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2013年11月30日

『それからのエリス』 六草いちか (講談社)

それからのエリス →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトをつきとめた『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の続編である。著者がついにエリーゼの写真にまで行き着いたことは新聞の報道などでご存知だろう。本書はこの奇跡ともいえる発見の顚末を語っている。

 前著のしらみつぶしの調査の後でまだ調べることが残っているのだろうか、周辺的事実の落ち穂拾いで終わってしまうのではないだろうかと危惧して読みはじめたが、はたして370ページのうち最初の270ページは心配したとおりの展開だった。

 六草いちか氏は調査を再開するにあたり一つの仮説を立てる。エリスは鷗外の子供を身ごもっており、ドイツに帰ってから産んだのではないか、というのだ。

 そう疑う理由はある。まず不幸な結末にもかかわらずエリーゼが鷗外と文通をつづけていたこと。日本くんだりまで行ったのに追い返され(帰りの船の件で森家はエリーゼにひどい仕打をしている)、独身をつらぬくならまだしも、さっさと別の女と結婚した男と手紙をやりとりをするなど、女性としてよほどの事情があったのではないかというわけだ。

 興味深いことに鷗外は毎月海外に謎の送金をおこなっていた。本の注文ではない。鷗外はドイツの書店にまとまった額を送金しておいて随時本を取り寄せ、残金がなくなりそうになると、またまとまった額を送るようにしていたので、書籍代を頻繁に送金する必要はなかった。

 エリーゼ帰国の16年後、鷗外は日露戦争に出征するが、その間送金手続は母の峰が代行していた。それも80円という結構な額である(森家の一ヶ月の生活費は50円)。

 毎回80円送っていたのかどうかはおくとして、鷗外はどうしても毎月「西洋為替」を送らなければならない事情があったらしい。宛先はエリーゼだったのだろうか。エリーゼが産んだ子供の養育費と考えれば説明にはなる。

 六草氏はこの仮説をもとにエリーゼ周辺の出産記録に丹念にあたっていくが、その過程で帰国後のエリーゼとその家族、そして世紀末のベルリンの庶民生活がしだいに明かになっていく。

 発見は多い。たとえば家主とされていたヨハン・ジルバーナーゲル氏はエリーゼの母の再婚相手で、一家はジルバーナーゲル家に間借りしていたわけではなく、年のはなれた弟が産まれていたこと。

 今野勉氏が『鷗外の恋人 百二十年後の真実』でアンナ・ベルタ・ルイーゼ説の物証とした文京区森鷗外記念館所蔵のモノグラムとイニシャル違いの同じ物を発見して大量生産品であることを確認し、クロステッチの部分に暗号が隠されているという見方に完全にとどめをさしたこと。

 鷗外の最初の下宿というふれこみの「ベルリン・フンボルト大学鷗外記念館」は縁もゆかりもない別の建物にあること。

 1908年に『舞姫』の最初のドイツ語訳をおこなった宇佐美濃守がエリーゼに会っていたこと。ベルリンの日本人留学生コミュニティは小さいので『舞姫』が評判にならないはずはなく、エリーゼの仕事場に押しかけるふとどき者もいたらしい(六草氏がエリス探しをはじめるきっかけとなった日本人「軍医」と踊子のロマンスは『舞姫』にかぶれた日本人留学生のしわざだった可能性がある)。

 鷗外研究者なら真っ青になるような事実がいろいろ出てくるが、一般の読者にとってはたいして興味のあることではないかもしれない。

 そしてようやくエリーゼの結婚相手がユダヤ系ポーランド人の「行商人」のマックス・ベルンハルドであり、彼のみすぼらしい「墓石」をつきとめるところまでゆく。

 エリーゼは38歳で結婚したことは公文書によって確認されたが、面白いのはテクストの読解だけで同じ結論を引きだした研究者がいたことだ。

 その研究者とは『森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』の小平克氏で、『うた日記』の「無名草」に掲出されている

前栽の ゆふべこほろぎ 何を音に鳴く
女郎花 君あらぬまに 枯れなんとなく

君をおもふ 心ひとすぢ 二すぢの征箭
折りくべて たけば烟に むせびてぞ泣く

の「君をおもふ 心ひとすぢ 二すぢの征箭」(あなたを想う心は一筋だったのに、二筋の征矢に射られた身となった)という条から「エリーゼは別の男性からの〈想いの矢〉を受け入れて結婚を承諾したので、鷗外には手紙を出さないとの通告があったものと推測される」と結論しているという。

 「無名草」は銃後の志げ夫人になりかわって作った詩歌とされてきたが、鷗外はちゃっかりエリーゼの心情で詠った詩をまぎれこませていたのである(文学少女だった志げ夫人は気がついていたと思われるが、結婚したならいいかと黙過したのだろうか)。

 六草氏は本業で取材しなければならないベルリン映画祭が迫ったこともあり、探索を打ち切ろうとする。

 ここで前著以来たびたび救いの手をさしのべてきた「墓地の彼女」が六草氏を叱咤し、偶然につぐ偶然というか、怒濤の展開がはじまる。そして人知を越えた流れに押し流されたというか、何かに引き寄せられたというか、ついにエリーゼの親族にたどり着き、「行商人」の妻とはかけ離れた生活をしていたと知ることになるのである。

 決定的なのはエリーゼが日本に行ったことがあると一族の間で語り継がれていたことだ。これまでテレビの取材でエリスの親族とされる人が二度出てきたことがあるが、日本に行った話を聞いたことがあるかという問いにどちらも知らないと答えていた。120年も前にドイツから娘一人で日本に旅行するのは大事件であって、語り継がれないはずはないのだ。

