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2013年06月30日

『エッフェル塔』 バルト (ちくま学芸文庫)

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 『エッフェル塔』はバルトが1964年に発表した本文100ページに満たないエッセイである。日本では1979年に審美文庫から本文より長い解説というかバルト論が付されて(それでも薄い本だった)宗左近・諸田和治訳で出た後、1991年にみすず書房から花輪光訳でアンドレ・マルタンの写真55点入りの豪華本で刊行された。本書は審美社文庫版の文庫化で、解説に後期バルトに関する長い「追補」が加筆されたほか、伊藤俊治氏が選んだエッフェル塔に関する図版と写真がくわわっている。

 まず確認しておきたいのは本書はバルトが記号学の夢に迷いこむ前に書かれた本だということだ。バルトは1963年にテーマ批評の掉尾を飾る『ラシーヌ論』を書いたが、本書はその翌年に刊行されており、ほぼ同じ時期に書かれたと思われる。

 意外に思うかもしれないが、本書にはシニフィエ、シニフィアン、ラング、パロールといったおなじみの記号論用語はまったく出てこない。「記号」signeという語(本書では宗氏独自の訳語として「表徴」になっている)は9ページに2箇所、88ページに1箇所出てくるが、「空虚な表徴と言ってよいほど純粋なこの表徴」とか「このような社会的表徴をこえて、エッフェル塔は、さらに一層普遍的な象徴を展開させる」という行文を見ると、記号論でいうsigneではなく「象徴」の言い換えとして使われており、「表徴」というバロック的な訳語が案外はまっている。

 「記号」と「象徴」はどう違うのだろうか?

 バルトは『サド、フーリエ、ロヨラ』でサディズムを切り捨てたサド、ユートピア思想を切り捨てたフーリエ、信仰を切り捨てたロヨラを中心のないシステムとして示したが、『エッフェル塔』におけるエッフェル塔はパリの唯一無二の中心なのである。エッフェル塔を記号論的に考察するなら凱旋門や廃兵院、パンテオンのようなパリの他のランドマークとの対比で考えるか、東京タワーやスカイツリーとの対比で考えなければならない。ところが凱旋門や廃兵院、パンテオンはエッフェル塔から眺めおろされる風景の一つにすぎないし、他の塔は言及すらされない。エッフェル塔は記号論以前の「象徴」もしくは「隠喩」として分析されているのであって、記号論でいう「記号」としてはあつかわれていないのだ。

 「構造」、「構造主義」という言葉も出てくるが、レヴィ=ストロースにはじまる構造や構造主義とは異なる意味で使われている。

 パリとフランスは、ユゴーとミシュレの筆の下で(そしてエッフェル塔の視線の下で)はじめて理解しうる事物となる。だが――それこそが新しいことなのだけれど――、だからといって、パリとフランスがその具体性を失うことは決してない。なぜなら、こうして一つの新しいカテゴリー、つまり具体抽象というカテゴリーが誕生したからである。そして今日、構造という言葉に与えられる意味は、まさにこの具体抽象であり、すなわち知覚形式の肉体化なのである。

 ここで「構造」と呼ばれているのは「知覚形式の肉体化」と言い換えることもできる「具体抽象」であって、レヴィ=ストロースが親族の呼称体系や神話のヴァリエーションからとりだした置換群とは何の関係もないし、『モードの体系』や「物語の構造分析序説」などバルト自身の構造主義時代の仕事とも関係がない。『エッフェル塔』のバルトは構造主義以前のバルトなのだ。

 バルトはエッフェル塔に同一化し、没入していく。バルトはミシュレやユゴーが十九世紀的な想像力で描きだしたバロック的なパリを呼びさます。ミシュレはエッフェル塔が完成する十年以上前に物故し、ユゴーは建設中に亡くなったが、彼らが幻視したパリの鳥瞰的なパノラマはエッフェル塔から眺めるパリを予告するものだった。バルトは『ノートルダム・ド・パリ』を思わせる筆致でエッフェル塔からの眺望を描きだす。

