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2012年12月30日

『科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘』 ウリー (法政大学出版局)

科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘 →bookwebで購入

 本書はラヴレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングの伝記である。

 彼女はある事情からファーストネームのオーガスタではなく、セカンドネームのエイダと呼ばれた。エイダは生前はバイロン卿の娘として著名だったが、現在では世界最初のプログラマーとして知られている(アメリカ軍が用いているAdaというプログラミング言語は彼女の名にちなむ)。

 ロマン派のスーパースターだったバイロン周辺だけあって、何からなにまで極端で登場人物はみな異様に「濃い」。現代の感覚からすると引いてしまう話が多いが、本書に書いてあることは事実として実証されたことばかりである。

 エイダは生後一ヶ月にして有名人だった。母アナベラが出産早々バイロン邸を出て別居生活をはじめ、それをマスコミがおもしろおかしく伝えたからである。

 当時は男尊女卑の時代だったので夫がどんなに浪費家で放蕩者であっても、妻は耐え忍ぶべきだとされた。アナベラは別居を正当化するためにバイロンの異常性をリークし、娘を夫の悪影響から守るためには邸を出る必要があると主張した。バイロンはバイロンで釈明の詩を新聞に発表し、火に油を注いだ。

 世論はアナベラに味方したのでバイロンはナポレオンの馬車そっくりに作らせた馬車で大陸にわたり、シェリーらとスイスやイタリアで乱れた生活を送ることになるが、8年後、ギリシア独立戦争に参加し、36歳の若さでレパントで病死すると国民的英雄になってしまった。

 バイロンは自伝を書き残したが、出版するかどうかを決める会議の席でアナベラの代理人は原稿を火に投じてしまった。彼女が出版を嫌ったのは結婚初夜の様子が書かれていたからだといわれている。もっとも初夜についてあることないこと書いた偽作が新聞をにぎわせることになったが。

 アナベラが別居を決意したのはバイロンが実の姉のオーガスタと近親相姦しているという讒言があったからだった。本書の著者は讒言の主はバイロンをストーカーしていた人妻で、バイロンの気を引くために根元に血のついた陰毛を送りつけてくるような異常性格なので信用できないとしているが、バイロンがオーガスタに姉弟の域を越えるような愛情を持っていたことは各種の証言から間違いない。アナベラにとってオーガスタは何でも相談できる気のおけない義姉だったが、突然、呪われた名前になってしまった。娘はオーガスタではなく、エイダと呼ばれることになる。

 アナベラはエイダの周辺からバイロンの痕跡を徹底的に排除した。バイロンの詩を読ませないのはもちろん、肖像画も隠した(エイダがはじめて父の肖像画を見たのは結婚後のことである)。精神科医のアドバイスにしたがい、理性を育て情念を刺激することがないように徹底した数学の英才教育をおこなった。アナベラ自身、科学に関心のある理系女だったが、その才能を受けついだのか、エイダは理系女として早くから天分をあらわした。

 ところが17歳になり社交界デビューを控えた大事な時期に恋愛事件が起きた。エイダは速記を学ぶために雇った貧しい青年と恋に落ちたのだ。二人は毎夜逢引をかさね、後にエイダが顧問弁護士に語ったところによれば「完全な挿入は避けながら、可能な限りの悦びを味わい尽くした」。逢引が発覚して青年が解雇されると、二人は駆落ち未遂までやらかした。

 すべては首尾よく内密に処理されたが、アナベラは娘が父親の血を引いていることを認めざるをえなくなった。

 社交界デビューと王への謁見は成功したものの、エイダはまたしてもペテン師のような男に熱をあげた。さいわいペテン師はすぐに馬脚をあらわしたので大事にはいたらならなかった。今度はエイダも自分の軽はずみを反省し、母親に「改正案」を書き送っている。

――あらゆる種類の興奮は自分の人生から排除すべし。ただし「知的改良」の興奮は例外なり。キング博士も忠告されたように、科学的思想に専念することによってのみ、想像力と情念が無軌道に走るのを予防しうるが故なり。

――数学の研究に専念すべし。かの善良な博士が診断されし如く、「彼女の最大の欠点は秩序の欠如であり、この欠点を是正するのは数学である」が故に。この学科は感情とは無関係であり、したがって「好ましからざる思念」を掻き立てることは、不可能なるが故に。

 だがエイダにとって数学は「感情とは無関係」ではなかった。彼女はラプラスの大著を翻訳したことで知られる当代随一の女流数学者メアリ・サマヴィルの教えを受けるようになるが、19歳の誕生日を迎えて間もなくサマヴィル家で興奮の発作にみまわれるからだ。

