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2013年09月29日

『理性の不安』 坂部恵 (勁草書房)

理性の不安 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本語で読めるカントの研究書として有名な本である。初版は今から30年近く前に出たが、何度か改版をくりかえしてロングセラーをつづけている。

 よく言及されるので気になっていたが、はじめて読んだ。意外だったのは読みやすいことである。研究書というよりエッセイの文体で書いてあるのだ。同じ著者が講談社学術文庫から出している入門書よりよほど読みやすい。

 エッセイ風に書いたのは気まぐれではなく、必然性があったと思われる。

 カントは難解な文章で知られるが、若い頃も難しい本を書いていた。ところが『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙にはいるすこし前、1763年から1770年――年齢にして39歳から46歳――にかけての7年間、一般読者を意識したヴォルテールばりの文体で書いた時期があるのだ。その頃を代表するのが『美と崇高の感情に関する観察』と『視霊者の夢』である。

 『美と崇高の感情に関する観察』はカント生前では最も広く読まれた本で、カントはメンデルスゾーン(作曲家の祖父)やニコライとならぶ通俗哲学の第一人者と見なされるようになった。

 通俗哲学というと大衆向けの哲学のような印象をもつ人がいるかもしれないが、「通俗」には悪い意味はない。当時台頭してきた教養ある市民層を意識した専門用語を使わない哲学がそう呼ばれた。

 著者はカントは通俗哲学時代にアイデンティティの危機に遭遇したと見ており、その克服が批判哲学の誕生につながったとしている。本書は通俗哲学時代の再評価を通じて危機の乗り越えを描きだそうという試みである。

 しかしなぜ危機が通俗哲学とつながるのか。

 カントがヒュームによって「独断のまどろみ」を破られ、批判哲学に向かったことはよく知られているが、ヒューム以上に影響をあたえた思想家がいる。ルソーである。

 カントがルソーをはじめて読んだのは1763年、39歳の時だった。その衝撃で一気に書きあげたのが『美と崇高の感情に関する観察』だが、カントはこの著作で従来の学校文体を捨てて通俗哲学の文体を採用している。

 カントは同書の手沢本に次のように書きこんでいる。

 一時期、私はこのこと〔学問〕のみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。

 カントはそれまで学者仲間に読まれることだけを考えて書いていたが、それではいけないことに気がついたというのだ。カントは専門に閉じこもった学者を「一眼の巨人」にたとえるようになる。『人間学』から引こう。

 私は、そのような学者を、一眼巨人と呼ぶ。彼は、学問のエゴイストであり、そのような人には、もう一つの眼、彼の対象を他人の立場から眺めるような、もう一つの眼が必要である。学問の人間性、すなわち、自分の判断を、他の人々の判断とつきあわせて吟味することによって、それに社会性をもたせるということは、ここにもとづく。

 カントは『人間学』と他の学問の関係は「二つの眼の関係」にあたるとつづけ、『人間学』の眼は学問の眼を超越しているとしている。

 ここには批判哲学の最初の動機がうかがえる。われわれは超越論的観念論の壮大な構築物にばかり眼が行ってしまうが、批判哲学はそもそも理性の批判であり、理性の越権を告発するものだったのだ。

 そうであれば学者相手の学校文体ではなく、教養ある市民に読まれるための通俗哲学の文体を選択するのは必然であり、本質的なことでもあるだろう。

 この転換を端的に示すのが、この時期カントが哲学 Philosophie の代りに用いた Weltweisheit という言葉である。Weltweisheit は「学校概念」と対比して「世間概念」と訳されるが、「世界知」とか「世間知」と訳されることもある。カントは社会に開かれた学問を目指そうとしたのである。

 ところが10年の沈黙の後に世に出た『純粋理性批判』は学校文体の最たるものであり、教養ある市民が目を回しそうな恐ろしく難解な文章で書かれていた。

 もちろん内容が要求した部分もある。『純粋理性批判』は既存の形而上学とその背後にあるスコラ哲学に全面的な戦いを挑んでおり、相手の武器を用いて戦わざるをえず、専門用語だらけになるのは仕方ないのだ。

 だが、そうは言ってもカントがヴォルテール流の文体を二度と用いなかったのも事実だ。批判期を境にカントはもう一度文体を変えたのである。

 著者はその理由を『視霊者の夢』にもとめる。カントは『視霊者の夢』で本当のアイデンティティの危機にはまり込んでしまい、安全のために学校文体にもどったというのだ。

 カントはルソーによって社会とつながる大切さを知り、象牙の塔に閉じこもった学問のあり方を乗り越えようとしたが、それだけだったら深刻なアイデンティティの危機にまではいたらない。カントは私講師になった次の年から自然地理学の講義をはじめており、限定された形とはいえ社会に開かれた学問を実践していたからだ。

 『美と崇高の感情に関する観察』の段階では安全圏の自己変革で済んでおり、自己批判めいたことを書きこんだにしても、それは本当の自己否定ではない。

 ところが『視霊者の夢』でカントはのっぴきならない形で自分自身と対決し、自分が腰かけていた枝を自分で切り落とす破目におちいってしまった。

 青年時代のカントは講壇哲学の神学とないまぜになった宇宙論を拒否し、万有引力の法則のみによって現実の宇宙の姿を説明しようとした。その成果が1755年の『天界の一般自然史と理論』である。この著作は副題に「ニュートンの原則に従って論じられた全宇宙の構造と機械的起源に関する試論」あるように、神の介入を必要としない宇宙論だった。

 原初の混沌からの宇宙の誕生が機械論的法則だけで説明できるというのはまさに理性的推論の勝利だったが、だからといって神が不要になったわけではない。神の手が途中で介入する必要こそなくなったものの、万有引力の法則だけで宇宙が説明し尽くされるとは、宇宙が神の完璧な作品であり、目的論的秩序を隠れた前提としていることを意味する。カントが心血を注いで構築した宇宙論は、実はライプニッツ=ヴォルフ流の講壇哲学を根柢として成立していたのである。

 カントは『視霊者の夢』で感性の夢想家スウェーデンボリをたたき斬り、返す刀で講壇哲学に斬撃をくわえたが、ライプニッツとヴォルフに向けた理性の夢想家という批判はそのまま自分自身に跳ね返ってきた。

 著者は『視霊者の夢』のヴォルテール流の文体が実は自分で自分を笑いのめす「鏡細工」にも似た多層構造になっていると読みとき、その書き方のうちに「不幸なる意識」の圧殺のドラマを透かし見ている。

 著者によれば『視霊者の夢』は単にスウェーデンボリをからかった本ではなく、『ラモーの甥』やルソーの『対話』のように自我分裂と狂気の一歩手前まで行ってしまったという。

 そこまで評価するのはためらわれるが、ドラマチックなことが何もないと思われていたカントにアイデンティティの危機があったという指摘は決して無視できないのではないか。

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2013年09月28日

『カントの人間学』 フーコー (新潮社)

カントの人間学 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 カントは1772年度の冬学期から『実用的見地からの人間学』(以下、『人間学』)を開講した。カントは当時48歳で『純粋理性批判』を準備する10年間の沈黙の期間にはいっていた。

 『人間学』はコペルニクス的展開のただ中ではじまった講義であるが、以後1797年に実質的に引退するまでの25年間、冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』を同じ曜日に講義しつづけた。人気のある科目だったので引退してからようやく出版されたが、カントは74歳になっていた。

 『人間学』は『自然地理学』とともに「通俗的」講義と見なされ、長らく等閑にふされてきたが、意外な人物が注目していた。ミシェル・フーコーである。

 フーコーは『人間学』をみずから仏訳するとともに、1961年に提出した国家博士号の副論文のテーマに選んだ。それが本書である(主論文は『狂気の歴史』)。

 フーコーは『人間学』仏訳の序文にするつもりだったが、審査にあたったジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤックはカント研究の枠を越えて発展していく可能性を認め、翻訳とは別に出版することを勧めた。

 その期待にこたえたのが1966年に出版された『言葉と物』である。『人間学』の仏訳は1964年に上梓されたが、短い添書(『ミシェル・フーコー思考集成2』所載)だけをつけた。本書は生前には公刊されず、読むには博士論文を保管するソルボンヌの図書館でタイプ原稿を閲覧するしかなかったが、ようやく2008年になって活字になった。

 カントの『人間学』は1798年の公刊版のほかに1770年代と1780年代の講義草稿、学生のノート(最新は1790年度冬学期)、公刊版と同じ年に発表された「単なる決意によって病的感覚を統御する心の力について」、公刊版の後に出版された講義録『論理学』や研究者がもてあましてきた『オプス・ポストゥムム』、さらに関連する書簡など多くの資料がある。

 フーコーはこうした資料群を「テクストの堆積層」と呼び、「テクストの考古学」、「知の編成」を試みる。

 フーコーは狂気や監獄、性など特定分野のおびただしい資料群、というかそれこそ図書館の一角をまるごと読みきって、力業で「テクストの考古学」をやってのけたが、一人の哲学者の特定の著作を対象に考古学的探求をおこなったのは珍しいのではないだろうか。

 フーコーはまず『人間学』の執筆時期を考証し、1997年の前半に大半が書かれたことを明らかにする。カントは73歳になっており、その頃には耄碌していたという見方が多い。ところが公刊版は過去の講義草稿を単に整理したものではなく、1790年度の学生のノートとも違っており、思想的な発展が見られるというのだ。驚いたことに、フーコーは老人性痴呆症の産物と片づけられてきた『オプス・ポストゥムム』までまともな論考としてあつかっている。

