« 『カント「視霊者の夢」』 カント (講談社学術文庫)/『神秘家列伝〈其ノ壱〉』 水木しげる (角川ソフィア文庫) | メイン | 『永遠平和のために』 カント (光文社古典新訳文庫) »

2013年09月17日

『自然地理学』 カント (岩波書店)

自然地理学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 『カント全集』の第16巻で『自然地理学』をおさめる。

 『自然地理学』とはカントがケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年の1756年夏学期から事実上の引退をした1798年まで、実に43年間にわたって講義した科目である。1772年の冬学期からは対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の講義を同じ曜日と時間にはじめており、以後25年間にわたって冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』と二つの講義を交互におこなっていた。

 『自然地理学』は前から読みたいと思っていた。理由は二つある。

 まず『自然地理学』はカントが新時代の教養として自負していた科目であり、同時代的な評価も非常に高かったということ。カントが担当した中ではもっとも学生の集まる授業で、評判を聞きつけたケーニヒスベルクの上流人士も講筵に連なった。

 講義の内容は学生が筆記したノートの写本でも流布し(ノートは20種類以上確認されている)、プロシアの大臣だったフライヘルン・フォン・ツェードリッツから『自然地理学』をぜひ出版するようにという書簡をじきじきにもらったこともあった(この書簡が機縁となってカントは『純粋理性批判』を献呈した)。

 講義録を引退まで出さなかったのは当時の大学教師が学生から受講料を直接徴収していたことが大きい。教授には固定給があったが、受講料も無視できなかった。私講師は受講料だけが収入源だった。

 カント自身は財テクに成功していたので経済的には困らなかったが、70歳をすぎると衰えが著しく、学生に敬遠されるようになっていた。唯一学生を集めることができたのが『人間学』と『自然地理学』の講義だった。

 ここで珍事が起こる。かねて『自然地理学』の出版を申し入れていたフォルマーという出版業者がなかなか応じてくれないカントに業を煮やし、1801年に海賊版を出版してしまったのだ。

 老カントは激怒し「フォルマーのもとで不法に出版されたイマヌエル・カントの自然地理学に関する読者への公告」を発表する一方、弟子のリンクに『自然地理学』の出版をゆだねた。こうして1802年に出たのがリンク版『自然地理学』である(本書はこれを底本にしている)。

 読みたかった第二の理由は生まれ故郷から一歩も出たことのない旅行嫌いのカントが地理学をどんな風に語ったか興味があったことだ。カントの入門書には旅行記や探検記を片っ端から読み、それを切り貼りしたとあるが、本当のところはどうなのだろう。

 本書は三部にわかれる。日本版全集で正味400頁あるが、水曜と土曜の午前中2コマづつ、週4コマの授業だったから、半期で十分こなせる分量だろう。

 序論と第一部は1775年の講義の学生のノートにもとづいており、カント自身の訂正がはいっているという。この年カントは51歳、まさに脂の乗り切った壮年期の講義である。

 ところが第二部と第三部は1759年以前のカントの講義草稿をもとにしていた。カントは30代前半、講義をはじめて間もない時期である。出版時点から見ると40年以上前の内容なので、編者のリンクは最新知識(1802年時点の最新だが)にあわせて相当手をいれているよし(解説によると、そのほとんどは「改悪」だそうである)。

 さて、序論と第一部はきわめて体系的に整然と組み立てられている。カントは序論の冒頭で『人間学』と『自然地理学』が一体をなす所以を以下のように述べている。

 われわれは官と官という二重の感官をもっているので、われわれはやはり、外官と内官に即して、世界をすべての経験認識の総体として観察することができる。世界は外官の対象として観察すれば自然であるが、内官の対象として観察すればないし人間である。
 自然に関する経験と人間に関する経験とが一体となって世界認識が形成される。人間に関する知識をわれわれに教授するのが人間学であるが、われわれは自然に関する知識自然地理学ないし自然地誌学に負っている。

 ノートがとられた時期はカントが『純粋理性批判』の執筆に苦吟していた沈黙の十年の真ん中の時期にあたるが、『純粋理性批判』を思わせるような一節もある。

 われわれの認識は感官から始まる。感官がわれわれに素材を与え、理性はその素材に適切な形式を与えるだけである。それゆえ、すべての知識の根拠は感官と経験のなかにあるが、その経験はわれわれ自身の経験か他人の経験のどちらかである。