 父バイロンは思索によってかろうじて精神のバランスを保ったが、エイダは詩というはけ口がなかったから別の方法でエネルギーを発散しなければならなかった。

 この時に出会ったのがチャールズ・バベッジと階差機関である。

 バベッジは1791年ロンドンの南に接するサリー州で銀行家の息子として生まれた。子供の頃、母親に連れられてマーリンのからくり博物館で自動人形オートマトンに目を輝かせた。マーリンはバベッジ少年が機械仕掛に興味をもっているのに気づき、屋根裏部屋に案内して二体の踊り子のオートマトンを見せた。銀色の踊り子は彼の記憶に鮮やかに残った。

 長じた彼は生命保険の確率計算に手を染めた後、パリに遊学した。フランスはメートル法を導入したところで、メートル法に対応した対数表が緊急に必要とされていた。対数表を作るにはレティクスの三角表の例でもわかるように厖大な計算が必要で、フランスの計算士を総動員しても無理だった。

 そこに名乗りをあげたのがド・プロニーだった。ド・プロニーは分業で計算するシステムを考案し、一種の数学工場を作りあげた。

 バベッジはド・プロニーの数学工場を知って興奮し、機械化できないかと考えた。「これらの計算が蒸気の力でおこなわれていたならばと、神に願うばかりだ」と彼は手帳に記している。

 バベッジはロンドンに帰ると政府の補助金をえて蒸気で動く階差機関の試作にとりかかった。

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2012年12月29日

『ドレスを着た電信士マ・カイリー』 松田裕之 (朱鳥社)

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 女電信士マ・カイリーを軸にアメリカの電信事業の栄枯盛衰を描いた本で、読物として抜群に面白い。

 マ・カイリーは綽名で、本名をマッティ・コリンズという(カイリーは二度目の夫の姓)。彼女は22歳から62歳まで40年間電信士として働き、引退後の1950年、70歳にして『バグ電鍵とわたし』という自伝を出版した。ちょうど電信の時代の幕が引かれる頃だったので、同書は話題になり女電信士マ・カイリーの武勇伝が後世に残ったわけである。

 表題にあるバグ電鍵とはヴァイブロプレックス社製の横振り式電鍵のことで、商標がバグだったことからその愛称で親しまれた。

 バグ電鍵はレバーを右に振ると短符号が、左に振ると長符号が打てるすぐれもので、手首や肘に負担がかからないので女電信士がよく使った。マ・カイリーが愛用したのもヴァイブロプレックス社製である。

 彼女はジェシー・ジェイムズ一味が暴れまわっていた1880年にテキサス州西部のアタスコサ郡に生まれた。7歳で両親が離婚し一時酒乱の父と暮らすが、母親が幸せな再婚をしたのを期に再婚相手の大家族に引きとられ、恵まれた少女時代をすごした。16歳の時に20歳年上のメキシカン・インターナショナル鉄道で管理職をやっていた20歳年上のフリーゼンに望まれて結婚するが、夫は男尊女卑で妻を物扱いした上に、極度の吝嗇だったので長男カールが生まれたところで離婚。マ・カイリーは子供を連れて実家にもどってくる。19歳の時である。

 継父はデル・リオでホテルを経営していたが、宿泊客から電信士になれば女でも自活できると教えられ、中古の電鍵をもらってホテルの手伝いの合間に練習にはげんだ。電信士は10代半ばで電報配達員になり、勤務の合間に練習するのが普通だったので遅いスタートである。送信の方は独習できたが、受信は無理だった。マ・カイリーは伝手をたよってカムストック駅に出入りできるようにしてもらい、当地のホテルで下働きをしながら信号音を復号する練習にあけくれた。

 3年後、電信士として働くチャンスが訪れた。メキシコのサビナス駅で欠員ができたのだ。彼女は一人息子のカールを連れて赴任するが、12時間勤務で体を壊して一時実家にもどらざるをえなくなる。しかし自活を望む彼女は継父が心配するのを振りきってすぐに駅の夜勤の仕事を見つける。

 電信士には二種類あった。一般の電文(多くは商用文)を送受する商用電信局に勤務する商用電信士と、駅に勤務し列車の運行指令を送受する鉄道電信士だ。鉄道電信士は駅舎で寝泊まりし、信号灯を振ったり、信号機やポイントを切換えたり、通過する列車に指令シートを手渡したりしなければならなかった。

 マ・カイリーは商用局でも勤務したが、鉄道で働く方が長かった。加入したのも鉄道電信士組合(ORT)だった。勤務地は大規模な操車場のこともあったが、大平原にぽつんと建つ駅舎のこともあった。ORTのバッジがあれば鉄道はフリーパスだった。彼女はカールを連れて大西部の駅から駅へ渡りあるいた。カールが12歳になってからは学業のために実家に預け、一人で電鍵無宿の生活をつづけカナダにまで足を伸ばした。

