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2013年09月29日

『理性の不安』 坂部恵 (勁草書房)

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 日本語で読めるカントの研究書として有名な本である。初版は今から30年近く前に出たが、何度か改版をくりかえしてロングセラーをつづけている。

 よく言及されるので気になっていたが、はじめて読んだ。意外だったのは読みやすいことである。研究書というよりエッセイの文体で書いてあるのだ。同じ著者が講談社学術文庫から出している入門書よりよほど読みやすい。

 エッセイ風に書いたのは気まぐれではなく、必然性があったと思われる。

 カントは難解な文章で知られるが、若い頃も難しい本を書いていた。ところが『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙にはいるすこし前、1763年から1770年――年齢にして39歳から46歳――にかけての7年間、一般読者を意識したヴォルテールばりの文体で書いた時期があるのだ。その頃を代表するのが『美と崇高の感情に関する観察』と『視霊者の夢』である。

 『美と崇高の感情に関する観察』はカント生前では最も広く読まれた本で、カントはメンデルスゾーン(作曲家の祖父)やニコライとならぶ通俗哲学の第一人者と見なされるようになった。

 通俗哲学というと大衆向けの哲学のような印象をもつ人がいるかもしれないが、「通俗」には悪い意味はない。当時台頭してきた教養ある市民層を意識した専門用語を使わない哲学がそう呼ばれた。

 著者はカントは通俗哲学時代にアイデンティティの危機に遭遇したと見ており、その克服が批判哲学の誕生につながったとしている。本書は通俗哲学時代の再評価を通じて危機の乗り越えを描きだそうという試みである。

 しかしなぜ危機が通俗哲学とつながるのか。

 カントがヒュームによって「独断のまどろみ」を破られ、批判哲学に向かったことはよく知られているが、ヒューム以上に影響をあたえた思想家がいる。ルソーである。

 カントがルソーをはじめて読んだのは1763年、39歳の時だった。その衝撃で一気に書きあげたのが『美と崇高の感情に関する観察』だが、カントはこの著作で従来の学校文体を捨てて通俗哲学の文体を採用している。

 カントは同書の手沢本に次のように書きこんでいる。

 一時期、私はこのこと〔学問〕のみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。

 カントはそれまで学者仲間に読まれることだけを考えて書いていたが、それではいけないことに気がついたというのだ。カントは専門に閉じこもった学者を「一眼の巨人」にたとえるようになる。『人間学』から引こう。

 私は、そのような学者を、一眼巨人と呼ぶ。彼は、学問のエゴイストであり、そのような人には、もう一つの眼、彼の対象を他人の立場から眺めるような、もう一つの眼が必要である。学問の人間性、すなわち、自分の判断を、他の人々の判断とつきあわせて吟味することによって、それに社会性をもたせるということは、ここにもとづく。

 カントは『人間学』と他の学問の関係は「二つの眼の関係」にあたるとつづけ、『人間学』の眼は学問の眼を超越しているとしている。

 ここには批判哲学の最初の動機がうかがえる。われわれは超越論的観念論の壮大な構築物にばかり眼が行ってしまうが、批判哲学はそもそも理性の批判であり、理性の越権を告発するものだったのだ。

 そうであれば学者相手の学校文体ではなく、教養ある市民に読まれるための通俗哲学の文体を選択するのは必然であり、本質的なことでもあるだろう。

 この転換を端的に示すのが、この時期カントが哲学 Philosophie の代りに用いた Weltweisheit という言葉である。Weltweisheit は「学校概念」と対比して「世間概念」と訳されるが、「世界知」とか「世間知」と訳されることもある。カントは社会に開かれた学問を目指そうとしたのである。

 ところが10年の沈黙の後に世に出た『純粋理性批判』は学校文体の最たるものであり、教養ある市民が目を回しそうな恐ろしく難解な文章で書かれていた。

 もちろん内容が要求した部分もある。『純粋理性批判』は既存の形而上学とその背後にあるスコラ哲学に全面的な戦いを挑んでおり、相手の武器を用いて戦わざるをえず、専門用語だらけになるのは仕方ないのだ。

 だが、そうは言ってもカントがヴォルテール流の文体を二度と用いなかったのも事実だ。批判期を境にカントはもう一度文体を変えたのである。

 著者はその理由を『視霊者の夢』にもとめる。カントは『視霊者の夢』で本当のアイデンティティの危機にはまり込んでしまい、安全のために学校文体にもどったというのだ。

 カントはルソーによって社会とつながる大切さを知り、象牙の塔に閉じこもった学問のあり方を乗り越えようとしたが、それだけだったら深刻なアイデンティティの危機にまではいたらない。カントは私講師になった次の年から自然地理学の講義をはじめており、限定された形とはいえ社会に開かれた学問を実践していたからだ。

 『美と崇高の感情に関する観察』の段階では安全圏の自己変革で済んでおり、自己批判めいたことを書きこんだにしても、それは本当の自己否定ではない。

 ところが『視霊者の夢』でカントはのっぴきならない形で自分自身と対決し、自分が腰かけていた枝を自分で切り落とす破目におちいってしまった。

 青年時代のカントは講壇哲学の神学とないまぜになった宇宙論を拒否し、万有引力の法則のみによって現実の宇宙の姿を説明しようとした。その成果が1755年の『天界の一般自然史と理論』である。この著作は副題に「ニュートンの原則に従って論じられた全宇宙の構造と機械的起源に関する試論」あるように、神の介入を必要としない宇宙論だった。

 原初の混沌からの宇宙の誕生が機械論的法則だけで説明できるというのはまさに理性的推論の勝利だったが、だからといって神が不要になったわけではない。神の手が途中で介入する必要こそなくなったものの、万有引力の法則だけで宇宙が説明し尽くされるとは、宇宙が神の完璧な作品であり、目的論的秩序を隠れた前提としていることを意味する。カントが心血を注いで構築した宇宙論は、実はライプニッツ=ヴォルフ流の講壇哲学を根柢として成立していたのである。

 カントは『視霊者の夢』で感性の夢想家スウェーデンボリをたたき斬り、返す刀で講壇哲学に斬撃をくわえたが、ライプニッツとヴォルフに向けた理性の夢想家という批判はそのまま自分自身に跳ね返ってきた。

 著者は『視霊者の夢』のヴォルテール流の文体が実は自分で自分を笑いのめす「鏡細工」にも似た多層構造になっていると読みとき、その書き方のうちに「不幸なる意識」の圧殺のドラマを透かし見ている。

 著者によれば『視霊者の夢』は単にスウェーデンボリをからかった本ではなく、『ラモーの甥』やルソーの『対話』のように自我分裂と狂気の一歩手前まで行ってしまったという。

 そこまで評価するのはためらわれるが、ドラマチックなことが何もないと思われていたカントにアイデンティティの危機があったという指摘は決して無視できないのではないか。

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