 カントは文字で記された信頼できる記録ならば他人の経験も認識の源泉になると積極的に認めており、「われわれは諸外国や辺境の地についての報告によって、あたかも自分がそれらの国で生活しているかのように、現代についての認識を拡張する」としている。カントは批判哲学時代にも、こうした実用的な視点をもちつづけていたわけである。

 序論の後半では「数学的予備概念」として天文学から見た地球の概要が語られる。地球がどのような天体か、太陽系においてどのような位置にあるか。

 天文学が地理学とどんな関係があるのか訝しく思う人があるかもしれないが、まず太陽系全体を映してから地球にフォーカスし、どんどんクローズアップしていく映像を思い浮かべればいい。

 第一部は地球物理学編で、まず水の大循環を描きだす。海が太陽で暖められて水蒸気となって上昇し、上空で冷されて地上に雨となって降り注ぐ。降った雨は川となり、大河に集まって海へともどる。

 次に陸の成り立ちに移る。ここでも水の循環から地形形成が説明されるが、その一方、カント=ラプラスの星雲説の延長だろうか、カントは地球がかつてドロドロに融けた球体で、冷えて地殻が硬くなりしだいに地下深くまで硬化していったが、地球の芯はまだ溶融しているというビジョンをもっていた。地球は中心部の熱によってまだ変化の途中にあるというのだ。

 以下の条は現代科学からすると間違っているが、妙に説得力がある。

 地球内部のこの混沌とした状態の内側には、成熟に達した地球の厚い外殻の下に、空気が閉じ込められた多くの洞窟や通路が存在するに違いない。この空気は、活火山によって出口を求めており、大量の物質もろとも圧倒的な力で噴出するものと思われる。しかも地震は火山ときわめて関係が深いので、この力が地震を引き起こすものと思われる。

 「空気」といっているのは実際には火山ガスである。カントは大陸移動説もマントル対流も知らなかったので、陸地の形成をすべて火山ガスで説明している。餅を焼くと膨らんでいくのが陸の隆起と造山運動であるが、膨らみすぎた餅がつぶれたのがノアの大洪水だというのだ。

 陸の次は大気圏で、地球規模の待機の循環を解説してからさまざまな気候の成因に進んでいく。間違っているが、よく考えられている。

 第二部は博物学編で、人間、動物、植物、鉱物という順で話が進んでいくが、講義の態をなしている第一部とは違って断片的な印象が強い。カントはメモ程度の草稿しか作らなかったことが知られており、実際の講義では肉づけがおこなわれただろう。英国人がカントの『自然地理学』を受講し、ロンドンの様子を生き生きと語るのでカントは英国で生活をしたことがあるのだろうと思っていたが、友人からケーニヒスベルクから出たことはないと聞かされて目を丸くしたという逸話が残っている。

 18世紀の博物学であるから珍談・奇談の類が目につく。象が皮膚の下の筋肉を収縮させ、皺で蠅を捕まえるとか、ライオンは女性には危害をくわえないとか、オランウータンは酒を好み、自分で布団をかけて寝るとか、化石を根拠にすべての石は最初は液体だったとか。この辺りの話題は社交生活でも役だったに違いない。

 人種と肌の色に関するトンデモ理論はともかくとして、モンゴロイドをカルムイク人で総称しているのは興味深い。ケーニヒスベルクにカルムイク人が来たことがあるかどうかはわからないが、近い存在だったのだろう。

 第三部でやっと狭義の自然地理学になる。これもメモの域を出ず、珍談奇談の寄せ集めという印象がある。スマトラ島では炎熱の暑さから突然極寒の寒さに変わるとあるが、そういうことを書いた本があったのだろう。

 ダライラマに関して、モンゴルにいるというような間違いはあるものの(チベットには別の大ラマがいると勘違いしている)、ポタラ宮に住んでいて死ぬと生まれ変わるとか、かなり正確な内容を記述している。カルムイク人はチベット仏教を奉じているから、その経路で伝わったのだろうか。

 第二部・第三部はともかくとして、第一部はさすがカントの著作だと思った。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5381