぜあっさりと城を捨ててしまったのか?

 本書は安国寺恵瓊、織田信孝、信長の側室のおなべの方など信長周辺のマイナーな人物を主人公とした連作短編集だが、こうした疑問に鮮やかに答えを出し、信長の死で生まれた巨大な空白を前に右往左往する人々をシニカルに描きだしている。

 歴史の脇役を主人公としているだけに、ありきたりの歴史小説では満足できなくなった人向けだが、本能寺の変前後の歴史が立体的に見えてきて実に面白い。

「南の山に雲が起これば」

 毛利家の外交僧、安国寺恵瓊が主人公である。

 秀吉との和議をやっとまとめ、酒を飲んで眠りこんでいたところ、本能寺の変の知らせが届く。恵瓊は独断で高松城主清水宗治を切腹させており、責任を問われかねなかった。

 評定では恵瓊は和議には曖昧な点が多々あり、これからの交渉で割譲地を減らせると説得し、秀吉に恩を売るために追撃はやめることになった。

 恵瓊は引きつづき秀吉側との交渉にあたることになる。三年後、毛利家の首脳が秀吉の元に拝謁するが、恵瓊は豊臣側の大名として毛利側と向かいあっていた。

「最後の忠臣」

 信長の三男織田信孝が主人公である。

 本能寺の変で信長と長男信忠が横死すると、三男信忠を擁立する動きが起こった。次男信雄はバカ殿と悪名高かったからである。

 だが秀吉の三法師擁立で信孝の夢はついえ、頼みとしていた柴田勝家も滅ぼされる。変からわずか一年後、信孝は尾張野間に蟄居させられ、信雄の命令という名目で切腹させられる。

 野間は源義朝が家臣の長田忠致にだまし討ちにされた地である。忠致は平家討伐にあたり、頼朝から「ミノオワリを与える」という言質をもらったが、実際にあたえられたのは「美濃尾張」ならぬ「身の終り」だった。信孝はその故事を踏まえて「むかしより主をうつみののまなればむくいをまてや羽柴筑前」という辞世を作る(昔から主を討つといわれる内海の野間。裏切り者の報いを待っていろよ、羽柴筑前守)。

 本作では信孝は人望がまったくない男として描かれている。本能寺の変後、一夜にして消えてしまった一万五千の軍勢にはじまり、家臣の逃亡があいつぎ、最後に残ったのはうだつのがらぬ六太夫だけだった。信孝は身の振り方を心配してやるが、思いがけない返事が返ってきた。信雄に召し抱えられることになっているというのだ。

「城を追われた殿に、最後まで付き従った忠義の心は見事であると、信雄さまに認められまして、それがしは才気浅く、戦場かせぎも苦手なれど、忠義の心ばかりは自慢でござる」

 この主ありてこの家臣ありという結末だが、信孝の同時代評価は高く、秀吉が急いで切腹させたことからいっても、この描き方は厳しすぎるのではないか。

「久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ」

 信長の近習頭だった堀久太郎が主人公である(表題の「久々」は小姓時代の愛称)。

 久太郎は本能寺の変の直前、軍監として秀吉のもとに派遣されており、そのまま秀吉に臣従し、論功行賞では佐和山城と20万石をあたえられた上、三法師の守役に指名されている。山崎の合戦での手柄もあったが、織田家の近習頭という地位も影響していたろう。

 物語は北ノ庄城の攻城戦にはじまる。久太郎は秀吉にうとまれるのを承知で、勝家の助命をくりかえし懇願し、自分が使者に立ってもいいとまで申し出る。

 ついに秀吉も根負けし、久太郎はすでに占領されている天守閣の一段目にはいり、階上の勝家に呼びかけるが、勝家は念仏を唱える女たちを刺し殺し、自ら城に火をかけて切腹する。

 主家に殉じた勝家が「いっそううらやましく、いっそう憎くなった」という久太郎の述懐が哀しい。

「関東か小なすびか」

 織田家の宿老の一人だった滝川一益が主人公である。おそらく平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』が種本だろうと思うが、読みくらべると歴史作家がどのように話を作るのかがわかる。

 一益は甲州征伐の主力であり、武田勝頼を天目山で討ちとっている。一益は上野一国と信濃の一部をあたえられ、関東全体を掌握する関東取次を命じられるという大変な出世をするが、本人は領地よりも「珠光の小茄子」という名物を所望したと伝えられており、本作の表題となっている。

 一益は本領である伊勢の兵を連れて上野国にはいり、上野と信濃の領主から人質を集めて関東の支配に乗りだしたが、その矢先本能寺の変が起こる。

 領国の支配が確立しないうちに信長という後ろ盾がなくなったのだから、五千の滝川軍は敵地に取り残されたに等しい。

 映画『清洲会議』の一益は忍者だった前歴を活かし、ただ一人山野を駆けて生還しているが、実際はそうではなく、手勢の生き残り三千とともに敵地を突破したのである。

 ここで決め手となったのが人質である。一益は人質を楯に信濃との国境に出ると、上野の国人の人質を解放した。信濃の国衆からとった人質は、木曾通行の安全と引き換えに、信濃に野心をもつ木曾義昌に引き渡している。えげつないが、これが戦国のならいだ。