 読者の中には最後の100ページの幸運の連続は信じられないという人がいるかもしれない。しかし取材していると、人知を越えためぐりあわせのようなことがままあるのである。わたし自身、どうしても入手できなかった資料が向こうの方から飛びこんできたという経験が一再ならずある。

 エリスをさがす六草氏の探索は大団円をむかえた。海外送金など不明な点はいくつか残るが、120年前のことだからしかたないだろう。よくぞここまで真相に迫ったと拍手を贈りたい。

 最後にもう一つ。前著と本書の二冊は鷗外の研究書としてだけでなく、読物として抜群に面白い。特に「墓地の彼女」のキャラクターは強烈だ。謎解きあり、悲恋あり、観光あり、笑いありで、映画にぴったりだと思うのだが、誰か映画化しないだろうか。

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『森鷗外の『うた日記』』 岡井隆 (書肆山田)

『うた日記』 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 森鷗外は明治37年4月、第二軍軍医部長として日露戦争に出征した。以後2年近くを満洲の荒野ですごすが、そのおりおりに書きとめた詩歌をまとめ、明治40年に『うた日記』を出版した。

 本書は『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』につづく本で、『うた日記』をめぐる評釈と随想である。

 『うた日記』は新体詩58編、訳詩9編、長歌9首、短歌331首、俳句168句をおさめ、以下の5部にわかれる。

うた日記 343頁
隕石 39頁
夢がたり 31頁
あふさきるさ 20頁
無名草 51頁

 「うた日記」は『うた日記』の中核部分で、明治37年3月27日から明治39年1月1日までの日付のある新体詩、長歌、短歌、俳句をおさめる。近代デジタルライブラリーで確認できるが、初版では「うた日記」の部分は頁の天に軍刀のカットがあしらわれており、うまいとはいえない挿画もはいっている(著者は編集者まかせにしたのでこういう本が出来上がったのではないかとしている。軍医は戦闘後に忙しくなるので確かに鷗外は多忙だったろう)。

 「隕石ほしいし」はドイツの戦争詩の邦訳9編からなる。創作詩と訳詩を対比させる趣好は次の『沙羅の木』に受け継がれる。

 「夢がたり」は新体詩6編、短歌43首で、文字通り夢想を歌っている。戦陣にあった鷗外の内面がもっともあらわれているとされている。

 「あふさきるさ」とは「ああも思い、こうも思う」という意味で、内地に出した書信に書き添えた即興の短歌28首、俳句12句、新体詩2編をおさめる。

 「無名草ななしぐさ」は妻しげ子になり代わって詠んだ歌で、三好行雄は「集中の白眉」と高い評価をあたえている。

 鷗外は日露戦争をはさんだ明治35年から40年までの5年間、作品をあまり発表していない。短編二編と評伝『ゲルハルト・ハウプトマン』、そして最大のものが『うた日記』である。

 鷗外が久々に上梓した本だったにもかかわらず『うた日記』は同時代的にはまったく話題にならず、まともに論じられた形跡もない。昭和9年になってようやく佐藤春夫の『陣中の竪琴』があらわれている。

 著者は『うた日記』が注目されなかった理由を二つあげている。

 第一に詩歌に不慣れな編集者が担当したのか、ページの上部に軍刀のカットをいれなど詩歌の本としては趣がなく、一般の詩歌好きの読者や、詩人、歌人、俳人には「日露戦争の勝利の記念品」として受けとられていたらしいこと。雅号でなく本名で出版したことも、軍人森林太郎の作品という印象を強めたことだろう。

 軍人として出すにしても、単なる記念品でなく戦争体験を詠った作品として世に問うつもりなら、それなりの序文や後書があってしかるべきだろう。ところが鷗外は序歌にあたるものを巻頭に掲げたにとどまる。本当に記念品のつもりだったのかもしれない。

 第二に『うた日記』は文語体の韻文で一貫しているが、刊行された明治40年という年は近代詩歌史上文語体から口語体に移行する端境期にあたっており、最初から時代遅れと受けとられた可能性が高いこと。

 詩は、文語定型詩から、口語自由詩へと動いて行った。萩原作太郎の『月に吠える』(大正六年)が出たとき、それを評価した鷗外には、むろんこのような近代史詩の推移変貌はわかっていたであろうし、散文の上で『舞姫』など文語の近代的表現を完成させようと同時にそこから「半日」以降、現代語へと自ら書き改めて行った鷗外である。

 時代の流れをわかっていながら、鷗外はあえて文語体の調べにこだわり、韻文として完成させようと工夫を凝らしている。『うた日記』は慣れ親しんだ旧時代の詩形であえてつくられた本らしいのだ。

 鷗外は負傷したロシア士官が従卒につきそわれて治療を求めにくる一場を長歌で詠っている。応急処置をすませた後、鷗外は一応尋問するが、

軍情は  問へど答へず
答へねば 強ひても問はず
傷つける 身をいたはりて
病院へ  やがておくりぬ

 国際法で捕虜の黙秘は認められているから、それ以上追求することはなく、士官は病院に、従卒は捕虜収容所に送っている。ロシア兵の投降、治療、尋問といった戦場の出来事が五七調の優美な調べに自然にはまっている。殺伐とした戦場で慰めに作った歌というしかないだろう。