 ならず者や追いはぎが跋扈する辺鄙な西部の駅で一人で寝泊まりして勤務するのは並たいていではない。次に引くのは組合の機関誌に載った女電信士の作業環境を描いた文章である。

 停車場には、窓越しに彼女を一目見ようとする粗野で野蛮な男たちが押し寄せ、ぶしつけで無礼な質面をし、想像もできないほどショッキングが冒瀆の言葉を投げつけます。彼女はそれをひたすら耐え忍ばなければなりません。押し寄せる男どもを罰することもできず、自分の身を守ることもままならないのです。
 自分の勤務する管区で鉄道事故が発生すると、夜であろうが嵐であろうが現場に駆けつけ、電線に電信機をつなぎ、冷たい雨でびしょ濡れになりながら、口の悪い男たちの中でただ一人無防備に立ちつづけていなければならないのです。

 ちょっかいを出してくる荒くれ男を怒鳴りつけるくらいでなければ辺鄙な駅の一人勤務はつとまらないのである。

 こういう過酷な生活の中でマ・カイリーは腕を磨き、一流の電信士の技量を身につけた。彼女は二重電信機で送信と受信を同時にやってのけるという神業を披露し、男の一級電信士と同じ65ドルの月給を獲得する。年収にすると780ドルで同時期の男性労働者の平均年収440ドル、女性労働者の273ドルと較べると電信士がいかに高給とりだったかがわかる。

 マ・カイリーは学校が夏休みになるとカールにORTの発行する無料乗車券を送り、勤務地に呼び寄せて夏を一緒にすごした。駅で一人勤務をする女電信士が駅舎で子供を育てるのはありふれた光景だった。

 もっともマ・カイリーの腕をもってしても仕事につけないこともあった。プライドの高い彼女は上司としょっちゅうぶつかっていたし、仲間を大切にする彼女は組合のスト指令を忠実に実行してブラックリストに載せられたこともあった。

 新しい勤務先は組合の斡旋を受けたり、仕事の合間に旅先で知りあった電信士仲間に連絡をとったり、鉄道運行本部に売込の電文を送ったりして見つけたが、それでも仕事が見つからないと保険の外交員をしたり、洗濯婦や家政婦をして食いつないだ。同じ境遇の仲間の援助を受けることもあった。『バグ電鍵とわたし』の中で彼女は「流れ者生活は電信士に必要な自身と力をあたえてくれる」と述懐している。

 こうした電鍵無宿の生活を14年間つづけた末、1916年からサザン・パシフィック鉄道ソルトレーク管区に腰を落ちつけ、1942年の引退まで常勤しつづけることになる。大恐慌とテレタイプの導入で電信士が大量にリストラされた1930年代も職にとどまれたことからも彼女のすぐれた技量の持主であることがわかる。

 息子のカールだが、なんとファースト・ナショナル銀行の頭取にまで出世している。毅然として生きる母親の背中を見て育ったということだろう。

 マ・カイリーの一代記は映画にしたら面白いと思う。主演はアンジェリーナ・ジョリー、人情味あふれる継父はトミー・リー・ジョーンズでどうだろう。

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『モールス電信士のアメリカ史』 松田裕之 (日本経済評論社)

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 副題に「IT時代を拓いた技術者たち」とあるように19世紀の通信革命に現在のインターネット革命の原型を見ようという本である。『ヴィクトリア朝時代のインターネット』とテーマは共通するが、『ヴィクトリア朝』が腕木通信を含めた大西洋両岸の通信革命を巨視的に描いているのに対し、本書はアメリカの電信事業の栄枯盛衰に話を絞っている。

 アメリカに限定したことで現代のインターネットとの相似はより一層はっきりした。ヨーロッパでは腕木通信が政府の事業だったこともあって電信事業は早い段階から政府に管掌され、電信士も公務員化したが(日本も同じである)、アメリカでは電信事業は一貫して民営ベースで営まれ、電信士にも腕一本で世渡りする「電鍵無宿」的な生きかたをする者がすくなくなく、元祖「ネチズン」的な世界を作りあげていた。

 インターネットはアメリカで誕生したシステムであり、ドメインの管理は公的機関ではなく株式会社がおこなっているというように基本的に民営ベースで営まれている。IT技術者やIT起業家にも腕一本で世渡りしようという気概がある。アメリカの電信事業はインターネットの原型そのものだと言っていい。

 本書は電信技術の沿革を簡単に紹介した後、電信士のキャリア形成に筆をすすめる。電信士になろうという若者は貧しい移民が多かった。モールス通信という技能を身につければ格段にいい条件で就職できたからだ。