 本作では一益は厩橋を立つ前に人質を解放するつもりだったしたが、北条を恐れる上野の国人の方から団結のために人質はそのままでいいと申し入れがあったことにし、国境で人質を解放する際には一益に丁重に頭を下げさせている。こう描かれると一益は一まわり大きな大将の器に見えてくる。

 信濃の人質を木曾義昌に引き渡した件も、人質の一人だった真田昌幸の母の提案にしている。「木曾どのに人質という通行賃を払うのよ。わしらも死ぬよりはええしな」というわけだ。

 さすが真田の母だと歴史の機微をのぞき見たような満足感があるが、もちろんフィクションである。

「本能寺の変に黒幕はいたか」

 この章は小説ではなくエッセイである。著者は『光秀曜変』で光秀認知症説という本能寺の変の新たな解釈を打ちだしたが、その背景説明をおこなっている。

 光秀はアルツハイマー型の認知症ではなかったかというのが著者の説であるが、このエッセイで説得力がいよいよ増した。

 ちなみに62歳で没した秀吉はレビー小体型認知症の可能性があるという。

 光秀認知症説とは別に、朝廷陰謀説の傍証とされる近衛前久の怪しげな行動についてもふれているが、「坊ちゃん育ちの甘ちゃん」という見方は当たっていると思う。前久の不祥の子孫は先日の都知事選に担ぎ出されていたが、前久もあんないい格好しいだったのかもしれない。

「カタリナ・おかつの受難」

 安土セミナリヨの院長だったオルガンティノは明智軍の乱妨を恐れて信徒とともに琵琶湖の沖の島に避難するが、かえって湖賊のとりことなり、明智軍に助けだされている。明智側は高山右近を説得する書簡をオルガンティノに書かせた。日本語では明智に味方しろと書いたものの、ポルトガル語では絶対に明智につくなと書いたされている。

 このエピソードを信長の馬廻役の妻で、吉利支丹の女の視点から描いたのが本作である。伴天連の卑怯な振る舞いに棄教を決心するが、京や安土の日常生活が女目線で描かれていて興味深い。

「北方城の悲惨な戦い」

 西美濃三人衆の一人、安藤道足が主人公である。

 道足は稲葉一鉄、氏家卜全とともに斎藤龍興を見限り、信長のもとで数々の功績を上げたが、本能寺の変の二年前、佐久間信盛、林秀貞の二家老とともに領地を没収されてしまう。

 本能寺の変後、道足は旧臣を集め、稲葉家のものになっていた北方城を奪還するが、倍以上の兵力をもつ稲葉勢が押しだしてくるとひとたまりもなくつぶされてしまう。稲葉側も代々親しくしてきた安藤家が相手だけに複雑である。

 信長という重しがなくなり、本作のような旧領回復の動きは各所であっただろう。権力の空白は新たな騒乱を呼ぶのだ。

「信長を送る」

 信長の側室おなべの方が主人公である。おなべの方は信長の子を三人産んだということで吉乃が亡くなった後は正室に準ずる扱いを受け、織田家の奥向きを差配していた。本能寺の変直後の安土の混乱を彼女の目から描いたのが本作である。

 信長から安土城を任されたと自負する彼女は籠城を主張するが、誰もとりあおうとしない。安土城は攻められることを想定しておらず、守れないというのだ。

 ようやく木村次郎左衛門という侍が名乗り出たが、手勢はわずか57人。

 木村が明智軍と一戦まじえようというには思惑があった。木村家は安土土着の領主で、今は山下町の奉行に任じられていた。安土から逃げたら木村家は浪人するほかはない。それなら忠義の者として名を残し、子孫に仕官の芽を残そうというわけだ。

 結局おなべの方も退去することになるが、それには彼女なりの名分があった。混乱する安土の描写はフィクションだろうが、決断は史実である。

 この作品が本書では一番読みごたえがあった。最後にもってきただけのことはある。

 本書は単独でも読めるが、『光秀曜変』をとりまくような構成になっており、あわせて読むと本能寺の変前後の社会が立体的に見えてくるだろう。

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2014年02月26日

『光秀曜変』 岩井三四二 (光文社)

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 表紙には二代目中村鴈治郎のような陣羽織を着た老人が描かれている。ずいぶん老けた光秀だなと思ったが、本作は光秀の享年として67歳説をとっており、老けているのがポイントなのだ。

 二つのストーリーを平行して語るカットバックの手法がとられており、第一のストーリーでは天正7年から本能寺の変までの4年間が光秀の一人称で語られる。

 第一のストーリーの合間にはさみこまれるのが第二のストーリーで、本能寺の変から山崎の合戦、潰走、坂本城落城までが語られるが、語り手は光秀にゆかりのあった人々だ。

 明智左馬助のような一門衆から斎藤内蔵助、藤田伝五のような史書に名の残る明智軍団の幹部、旧幕臣の寄騎衆、現場の指揮官や兵卒、さらには光秀と距離を置いた細川幽斎、筒井順慶、里村紹巴にいたるまで、光秀をとりまくさまざまな立場の人々にめいめいの視点から語らせている。

