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2013年05月31日

『記号の経済学批判』 ボードリヤール (法政大学出版局)

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 ボードリヤールの初期論文集である。

 原著は1972年刊行だが、最初の三編は1969年から70年にかけて「コミュニカシオン」などに発表した旨の注記があり、内容的にも『物の体系』と『消費社会の神話と構造』と平行している。四番目の「身振りと署名」と五番目の「美術作品のオークション」、最後に飛んで「メディアへのレクイエム」(エンツェスベルガー論として面白い)以降の三編も、初出の記載がないものの、どこかに発表した論文を再録したのではないかという気がする。

 しかし中間の三編「一般理論」、「使用価値を越えて」、「記号の経済学批判のために」はひとつづきの論旨で密度が高い。本書のために書き下ろされたか、個別に発表されたにしても大幅に手がはいっているのではないか。

 注目すべきは内容である。ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』以降、記号外の現実を否定し、映画『マトリクス』に影響をあたえるようなハイパー現実論を展開するが、なぜそういえるのかという肝心な部分は比喩でしか語らなかった。ところが「一般理論」以降の三編では理論的に語ろうとしており、成功しているかどうかはともかくとして、ボードリヤールの思考が生な形でうかがえるのである。

 「一般理論」では使用価値の機能的論理、交換価値の経済的論理、記号価値の差別化の論理、象徴交換の論理という四つの論理の関係が総当たり的に論じられ、以降の議論の基盤となるが、抽象的すぎて何が何だかわからない。使用価値と交換価値はマルクスの用語を受けついでいるのであたりがつくが、記号価値と象徴的価値はこの論文だけでは見当がつかない。

 しかし手がかりは直前の章「美術作品のオークション」に用意されている。オークションという卑近な話題を例に、記号価値と象徴交換がどのようなものか、他価値とどのように関係するのかが述べられている。

 オークションで高い値段で落札されたからといって、そのモノの使用価値や交換価値が増えたわけではない。セリによって増大したのは記号価値だ。どんなに金を使ってもいいから相手より優位に立ちたい、自分を際立たせたいという無謀さが記号価値を生みだす。

 金銭の意味が変わるのは浪費においてである。オークションにおいて確立されたこの事実は仮説として消費のあらゆる領域に適用できる。経済学もマルクスもこうした面は徹底して無視してきたが、消費という行為は単なる購入(交換価値を使用価値に転換する)ではなく、浪費顕示的な富、富の顕示的な破壊でもあるのだ。購入され獲得され所有となったモノに差別化する記号の価値をあたえるのは、交換価値の向こう側で展開され、交換価値の破壊によって基礎づけられたこの価値なのだ。それは等価交換の経済論理で価値をもつ金銭の量ではなく、差別化と対決の論理によって浪費され、犠牲にされ、消尽される金銭なのだ。あらゆる購入行為はこうして経済行為であると同時に、差別化する記号価値を生みだすところの超経済行為である。

 使用価値、交換価値、記号価値は不特定多数の人に対して意味をもつが、最後の象徴交換は特定の人間関係に埋めこまれており、贈与の連鎖としてあらわれる。象徴交換は経済の外部であり、近代社会では経済活動の領域が拡がるにつれてどんどん縮小している。

 ボードリヤールは商品形態を左辺に置き、記号形態を右辺に置く式をつくり、この式全体を経済活動の外部であり、非価値の領域である象徴交換と対立させる。

 交換価値 ←→ シニフィアン
 ──────  ─────────  /  象徴交換
 使用価値 ←→ シニフィエ

 ここでボードリヤールは奇妙なことをいいだす。通常記号の外部とされる指示対象をシニフィエと同一視し、それに対応して使用価値と欲求も同一視するのだ。したがって上の式は次のように説明されている。

使用価値とシニフィエは交換価値とシニフィアンと同じ重みをもっているわけではけっしてない。交換価値とシニフィアンが戦略的価値をもつとしたら、使用価値とシニフィエの方は戦術的価値をもつといえよう。システムは機能的な、しかしヒエラルキー化された両極性にしたがって組織されるが、そこでは交換価値とシニフィアンの側に絶対的な優位性がある。使用価値と欲求は交換価値の効果にすぎない。シニフィエ(と指示対象)はシニフィアンの効果にすぎない。

 シニフィアンと交換価値、シニフィエと使用価値を対応させることについてはマルクスに照らせば逆ではないかという今井仁司の批判があるし(「消費社会の記号論」、『講座・記号論』4所載)、シニフィアンと記号の指示対象を同一視し、指示対象を記号内部にとりこんでしまう考え方はそもそもソシュールの定義から逸脱している。

 ソシュールはシニフィアンとシニフィエを紙片の裏表になぞらえ、紙片全体で指示対象を指し示すとしたが、ボードリヤールはその定義を観念論的としりぞけ、「割れ目は記号と「実在する」指示対象の間にははいっていない。割れ目は形式としてのシニフィアンと、内容として位置づけられたシニフィエ=指示対象の間にはいっている」と分割位置を記号内部に移してしまう。ボードリヤールはシニフィアンの切りわけはシニフィエの切りわけであり、指示対象の切りわけでもあるから三者は同じだとして、次のように述べている。

 重要なのは記号と世界の分離はフィクションであり、SFの世界に行きつくと知ることだ。記号の等価、抽象、選択、切りわけの論理はシニフィエのみならず指示対象をも包みこむ――記号が「喚起」し、間隔をおくこの「世界」は記号の効果、影法師、「縮小」された投影にすぎない。というかむしろシニフィエ/指示対象――すでに見たように両者はただ一つであり、同じもの、同じ内容である――こそがシニフィアンの影法師として、現実の効果として戯れているのであるが、その現実を通してシニフィアンの戯れが演じられ、身代わりを作りだしているのだ。

 「SFの世界に行きつく」とは絵空事という意味だろうが、逆にボードリヤールの著作から映画『マトリクス』が生まれたのは皮肉である。

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