 塔の頂上から、ひとたびこれらの歴史と空間の地点をとらえるならば、その後は想像力がひとりでにパリのパノラマを満たし、それに構造を与えていく。だがそのとき、この想像力の働きを助けるのは、人間の機能にほかならない。というのも、パリの上空にあがったエッフェル塔の来訪者は、まるで悪魔アスモデのように、何百万という人間の私生活をおおっている巨大な蓋を持ち上げる幻覚をいだくからである。そのときこの都会は親しいものとなり、彼は、この都会の諸機能、この都会のさまざまなつながりを解読していく。セーヌ川の水平なカーブと垂直に交叉した巨大な磁性軸上には、ちょうど仰むけに寝た人間の体のような、階段状に重なった三つの地帯、すなわち人間生活の三つの機能がある。上の部分、つまりモンマルトルの丘のふもとには快楽があり、真中の部分、すなわちオペラ座のあたりには、物質、事業、商売があり、下の部分、パンテオン寺院の足下には、知識と学問がある。

 エッフェル塔自体もバルトは十九世紀の大作家の筆致で描きだす。こんな具合だ。

 鉄は、火の神話に参加している。そして鉄の(象徴的な)価値は、重さにあるのではなく、エネルギーにある。なぜなら、鉄は強くて軽い物質だから。鉄の神はヴァルカンであり、鉄の創造の場は作業場である。鉄はまさに作りだす材料なのである。そしてこの材料が、自然に対する人間の貪欲で、決定的な支配という観念と象徴的に結びつけられる理由も、そこから理解できる。じじつ、鉄の歴史ほど、進歩主義的歴史観をささえているものはない。エッフェルは、塔の建設に鉄だけしか使わないことによって、さらには、この鉄のかたまり(エッフェル塔)を、パリの空に聳え立たせて、さながら鉄に献げる聖なる碑と化することによって、鉄の歴史を二重に飾ったのである。鉄の中にこめられているもの、それは十九世紀のすべての情熱、バルザック的でファウスト的な情熱なのである。

 バシュラールが大喜びしそうな物質的想像力全開の描写だ。全編こうなのだからうれしくなる。

 『エッフェル塔』はバルトのテーマ批評の最後の傑作である。みすず版の帯には「エッフェル塔の記号学」とあったが、売らんがための宣伝文句にすぎない。本書は記号学とも構造主義とも関係がなく、記号の科学の夢に迷った中期を飛び越えて後期バルトの快楽の世界に直結しているのだ。ゆめゆめ誤解しないように。

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2013年06月29日

『ロラン・バルト中国旅行ノ-ト』 バルト (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルト中国旅行ノ-ト →紀伊國屋ウェブストアで購入

 文化大革命末期の1974年、バルトはテル・ケル派の論客らと中国に招待され、三週間にわたって各地を観光して歩いた。

 テル・ケル派とは1960年にフィリップ・ソレルスが創刊した前衛文学誌『テル・ケル』に拠った作家、思想家のグループをいい、この頃にはフランス共産党から離れ毛沢東主義を奉じ、中国の現状がまったくわかっていなかったのに闇雲に文化大革命を礼賛するようになっていた(後に言い訳がましく転向することになる)。

 バルトは政治的立場こそ距離をおいていたが、秘蔵っ子のジュリア・クリステヴァがソレルスと結婚し、派の理論的指導者となっていた関係からテル・ケル派の後見人のような立ち位置にいた。

 中国に招待されたのはテル・ケル派からソレルス、クリステヴァ、マルスラン・プレイネ、それにバルトとスイユ社のバルト担当編集者で哲学者としても知られていたフランソワ・ヴァールの五人である。

 準備段階ではジャンク・ラカンも参加することになっていたが、テル・ケル派の一味と見られるのを嫌い直前になってとりやめている。

 一行は4月11日にオルリー空港をたって北京にはいり、柴禁城や近郊の人民公社を見学した後、あわただしく上海に飛んだ。上海と南京で四日づつすごし、洛陽から史跡をまわって西安に向かい、28日には北京にもどり、以後北京を拠点に動いている。帰国は5月4日である。

 この旅行については参加者がそれぞれ証言を残しているが、バルトだけは事前に書くと約束していた短文を除くと沈黙を守った。

 日本を題材に『表徴の帝国』のようなエスプリの効いた本を書いた批評家がなぜ中国については沈黙したのだろうか。

 カルヴェは『ロラン・バルト伝』でバルトは文革下の中国にうんざりしていたのだと書いている。

 彼にとって、中国はおそらく退屈だったのであり、腹だたしいこの旅の道連れのうちの何人かの毛沢東主義的情熱もそうだったのであろう。彼は退屈し、その退屈さをのちに味気なさの理論に変えるのであり、工場の見学や決まり文句に我慢がならず、当時中国を訪れた《外国の友》全員に必ず披露される鍼麻酔の実演に我慢がならず、とりわけ周囲の厳格主義に我慢がならなかったのである。