 本能寺にもっとも早く突入した顛末を書き残したことで知られる惣右衛門も登場する。「本城惣右衛門覚書」は現代語化され、ほぼそのままの形で作中にとりいれられており、迫真性に改めて目を見張った。

 本能寺焼討の前と後で視点が変わるのは、事を起こすまでは光秀の頭の中の出来事だが、いったん事を起こしてからは事態は光秀の手を離れ、光秀とその縁者をあらがいようもなく雪崩のように呑みこんでいったからだろう。

 明智軍団は倍以上の秀吉軍に押しまくられながらもよく戦ったとされているが、本作でも捨て駒になるのを承知で郎党もろとも大軍に突入していく伊勢与三郎など、見せ場が多い。光秀はそれだけ部下に慕われていたわけである。

 下の者はよく戦ったが、肝心の光秀は満足な下知がくだせなくなっていた。これは史実もそうで、信長も信忠も光秀の謀反と知ると水も漏らさぬ緻密な手配りがしてあるのだろうと早々に逃げることをあきらめてしまったが、実際は下京は封鎖しておらず、信長の弟の有楽斎など多くの者が落ちのびている。それどころか信忠のいた妙覚寺を本能寺と同時に襲えばよかったのに囲むことさえしておらず、むざむざ二条御所に逃げこまれてしまっている。かつての光秀とは思えない杜撰さである。

 信長を討った後の対応も精彩を欠いている。諸説あるが、すくなくとも一万以上の軍勢がいたのだから、別動隊を派遣して瀬田の橋を確保しておけばよかったのに焼かれてしまい、安土占拠が三日遅れている。最低限のことはしているが、それだけなのである。

 なぜ切れ者の光秀がこうも寝ぼけた対応しか出来なかったのか。

 その問いは著者の考える本能寺の変の真相と直結している。

 光秀がなぜ謀反を起こしたかについては野望説、怨恨説など光秀個人に原因ありとする説、四国説や山陰移封説のように織田家における光秀の地位の変化に原因を求める説、さらには朝廷説や義昭説、秀吉説のように別に黒幕がいたとする陰謀説までさまざまだが、著者は思いがけない新説を提起している。光秀認知症説である。

 光秀は有職故実に通じ天覧の馬揃えをみごとに成功させるなど周到な気配で知られていたが、本能寺の直前にまかされていた家康供応役を途中で解任されている。上演する能の演目で何らかのトラブルがあったことは史料で確認できるし、軍記物の伝える話なのでどこまで信憑性があるかわからないが、腐臭を放つ魚を料理に出して信長から打擲されたなどという話まである。

 著者はこうした失敗は認知症の症状でないかと推理している。なるほど認知症でもっとも多いアルツハイマー型認知症ではまず嗅覚が鈍くなり、記憶力と集中力に問題が出てくる。

 本作の光秀はまさにアルツハイマー型の認知症で、側近の猪子兵助を常に身近にはべらせてどうにか面目をたもっているが、信長に呼ばれて直接指示を受ける場面では兵助をともなえないので、能の演目や部屋のしつらえの指示を忘れてしまうという失態を演じている。

 光秀は認知症を起こすには若すぎるのではないかと考える人がいるかもしれないが、最も信憑性が高いとされている享年67歳説をとるなら、立派な認知症年齢である。陰謀説のファンとしては残念だが、光秀認知症説はかなり説得力があるのである。

 光秀は認知症でしたで終わったのでは一種の偶像破壊にしかならないが、著者はその先を描こうとしている。認知症という病気も天の配剤ではないかという認識である。著者は敗走する光秀にこう述懐させている。

 鈍くなった頭ながら――いや、鈍くなったからこそ気づいたのかもしれない――、ようやく自分が何と戦わねばならないのか、見えてきていた。それは、信長や猿など足許にもおよばぬ強大な敵だ。
 十数年前におれを信長に引き合わせ、ここまで連れてきたもの。
 上諏訪で、ほんの数歩の差でおれの声を信長に聞かせ、信長を怒り狂わせたもの。  この半年ほどで、おれの頭をおかしくさせたもの……。
 天道だ。気まぐれな天道の仕業だ。

 『光秀曜変』という表題はまさにこの天の配剤を意味している。

 なお最近刊行された『とまどい本能寺の変』は本能寺の変に運命を狂わされてしまった人々を主人公とした連作短編集であり、本作を取り囲む位置にあるといえよう。本作と合わせて読むと、より奥行が深まってくる。

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2014年02月25日

『王になろうとした男』 伊東潤 (文藝春秋)

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 織田家を社員を使いつぶすブラック企業にたとえた人がいたが、ブラック企業でもすべての社員がつぶされるわけではなく、出世の道をひた走って高い地位にのぼりつめる社員もいれば、カリスマ経営者に心服して、出世とは関係なしに会社に献身することに喜びを見出す社員もいるだろう。

 本書は信長周辺の歴史の脇役を描いた連作短編集だが、出世レースに邁進して自滅していく野心家と、信長に惚れこんで運命をともにした忠義者という二つのタイプの武将が登場する。それぞれに面白いが、作品としては忠義者を描いたものの方がすぐれているようである。

