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2013年11月29日

『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』 岡井隆 (書肆山田)

鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え →紀伊國屋ウェブストアで購入

 医者にして文学者を兼ねた三大家――鷗外・茂吉・杢太郎――の明治の終りから第一次大戦にいたる10年に思いをはせた随想である。

 副題の「テエベス百門」とはルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのことで、木下杢太郎が鷗外の文業を「テエベス百門の大都」と形容したことにちなむ。著者は自分にとっては木下杢太郎と斎藤茂吉もテーベだと冒頭で語っている。

 一貫した論旨はなく、時間軸に沿って語り進めるわけでもなく、日本が世界の一等国に躍り出て、ちょっと気の弛んだこの時期を気の向くままに行きつもどりつし、三人の作品や日記、書簡、係わりのあった人の回想を読んでは感想を書きつらねていく。

 分厚い本であるが、歌人らしい濃厚な語り口に酔わされ、いつの間にか読みきってしまった。どの話題もたいして深まらないうちに次の話題に横滑りしてしまうのであるが、大正デカダンスに沈淪する語りの魅力が圧倒的なのである。

 歌誌「未来」に2004年から2年半にわたって掲載されたということだが、本書の前には『『赤光』の生誕』、後には『鷗外の『うた日記』』としてまとめられた原稿が連載されている。鷗外・茂吉・杢太郎と名前が並んでいるが、鷗外と茂吉については前後の本で語っているので、本書の半分以上は杢太郎にさかれている。森鷗外と斎藤茂吉の条も杢太郎との係わりで話がはじまる。

 森鷗外と木下杢太郎は師弟の関係である。医学生の頃から鷗外の家に出入りし、観潮楼歌会がはじまると若輩ながら出席を許された。皮膚科という専門は鷗外が勧めたものだったし、試験日を間違えて留年した時には天下の鷗外に教授に及第させてくれるよう頼みに行ってもらっている。鷗外がこんなに面倒見のいい人だとは思わなかった。

 斎藤茂吉は東京帝大医学部で杢太郎の一年先輩であるが、学生時代から短歌の盟友であり、観潮楼歌会でも席を同じくしている。杢太郎は大正5年から9年まで渡満し南満医学堂で皮膚科の教授をつとめるが、その間「アララギ」に連載した『満洲通信』は茂吉宛の書簡の体裁をとっていた。

(ちなみに安部公房の父の浅吉は木下杢太郎こと太田正雄が南満医学堂に赴任した年に入学している。おそらく太田教授の皮膚科の授業に出ていたと思われる。)

 この時代の前途有望な青年の常として三人は有力な家から見こまれ、その家の娘と結婚している。茂吉が医学の道に進み、杢太郎がヨーロッパ留学に踏み切れたのは妻の実家の援助によるところが大きい。鷗外の世代は国の後ろ盾がないと留学できなかったが、一等国となってからは民間の力でも青年をヨーロッパに送りだせるようになっていたのだ。

 妻の実家の世話になるには、それだけの葛藤もある。鷗外の場合はエリスの事件もあって早々と離婚しているが、茂吉と杢太郎は煩悶をかかえながら家制度の内部に甘んじていた。

 著者は晩年に関心があると語りながら、本書では杢太郎の青春時代しか語っていない。しかし、それでいいというのである。「杢太郎は二十代こっきりの人」だからである。

 では、杢太郎の三十代四十代(五十代まで入れれば最晩年ということになるが)はなんだったかといえば、青春期をたえず想い出しながら生きたということだろう。一見厖大ともいえる著作があり、全集は二十五巻に及ぶが、そのうちの青春のカオスの部分は、四、五巻分で、あとは、それを反芻して生きた記録だ。回想記に生彩があるのはそのためである。愚痴や嘆きぶしの嫌いなこの人は、濃厚な回想記を書くことによって、三十代以降の自分を支えた。三十代以降の自分とは、主として医師太田正雄の生である。そして、その影に、ひっそりと息づいているむかしの木下杢太郎があった。