 フーコーがカントの『人間学』と最晩年の思想的発展を重視するのは18世紀にはじまる人間学の潮流と絡みあっているからだ。

 デカルトは意識を神経管の中を流れる動物精気の運動で説明しようとした。デカルトにとって身体は機械の一種であり、物理法則で理解されるべきものだった。物理法則ですべてが覆い尽くされる以上、人間学独自の領域などというものは存在しようがない。

 ところが18世紀になると身体は自然の一部ではあっても物理の一部ではないという考え方が台頭してくる。ヴォルフの体系では生理学はなお自然学の一部門だったが、身体は物理法則ではなく、身体独自の法則で理解されるべきだと考えられるようになっていた。

 ヴォルフは生理学を「特に人間の、生気を与えられた身体」についての学と呼ぶのはなぜなのか。それはおそらく、人間についての認識が魂という形而上学的な特権の規定と、医学という技術的熟練が交わる地点に位置しているからだろう。だからこそ、人間は「自然」と「物理」のあいだのずれによって開けた空き地に、認識にとっての第一の主題としてあらわれることになる。

 カントの『人間学』はこうした潮流をとりこんだが、人間学の方もカントの影響を受けていた。『人間学』は出版こそ1798年だが、学生のノートの筆写というかたちで流布しており、カントを参照する著作はすくなくないという。

 生理学だけでなく心理学や社会学という学問も18世紀の人間学の潮流から生まれようとしていた。カントの『人間学』も社会の中の人間を注視している。

 『人間学』には、会食というささやかな社会のかたちに対する根強い関心が見られる。重要なのはまず「会話」であり、その会話でやりとりされるもの、やりとりされるべきものである。「社交界」は各人がつながりつつ主権をたもちつづける場として、威厳を持った社会的・道徳的なモデルにまで高められる。なにより、語らいが価値あるものとされる。語らいとは、ある者と他の者、もしくは居合わせた者全員のあいだで生まれ、そこで完成されるものだ。つまり人間学の観点からすると、モデルとなる集団は家族でも国家でもなく、「食卓を囲む集い」なのである。

 だがカントの『人間学』を18世紀の人間学の代表と考えることはできないし、人間学を基礎づけたと考えることもできない。カントの『人間学』は人間学の潮流に棹さすようでいて、実は流れに逆らっていたからだ。

 『人間学』は『三批判』と平行して展開されており、表裏一体の関係にある。『三批判』では人間の能力の限界が問われたが、『人間学』では経験の次元でその能力がどう失調し、どう迷うかが観察される。

 カントにとって人間学は人間の否定性と限界の研究である。人間学に人間の根拠を見出そうとしてはならない。人間学を本源にいたる自然な通路と思いこむのは「カント以後の西洋哲学に特有の「錯覚」」にすぎない。本源と思ったところは「人間的本質」という閉域であり、哲学はその中に閉じ込められているのだ。

 実際、歴史的に言って、人間学的錯覚は超越論的錯覚から派生する。というより、それはカントの批判における超越論的錯覚の意味の横滑りから生じたのである。超越論的な仮象の必然性はしだいに、真理と現象と経験の構造としてよりも、有限性のおびる具体的な聖痕として解釈されるようになっていった。超越論的仮象においてカントがなんとも曖昧に「自然的」と呼んでいたのが、客観への関係の根本的な形式であったことが忘れられて、人間本性という意味での「自然」に回収されてしまったのだ。その結果、錯覚はそれを批判する認識論的考察の運動によって定義されるのではなく、批判以前の水準に差し戻されて、二重化と根拠づけをこうむった。こうして、錯覚は真理の真理となった。

 カントの『人間学』は18世紀以来の人間学の潮流の中にありながら、その流れに逆らい、人間学が無根拠であることを示しつづけた。フーコーは『人間学』を読みとくことで人間学の起源と限界を明らかにし、その終焉までをも見透した。『言葉と物』のよく知られたその結語は本書の最後にすでに予告されていたのだ。

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2013年09月20日

『カントの人間学』 中島義道 (講談社現代新書)

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 カントの『自然地理学』と対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の概説本かと思って読んだら、そうではなかった。

 本書の元になった本は『モラリストとしてのカントⅠ』という表題で、『人間学』などを材料に人間研究家モラリストとしてのカントを紹介しているが、なぜそんな人間観になったかという原因をカントの生涯にもとめており、伝記的な側面が大きい。

 「あとがき」には「これまで「よい面」ばかり伝えられて来たのだから、一時的にこれくらいの引き下げ方をしなければ公平ではない」とあるが、実際本書はカントの「悪い面」ばかりをあげつらった観がある。池内紀の『カント先生の散歩』(以下『散歩』)のカントがケーニヒスベルクの上流人士の目に映った白カントだとするなら、本書は意地の悪い同業者から見た黒カントだろう。

 カントには表面的なつきあいの友人は多かったが、真の友といえるのは貿易商のジョゼフ・グリーンくらいだったという点は『散歩』と同じだが、知りあった時期を『散歩』より10年遅い50歳の時としている。

 グリーンとの関係は次のように描かれている。

 カントは彼から徹底的にかの有名な「時間厳守」を学び、自分の資産を彼の会社に高利で預けて殖やし続けていた。グリーンは「その無能力が詩にまで及び、詩と散文の差異を、前者は無理やりな誇張された音節の配列であるという点においてしか認識できない」程度の男であった。そして、この男にカントは全幅の信頼を寄せ、「『純粋理性批判』には、あらかじめグリーンに示し、その公平でいかなる体系にもとらわれない理解力による批評を受けずに書いた文章は一つとしてない」と明言していたのである。

 「高利で預けて殖やし続けていた」とか、グリーンが「その程度の男」という書き方には悪意を感じる。文学がわかるかどうかは人間の価値とは無関係だし、カントがちまちま貯めた金をグリーンが有利な条件で運用してやったのはあくまで友情からだろう。本書の記述にはいちいち毒がある。

 もっとも『散歩』が公平というわけではないだろう。本書とあわせて読むと、逆の方向に偏った記述だったことがよくわかる。

 たとえばカントが外食に使った店について『散歩』はユンカース通りのツォルニヒやビリヤード台が売物のゲルラッハの名前をあげ、御者や兵士、職人の集まる大衆的な店だったとしているが、本書ではホテルだったとしている。大衆的な店だとカントは気さくな人という印象になり、ホテルだと成り上がり者という印象になるだろう。両方に行っているのかもしれないし、時期によって使う店が変わったのかもしれないが、片方だけだと偏った印象をもつ結果になる。

 『散歩』にはカントが王家に次ぐカイザーリング伯爵家のサロンの30年にわたる常連だったとあるが、本書によるとカイザーリング伯爵家との縁は家庭教師として住みこんだことにはじまる。

 その時カントは28歳だったが伯爵夫人のシャルロッテは24歳で、二人の子供よりも夫人の方が勉強に熱心だった。夫人は晩年にプロシア芸術院会員に推挙されたほどだったから学ぶ意欲の旺盛な人だったのだろう。本書には夫人がカントに秋波を送り、からかわれたと思ったカントは女嫌いになったのではないかという推測が書かれているが、本当のところはわからない。

 『散歩』はカントの少年期や勉学時代については「学制のちがいや、教務体制がややこしいし、今とはまるでちがっている」として省略している。カントの伝記をはじめて読む人はカントは普通の学生生活を送ったので、わざわざ語るほどのことはなかったと受けとるかもしれない。ところがまったく違うのだ。

 カントは貧しい馬具職人の家に生まれたが、抜群に頭がよかったので無料で学べる教会の付属学校にいくことができた。教会の付属学校で学んだ子供は牧師になることが期待されたが(カントの弟は牧師になった)、カントは哲学を志し、分不相応にも大学に進んだ。

 貧乏だった上に父親が病気をしていたから家の援助はまったく期待できなかった。カントは裕福な同級生の家庭教師をしたり、トランプやビリヤードで臨時収入を得たりしてどうにか卒業した(学費が足りずに卒業できなかったという説もある)。

 『人間学』に「流行に従っている阿呆である方が、流行を外れている阿呆であるよりは、とにかくましである」とあるようにカントは服装に気を配ったが、苦学時代は着古した一張羅しかなく、仕立屋に直してもらうまで外出できないこともあった。見かねた友人が新調の代金をこっそり出そうとしたが、カントは断固断った。「負債や他人を頼ることの重荷」を嫌ったからである。

 カントは生家の思い出をほとんど語っていないが、次のような挿話を読むと両親は借金に苦しんでいたのではないかと思えてくる。

 この偉人はよくこう言ったものです。「誰か扉をたたく者があると、私はいつも落ちついた楽しい心で、おはいりなさい、と言うことができました。それは、扉の外には絶対に債権者がいないということが確かだったからです」。

 カントは住込みの家庭教師をしながら就職資格論文を完成させて母校の私講師となったが、私講師は固定給なしの不安定な身分だった。カントはなかなか教授になれず私講師をつづけた。

 そういう苦労人だったからだろう、教授になって生活が安定すると貧民救済基金に毎年多額の寄付をおこない、貧しい学生には受講料の一部ないし全部を免除した。カントが他人のために費やした金額は年俸の1/4から1/3におよんだという。

 その一方、何日に払うといって約束の日を守らなかった学生には厳しくあたった。また次のような一面も伝わっている。

 あるとき私たちが散歩の途中で、たちの悪い若い乞食にしつこくせがまれ、まるでお互いに話もできなかったので、私は数ペニヒの金を与えて乞食を追い払おうとしたのだが、カントはその金を私の手からとり上げ、金の代りに杖で乞食に一打ち食わそうとした。