「果報者の槍」

 桶狭間の戦いで今川義元の首をとった毛利新助が主人公である。新助は論功行賞で義元の槍をあたえられ、黒母衣衆にとりたてられたが、その後はぱっとしなかった。

 母衣衆は信長の指令を前線部隊に伝える連絡将校であり、いわば司令部勤務といえる。信長のそば近くに仕えるだけに目端がきけばいくらでも出世の糸口をつかむことができたが、槍働き一筋新助にとっては前線からはなれた司令部勤務は活躍の場を失うに等しかった。

 抜擢が足枷になるという新助の皮肉な一生を、幼なじみで母衣衆から侍大将に出世した塙直政(次の「毒を食らわば」の主人公でもある)と対比して描いたのが本作である。

 新助は出世はできなかったが、信長から忠義を認められ、嫡男信忠の側近に抜擢され、本能寺の変の時に最後の活躍の場を得ることになる。

 生一本に生きた侍の清々しい最後を描いた名編である。

「毒を食らわば」

 塙直政といわれてもすぐにわかる人はあまりいないだろう。

 本作によると赤母衣衆から外交官・行政官として頭角をあらわし、浅井討伐後、南山城をまかされ初の国持大名になったとある。

 直政は軍事的にも功績をあげている。長篠合戦では五人の鉄砲奉行に一人に指名され、400丁の鉄砲隊を編成、それに細川・筒井の150丁をくわえた織田軍最大の火力を指揮して武田軍にあたっている。

 本当にこんな武将がいたのかと思って谷口克広『信長軍の司令官』の索引を見たところ、かなり大きな扱いで載っていて「天正二年五月に南山城の守護、翌年三月に大和の守護を兼務。このようにあっという間に出世の階段を登っていった塙直政」とあるではないか。

 明智や羽柴よりも一頭抜きんでいた武将がなぜ歴史から忘れられてしまったのだろうか。理由は直政の最期にある。

 直政は出世競走の先頭を走っていただけに無理に無理を重ね、信長の過大な要求に答えようとして本願寺戦で無残な結末をむかえる。

 著者は出世とは無縁の一生を送った毛利新助と対比することで、出世レースで自滅した直政の生涯をくっきりと描きだしている。

「復讐鬼」

 信長に謀反を起こしながら秀吉の時代までしたたかに生き残った荒木村重が主人公である。

 村重というと人を騙しても騙されることのない海千山千の強者というイメージだが、本作の村重は信用していた側近に騙され、謀反に追いこまれていくお人好しに描かれている。

 お人好しだった村重が一族を皆殺しにされて復讐鬼に変じ、本能寺の変の後、自分をはめたかつての側近にどのように復讐を果たすのかが本作のテーマである。

「小才子」

 本能寺の変の後の混乱で、光秀の女婿となっていた津田信澄が光秀との関係を疑われ、誤って誅殺されたが、その信澄が主人公である。

 信澄の父は信長の実弟の信行である。信行はうつけの信長を差し置いて織田家を嗣ぐと見なされていたが、信長に騙し討ちにされ、息子の信澄は柴田勝家の懇願で助命されたものの、織田家庶流の津田姓を名乗らされるという屈辱を味わっていた。謀反の動機はないわけではないのだ。当時の人々もそう見ていたから、明智の一味という濡衣を着せられてしまったのだろう。

 本作は信澄が実は本能寺の変の黒幕だったという設定で書かれている。信澄は周到に策をめぐらして緻密な計画をつくりあげていくが(最近、文庫版の出た明智憲三郎氏の説を参考にしたと思われる)、策士策におぼれるの言葉通り、最後の最後で逆にはめられていたことに気づく。なんとも皮肉な結末である。

「王になろうとした男」

 信長に近侍したアフリカ人の小姓彌介が主人公である。

 彌介はイエズス会の巡察使ヴァリニャーノがモザンビーク島から連れてきた黒人奴隷の従者で、信長に贈物として献上している。信長は黒い肌に驚き、何度も洗わせて本当に黒いことを確認したというエピソードが伝わっているが、小姓として身近に置いたということは単に物珍しさだけでなく、彌介の忠誠心を評価したということだろう。

 本作では白人から奴隷として扱われていた彌介が、一人の人間として認めてくれた信長に惚れこみ、献身していく姿が描かれていく。

 信長は彌介の純一な心と日本人をはるかに越える身体能力に感嘆し、黒人だけからなる部隊を編成しようとまで考えている。

 黒人部隊はフィクションだが、大陸侵攻の野望はフロイスが書き残しているし、秀吉が実行しているのでじゅうぶんありえたことだろう。本作の信長はさらに気宇壮大だ。

 「日本国が治まった後、わしは全軍をもって大陸に押し入り、明を制するつもりだ。そしてその後――」  信長が地球儀をゆっくりと回した。 「オスマンという国のコンスタンティノープル、伴天連どもの総本山のローマ、そして、カリオンが語っていたイスパニアを制する。つまりわたしは、欧州の富が集まる四つの港をすべていただく。そなたは、怨み骨髄の白人どもを思いのまま殺せるのだ。もちろん、気に入った者は白奴にしてもよいぞ」

