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2013年02月25日

『ボードリヤールという生きかた』 塚原史 (NTT出版)

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 ボードリヤールは『湾岸戦争は起こらなかった』に懲りて以来御無沙汰していたが、最近読み直す必要が出てきて、全体像を確認するために本書を開いてみた。

 著者の塚原史氏はフランス留学時代に今村仁司氏から『消費社会の神話と構造』の共訳を持ちかけられたのを機にボードリヤールにかかわりだし、以来10冊以上のボードリヤールの著書やボードリヤール紹介本を翻訳し、来日時には案内役をつとめる仲だという。

 ボードリヤールを読んだことがあるといっても、最後まで読みとおしたのは論文スタイルで書かれた初期の消費社会に関する著作だけだったので、中期以降のボードリヤールの変貌ぶりには驚かされた。『シュミラークルとシュミレーション』が映画『マトリクス』の種本だくらいは知っていたが、まさか写真家になっていたとは。

 本書はボードリヤールの生い立ちからはじめる。ボードリヤールは1929年ランス生まれ。ランスはフランス東北部の古都で、日本でいうと仙台あたりか。祖父の代までは小農だったが、両親の代からランスに出てきて下級官吏になった。ボードリヤールが育ったのは地方の平凡な家庭で、エコール・ノルマルを目指すようなエリート家庭ではなかったわけである。構造主義の大物はレヴィ=ストロースを除くと早死にする傾向があったが、ボードリヤールは著者に「私はひ弱な知識人たちとはちがって、農民の根っこを持っているから丈夫なのだよ」と語ったそうだ。

 ボードリヤールは猛勉強してドイツ語のアグレガシオンに合格、ランスのリセでドイツ語の教師を10年間つとめる。その間アンリ・ルフェーヴルのもとでマルクスとエンゲルスの著作の下訳に従事する。共訳者として名前が出ているのは『ドイツ・イデオロギー』くらいだが、それ以外にも相当な分量の下訳をしていたようである。翻訳という作業は著者の思考を一字一句なぞっていくわけだから、ボードリヤールのマルクス研究はあなどれない。

 下訳の一方、ルフェーヴルの推薦でサルトルの主宰する「レ・タン・モデルヌ」に文学評論やブレヒトの翻訳を寄稿するようになる。「レ・タン・モデルヌ」は当時は相当な権威のあった雑誌である。

 20代のボードリヤールはこの世代の知識人の常としてサルトルとマルクスの強い影響下にあったが、30代になるとロラン・バルトに魅了されるようになり「すべてが一変した」と後に語っている。

 ボードリヤールは文学の科学を標榜していた時代のバルトによって記号論と構造主義に導かれた。1966年に博士論文として提出され1968年に刊行された最初の本『物の体系』(この題名自体『モードの体系』のもじりだ)にはバルトの顕著な影響が見られると著者は指摘する。

 1966年にナンテール校(現在のパリ第10大学)が新設された際、ルフェーヴルに社会学を教えられるかと聞かれ、できると答えたところナンテール校で教鞭をとるようになる。ということはボードリヤールはこの時点ではドイツ語の翻訳者であって、社会学者ではなかったことになる。

 ボードリヤールは途中からぐれてポップ・カルチャー評論家になった社会学者とばかり思いこんでいたが、ポップ・カルチャー評論家が社会学者のふりをしていたというのが実情のようだ。そう考えると、いろいろ腑に落ちることがある。

 1968年の五月革命の際、ナンテール校は反体制派の拠点となった。ボードリヤールは学生との共闘は避けたものの、同僚のエドガール・モランやリオタールとともに自主ゼミやビラづくりを通じて学生にエールを送った。『物の体系』は構造主義革命の産物だが、同時に五月革命の息吹を伝えているといっていい。

 熱狂の後には幻滅が来る。ボードリヤールは『物の体系』でマルクス主義ではもはやとらえられない高度資本主義のありようを消費社会として分析し、旧来の左翼の言論に時代遅れの烙印を捺したが、五月革命の2年後に刊行された『消費社会の神話と構造』では「個性」も「反体制」もすべて消費すべき差異としてとりこんでしまう体制のしたたかさを描きだしている。

 ボードリヤールは書いている。

 「消費のフレーズと反フレーズが一体となって神話ができあがる」と著者は指摘する。この点で、五月革命の反体制派は「モノと消費に悪魔的価値をあたえ、悪魔的なものとして告発し、決定的審級に仕立あげることによって、じつはそれらを超モノとしてしまうことに気づかなかった」という彼の言葉には、重いものがある。

 この後、ボードリヤールは『象徴交換と死』で大きな転換をとげる。本書では『象徴交換と死』を初期の消費社会論から中期のシミュラークル論へ踏みだした最重要の本として詳しく分析している。

 ここで「象徴交換」と呼ばれるのは未開社会の貨幣を介さない儀礼的交換であるが、ボードリヤールは近代社会の合理主義とは別の原理として注目し、消費社会の最先端で発生したシミュラークルと結びつける。

 原始時代に属する象徴交換と半ば未来に属するシミュラークルを結びつけるのは乱暴な話のようだが、そこにこそボードリヤールの洞察がある。

 著者が、なぜあの二つのアイデアを接近させたかといえば、それは等価交換の不可能性という問題にかかわっている。現実=オリジナルの記号化の最終段階であるシミュレーションの時代は、現実との対応関係を必要としない純粋なシミュラークルの出現を特徴としているが、この時代には、世界はその等価物を失い、生産中心の単純な経済原則にもとづく等価交換はもはやフィクションでしかなくなってしまう。
 したがって、あらゆるものが記号化されるこの段階では、社会自体が「システム内部にある反システム原理」として……中略……記号化をつうじた等価交換を拒否する象徴交換を再び登場させないわけにはいかない。

 こう説明されればよくわかる。『象徴交換と死』は大変な射程をもった本だったのである。

 本書の後半では『アメリカ』以降の後期ボードリヤールが語られるが、このあたりは『湾岸戦争は起こらなかった』しか読んでいないので論評はさしひかえよう(正直いうと、ボードリヤールで重要なのは初期と中期であって後期はあまり読みたいとは思わない)。

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