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2013年01月31日

『三島由紀夫 幻の遺作を読む』 井上隆史 (光文社新書)

三島由紀夫 幻の遺作を読む →bookwebで購入

 著者の井上隆史氏は三島由紀夫の遺稿を保存する山中湖文学の森三島由紀夫文学館の研究員で、「幻の遺作」とは副題に「もう一つの『豊饒の海』」とあるように、同館が収蔵する創作ノートと草稿の研究から想定された『豊饒の海』の別の結末である。

 『豊饒の海』は輪廻転生の物語だが、生涯の最期をこういう作品で締めくくったからといって三島が生まれ変わりを信じていたと考える人はいないだろう。20歳で夭折しては転生する人物を主人公にすえたのは昭和の御代をまるごととらえるための大がかりな趣向であって、随所で披瀝される唯識説は趣向をもっともらしく見せるための飾りだというあたりが大方の受けとり方ではないか(わたしもそう考えていた)。

 ところが本書によるとそうではないらしいのである。三島は生まれ変わりは信じていなかったにしても輪廻を救済と見なし、輪廻のメカニズムを説明する唯識説にも大真面目にとりくんでいたというのだ。

 三島がはじめて輪廻に言及したのは思いのほか早く、昭和20年5月25日に執筆した「夜告げ鳥」という詩においてである。20歳の三島はこう書く。

今何かある、輪廻への愛を避けて。
それは海底の草叢が酷烈な夏を希ふに似たが
知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ
不当なばかりそれは正当な不倫なほど操高いのぞみだ、と
さように歌ひ、夜告げ鳥は命じた
蝶の死を死ぬことに飽け、やさしきものよ
輪廻の、身にあまる誉れのなかに
現象のやうに死ね 蝶よ

 詩は「蝶の死を死ぬこと」から訣別し輪廻を願えと呼びかけるが、ここでいう「蝶の死」とは三島が熱愛していた伊東静雄の「八月の石にすがりて」という詩を踏まえている。

 伊東の詩は「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる」と蝶のはかない死を讃美し、それこそが「運命」だと歌いあげる。いかにも日本浪曼派的な悽愴美であり、処女作の「花ざかりの森」で惑溺していた世界でもあるが、20歳になった三島はそのような美に甘んじることなく、はかない美の背後に想定される永遠の輪廻にむかえと歌う。

 なぜ三島は日本浪曼派の世界に訣別し、輪廻の思想にすがったのだろうか。

 著者は詩の書かれた昭和20年5月25日という日付が鍵だという。入隊検査で肺浸潤と「誤診」されて出征をまぬがれた三島は神奈川県の海軍高座工廠に徴用されていたが、24日未明に自宅のあった松濤が爆撃されたと知り急遽帰宅した。その時に瓦礫と化した東京を見た衝撃が日本浪曼派的な美を色褪せさせてしまったのではないかと推定し、『暁の寺』で本多が目にする焼け野原こそその時の記憶だという。

 三島にとって輪廻とは全的な破滅を「現象」として相対化してくれる永遠の視点であり、そのような視点を獲得することが救済となるというわけだ。

 救済としての輪廻という思想は「夜告げ鳥」の直後に草した「二千六百五年に於ける詩論」(皇紀2605年は昭和20年)ではより一層明確に語られている。

運命観の最高のものたる輪廻は、永遠と現存とを結ぶ環でもあるが、無数の小輪廻は個々人の裡にめぐりつゝ、相接する歯車の如く宇宙の大輪廻へと繋がります。即ち詩人は個人の小さき歯車の中でも特殊な歯車の持主といふべく、自我内の永遠から唐突が仕方で宇宙的永遠に連なる一方、この大小の永遠の間を、軽業師の身軽さと手妻使ひの気易さ、総て超自然の模倣者たる矜りを以て自由に往来するのであります。神人交通が詩人に於てほど容易になされる例はありません。詩人は輪廻を愛する人であります。