 著者は例として二人の人物にスポットライトをあてる。鉄鋼王となったアンドリュー・カーネギーと発明王エジソンだ。

 カーネギーの父親はスコットランドの織物職人だったが、機械化で仕事を失い、一家でピッツバーグに移住する。父親はテーブルクロスの行商をするが食うや食わずで、アンドリューは13歳で週給2ドルの糸巻製造工場の見習になる。15歳で電報配達員になり、勤務のはじまる前と後に電信室で練習をして、17歳で月給25ドルの正電信士に。2年後、月給35ドルでペンシルバニア鉄道に引き抜かれる。

 26歳の時南北戦争が勃発。ペンシルバニア鉄道は北軍に協力し、カーネギーは陸軍軍属となって連邦陸軍電信隊を結成し緒戦で活躍する。カーネギーは体を壊して戦線を離れるが、この時の功績で北軍勝利後実業家として飛躍するチャンスをつかむ。

 エジソンは小学校をやめ、駅で新聞の売子をしていた時に電信に興味を持ち、手製の電鍵と電池で電信を独学する。15歳の時、駅長の息子を貨物列車から救った縁で鉄道電信士になり、「塩まき」とよばれる新人の腕試しで逆に古参電信士をやりこめるほどの抜群の聞きとり能力を武器に中西部の駅をわたりあるく。

 カーネギーやエジソンのような大富豪になった電信士は例外中の例外だが、アメリカン・ドリームにつながる職業であったことに間違いはない。

 カーネギーが南北戦争で活躍したと書いたが、彼が戦線を離れた後、北軍の占領地域が拡がり、それにともなって通信路が延び、大量の電信士が必要になった。ウェスタン・ユニオンの幹部だったアンソン・ステガーが電信総監に就任したが、彼は機密と暗号を守るために電信士や修理工、敷設工を電信総監に雇われた軍属身分にし、軍の指揮系統から切り離した。

 電信会社と鉄道会社から若い電信士が千人以上動員され、岩や木の陰、塹壕に身を隠しながら、時に数千語にも及ぶ暗号文を方面軍司令部や各連携部隊に打電したり、敵地深く侵入して敵軍の電線路から電文を傍受するという危険な任務に従事した。

 しかし正式な軍人ではなかったために敵軍に捕まると捕虜にはなれず、監獄につながれたり処刑されることもあった。負傷したり戦死しても軍からは保証されず、軍務を解かれた後も秘密保持義務を課された上、軍人恩給にもあずかれなかった。北軍は電信士を使い捨てにしてしまったのである。

 南北戦争は従軍した電信士にとっては災いだったが、彼らの犠牲によって電信士の社会的地位が高められたのも事実だった。リンカーンは毎日電信本部に通い、時には臨時閣議を開くこともあった。電信は世界の政治指導者にとってなくてはならぬシステムとなった。

 電信は貧しい移民青年だけでなく女性にもチャンスをあたえた。電信士は電鍵をたたき、信号音を聴きとるというデスクワークなので、女性でも男性に伍して働くことができた。経営側も安く使える女性電信士を歓迎した。1846年にマグネティック・テレグラフ社のローウェル支局はローウェル婦人労働改革協会の創設者であるサラ・バッグレイを責任者に抜擢し、女性電信士を採用した。これをきっかけに女性電信士が増えた。1856年に65の独立系電信会社を吸収してウェスタン・ユニオンが誕生すると電信士を確保するために女性向けの無料通信教育を開始した。

 本書では電信界の女丈夫が多数紹介されているが、中心となるのは『大草原の小さな家』の原作者ローラ・インガルス・ワイルダーの次女であるローズ・ワイルダー・レインと、女だてらに渡り電信士として電鍵渡世を送ったマ・カイリーである。この二人については『ドレスを着た電信士マ・カイリー』という本が別に書かれているので言及するだけにとどめよう。

 

 モールス符号を習得したい人向けに信号音を録音したCDが書籍の形で発売されている。そこまで興味はないが、ちょっとだけ聞いてみたい人は『はじめてのモールス通信』という本のサポートページで公開されている音源を聞いたらどうだろうか。

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2012年12月28日

『ヴィクトリア朝時代のインターネット』 スタンデージ (NTT出版)

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 19世紀の通信革命を描いた本である。

 通信革命というと電信の発明が目立つが、革命は電信以前からはじまっていた。フランスのクロード・シャップが発明した腕木通信である。

 シャップは電気的にメッセージを伝えようとしたが、まだ技術的に無理だったので音による通信を考え、最終的に丘の上に腕木のついた柱を立て、腕木を動かすことでメッセージを伝えるようにした。いわば手旗信号の機械版である。