 信長と彌介の夢は本能寺でついえることになる。史料には明智軍と戦った彌介が捕縛された後、日本人ではないという理由で釈放されたところまでは記録されているが、その後はフィクションになる。彌介がどのような運命をむかえるかは本書を読んでいただこう。

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2014年02月24日

『織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代』 武田知弘 (ソフトバンク新書)

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 武田知弘氏は国税庁職員から物書きに転じた人で、『ヒトラーの経済政策』や『史上最大の経済改革“明治維新”』などの経済的視点の歴史物で知られている。

 本書も信長の天下統一を経済的視点から見直そうという試みであり、経済力において信長が他の戦国大名を圧倒していたことがさまざまに論証されている。

 信長の天下統一が経済力を背景にしていたことは、織田軍が非常に金のかかる軍隊だったことからもわかる。

 信長は長篠の戦いで三千丁の鉄砲を投入するなど火器を活用したが、鉄砲は高価であり、火薬に必要な硝石は当時は輸入でしか入手できなかった。

 他の戦国大名は依然として農民兵に頼っていたので動員に時間がかかる上に、農閑期にしか戦えなかったが、信長はいちはやく兵農分離を進め、常備兵をかかえていた。戦争専門の常備兵が農民兵より強いのはあたり前だが、衣食住を丸がかえにしなければならなず、農民兵よりも格段に高くついた。織田軍を維持していくには恐ろしく金がかかったのである。

 では信長は厖大な軍事費をどのようにまかなったか。

 信長は足利義昭を将軍に推戴した際、義昭から望みは何かと聞かれて、官位でも領地でもなく、堺・大津・草津に代官をおく許可をもとめた。

 堺は海外貿易の拠点であると同時に日本最大の工業都市だったが、大津と草津も重要な交易拠点だった。明治まで日本の流通は波の荒い太平洋側よりも、内海である日本海側の航路を幹線としていたが、大津と草津は京都から琵琶湖を通って日本海側に出るルートに位置していたのである。

 港の重視は信長の祖父の信定にはじまる。信長の生まれた織田弾正忠家は清洲織田氏の三人いる家老の一人にすぎなかったが、祖父の信定は尾張の玄関口で伊勢湾交易の拠点である津島港の近くに勝幡城を築き、物流をおさえることによって莫大な収益をえた。

 信長の父の信秀は朝廷と幕府に多額の献金をして、尾張守護斯波氏の陪臣の陪臣の身ながら従五位下に叙せられ、将軍義輝に拝謁する栄に浴している。天文10年の伊勢神宮遷宮のおりにも破格の献金をおこない、三河守に任じられた。尾張の小領主にすぎなかった信秀がこれほどの金を献ずることができたのは津島港という金のなる木をもっていたからだ。織田弾正忠家は信長の祖父の代から経済に敏感だったのである。

 経済利権を握ろうとする信長の前に立ちはだかった勢力がいる。大寺院である。大寺院は戦国大名をしのぐ巨大な経済力をもっていた。

 永正5年に細川高国が発した撰銭禁止令は大山崎、細川高国、堺、大内義興、山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔の八者を対象としていたが、その内の五者までが寺院であり、しかも興福寺以外はすべて叡山関連である。

 叡山の荘園は判明しているだけで285ヶ所を数え、京の中心部に3ヘクタールもの土地を所有していた。

 また土倉というサラ金のような金融業者はいずれも大寺院とつながっており、金を返さない者には罰が当たると脅しつけ、それでも返さないと僧兵が取立てに押しかけた。

 叡山は馬借という運輸業者も支配下におき、琵琶湖に11ヶ所の関所を設けて通行税を徴収していた。

 兵庫湊では東大寺が北関、興福寺が南関という税関を設置して津料をとりたてていた。紀州の根来寺は戦国大名に先んじて石垣積みの寺城館を建てており、境内には300もの子院が立ち並び、堺・国友と並ぶ鉄砲の一大産地となっていた。

 新興の本願寺の経済力もすさまじい。本願寺系の大寺院は河口や街道の合流点など交通の要衝につくられており、寺域に寺内町という商工業地区を設けていた。寺内町は楽市楽座を先取りした特権を戦国大名に認めさせて繁栄を誇り、本願寺の経済的基盤となっていた。

 著者は信長が仏教勢力と衝突したのは、大寺院が握る経済利権を奪いとろうとしたからだとしている。叡山や本願寺との戦いは実は経済戦争だったというわけである。

 著者は信長を経済革命の旗手として描きだしているが、信長は中世を離脱できなかったとする谷口克広氏の『信長の政略』を読んだ後では、盛りすぎではないかと思う箇所がすくなからずある。

 しかし信長が大寺院の既得権を奪おうとしていたとする見方は十分説得力があるし、堺・大津・草津の支配が東国の大名に対する経済封鎖を可能にしたという説も興味深い。経済封鎖にあたる荷留は他の大名もおこなっていたし、武田氏が鉄や硝石が入手できずに困っていたという記録もあるそうである。

