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2012年11月30日

『朝鮮植民地支配と言語』 三ツ井崇 (明石書店)

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 ついこの間まで日本は日韓合邦時代に朝鮮語を禁止したとかハングルを抹殺しようとしたといった日本悪者論が横行していたが、『嫌韓流』のブームで日本が欧米の植民地ではありえない普通教育を実施し、しかも朝鮮語を必修科目としてハングルの普及に力をいれていたことが広く知られるようになった。またハングルの正書法が確立したのも日本統治時代のことで、それには朝鮮総督府が大きく係わっていた。もはやかつてのようなハングル抹殺論は通用しないところにきている。

 韓国の歴史学界でも日本が朝鮮の自発的近代化をつぶしたとする植民地収奪論はかつての勢いを失い、日本支配の功罪を事実に即して冷静に見ていこうとする植民地近代化論が台頭してきている。

 2006年に刊行された『解放前後史の再認識』(『大韓民国の物語』のもとになった論集)の巻末の座談会では次のような見直しが提起されている。

 朝鮮語学会は植民地の期間内にただ一度も総督府権力と対立したことはありませんでした。対立したというよりはむしろハングル運動において朝鮮語学会の方針を貫徹させるために、総督府と常に緊密に協調するしかなかったのです。朝鮮語学会と対立する他の民間団体を牽制するためにも総督府権力が必要であり、さらにハングルの全面的な普及のためには、学校や新聞のような機構を掌握しなければならず、そのためにも現実の政治権力に背を向けては何もできなかったのです。

 朝鮮語学会は発音よりも意味的区分(正確には形態素的区分)を重視したハングル正書法(表意主義もしくは形態主義と呼ばれる)を提唱した周時經の弟子たちが立ち上げた団体で関連雑誌の名称から「ハングル」派と呼ばれていた。独立後にハングル学会と改称してハングル専用政策に多大な影響をおよぼしたが、そこまで声望を集めるにいたったのは朝鮮語学会事件で幹部が下獄したことが大きい。

 近年の植民地近代化論では日帝の朝鮮語抹殺政策と戦ったはずの英雄が対日協力者に逆転してしまったわけだが、従来の植民地収奪論を「民族主義」と位置づける著者は日本のおかげでハングル正書法が確立したとする見方を「施恵論」と呼び、「施恵論」の否定を本書のテーマの一つとしている。

 「施恵論」の否定とはいっても著者の姿勢はあくまで実証的で手堅く、多くの事実を掘り起こしている。これまで「諺文綴字法」については純言語学的な研究か、日帝はできそこないの正書法をわざとつくってハングルの普及を妨げたとする言いがかりのような研究しかなかったというが、社会的・歴史的せめぎあいの中で正書法確立の過程を緻密に跡づけた本書は貴重である。

 ハングル正書法の確立に総督府がどのように関与したか、本書にしたがっておおよその流れを見ていこう。

 1911年に朝鮮教育令が公布され総督府学務局は普通学校(小学校に相当)の教科書編纂のための標準となる綴字法を緊急に必要とした。学務局は日本人委員4名、朝鮮人委員4名からなる朝鮮語調査会議を設置した。調査会議は1911年7月から11月までの4ヶ月間にわずか5回の審議で『朝鮮語調査報告書』をまとめたが、翌年制定された「普通学校諺文綴字法」に反映させた。

 1912年の「普通学校諺文綴字法」は摘要範囲を普通学校に限定しており朝鮮社会全体の綴字法をどうするかという視点は最初からなかったが、肝心の朝鮮人教員からはまったく評価されず教育現場には浸透しなかった。

 1912年版が朝鮮人教員の反発を受けた原因として著者は8名の委員に現職の教員が一人も含まれていなかった点を指摘するが、より根本的には朝鮮教育界は「ハングル」派の影響が強く、表音主義と表意主義を折衷した「普通学校諺文綴字法」は最初から受けいれられるはずがなかったことがあげられるだろう。

 学務局は1922年の朝鮮教育令の改正にそなえて1921年に「普通学校諺文綴字法」を改訂したが、1912年版に対する批判を考慮したのか11名の委員を日本人3名、朝鮮人8名とし、過半を教育経験者から選んでいる(2名は「ハングル」派)。

 ところが1921年の「普通学校諺文綴字法大要」は1912年版とほとんど変わるところがなかった。調査委員会の開会にあたって学務局長の柴田善三郎は「本調査によってすぐに諺文綴字法の統一の如き重大問題を根本的に解決することは到底不可能」と演説したが、案の定議論は紛糾してまとまらず、現状維持を落としどころにするしかなかったのである。

 一方ハングル正書法の統一を求める社会的要請は日々高まっていった。朝鮮人社会は近代化によって漢文中心から漢字ハングル交じり文やハングル専用文中心に急速に移行しつつあり、正書法の統一は教育現場の問題だけではなくなっていた。総督府は日本人官吏に朝鮮語の習得を推奨していたが、その規範をどうするかという問題もあった。

 学務局はこうした状況に対応すべく1928年から綴字法改正にとりかかり1930年に「諺文綴字法」を制定した。名称から「普通学校用」がとれたのは教育現場以外の場面での適用をも想定したからである。

 今回はまず現職の教員4名と学務局員3名(1名は日本人)、そして編輯課長と京城帝大教授の小倉進平からなる原案起草小委員会で原案を作成し、それを14名の本委員会で審議するという二段階方式をとった。本委員会の9名の朝鮮人委員のうち6名は「ハングル」派である。

 政策目標の実現のために委員構成を操作するのは官僚の常套手段だが、これはあからさまな「ハングル」派贔屓である。「ハングル」派と敵対する朴勝彬らは偏った委員選定に対して抗議し、雑誌『正音』(後述)には学務局内の「ハングル」派シンパの「画策」とする憶測記事が載った。前二回とは異なる二段階方式で案を練ったことといい、学務局は反対を過去のしがらみを断ち切った綴字法を押し切ってでも制定しようという政策判断をおこなったと見られる。