 新体詩も多くは五七調・七五調で作られていて、音数律においては短歌・長歌・俳句と共通しており、伝統的な韻律の流れに連なっている。新体詩といえども独立した作品としてあるのではなく、前後の短歌・長歌・俳句と響きあって、一つのストーリーを形成しているというわけだ。著者は「うた日記」は「戦陣にあった一人の中年の軍医の長編物語詩」として編纂されたんではないかとまで述べている。

 しかし伝統から一歩踏みだした作品もある。たとえば近年注目されている「罌粟、人糞」。

 「人糞」は「ひとくそ」と読むが、著者はタイトルの「罌粟」と「人糞」の大胆なとりあわせにまず驚く。内容はさらに大胆だ。戦場の性をテーマにしているからだ。

 兵の乱暴を怖れて隠れていた村の娘が見つかり、姦される。詩は兵の服装の描写からはじまる。

紐は黄 はかま
仇見る てだてに慣れて
をみなご たやすく見出でつ
ますらお 涙なく
いなめど きかんとはせで
あす来と 契りてゆきぬ
恥見て 生きんより
散際 いさぎよかれと
花罌粟 さはに食べつ
たらちね かくと知り
吐かすと のませたまひし
人屎ひとくそ 験なかりき

 娘は辱めを受けたまま生きていくよりはと罌粟の花を大量に食べ自殺をはかる。母親は毒を吐かせようと人糞を水で溶いて飲ませるが効果がない。そこで日本軍の野戦病院につれてきて吐瀉剤を懇望し、娘は一命をとりとめる。

 近年、娘を姦したのがロシア兵か日本兵かで議論になっているが、著者はそうした政治的な話柄には近づかず、安定した五七調ではなく、あえて四音・七音という不安定な音数律が選ばれている点に注目する。七五調の微温的な作品がつづく中で、この詩は形式においてもアヴァンギャルドなのである。

 四音・七音では長歌ではなく新体詩ということになるが、この詩の後には短歌が二首、まるで反歌のように置かれているのである。

磚瓦もて小窓ふたげるこやの雨に女子をみなご訴へうさぎうま鳴く

毒ながら飲みし花罌粟ふさはしき子よといはんもいとほしかりき

 一首目の「うさぎうま」とはロバのことで、「瓦をつんで小窓をふさいでいる小屋に雨が降っている。少女は、姦されたあとの苦しみを訴える。そして、同じ小屋の外では、ロバがいななく」というほどの意味である。

 著者は戦場の性をめぐる生々しい詩の後に牧歌的なロバのいななきをもってきた鷗外の手際を賞賛する。

この「うさぎうま鳴く」という結句がいいではないか。あるいは、訴えられている鷗外の、やや距離をとった立場を示しているとも言える。「この毒物である花罌粟にふさわしい美しい少女よと言いながらかわらいらしい思いがする」という二首目も、状況の切迫しているにしては美しすぎる気もする。つまり「罌粟、人糞」のエピソードを、あまり政治的に読む必要はないように思えるのである。あのように、韻律をととのえ、音数律に工夫をこらす詩人の手つきからは、やはり美的効果への関心が、作者鷗外にはあった、と言っていいように思える。

 ドラマチックなのはここまでで、この後は戦いと戦いのあいまの外地の平穏な生活を点描した俳句の連作がつづく。

 鷗外は現場で見聞したであろう戦場の性の問題を美的な慰めにとけこませてよしとしたのだろうか。そうではないと著者はいう。『うた日記』出版後、本格的に文壇に復帰した鷗外は従軍記者の性犯罪を描いた「鼠坂」など、社会的な題材をとりあげた作品をつぎつぎと発表するが、その姿勢は『うた日記』と無関係ではないというのである。

 日露戦争のあと、戦後の世界で鷗外が書いたものは、わたしには、どれも問題小説、課題評論のように思える。それらは『うた日記』を書いて、編んで、出版したことと、どこか深いところで、関連しているように思える。わたしはこの点、結論を急ぐつもりはないが、黙々と二年近くを満州の山野で戦ってすごした鷗外は、その記録を詩歌の形で、日記の形で残した。そしてそれは、必ずしも世の注目するところとはならなかった。このことが、戦後の旺盛で、問題提起的な作品群や、観潮楼歌会、「スバル」などの文学運動をひきおこすことになったのではないかと思っている。

 この推定が正しいなら『うた日記』の位置づけはおのずと変わってくるだろう。『うた日記』は鷗外が文壇に復帰する上で発条となった本なのかもしれないのである。

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2013年11月29日

『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』 岡井隆 (書肆山田)

鴎外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え →紀伊國屋ウェブストアで購入

 医者にして文学者を兼ねた三大家――鷗外・茂吉・杢太郎――の明治の終りから第一次大戦にいたる10年に思いをはせた随想である。

 副題の「テエベス百門」とはルクソール神殿や死者の谷があるエジプトの古都テーベのことで、木下杢太郎が鷗外の文業を「テエベス百門の大都」と形容したことにちなむ。著者は自分にとっては木下杢太郎と斎藤茂吉もテーベだと冒頭で語っている。

 一貫した論旨はなく、時間軸に沿って語り進めるわけでもなく、日本が世界の一等国に躍り出て、ちょっと気の弛んだこの時期を気の向くままに行きつもどりつし、三人の作品や日記、書簡、係わりのあった人の回想を読んでは感想を書きつらねていく。

 分厚い本であるが、歌人らしい濃厚な語り口に酔わされ、いつの間にか読みきってしまった。どの話題もたいして深まらないうちに次の話題に横滑りしてしまうのであるが、大正デカダンスに沈淪する語りの魅力が圧倒的なのである。