 本書の中で一番面白かったのは、金・銀を貨幣にしたのは信長だという指摘である(この部分は浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史』に拠っているよし)。

 中世において貨幣とは中国の銅銭だった。南宋滅亡後、元は紙幣の使用を強制したので大量の銅銭が日本に流入し、貨幣経済を促進した。ところが明が銅銭の輸出を禁止したために銅銭不足におちいり、粗悪な私鋳銭(偽コイン)が横行するようになった。長く使って摩り減った銅銭や私鋳銭を拒否する者が多く、取引を円滑化するために為政者はたびたび撰銭禁止令を出さなければならなくなっていた。それでも貨幣不足はいかんともしがたく、米が代用貨幣として使われるようにさへなった。

 銅銭が足りなければ金貨や銀貨を使えばいいと思うかもしれないが、東洋では金・銀は貴重品ではあったが貨幣ではなかった。

 武田信玄は領内で産した金で甲州金を鋳造したが、贈答品として使われただけで貨幣として流通した記録は武田領内でさえ残っていないそうである。

 金・銀を貨幣として認めた法令は本書によると上洛の翌年の永禄12年(1569)に信長が出した撰銭禁止令だという。

  • 今後、米を通貨として使ってはならない
  • 糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと
  • 中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと
  • 金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと
  • 金10両に対して銅銭15貫文で交換すること
  • 銀10両に対して銅銭20貫文で交換すること

 信長の政治的威信によってはじめて金・銀が貨幣として使われるようになったというわけである。

 著者はさらに信長の名物狩りも金・銀の流通を促進させる狙いがあったとしている。確かに高価な茶道具の代金を金・銀で支払えば、それだけ市中に金・銀が出まわるようになるだろう。

 はたして信長がマネー革命を起こしたのかどうか、大いに気になるところである。

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2014年02月23日

『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』 谷口克広 (学研)

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 谷口克広氏は『織田信長合戦全録』や『信長と消えた家臣たち』、『織田信長家臣人名辞典』など、信長関係のレファレンス本を精力的に執筆してきた人である。本欄でも『検証 本能寺の変』をとりあげたことがある。

 谷口氏の本は信長の家臣団や合戦など、特定分野の情報をバランスよくまとめてくれるので重宝してきたが、『信長の政略』も期待通りで、安心して読める。

 本書は「序章」で信長の天下取りのプロセスを概観した後、「第一部 周囲に対する政略」、「第二部 統一戦争へ向けた政略」、「第三部 民衆統治に関する政略」と三部にわけて記述している。

 「第一部 周囲に対する政略」では「外交と縁組政策」、「室町幕府」、「朝廷」、「宗教勢力」という四つの章を立てているが、それぞれについて学説の変遷を簡潔に紹介するところからはじめているのはありがたい。

 対朝廷政策については幕末の勤王思想家は信長を勤王家の先達と評価し、明治8年の建勲神社創建にいたるが、勤王家という見方は田中義成『織田時代史』によって学説として確立され、第二次大戦期まで信長観を支配することになる。

 ところが敗戦後、信長を中世を終わらせた革命家として評価する見方が浮上し、信長は天皇制否定したとする安良城盛昭の説まで出てくる。

 1970年代には以下の三つの論考が出揃い、今日の信長論の基礎が出来あがった。

  1. 朝廷に対しては「一歩離れてこれを操縦」したとする朝尾直弘「『将軍権力』の創出」(1970-4)
  2. 朝廷とは対立・緊張関係だとした奥野高廣「織田政権の基本路線」(1976)
  3. 信長は中世から離脱できず、朝廷に対しては公武協調政策をとったとする脇田修「統一権力と朝廷」(1977)

 1990年代にはいると2の立場を先鋭化した論があらわれた。今谷明の『戦国大名と天皇』と『信長と天皇』である。馬揃えは朝廷に対する武力威嚇だったとか、三職推任が本能寺の変の原因だったとする見方は今谷の本で世に広まった。

 本書の副題が「信長は中世をどこまで破壊したか」となっているように著者は3の脇田の見方を継承しており、今谷説に対しては批判的だ。

 この論説は実のところ史料選択や解釈などにいろいろと問題点があり、後に堀新氏たちによる手堅い反論によってほとんど覆される形となるのだが、「信長の敵=天皇」という新しい図式がインパクトの強さによって一般にかなり受け入れられていったのである。そして、その図式が一人歩きをする形で、本能寺の変には朝廷勢力の一部がからんでいたという「朝廷黒幕(関与)説」まで生まれてゆくのである。

 ばっさり斬ってすてているが、自分の立ち位置を明確にしているので異なる見方の人にとっても本書は役に立つだろう。

 著者は信長は中世から離脱しきれなかったという立場だけに、近年の信長=革命家説になじんだ目には新鮮な指摘が多い。

 信長は仏教に対しては叡山焼討や長島一揆に対する根切りなど、容赦なくたたきつぶしたが、その一方、抵抗しなかった寺院に対しては最後の時期まで寺領を安堵している。信長は敵対した仏教教団に対して厳しく当たっただけで、叡山や長島に対する処断は度重なる裏切りに対する報復であり、特殊な事例にすぎなかったとするのが著者の見方である。