 委員構成から予想されるとおり新綴字法は「ハングル」派の主張を大幅にとりいれたものになった。新綴字法にもとづく新しい教科書の印刷がはじまったが、ところがそこに横槍がはいった。新学期をひかえた2月になって改正案は突然総督の諮問機関である中枢院で討議されることになったのである。

 「ハングル」派に肩入れする東亞日報は「旧派の反対で一頓挫」という見出しを掲げたが、真相は中枢院参議の魚允迪が総督府の首脳部に働きかけて改正案をつぶしをはかったということのようである(魚允迪は後述の国文研究所の委員だった)。どういう調整がおこなわれたのかはわからないが、中枢院では若干の議論があっただけで了承され学務局の予定通り4月から新綴字法による教育がはじまった。

 新綴字法が「ハングル」派色のきわめて濃いものになったことに対して批判がおきた。反新綴字法の旗手となったのは現代化した表音主義を提唱する朴勝彬で、同志をつのって朝鮮語学研究会を立ちあげた。朴勝彬の賛同者は機関誌『正音』に拠ったので「正音」派と呼ばれている。1932年に「ハングル」派と「正音」派の間でおこなわれた公開討論会の模様は『ハングルの歴史』第13章に詳しい。

 「ハングル」派の方も新綴字法に満足しているわけではなかった。総督府の委員会には「ハングル」派に賛同しない委員もいて妥協した点もあったからだ。「ハングル」派は新綴字法を土台に表意主義を徹底した綴字法を作りあげ1933年に「朝鮮語綴字法統一案」として発表した。南北朝鮮の今日の正書法はこの「統一案」がもとになっている。

 こうして経過を見てくると日本人朝鮮語学者の力だけでハングル正書法を作ったという主張は成立たないことがわかる。1933年の「統一案」にいたる過程を実証的に明らかにした本書の意義はきわめて大きいといえる。

 とはいえ本書の記述に疑問点がないわけではない。

 著者は1912年版と1921版の綴字法に朝鮮人の批判が殺到したと強調し、そのような綴字法しか作れなかった総督府を執拗に批判しているが、1912年版は本当に総督府が作ったものなのだろうか。

 というのは『ハングルの歴史』第10章には大韓帝国学部(文部省に相当)がハングル正書法制定のために設置した国文研究所に関して次のような記述があるからである。

 学部学務局長の尹致旿を委員長に張憲植、李能和、權甫相、上村正己、周時經などが委員に任命された。以後、魚允迪、李鍾一、池錫永、李敏應らが抜擢され、一九〇七年九月の第一次会議を皮切りに一九〇九年一二月まで計二三回の会議が持たれ、一九〇九年一二月には「国文研究議定案」の名で最終報告書が学部大臣に提出された。……中略……

 日韓併合後、総督府はこの「国文研究議定案」をもとに「普通学校用諺文綴字法」という正書法を作成し、一九一二年四月に公布した。

 総督府は綴字法のために朝鮮語調査会議を設置したが、4ヶ月間に5回しか会議を開いていない。国文研究所の2年間で23回に較べるとあまりにもすくない。たった5回の会議で正書法をゼロから定めるのは無理であるが、大韓帝国時代につくられた「国文研究議定案」を土台にしたなら話は別である。しかも朝鮮語調査会議の4名の朝鮮人委員のうち2名は国文研究所で委員をつとめていた(1921年版の調査会議にも国文研究所の委員経験者が2名はいっている)。

 総督府は朝鮮語調査会議の報告書を参考に「国文研究議定案」に多少の手直しをしたというのが実情に近いのではないか。本書には報告書が「必ずしも拘束力を持つとは限らなかった」とある。実際報告書の内容と1912年の綴字法の間には不一致が確認されており、少数意見を採用した部分もあるとしている。

 ところが本書には「国文研究議定案」はまったく登場しないのである。国文研究所についてはわずかにこう書かれているにすぎない。

 朝鮮語綴字法については、併合前にも学部に設置された国文研究所(一九〇七年)で討議されていたが、その解決を見ないまま研究所は解散してしまい(一九〇九年)、綴字法の不統一状態を克服できないままでいた。韓国併合後、総督府内務部学務局が教科書編纂という実務的課題のうえで、その問題を「引き継ぐ」形となった。

 『ハングルの歴史』が正しいなら総督府は問題だけでなく「国文研究議定案」も引き継いでいたはずだが、本書はその事実を故意に隠蔽した疑いがあるし1930年改訂における学務局の政策判断も不当に軽く見すぎているのではないか。魚允迪の横槍に稲垣課長が「不快」を表明したことを疑うにいたっては悪意を感じる。著者は「施恵論」を全否定したいがために筆を曲げたのだろうか。これでは学術書ではなく政治パンフレットだ。

 日韓合邦がなかったとしても大韓帝国学部は1912年版と五十歩百歩の正書法しか提供できなかっただろうし、その後の展開も似たような道筋をたどっていたのではないか。

 いや、もっとひどいことになっていたかもしれない。総督府は朝鮮人高官の横車を最終的には無視することができたが、大韓帝国がつづいていたら「ハングル」派の案を大胆にとりいれた綴字法で押し通すといったことは不可能だったのではないか。その意味では総督府がハングル正書法確立ではたした役割は著者が主張する以上に大きかったはずなのである。

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2012年11月29日

『ハングルの歴史』 朴永濬他 (白水社)

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 最初に手にとった時は論文集かなと思ったが、読んでみると学術的というよりは雑学寄りの本だった。

 邦題は『ハングルの歴史』となっているが原題は『韓国語の謎』だそうで、韓国語表記の歴史をめぐる14本のエッセイがおさめられている(原著では16本)。それほど深く掘りさげているわけではないが情報量はけっこう多く、今月とりあげた本を読んでいて頭に浮かんだ疑問の多くが解けた。韓国語のできない人間にとってはありがたい本であるが、事実の隠蔽や歪曲もたくさんある。韓国人はハングルにプライドを持っているが、そのプライドはガラスのように脆いらしい。