 歌誌「未来」に2004年から2年半にわたって掲載されたということだが、本書の前には『『赤光』の生誕』、後には『鷗外の『うた日記』』としてまとめられた原稿が連載されている。鷗外・茂吉・杢太郎と名前が並んでいるが、鷗外と茂吉については前後の本で語っているので、本書の半分以上は杢太郎にさかれている。森鷗外と斎藤茂吉の条も杢太郎との係わりで話がはじまる。

 森鷗外と木下杢太郎は師弟の関係である。医学生の頃から鷗外の家に出入りし、観潮楼歌会がはじまると若輩ながら出席を許された。皮膚科という専門は鷗外が勧めたものだったし、試験日を間違えて留年した時には天下の鷗外に教授に及第させてくれるよう頼みに行ってもらっている。鷗外がこんなに面倒見のいい人だとは思わなかった。

 斎藤茂吉は東京帝大医学部で杢太郎の一年先輩であるが、学生時代から短歌の盟友であり、観潮楼歌会でも席を同じくしている。杢太郎は大正5年から9年まで渡満し南満医学堂で皮膚科の教授をつとめるが、その間「アララギ」に連載した『満洲通信』は茂吉宛の書簡の体裁をとっていた。

(ちなみに安部公房の父の浅吉は木下杢太郎こと太田正雄が南満医学堂に赴任した年に入学している。おそらく太田教授の皮膚科の授業に出ていたと思われる。)

 この時代の前途有望な青年の常として三人は有力な家から見こまれ、その家の娘と結婚している。茂吉が医学の道に進み、杢太郎がヨーロッパ留学に踏み切れたのは妻の実家の援助によるところが大きい。鷗外の世代は国の後ろ盾がないと留学できなかったが、一等国となってからは民間の力でも青年をヨーロッパに送りだせるようになっていたのだ。

 妻の実家の世話になるには、それだけの葛藤もある。鷗外の場合はエリスの事件もあって早々と離婚しているが、茂吉と杢太郎は煩悶をかかえながら家制度の内部に甘んじていた。

 著者は晩年に関心があると語りながら、本書では杢太郎の青春時代しか語っていない。しかし、それでいいというのである。「杢太郎は二十代こっきりの人」だからである。

 では、杢太郎の三十代四十代(五十代まで入れれば最晩年ということになるが)はなんだったかといえば、青春期をたえず想い出しながら生きたということだろう。一見厖大ともいえる著作があり、全集は二十五巻に及ぶが、そのうちの青春のカオスの部分は、四、五巻分で、あとは、それを反芻して生きた記録だ。回想記に生彩があるのはそのためである。愚痴や嘆きぶしの嫌いなこの人は、濃厚な回想記を書くことによって、三十代以降の自分を支えた。三十代以降の自分とは、主として医師太田正雄の生である。そして、その影に、ひっそりと息づいているむかしの木下杢太郎があった。

 著者は「杢太郎の文芸は後ろ向きのまま充実していた」とも語っている。鷗外・茂吉と深く係わった20代をおさえておけば晩年まで射程におさめることができるというわけだろう。もちろん褒め言葉だが、身も蓋もない言い方である。

 著者自身医者であるから、医学と文学の両立の問題にふれざるをえない。文学はそれだけに没頭しなければディレッタントで終わってしまう。人の命を預かる医者をつづけながら文学にかかわるのは所詮ディレッタンティズムにすぎないのではないか。実際杢太郎は一高時代、医学に進むかドイツ文学に進むかで悩んでいる。

 著者がここで注目するのは杢太郎の獨協中学時代の親友で、ともに一高・東京帝大医学部へと進んだ山崎春雄という人物である。山崎は文学と絵画を愛好し、なかなかの画才をもっていたようだが、美術学校に進もうなどとは考えずにまっすぐ医学の道に進んだ。卒業後は解剖学教室にはいり、敢えて医師免許もとらずに熊本医大と北海道大学で解剖学を教えて一生を終わった。

 著者は基礎医学を選ぶにあたっては決意があったはずだと語っているが、山崎は熊本に赴任する時に文学から手を引き、北大に移る時には絵画も燃やしてしまったという。著者は山崎の弟子と遺族に山崎の人となりを問い合せているが、山崎が学生時代に文学と絵画に没頭していたことも、木下杢太郎の親友だったことも誰も知らなかった。

 わたしが本書をひもといた直接の理由は鷗外の『我百首』の全釈が含まれているからである。

 『我百首』は題詠で詠まれた歌が多く、一貫したテーマはないとされてきたが、小平克氏は森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』でエリスとの係わりを歌った緻密に構成された歌集だと読みといた。無理な解釈もあるが、うなづける部分もすくなくなかった。岡井隆なら『我百首』をどう読むだろうという興味があったのだ。

 結論をいえば「どの一首も独立していて、連作の気味がない」というのが岡井の見立てである。西洋や東洋の教養にもとづく難解な語を用い、一首一首に物語を仕こんでるのはプロ級の歌人の集まる観潮楼歌会の題詠で創作された歌であり、発表の場も『スバル』という高踏的なサロン雑誌だったからだというのだ。

 エリス事件の一部始終を暗号のように読みこんでいるというようなうがった見方は一顧だにされていないが、モチーフの一つとしてエリスの面影が用いられている可能性は否定されていない。