 乞食に杖を振りあげる姿はわれらが哲学者に似つかわしくないが、若いのだから物乞いせずに働けということか。自分に厳しい人は他人にも厳しいのだ。

 本書だけを読んでカントを判断するのはまずいが、二冊目の本として読むといいと思う。

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2013年09月19日

『カント先生の散歩』 池内紀 (潮出版社)

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 カントというと謹厳実直な哲学者を思い浮かべる人が多いだろう。毎日規則正しく散歩したので時計がわりになったという逸話がいよいよ気難しそうなイメージを強める。

 しかしカントを直接知る同時代人の書簡や回想によると、実際は座をとりもつのがうまい社交好的な人物だったらしい。

 当時の大学の教師には黒ずくめで通したり、身なりに気をつかわない人が多かったようだが、カントは流行に敏感でお洒落だった(表紙の黒服のカントはおかしい。もっと派手な服を着ていなければ)。通いの召使には白と赤のお仕着せを着せていた。白と赤が好きだったからだ。

 授業も形而上学、論理学、神学、倫理学といった難しそうな科目だけではなく、自然地理学実用的人間学という「通俗的」な科目も担当していた。この二つはたいそうな人気で、学生以外も聴講にきていた。

 本書は一般向けの本ではあまりふれられてこなかった社交的なカントに焦点をあわせた伝記であり、哲学上の著作にも社交の影響があるとしている。

 著者はまずケーニヒスベルクの繁栄を描きだす。カントは生涯ケーニヒスベルクを出ることはなかったが、田舎町とか、北辺の港町と形容されることが多い。

 しかしケーニヒスベルクは700年つづいた東プロシアの首都であり、19世紀になってベルリンが台頭するまでは北ドイツ文化の中心地だった。出身者には作家のホフマン、哲学者のハーマン、数学者のゴルトバッハやヒルベルトがいるし、オイラーも縁が深かった。

 ケーニヒスベルク城や大聖堂をはじめとする歴史的建造物が林立し「バルト海の真珠」と称されたが、第二次大戦末期、連合軍の空襲と戦闘で街の98%が破壊された。

 街はソ連に編入されてカリーニングラードと名前を変えられた。ドイツ系住民は追いだされ、代りにスラブ系住民が送りこまれた。ドイツ系住民は一部はシベリアの収容所に、残りは東ドイツに強制移住させられた。

 同じように破壊されたドレスデンとワルシャワは民族の宝として国を挙げた復興事業がおこなわれ、戦前とたがわぬ街並が再建されたが、ケーニヒスベルクはつまらない田舎町になりさがった。ペレストロイカ後、ドイツからの寄付金と要請で大聖堂が復元されたが、市当局はまったく乗り気ではなかった。カント廟は奇跡的に無事だったが、現在のカリーニングラードには往時の繁栄をしのぶものはほとんど残っていない。

 著者によれば、ケーニヒスベルク大学はカントの時代までは新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だった。私講師として不安定な生活をつづけていたカントが他の都市の大学からの誘いを拒みつづけたこともそれほど奇異なことではないのかもしれない。

 南ドイツの大学から教授に招聘された際、カントは身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にした。確かにカントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいた。しかし親友といえるのはジョゼフ・グリーンただ一人だったろう。

 グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商だったが、独身で遊びには興味がなく、自宅で「かたい本」を読むのが趣味という変わり者だった。

 カントは40歳の時にグリーンと知りあったが(50歳説もある。中島義道『カントの人間学』参照)、以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになった。

 名うてのイギリス商人から口づたえに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになったのには、カントにとって十分な理由があった。

 グリーンの部下で後に後継者となるロバート・マザビーが二人が議論する場に同席したことがある。話題は英国とアメリカ植民地の経済問題で、英国側・アメリカ側にわかれてディベートしたが、英製品ボイコットや印紙条例、フランスの財政破綻などその後の展開を的確に予測していた。

 二人が語りあったのは世界情勢だけではなかった。カントは社交の場で哲学の話題にふれることを嫌ったが、グリーンにだけは準備中の『純粋理性批判』の内容を語り、すべての部分で意見を聞いた。

 カント哲学は哲学者カントの頭から生まれたと思いがちだが、そこには二つの頭脳がはたらいていた。商都で成功した貿易商の優雅な客間の午後、思索が大好きな二人が、形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した。十八世紀から十九世紀にかけて、ヨーロッパの富裕層では国を問わずに見られた現象であって、おおかたの哲学書はそんなふうに誕生した。カントの場合のやや風変わりなのは、知的サロンが独身の中年男二人にかぎられていたことである。

 著者は『純粋理性批判』の第一稿には「資本」「借用」「担保」等々の経済用語がまじっていたのではないかと想像しているが、裁判用語が残っていることからするとありえない話ではないだろう。

 カントの時間厳守癖はグリーンの影響だったが、グリーンから学んだことがもう一つある。財テクだ。

 カントは貧乏な職人の家に生れ、かつかつの暮らしをしてきた。グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用してやった。グリーンの薫陶よろしくカントは亡くなった時には一財産残すことができた。

 カントは外食で通していたが、店の開いていない日曜日はグリーン邸で食事に呼ばれていた。『純粋理性批判』刊行の5年後、グリーンが亡くなった。

 親友を失ったカントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にした。クラウスも独身だったが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにした。日曜の食事会はしだいに参加者が増えていった。

 著者は『実践理性批判』でグリーンの役割を果たしたのはクラウスではないかとしている。クラウスは実際的な道徳説を説いており、『実践理性批判』刊行後に仲たがいしたというから当たっているかもしれない。

 『判断力批判』はどうか。もし対話相手がいたとすれば、東プロシア政庁の高官でケーニヒスベルク言論界の影の仕掛人であり、カントの庇護者でもあったヒッペルではないかというのが著者の見立てだ。ちなみに彼も独身だった。

 ヒッペルは讃美歌やグリーンをモデルにした『時計男』という喜劇を書くなど多芸多才だったが、没後、マゾ趣味やきわどい挿画のはいった好色本のコレクションが暴露された。そういう風流才子が『判断力批判』にかかわっていたというのはなかなか楽しい空想である。

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2013年09月18日

『永遠平和のために』 カント (光文社古典新訳文庫)

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 カントが還暦を過ぎてから発表した政治哲学と歴史哲学に関する論文を集めた本である。

 60歳は当時としては大変な高齢だが、カントは3年前に『純粋理性批判』を世に問うたばかりで、本格的な活動はこの頃からはじまる。『実践理性批判』は64歳、『判断力批判』は66歳の時の著作である。

 三批判が発表された時期を批判期、三批判の後の時期を後批判期というが、本書収録のうち「啓蒙とは何か」、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」の三編が批判期、「万物の終焉」と「永遠平和のために」が後批判期となる。

 最後の「永遠平和のために」は100頁あるが他は30~40頁前後で何の引っかかりもなく読めた。翻訳は三批判の画期的な新訳を刊行中の中山元氏で、本書は中山氏のカント・シリーズの一冊目にあたる。

「啓蒙とは何か」

 1784年、カント60歳の時の発表された。

 フランス革命の5年前だというのに革命では人の考え方は変えられないと断言し、大衆の暴力性や扇動者が大衆に復讐されることにまで言及していて驚いた。

 革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。

 カントはフランス革命が方向を失い、恐怖政治に堕ちても革命派を擁護しつづけたが、この論文に書いた洞察のことをどう考えていたのだろう。

 カントは理性の公的な利用と私的な利用を区別し、啓蒙をうながすのは公的な利用だとしているが、公的・私的の区別が現代の用法と反対である。

 間とは軍隊を例にとり、将校が上官から受けた命令の当否をあからさまに云々するのは理性の私的利用で有害だが、戦争が終わった後で学者として命令の当否を論じ、その結果を世に問うのは公的利用で、その自由を妨げられてはならないとする。

 現代の用法では立場が私人か公かで私的・公的をわけているが、カントは目的が公的か私的かで区別しているようである。

 なお「理性」と訳されているのは、従来「悟性」と訳されてきたVerstandである。中山訳の『純粋理性批判』はVerstandを「知性」と訳して話題になったが、この論文でこそVerstandは「知性」とすべきではなかったか。

「世界市民という視点からみた普遍史の理念」

 これも1784年、カント60歳の時の発表された論文である。

 冒頭で人間や人間の集合である国民は「自分の意志」のつもりで「自然の意図」を実現してしまっているという逆説が語られる。

 これはマンデヴィルの「私悪すなわち公益」論の変形だろう。マンデヴィルの「私悪すなわち公益」論は非難されながらも、アダム・スミスの「見えざる手」論などに継承・発展させられていた。統計の話が出てくるあたりも英国の影響をうかがわせる。

 ところが統計的な発想はすぐに消え、ギリシア以来のヨーロッパ史は「国家体制が規則的に改善される道程」であり、人間の愚行や悪とみえるものの背後にも「自然の意図」が働いているとする。

 人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである。

 ここからヘーゲルの「理性の狡知」はただの一歩である。なお注ではあるが、宇宙人を論じた箇所があるのは面白い。カントは理性的存在のうちに宇宙人も含めていたのである。

「人類の歴史の憶測的な起源」

 1786年、カント62歳の発表で、この論文は「たんなる楽しみのための<漫遊>」だと断り、エデンの園の話からはじめる。楽園追放は個人にとっては災厄だったが、人類の使命のためには必要だったと説くが、啓蒙主義者だけに原罪論は否定している。

 先祖の原罪のために、子孫であるわれわれに、罪を犯すような傾向がうけつがれたのだと考えてはならない。人間がみずからの意志によって行なったことに、遺伝的なものがともなうことはありえないからだ。人間はみずからの行為には、完全な責を負うのである。

 面白いのは国家が個人に自由をあたえ、人間性を尊重するのは戦争の脅威のためだとしていることだ。カントは中国は地理的に外敵を恐れる必要がないので、個人の自由は跡形もなく抹殺されていると書いている。