 うんざりしたならしたで、いくらでも書きようがあるだろう。カルヴェによるとバルトが沈黙を守ったのは中国に遠慮したからではなく、当時熱烈な毛沢東主義者だったテル・ケル派、なかんずく愛弟子のクリステヴァと仲たがいしたくなかったからだという。バルトの性格からいって十分ありうる話である。

 とはいえバルトは何も書き残さなかったわけではなかった。中国版『表徴の帝国』の材料にするつもりだったのかどうかはわからないが、三冊のノートにメモを残していたのである。ノートは他の遺稿とともにIMEC(現代資料出版研究所)に保管されていたが、2009年に出版された。旅行から実に35年後のことである。その邦訳が本書だ(ちなみに文庫オリジナル)。

 一行が訪れたのは批林批孔運動の真っ最中で、どこに行っても同じスローガンを聞かされる。判で捺したような毛沢東礼賛と劉少奇批判もあいかわらずおこなわれている。そして大字報(壁新聞)と書きなぐられたスローガン。

 帰国後、中国には記号はなかったのかという質問をはぐらかしたバルトだったが、感激しきりの同行者と違って彼の精神はちゃんと働いていた。

[結局、彼らの演説はブロックの組み合わせだ。その組み合わせ方だけが、とても脆弱なものではあるが、差異を浮かびあがらせてくれる――おそらくは解読しがたい微妙な差異だろう。というのも、それはわたしたちのコードではないからだ。彼らの言語学はソシュールの言語学ではない。個人言語ではないのである。彼らは愛や社会学的な知などについての話をしないのだろう]

 林彪の路線:修正主義:修正主義路線は《克己復礼》を目指す。つまり、資本主義を復活させる[見事なブロックが始まった]

 バルトはノートの中で政治的スローガンを終始「ブロック」と呼んでいる。「ブロック」は同行者の間でもおこなわれる。そして数ページおきに出てくるクレゾールの臭気。一行を歓迎するかのように、どこに行ってもクレゾールがまかれている。クレゾール、歓迎、クレゾール、歓迎。片頭痛が毎日のようにぶりかえす。

 かつてトロツキーに共感していたはずのバルトは教条的なトロツキー批判とスターリン礼賛をそのままノートに書きこんでいる。個人的な感想は[]でくくって書きつける。本当にマメな人だ。

[結局のところ、毛沢東は言語設立者ロゴテートなのだ。言語設立者は立法者ノモテートにとって代わる]

 文革時代に中国を訪れた外国人は必ず鍼麻酔の実演と革命京劇を見せられた。一行が見学したのは胃の切除と白内障の手術だった。

医者との会話:
病気の心的原因? そうですね、ただわたしたちは社会主義体制におりますので、潰瘍を引き起こすほどの精神の病はほとんどありません、云々……

 文革の間、中国の人民は紅衛兵もふくめていつ自分が糾弾されるのかわからない不安におびえていたことがわかっている現在から見ると笑うしかないやりとりだが、わざわざ書きつけているところをみると当時のバルトは答えの欺瞞性に気がついていたのだろう。社会主義はウソ、ウソ、ウソ、ウソまみれである。それにしてもあれほど喧伝された鍼麻酔だったが、今はどうなってしまったのだろう?

 ある革命京劇の感想。

英雄を主人公にした一種のオペラ・コミックで、大げさな対話、節回し、曲芸などが織り交ぜられている。好意的ではあるが誤った考えをもつ他勢力と比較して、正しい思想をもった共産党を賛美するというのが作品の意図。伝統的なオーケストラ。
相変わらず過剰な化粧:けばけばしい黄土色の顔色がベースで耳は白いまま。赤い顔:善人。悪人はもっと白く、黒服かドレスを身につけている(地主)。

 外国人の観劇はショーの一部であって、彼らが退場する時はまたしても熱烈歓迎が演じられる。

劇場を出る時はまたしても異様であった:観客は皆立ち上がり、人垣を作ってわたしたちに拍手を送る。車の周りに人だかりができる。
王様の旅行
旅行中ずっと:言語と旅行社の二重のガラスに遮られている。
まったく、なんてすてきな民衆たちなんだ。