 たとえば「Niscioreeの酒」にはじまる恋歌がつづく部分。

(28) うまいより呼び醒まされし人のごと円き目をあき我を見つむる

(29) 何事ぞあたら「若さ」の黄金を無縁の民に投げて過ぎ行く

(30) 君に問ふその脣の紅はわが眉間なる皺を熨す火か

(31) いにしへゆもてはやす徑寸わたりすんと云ふ珠二つまで君もたり目に

(32) 舟ばたに首を俯して掌の大さの海を見るがごとき目

(33) 彼人は我が目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ

 岡井は27首から30首は男女の意識のすれ違いを老年の回顧的な目で眺めていると読み、31首から33首の目の連作はリルケの第一詩集(『家常茶飯』の参考文献に含まれているから鷗外は読んでいるはず)の「愛」に通ずると指摘している。

愛する君の眼なざしには
光に充ちた 大きな海が宿る、
夢みるいろいろな姿でできている渦の中から
清らかな心が現れるとき。

すると その輝きがあんまり大きいので私はふるえる、
クリスマスの樹が煌めく前で 二枚の扉が
音もなく両側へひらくとき
思わず佇む子供のように。(片山敏彦訳)

 「どうだ、すごいだろう」と自己顕示しているような風は確かにあるかもしれない。

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2013年11月28日

『演劇場裏の詩人 森鷗外―若き日の演劇・劇場論を読む』 井戸田総一郎 (慶應義塾大学出版会)

演劇場裏の詩人 森鷗外―若き日の演劇・劇場論を読む →紀伊國屋ウェブストアで購入

 鷗外は芝居好きの家に育った。千住時代は家族そろって近所の芝居小屋や寄席にくりだすことがよくあった。弟の篤次郎は三木竹二の筆名で歌舞伎評論の草分けとなった。

 ドイツ留学時代も鷗外はオペラから場末の見世物まで、さまざまな劇場に足繁く通った(『独逸日記』の観劇の記述は取捨選択したもので、実際はもっとたくさん見ている)。芝居を見ただけではなく演劇関係の本や本業の衛生学とひっかかりのある劇場営業法関係の資料を収集し、日本に持ち帰っている。

 鷗外留学中の1886年、日本では伊藤博文のお声がかりで演劇改良会が結成され、欧米の一流劇場のような洋風劇場を建設し、「野鄙猥褻にして日進文明の人情世態に適さない」歌舞伎を上流人士の鑑賞にふさわしく近代化しようという運動が起こっていた。鹿鳴館同様欧化政策の一環であり、当然反撥もあった。

 1888年に帰朝した鷗外は演劇改良運動の渦中に飛びこんで論陣を張り、西洋の演劇理論を紹介し、戯曲を翻訳し、さらには自ら劇作の筆をとった。

 本書は20代の鷗外が演劇とどう係わったかを追求した論文集である。

「第1章 一八八〇年代のドイツと鷗外の観劇体験―劇場と制度」

 明治の日本は欧化に懸命だったが、お手本とされたヨーロッパの方も近代化の最中だった。お手本自体が日々変貌していった。

 この論文は1860年代から80年代まで20年間のベルリンの劇場事情を、警察当局の劇場営業法とからめて跡づけている。

 ベルリンは1860年代から人口が急増した。1860年に50万人だった人口は1877年には100万人を突破し、鷗外が帰国した1888年には150万人に迫ろうとしていた。

 警察は劇場の許認可に慎重だったが、1869年に劇場営業法に「営業の自由」が盛りこまれ、「申請者に信頼できない事実が存在しない限り、認可は与えられねばならない」とされると劇場の数は瞬く間に数倍に増えた。宮廷国民劇場にあたえられていた悲劇・大オペラ・バレエの独占上演の特権も撤廃された。

 歌謡と演芸の上演だけが許されていたカフェ・シャンタンやティンゲルタンゲルと呼ばれる飲食店に併設された舞台でも芝居が上演できるようになった。

 あまりにも劇場が増えすぎたので1870年代には揺りもどしが起こり、当局の規制が強化されるようになった。

 この論文の一番の読みどころは『舞姫』のヰクトリア座のモデルとなったベルリン・ヴィクトリア劇場を考証した条だろう。

 場末のうらぶれた劇場と思いこんでいたが、1859年の開場当時はベルリンを代表する大劇場で、1862年には幕府遣欧使節団の公式レセプションがおこなわれ、福沢諭吉『西航記』に「フクトリヤ・ヲペラ」として登場するという。

 この劇場は広大な庭園の中に建てられていた。庭園の両側には緑のつるで被われた格子が組まれ、庭園の前部には周りを水性植物と貝で飾った白鳥型の噴水が水を噴き上げていた。庭園後部の一段高くなっている部分には立派な柱廊広間横幅いっぱいに作られ、広間の上階は楽隊の席の両側に桟敷が設けられ、庭園が眺められるようになっていた。上演の前後には音楽が演奏され、庭園はガス灯で煌々と照らし出された。

 劇場の構造にも特色があり、一つの舞台を挟んで冬用の客席と夏用の客席が向かいあって配置されていたのだ。冷房がなかった時代、夏専用の劇場があったが、ヴィクトリア劇場は夏冬兼用の最先端の劇場だった。

 ヴィクトリア劇場は舞台で本物の火を使うスペクタクルを売りにしていたが、1881年にウィーン・リング劇場で大火災が起こり、多数の死傷者が出ると火の使用が禁止され、急速に寂れていった。道路拡張計画に引っかかったことが直接の原因となり1891年に取り壊された。

「第2章 都市と劇場―安全な劇場をめぐる言説」

 この論文は前段では1881年のウィーン・リング劇場の火災を機に整備されたベルリンの劇場防災令と、その影響を受けたらしい東京の劇場取締規則改正を検討する。後段では「欧州劇場の事」、「劇場の雛形」、「劇場の大きさ」の三つの論文を紹介する。