 輪廻が救済だという発想は仏教本来の考え方とは真逆である。仏教では生まれ変わり死に変わる輪廻を苦と見なし、輪廻からの脱却をはかる。解脱とはもう生まれ変わってこない状態のことである。仏教にはそもそも永遠の救済という発想はなく、阿弥陀仏に救いとってもらうのも修行のできる環境に生まれ変わって、現世でかなわなかった解脱をとげるためだ。もはや生まれ変わらず、消えてなくなることが仏教の最終目標なのである。

 20歳の三島は輪廻思想を誤解していたが、戦後作家として登り坂の間は輪廻への憧憬が表面化することはなかった。事実『仮面の告白』にも『金閣寺』、『潮騒』にも輪廻は登場しない。

 しかし『鏡子の家』の失敗と、それにつづく『宴のあと』裁判、深沢七郎の「風流夢譚」事件への関与、さらに文学座の分裂騒動が三島に中年の危機をもたらした。はたから見ると『からっ風野郎』で若尾文子と共演したり、ボディビルに凝って写真集『薔薇刑』を出したりと華やかな生活を送っているようだったが、実際は深刻なスランプにおちいり、三島がもともともっていた世界崩壊感覚を深刻にしたというのだ。

 この危機にあたって焼趾の廃墟で20歳の時にすがった輪廻=救済という発想が甦えり、『豊饒の海』四部作の構想に発展したというのが本書の骨子である。

 仏教的には輪廻が救済になるという考えは誤解以外のなにものでもないが、そもそも輪廻は救済になるのだろうか。生まれ変わり死に変わる永遠の生命などというものを持ちだしたら、今ここで生きている自分はかりそめの現象にすぎなくなり、むしろ虚無に突き落とされるのではないか。勲が清顕の生まれ変わりだと気がついた本多は「精神の氷結」から甦えるような歓びを覚えた反面、「ひとたび人間の再生の可能性がほのめかされると、この世のもつとも切実な悲しみも、たちまちそのまことらしさとみづみづしさを喪つて、枯葉のやうに落ち散るのが感じられた。……中略……それは、考へやうによつては、死よりも怖しいものであつた」と戦慄している。輪廻による救済は虚無と紙一重であり、この宙吊り状態が本多を、あるいは三島を輪廻の理論である唯識説研究に向かわせた。

 唯識説は中観派の空観とならぶ大乗仏教の二大潮流の一つであるが、一切を空とする中観派に対し、現象の世界を顕現させる阿頼耶識の存在を認めており、阿頼耶識が輪廻の主体だと考える。阿頼耶識によって三島の世界崩壊感覚は解決されるはずだったが、著者が明らかにしたところによると三島が依拠した唯識説はわれわれが概説書など接することができる唯識説とはかなり違ったものである。

 教理史的にいえば唯識説は説一切有部の三世実有説(荒っぽく要約すると事物は原子が仮に寄り集まったもので無常だが、原子そのものは過去・現在・未来にわたって実在するという考え方)を現在においてのみ実在すると修正した経量部から発展した思想で、心(識)の存在を現在においてはさしあたり認めており、一切を否定する中観派と鋭く対立していた。

 ところがアサンガの『攝大乘論』を漢訳して最初に中国に唯識説をもたらした真諦は心がさしあたり存在するということは存在しないことと同じだとし、唯識説を中観派の空観に近く解釈していた。この立場を摂論宗という。

 その後インド留学からもどった玄奘三蔵が唯識経典を新たに訳し直し、その新訳にもとづいて法相宗がたてられる。摂論宗は法相宗に圧倒され衰退したが、三島が学んだ唯識説は主流の法相宗ではなく、摂論宗の唯識説だった。

 法相宗では阿頼耶識はそれ自体に悟りの種子を含んでおり、半ば汚れ半ば無垢な真妄和合識ととらえるのに対し、摂論宗では阿頼耶識はあくまで妄識にすぎず、悟りの要因は外から依りついているだけだと考える。三島は唯識説に救済を求めながら、よりによってニヒリスティックな摂論宗の立場にのめりこんでいくのである。

