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2013年11月27日

『親族の基本構造』 レヴィ=ストロース (青弓社)

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 『親族の基本構造』は1947年に刊行されたレヴィ=ストロースの主著である。レヴィ=ストロースの名を文化人類学の世界で一躍高めるとともに、構造主義の出発点ともなった。

 日本では刊行から40年もたった1987年になってようやく番町書房から最初の翻訳(以下「旧訳」)が出た。学問的に重要な本であるのはもちろん、40年の間には二度の構造主義ブームもあったのに、これだけ時間がかかったのは『親族の基本構造』がそれだけ難物だからだろう。

 旧訳の翻訳にあたったのは日本の文化人類学の一方の中心である都立大の研究者たちで、本書であつかわれる東シベリアからインドにいたる地域で実地調査した経験のある人も含まれていた。

 学問的には申し分ないだろうが、旧訳は読みやすい本ではなかった。わたしは出た直後に読もうとしたが、第一部の手前で挫折した。

 今回もう一度挑戦しようと思いたったが、2001年に青弓社から新訳が出ていたことを知った。最近の現代思想関係の新訳はどれも読みやすいが、本書もすらすら読めて拍子抜けした。

 レヴィ=ストロースは学術論文であってもレトリックに凝ることで知られている。本書の序文は特に気合いがはいって『悲しき熱帯』ばりの美文になっている。旧訳ではこんな具合だ。

 かくして、文化と自然との対照について、真の関係分野はどこまで遡及されるのか、という質疑が出てくる。動物に近いと判定される何とも疑わしい形式を排除するため、荒々しく努力した人類 genre Homo――語意反用的に sapiens[賢明な]と名づけられた――というこの「種」による製作品が、だいたいにおいて、それを指すとするならば、その単純さは人々を迷わせることになろう。数十万年または更に遠い以前に人びとを鼓舞したのと同じく愚鈍にして破壊的な精神が、今日では他の生活の諸様式を根絶させるのを駆進している。それは、このような生活様式を代表する数多くの人間の諸社会が、自然を拒否していないとの理由だけで、誤ってそれらを自然の側に格下げしたからである。あたかも、それのみが始めから自然に対しても文化を具現し、かつ、それが完全に自己抑制可能なる場合を除き、生命なき物質に立ち向かっての生命の化身であると自負するかのように――というわけである。

 一回読んだだけで意味がわかる人はあまりいないと思う。同じ箇所が新訳だとこうなる。

 文化と自然はどこまでほんとうに対立するのか。ホモ属に属する種のうち、皮肉にもサピエンスと呼ばれる種が、もろもろの中間の種をそれが動物に近いと見ればむごたらしく殺戮することに血道を上げ、その様にしてかなりの程度まで文化と自然の対立をこしらえあげたとするなら、二つを単純に対立させるのはまやかしだろう。あの殺戮を思えば、いかにもこの種はすでに何十万年も前から、いやそれ以前から、現在と同じ愚鈍で破壊的な精神に導かれて行動していたらしい。今日でもこの精神を推進力にして他の生命形態を絶滅させようとしている。

 すらすら読めるという感想が決して誇張でないことがわかるだろう。

 旧訳と新訳では絶滅させられた集団の解釈が異なっている。旧訳は未開民族が動物に近いという理由で絶滅させられたと読んでいるが、新訳はホモ・サピエンスがネアンデルタール人のような傍系人類を絶滅させたとしている。原文にあたってみたが、ここは新訳が正しいと思う。レヴィ=ストロースは専門書の中にも分野の違う話題を平気で織りこんでくるのだ。

 新訳は福井和美氏の個人訳である。福井氏はアルチュセールの訳書があることからすると現代思想畑の人と思われるが、文化人類学を専門にしているわけではないということである。専門外の人間が『親族の基本構造』のような難物を訳せたのは専門の研究者集団による先行訳があったからだろう。

 専門外の人が訳す利点は門外漢がどこでつまづかわかる点である。専門家にとっては自明の言葉でも、門外漢はまったくわからなかったり、あるいは日常語と同じだったりすると、わかったつもりになって見当はずれの誤解がそのままになったりする。本書はつまづきそうな用語は本文中に組みこんだ訳注でいちいち解説してあって随分助けられた。