 リング劇場の火災は当時は大事件と受けとめられたらしく、ベルリンで「衛生及び救難博覧会」が開かれると大反響を呼び、展示物を収蔵する衛生博物館がクロステル街に作られる。エリスの住居があるとされたあのクロステル街である。  「欧州劇場の事」は次章の内容と重なるのでここでは割愛する。

 「劇場の雛形」は「衛生及び救難博覧会」で募集された懸賞論文で一席となったシュミットとネッケルマンの「模範劇場」の構造を詳述し、ヨーロッパの最新防災技術を紹介している。

 「劇場の大さ」は日本の劇場は枡席なので一人あたり専有面積はヨーロッパの劇場の半分しかないと指摘したり、台詞劇用の劇場かオペラ用の劇場かで最適な面積が異なると説いている。

「第3章 演劇の近代―欧化主義と国粋主義の対立を超えて」

 この論文は本書の要になる力作で多彩な内容を含んでいるが、前段はハードウェアとしての劇場論、後段は劇場の運営の主体は誰であるべきかを論じたソフトウェアとしての劇場論となろう。

 最初の二つの論文は衛生学者もしくは行政官としての鷗外が前面に出ていたが、ここでようやく演劇史的な視点と演出の視点が中心になる。

 鷗外が帰国した時、日本では演劇改良論が世をにぎわしていた。劇場の構造も大道具もすべて洋風にしろ、時代遅れの花道などは廃止してしまえという末松謙澄らの欧化論に対し、鷗外は「しからみ草紙」創刊号の巻頭に載せた「演劇改良論者の偏見に驚く」と、それにつづく「再び劇を論じて世の評家に答ふ」で真向から反論する。

 欧化論者が西洋の劇場と思いこんでいるプロセニアム・アーチとデコレーション優先の重厚な装置を備えた額縁舞台は18世紀から19世紀前半に流行した様式にすぎず、決して西洋を代表する劇場ではない。ギリシア時代の劇場ともシェークスピア時代の劇場とも異なっており、そうした劇場では速い舞台転換ができず、『夏の夜の夢』や『十二夜』は上演不可能である。

 ヨーロッパでは新しい様式をもとめて模索がはじまっており、演劇改良論者が古いと決めつけている歌舞伎の花道や回り舞台をとりいれ、『夏の夜の夢』を上演する試みがおこなわれている(歌舞伎は西洋人の旅行記で紹介され、演劇人の注目を集めていた)。

 ゲーテにはじまるドイツの演劇改革運動ではデコレーションに頼らない「簡樸なる劇場」が理念に掲げられているが、日本の劇場はまさに「簡樸なる劇場」である(鷗外は「夫れ日本劇場は即是れシエイクスピイア舞台なり」とまで書いている)。

 次に鷗外の演劇論中最重要の「演劇場裏の詩人」に移る。この論文は1890年2月の『しからみ草紙』第五号に掲載されたが、日本演劇協会でおこなった講演が元になっている。

 鷗外は国民教化の場とすることにも反対し、ゲーテを援用しながらあくまで「詩情の発揮の場」、「審美の対象」であるべきだと説くが、ゲーテの俳優は一枚の絵画たる舞台の一添景にすぎないとする俳優論には反対し、ゲーテを批判的に継承した19世紀のドイツ演劇改革運動に論を進めていく。

 レアリスム論など興味深い論点が多々あるが、デュッセルドルフで改革を実践したインマーマンによるところが大きいそうである。

 それまでの宮廷劇場は宮廷人が運営にあたっていたが、インマーマンは詩人があたるべきだとし、実質的な権限をIntendant(本書では「劇場監督」の語をあてているが、「芸術監督」の方が一般的である。「劇場監督」では「舞台監督」と混同しかねない)に集中させた。

 鷗外はインマーマンの実践を踏まえて「演劇論者」が「詩人たる資格」で「興行の権」を握るべきだとした。本書の表題となっている「演劇場裏の詩人」とは芸術監督として責任を負った劇作家に他ならない。

 今日芸術監督となるのは劇作家よりも演出家だが、演出が独立した仕事として認知されるのは20世紀になってからで、当時は過渡期だった。

 ちなみに日本で最初に演出を問題にしたのは和辻哲郎だという。和辻は鷗外訳のホーフマンスタール『痴人と死』の劇評でレギー(演出)に「舞台技巧」の語を当てて論じているよし。

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2013年11月27日

『親族の基本構造』 レヴィ=ストロース (青弓社)

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 『親族の基本構造』は1947年に刊行されたレヴィ=ストロースの主著である。レヴィ=ストロースの名を文化人類学の世界で一躍高めるとともに、構造主義の出発点ともなった。

 日本では刊行から40年もたった1987年になってようやく番町書房から最初の翻訳(以下「旧訳」)が出た。学問的に重要な本であるのはもちろん、40年の間には二度の構造主義ブームもあったのに、これだけ時間がかかったのは『親族の基本構造』がそれだけ難物だからだろう。

 旧訳の翻訳にあたったのは日本の文化人類学の一方の中心である都立大の研究者たちで、本書であつかわれる東シベリアからインドにいたる地域で実地調査した経験のある人も含まれていた。

 学問的には申し分ないだろうが、旧訳は読みやすい本ではなかった。わたしは出た直後に読もうとしたが、第一部の手前で挫折した。

 今回もう一度挑戦しようと思いたったが、2001年に青弓社から新訳が出ていたことを知った。最近の現代思想関係の新訳はどれも読みやすいが、本書もすらすら読めて拍子抜けした。