 シャップはこれをテレグラフと名づけた(ギリシャ語の「遠くに書く」による)。日本ではテレグラフには「電信」という訳語があたえられているが、本当は「伝信」と訳すべきだったろう。本書では腕木通信を「光学式テレグラフ」、いわゆる電信を「電気式テレグラフ」と呼んで区別している。

 シャップは腕木通信システムをジャコバン党独裁時代の革命政府に売りこんだ。革命政府は各地の反乱や外国の干渉戦争に悩まされていたのでさっそく採用し、1894年5月にパリ=リール間の通信路が稼働をはじめた。1799年に権力を掌握したナポレオンは腕木通信を重視し、フランス帝国の領土の拡大とともに腕木通信網を拡充していった。一方フランスと敵対する国々、特に英国とスウェーデンも対抗して腕木通信網を敷設していった。

 腕木通信はそれまでの最速の通信手段だった早馬よりも桁違いに速く、パリ=スットラスブール間をわずか36分でつないだが、雨がふったり霧がかかると通信できなくなった。また部外者にも見えてしまうので頻繁にコードを変える必要もあった。

 天候に左右されず、秘密も守りやすい通信方式が求められた。電気式テレグラフである。

 電気による通信は静電気式、電気分解式、火花放電式、生物式等々が試みられたが、いずれも不安定であり使いものにならなかった。しかし1820年にエルステッドが電線の周りに磁界が発生することを発見するとようやく突破口が開けた。

 電気式テレグラフ(電信)の発明者としてはモールスが有名だが、英国ではクックがやや遅れて五針式テレグラフを発明している。クックの機械は協力者の名前をとってホイートストン電信機と呼ばれているが、モールスが符号によって文字をあらわしたのに対し、ホイートストン電信機では五本の針組合せによって20の文字を直接示したので特別な訓練を受けなくても使えた。

 アメリカでは最初からモールスの符号による電信が普及したが、ヨーロッパではホイートストン式などさまざまな方式が乱立した。1851年のロンドン万博では13種類の電信機が展示された。しかし構造が単純で、電信士が熟練していくことで高速の通信が可能なモールス方式が最終的な勝利をおさめた。

 モールス電信網が津々浦々までくまなくはりめぐらされていき世界を変えていくのであるが、電信による通信革命はインターネットによる社会変革と驚くほどよく似ている。

 インターネットはバケツリレー式にメッセージを伝えていくが、電信も同じである。19世紀末まで電池を電源にしていたので、中継局で人間が受信したメッセージを、最短距離になるような次の中継局に送信し直さなければならなかった。ルーターの役割を人間がしていたのである。

 モールス電信士は今日のIT技術者のような地位にあり、仲間内だけでわかる略語を多用したり、暇な時間には電信士どうしでチャットをして遊んでいた。女性の進出も著しく、遠距離恋愛がうまれ、オンライン結婚式までおこなわれる一方、ネットオカマのような女性電信士のふりをする男性電信士もすでにあらわれている。ネット犯罪もちゃんとあり、暗号も使われていた。著者は「ヴィクトリア朝の人々がタイムトラベルをして20世紀に末にやってきても、インターネットには感動しないだろう」と書いている。

 興味深い話がたくさん載っているが、わたしが一番おもしろく思ったのは気送管の沿革である。

 意外なことに気送管は電信が普及した後に、電信を補完する通信システムとして誕生した。1850年代にはいると通信量が急激に増大し、ロンドンでは輻湊が深刻な問題となった。当時の電報の半分は証券取引所関係で、証券取引所内に作られた支局と220ヤード離れた電信中央局との回線がボトルネックとなったのだ。

 電報を一本一本送っていたのでは時間がかかるので、取引所支局=中央局を地下に埋設した1.5インチのパイプで結び、金属のカプセルに電報用紙を5枚まとめていれて空気圧で送る方式が考案された。

 これがうまくいったので気送管はロンドン中にはりめぐらされ、市内は気送管、市外は電信と棲みわけがおこなわれた。気送管網はリヴァプールやパリなど他の都市にも作られたが、ニューヨークでは郵便局の間を気送管で結び、小包や猫まで送ったそうである。

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『謎のチェス指し人形「ターク」』 スタンデージ (NTT出版)

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 ポオが26歳の時に書いたエッセイに「メルツェルの将棋差し」がある。

 メルツェルの将棋差しとはメルツェルという興行師が1826年にアメリカに持ちこんだチェスをさす自動人形オートマトンのことで、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアなどを巡業して好評を博した。ポオが見たのは10年近くたった1835年のことで、翌年、中に人間がはいっているのだろうと推理した件のエッセイを雑誌に発表した。モールスが電信の公開実験をやった頃のことである。