 その一方、直感的にわかりやすくという配慮からだろうか、本書では専門の研究者の間で定着しきた訳語とは違う訳語を採用している例がすくなくない。

 incest は旧訳では「近親婚」だったが、新訳では「インセスト」とカタカナ書きされている。レヴィ=ストロースが問題にしているのは生物学的な近親結婚ではなく社会的禁忌だからというのが理由だ。旧訳を見てみよう。

 近親婚の禁止は両性間の関係に関する限り、「人は何をしてもかまわないわけではない」ということを集団的に確認するだけである。この禁止の積極的な側面は組織を始動させることである。

 次に新訳。

 インセスト禁忌は、要するに、男女関係に関して好き勝手なふるまいは許されないとの集団の側からする主張にほかならない。禁止の積極的側面は組織化の端緒を開くことにある。

 「近親婚」か「インセスト」かは揺れの範囲内かもしれないが、「一般交換」l'échange géneralisée を「全面交換」とするのはどうだろうか。

 一般交換は限定交換と対になる本書の最重要キーワードである。限定交換が二つの集団の間で嫁をやったりとったりすることをあらわすのに対し、一般交換では婚姻関係が多くの集団の間に拡大される。婚姻関係を拡大する上でキモとなるのが嫁をもらう集団と、嫁に出す集団をわけるという仕組である。

 この仕組について触れた箇所を較べてみよう。まず旧訳。

 ゴリド族にあっては、女は母の兄弟の息子と結婚することはできない。というのは、そのことは「彼女の母の血を母のクランに運び返す」ことになるであろうから。しかし、男が自分の母の兄弟の娘と結婚することはまったく可能なのである。かくのごとく、彼にすでにその血を与えた母方のクランは「新鮮な血」を、それも「同じ起源の血」を彼の子供たちに提供しつづける。一般交換の原理をこれ以上に強く、またこれ以上に明瞭に表すことはできないであろう。(強調引用者)

 次に新訳。

 ゴリドでは、女が自分の母の兄弟の息子と結婚することは「母の血を母のクランに戻す」ことになるのでできないが、しかし男が自分の母の兄弟の娘と結婚することは、当の男にすでに血を与えた母方クランが、この男の子供たちにも起源の同じ新鮮な血を提供しつづけることになるので、無条件にできる。全面交換原理のこれほど力強い、これほどはっきりとした表現もほかになかろう。(強調引用者)

 「全面交換」としたからといって、特にわかりやすくなるわけではないと思う。一般交換は「一般交換」でよかったのではないかという気がする。

 新訳は索引が充実していることも注目したい。旧訳は9頁だったが、新訳は18頁と倍増している(活字がひと回り小さいので分量の差はもっとある)。

 内容を見ていこう。

 まず二つの序文だが、第二版の序文の方には「選好」という語の使い方が曖昧だと英米の人類学者に批判されたことに対する言い訳が書いてある。レヴィ=ストロースは結構アバウトな面があるようだ。

 序論では自然と文化の区別をインセストを手がかりに探るという本書の構想が語られている。過去のインセストの説明をいちいち批判しているが、概説書の内容を再確認したにとどまる。

 第1部「限定交換」も概説書でさんざん読んだ内容とそれほど違わない。交叉イトコ、平行イトコ、双分組織……とおなじみの話題であるが、互酬原理の部分は面白かった。

 レヴィ=ストロースは互酬贈与で入手した実利品には自作の品にない神秘的付加価値が伴うが、それは現代社会でも同じだとしてプレゼントを例にあげ、クリスマスのプレゼント交換は巨大なポトラッチだという。

 さらに年代物のワインやフォアグラを一人で食べると罪の意識をおぼえるのは一人で飲み食いすることは一種のインセストだからだと指摘し、安レストランでたまたま座りあわせただけの客同士がワイン交換で盛り上がる情景へと筆を進めていく。