 レヴィ=ストロースは学術論文であってもレトリックに凝ることで知られている。本書の序文は特に気合いがはいって『悲しき熱帯』ばりの美文になっている。旧訳ではこんな具合だ。

 かくして、文化と自然との対照について、真の関係分野はどこまで遡及されるのか、という質疑が出てくる。動物に近いと判定される何とも疑わしい形式を排除するため、荒々しく努力した人類 genre Homo――語意反用的に sapiens[賢明な]と名づけられた――というこの「種」による製作品が、だいたいにおいて、それを指すとするならば、その単純さは人々を迷わせることになろう。数十万年または更に遠い以前に人びとを鼓舞したのと同じく愚鈍にして破壊的な精神が、今日では他の生活の諸様式を根絶させるのを駆進している。それは、このような生活様式を代表する数多くの人間の諸社会が、自然を拒否していないとの理由だけで、誤ってそれらを自然の側に格下げしたからである。あたかも、それのみが始めから自然に対しても文化を具現し、かつ、それが完全に自己抑制可能なる場合を除き、生命なき物質に立ち向かっての生命の化身であると自負するかのように――というわけである。

 一回読んだだけで意味がわかる人はあまりいないと思う。同じ箇所が新訳だとこうなる。

 文化と自然はどこまでほんとうに対立するのか。ホモ属に属する種のうち、皮肉にもサピエンスと呼ばれる種が、もろもろの中間の種をそれが動物に近いと見ればむごたらしく殺戮することに血道を上げ、その様にしてかなりの程度まで文化と自然の対立をこしらえあげたとするなら、二つを単純に対立させるのはまやかしだろう。あの殺戮を思えば、いかにもこの種はすでに何十万年も前から、いやそれ以前から、現在と同じ愚鈍で破壊的な精神に導かれて行動していたらしい。今日でもこの精神を推進力にして他の生命形態を絶滅させようとしている。

 すらすら読めるという感想が決して誇張でないことがわかるだろう。

 旧訳と新訳では絶滅させられた集団の解釈が異なっている。旧訳は未開民族が動物に近いという理由で絶滅させられたと読んでいるが、新訳はホモ・サピエンスがネアンデルタール人のような傍系人類を絶滅させたとしている。原文にあたってみたが、ここは新訳が正しいと思う。レヴィ=ストロースは専門書の中にも分野の違う話題を平気で織りこんでくるのだ。

 新訳は福井和美氏の個人訳である。福井氏はアルチュセールの訳書があることからすると現代思想畑の人と思われるが、文化人類学を専門にしているわけではないということである。専門外の人間が『親族の基本構造』のような難物を訳せたのは専門の研究者集団による先行訳があったからだろう。

 専門外の人が訳す利点は門外漢がどこでつまづかわかる点である。専門家にとっては自明の言葉でも、門外漢はまったくわからなかったり、あるいは日常語と同じだったりすると、わかったつもりになって見当はずれの誤解がそのままになったりする。本書はつまづきそうな用語は本文中に組みこんだ訳注でいちいち解説してあって随分助けられた。

 その一方、直感的にわかりやすくという配慮からだろうか、本書では専門の研究者の間で定着しきた訳語とは違う訳語を採用している例がすくなくない。

 incest は旧訳では「近親婚」だったが、新訳では「インセスト」とカタカナ書きされている。レヴィ=ストロースが問題にしているのは生物学的な近親結婚ではなく社会的禁忌だからというのが理由だ。旧訳を見てみよう。

 近親婚の禁止は両性間の関係に関する限り、「人は何をしてもかまわないわけではない」ということを集団的に確認するだけである。この禁止の積極的な側面は組織を始動させることである。

 次に新訳。

 インセスト禁忌は、要するに、男女関係に関して好き勝手なふるまいは許されないとの集団の側からする主張にほかならない。禁止の積極的側面は組織化の端緒を開くことにある。

 「近親婚」か「インセスト」かは揺れの範囲内かもしれないが、「一般交換」l'échange géneralisée を「全面交換」とするのはどうだろうか。

 一般交換は限定交換と対になる本書の最重要キーワードである。限定交換が二つの集団の間で嫁をやったりとったりすることをあらわすのに対し、一般交換では婚姻関係が多くの集団の間に拡大される。婚姻関係を拡大する上でキモとなるのが嫁をもらう集団と、嫁に出す集団をわけるという仕組である。

 この仕組について触れた箇所を較べてみよう。まず旧訳。

 ゴリド族にあっては、女は母の兄弟の息子と結婚することはできない。というのは、そのことは「彼女の母の血を母のクランに運び返す」ことになるであろうから。しかし、男が自分の母の兄弟の娘と結婚することはまったく可能なのである。かくのごとく、彼にすでにその血を与えた母方のクランは「新鮮な血」を、それも「同じ起源の血」を彼の子供たちに提供しつづける。一般交換の原理をこれ以上に強く、またこれ以上に明瞭に表すことはできないであろう。(強調引用者)

 次に新訳。

 ゴリドでは、女が自分の母の兄弟の息子と結婚することは「母の血を母のクランに戻す」ことになるのでできないが、しかし男が自分の母の兄弟の娘と結婚することは、当の男にすでに血を与えた母方クランが、この男の子供たちにも起源の同じ新鮮な血を提供しつづけることになるので、無条件にできる。全面交換原理のこれほど力強い、これほどはっきりとした表現もほかになかろう。(強調引用者)