 邦訳は小林秀雄がボードレールの仏語訳から重訳し、大岡昇平が補訂したものが『ポオ小説全集1』にはいっている。後に書かれる「モルグ街の殺人」や「黄金虫」を思わせる水際立った推理で、今読んでも面白い。

 メルツェル自身もすぐれたオートマトン製作者だったが、チェス指し人形はメルツェルが作ったものではない。作ったのはヴォルフガング・フォン・ケンペレンというマリア・テレジアの宮廷に伺候していたハンガリー貴族だ。

 ケンペレンは塩鉱山の管理者に任じられて揚水ポンプを発明したり、シェーンブルン宮殿の噴水システムを製作するなど技術者として立派な業績があったが、1769年秋、マリア・テレジアの前で奇術を披露したフランス人の態度があまりに不遜だったので自分ならもっとすごい機械がつくれると口走ってしまう。面白がった女帝はケンペレンに半年間公務を免除し、オートマトン製作に専念するように命じた。

 半年後、ケンペレンはチェス盤を置いた平台の後ろにトルコ人の扮装をしたオートマトンをとりつけたタークという機械を女帝に披露する(タークとはトルコ人という意味である)。

 タークは人間相手にチェスで連戦連勝したので女帝は喜び、ヨーロッパ中の評判となった。

 ケンペレンの不幸は本筋の役に立つ発明よりもタークで有名になってしまったことである。自分はただの官吏で興行師ではないと任じていたものの、女帝在世中は何度もタークの実演を命じられ、ヨーゼフ二世の御代になると技術大使として二年間各地の宮廷を巡業させられることになる。フリードリヒ大王を負かしたとか、ベンジャミン・フランクリンも負けたとか数々の逸話が残っている。

 巡業終了後、ケンペレンはタークが壊れたことにして封印した。

 ケンペレンは1804年70歳で世を去ったが、世の中はタークを忘れていなかった。1809年、ナポレオンがウィーンに入城すると、新たな支配者の御機嫌とりのためにまたもタークが駆出された。今回タークを操作するのはメルツェルである。メルツェルはケンペレンの息子からタークを買いとり、自分で修理して動くようにしていた。

 かくしてメルツェルによってタークの第二のキャリアがはじまる。ヨーロッパのみならずアメリカにまで足を伸ばしたのは先に述べたとおりだ。

 タークの人気が高まると秘密を解明しようという者も増え、さまざまな推理が世をにぎわせた。

 チャールズ・バベッジは中に人がいることをすぐに見抜いたが、思考する機械というアイデアに触発され、後に機械式コンピュータである階差機関を発明している。

 タークは各地で武勇伝を残しているが、その栄光もメルツェルの死とともに終わる。メルツェルは多額の借金をしていたのでタークは競売に付され、最終的にポオの主治医だったミッチェル医師の手にわたる。

 ミッチェルはタークを買えるほど裕福ではなかったが、友人のポオの推理が正しかったかどうかを確かめるために75人の会員から500ドルを集め、やっと買いとったのだ。

 ポオの推理はあたっていたのだろうか? 詳しくは本書を読んでほしいが、ケンペレンは意外に手のこんだことをやっていたとだけ記しておこう。

 その後タークはチャイニーズ・ミュージアムという秘宝館のような施設に引きとられるが、1854年7月5日火事のために焼失してしまう。85年の生涯だった。

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2012年12月27日

『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』 マーチャント (文春文庫)

アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ →bookwebで購入

 先日NHKの「コズミック・フロント」で「古代ギリシャ 驚異の天文コンピューター」という番組が放映された。

 1900年にギリシアのアンティキテラ島の沖合で古代の沈没船が発見された。大理石やブロンズの彫像など貴重な遺物が引きあげられ、独立して間もないギリシアに熱狂をもたらしたが、その中に緑青で覆われたブロンズの破片が何片かあった。

 ブロンズの破片は「アンティキテラの機械」と呼ばれることになるが、美術品ではなかったので長らく倉庫で腐食されるにまかされていた。

 しかしデレク・デ・ソーラー・プライスがX線写真をもとに複雑な歯車機構を復元し、カレンダー・コンピュータではないかという説を1974年に「ギリシア人からの歯車」という論文で発表したために一部で注目を集めることとなった。

 2005年からトニー・フリースが率いる国際チームがCT画像やCG技術などハイテク調査をおこない、太陽と月の位置ばかりか日食・月食まで予測できるアナログ・コンピュータであることを明らかにし世界的な話題となった。

 番組はフリースの国際チームを中心に「アンティキテラの機械」の精巧なメカニズムとその背景になった古代天文学、製作者はアルキメデス学派の流れをくむ人々ではないかという仮説を手際よくまとめていた。