 信長の楽市楽座も限定的であり、関所の撤廃についても皇室の収入源となっている関所は黙認している。検地も太閤検地のような徹底したものではなく、度量衡や升の統一も確かな証拠は残っておらず、名主や領主の中間搾取も「内徳」として認めていた。

 信長の実像はどうも傍若無人な革命家からは程遠かったようである。

 意外だったのは信長が「外聞」を気にして宣伝を重視していたという指摘である。

 信長は将軍義昭を放逐する前に、義昭とその側近の横暴を諌めた「十七ヶ条の異見書」を送ったが、この異見書の写しは各地にたくさん残っているのである。義昭を諌めるだけが目的なら本人に読ませれば用は足りるはずだが、明かに異見書の写しを大量につくり、あちこちに送りつけて、悪いのは義昭だと印象づける世論工作をおこなっていたのである。

 安土で問題を起こした日蓮宗を処罰するにあたっても、まず面前で宗論をおこなわせ、日蓮宗が敗れたことを京都所司代の村井貞勝に宣伝させている。事実公家の日記などにも宗論の顛末が事細かく書き残されている。

 複数の城を攻める場合、信長は一つの城を一気に力攻めで落とし、他の城が降伏するようにもっていっている。力攻めで落城させると攻める側に大きな犠牲が出るが、他の城が戦意をなくして開城するなら全体の犠牲は小さくなるわけだ。

 信長の残虐性というのも宣伝戦略で盛った部分があるのかもしれない。

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2014年02月22日

『神話論理〈2〉蜜から灰へ』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

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 『神話論理』の第二巻である。表題の「蜜」とは蜂蜜、「灰」とはタバコの灰をさす。

 レヴィ=ストロースは本巻では「神話の大地は球である」ことを証明すると大見えを切るが、その前に蜂蜜について説明しておかなくてはならない。本巻に登場する蜂蜜はわれわれがよく知っている蜂蜜とは似て非なるものだからである。

 そもそもアメリカ大陸にはヨーロッパ人が西洋蜜蜂を持ちこむまでは蜜蜂は存在しなかった。しかし蜜を貯める蜂はいる。ハリナシバチやスズメバチの一部で、本巻で「ミツバチ」と総称されるのはこのハリナシバチやスズメバチのことなのである(蜜をつくる蜂の総称を「ミツバチ」とすると紛らわしいので、第三巻以降は「ハナバチ」と訳語が変わっている。本欄でも総称は「ハナバチ」で統一する)。

 驚いたことにハリナシバチやスズメバチは花の蜜だけではなく、樹液や人間の汗、糞尿、腐肉なども餌にしていて、その蜜は苦かったり、酸っぱかったり、有毒だったりする。また水分が多く、すぐに 醱酵して蜂蜜酒になる蜜もある。

 蜜蜂のつくる蜜は花の種類で味と香のバリエーションがあるが、どんな蜂蜜でも完全に甘い側に位置する。ところがアメリカ大陸在来のハナバチの蜜の多様性はそれどころではなく、最上の食品から毒物までさまざまだ。甘いと苦いの対立が蜜の中にあり、おいしいと舐めていると正気を失ったり、吐き気をもよおしたりするかもしれない両義的な食物なのだ。そしてこの両義性が神話の重要な要素となるのである。

(蜜蜂以外の蜂のつくる蜜というのが想像がつかないので検索してみたら、「ミツバチのいる風景」というミニ番組とグアテマラでペンションを経営する日本人女性のハリナシバチ養蜂体験記が出てきた。ハリナシバチ養蜂は西洋蜜蜂に押されて一時衰退したが、西洋蜜蜂がアフリカ蜜蜂と交雑して凶暴化したために、最近復活のきざしがあるという。)

 蜂蜜と対称的な位置にあるのがタバコである。蜂蜜とタバコはどちらも最上の食物であり毒でもあるという両義性で共通しているが、さらに料理ではないという点も同じである。

 料理ではない理由は蜂蜜とタバコでは真逆である。蜂蜜が料理でないのは蜂のつくった自然の賜物であり、人間が火を通す必要がないからだが、タバコの方は火を通すことを飛び越え、火で燃やしてしまうからである。蜂蜜が料理以前だとしたら、タバコは超料理なのだ。

(第三巻の内容になるが、それが端的にあらわれているのは北米大陸の神話における蜂蜜の相当物である。北米大陸ではハナバチはある時期から姿を消してしまい、蜂蜜は知られていないが、北米インディアンの神話には蜂蜜に相当するものがある。ちょっと考えるとカエデの樹液を煮詰めてつくるシロップのようだが、そうではない。スネークベリー(ヘビイチゴ?)などの野生の漿果がそれにあたるのだ。)