 「全面交換」としたからといって、特にわかりやすくなるわけではないと思う。一般交換は「一般交換」でよかったのではないかという気がする。

 新訳は索引が充実していることも注目したい。旧訳は9頁だったが、新訳は18頁と倍増している(活字がひと回り小さいので分量の差はもっとある)。

 内容を見ていこう。

 まず二つの序文だが、第二版の序文の方には「選好」という語の使い方が曖昧だと英米の人類学者に批判されたことに対する言い訳が書いてある。レヴィ=ストロースは結構アバウトな面があるようだ。

 序論では自然と文化の区別をインセストを手がかりに探るという本書の構想が語られている。過去のインセストの説明をいちいち批判しているが、概説書の内容を再確認したにとどまる。

 第1部「限定交換」も概説書でさんざん読んだ内容とそれほど違わない。交叉イトコ、平行イトコ、双分組織……とおなじみの話題であるが、互酬原理の部分は面白かった。

 レヴィ=ストロースは互酬贈与で入手した実利品には自作の品にない神秘的付加価値が伴うが、それは現代社会でも同じだとしてプレゼントを例にあげ、クリスマスのプレゼント交換は巨大なポトラッチだという。

 さらに年代物のワインやフォアグラを一人で食べると罪の意識をおぼえるのは一人で飲み食いすることは一種のインセストだからだと指摘し、安レストランでたまたま座りあわせただけの客同士がワイン交換で盛り上がる情景へと筆を進めていく。

 会食者の胸中には、目に見えない不安がどうしようもなく兆してくるだろう。接触がどんな些細ないとわしさを告げてくるのかわからないがゆえの不安。ワイン交換はまさにこのつかの間の、しかし困難な場面に決着をつけてくれる。それは好意を明示し、相互のおぼつかない気持ちを解消し、並列状態の代りに交流をもたらすのである。だがワイン交換はそれ以上のものである。それは一歩退いた態度をとる権利をもっていた相手を、そこから抜け出るように仕向ける。ワインが供されたならワインを返さなくてはならない、親愛の情には親愛の情で応えなくてはならないのである。

 レヴィ=ストロースは譬え話をしているのではない。彼は本当にパリの安レストランのワイン交換と未開部族の互酬贈与が同じだと考えているのだ。

 限定交換は日本でもおこなわれている。埴谷雄高の『死霊』では三輪家と津田家が互いに嫁をやったりとったりしているが、そうした対になった家系は珍しくない。あれこそまさに限定交換の名残であろう。

 第一部後半からは全面交換に話題が移るが、人口が減って交換規則が維持できなくなった例や複数の部族が合併した例、さらには他の部族に交換規則を学ぶ例などがとりあげられている。サルトルとの論争もあってレヴィ=ストロースは歴史的な視点をもたないと割り切っている概説書がすくなくないが、実際は通時的変化を語っているのである。

 第2部「全面交換」ではビルマのカチン型体系を検討した後、いきなりシベリアのギリヤーク型体系に飛び、両者がよく似た単純な全面体系となっていると指摘し、ビルマ・シベリア軸の可能性に説きおよぶ。

 ビルマ・シベリア軸があるとしたら、その真ん中に位置するのは中国の漢型社会である。漢型社会は親族を270に分類する最も精密な呼称体系を有している(ある人類学者が言語に依存しない普遍的な親族分類体系を作ろうとしたところ、中国の親族呼称体系そっくりになってしまったそうである)ことからもわかるように、もっとも複雑で洗練された全面交換を形成している。

 興味深いことに漢型体系とギリヤーク型体系の中間に位置する満洲型体系と、漢型体系とカチン型体系の中間に位置するナガ型体系はどちらも中間形態をとっている。

 最も進んだ漢型体系に接して中間的な満洲型体系とナガ型体系があり、その外側に単純なギリヤーク型体系とカチン型体系があるのだ。あたかも東アジア中央部で全面交換が進化していき、その影響が同心円状に広まっていかのようではないか。

 レヴィ=ストロースは「蝸牛考」のような伝播説を唱えているのだろうか。

 そうではない。レヴィ=ストロースは伝播説の直前で身を翻す。中国社会では高度な全面交換と混在して単純な全面交換や限定交換が生きた制度として残っていること、カチン型、ギリヤーク型など最も単純な全面交換形式にすら限定交換が執拗にあらわれることを指摘し、一種の発展段階説に向かう。

 漢型体系は、いままで考察してきたすべての体系のなかでも確かにもっとも進化しているが、この体系がそうであるのは、中国社会そのものが、アジア東域を占めるすべての社会のなかでもっとも進化しているからなのである。とはいえ、漢型体系はきわめて純粋なかたちで全面交換定式を保存してきたのであり、ゆえに、この体系が全面交換定式を本来の意味で乗り越えたことは一度もなかった。同様に、クキ型、カチン型、ギリヤーク型などの体系が、いまだ限定交換の波にさらされていないと述べることもまたできない。じつにそれらの体系は限定交換の芽を懐に抱えていて、この芽は、いっさいの外的影響がなくても、自力で成長していくにちがいないのである。全面交換を伴うカチン=ギリヤーク型、全面交換と限定交換が混淆する満洲=ナガ型、限定交換を伴う『爾雅』の語る漢型、我々が出会ったこれら親族体系の三つの型は、要するに一連の文化移動における三つの段階というより、同一の構造の示す三つの様態であるように思われる。しかも我々は、もっとも単純だと見なす形式にあとになってはじめて発展していく性格のすべてをあらかじめ見出しもする。

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