「万物の終焉」

 1794年、カント70歳の時に発表された。前年にはフランスでルイ16世が処刑され、革命派は内訌をくりかえし、すこしでも立場の違う者を断頭台送りにする恐怖政治が最高潮に達した。この年の7月ついにテルミドールの反動が起こり、ロベスピエール派が逆にギロチンにかけられた。

 一方カントの住むプロシアではフランス革命の混乱と歩調を合わせるように政治的・宗教的な締めつけが強化されていった。この論文はこうした騒然とした世情を背景に書かれたのである。

 カントがこの論文で試みているのは黙示録の啓蒙主義的読み変えである。

 黙示録では世界最後の日に隕石が落ちてきたり、怪獣が暴れまわったり、天使の軍団と悪魔の軍団が最終戦争をくりひろげたりとパニック映画さながらのスペクタクルが描かれるが、カントはそうした描写は超感性的で、理論的にしか接近できないな道徳の秩序をわかりやすく目に見えるように示したものだと説く。

 最後の審判の脅しも次のように合理化している。

 イエスみずからが罰を与えると告げていたとしても、この罰という威嚇が、イエスの命令に服従させるための原動力になると解釈してはならない。……中略……これは立法者が愛に満ちて、人々の幸福のために示した警告と解釈すべきなのである。法に違反した場合には、悪が発生するのは不可避なことであるから、それに注意するように示した警告と解釈すべきなのである。

 聖書と啓蒙主義の折合をつけるのは大変である。御苦労様としかいいようがない。

「永遠平和のために」

 1795年、カント71歳の時に発表された。

 この論文は第一章「国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項」と第二章「国家間における永遠平和のための確定条項」と付録にわかれる。

 第一章で内政干渉の禁止と常備軍の廃棄を提唱しているのは有名だが、財貨の蓄積や軍事国債を危険視しているのは興味深い。戦争は財政的裏づけなしにはできないことをカントはおそらく英国貿易商ジョゼフ・グリーンから教えられたのだろう(『カント先生の散歩』参照)。

 第二章では自然状態は戦争状態であって、永遠平和は特別な努力を必要とするという現実主義的な認識から説きはじめている。

 それはいいとして国家の統治形式には君主制・貴族性・民主制の三つがあり、民主制とは専制政体であり、共和政体とは異なると言いきっている。

 今日の常識と大きくずれるが、カントは共和政体は立法権と行政権が分立しているのに対し、専制政体は二権が分離しておらず、国家がみずから定めた法律を独断で執行できると定義している。

 なぜ民主制が専制政体になるのだろうか? 解説を読んでわかったが、ルソーの一般意志論(本書では普遍意志)の影響のようだ。多数決の原理によって、少数派に多数派の意志を強制できるというわけだ。おそらく前年に倒れたフランス革命のジャコバン独裁が念頭にあるのだろう。

 国際法は自由な国家の連合に基礎を置くべきという主張は有名だが、それで戦争を防ごうとしたら国際連盟のようなものにしか行きつかないだろう。現実主義がいつの間にか空想平和主義になってしまった観があるが、この論文の背景にはフランス革命に裏切られたカントの困惑があるような気がする。

 付録では道徳と政治の矛盾を論じているが、本論よりもさらに理想主義的になっていると思った。

 本論とは関係ないが、注でチベットを中国より大きな存在のようにあつかっているのが面白かった。ユーラシア側から見ると中国は広大なチベット語文化圏に囲まれているが、ケーニヒスベルクのカントは太平洋側ではなく、ユーラシア側の視点で見ていたのだろう。

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2013年09月17日

『自然地理学』 カント (岩波書店)

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 『カント全集』の第16巻で『自然地理学』をおさめる。

 『自然地理学』とはカントがケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年の1756年夏学期から事実上の引退をした1798年まで、実に43年間にわたって講義した科目である。1772年の冬学期からは対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の講義を同じ曜日と時間にはじめており、以後25年間にわたって冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』と二つの講義を交互におこなっていた。

 『自然地理学』は前から読みたいと思っていた。理由は二つある。

 まず『自然地理学』はカントが新時代の教養として自負していた科目であり、同時代的な評価も非常に高かったということ。カントが担当した中ではもっとも学生の集まる授業で、評判を聞きつけたケーニヒスベルクの上流人士も講筵に連なった。

 講義の内容は学生が筆記したノートの写本でも流布し(ノートは20種類以上確認されている)、プロシアの大臣だったフライヘルン・フォン・ツェードリッツから『自然地理学』をぜひ出版するようにという書簡をじきじきにもらったこともあった(この書簡が機縁となってカントは『純粋理性批判』を献呈した)。

 講義録を引退まで出さなかったのは当時の大学教師が学生から受講料を直接徴収していたことが大きい。教授には固定給があったが、受講料も無視できなかった。私講師は受講料だけが収入源だった。

 カント自身は財テクに成功していたので経済的には困らなかったが、70歳をすぎると衰えが著しく、学生に敬遠されるようになっていた。唯一学生を集めることができたのが『人間学』と『自然地理学』の講義だった。

 ここで珍事が起こる。かねて『自然地理学』の出版を申し入れていたフォルマーという出版業者がなかなか応じてくれないカントに業を煮やし、1801年に海賊版を出版してしまったのだ。

 老カントは激怒し「フォルマーのもとで不法に出版されたイマヌエル・カントの自然地理学に関する読者への公告」を発表する一方、弟子のリンクに『自然地理学』の出版をゆだねた。こうして1802年に出たのがリンク版『自然地理学』である(本書はこれを底本にしている)。

 読みたかった第二の理由は生まれ故郷から一歩も出たことのない旅行嫌いのカントが地理学をどんな風に語ったか興味があったことだ。カントの入門書には旅行記や探検記を片っ端から読み、それを切り貼りしたとあるが、本当のところはどうなのだろう。

 本書は三部にわかれる。日本版全集で正味400頁あるが、水曜と土曜の午前中2コマづつ、週4コマの授業だったから、半期で十分こなせる分量だろう。

 序論と第一部は1775年の講義の学生のノートにもとづいており、カント自身の訂正がはいっているという。この年カントは51歳、まさに脂の乗り切った壮年期の講義である。

 ところが第二部と第三部は1759年以前のカントの講義草稿をもとにしていた。カントは30代前半、講義をはじめて間もない時期である。出版時点から見ると40年以上前の内容なので、編者のリンクは最新知識(1802年時点の最新だが)にあわせて相当手をいれているよし(解説によると、そのほとんどは「改悪」だそうである)。

 さて、序論と第一部はきわめて体系的に整然と組み立てられている。カントは序論の冒頭で『人間学』と『自然地理学』が一体をなす所以を以下のように述べている。

 われわれは官と官という二重の感官をもっているので、われわれはやはり、外官と内官に即して、世界をすべての経験認識の総体として観察することができる。世界は外官の対象として観察すれば自然であるが、内官の対象として観察すればないし人間である。
 自然に関する経験と人間に関する経験とが一体となって世界認識が形成される。人間に関する知識をわれわれに教授するのが人間学であるが、われわれは自然に関する知識自然地理学ないし自然地誌学に負っている。

 ノートがとられた時期はカントが『純粋理性批判』の執筆に苦吟していた沈黙の十年の真ん中の時期にあたるが、『純粋理性批判』を思わせるような一節もある。

 われわれの認識は感官から始まる。感官がわれわれに素材を与え、理性はその素材に適切な形式を与えるだけである。それゆえ、すべての知識の根拠は感官と経験のなかにあるが、その経験はわれわれ自身の経験か他人の経験のどちらかである。

 カントは文字で記された信頼できる記録ならば他人の経験も認識の源泉になると積極的に認めており、「われわれは諸外国や辺境の地についての報告によって、あたかも自分がそれらの国で生活しているかのように、現代についての認識を拡張する」としている。カントは批判哲学時代にも、こうした実用的な視点をもちつづけていたわけである。

 序論の後半では「数学的予備概念」として天文学から見た地球の概要が語られる。地球がどのような天体か、太陽系においてどのような位置にあるか。

 天文学が地理学とどんな関係があるのか訝しく思う人があるかもしれないが、まず太陽系全体を映してから地球にフォーカスし、どんどんクローズアップしていく映像を思い浮かべればいい。

 第一部は地球物理学編で、まず水の大循環を描きだす。海が太陽で暖められて水蒸気となって上昇し、上空で冷されて地上に雨となって降り注ぐ。降った雨は川となり、大河に集まって海へともどる。

 次に陸の成り立ちに移る。ここでも水の循環から地形形成が説明されるが、その一方、カント=ラプラスの星雲説の延長だろうか、カントは地球がかつてドロドロに融けた球体で、冷えて地殻が硬くなりしだいに地下深くまで硬化していったが、地球の芯はまだ溶融しているというビジョンをもっていた。地球は中心部の熱によってまだ変化の途中にあるというのだ。

 以下の条は現代科学からすると間違っているが、妙に説得力がある。

 地球内部のこの混沌とした状態の内側には、成熟に達した地球の厚い外殻の下に、空気が閉じ込められた多くの洞窟や通路が存在するに違いない。この空気は、活火山によって出口を求めており、大量の物質もろとも圧倒的な力で噴出するものと思われる。しかも地震は火山ときわめて関係が深いので、この力が地震を引き起こすものと思われる。

 「空気」といっているのは実際には火山ガスである。カントは大陸移動説もマントル対流も知らなかったので、陸地の形成をすべて火山ガスで説明している。餅を焼くと膨らんでいくのが陸の隆起と造山運動であるが、膨らみすぎた餅がつぶれたのがノアの大洪水だというのだ。