 バルトは旅行中、終始不機嫌だったようだが、ところどころ心を和ませる情景も書きつけられている。たとえば始皇帝陵を訪れた時の眺め。

他のメンバーは塚の高くなった場所に登る。わたしは1人で残り、小麦畑の上にある果樹園のなかで地面に座っている、眼前には広大な淡い緑の地平線が広がる。埃っぽいベージュ系ピンクの煉瓦で作られた大きな建物がいくつかあり、遠くで音楽が聞こえる。薄茶色の畑には、大きな波状の畝がいくつもある。辺り一帯、ずっと奥まで木々が茂っている。見えないが、モーター付き自転車の音がする。

 本書は不機嫌が地になっているので、こうした条はことさら美しく感じられる。社会主義思想と社会主義国家はウソのかたまりだが、この頃の中国には七色に汚染された川や重金属まみれのゴミの山、財テクで作られた鬼城ゴーストタウンはまだなく、自然に救いがあったのだ。拝金主義に蹂躙される前の中国を記録した本書には歴史的価値があるかもしれない。

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2013年06月28日

『ロラン・バルト伝』 カルヴェ (みすず書房)

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 ロラン・バルトが亡くなって10年後に出た初の本格的な伝記である。

 力作といっていいと思うが、「作家の死」を提唱した文学理論家に普通の伝記を書いてしまったために(伝記素がどうのこうのと能書を書いているが、結局は物語風の伝記になっている)、笑いものにされこそすれ評価されることのなかった本である。ある意味気の毒な本といえる。

 著者のルイ=ジャン・カルヴェは社会言語学者で、伝記は本書が第一作となるが、その後シャンソン歌手のジョルジュ・ブラッサンスの伝記も書いているとのこと。

 どれだけ意味があるかは疑問だが、新事実がいろいろ書いてある。その中で重要と思われるのは戦死した父親が職業軍人ではなかったことだろうか。

 バルトの父のルイ・バルトは1916年10月北海の海戦で戦死した海軍士官と記されてきたが、もともとは民間の船乗りで、第一次大戦勃発とともに予備役海軍中尉として徴兵された。

 ルイ・バルトが指揮していたのは小さなトロール漁船に57mm砲を一門とりつけただけの「哨戒艇」だった。海戦がはじまると艇はすぐに被弾し、バルト船長は致命傷を負った。漁船に砲弾があたったらひとたまりもない。

 航海士の資格をとると海軍の予備役あつかいになる制度は戦前の日本にもあったらしいが、職業軍人と民間の航海士では遺族の「戦死」の受けとめ方はずいぶん違うだろう。『哲学の歴史12 実存・構造・他者』を読んでいて、第二次大戦後に活躍したフランスの哲学者に戦死した海軍将校の遺児が多いのが気になったが、海軍将校とはいってもバルトの父のように徴兵された民間の航海士が他にもいたかもしれない。

 バルトは19才の時に喀血し、20代の8年間をサナトリウムですごすが、最初にはいったサン・ティレールの学生サナトリウムはグルノーブル大学附属で、グルノーブル大学の教師が出張講義をおこなっていた。バルトはこのサナトリウムでエリアス・カネッティの弟のジョルジュと知りあっている。

 フランス人には自明のことかもしれないが、外国人にはわかりにくいキャリア形成や出版事情についての記述もある。日仏学院のようにフランス政府が外国に設けたフランス語教育施設が若い知識人の受皿となっていて、結核によってアカデミックな経歴をいったんはあきらめたバルトは外務省の嘱託としてブカレストのフランス学院に赴任する。役職は図書係だったが、シャンソンをテーマとした連続講演をおこない好評を博す。

 カルヴェは一般の聴衆を相手にした講演にとりくんだことが後年のバルトのスタイルを決定したとしている。

 博識を通俗解説に盛り込み、学問的でありながら一般大衆にもわかるように話すことによって、彼はそれと知らずに一つのスタイルを試していたのだ。それはのちに『神話作用』で用いることになるスタイルであり、自分が話しているその場から生まれるスタイルである。大学で教えていたとしたら、他の形を採らざるをえなかったろうし、大学の古典的な言説の鋳型にはまらざるをえなかっただろうが、ここでは、この学院では、教養はあるが専門的ではないそうした聴衆を前にして、彼はのちに自分の書き方となるものを、しゃべることによって作り上げていたのだ。