 「アンティキテラの機械」についてもっと知りたくて本書を読んだが、番組では描かれなかった研究者たちの人間ドラマがみっちり書きこんであって面白かった。

 番組ではプライスからいきなりフリースの国際チームに飛んでいたが、その間の26年間にハイテクを使うまでもなくほとんど解明が済んでいたのである。

 本書には「アンティキテラの機械」の謎にとり憑かれた研究者が何人も登場するが、前半の主人公がプライスなら、後半の主人公はマイケル・ライトである。

 ライトはロンドン科学博物館工学部門の学芸員だった。ビザンティンの歯車付日時計の購入にかかわったことから古代ギリシアの歯車技術がイスラムに伝わったというプライス説を知り、「アンティキテラの機械」に関心を持つようになる。

 ライトは一介の学芸員だったし、博物館の方針が調査研究から入館者サービスに重点を置くようになったので公務として「アンティキテラの機械」にかかわることはできなかったが、シドニー大学の天体物理学者であるアラン・ブロムリーが「アンティキテラの機械」の調査をはじめると知り、助手になることを申しでる。有給休暇を使い、滞在費は自費でまかなうという完全な持出しである。

 工作の得意なライトは原始的なX線断層撮影機を自作し、微妙な調整の必要な現像も自分でやるという手間をかけ、4年がかりで700枚余のX線写真を撮影するが、あまりにも「アンティキテラの機械」に打ちこみすぎたために妻に離婚を言いわたされ、自宅から放りだされてしまう。

 しかも苦心して撮影・現像した写真はすべてブロムリーがシドニーに持ち帰ってしまい、論文が発表されることもなかった。

 ブロムリーが論文を書かなかった理由は5年後にわかる。彼は死病にかかり、研究をつづけるどころではなかったのだ。

 2000年11月ライトはシドニーを訪れ、自分が撮影したフィルムを受けとるが、ブロムリーはまだ「アンティキテラの機械」に未練があり、最も鮮明な写真はわたさなかった。ライトがすべての資料を受けとるのはブロムリーが亡くなった後の2003年のことである。

 フリースの国際チームが2005年9月から調査をはじめることはわかっていたのでライトは大急ぎで研究を進め、論文を次々と発表しはじめる。

 フリースは2006年11月にハイテク調査の結果をアテネで大々的に発表するイベントを開くが、ライトに敬意を表して講演を依頼したところ、ライトはローテクでほぼ同じ結論に達していてライトの独演会になりかけたという。もちろんハイテク調査だからわかったことも多いが、ローテク恐るべしである。

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2012年12月26日

哲学の歴史 09 反哲学と世紀末』 須藤訓任編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第9巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻はウィーン体制成立から第一次大戦までの百年間のドイツ語圏の哲学をあつかう。副題に「マルクス・ニーチェ・フロイト」とあるようにシリーズの中でも要となる巻だが、マルクス、ニーチェとフロイトは異なる文脈で登場する。

 本巻は12の章にわかれるが、第1章フォイエルバッハから第5章ニーチェまではヘーゲル主義が解体していく過程なのに対し、第6章の新カント学派以降はヘーゲルという重しがとれた後に新しい哲学が簇生していく過程として語られている。マルクスとニーチェは反ヘーゲルという文脈から離れられないが、フロイトは世紀末の精神科学の一つという位置づけなのだ。フロイト単独では哲学史になじみにくいが、ディルタイやジンメル、マックス・ヴェーバーらとならべられることでしかるべき場所をえている。

「総論 マルクス・ニーチェ・フロイト」 須藤訓任

 ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』でドイツ観念論は来るべき革命を予告するものだと高らかに宣言したが、予言とはうらはらにウィーン体制下の反動の時代が到来し、ヘーゲル学派自体も右派、左派、中央派に分裂したというところから語り起こしている。

 ウィーン体制は1848年の3月革命で終わるが、革命もドイツ統一成就せず、以後上からの改革がドイツ各地で進められ、1871年のプロイセンによる「上からの統一」をむかえることになる。

 この時期大学の外で新しい思想が芽吹きはじめる。本巻の前半に登場する6人の哲学者のうち、フォイエルバッハとショーペンハウアーは一応大学で教えたが私講師にすぎず、ニーチェは短期間古典文献学の教授として教壇に立っただけだった。マルクス、エンゲルス、キルケゴールはジャーナリストである。