 陸の次は大気圏で、地球規模の待機の循環を解説してからさまざまな気候の成因に進んでいく。間違っているが、よく考えられている。

 第二部は博物学編で、人間、動物、植物、鉱物という順で話が進んでいくが、講義の態をなしている第一部とは違って断片的な印象が強い。カントはメモ程度の草稿しか作らなかったことが知られており、実際の講義では肉づけがおこなわれただろう。英国人がカントの『自然地理学』を受講し、ロンドンの様子を生き生きと語るのでカントは英国で生活をしたことがあるのだろうと思っていたが、友人からケーニヒスベルクから出たことはないと聞かされて目を丸くしたという逸話が残っている。

 18世紀の博物学であるから珍談・奇談の類が目につく。象が皮膚の下の筋肉を収縮させ、皺で蠅を捕まえるとか、ライオンは女性には危害をくわえないとか、オランウータンは酒を好み、自分で布団をかけて寝るとか、化石を根拠にすべての石は最初は液体だったとか。この辺りの話題は社交生活でも役だったに違いない。

 人種と肌の色に関するトンデモ理論はともかくとして、モンゴロイドをカルムイク人で総称しているのは興味深い。ケーニヒスベルクにカルムイク人が来たことがあるかどうかはわからないが、近い存在だったのだろう。

 第三部でやっと狭義の自然地理学になる。これもメモの域を出ず、珍談奇談の寄せ集めという印象がある。スマトラ島では炎熱の暑さから突然極寒の寒さに変わるとあるが、そういうことを書いた本があったのだろう。

 ダライラマに関して、モンゴルにいるというような間違いはあるものの(チベットには別の大ラマがいると勘違いしている)、ポタラ宮に住んでいて死ぬと生まれ変わるとか、かなり正確な内容を記述している。カルムイク人はチベット仏教を奉じているから、その経路で伝わったのだろうか。

 第二部・第三部はともかくとして、第一部はさすがカントの著作だと思った。

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2013年09月16日

『カント「視霊者の夢」』 カント (講談社学術文庫)/『神秘家列伝〈其ノ壱〉』 水木しげる (角川ソフィア文庫)

カント「視霊者の夢」
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神秘家列伝〈其ノ壱〉
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 『視霊者の夢』は1766年、カントが42歳の時に出版したスウェーデンボリ論である(英語読みではスウェーデンボルグ)。

 スウェーデンボリはカントより36歳年長のスウェーデンの科学者である。英国に留学して天文学(ハレーの助手をつとめたこともある)と機械工学を学び、帰国後は王立鉱山局で鉱山開発に辣腕をふるって貴族に列せられ、国会議員にも選ばれた。ところが59歳で引退すると、それまで隠していた霊能力を公然と披露するようになり、霊界のありさまを克明に描いた神秘的著作を矢継ぎ早に発表した。

 1759年のストックホルムの大火の際には、500km離れた地方都市の夕食会で突然顔面蒼白になって大火の様子を事細かに語りだし、後日その通りだったことが確認されるとヨーロッパ中の話題となった。

 この頃カントは出版社兼書店をいとなむカンターの家に間借りしており、大家でもあるカンターから依頼されて書いたのが『視霊者の夢』である。カンターはスウェーデンボリ・ブームが終わらないうちに急いで出版しようとしたのだろう、原稿段階で検閲を受けるのが原則なのに、ゲラ刷りになってから提出したため1万ターレルという巨額の罰金(50万円くらい?)を課されている。

 『純粋理性批判』以前のカントは科学哲学者として知られていたから、カントは大槻教授のように科学的見地からのスウェーデンボリ批判を期待されていたはずである(カントは山羊予言者騒動の時もカンターに引っ張りだされ、『脳病試論』を書いている)。

 実際に読んでみると、のっけから憂鬱の風が体内で下降すれば屁となり、上昇すれば神聖な霊感になるとか、視霊者は火炙りにするより下剤を飲ませて腸内を浄化すればいいといった調子でスウェーデンボリをからかっており、風刺的文書に分類されるのも納得できる。

 カントは出版社に強要されてしかたなく書いたと言い訳をくりかえしているが、読み終えてみると、はたしてそうかという疑問が起きた。

 本書は第一部「独断編」(ドグマ編もしくは原理編と訳した方がいいのではないか)と第二部「歴史編」にわかれる。スウェーデンボリ批判はもっぱら第二部で、第一部はなぜ霊視がありうるか(たとえ幻覚であっても)、なぜ霊は半透明で透けて見えるのか、なぜ霊は物体を通り抜けられるかについて大真面目に考察している。最後は風刺的な書き方で茶化してはいるが、頭から霊視体験を否定していたらここまで長々と検討することはなかったと思うのだ。

 坂部恵は『理性の不安』で本書を『ラモーの甥』やルソー最晩年の問題作『対話』に匹敵する自己否定の書と読みといたが、スウェーデンボリをからかっているようで自分で自分を笑っているようなところがあり、一筋縄ではいかない。二重底三重底になっているのではないかという気さえしてくる。

 デカルトの心身相関論を踏まえた議論をつづけた後で道徳の根拠の問題に移るのは意外だった。

 思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志にまさにその通りと感じられるように拘束されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。

 『実践理性批判』はこのような道徳観を克服するために書かれたと考えるべきなのだろうか。

 驚いたのは巻末におさめられている「シャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢への手紙」である。フォン・クノープロッホ嬢からスウェーデンボリについて問い合わせる手紙があって、その返信として書かれたらしいが、カントは受講生だったデンマークの士官からストックホルム大火の霊視事件を聞いたこと、もっと詳しく知るためにコペンハーゲンに帰った士官に調査を依頼したこと、それだけでは満足できなくてストックホルム在住の旧知の英国商人に現地調査を依頼したことを伝え、こうつづけている。

 この出来事が信用できないとどうして主張できましょうか? このことを手紙で伝えたわたくしの友人は、すべてのいきさつをストックホルムばかりでなく、二ヶ月にわたりイエーテボリでも調査しました。同市では、彼は有力者たちをたいへんよく知っておりましたし、この事件からわずかしかたっていなかっただけに、大多数の証人がまだ存命中でしたので彼はいわば全市民からきめこまかく事情を教えてもらいました。

 カントは件の英国商人にスウェーデンボリ宛の書簡を託していた。商人はスウェーデンボリと面会して書簡を手渡し、必ず返事を出すという約束をとりつけてくれる。カントはさらに「この奇妙な人物に自ら質問できればいいと切望しています」と今にもストックホルムに飛んでいきそうな勢いである(旅行嫌いでなければ本当に会いに行ったかもしれない)。

 結局、スウェーデンボリからの返信はなく、面子をつぶされたカントは『視霊者の夢』でスウェーデンボリをこきおろすが、それでも半分以上信じていたのではないかという気がするのだ。

 スウェーデンボリについては日本でも多数の本が出版されており、なんと全集まで邦訳されている。しかし『視霊者の夢』を読む範囲でなら水木しげるの『神秘家列伝〈其ノ壱〉』で十分である。この本ではスウェーデンボリのほかにチベットの聖者ミラレパ、ヴードゥー教の創始者マカンダル、日本の明恵上人の四人の神秘家をとりあげているが、時代背景まで含めてコンパクトにまとまっていて便利である。

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2013年09月15日

『悲しき熱帯』Ⅰ&Ⅱ レヴィ=ストロース (中公クラシックス)

悲しき熱帯Ⅰ
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悲しき熱帯Ⅱ
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 世界的なベストセラーとなったレヴィ=ストロースの自伝的紀行である。

 原著は1955年に刊行されたが、日本では1967年に『世界の名著』第59巻にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』(これも文化人類学の古典)との合本で抄訳がはいった後、1979年に全訳がオレンジ色の表紙の二巻本で刊行された。本書は2001年に出た新版で、レヴィ=ストロースが寄せた「「中公クラシックス」版のためのメッセージ」(2000年12月付)と、訳者の川田順造の「『悲しき熱帯』のいま――四十六年ののちに」(1979年版の訳者前書の再録を含む)が巻頭に付されている。

 レヴィ=ストロースは「メッセージ」で労働観の比較研究の一環として1977年から12年間にわたってほぼ毎年のように来日し、日本各地の職人を訪ね歩いている。その調査から日本人にとって「はたらく」こととは「西洋式の、生命のない物質への人間のはたらきかけではなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化」だと確信したという。

 その一方、日本の自然破壊、なかんずく隅田川の舟遊びで目の当たりにした現在の隅田川と北斎の版画に描かれた景色との落差に驚き、捕鯨批判と絡めて次のように述べている。

 日本人がある時は自然を、ある時は人間を優先し、人間のために必要なら自然を犠牲にする権利を自らに与えるのも、おそらく自然と人間とのあいだに、截然とした区別が存在しないことによって説明されるのかもしれません。

 川田の「『悲しき熱帯』のいま」では原著が26ヶ国語に翻訳され、現代の古典として現在も広く読まれていること、日本でも700頁近い全訳版が22年間に21版を重ねていることを述べた後、邦題の「悲しき」では原題のtristesの「憂鬱な、暗い、うんざりする」という重苦しい語感との間に距離がある点に注意をうながしている。

 川田はレヴィ=ストロース門下ではないが、しばしば教えを受ける機会があった。ある時、東洋の自然観について質問したところ、レヴィ=ストロースは仏教思想には敬意をいだくものの、特別な修行でしか到達できない輪廻思想などには否定的で、自分は認識論では「ごく常識的なカント主義者」であり、不可知論に立って認識の深化につとめる「ラディカルなペシミスト」だと語ったという。