 三島は『曉の寺』において空襲で焼死体の転がる渋谷の焼趾を前に本多にこう述懐させている。

 ――これこそは今正に、本多の五感に与へられた世界だつた。戦争中、十分な貯へにたよつて、気に入つた仕事しか引受けず、もつぱら余暇を充ててきた輪廻転生の研究がこのとき本多の心には、正にかうした焼趾を顕現させるために企てられたもののやうに思ひなされた。破壊者は彼自身だつたのだ

 『豊饒の海』の第三作で三島は救済から虚無へと舵を切った。最終作では虚無から救済へと反転し大団円を迎えるのだろうか。

 大団円どころかより救いのない虚無へ落下していくことをわれわれは知っているが、著者は創作ノートを検討した結果、『天人五衰』とは別のプランが構想されていた時期があったことを明らかにした。それが副題でいうところの「もう一つの『豊饒の海』」である。

 最後の章では著者はいろいろな時期の創作ノートを切り貼りし、ありえたかもしれないハッピーエンドを再構成しようとしている。ハッピーエンドで幕を閉じていれば『豊饒の海』は『失われた時を求めて』や『ユリシーズ』に匹敵する全体小説になったかもしれないというが、その構想は三島自身によって否定され、むしろ「世界崩壊の究極の形」として完結することになった。結局著者はこう結論する。

 『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。

 『天人五衰』は失敗作だと思っていたが、こういう見方もありうるわけである。今度読みかえしてみよう。

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2013年01月30日

『三島由紀夫』 ルシュール (祥伝社新書)

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 フランスではじめて出た三島由紀夫の評伝の邦訳である。

 ガリマール書店といえば岩波書店と新潮社をあわせたようなフランスの老舗出版社だが、「ガリマール新評伝シリーズ」という入門的な評伝を出していて、祥伝社から7冊邦訳が出ている。本書もその一冊だが、「新評伝シリーズ」ではなく祥伝社新書の一冊として刊行された。三島の評伝なら幅広い読者にアピールできると考え、大書店の外国文学のコーナーの片隅におかれるだけの「新評伝シリーズ」よりも目立つ場所に並ぶ祥伝社新書から出したというところだろう。

 著者のジェニファー・ルシュールは30代の伝記作家で、ジャンク・ロンドンの伝記でゴンクール賞を受賞しているそうだが、日本語ができるわけではないらしいし、日本に取材に訪れた形跡も見られない。

 ではなぜ書けたかというと、訳者あとがきでふれられているように、英語で書かれた二冊の伝記――ヘンリー・スコット=ストークスの『三島由紀夫 生と死』とジョン・ネイスンの『三島由紀夫 ある評伝』――を種本にしているからだ。

 外国人の書いた伝記だからといって、この二冊を軽く見てはいけない。

 ストークスは1964年にフィナンシャル・タイムズの日本支局長として赴任して以来、ロンドン・タイムズ、ニューヨーク・タイムズと会社を変えて滞日しつづけて三島と親交を結び、自衛隊の訓練にも同行している。ちなみに『三島由紀夫 生と死』は世界で最初に書かれた三島の伝記である。

 ネイスンの方は東大に留学した日本文学者で三島の『午後の曳航』や安部公房、大江健三郎ら現代日本文学を英訳する一方、ケンタッキー・フライド・チキンの日本進出を描いたドキュメンタリー映画でエミー賞を受賞している。『三島由紀夫 ある評伝』は日本の研究者がふれにくい三島のホモセクシュアルに踏みこんだために、三島の未亡人の意向で邦訳が絶版に追いこまれている(未亡人の没後に復刊)。

 二冊とも三島研究の基本図書として世界的に定評がある。出来はともかくシュレーダーの『ミシマ』という伝記映画も日本以外では公開されており、三島研究は外国で出た本や映画を参照しなければならないのが現状である。ユルスナールの『三島由紀夫あるいは空虚なビジョン』(澁澤龍彥による邦訳がある)もこうした蓄積の上で可能になった。