 最初の4本はハングル誕生以前の話で吏読、口訣、郷札をとりあげている。万葉仮名にあたる郷札は早く廃れたが、変体漢文の一種である吏読は下級官吏の表記法として公認され、李朝末期まで公文書に使われていた。

 訓読文にあたる口訣は漢文の経典を読むために密かに使われつづけ、ハングルが誕生後も普通に使われたよし。

 李朝時代は両班は漢文、下級官吏にしかなれない中人は吏読と口訣、庶民(常民)はハングルと社会階層によって異なる文字生活を送っていたわけである。

 「5 訓民正音はすべての民衆に用いられたか」はハングル誕生の経緯をとりあげている。世宗はハングルを作らせた王様として有名だが、ハングル公布の14年前に明の法典を吏読文に翻訳させ『大明立直解』として刊行し、吏読さえ読めない「愚民」のために『三綱行実図』という絵本を作らせた。「愚民」を教化したいという願いが世宗をハングル創製に向かわせたようである。

 『訓民正音』御製序にあるようにハングルは「愚民」のために作られたが、世宗は中下級官吏にも広めようと官吏採用試験でハングル併用を命じている。もっとも漢文の権威が揺らぐことはなかったが。

 「6 訓民正音は他の文字を真似たものか」ではハングルの起源をめぐる諸説が紹介されているが「模倣説が囁かれるわけ」という副題がついていることから察せられるように、韓国人はハングルの起源を云々することをハングルに対する侮辱と受けとるらしい。

 申叔舟が遼東に派遣されたのは文字ではなく漢字音の調査のためだったと長々と考証したり、女真文字や日本の神代文字(!)のようなトンデモに近い起源説は威勢よく論駁するが、本命といえるパスパ文字については「単なる憶測として片付けることはできない」とだけ書いてすぐさま話題を転じている。いかにも触れたくないという感じだ。

 「7 崔萬里はなぜ訓民正音創製に反対したのか」は面白かった。

 崔萬里はハングルに反対する上疏文を呈したことで悪役に仕立あげられているが、儒学者にとっては漢字は礼そのものであって単なる便利な道具などではなかった。そうであれば便利すぎるハングルによって礼が廃れることを心配するのは当然ではないだろうか。むしろおかしいのは儒学者でありながらハングル普及を推進しようとする鄭麟趾や申叔舟の方ではないか。

 この反問に答える鍵は申叔舟の遼東派遣にある。「混乱した漢字音を整理するための文字を作るという作業は、儒学者の名文に何ら反するものではなかった」というわけだ。

 「8 朝鮮王朝時代の人々は「ㄱ」をどう呼んだか」は創製当時、それぞれの字母の名称をさぐる考証だが、わたしは韓国語ができないのでむしろ『訓蒙字會』の紹介の方を興味深く読んだ。

 『訓蒙字會』はハングル公布の70年後に崔世珍によって編纂された漢字の学習書だが、すべての単語にハングルで読みがつけられている上に序文(『ハングルの成立と歴史』所載)にはハングル字母の解説が含まれている。

 著者は崔世珍が中人身分だったことが『訓蒙字會』を編纂する動機になったと考えている。

 中人の身分でありながら当代最高の学者であった崔世珍の二つの姿は「諺文」による漢字語彙集の発行と絶妙な対応を示している。当時の士大夫はだれも見向きもしなかった低俗な文字・諺文を用いて、知識社会の根本をなす漢字の学習書を編纂したという歴史的事実が、崔世珍という人物を物語っているかのようである。

 「9 ハングルはいつから大衆に愛用されるようになったのか」は初のハングル専用新聞『独立新聞』がテーマだが、露払役として朝鮮最初の近代新聞である『漢城旬報』とその後継紙である『漢城週報』が言及される。

 『嫌韓流』で広く知られるようになったように『漢城旬報』には福沢諭吉が深く関与しており発行を助けるために井上角五郎ら門下生と印刷工を派遣している。福沢はハングルによる新聞発行を望んだが、保守派の反発で漢文で発行をはじめた。

 しかし『漢城旬報』は甲申政変のために1年2ヶ月で廃刊を余儀なくされ、1886年1月から名称を『漢城週報』と改め週刊ベースで発行された。

 注目すべきは漢文、漢字ハングル交じり文(国漢文)、ハングル専用文の三通りの表記が採用されたことだ。しかも『独立新聞』の十年前も前である。

 ところが本章ではこうした事実はすべてなかったことにされている。朴泳孝が独力で発行したかのような書きぶりだし、『漢城週報』がハングルを用いていたことも最後に「このときは国漢混用文であった」と軽くふれるだけだ。あからさまなウソこそ書いていないが、書かないことで結局ウソをついている。

 「10 ハングル正書法統一案はなぜ作られたか」は長らく「諺文」という蔑称で呼ばれていたハングルが1894年の甲午改革で「国文」として公認されてから1933年に朝鮮語学会による『ハングル正書法統一案』がなるまでの40年間の正書法をめぐる議論を紹介している。

 わたしは韓国語がわからないのでこういう理解でいいのか自信がないが、世宗の公布した『訓民正音』では発音通りに表記するという表音主義の原則が示されていたのに対し文法構造を反映した表記法の方がいいという考え方が台頭し、どこまで文法構造を反映させるかでさまざまな表記法が乱立していたということのようである。

 この混乱をおさめるために最初に口火を切ったのは日本で西洋医学を学んだ池錫永だった。池錫永は『訓民正音』の表音主義にもどすという方向の『新訂国文』を1905年に発表したが反論が殺到した。大韓帝国政府は論議の高まりを無視できなくなり国文研究所を設置した。世宗の正音庁以来はじめて設けられたハングル研究のための国家機関である。

 国文研究所は委員会をつくり1909年に表音主義にもとづく「国文研究所議定案」を答申するが翌年の日韓合邦のために棚上げされ、1912年になって朝鮮総督府により「普通学校用諺文綴字法」として公布された。