 本書もペシミズムに深く染めあげられているが、次の条は引用しておきたい。

 地球環境の保護などという考え方も、所詮は人間のアメニティないしは生き残りのための自然維持論であり、先生の壮大なペシミズムからみれば、形を変えた人間中心主義ということになるだろう。『悲しき熱帯』には、一九三〇年代のブラジル奥地の、まだ人間にひどく汚されていない自然と、そこにつつましく生きるインディオたちの、息をのむような叙述がふんだんにある。

 川田はアフリカをフィールドとする文化人類学者だが、本書でとりわけ印象的に語られたナンビクワラ族の居留地を1984年に雑誌の企画で訪れている。「『悲しき熱帯』のいま」というタイトルだとその話を期待してしまうが、本書の前書ではさわり程度である。興味のある人は『「悲しき熱帯」の記憶―レヴィ=ストロースから50年』(中公文庫)を読めということだろう。

 さて本編である。わたしは全訳版を出た直後に読んでいるので、34年ぶりの再読になるが、ところどころ、それもどうでもいいエピソードしか憶えていなかった。

 こくのある文章に魅せられたが、本書の魅力は若書きではないということにあるだろう。

 レヴィ=ストロースは24歳から28歳の4年間サン・パウロ大学で社会学を講じながら、休暇に先住民の調査に出かけていたが、最後の年に補助金をえてキャラバンを仕立て、ブラジル横断を敢行している。その体験を20年間反芻し、40代半ばで一気に書き下ろしたのが本書なのである。

 20年の間に第二次大戦の応召と敗戦による除隊があり、アメリカへの亡命があった。かつて途上国の大学のお雇い外国人として往復した大西洋を無一文の亡命者として渡るのは愉快な経験ではなかったが、同じ船にはアンドレ・ブルトンらも乗り合せていた。たまたま航海士が顔なじみだったために特別待遇を受けることができたものの、土語を書きためたノートは暗号文と誤解されかねず、ヴィシー政権のスパイと疑われてホテルで軟禁状態におかれたこともあった。

 レヴィ=ストロースはもの悲しくもあれば滑稽でもあった亡命行から、夢見るように語りはじめる。学生時代にさかのぼり、順当な学者コースを捨ててサン・パウロ大学に赴任した経緯と新大陸での生活に話を進めていく。新大陸では実際は驚きの連続だったろうが、初発的な驚きは後年のインドの調査や北米での体験と比較・相対化され、セピア色の憂いをおびた夢語りの中に溶けこんでいく。

 満ちて来る忘却の潮の中で私が思い出を転がしているあいだ、忘却は思い出をすり減らし、埋め隠す以上の働きをしたようだ。思い出の断片から忘却が築き上げた深い構築は、より堅固な平衡を私の歩みに与え、より明晰な下絵を私の視覚に示してくれる。一つの秩序が他の秩序に置き換えられた。私の視覚とその対象とを隔てていた二つの谷間の崖を、歳月は崩し、そこに残骸を詰め込み始めた。

 理論的な著作からはうかがいしれない繊細の精神の流露だが、第五部の「カデュヴェオ族」からは幾何学の精神が動きだし、けぶるような映像はきっかりと焦点が合いはじめる。

 カデュヴェオ族は大学の休暇を利用して民族学調査をはじめたレヴィ=ストロースが出会った部族だ。ムバヤ=グアイクル語族という大集団の最後の生き残りで、貴族・戦士・下層階級という一種のカースト制をとっており、世襲貴族の子供と同じ日に生まれた子供は「戦の兄弟」として一代貴族に列せられる。

 堕胎と嬰児殺しが普通におこなわれ、子供は遠征によって他の部族から奪ってくる。本来の部族の血を引いている成員は10%程度という報告がある。

 精緻な工芸品と顔の隈取で知られており、貴族の女は金を払って写真を撮れと、毎日着飾って撮影を強要に来た。レヴィ=ストロースはフィルムを節約するために、金だけ払って写す真似ですませた。

 男は彫刻、女は絵画の伝統を保持していたが、名人芸を維持しているのは少数の老人に限られていた。レヴィ=ストロースは老人たちの作品を買いとり、長い伝統の消滅する時期に最後の逸品を手に入れたとよろこんだが、15年後にブラジル人民族学者が最近収集したという絵を見て驚く。様式も技術も着想もレヴィ=ストロースがもっていたものとほとんど同じだったからだ。

 何とも食えない民族であるが、レヴィ=ストロースはカデュヴェオ族の巧緻を極めた芸術は社会構造の矛盾を芸術に移しかえた結果ではないかと書いている。

 もしこの分析が正しいとすれば、社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現したはずの諸制度を象徴的に表わす方法を、飽くことのない情熱で探し求める一社会の幻覚として、最終的にはカデュヴェオ族の女の絵画芸術を解釈し、その芸術の神秘的な魅惑や、一見何の根拠もないように思われるその錯綜ぶりを説明すべきであろう。素晴らしい文明ではないか、そのクィーンたちは化粧で夢を囲むのだ。化粧は決して到達できない黄金の時を叙述する神聖文字であり、法典がないので、クィーンたちは身を飾ってその時を祝福するのである。そして自らの裸体を現わすように、黄金の時のヴェールを外して見せるのだ。

 次に出会ったボロロ族は二つの半族にわかれた双分組織をとり、それを反映した環状集落を作っていることで知られている。レヴィ=ストロースの構造概念の出発点となった部族で、『構造人類学』や『親族の基本構造』でも大きくとりあげているし、『神話論理』冒頭の「基準神話」もボロロ族のものである。

 環状集落という構造はボロロ族の社会生活、なかんずく儀礼と密接に結びついている。農耕をつづけていると土地が消耗するために村は長くとも30年以上同じ場所にとどまることはない。したがって「村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに記述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現する」というわけだ。

 サレジオ会の宣教師はこの点にいち早く気づき、頑としてキリスト教を受け容れないボロロ族を家が平行にならぶ集落に移住させた。家の並び方が変わっただけで彼らは混乱し、儀礼がないがしろにされるようになり、しだいにキリスト教に飲みこまれていった。

 サレジオ会は民族資料を多く書き残して先住民文化の保存に多大の貢献をおこなったが、民族学的知見をもっているだけに文化破壊にも長けているのである。

 次のナンビクワラ族はレヴィ=ストロースがもっとも哀惜をこめて描いた部族である。写真が何点か載っているが、男も女も岸田劉生描くところの麗子像のような顔立ちで、日本人には親しみがもてる。

 全財産は負い籠におさまってしまい、インディオの発明したハンモックすらもたず、裸で地面に転がって寝る。男はペニスサックさえつけていず、夫婦は他人の前でもいつもじゃれあっている。まさに「人類の幼年期」を髣髴とさせる部族だ。

 この何ももたない純真な部族に文字の概念が入ってきた瞬間をレヴィ=ストロースはとらえている。有名な「文字の教え」の章で、後にジャック・デリダが『グラマトロジー』で大々的に批判したことでも知られている。

 久しぶりに読み直してみたが、ここは実に面白い。

 最後はトゥピ=カワイブ族だが、タペライという首長のキャラが立っている。彼は集団中の結婚可能な6人の女性のうち4人を自分の妻にしているが、妻を仲間や来訪者に貸すことで女の独占を中和している。

 タペライは食えない男だが、彼が独り芝居で演ずる「ジャピンの笑劇」の条は感動的で本書のクライマックスである。

 本書を読み直してみたかった動機の一つに実松克義の『衝撃の古代アマゾン文明』に描かれたような古代文明の痕跡が描かれていないだろうかという年来の疑問があった。レヴィ=ストロースが最後の年に踏破した地域にモホス平原が含まれているのではないかという気がしていたのだ。

 巻末の地図で確認してみると、ナンビクワラ族の遊動する地域がモホス平原とかぶっていた。そして次の一節を見つけた。

 その貧乏ぶりにもかかわらず、身体形質からはメキシコの最古の住民を、言語の構造からはチブチャ王国を髣髴させるこのナンビクワラ族が、真の未開人である可能性はきわめて少ないように思われる。

 あくまで直観であって何も証明されているわけではないが、意味深な感想である。

 古代アマゾン文明とは関係ないが、アメリカ大陸に人類が到達した年代を2万年前としているのにも驚いた。1万3000年前に無氷回廊が開き、クローヴィス文化をもった狩猟民が南下したという説はついこの間まで主流派だったのであり、クローヴィス以前に人類がいたなどといおうものならトンデモ説の烙印を捺されかねなかった。

 ところがレヴィ=ストロースは1955年の時点で、人類のアメリカ大陸移住経路には沿岸ルートがあったはずだとして、次のように書いていたのである。

 太平洋岸全体――アジア側でもアメリカ側でも――にわたって或る強力な活動が生まれ、それが、数千年のあいだ、一つの地域から他の地域へと沿岸航海によって弘まって行ったという仮説を認めることなしに、アメリカ大陸の諸文明の起源を理解するのはむずかしい。……中略……今やわれわれに残されているのは、恐らく第二の誤り、すなわちアメリカ大陸は二万年のあいだ、全世界から切り離されていたという考えを訂正することであろう。西ヨーロッパからアメリカ大陸が切り離されていたというだけの理由で、われわれはそう思い込んで来たのであった。あらゆる事実はむしろ、大西洋の深い沈黙に対して、太平洋を取り囲む全域には、分封する蜂の唸りにも似たざわめきあがあったことを暗示している。

 現在の説ではアメリカ到達は1万6000年か1万7000年前くらいまで遡るとされているが、発見があいついでいるから2万年前までいく可能性はゼロではないだろう。レヴィ=ストロースの直観はないがしろにできない。