 ルーマニア革命によってブカレストのフランス学院は閉鎖される。バルトは失業を心配するが、スタッフの多くはアレクサンドリアのフランス学院にまわされる。バルトはそこで後に構造意味論の大家となるグレマスと知りあう。グレマスはソシュールを教えてくれただけでなく、語彙論研究者のジョルジュ・マトレを紹介してくれる。バルトはマトレを介してアカデミックな経歴の端緒をつかむのだから万事塞翁が馬である。

 本書で描きだされるバルトは弱く傷つきやすい。結核の療養のためにエコール・ノルマルを受験できなかっただけでなく、教授資格アグレガシオンもとれなかった。ピカールとの論争についてもバルト側からしかけたところか、バルトは批判に狼狽し深く傷ついている。

 「わかるだろ、ぼくが書くものは遊戯的だから、攻撃されると何もかもなくなってしまうんだ……」と彼はフィリップ・ルベロールに説明している。同じ頃、アラン・ロブ=グリエが語っているところによれば、バルトは「ピカールの非難によって極端に動揺していた(……)。古いソルボンヌの怒り狂った視線が、とつぜん、憎しみと恐れの入り混じった複雑な感情で彼を震え上がらせたのだ」という。フィリップ・ソレルスの記憶によれば、バルトは「ピカール万歳」というあのほとんど全員の叫びを前にして、ひどく傷つき、苦い思いをしていた。彼は敵意を示す社会に対してよろいもなく、無防備な自分を見出したのだ。

 『批評と真実』の颯爽とした反論と、その後に勝ちえた世界的な名声からすると意外な印象を受けるが、よくよく考えればその通りだったろう。

 本書が描きだすバルトは勤勉というかマメである。勤勉さやマメさは後期のバルトからはもっとも遠い特質に思えるが、国立科学研究センターで最初にえた語彙論の研究員というポストは国立図書館で1830年代の商取引に関する文献を調査し、資料カードを作成するというもので、勤勉でなければつとまらない。

 勤勉さ自体はサナトリウム時代から発揮していた。バルトはミシュレ全集からの書き抜きを資料カードでおこなっていたが(10年以上後、最高傑作『ミシュレ』として結実する)、900枚を超えたところで資料カードの使い方が間違っていたと気づき、すべてのカードを正しい書き方で転記したというのだ。いくら時間がありあまっていたとはいえ、根がマメでないと到底できないだろう。

 バルトはアカデミックな資格を学士号以外もっていなかった。教授資格アグレガシオンは結核による不可抗力といえなくはないが、博士号の方はみずからすすんで放棄した印象を受ける。博士論文として準備したのは『モードの体系』である。『モードの体系』は完結しており、記号論研究の金字塔といっていい重要な著作である。しかもボードリヤールの『物の体系』よりもずっと博士論文としての体裁をそなえているように思える。ところがバルトはついに博士論文の登録手続をおこなわず、書きあげた『モードの体系』は論文としてではなくエッセイとして刊行する。

 学位論文を書くということは、ある種の大学的な言葉遣いに自分を従わせるということである。それは人文科学の研究者たちにとって研究成果の発表を可能にするやや生彩のない手段としての言葉遣いである。ところが、彼はその好みからして、より型にはまっていない、より個人的な別の文体に向かわずにはいられない。おそらく彼は、この学位論文も、他の学位論文も、自分はついに仕上げることがないだろうと感じて、自分のそうしたやり方ないし無力さをすでに、作家と著作家という、その後有名になった区別によって理論化していたのだ。つまり、一方には、彼が退ける例の文体、エクリヴァンス(&eacc;crivance)があり、他方には、ある思想を伝えると同時に言説としての自己を問題にする例の言説、エクリチュール(&eacc;citure)がある、というわけである。

 カルヴェの見方は説得力があると思う。『物の体系』でも通ったのだから、『モードの体系』が通らないはずはないと思うが、バルトには譲れない部分があったのだろう。

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2013年06月27日

『ロラン・バルト』 アレン (青土社)