 さて、ルシュールが先行テキストをどのように料理したかであるが、市谷の自決から書き起こす構成はストークス本を踏襲するが、本文はほぼネイスン本をもとにし、そこにストークス本やその後に英訳や仏訳された資料をつけくわえていると言えそうだ。

 三島のゲイ・バー通いの条を比較してみよう。

 まずストークス本。

 銀座にあったゲイ・バー「ブランスウィック」によく行き、十七歳だった丸山明宏に会ったのもこの前後である。丸山はのちに美輪と改名して舞台に転じ、美しい女装で知られるようになった。美輪と丸山は何度かダンスはしたが、“情事”はなかったらしい。当時の丸山は三島のことを、「そうハンサムではなく、私の好みのタイプでもない」と思ったと言っている。

 つぎにネイスン本。

 昭和二十五年の夏の終わり頃から、三島は終戦後すぐに東京中に作られたホモセクシュアル・バーやカフェにしげしげ通いはじめた。(いわゆるゲイ・バーは、戦前の日本にはなかった。その突然の出現は、占領時代に東京に集まってきた相当数の兵士たちも含めた、外国人の大規模なホモセクシュアル社会に起因するものである。)三島が好んだのは、「ブランズウィック」なる銀座のゲイ・カフェであった。魅力的な若いウェイターたちを働かせている喫茶店兼バーである。金持ちの年配の日本人、外国人のビジネスマン、米軍兵士、日本人の男娼など、奇妙な組合せの群れがその店の常連だった。夜になると、ウェイターたちは「ブランズウィック」の有名なフロア・ショウのスタートの二役を勤める。そうした店のスターの一人だったのが、東島だ無名のゲイ・ボーイだった丸山明宏(美輪明宏)である。後の日本のエディット・ピアフと呼ばれるような人気を博するこのシャンソン歌手は、さらにまた、三島の戯曲『黒蜥蜴』の主役を演ずる「女優」にまでなることになる。

 ルシュール本ではこうなる。

 昭和二十五年の夏の終わり頃から、三島は戦後の東京の次々あらわれたゲイバーやナイトクラブに足繁く通いはじめる。行きつけは銀座にある「ブランスウィック」というゲイ・カフェ。その店の常連は、金持ちの年配の日本人、外国人のビジネスマン、米軍兵士、日本人の男娼などの奇妙な群れだった。夜になると、フロア・ショーがはじまる。そこにいたのが、当時まで無名のゲイ・ボーイだった丸山明宏である。後に美輪と改姓して舞台に転じ、美しい女装で知られるようになる丸山は三島と親しくなり、その交遊は修生つづいた。二人の間に関係はあったのかどうか、三島の死後も同性愛を否定する遺族への配慮から、丸山はさまざまな噂に対しては自らは何も語っていない。

 いやはや、なんといおうか。

 ユルスナールは三島論を書くにあたり『鏡子の家』が欧米語にまったく訳されていないので読むことができないと苦言を呈していた。失敗作とされている上に長いので、どの国の出版社も二の足を踏んでいるのだろう。

 翻訳がないという状況は今も同じであるが、ルシュールの本には『鏡子の家』に関する記述が6ページある。その冒頭はこう書き起こされている。

 『鏡子の家』は予言的な作品であり、昭和三十四年当時の三島がすでに自らの最期を見通していたのではないかとさえ思わせる。この作品に登場する四人の若い登場人物――商社員、画家、拳闘家、俳優――は三島の持ついくつもの顔をそれぞれ代表している。四人の若者が共有しているのは、自分の前に壁が立ち塞がっているという感覚だ。その壁は生に参加するのを阻む障害物であり、登場人物たちは各々のやり方で、いかに生きるか、いかに生きていると感じるか、という永遠の問い――三島自身を苛む問い――に答えようとする。