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2013年09月13日

『改訂普及版 人類進化大全』 ストリンガー&アンドリュース (悠書館)

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 古人類学の図鑑である。原著は2005年に刊行され、2011年に改訂版が出た。日本では2008年にハードカバーで邦訳が出ているが、1万2600円という個人には手の出しにくい価格だったので、2012年に装幀を簡略化し価格を6,090円におさえた本書が出た。

 単に値段が安くなっただけでなく、原著の2011年版にあわせて改訂された点が重要だ。2008年に発見された現生人類の最古の祖先アウストラロピテクス・セディバや2009年に復元されたラミダス猿人、さらに日進月歩の観のあるDNA分析など最新情報が追加されており、「改訂普及版」というにふさわしい内容になっている。

 著者は人類のアフリカ単一起源説を提唱したことで知られるロンドン自然史博物館人類進化研究室のクリス・ストリンガーとその同僚のピーター・アンドリュースで、どちらも30年以上の研究歴のある古人類学界の重鎮であり、発掘経験も豊富である。

 アリス・ロバーツ編の『人類の進化大図鑑』(以下『大図鑑』)は一般向けで文字量がすくなかったが、本書は本格的な勉強をしたい人向けで文字量が多い(小さめの活字で横二段組)。図鑑というより古人類学の教科書といった方がいいかもしれない。

 巻末に「さらに読みたい読者のために」という参考文献一覧が細かい活字で3頁たっぷり載っているが、1/4は学術誌に載った論文であり、残りも専門書ばかりである。

 本書は三部にわかれる。

 第一部「私たちの祖先を求めて」は導入編で人類進化のあらましと、それが地球誕生からのタイムスケールでどのような位置にあるか、動物の食性と身体の大きさの関係、化石はどのようにしてできるか、発掘と解析技術、古代の環境などを解説した後、著者たち自身が発掘にたずさわった六つの現場を紹介している。

 オルドヴァイ溪谷やジブラルタルのような有名な遺跡も出てくるが、英仏海峡に近いボックスグローブ遺跡の条は面白かった。

 50万年前の層から歯が2本出土しているが、これは英国最古の人類化石でホモ・ハイデルベルゲンシスと同定されている。近くで黒曜石がとれるが、打ち欠いて石器を作った場所がそのまま残っていて、石屑が散らばっているそうだ。大型哺乳類の解体場所も見つかっている。

 歯を顕微鏡で観察したところ多くのひっかき傷があった。肉や草を噛んでいて噛みきれないと、石器で切断しようとして歯を傷つけたらしい。歯根部には歯石が付着していたというが、歯槽膿漏で歯茎が下がっていたのか。

 第二部「化石から進化を探る」は本書の中心部分である。霊長類の起源から現生人類までの進化の歴史を、出土資料にもとづく骨格と環境の復元を通して描きだしている。

 人類進化の本は何冊か読んだことがあるが、化石の写真や模式図がふんだんに使われているので理解がとても助けられた。ロンドン自然史博物館が全面協力したということだが、百聞は一見に如かずである。

 ただ『大図鑑』と違って写真の多くはモノクロである。学問的には問題がないのだろうが、モノクロの骨の写真が次から次へと出てくると、気分が滅入ってくる。また猿人や原人の生活を描いたパステル画が随所に出てくるが、『大図鑑』の精巧な想像図と較べるとぱっとしない。

 「ネアンデルタール人のDNA」の章は改訂版で追加されたのだろう、2011年時点の最新情報がはいっている。ネアンデルタール人と現生人類の分岐は50万年前であり、別系統であることはもはや動かしようがない。現生人類の核DNAの3%はネアンデルタール人由来であることがわかり、出アフリカの直後に混血があったことが確実になった。本書は二段階出アフリカ説ではなく、12万年前の北ルートによる出アフリカが失敗せず、そのまま世界に拡散していったという立場なので、混血の場所は中東だとしている。南ルート説をとった場合、交雑の場所が問題になるだろう。またデニソワ人の指の骨からDNAが採取でき、現生人類と混血したことが判明したという。この分野は目が離せない。

 第三部「化石証拠の解釈」は第二部で描かれた歴史をもとに、行動様式と社会構造の進化を考察している。行動様式は最終的には現生人類の芸術活動につながっていく。第二部がハード面の進化だとするなら、第三部はソフト面の進化といえよう。

 ネアンデルタール人の化石の多くに骨折し治癒した痕があることが知られているが、部位別の負傷の割合をロデオ騎手と対照したグラフは興味深い。なぜロデオ騎手かというと、さまざまなスポーツ選手の負傷の割合と比較したところ、ロデオ騎手が一番似ていたからである。

 両者は凶暴な動物を日常的に相手にしているという共通点があるが、ロデオ騎手が頭と手の怪我が多いのに対し、ネアンデルタール人は足の怪我が多いという違いがあった。

 進化心理学を紹介した部分では現代の狩猟採集民の生活から旧石器時代の生活を類推する動きに対し「彼らの社会構造、言語、宗教的なシステムが「先進国」の社会のものと違わぬほど複雑であることを前提にすれば、古代人が彼らに匹敵するものをもっていた可能性は低いだろう」と警鐘を鳴らしている。

 重要な指摘である。レヴィ=ストロースが明らかにしたように、野生の思考は素朴な外見にもかかわらず精緻を極めており、あれほど複雑なシステムは社会的発展の産物と考えるしかないのかもしれない。旧石器時代に人々の精神世界はまた遠のいてしまった。

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2013年09月12日

『人類の進化大図鑑』 アリス・ロバーツ編 (河出書房新社)

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 『人類20万年 遙かなる旅路』のアリス・ロバーツが企画・編集した図鑑である。すこし前に邦訳されたストリンガー&アンドリュースの『人類進化大全』が専門的に勉強したい人向けなのに対し、こちらは一般読者向けの図鑑であり、多数の写真を美しくレイアウトしたグラフ雑誌のような作りになっている。眺めているだけで楽しく、想像力を刺激される。

 一般向けといっても、人類学の最新の成果がてんこ盛りにされており、古い知識しかない人はここまでわかっているのかと圧倒されるだろう。

 本書は「過去を知る」(マイケル・ベントン)、「霊長類」(コリン・グローヴズ)、「人類」(ケイト・ブラウン)、「出アフリカ」(アリス・ロバーツ)、「狩猟者から農民」(ジェーン・マッキントッシュ)と五章にわかれ、英国の古人類学者が執筆しているが、一番の見せ場は「人類」の章だろう。

 チンパンジーとの共通祖先から現生人類が誕生するまでにはさまざまな種があらわれては消えていき、複数の系統が入り乱れる複雑な様相を呈していたが、本書は代表的な20の種を選んで解説し、そのうちの12種は化石の頭骨から復元模型を製作し、恐ろしくリアルな写真を掲載しているのである(ホモ・サピエンスだけ男女二体を製作)。

 化石のレプリカにさわったことがあるならともかく、アウストラロピテクス・アフリカヌスとかホモ・ハビリスといわれても、素人には見当もつかない。人類誕生の物語にはさまざまな旧人が登場するが、どれも系統樹の上の名前以上のものではないのだ。ところが本書を開くと、強烈な「人格」となって立ち現れてくるのだ。

 こうした復元模型は適当に作ったわけではない。化石をCTスキャンしたデータをもとに3Dプリンタで頭骨を再現、その上に筋肉と皮膚を法医学の手続ではりつけていき、最後に毛を一本一本手植えしている。初期人類の氷漬け遺体は見つかっていないので復元はあくまで推測であるが、チンパンジーと現生人類の主要な顔筋は一致していることがわかっており、かなり信憑性の高い復元となっている(実際の作業は「過去を知る」の章に四頁にわたって解説がある)。

 どれも強烈だが、特に印象的な種について感想を書こう。

 最初のサヘラントロプス・チャデンシスは今世紀になって発見された最古の猿人である。ヒトとチンパンジーの共通祖先の前か、後かで説がわかれているが、本書では共通祖先と同時期に生きていた可能性があるとし、チンパンジーよりもゴリラに似た顔に復元されている。類人猿の原始的な形態を残しているのかもしれない。

 アウストラロピテクス・アフリカヌスは愛敬のあるチンパンジー顔で、SMAPの中居正広そっくりである。アフリカヌスより現生人類に似ているといわれているが、チンパンジーの方向にもどってしまったようにしか見えない。

 ホモ・ハビリスは女性の化石から復元しているが、ウーピー・ゴールドバーグを凶暴にした感じだ。石器による狩猟をはじめていたらしい。

 ホモ・エレクトスは世界中に広まったが、本書の復元模型はジャワ島で発見された男性の化石を元にしている。黒い朝青龍という感じで、モンドロイドを先取しているように見える。ジャワ原人にはアジア的特徴がすでにあらわれているという記述を読んでもぴんと来なかったが、復元模型で見せられると一目瞭然である。多地域進化説が出てくるわけだ。

 ホモ・フロレシエンシスはついこの間までフローレス島に生息していたアナザー人類である。系統は違うはずなのに、現生人類の中にもいそうな顔である。

 ホモ・ネアンデルタレンシスはイアン・マッケラン演ずるガンダルフという風貌で、ほとんど白人ではないか。間違っているとはわかっていても、多地域進化説はひょっとしたらと思ってしまう。

 特定の化石を元に復元するとその種固有の特徴なのか、その個体の個性なのかを曖昧にしてしまい、学問的ではないという批判もあるだろう。しかし13の復元模型が700万年の人類進化史を手の届きそうなところに引き寄せてくれるのも確かだと思う。

