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2013年09月28日

『カントの人間学』 フーコー (新潮社)

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 カントは1772年度の冬学期から『実用的見地からの人間学』(以下、『人間学』)を開講した。カントは当時48歳で『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙の期間にはいっていた。

 『人間学』はコペルニクス的展開のただ中ではじまった講義であるが、以後1797年に実質的に引退するまでの25年間、冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』を同じ曜日に講義しつづけた。人気のある科目だったので引退してからようやく出版されたが、カントは74歳になっていた。

 『人間学』は『自然地理学』とともに「通俗的」講義と見なされ、長らく等閑にふされてきたが、意外な人物が注目していた。ミシェル・フーコーである。

 フーコーは『人間学』をみずから仏訳するとともに、1961年に提出した国家博士号の副論文のテーマに選んだ。それが本書である(主論文は『狂気の歴史』)。

 フーコーは『人間学』仏訳の序文にするつもりだったが、審査にあたったジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤックはカント研究の枠を越えて発展していく可能性を認め、翻訳とは別に出版することを勧めた。

 その期待にこたえたのが1966年に出版された『言葉と物』である。『人間学』の仏訳は1964年に上梓されたが、短い添書(『ミシェル・フーコー思考集成2』所載)だけをつけた。本書は生前には公刊されず、読むには博士論文を保管するソルボンヌの図書館でタイプ原稿を閲覧するしかなかったが、ようやく2008年になって活字になった。

 カントの『人間学』は1798年の公刊版のほかに1770年代と1780年代の講義草稿、学生のノート(最新は1790年度冬学期)、公刊版と同じ年に発表された「単なる決意によって病的感覚を統御する心の力について」、公刊版の後に出版された講義録『論理学』や研究者がもてあましてきた『オプス・ポストゥムム』、さらに関連する書簡など多くの資料がある。

 フーコーはこうした資料群を「テクストの堆積層」と呼び、「テクストの考古学」、「知の編成」を試みる。

 フーコーは狂気や監獄、性など特定分野のおびただしい資料群、というかそれこそ図書館の一角をまるごと読みきって、力業で「テクストの考古学」をやってのけたが、一人の哲学者の特定の著作を対象に考古学的探求をおこなったのは珍しいのではないだろうか。

 フーコーはまず『人間学』の執筆時期を考証し、1997年の前半に大半が書かれたことを明らかにする。カントは73歳になっており、その頃には耄碌していたという見方が多い。ところが公刊版は過去の講義草稿を単に整理したものではなく、1790年度の学生のノートとも違っており、思想的な発展が見られるというのだ。驚いたことに、フーコーは老人性痴呆症の産物と片づけられてきた『オプス・ポストゥムム』までまともな論考としてあつかっている。

 フーコーがカントの『人間学』と最晩年の思想的発展を重視するのは18世紀にはじまる人間学の潮流と絡みあっているからだ。

 デカルトは意識を神経管の中を流れる動物精気の運動で説明しようとした。デカルトにとって身体は機械の一種であり、物理法則で理解されるべきものだった。物理法則ですべてが覆い尽くされる以上、人間学独自の領域などというものは存在しようがない。

 ところが18世紀になると身体は自然の一部ではあっても物理の一部ではないという考え方が台頭してくる。ヴォルフの体系では生理学はなお自然学の一部門だったが、身体は物理法則ではなく、身体独自の法則で理解されるべきだと考えられるようになっていた。

 ヴォルフは生理学を「特に人間の、生気を与えられた身体」についての学と呼ぶのはなぜなのか。それはおそらく、人間についての認識が魂という形而上学的な特権の規定と、医学という技術的熟練が交わる地点に位置しているからだろう。だからこそ、人間は「自然」と「物理」のあいだのずれによって開けた空き地に、認識にとっての第一の主題としてあらわれることになる。

 カントの『人間学』はこうした潮流をとりこんだが、人間学の方もカントの影響を受けていた。『人間学』は出版こそ1798年だが、学生のノートの筆写というかたちで流布しており、カントを参照する著作はすくなくないという。

 生理学だけでなく心理学や社会学という学問も18世紀の人間学の潮流から生まれようとしていた。カントの『人間学』も社会の中の人間を注視している。

 『人間学』には、会食というささやかな社会のかたちに対する根強い関心が見られる。重要なのはまず「会話」であり、その会話でやりとりされるもの、やりとりされるべきものである。「社交界」は各人がつながりつつ主権をたもちつづける場として、威厳を持った社会的・道徳的なモデルにまで高められる。なにより、語らいが価値あるものとされる。語らいとは、ある者と他の者、もしくは居合わせた者全員のあいだで生まれ、そこで完成されるものだ。つまり人間学の観点からすると、モデルとなる集団は家族でも国家でもなく、「食卓を囲む集い」なのである。

 だがカントの『人間学』を18世紀の人間学の代表と考えることはできないし、人間学を基礎づけたと考えることもできない。カントの『人間学』は人間学の潮流に棹さすようでいて、実は流れに逆らっていたからだ。

 『人間学』は『三批判』と平行して展開されており、表裏一体の関係にある。『三批判』では人間の能力の限界が問われたが、『人間学』では経験の次元でその能力がどう失調し、どう迷うかが観察される。

 カントにとって人間学は人間の否定性と限界の研究である。人間学に人間の根拠を見出そうとしてはならない。人間学を本源にいたる自然な通路と思いこむのは「カント以後の西洋哲学に特有の「錯覚」」にすぎない。本源と思ったところは「人間的本質」という閉域であり、哲学はその中に閉じ込められているのだ。

 実際、歴史的に言って、人間学的錯覚は超越論的錯覚から派生する。というより、それはカントの批判における超越論的錯覚の意味の横滑りから生じたのである。超越論的な仮象の必然性はしだいに、真理と現象と経験の構造としてよりも、有限性のおびる具体的な聖痕として解釈されるようになっていった。超越論的仮象においてカントがなんとも曖昧に「自然的」と呼んでいたのが、客観への関係の根本的な形式であったことが忘れられて、人間本性という意味での「自然」に回収されてしまったのだ。その結果、錯覚はそれを批判する認識論的考察の運動によって定義されるのではなく、批判以前の水準に差し戻されて、二重化と根拠づけをこうむった。こうして、錯覚は真理の真理となった。

 カントの『人間学』は18世紀以来の人間学の潮流の中にありながら、その流れに逆らい、人間学が無根拠であることを示しつづけた。フーコーは『人間学』を読みとくことで人間学の起源と限界を明らかにし、その終焉までをも見透した。『言葉と物』のよく知られたその結語は本書の最後にすでに予告されていたのだ。

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