 この統一案には異論が多く、特に周時經の率いる朝鮮語学会(関連雑誌の名前から「ハングル」派と呼ばれる)が表意主義の立場から徹底的な批判をくわえた。総督府は1920年に表意主義を一部とりいれ、1930年には「ハングル」派の主張をほぼそのままとりいれた改訂をおこなった。表音主義が日本語の新仮名遣い、表意主義が歴史的仮名遣いにあたるとするなら朝鮮語では日本語と逆の方向に論議が進んだことになる。

 ところが正書法をめぐる戦いはそれでは終わらなかった。「13 熾烈な綴字法論争の真相」は1930年以降も継続された崔鉉培を中心とする「ハングル」派と朴勝彬を中心とする「正音派」の論争を紹介している。

 表音主義の立場の朴勝彬は1930年に朝鮮総督府が「ハングル」派の表意主義を丸のみしたのに反発し、翌年朝鮮語学研究会を結成し機関誌『正音』で表音主義の論陣を張った。朴勝彬派は機関誌の名前から「正音派」と呼ばれた。

 両派の論争は注目を集め、1932年11月東亜日報の主催で表記法統一案についての汎国民公聴会が開かれた。

 本章では崔鉉培、朴勝彬の両巨頭が出席した公聴会の論戦が描かれているが、韓国語がわからないので議論の細部にはついていけないが、「文字は決して音声だけを表すものではありません」という崔鉉培の考え方は歴史的仮名遣いの立場に非常に近い。

 一方朴勝彬の主張はこうだ。

 朴勝彬は訓民正音の伝統を継承しなければならないと信じていた。開化期までの五百年間、絶え間なく実践されてきた表音主義の伝統を継承しようと、訓民正音の名にちなんで「正音」としたのである。崔鉉培の言うように文字が観念の塊であるとすれば、音声は現実のことばの記録である。文字と音声に代表される彼らの表記法論争はこうして始まったのだった。

 本書にはこの程度しか書かれていないが、三ツ井崇『朝鮮植民地支配と言語』によれば朴は官費留学生として1904年から7年にかけて日本の中央大学に留学したが、その頃日本では漢字廃止論の第三次ブームが起こっており、その影響で言語ナショナリズムと、それと表裏する表音主義に目覚めた可能性があるという。

 公聴会の翌年朝鮮語学会(「ハングル」派)は正書法統一案を発表した。1930年の総督府の「諺文綴字法」は朝鮮語学会の主張を大幅にとりいれたとはいっても、一部表音主義の主張もとりいれていたので、朝鮮語学会としては表意主義を徹底した独自の正書法を作る必要があったのだ。

 しかし朝鮮語学会の正書法はすぐには世の受けいれるところとはならなかった。朝鮮語学会は教育界では圧倒的な影響力をもっていたし新聞界からも支持されたが、社会全体ではまだ多数派ではなかったのだ。朝鮮語学会の正書法が最終的な勝利をおさめるのは独立後のことになる。

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2012年11月28日

『ハングルの成立と歴史』 姜信沆 (大修館)

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 韓国で1987年に上梓された姜信沆『訓民正音研究』の日本語版で、著者自身が邦訳している。『訓民正音』の訳読と関連論文を四部にわけて収録している。

 困ったことに本書はすべて横書である。漢文を引用する場合はまず白文を掲げ、括弧ではさんだ邦訳を改行せずにつづけておりかなり読みにくい。横書にする必然性はないと思うのだが、なぜ横書にしたのだろう。

 しかし内容は読みにくさを補ってあまりある。

 第一部の「世宗とハングル」は総論でハングルが作られた背景やハングルの表現する音韻体系、ハングル製作と平行して進められた漢字音の整理を簡潔にまとめている。

 本書で蒙を啓かれたのであるが、ハングルは朝鮮語を表現するためだけの文字ではなかった。朝鮮語対漢文、話し言葉対書き言葉、声対文字という二項対立でハングルをとらえる論があるが、ハングル創制に係わった人たちには朝鮮語と漢文を対立関係でとらえる発想はなかった。

 御製序にあるように「愚民」のために朝鮮語の簡便な表記手段を提供することもハングル創制の目的だったが、もう一つ漢文を正しく音読するための発音記号にするという目的もあったのだ。

 漢文を正しく発音しなければならないのは鄭麟趾の後序に「漢字音は清音と濁音が区別でき、音楽は旋律がきれいに調和する」とあるように音楽を正しく奏するためである。著者は書いている。

 ハングルを作った頃の当事者たちがこのような考えを持つようになったのは、儒教の礼楽思想に由来するものであった。儒学者達は、礼を治国安民のために設ける不可欠の制度・儀式の作法として、楽も治国の要訣であると考えていた。

 デリダが槍玉にあげた声の形而上学そのものではないか。ハングルは声の形而上学の粋というべき文字なのである。デリダを援用してハングルを持ちあげている本があったが、明らかにすり替えである。

 第二部は『訓民正音』の訳読である。

 まず解題でハングルの表現する音韻体系と『訓民正音』の5つの伝本を紹介した後、ハングルがモデルとした文字が何かをめぐる議論を9の説に分類している。

 これも本書ではじめて知ったのだが、ハングルの子音字母が調音器官の形をかたどっているという事実がわかったのは1940年に『訓民正音解例本』が発見され「制字解」に「正音二十八字、各象其形而制之」という条があったからで、それまでは諸説紛紛としていたそうである。

 こんな基本的なことが忘れられていたとは信じられないが、そういう詮索に熱心なインテリがハングルを使わなかった時代が長くつづいたということだろう。

 次に「例義」と「解例」の訳読がくる。一ページを左右にわかち、左側に白文、右側に邦訳、その後に【注】を配置している。【注】は東洋文庫の『訓民正音』(平凡社)よりも詳しく現代の言語学から見た解説が充実しているが、横書で読みにくいのが難である。