 つづく「出アフリカ」の章では10万年におよぶ現生人類の拡散史が図解中心に解説されている。ここの写真もみごとだ。驚いたのはクローヴィス尖頭器の美しさだ。モノクロの写真や模式図では見たことがあったが、カラーで見たのは初めてだ。クローヴィス石器を作っていた工房遺跡の所有者が一日25ドルの入場料をとって発掘させていたそうだが、こんなのが出てくるのだったら25ドル払おうという素人がいてもおかしくない。

 写真と図解が中心なので文字の量は多くないが、原著刊行の半年前に発表された「ネアンデルタール人のDNAをアフリカ人以外の現世人類が受け継いでいる」という最新の説もちゃんとはいっている。

 『人類20万年 遙かなる旅路』の時点ではネアンデルタール人のゲノム解読は2/3しか終わっておらず、ミトコンドリアDNAには共通点がないという結果から、現生人類とネアンデルタール人の交雑はないとされていた。

 ところが核DNAではアフリカ人以外の現生人類の中にネアンデルタール人から受け継いだ遺伝情報を持つ人々がいるのだ。ヨーロッパ人だけでなくアジア人にもいるということは出アフリカから間もない時期に交雑があったということだろう。そしてミトコンドリアDNAに共通部分が見られないことからするとネアンデルタール人の男と現生人類の女の組み合わせで交雑がおこったことになる。

 ネアンデルタール人の男が現生人類の群れに参加したということは考えにくいから、ネアンデルタール人の男が現生人類の女をレイプしたのか、あるいは現生人類の女がネアンデルタール人の洞窟に拉致され、受胎してから逃げだしたのかのどちらかだろう。寝案であるタール人は滅びたが、その遺伝子のいくつかは現生人類の遺伝子プールの中に残ったのである。

 なお、河出書房のサイトに本書の紹介ページがある。

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2013年09月11日

『人類20万年 遙かなる旅路』 アリス・ロバーツ (文藝春秋)

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 2009年にBBCで5回シリーズとして放映された「The Incredible Human Journey」の書籍化である。異なる立場の意見も丁寧に紹介されており、現時点で人類のグレート・ジャーニーものとしてはもっとも内容豊かで信頼できる本だと思う。

 著者のアリス・ロバーツは医師でバーミンガム大学で解剖学を教えるかたわらサイエンス・コミュニケーターとして活躍している。彼女のサイトを見ればわかるように大変な美人で、宣伝文句風にいえば美しすぎる解剖学者である。

 解剖学と関連の深い古人類学の学位をもち、最近河出書房から翻訳の出た『人類の進化大図鑑』(以下『大図鑑』)も彼女の編著である。『大図鑑』を見ればわかるが、サイエンス・コミュニケーターとしての実力は第一級である。

 「The Incredible Human Journey」では案内役として世界各地の現場に飛び、先住民や研究者と語りあったり、石器や土器作りから筏による航海、零下70度の雪原での野営まで体当たりの取材をしている。人類史の最新の知見を伝える一方、美しすぎる解剖学者の秘境冒険ものとしての面もそなえている。

 元の番組は先日NHKの『地球ドラマチック』枠で「人類 遥かなる旅路」として放映されたが、5回のうち3回だけだったし(本書の第1章、第3章、第5章に相当)、正味59分が43分に短縮された。アリスの出演場面はすべてカットされ、渡辺徹のナレーションで進むように再編集されていた。秘境冒険もの的な要素がなくなってしまい、ほとんど別の番組である。話の流れのおかしなところが多々あったが、本書を読んでようやく論旨が一貫した。

 人類のグレート・ジャーニーについてはさまざまな本が出ているが、著者がもっとも評価し、本書の下敷きとしているのはオッペンハイマーの『人類の足跡10万年全史』である。グレート・ジャーニーの最初と最後のイベント――出アフリカとアメリカ大陸到達――の時期でオッペンハイマー説を踏襲しているし、オッペンハイマー自身に会いにいき、教えを受けてもいる。オッペンハイマー説は2003年時点では大胆だったが、その後の発見で信憑性をましつつある。

 本書で意外だったのはDNA解析でとどめを刺されたと思っていた多地域進化説の信奉者が世界中にまだ残っていることである。多地域進化論者は化石資料を重視するが、解剖学から古人類学に進んだアリスは貴重な標本を前に彼らの言い分をじっくり聞いており、本書のというか番組の見せ場となっている(NHK版ではカット)。

 アボリジニはジャワ原人から進化したと主張するアラン・ソーンにWLH50の頭蓋骨を見せてもらう場面では明らかに現生人類とは違う特徴をもつ骨に、病気をわずらっていたのではないかと動揺していた。まだ謎はあるのである。

 中国では「中国人は北京原人の血を引く世界最古の民族」という愛国主義教育がおこなわれていて、北京原人の頭骨のレプリカは国宝級のあつかいを受けている。モンゴル人も、チベット人も、ウイグル人もすべて北京原人の子孫ということになれば、中国国内の民族問題が解決するというわけだ。

 アリスは中国古人類学学会の重鎮の呉新智に周口店を案内してもらい、厳重な保管庫からうやうやしく取りだされた北京原人の骨のレプリカを見せられるが、老学者に敬意をはらいながらも「頭骨の特徴の解釈は主観的になりがちだ」とにべもない。頭骨の形状は硬いものを食べて育ったか、柔らかいものを食べて育ったかだけで変わってしまう。解剖学を専門にしている著者は骨の形状の危うさをよく知っているのだ。

 旧人がそのまま現生人類になったとする説のもう一つの根拠は東アジアの石器が原始的な段階にとどまりつづけたことだ。3万年前になってようやく進んだ石器があらわれたが、それはゲノムの研究から東アジアに現生人類が到達したとされる時期より1万年も後のことだった。呉新智は原始的な石器がずっと使われつづけたことも種の交代がおこらなかった証拠としている。

 もっともこれには有力な反論があらわれている。東アジアでは石器にするような石がとぼしいかわりに、すぐれた道具となる別の素材――竹――が豊富だったので、石器を発達させる必要がなかったというものだ。番組では原始的な石器で竹を切り出し、あっという間に竹のナイフを作りあげて鶏肉を切ってみせた。切れ味はなかなかである。

 中国のさまざまな民族のDNAを調べ、中国人がアフリカ起源ではないことを証明しようという調査もおこなわれていた。中心となったのは上海復旦大学遺伝学研究所の金力で1万2000人を超えるサンプルを収集した。結果について金は次のように語っている。

「もちろん中国人としては、わたしたちのルーツが太古の中国にあるという証拠を見つけたかったですね。そういう教育を受けてきましたから。わたしたちは皆そう教わったのです。しかし科学者としては、この結果を受け入れなければなりません。そしてこの結果は、アフリカ単一起源説が正しいことを示しているのです。地域連続説は間違っていたのです」

 この調査の後も中国は北京原人起源説を子供たちに教えつづけているのだろうか。気になるところだ。

 出アフリカが7万4000年前のトバ火山の噴火前だったか(早期拡散説)、後だったか(後期拡散説)はまだ決着がついていないが、6万5000年前に出アフリカしたとする通説にしたがえば後期拡散説になる。日本語で読める本だと早期拡散説はオッペンハイマー本くらいで、ウェイドの『5万年前』、NHKの『ヒューマン』などは後期拡散説側である。

 本書は早期拡散説をとり、トバ火山噴火の時点にはインドまで達していたとする新説も好意的に紹介している。

 その根拠となるのはインドのジャワラプラム遺跡のトバ火山噴出物の堆積層の下と上で石器に連続性がみられるらしいことだ。灰の下の石器を作った人と上の石器を作った人が同じかどうかはわからないし、石器を作ったのが現生人類なのか旧人なのかも決着がついていない。とはいえインド洋を越えてトバ火山の灰が直接降ってくるインドで噴火の前も後も人類が生存していたということに驚く。

 トバ火山噴火は大災害には違いなかったが、絶滅した哺乳類はすくなく、ほとんどの種は百年足らずで回復していたという。トバ火山の影響を大きく考えすぎていたのかもしれない。

 『ヒューマン』で特筆大書されていた農業のお祭り起源説は本書では「宗教が圧力となって農業が発明された」と述べられるにすぎないが、狩猟採集生活から農耕生活への転換によって「全般的な健康状態の低下」がもたらされたという指摘は重要である。

 狩猟採集民に比べて、農民は、歯の欠損や虫歯が多く、成長不良で身長が低く、平均余命は短かった。また、外傷の残る骨が多く見られ、暴力や闘争が増加したことが察せられた。伝染病にかかる人も増えた。おそらく、貧しい生活に加え、多くの人が密集して暮らすようになったことがも影響しているのだろう。貧血症も一般的になった。しかし、個人レベルではそのような不利益をもたらしたものの、農耕の開始は、平均寿命の減少を補って余りある出生率の増加をもたらし、そのせいで人口は増加した。

 ヒトは定住生活向きには進化してこなかったとする西田正規『人類史のなかの定住革命』の指摘は正しかったのだ。

 さて人類学の調査は民族問題や差別問題に抵触しかねない面がある。アメリカ先住民のミトコンドリアDNA調査で過去に不正があり、先住民の研究者でもなかなか協力してもらえない状況があるという。

 本書では蔑称という理由で使われなくなった「ブッシュマン」が使われている。「ブッシュマン」の代りに使われていた「サン」は現地語で「牛泥棒」を意味していることがわかり、「牛泥棒」よりは「薮の人」の方がましという判断のようである。

 ネアンデルタール人がゲノム解析で赤毛だったことがわかったが、赤毛にする遺伝子は現生人類とは違うとわざわざ断っている。はっきり書いていないが、ヨーロッパで赤毛の人が嫌われるのはネアンデルタール人との混血が赤毛だったからではないかという説を想定してのことだろう。

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