 著者は「杢太郎の文芸は後ろ向きのまま充実していた」とも語っている。鷗外・茂吉と深く係わった20代をおさえておけば晩年まで射程におさめることができるというわけだろう。もちろん褒め言葉だが、身も蓋もない言い方である。

 著者自身医者であるから、医学と文学の両立の問題にふれざるをえない。文学はそれだけに没頭しなければディレッタントで終わってしまう。人の命を預かる医者をつづけながら文学にかかわるのは所詮ディレッタンティズムにすぎないのではないか。実際杢太郎は一高時代、医学に進むかドイツ文学に進むかで悩んでいる。

 著者がここで注目するのは杢太郎の獨協中学時代の親友で、ともに一高・東京帝大医学部へと進んだ山崎春雄という人物である。山崎は文学と絵画を愛好し、なかなかの画才をもっていたようだが、美術学校に進もうなどとは考えずにまっすぐ医学の道に進んだ。卒業後は解剖学教室にはいり、敢えて医師免許もとらずに熊本医大と北海道大学で解剖学を教えて一生を終わった。

 著者は基礎医学を選ぶにあたっては決意があったはずだと語っているが、山崎は熊本に赴任する時に文学から手を引き、北大に移る時には絵画も燃やしてしまったという。著者は山崎の弟子と遺族に山崎の人となりを問い合せているが、山崎が学生時代に文学と絵画に没頭していたことも、木下杢太郎の親友だったことも誰も知らなかった。

 わたしが本書をひもといた直接の理由は鷗外の『我百首』の全釈が含まれているからである。

 『我百首』は題詠で詠まれた歌が多く、一貫したテーマはないとされてきたが、小平克氏は森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』でエリスとの係わりを歌った緻密に構成された歌集だと読みといた。無理な解釈もあるが、うなづける部分もすくなくなかった。岡井隆なら『我百首』をどう読むだろうという興味があったのだ。

 結論をいえば「どの一首も独立していて、連作の気味がない」というのが岡井の見立てである。西洋や東洋の教養にもとづく難解な語を用い、一首一首に物語を仕こんでるのはプロ級の歌人の集まる観潮楼歌会の題詠で創作された歌であり、発表の場も『スバル』という高踏的なサロン雑誌だったからだというのだ。

 エリス事件の一部始終を暗号のように読みこんでいるというようなうがった見方は一顧だにされていないが、モチーフの一つとしてエリスの面影が用いられている可能性は否定されていない。

 たとえば「Niscioreeの酒」にはじまる恋歌がつづく部分。

(28) うまいより呼び醒まされし人のごと円き目をあき我を見つむる

(29) 何事ぞあたら「若さ」の黄金を無縁の民に投げて過ぎ行く

(30) 君に問ふその脣の紅はわが眉間なる皺を熨す火か

(31) いにしへゆもてはやす徑寸わたりすんと云ふ珠二つまで君もたり目に

(32) 舟ばたに首を俯して掌の大さの海を見るがごとき目

(33) 彼人は我が目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ

 岡井は27首から30首は男女の意識のすれ違いを老年の回顧的な目で眺めていると読み、31首から33首の目の連作はリルケの第一詩集(『家常茶飯』の参考文献に含まれているから鷗外は読んでいるはず)の「愛」に通ずると指摘している。

愛する君の眼なざしには
光に充ちた 大きな海が宿る、
夢みるいろいろな姿でできている渦の中から
清らかな心が現れるとき。

すると その輝きがあんまり大きいので私はふるえる、
クリスマスの樹が煌めく前で 二枚の扉が
音もなく両側へひらくとき
思わず佇む子供のように。(片山敏彦訳)

 「どうだ、すごいだろう」と自己顕示しているような風は確かにあるかもしれない。

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