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2013年06月29日

『ロラン・バルト中国旅行ノ-ト』 バルト (ちくま学芸文庫)

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 文化大革命末期の1974年、バルトはテル・ケル派の論客らと中国に招待され、三週間にわたって各地を観光して歩いた。

 テル・ケル派とは1960年にフィリップ・ソレルスが創刊した前衛文学誌『テル・ケル』に拠った作家、思想家のグループをいい、この頃にはフランス共産党から離れ毛沢東主義を奉じ、中国の現状がまったくわかっていなかったのに闇雲に文化大革命を礼賛するようになっていた(後に言い訳がましく転向することになる)。

 バルトは政治的立場こそ距離をおいていたが、秘蔵っ子のジュリア・クリステヴァがソレルスと結婚し、派の理論的指導者となっていた関係からテル・ケル派の後見人のような立ち位置にいた。

 中国に招待されたのはテル・ケル派からソレルス、クリステヴァ、マルスラン・プレイネ、それにバルトとスイユ社のバルト担当編集者で哲学者としても知られていたフランソワ・ヴァールの五人である。

 準備段階ではジャンク・ラカンも参加することになっていたが、テル・ケル派の一味と見られるのを嫌い直前になってとりやめている。

 一行は4月11日にオルリー空港をたって北京にはいり、柴禁城や近郊の人民公社を見学した後、あわただしく上海に飛んだ。上海と南京で四日づつすごし、洛陽から史跡をまわって西安に向かい、28日には北京にもどり、以後北京を拠点に動いている。帰国は5月4日である。

 この旅行については参加者がそれぞれ証言を残しているが、バルトだけは事前に書くと約束していた短文を除くと沈黙を守った。

 日本を題材に『表徴の帝国』のようなエスプリの効いた本を書いた批評家がなぜ中国については沈黙したのだろうか。

 カルヴェは『ロラン・バルト伝』でバルトは文革下の中国にうんざりしていたのだと書いている。

 彼にとって、中国はおそらく退屈だったのであり、腹だたしいこの旅の道連れのうちの何人かの毛沢東主義的情熱もそうだったのであろう。彼は退屈し、その退屈さをのちに味気なさの理論に変えるのであり、工場の見学や決まり文句に我慢がならず、当時中国を訪れた《外国の友》全員に必ず披露される鍼麻酔の実演に我慢がならず、とりわけ周囲の厳格主義に我慢がならなかったのである。

 うんざりしたならしたで、いくらでも書きようがあるだろう。カルヴェによるとバルトが沈黙を守ったのは中国に遠慮したからではなく、当時熱烈な毛沢東主義者だったテル・ケル派、なかんずく愛弟子のクリステヴァと仲たがいしたくなかったからだという。バルトの性格からいって十分ありうる話である。

 とはいえバルトは何も書き残さなかったわけではなかった。中国版『表徴の帝国』の材料にするつもりだったのかどうかはわからないが、三冊のノートにメモを残していたのである。ノートは他の遺稿とともにIMEC(現代資料出版研究所)に保管されていたが、2009年に出版された。旅行から実に35年後のことである。その邦訳が本書だ(ちなみに文庫オリジナル)。

 一行が訪れたのは批林批孔運動の真っ最中で、どこに行っても同じスローガンを聞かされる。判で捺したような毛沢東礼賛と劉少奇批判もあいかわらずおこなわれている。そして大字報(壁新聞)と書きなぐられたスローガン。

 帰国後、中国には記号はなかったのかという質問をはぐらかしたバルトだったが、感激しきりの同行者と違って彼の精神はちゃんと働いていた。

[結局、彼らの演説はブロックの組み合わせだ。その組み合わせ方だけが、とても脆弱なものではあるが、差異を浮かびあがらせてくれる――おそらくは解読しがたい微妙な差異だろう。というのも、それはわたしたちのコードではないからだ。彼らの言語学はソシュールの言語学ではない。個人言語ではないのである。彼らは愛や社会学的な知などについての話をしないのだろう]

 林彪の路線:修正主義:修正主義路線は《克己復礼》を目指す。つまり、資本主義を復活させる[見事なブロックが始まった]

 バルトはノートの中で政治的スローガンを終始「ブロック」と呼んでいる。「ブロック」は同行者の間でもおこなわれる。そして数ページおきに出てくるクレゾールの臭気。一行を歓迎するかのように、どこに行ってもクレゾールがまかれている。クレゾール、歓迎、クレゾール、歓迎。片頭痛が毎日のようにぶりかえす。

 かつてトロツキーに共感していたはずのバルトは教条的なトロツキー批判とスターリン礼賛をそのままノートに書きこんでいる。個人的な感想は[]でくくって書きつける。本当にマメな人だ。

[結局のところ、毛沢東は言語設立者ロゴテートなのだ。言語設立者は立法者ノモテートにとって代わる]

 文革時代に中国を訪れた外国人は必ず鍼麻酔の実演と革命京劇を見せられた。一行が見学したのは胃の切除と白内障の手術だった。

医者との会話:
病気の心的原因? そうですね、ただわたしたちは社会主義体制におりますので、潰瘍を引き起こすほどの精神の病はほとんどありません、云々……

 文革の間、中国の人民は紅衛兵もふくめていつ自分が糾弾されるのかわからない不安におびえていたことがわかっている現在から見ると笑うしかないやりとりだが、わざわざ書きつけているところをみると当時のバルトは答えの欺瞞性に気がついていたのだろう。社会主義はウソ、ウソ、ウソ、ウソまみれである。それにしてもあれほど喧伝された鍼麻酔だったが、今はどうなってしまったのだろう?

 ある革命京劇の感想。

英雄を主人公にした一種のオペラ・コミックで、大げさな対話、節回し、曲芸などが織り交ぜられている。好意的ではあるが誤った考えをもつ他勢力と比較して、正しい思想をもった共産党を賛美するというのが作品の意図。伝統的なオーケストラ。
相変わらず過剰な化粧:けばけばしい黄土色の顔色がベースで耳は白いまま。赤い顔:善人。悪人はもっと白く、黒服かドレスを身につけている(地主)。

 外国人の観劇はショーの一部であって、彼らが退場する時はまたしても熱烈歓迎が演じられる。

劇場を出る時はまたしても異様であった:観客は皆立ち上がり、人垣を作ってわたしたちに拍手を送る。車の周りに人だかりができる。
王様の旅行
旅行中ずっと:言語と旅行社の二重のガラスに遮られている。
まったく、なんてすてきな民衆たちなんだ。

 バルトは旅行中、終始不機嫌だったようだが、ところどころ心を和ませる情景も書きつけられている。たとえば始皇帝陵を訪れた時の眺め。

他のメンバーは塚の高くなった場所に登る。わたしは1人で残り、小麦畑の上にある果樹園のなかで地面に座っている、眼前には広大な淡い緑の地平線が広がる。埃っぽいベージュ系ピンクの煉瓦で作られた大きな建物がいくつかあり、遠くで音楽が聞こえる。薄茶色の畑には、大きな波状の畝がいくつもある。辺り一帯、ずっと奥まで木々が茂っている。見えないが、モーター付き自転車の音がする。

 本書は不機嫌が地になっているので、こうした条はことさら美しく感じられる。社会主義思想と社会主義国家はウソのかたまりだが、この頃の中国には七色に汚染された川や重金属まみれのゴミの山、財テクで作られた鬼城ゴーストタウンはまだなく、自然に救いがあったのだ。拝金主義に蹂躙される前の中国を記録した本書には歴史的価値があるかもしれない。

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