 会食者の胸中には、目に見えない不安がどうしようもなく兆してくるだろう。接触がどんな些細ないとわしさを告げてくるのかわからないがゆえの不安。ワイン交換はまさにこのつかの間の、しかし困難な場面に決着をつけてくれる。それは好意を明示し、相互のおぼつかない気持ちを解消し、並列状態の代りに交流をもたらすのである。だがワイン交換はそれ以上のものである。それは一歩退いた態度をとる権利をもっていた相手を、そこから抜け出るように仕向ける。ワインが供されたならワインを返さなくてはならない、親愛の情には親愛の情で応えなくてはならないのである。

 レヴィ=ストロースは譬え話をしているのではない。彼は本当にパリの安レストランのワイン交換と未開部族の互酬贈与が同じだと考えているのだ。

 限定交換は日本でもおこなわれている。埴谷雄高の『死霊』では三輪家と津田家が互いに嫁をやったりとったりしているが、そうした対になった家系は珍しくない。あれこそまさに限定交換の名残であろう。

 第一部後半からは全面交換に話題が移るが、人口が減って交換規則が維持できなくなった例や複数の部族が合併した例、さらには他の部族に交換規則を学ぶ例などがとりあげられている。サルトルとの論争もあってレヴィ=ストロースは歴史的な視点をもたないと割り切っている概説書がすくなくないが、実際は通時的変化を語っているのである。

 第2部「全面交換」ではビルマのカチン型体系を検討した後、いきなりシベリアのギリヤーク型体系に飛び、両者がよく似た単純な全面体系となっていると指摘し、ビルマ・シベリア軸の可能性に説きおよぶ。

 ビルマ・シベリア軸があるとしたら、その真ん中に位置するのは中国の漢型社会である。漢型社会は親族を270に分類する最も精密な呼称体系を有している(ある人類学者が言語に依存しない普遍的な親族分類体系を作ろうとしたところ、中国の親族呼称体系そっくりになってしまったそうである)ことからもわかるように、もっとも複雑で洗練された全面交換を形成している。

 興味深いことに漢型体系とギリヤーク型体系の中間に位置する満洲型体系と、漢型体系とカチン型体系の中間に位置するナガ型体系はどちらも中間形態をとっている。

 最も進んだ漢型体系に接して中間的な満洲型体系とナガ型体系があり、その外側に単純なギリヤーク型体系とカチン型体系があるのだ。あたかも東アジア中央部で全面交換が進化していき、その影響が同心円状に広まっていかのようではないか。

 レヴィ=ストロースは「蝸牛考」のような伝播説を唱えているのだろうか。

 そうではない。レヴィ=ストロースは伝播説の直前で身を翻す。中国社会では高度な全面交換と混在して単純な全面交換や限定交換が生きた制度として残っていること、カチン型、ギリヤーク型など最も単純な全面交換形式にすら限定交換が執拗にあらわれることを指摘し、一種の発展段階説に向かう。

 漢型体系は、いままで考察してきたすべての体系のなかでも確かにもっとも進化しているが、この体系がそうであるのは、中国社会そのものが、アジア東域を占めるすべての社会のなかでもっとも進化しているからなのである。とはいえ、漢型体系はきわめて純粋なかたちで全面交換定式を保存してきたのであり、ゆえに、この体系が全面交換定式を本来の意味で乗り越えたことは一度もなかった。同様に、クキ型、カチン型、ギリヤーク型などの体系が、いまだ限定交換の波にさらされていないと述べることもまたできない。じつにそれらの体系は限定交換の芽を懐に抱えていて、この芽は、いっさいの外的影響がなくても、自力で成長していくにちがいないのである。全面交換を伴うカチン=ギリヤーク型、全面交換と限定交換が混淆する満洲=ナガ型、限定交換を伴う『爾雅』の語る漢型、我々が出会ったこれら親族体系の三つの型は、要するに一連の文化移動における三つの段階というより、同一の構造の示す三つの様態であるように思われる。しかも我々は、もっとも単純だと見なす形式にあとになってはじめて発展していく性格のすべてをあらかじめ見出しもする。

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