 『鏡子の家』を実際に読んでいるかのような書きぶりだが、ネイスン本の該当箇所を参照すると、本当に読んだのか怪しくなる。

 さらにまた、『鏡子の家』は不気味に予言的なシナリオのようにも読める。読者の心に、早くも昭和三十四年の三島が自分の向かいつつある目的地、そしてそこに行き着くために何をなすべきかを、明晰に予知していたのかもしれないという胸騒ぎに似た憶測を植えつけるのである。
 三島は、商社員・画家・拳闘家・俳優という四人の若い作中主人公に、自分のいくつもの顔を代表させようと考えた。これらの登場人物を一つに統合するものは、四人が共有している「立ちふさがる壁」という感覚である。ここで「壁」といわれている障害物は、生への参加をはばむ障害物である。四人がめいめいに答えを見つけねばならない問題は、いかに生きるか、いかに生きていると感じるかということである。

 同じ先行テキストに拠っているにしても、ユルスナールの三島論は彼女一流の文体で書かれており、『仮面の告白』を黒の傑作、『金閣寺』を赤の傑作、『潮騒』を透明な傑作と評するような才知のきらめきがあった。

 ルシュールの本にはユルスナールのような日本文化に対するほほえましい誤解はないけれども(日本人の協力者がいたのかもしれない)、オリジナリティは特に感じられない。

(間違った記述は見当たらなかったが、ただ一点、『黒蜥蜴』の映画版が遺族の反対で上映できないとあるのはおかしい。『黒蜥蜴』は京マチ子版も丸山明宏版も名画座にちょくちょくかかっている。)

 フランスは近年日本ブームだそうだが、天下のガリマールからこういう本が出るところを見ると底の浅さは推して知るべし。

 翻訳者があとがきで書いているように、ストークス本もネイスン本も絶版状態がつづいている現在、本書によって両著の概要を手軽に知ることができるという利点は確かにある。その意味では本書の出版に意味がないわけではないだろう。

 ストークス本、ネイスン本そしてユルスナールの三島論の一日も早い復刊を希望する。

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2013年01月29日

『評伝 梶井基次郎』 柏倉康夫 (左右社)

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 梶井基次郎の評伝である。著者の柏倉氏はマラルメの研究家で(本欄では『生成するマラルメ』をとりあげている)、フランスの現代批評に親しんでいる人なので作家の人生べったりの評伝とは異なり、批評として読みごたえのある一冊となっている。

 梶井基次郎は31歳で夭折した。作品は多くない。文庫判でも一冊でおさまってしまうくらいだ。草稿や創作ノート、書簡をあわせても三巻で十分である。しかし梶井については友人知己が追悼文や回想をおびただしく残している。

 梶井は孤独の中で作品を書いたのではなかった。梶井の友人の多くは同人誌「青空」のメンバーだったが、彼らはしょっちゅう下宿を訪問し、書きかけの作品を読みあっては批評しあい、日記に互いの消息をしるした。梶井が転地療養のために湯ヶ島温泉に移ると頻繁に手紙をやりとりした。東京から「青空」の仲間が訪ねてきて数日泊まっていくこともよくあった。

 こうしたベタベタしたつきあいは昔の地方出の文学青年には珍しくなかったかもしれないが、大学を卒業し就職してモラトリアム生活が終われば、あるいは首尾よく文壇にデビューして職業作家になることができれば、それとともに終止符が打たれるものだろう。ところが「青空」の主要メンバーは就職しても大恐慌ですぐに無業者にもどってしまったし、梶井にいたっては結核によって無期限のモラトリアムを余儀なくされていた。

 梶井が念願の原稿料収入を手にするには絶筆となった「のんきな話」まで待たなければならなかった。梶井は創作活動のほぼ全期間を同人誌作家としてすごした。梶井の書簡や日記、創作ノート、草稿、完成した作品は「青空」の同人仲間が書きつづった厖大な文章群と絡みあいながら執筆されている。実際梶井は同人仲間が語った言葉をそのまま作品に織りこむといったことをやっているし、心酔し後に転地先の湯ヶ島で親しく交わることになる川端康成の作品をとりこんだ「川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン」のような作品も書いている。梶井が書きつづった文章は「青空」を結節点とするテキスト共同体の一部と化しているといっていいくらいなのだ。