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 英国のラウトリッジ社から比較文学を勉強する学生向けに出ている「シリーズ現代思想ガイドブック」の一冊である(邦訳は青土社から)。ガイドブックだけに随所に用語解説のコラムをはさみ、各章の末尾に要約を載せている。

 同シリーズからはレインの『ジャン・ボードリヤール』をとりあげたことがあるが、本書も訳文が読みやすい。近年、現代思想関係の翻訳はずいぶんよくなったが、平明なはずの概説書が平明な日本語で提供されるようになったのはけっこうなことである。

 原著と異なるのは巻末の「読書案内」だ。バルトに限らず英訳本では英訳本独自の編集がおこなわれることが多く、英米で独自に編まれた論集もすくなくない。英訳本の表題だけでは何という論文の話をしているのかわからないことがよくあるのだ。本書ではアレンのコメントを本国版に準拠して再構成し、さらに邦語文献を追加しており、「読書案内」がちゃんと「読書案内」になっている。

 簡単な略歴の紹介の後、「キー概念」の部では主要著作を年代順に、時代情況に即しながら紹介している。

 本書では時代状況に即すという点が重要である。バルトは変貌をくりかえし、「エクリチュール」のような基本的な語の意味も初期と後期ではずいぶん異なるが、時代状況を考慮しないとどのように変わったかが本当にはわからないからだ。

 『零度のエクリチュール』の頃のエクリチュールは選択不可能な二つの条件(国語と文体)と対比される選択可能な書き方、表現様式のことだったが、その背景には本書で詳しく解説されているようにサルトルのアンガジュマン文学論がある。初期のバルトはサルトルの圧倒的な影響下にいたのである(アンガジュマン文学論からはすぐに離脱するが、サルトルの想像力論の影響は最晩年の『明るい部屋』までつづいている)。

 若い人は内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』を通してバルトとエクリチュールを知るケースが多いようである。内田氏の解説は非常にわかりやすくすぐれているとは思うが、単純化しすぎている部分もあるのである。

 バルトがエクリチュールを選択可能な書き方という意味で使っていたのはアンガジュマン文学論の影響下にあった初期の話であって、ポスト構造主義の時代になると異なる意味あいがあたえられるようになるのだ(エクリヴァンスと対比されたエクリチュール)。またバルトは人間を「エクリチュールの囚人」ではなく「言語の囚人」と考えていたはずである。内田氏の影響はきわめて大きいので、あえて一言ふれておく。

 『ラシーヌ論』をめぐるレイモン・ピカールとの論争についてはカルヴェの『ロラン・バルト伝』の後に出たにもかかわらず、従来通りバルト側から挑発したような記述になっているのは残念だ。距離を置いてみればバルトが一方的に得をしたように見えるが、同時代的にはそんな甘い状況ではなかったようである。

 あるいはアレンはカルヴェの描きだした弱いバルトに反発したのかもしれない。カルヴェはバルトの亡くなった3週間後にサルトルが亡くなったためにバルトの死がかすんでしまったと書いたが、アレンは「しかしながらカルヴェの報告を額面通りに受け止めて、バルトの死を悲喜劇のアフター・ピースに翻訳してしまえば、わたしたちは間違いを犯すことになるだろう」と反論している。

 科学を標榜していた構造主義時代から、テクスト論を標榜するするポスト構造主義時代への変わり目は「物語の構造分析序説」と『S/Z』の間の時期とする見方が多かったと思うが、アレンは「物語の構造分析序説」の段階ですでにポスト構造主義への移行がはじまっており、『S/Z』はテクスト論の「もっとも完全な報告」と位置づけている。アレンが指標とするのは間テクスト性だが、この見方は十分説得力があると思う。

 後期のバルトは意味伝達の記号論から意味生成のテクスト論へ完全な転回をとげるが、アレンは意味生成のテクスト論に突き進んだ背景にはアマチュアピアニストとして演奏を楽しむ経験があると指摘している。

 バルトによる能動的な読書の推奨は、音楽の演奏についての指摘を反映している。同様に、バルトによる音楽の愛好的生産の称揚も、身体的な、アンガジェした、音楽への能動的関係に関わっている。いま音楽は、大衆文化のなかで商品化されること甚だしく、そこに立ち向かうのが音楽のパフォーマンスなのである。