 本書には東洋文庫版にはなかった『訓民正音諺解』が収録されている。『訓民正音諺解』は『訓民正音解例本』の翌年に作られた異本で、「例義」のみをハングルで朝鮮語に訳し注を加えている。本書では左に寄せて『諺解』の書影を掲げ余白に邦訳を配置している。

 冒頭の「世宗御製訓民正音」にハングルでつけられた通釈を引用しておこう。

 製は文を作るということで、御製は王様がお作りになった文である。訓は教えると言うことであり、民は百姓である。音はおとであって、訓民正音は百姓を教える正しい音である

 鄭麟趾の後序と「崔万理等諺文創制反対上疏文」は東洋文庫版にも載っているが、上疏文は鄭の後序をいちいち反駁するように書き進められており、解題で両者の主張を各条ごとに対比しているのは便利だ。

 第三部の「訓民正音関連文献」には「東国正韻序文」、「洪武正韻訳訓 序文」、「四声通改 凡例」、「直解童子習序」、「保間齊集内 訓民正音関係記事抄」、「訓蒙字會 凡例」をおさめる。このうち東洋文庫版が載せるのは「東国正韻序文」だけである。

 『洪武正韻』は明の建国直後、洪武帝が天下の字音を統一するために編纂させた韻書だが、明は南で興った王朝なので編纂にあたった学者は江南人ばかりで江南系の音を記す韻書だった。そのために一般には歓迎されず、あまり使われなかったらしい。

 欽定韻書とはいえ中国ではポピュラーとはいえない『洪武正韻』を世宗は最高権威とあがめ、申叔舟らにハングルで表音するように命じ『洪武正韻訳訓』とその索引にあたる『四声通改』を作らせた。どちらも原本は失われ序文だけが申叔舟の文集である『保間齊集』で伝わっていたが、1950年代になって『訳訓』の原本が不完全な形ながら発見されたということである。

 『直解童子習』は申叔舟と並び称される成三問があらわした漢語の教科書だが原本は失われ序文だけが伝わる。漢字にハングルで振り仮名をふり、文の大意をハングルで記載してあったというから完全に教科書である。こういう実用的な書物までなくなってしまったのだからインテリの間ではハングルはまったく使われていなかったのだろう。

 『訓蒙字會』はハングルが創制されてから約70年後の1527年に崔世珍によって著された漢字の教科書で上中下三巻に3360字を収録するが、「凡例」におまけのような形で「諺文字母」の項目があり、ハングルの変遷を知る貴重な資料になっているということである。

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『訓民正音』 趙義成 (平凡社)

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 世界にはさまざまな文字があるが、実際に使われた文字で誕生の経緯が文書として残っているのはおそらくハングルとパスパ文字くらいだろう。則天文字にも「改元載初赦文」が伝わっているが、いくつか造字しただけで文字体系を作ったわけではない。

 ハングルは1443年に李朝第四代世宗が作らせた文字である。世宗は新しい文字を広めるために鄭麟趾ら八名の学者にハンドブックを作らせ、1446年に『訓民正音』として公布した。

 『訓民正音』は世宗がみずから書いた序と本文にあたる「例義」からなる。「例義」は28の字母と音韻の関係を記しただけの簡潔なもので、JISの規格本文のようなものである。

 規格本文だけではどうやって運用したらいいかわからないのでJISの規格票には解説がつくが、『訓民正音』にも解説があって「解例」という。「解例」を付した形で刊行された版が『訓民正音解例本』である。

 本書はB5版282ページのコンパクトな本で、『訓民正音解例本』とハングル制定に反対した崔万理ら廷臣による「諺文対上疏文」、ハングル制定と平行する形で進められた漢字のあるべき読みを定めた『東国正韻』の序が収められ、巻末にユネスコの「世界の記憶」に登録された原刊本の書影が写真版で付されている。

 各文書は和訳の後に上段に白文、下段に読み下しが印刷され、その後に著者がつけた語釈がつづく。もちろんすべて縦書である。

 世宗の「御製序」は短いので読み下しを全文引用しよう。

 国の語音、中国に異なり、文字と相い流通せず、故に愚民、言わんと欲する所有れども、いに其の情を伸ぶるを得ざる者多し。予、此が為に憫然たりて、新たに二十八字をつくり、人々をして易く習い、日用に便ならしめんと欲するのみ。

 「愚民」という言葉がいきなり出てくるが、王様だからいいのだろう。語釈には「漢字・漢文の素養のない民」とある。

 「例義」の字母の定義については k ないし g をあらわす「ㄱ」の条を和訳で引く。

 ㄱ、牙音。「君」の字の初めに発する音と同じである。左右に並べて書けば「虯」字の初めに発する音と同じである。

 牙音とは中国音韻学の子音の分類で、現代の音声学でいう軟口蓋音にあたる。左右に並べて書くとは「ㄱ」を二つならべた合成字母「ㄲ」のことである。

 以上で終りだ。

 解説にあたる「解例」は字母の形のいわれを解説した「制字解」、他の字母と組みあわせた場合の発音を漢字の読みで示した「初聲解」「中聲解」「終聲解」、字母を結合して一文字を構成する規則を示した「合字解」、そして字母の用例を朝鮮語固有語彙で示した「用字解」という構成である。

 わたしは朝鮮語がわからないので発音の部分はパスして「制字解」と「合字解」だけを読んだ。

 「制字解」は朱子学の宇宙論である陰陽五行説を解説した後、字母の形をどのように決めたかを次のように述べている。

 訓民正音には二十八の字母があり、それぞれ何らかの形をかたどって作られた。初声は全部で十七字母である。牙音字ㄱは、舌根が喉をふさぐ形をかたどっている。舌音字ㄴは、下が上歯茎に付く形をかたどっている。唇音字ㅁは、口の形をかたどっている。

 アルファベットで示せばㄱは k、ㄴは n、ㅁは mである。音声学でおなじみの発音する時の口の断面図を思い浮かべればいい。

 ここまでは科学的だが、この後陰陽五行説では牙音は「木」にあたるとしてㄱは「木」のエネルギーが物質化すること、ㅋは物質化した木が生い茂ること、ㄲは木が老いることというに形而上学の高みに駈けのぼっていく。