 面白いことに蜂蜜の起源神話(M192)では、蜂蜜は最初は栽培植物だったことになっている。

 大昔蜂蜜はオオカミが独占していたが、カメに先導された動物たちがオオカミを焼き殺し、蜂蜜の苗木をわけあった。ところが多くの動物は蜂蜜の苗木を植える前に食べてしまったので、カメはわずかに残った苗木を森にもどし、増えるまで待とうと申し合わせた。カメは言った。「お前たちが携えていくヒョウタンなどの器に入れて採ってくるだけなら、蜂蜜は決してなくならないだろう。しかし運びきれない蜂蜜は幹の中に残し、口をしっかり塞いでおかなければならない。次の時のためである」

 この神話は栽培種だった蜂蜜を野生もどす過程を語っている。この過程は第一巻『生のものと火を通したもの』で語られた栽培植物の起源神話を正確に反転させている。第一巻は自然から文化への移行がテーマだったが、第二巻は文化から自然への退行という逆操作をあつかうのだ。レヴィ=ストロースが本巻冒頭で「神話の大地は球である」ことを証明すると宣言したのは神話素の変換には逆変換があり、群論的に閉じているという意味である。

 ついでにいえば、神話素が群の構成要素なのではない。群の要素は神話素の変換という操作であって、変換と逆変換が閉じた体系を作っているのである。

 本巻では文化から自然への退行を象徴するようなキャラクターが論じられている。「蜂蜜に狂う娘」と呼ばれるキャラクターで、多くの神話に登場するが、短いものを紹介しよう。

 あるインディアンが妻とともに蜂蜜を探しにいった。蜂の巣が見つかった木を倒すやいなや、妻は蜂蜜が我慢できずに木に飛びついた。夫は腹を立てて妻を殺し、死体を切り分けて焼肉にした。

 男は村に帰ると、焼いた妻の肉をアリクイの肉だといって義母や義妹に食べさせた。義兄がもどってきて焼肉を食べると。すぐにそれが何の肉か知った。

 翌朝、義兄は男を草原に連れだした。一本の木の下で火を燃やすと、その木に登らせハナバチの巣を探させた。義兄は男を矢で射殺し、死体を火で焼いた。

 この神話では「蜂蜜に狂う娘」は親族に食べられてしまうが、別の神話では動物に変えられてしまったり、失踪したり、ろくな目にあっていない。

 「蜂蜜に狂う娘」はなぜこんな哀れな最期をむかえるのだろうか。レヴィ=ストロースは蜂蜜は婿入りした男が妻の親族に提供する最大の贈物なのに、それを独占しようとしたためだとしている。

 蜂蜜に狂う娘の過ちは、利己心や食い意地あるいは恨みの程度がひどくなって、姻族間の供与の循環を断つにいたった点にある。彼女は自分一人で食べるために、蜂蜜を抱えこんでしまって、蜂蜜を集めてくる夫から蜂蜜の消費を担当する両親へと、言ってみれば、蜂蜜を流通させなかったのである。

 欲望を抑えられない女ということなら「バクに誘惑される妻」の神話群がある。「バクに誘惑される妻」は不倫相手のバクを食べてしまうが、食べる/食べられるという点では反転するものの、「蜂蜜に狂う娘」と非常によく似ている。どちらも自制心が欠けているために、親族関係を危機に陥らせ、文化から自然へ退行させるキャラクターなのである。

 本巻の後半では「泣き虫の赤ん坊」というキャラクターが論じられるが、レヴィ=ストロースはなんと「泣き虫の赤ん坊」を日本のスサノオと関連づける。

 日本のものもアメリカのものも、これらの神話は同一の図式に驚くほど忠実である。泣き虫の子供は母親に見捨てられた赤ん坊であるか、母親の死後に生まれている。死後に生まれるということは、捨てられる時期が早まっているだけである。……中略……泣き虫の子供は空に昇り、腐敗した世界を生み出す(雨、けがれ、病気の原因である虹、短い命)、あるいは対称的なヴァリアントにおいては、空に昇るのは世界が焼けないようにするためである。これが少なくともアメリカの神話の図式であり、それが日本の神話では二つに分かれ逆転している。

 レヴィ=ストロースが参照しているのは『古事記』と『日本書紀』を翻訳者がまぜこぜにしてフランス語にしたテキストなので、異論のある人もいるだろうが、スサノオを母親に捨てられた「泣き虫の赤ん坊」と喝破した点は鋭いと思う。

 レヴィ=ストロースはアメリカ大陸の神話を記紀神話と比較しているだけではない。「暗闇の楽器」の神話群の変形過程をヨーロッパ中世のシャリヴァリという風習につなげたり、びっこの踊りと中国古代の帝王禹の神話の対称性を浮彫にする。

 旧世界とアメリカ大陸は最後の氷河期が終わる時期、短期間しかつながっていなかった。縄文人が太平洋を渡ったとか、ヴァイキングがハドソン湾に達していたという話もあるが、コロンブスまではほとんど交流はなかったといっていい。したがって神話に共通点があっても、従来の伝播説では説明がつかない。もし新旧両世界の神話に同型性があるとしたら、人類がアメリカに渡る前に形成された人間精神の共通の構造に根ざすのではないか。

 『神話論理』第二巻にいたってレヴィ=ストロースの探求の目指す方向がようやく見えてきた感がある。

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