 手すさびの音楽と同一視するのはいかがかと思わないではないが、そうした面があるのは事実だろう。

 アレンはバルトの生涯をつらぬく姿勢を反骨にもとめている。初期においては『神話作用』に見られるようにブルジョワ文化に対する反骨、1970年以降は猛威をふるう大衆文化に対する反骨だ。

 いわんとすることはわかるが、ノルマリアン的なブルジョワ蔑視、大衆蔑視とは違うということは押さえておいた方がいいのではないかと思う。

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2013年06月19日

哲学の歴史 12 実存・構造・他者』 鷲田清一編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第12巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 20世紀の三冊目でフランス語圏の哲学をあつかう。副題の「実存・構造・他者」のうち「実存」と「構造」があげられるのは当然だろう。第二次大戦後、フランスの哲学は世界中を席巻するが、1960年を境にそれ以前が実存主義、それ以降が構造主義とはっきりわかれるのである。

 その意味で本巻がベルクソンからはじまっているのは意義深い。第二次大戦前のフランス哲学といえばベルクソニスムをさしたが、スピリッチュアリスムとは別の流れということになってはいても、時間がたってみるとやはり一つの伝統に棹さしていたからだ。

 なお本題とは関係ないが、本巻を読んでいて第一次大戦前後に父親を亡くした哲学者がすくなくないことに驚いた。しかも戦死ということだけしかわかっていないリクールを除くと、あとはいずれも海軍士官なのである。サルトル、メルロ=ポンティ、アンリ、そして本書では無視されているが、ロラン・バルトもそうだ。第一次大戦の戦死者は陸軍の方がはるかに多かったと思うが、フランスの哲学者の多くはなぜか海軍士官の遺児だったのである。単なる偶然の一致だろうか。

「総論 モダンとポストモダン」 篠原資明

 本シリーズの総論は編者自身が書いているが、本巻だけは鷲田清一氏ではなく篠原資明氏が担当している。篠原氏はベルクソンとドゥルーズに関する著作で知られているが、本章もベルクソンからメルロ=ポンティ、さらにドゥルーズへ向かう流れを縦軸として20世紀フランス哲学をまとめている。

 ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズと並べればベルクソニスム、実存主義、構造主義(とポスト構造主義)という三つの時代区分がすべておさまり、伝統的なスピリッチュアリスムとの連結もはっきりするが、このようにまとめてしまうとドイツ哲学が現代フランス思想におよぼした圧倒的な影響が見えにくくなってしまう。

 おそらくその点を考慮したのだろう、本書の真ん中あたりに「自由への横断――ライン川を越えて」という小林康夫氏のコラムがあり、総論とこのコラムをあわせ読むことで20世紀フランス哲学が立体的に見えてくるのである。

「Ⅰ ベルクソン」 檜垣立哉

 第二次大戦前はベルクソン=フランス現代哲学だったが、実存主義の時代になるとすっかり忘れられてしまい、科学哲学としてのみかろうじて名前が残っていた。ベルクソンと科学哲学というと意外に思うだろうが、澤瀉久敬という人が生命科学の批判論として、今にして思えばかなり的外れな持ちあげ方をしてくれたおかげで関心がつづいていたのである(わたしが学生時代の頃だ)。

 ところがポスト構造主義の時代になりドゥルーズが差異の哲学の原点としてベルクソンを評価していて、『ベルクソンの哲学』というすこぶる刺激的な本まで書いていることがわかって再び注目されるようになった。

 本章はドゥルーズ的に強引に再編成されたベルクソンではなく、発展の順序を追ったオーソドックスな紹介であり、メルロ=ポンティやミンコフスキー、アンリに継承されたものまで視野におさめている。刺激は感じないが無難に読める章である。

「Ⅱ 反省哲学」 越門勝彦

 フランス反省哲学といっても知っている人はすくないだろう(わたしは本書ではじめて知った)。本章を担当している越門氏もこれといった著作がないので「非常にマイナーな思潮」と認めている。しかしリクールに決定的な影響をあたえるなど、その影響は思いのほか広く深く、フランス哲学の重要な流れなのだそうである。

 反省哲学というと内観主義のような印象を受けるが、代表者の一人であるナベールの定義によると「つねに精神をその作用ならびにその産出物において考察する」ことである。精神の「産出物」とは行動であり、行動を精神の記号と見なして両者の関係を意味作用と規定するというから、同時代のプラグマティズム、特にパースの思想と共通する部分が多いという印象を受ける。

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