 「合字解」は文字構成の原則を述べるが、あくまで原則だけである。

 初声・中声・終声の三要素は、組み合せて一文字を作る。初声字は、中声字の上に来るものもあれば、中声字の左に来るものもある。「君」の字のㄱはㅜの上に来るし、「業」の字のㅇはㅓの左に来るといった具合である。

 全ての組合せを一覧表にしてもらいたいところだが、そこまではやっていない。

 朱子学的な思考に踏みこまなければほとんどJISの規格票であり、読んで面白いものではない。

 興味深かったのは「解例」の末尾に置かれた鄭麟趾の後序とハングル制定に反対した崔万理ら廷臣による「諺文対上疏文」である。特に後者は面白い。挨拶につづく最初の段落を和訳で引こう。

 わが朝鮮は初代国王からこれまで真心を尽くして大国たる中国に仕え、ひたすら中華の制度に従ってきました。今は中華と行動を共にする時であるのに、諺文をお作りになったことに対して、驚きをもってこれを見聞きする者があります。

 廷臣の反論の概略はハングルの概説書で知っていたが、実物を読むと殿御乱心と廷臣があわてふためいている様子が目に見えるようだ。

 簡にして要をえた本であるが、解説には大胆なことが書いてある。ハングルは世宗の命令で集賢殿の学者が共同研究して製作したというのが定説だと思うが、著者は『世宗実録』と鄭麟趾の後序を根拠に世宗がみずから字母を創制したとし、「集賢殿の学士たちが文字創作に関与した可能性は低そうである」と述べているのだ。

 世宗が中国音韻学に通じていたのは事実のようである。世宗はハングル創制の前から集賢殿の学者を中国に派遣して漢字の正しい読み方を調査させ、後に『東国正韻』と『洪武正韻訳訓』をまとめさせているが、音韻を決定するにあたってはいちいち宸断をあおいだとある。世宗は細かいところまで口を出していたのである。そういう王様であるからハングルに反対する上疏文に対してはこう反問している。

 おまえは韻書を知っているのか。四声や七音、それに字母はいくつあるのか。もし私がその韻書を正さないのならば、いったい誰がこれを正すのか。

 世宗は自分の学識に絶対的な自信を持っていたようである。だとしたら映画通を自認する金正日が映画監督をやったように、世宗がみずから字母をデザインした可能性もゼロではないだろう。

 とはいってもなにぶん臣下の残した記録である。金日成の縮地法の類かもしれないが。

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2012年11月27日

『ハングルの誕生』 野間秀樹 (平凡社新書)

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 ハングルは15世紀という遅い時期に他の文字を十分研究した上で作られたので造字原理が非常に洗練されている上に、誕生の経緯を記した文書群が今日に伝わっている。南北朝鮮の人たちがいうような至上の文字だとか万能の文字だという自画自賛は別にしても、非常に興味深い文字であることは言うを待たない。

 本書はハングル創製にあたって李朝第四代の王世宗が公布した『訓民正音』を現代の言語学というか現代思想の観点から読みとこうとする試みである。ハングルの言語学的考察としては姜信沆『ハングルの成立と歴史』があるが、その成果を踏まえながら漢字の世界と決別した「正音エクリチュール革命」としてハングルを考えようとしたらしい。

 らしいと書いたのは本書でくりかえし語られる「驚き」には政治的レトリックがちらついていて、文字通りには受けとりにくいからである。

 わたしがまず引っかかったのは北朝鮮を共和国と表記していることである。正式国名にこだわるなら括弧でくくった「共和国」とするとか、あるいは韓国の方も正式国名の短縮形である民国として民国/共和国とするならまだしも、あの独裁国家を普通名詞とまぎらわしい共和国と表記するのは政治的底意があると受けとらざるをえない。

 次に引っかかったのはハングルの表記がハングルだったり、山括弧でくくった<訓民正音>ないし<正音>、さらには山括弧なしの正音だったりして一定しないことである。

 確かに「ハングル」という名称は20世紀になってから作られたもので、初期においては「正音」と呼ばれていたのは事実だが、600年のハングル史の2/3以上の期間は「諺文」と呼ばれていた(本書では「諺文」という名称はハングル受難時代の歴史的名称としてしか出てこない)。

 著者は近代においてもハングルが「正音」と呼ばれていた証左として「朴勝彬といった学者たちが、学会の機関誌名を『正音』としたのをはじめ」と書いている(本書283ページ)。直前に周時経の活動について書かれているので、多くの読者は周時経と朴勝彬が同じ学会に所属する同士と受けとるだろうが、実は両者は敵対関係にあり、別々の学会を組織してハングルの正書法をめぐって激烈な論争をくりひろげていたのである。

 機関誌の名称から周時経派を「ハングル派」、朴勝彬派を「正音派」と呼ぶことが多いようであるが、本書は<正音>という呼称にこだわりながら「ハングル派」の立場しか語っていないし、そもそも正書法をめぐる論争があったこと自体がふれられていない。

 ややこしいことに訓民正音は世宗が公布した文書の名称でもある。

 『訓民正音』の原刊本はわずか二部しか残っておらず、そのうちの1940年に発見された「全氏本」は1997年にユネスコの「世界の記憶」に登録されている。訓民正音はハングルのもともとの名称でもあることから、文字体系としてのハングルが世界遺産に選ばれたと誤解している人がすくなくないようである。

 本書では書物の場合は『訓民正音』、文字体系の場合は<訓民正音><正音>と書きわけられているが、この区別は重要な部分で朦朧とする。たとえば音素を先取りしたとする条。

 驚くべきことに、<訓民正音>は、言語学が二〇世紀を迎えて辿り着いた<音素>へと、ほとんど到達していた。<正音>が字母として一つ一つ形を与えた音の単位は、今日私たちが<音素>と呼ぶ単位だったのである。