 本書は評伝と銘打たれており、梶井の生涯をたどる形で書き進められている。なるほど、お定まりの梶井の複雑な家庭や金の工面の話も出てくるが、本書の眼目はそこにはない。本書でクローズアップされているのは梶井の作品が創作ノートから数次の草稿をへてどのように作品として織りあげられていくかであり、そこに横糸として書簡、同人仲間の日記、作品、消息、後年の回想がさしはさまれていく。本書が梶井の誕生した1901年ではなく、「青空」創刊を話しあう会合がもたれた1924年から起稿されているのは理由のないことではない。

 もっとも梶井の処女作『檸檬』はまだ「青空」が影も形もなかった1923年の「「檸檬」を挿話とする断片」にはじまる。その年の暮れから翌24年にかけて第二稿「瀬山の話」を書き、三高で同級生だった大宅壮一らの第七次「新思潮」に刺激されて「青空」をつくろうとする話が持ちあがるにおよび発表を意識した第三稿にとりかかる。この段階では瀬山の語りと「私」の眼に映った瀬山像を交互に織りあわせる構成だったが、書きすすんでいくうちにレモン体験が多層的な意味を持ちはじめる。梶井は推敲の過程で自分の立ち位置を自覚するようになる。

 著者は「瀬山の話」の「私は瀬山に就いてこうも云へる様に思ふ。彼は常に何か昂奮することを愛したのだと。彼にとつては生活が何時も魅力を持ってゐなければ、陶酔を意味してゐなければならなかつたのだ」の条についてこう述べている。

 この数行こそ梶井が自分の本質だと見定めておいたものの表白であって、それを彼は創作上の主人公瀬山に与えるのである。しかし日常生活をたえず魅力にみち、昂奮を覚えるものとするのは容易ではない。昂奮はたちまち醒め、支離滅裂な生活のつけがまわってくる。そんな瀬山が、陳腐な日常生活の中で昂奮を感じた事例として、話者たる「私」に語って聞かせるのが、レモンをめぐる挿話である。

 レモンは荒廃した生活の中で見失った真善美の象徴だが、「瀬山の話」の段階ではそのレモンを爆弾に変える瀬山の空想を「私」が冷静に見つめるという重層的な構造をとっていた。「私」は反省の意識を代表するが、それは容赦のない他者の意識にほかならない。

 ところが最終稿では67枚の「瀬山の話」が17枚に圧縮される。「私」による客観描写はばっさり削られ、レモンの挿話だけが残される。幻視者瀬山の物語から幻視体験だけを切りだしたのが「檸檬」であり、他者の視点がなくなった結果散文詩のように叙情が凝縮した作品となった。

 それは最終段階で「檸檬」が「青空」のテキスト共同体を脱したことを意味する。「瀬山の話」はテキスト共同体に緊密に編みこまれていたが、「檸檬」にはある種の切断があり、球体となって宙空に浮かんでいるのだ。

 なぜ最後の最後で「檸檬」は座から離れてしまったのか。著者は「檸檬」にとりいれられることになる京都の散策を叙した日記の「ここの裏から眺めるとほんとにいヽな」という一節に注目し、梶井は表通りで展開される実人生を「裏」から眺めており、風物はもちろん、人びとの行為さえ現実感を失った光景として見ていると指摘し、それは病者の意識から来ていると結論する。

 結核という病のせいで、現実世界に関与できないという諦念と悲哀。そのためにいつしか現実を距離をおいて眺める地点が、梶井の定位置となって行くことだろう。

 病者の意識のために梶井は同人仲間と宴に興じていても最後の部分では孤独の境界を越えることができず、その寂しさから酒をまわしのみする茶碗にことさら唾をつけて友人を試してみたりもする。