 彼らは大学と縁がなかっただけでなく社会においても片隅にいた。ショーペンハウアーとキルケゴールは親の遺産で食べていたし、フォイエルバッハは女実業家だった妻に食べさせてもらっていた。エンゲルスは親の工場を嗣いで資本家になり、マルクスはそのエンゲルスに仕送りしてもらっていた。ニーチェは早々に大学を辞め、わずかな年金で糊口をしのいでいた。独立した章はたてられていないが、シュティルナーにいたっては妻の持参金を食いつぶしたあげくに離婚し、借金まみれになって貧窮死した。現代思想の源流と呼ばれる人たちはそろいもそろって穀つぶしばかりである。

 1871年の普仏戦争の勝利によって統一ドイツが誕生すると上からの近代化が急速に進み、ドイツはわずか40年で世界第二の工業国にのしあがっていく。急激な近代化は社会に歪みをもたらしたが、この慌ただしい時代に本巻後半で語られるさまざまな精神科学が誕生している。

「フォイエルバハ」 服部健二

 ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは1804年に南ドイツのバイエルン王国に産まれる。父親のパウルはバイエルン王国の刑法典を制定した法学者で、「法律なくして罰則なし」という罪刑法定主義は近代法学に大きな影響をあたえた人であるが、『バイエルン犯科帳』やカスパー・ハウザーの観察記録を出版している。

 フォイエルバッハは聖書を耽読し、わざわざユダヤ人のラビからヘブライ語を学ぶほどの敬虔な青年だった。最初宗教哲学と神学を学ぶが、後に哲学に転じヘーゲルの講義を受けるようになる。キリスト教では宗教的情熱を満足させられないことに気づき、スピノザの汎神論に引かれるようになったのだ。

 1828年にエルランゲン大学の私講師になるが、1830年にフランスで七月革命が起こると触発されて『死および不死についての考察』を匿名で出版。敬虔主義やキリスト教国家を批判したのがたたって馘になる。

 親の遺産を食いつぶしながら物書き稼業をはじめるが、1837年に女性実業家のベルタ・レーヴと逆玉結婚し、ブルックベルク城の見晴らしのいい二階を書斎にして好きな研究に打ちこむようになる。

 エルランゲン大学でおこなった『論理学形而上学講義』では霊魂としての自然が弁証法的に展開するというヘーゲル論理学を祖述し、『近代哲学史講義』ではカントの二元論を克服したフィヒテの「生命の立場」や自然を自己産出的な創造力ととらえるシェリング、なかんずく生命を学にもらたらしたヘーゲルを評価している。1934年に刊行した最初の哲学史では自然を数量化したデカルトよりも感性を重視したベイコンや自然の質を重視するスピノザ、活動的な力の概念を「物質の運動の究極の根拠」としたライプニッツを重視し、『ピエール・ベール』では啓蒙思想期の科学者はキリスト教神学と結びつくことによって自然を「単なる機械」に貶めたと批判している。フォイエルバッハの自然は生命力をはらんだ感性的な自然であって、近代科学が対象とする数量的・機械論的自然とは別物だったのだ。

 『ピエール・ベール』でもう一つ重要なのはキリスト教神学は「人類を自然から疎外し、自然の身になって感じたり、考えたりする能力を奪った」としている点だ。近代科学による自然の「疎外」という考え方がすでにあらわれていたのである。

 1841年は主著である『キリスト教の本質』を刊行する。フォイエルバッハは疎外の論理を拡大し、宗教は人間の自己疎外であり、「人間は自分の像に似せて紙を創造した」とするおなじみのキリスト教批判を展開するわけだが、これが大きな反響を呼んだ。

 マルクスは当初「社会主義に哲学的基礎をあたえた」と絶賛するが、後に「フォイエルバッハに関するテーゼ」で自然を観照的直観の立場から見るだけで実践の対象ととらえない古い唯物論だと厳しく批判する。

 本章の著者はフォイエルバッハにとって実践は自然を支配するための活動ではなく美的・理論的直観と結びついた活動だったとして、フォイエルバッハの実践概念に近代化至上主義を越える可能性を見ている。

 フォイエルバッハは人間が宗教を作りだしたのは窮迫のためだとしたが、その窮迫は物質的豊かさで解決されるようなものではなく、有限者である人間の条件だった。フォイエルバッハは書いている。

 限界のないところ、時間のないところ、窮迫のないところ、そこにはいかなる質もエネルギーも精神も炎も愛もない。窮迫した存在者だけが必然的な存在者である。窮迫のない存在者は根拠のない存在者である。受苦することができる者だけが実存するに値する。

 フォイエルバッハがこんなに深い思想家だったとは思わなかった。マルクスによって乗り越えられたわけではなく、むしろこれから読み直されるべき人のようだ。

 1859年には妻の経営していた製陶工場が倒産しフォイエルバッハ家は困窮するが、友人たちやシラー財団、ニュールンベルクの社会主義者が援助し、病床に就きながらも1872年に安らかな死をむかえた。

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