 この場合の<訓民正音>と<正音>はどちらも書物としての『訓民正音』を指しているはずだが、ハングルにすりかえられている。『訓民正音』が現代の音素概念を先取りしていたというのはその通りだと思うが、「驚くべきことに、<訓民正音>は」と書きだされるとハングルだけが音素に到達した世界に類例のない文字体系という錯覚を誘発するのではないか。

 ハングルならハングル、<正音>なら<正音>で通してくれればいいのに、<訓民正音>、<正音>、正音、ハングルと呼称がくるくる変わるので印象操作をされているような違和感が残る。

 ハングルの系統論でも異和感をおぼえた。

 著者は『世界文字辞典』(三省堂)の説というか河野六郎説を引いて地中海で生まれたアルファベットは以下の二つのルートで東方に伝来したと書いている。

 ①北方、イラン系のソグドを経てチュルク系のウィグルに達し、ウィグル文字からジンギス汗によってモンゴル文字が作られる。

 ②セム系アルファベットのアラム文字がインドに入り、インドで種々の文字を誕生させ、その一派からチベット文字が作られ、これを改良して八思巴パスパ文字が作られる。

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2012年11月26日

『韓国が漢字を復活できない理由』 豊田有恒 (祥伝社新書)

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 親韓派による韓国の漢字廃止批判である。

 豊田有恒氏は『宇宙戦艦ヤマト』の設定者として有名だが、ヤマトタケルを主人公にしたヒロイック・ファンタジーを手がけたあたりから日本の古代史や朝鮮半島の歴史に関心を広げ、そちらの方面の著作が多くなった。軍事政権という暗いイメージしかなかった1970年代から韓国を50回以上も訪れ、学ぶ人がまだあまりいなかった韓国語をマスターして交友関係を広げてきたという。昨今の韓流ファンとは年季のはいり方が違うのだ。

 豊田氏は朝鮮半島の人々と文化を敬愛するがゆえに韓国の漢字廃止政策を大変な損失と嘆き、年々過激化していくハングル至上主義に警鐘を鳴らしている。

 漢字廃止が文化の継承を危うくし人々の思考を浅くしているという批判は呉善花氏の『漢字廃止で韓国に何が起きたか』でもみられたが、呉氏の批判の要諦は漢字を使わないと同音異義語が判別できなくなることと、関連語の網の目が途切れてしまうという二点にあった。語は単独で意味をもつのではなく他の語との関係性においてはじめて意味をもつから、関連語の網の目が拡がらなければ意味も浅くなる。

 呉氏の漢字廃止批判は日本の漢字廃止論にもそのまま当てはまる一般論だったが、豊田氏はさらに一歩踏みこみ、韓国の漢字廃止論=ハングル至上主義の特殊事情というか根っこにあるものを明るみに出す。

 韓国語では一般的な語彙の70%は漢語由来で、専門的な文書では90%以上になるというが、豊田氏によるとその大半は和製漢語であり(韓国の漢字熟語の7割から8割という数字を上げているが根拠は示されていない)、韓国の漢字廃止政策とはすなわち日本隠し政策なのだという。

 明治の日本は欧米の概念をとりいれるためにおびただしい和製漢語を作りだした。「哲学」も「経済」も「民主主義」も全部和製漢語であり、明治の先人が和製漢語に翻訳してくれたおかげで日本人は欧米の学問を日本語で学ぶことができる。当たり前すぎて気がついていないが、自国語で高度な学問ができるというのは少数の国にだけ許された幸運なことなのだ。漢字が社会的格差を広げたと言っている人がいるが、事実は漢字のおかげで一握りのエリート以外にも知識を身につける道が開けたのである。

 日本に留学した中国人は和製漢語をほぼそのまま持ち帰って中国語の一部とした。「人民」も「共和国」も「共産主義」も全部和製漢語であり、「労働」の「働」にいたっては日本で作られた国字である。

 中国では和製漢語をとりいれたことは隠していないが、韓国ではタブーになっているのだという。

 なぜそんな違いが生まれたのだろうか。

 中国がとりいれた和製漢語は概念語中心であり「三権分立」のような中国語として不自然な語は「三権鼎立」のように改めた上でとりこんでいる。中国の和製漢語受容は主体的におこなわれたといっていい。

 ところが朝鮮半島は日本と合邦したために概念語のみならず「手続スソク」、「売出メーチュル」、「貸切テージョル」といった生活語彙まで日本語がなだれこみ、韓国語は後戻り不可能なまでに「言語的文化変容」をこうむってしまった。近代生活は和製漢語なしでは立ちゆかないのだ。

 漢字を使うと日本語からの借用が一目瞭然となるのでハングル専用にこだわっているというのが著者の見立てである。ちなみに韓国の国語審議会の国語純化分科委員会は漢語を韓国語固有の表現に言い換えるリストをたびたび発表しているが、そのリストは「日本語風生活用語純化集イルボノトウセンファルヨンゴスンファチブ」というのだそうである(リストの名称をまず固有語に言い換えるべきだが、そうなると通じなくなってしまうのだろう)。

 独立後の韓国ではハングル専用一辺倒になったがそれにも日本隠しがからんでいる。併合時代朝鮮総督府はハングルの普及を進めたが、学校で教えたのはハングル専用ではなく、漢字仮名交じり文のように漢字とハングルを併用する漢字ハングル交じり文だった。それが仇となって漢字ハングル交じり文は日帝の残滓として排撃され、反対にハングル専用主義がナショナリズムのシンボルとなった。朴正煕時代に断行された漢字廃止でも漢字ハングル交じり文は槍玉にあげられたとのことである。

 著者によれば朴大統領が漢字廃止に踏みきったのは日韓基本条約に対する反発をかわすためだった。朴大統領は日本の士官学校を卒業していたのでもともと日本寄りと見なされがちだったが、そこに国民の反対の多い日韓基本条約門外が持ちあがったので漢字をスケープゴートにして反日パフォーマンスをやらざるをえなかったというわけである。