 死病によって仲間から、そして世界から隔てられているという感覚。埋めようのない孤独感。その意識が梶井を幻視者にする。幻を見ることは現実の否定をともなうが、「筧の話」の森のせせらぎが聞こえてくる条について著者はこう書いている。

 ここで語られているのは想像力が発動する際のもっとも根源的な条件、つまりあるもののイメージを喚起しえるには、その対象の実在性を否定する契機が絶対に必要であるということの体験的事実である。梶井の内部で鳴っているのは現実の水のせせらぎではなく、想像界に転移された水音なのである。だからこそ、それはかくも魅惑的で神秘の感情を伴っているのだ。それが目に見えるせせらぎから聞こえる水音であれば、これほどの喜びを与えてくれるはずがない。

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2013年01月28日

哲学の歴史 10 危機の時代の哲学』野家啓一編(中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第10巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本シリーズでは20世紀を現象学と西欧マルクス主義をあつかった『危機の時代の哲学』、論理実証主義をあつかった『論理・数学・言語』、フランス現代思想をあつかった『実存・構造・他者』の三巻にわけている。言語圏別でいうと『危機の時代の哲学』がドイツ語圏、『論理・数学・言語』が英語圏、『実存・構造・他者』がフランス語圏である。

 本巻は前半が現象学、後半が西欧マルクス主義を柱としている。現象学とマルクス主義ではまったく接点がないように見えるが、普遍的な真理を追求することになっていた哲学を生活世界に引きずりおろし、気遣いにせよ実践にせよ、現実との係わりあいのただ中から思考するという点では軌を一にする。実際『存在と時間』が『歴史と階級意識』に対抗して書かれたという見方もあるくらいである。

 目次を眺めた際には前半ではヤスパース、後半ではクローチェが場違いかなと思ったが、読んでみるとおさまるべきところにおさまっていた。ヤスパースとクローチェをくわえたことで現象学も西欧マルクス主義も人文主義の伝統を受けついでいることがはっきりした。

 一方、「西欧マルクス主義」の系譜の中にアルチュセールをいれたのはまずかったと思う。アルチュセールはラカン同様、過激な原点回帰を遂行した原理主義者であって、人文主義の伝統とは水と油なのである。

「総論 現象学と社会批判」 野家啓一

 ニーチェの発狂とハイデガーの学長就任という二つのエポックを軸に20世紀ドイツ語圏の思想史をドラマチックに描きだしており、この章だけ抜きだして読んでも面白いだろう。

 ニーチェは1889年1月3日にトリノで鞭打たれた馬に抱きつき、泣きながら昏倒して狂気の淵に陥ったが、奇しくもこの年ハイデガーとウィトゲンシュタインとヒトラーが誕生している。

 世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパは精神の軸を失い、漠然とした不安と頽廃が世に瀰漫していた。この危機を克服するためにフッサールは一切の先入見を排して内的確実性を確立する現象学を創始した。現象学は第一次大戦後のワイマール文化の中で大きな潮流となっていくが、大恐慌の打撃によってワイマール共和国はあえなく崩壊し、ナチスがとってかわる。

 この時期、現象学運動も大きな転機をむかえる。フッサールの目指した現象学は普遍的な真理の再建を目指すものだったが、ハイデガーはフッサールの試み自体が歴史的に条件づけられたものだと喝破し、現象学を混乱した歴史状況を生きる生身の人間の解明に方向転換させてしまったのだ。

 1933年、ユダヤ系のフッサールは大学教育権限を剥奪されるが、その直後、ハイデガーは短期間とはいえフライブルク大学学長に就任する。

 ユダヤ系知識人の拠点だったフランクフルトの社会研究所は解体を余儀なくされ、ホルクハイマーらはアメリカに亡命する。社会研究所に籍を置いていたベンヤミンは亡命途中で進退きわまり自殺している。

 第二次大戦後、アメリカの亡命していたホルクハイマーとアドルノはドイツにもどり社会研究所を再建し、共著の『啓蒙の弁証法』で啓蒙の自己崩壊を指摘し、文化産業によって支配された大衆文化を告発するが、フランクフルト学派第二世代のハーバーマスはそこにニヒリズムを見てとり、理性の再生をはかるべきだと訴える。

 20世紀は激動の時代だったが、哲学もその激動のただ中で苦闘していたのである。

「Ⅰ ブレンターノ」 村田純一

 ブレンターノはフッサールの師として広く知られているが、著作は昭和初年に何冊か邦訳されたものの、現在ではほとんど入手できない。1970年に中公版『世界の名著』のフッサールの巻に短い論文が併録されたが、これも今は絶版である。

 欧米でも事情は同じで、知名度にもかかわらずブレンターノはなぜかまったく読まれておらず、「ブレンターノ・パズル」という言葉まであるそうである。

 つまらない学者だったのかというと、そうではないらしい。第二次大戦前にはブレンターノ学派が活動していたし、論理実証主義者の拠点だったウィーン学団の宣言文には論理実証主義の先駆者としてブレンターノの名前があがっている。ブレンターノは現象学のみならず論理実証主義の源流でもあったのだ。

 なぜブレンターノは忘れられてしまったのだろう。著作よりも講義で真価を発揮するタイプの学者だったことや、晩年失明して集大成的な著作が書けなかった事情も影響しているようだが、ブレンターノが活躍の場とした中欧のハプスブルク文化が第二次大戦で解体してしまったことが一番の理由らしい。独仏で発展した現象学と、英米で発展した論理実証主義は無関係のように見えるが、実はどちらもハプスブルク文化という土壌から同じ時期に生まれていた。ブレンターノは現象学と論理実証主義を育んだハプスブルク文化の申し子だったのだ。

 ブレンターノは1838年ライン河畔の方のマリーエンブルクでイタリア系カトリックの名門に生まれる。ミュンヘン大学などで学んだ後、1862年に『アリストテレスにおける存在者の多様な意義について』で博士号を取得する。ハイデガーがアリストテレス研究からはじめたことは木田元によって知られるようになったが、アリストテレスの存在論という視点をハイデガーに教えたのはこの論文だといわれている。

 1864年にカトリックの司祭になり、1866年には『アリストテレスの心理学』で教授資格をとる。ヴュルツブルク大学で教鞭をとるにあたり自らの基本テーゼを発表したが、その第四テーゼ「哲学の真の方法論は自然科学の方法にほかならない」はドイツ観念論を批判し、哲学も厳密な科学的方法にもとづかなければならないことを主張したもので、現象学と論理実証主義の魁といえる。

 ただしブレンターノのいう「自然科学」とは近代科学のことではなく、アリストテレス哲学のことだった。ブレンターノは晩年に哲学的立場を変えるが、いずれの場合もアリストテレス研究の深化がきっかけとなっている。

 ヴュルツブルクでの講義は講評を博すが、教皇不可謬性のドグマを受けいれることができず還俗して教職を辞し、研究に集中するようになる。

 1874年、ブレンターノは主著とされる『経験的立場からの心理学』を上梓する。ここではアリストテレスの『霊魂論』にヒントをえて志向的内在という概念を打ちだしており、フッサールに現象学の着想をあたえることになる。

 この年ブレンターノはウィーン大学の教授に就任するが、1879年に結婚したために司祭についていた者の結婚を禁ずるオーストリアの法に抵触し、辞職を余儀なくされる。教授職への復帰を望んで私講師の身分のまま教壇に立ちつづけるがついに望みはかなえられず、1895年にイタリアへの移住を決める。

 ドイツ時代はペガサスのような抽象的存在者を対象とする心のあり方を分析していたが、1905年を境に立場を大きく変え、普遍者や抽象的存在者の排する「もの主義」reismの立場を打ちだすようになる。

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