 もっとも漢字廃止宣言はわずか4年で骨抜きになり、朴大統領の片腕だった李在田参謀総長が会長となって韓国漢字教育推進総連合が結成され、軍隊で漢字教育が復活した。朴大統領自身は本心から漢字を廃止しようとしていたわけではないという見方には一理あるだろう。

 しかしハングル派はすぐに盛り返し、より強力に漢字廃止が遂行されていった。窮地に陥った漢字派は奇手に打ってでた。漢字は朝鮮人が発明したという漢字韓国起源説を言いだしたのだ。あからさまなナショナリズムへの迎合だが、おかげで2009年に漢字教育の義務化が実現したそうである。

 漢字韓国起源説は冗談のたねになっているが、実はこういう事情があったのである。

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2012年11月25日

哲学の歴史 08 社会の哲学』 伊藤邦武編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第8巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀末のフランス社会主義から20世紀のホワイトヘッドまで、哲学者というよりはもっと社会の現実に近いところで考えた思想家をあつかっている。とりあげられているのはトクヴィル、コント、デュルケムといったフランス社会学の祖、ベンサム、ミル、スペンサーといった功利主義者、さらにアメリカのプラグマティストでドイツ語圏は一人もいない。

 ドイツ観念論をあつかった前巻、マルクス、ニーチェ、フロイトというビッグネームをあつかう次巻と比べるとマイナーな印象がある。主著もろくに訳されていなかったり名前しか知らない思想家が多く、はじめて聞いた人も何人かいた。

 しかしマイナーと感じるのは日本がドイツの哲学史一辺倒だからで、欧米ではトクヴィルもコントも、ベンサム、ジェイムズ、パースもヘーゲルやニーチェとならぶメジャーな思想家であり現代思想の重要な源泉になっていると編者は力説する。本巻の寄稿者たちも自分たちが研究している思想家の日本での低すぎる評価を変えようと懸命になっており、気合のはいった論考が多い。読むまでは箸休めかなと思ったが、意外にも本シリーズ中もっとも面白く充実した巻だった。

「総論 進歩・進化・プラグマティズム」 伊藤邦武

 19世紀欧米社会はそれ以前の世界から一変したが、この変化をもたらしたのはアメリカ独立とフランス革命だった。反動の動きもあったがせめぎあいをつづけながら市民革命が漸進的に進んでいった。

 後進国ドイツは反動の力が強く哲学者はなかなか変わらない社会に焦燥しながら観念の中で革命を進めたが、英米仏の哲学者はダイナミックな変化にさらされながら社会の中の人間を考えざるをえなかった。

 社会だけでなく科学の世界でも大きな変化が起こりつつあった。やユークリッド幾何学の普遍的な体系やニュートン力学の決定論的世界像が非ユークリッド幾何学や新しい形式論理学、確率論的な不確定な世界像の出現によって疑われるようになった。

 それはニュートン力学を基礎づけることから生まれたカントの普遍妥当的な超越論的主観性が根柢から揺らぎはじめることを意味する。

 複数の幾何学や論理学の可能性は、必然的に知識に関する規約主義や相対主義、あるいは社会的観点からする知識論を生みだすことであろう。そして、唯一絶対の世界認識の担い手としての超越論的主観の否定は、認識や知識の担い手として、それまでにない主観像を必要とするであろう。認識が記号のシステムや幾何学の体系に相対的であるとしたら、その認識の担い手は誰なのだろうか。それは記号のシステムを共有する人々、具体的な認識の規約をシェアする社会的グループにほかならないのではないか。

 著者は新しい認識主体の探求が帰納主義と記号論という二つの軸に向かったことをミルとコントとパースを例に素描して総論を終えている。

「フランスの社会主義」 今村仁司

 この章ではエンゲルスによって「空想社会主義者」のレッテルを貼りつけられて(すくなくとも日本では)葬り去られた思想家をとりあげるが、著者は各論にはいる前に socialism の social とは society のことではなくラテン語の socialis(相互扶助)のことだと断っている。socialism とは「行為の面では相互扶助であり、組織の面では共同体主義」というわけだ。マルクス主義の登場以前は社会主義とは相互扶助しながら非資本主義的な共同生活を目指す思想を意味していた。

「サン=シモン」

 サン=シモンは伯爵で軍人だったが、啓蒙思想に傾倒しアメリカ独立戦争に参加。フランス革命期にはみずから爵位を捨てる。

 産業が社会をよくするという信念から科学者と産業者の共和国を建設することを説き、革命が一段落すると40代になっていたにもかかわらず理系の勉強をはじめる。人類の歴史は

  1. 神学的・軍事的段階
  2. 形而上学の段階
  3. 産業と事物の管理の段階

という三段階をたどり現在はまさに第三段階にさしかかったとする(三段解説はコントの三段解説に受け継がれる)。

 未来の社会は万人が産業で働き「各人はその能力に応じて、各人の能力はその仕事に応じて報酬を受けとる」ようになり、産業の時代という新時代が到来して普遍的調和が実現、世界はジュネーヴの世界議会によって統合されるようになる。

 科学技術によるユートピアであるが、晩年には科学技術だけでは対応できない人間の現実に気づき、社会が安定的に存続するためには人間の情念と想像力が不可欠だと考えるようになる。科学技術はもちろん必要だが、その上に芸術を置くようになり、想像力をもった芸術家が人類の進むべき方向を教えるというビジョンを説くようになる。

 もっともこうした面は後世には影響を残さなかった。サン=シモンが残した影響でもっとも重要なのは国家不要論だろう。事物の管理が自由な人間によって合理的に行われるなら国家は必要ないという考え方で、アナーキズムとマルクス主義の源泉の一つとなった。著者はサン=シモンはその後のあらゆる社会主義思想の「母胎」だったとしている。

「フーリエ」

 フーリエは1772年ブザンソンの裕福な商人の家に生まれた。フランス革命で家が没落し大商店に雇われて地方回りをするようになるが、地方とパリの価格差は商人の詐欺によるものと思いこみ、文明社会批判にまで過激化していく。

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