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2012年09月24日

『日本帝国の申し子』 エッカート (草思社)

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 著者のカーター・J・エッカートは朝鮮史を専門とするアメリカの歴史学者でハーバード大学コリアン・インスティチュート所長をつとめている。本書は韓国近代史の基本図書とされている本で、副題に「高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」とあるように、京城紡織株式会社をおこして大財閥となった高敞金氏の発展をたどりながら、韓国資本主義の起源が日本統治時代にあったことを立証した研究である。

 高敞金氏といっても日本ではなじみがないが紡績業で成功をおさめた民族資本家で、1939年には南満洲紡績会社を設立し、役員も技術者も三千人の職工もすべて朝鮮人の大工場を奉天近郊に建設するまでになった。ちなみに韓国三大紙の一つである東亜日報と名門私立大学として知られる高麗大學校は金一族が創立したものである。

 エッカートは朴正煕時代の韓国に平和部隊の一員として滞在し、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる目覚ましい経済発展を目にして朝鮮近代史を専攻することにしたという。

 韓国で通説となっていたのは朝鮮の資本主義の萌芽は17世紀に生まれたが、十分に成長する前に日韓併合によって富が収奪され、民族資本家の成長は1945年の解放まで抑圧されたとするもので、いわゆる李朝資本主義萌芽説である。歴史教科書は今でもこの立場から書かれている。

 だが実証的な歴史学の観点からすると李朝資本主義萌芽説の誤りは明白だ。まず商業の規模が小さすぎたこと。16世紀から17世紀にかけて商業の発達は見られたが、人口百万人の江戸のような大都市が生まれなかったために朝鮮の商人は三井や鴻池には遠くおよばなかったし、商業の発達が李朝の社会構造を変えることもなかった。

 また資本が蓄積しただけでは資本主義は生まれない。資本主義には工業技術の発達が不可欠だが、李朝時代には見られなかった。

 商人資本の蓄積は小規模だっただけでなく、開国の動きに乗れず衰退していった。李朝の商人というと六矣塵と貢人と呼ばれた京城の特権商人と人蔘貿易で財をなした開城商人が双璧だが、京城の特権商人は自国の白銅貨を貯めつづけたために1905年の貨幣改革で大打撃を受けた。開城商人は1898年以降人蔘が完全に政府の統制下におかれると没落した。

 朝鮮の資本主義の担い手となったのは商人ではなく地主だった。開国後、地主層は米の日本への輸出で大儲けをした。投資先となる工業が未発達だったので儲けは農地の買収にまわされ大地主が続々と誕生した。

 高敞金氏の成功の基礎を作った金堯莢もそうした地主の一人だった。彼は貧乏儒者の三男坊だったが、地主の鄭氏と結婚したおかげで湖南平野の小地主となった。米の集散地である茁浦と積出港である郡山港が近かったために米の輸出で財をなし、1924年には朝鮮で3番目に裕福な地主となった。金堯莢には性洙と秊洙という二人の息子がいたがともに日本に留学させ、性洙は早稲田大学政治経済学部を、秊洙は京都帝国大学経済学部を卒業した。

 金性洙は留学時代の友人で東京高等工業学校(現在の東工大)で紡績技術を学んだ李康賢の勧めで1917年に倒産寸前だった京城繊紐株式会社を買収し、これを母体に翌々年京城紡織株式会社(以下、京紡)を設立した。

 京紡は設備を近代化するために株式を募集したが、土地信仰が根強く最初の200万円の募集のところ1/4しか集まらなかった。株式の募集はその後もおこなわれたがはかばかしくなく、株式が全額払いこまれたのは会社設立の14年後のことだった。

 草創期の京紡を支えたのは総督府の補助金と朝鮮殖産銀行の融資だった。1922年総督府は日本資本で釜山に設立された朝鮮紡織株式会社(以下、朝紡)と同額の補助金を出すことを決めた。補助金は1934年までつづき、総額は1935年の払込資本の1/4を上回っていた。

 銀行融資については朝鮮系の7銀行は弱体で高額長期融資は不可能な状態だった。京紡に救いの手をさしのべたのは1918年に日朝共同経済開発のために設立された朝鮮殖産銀行で、ここは和信百貨店の朴興植にも融資している。頭取の有賀光豊について「有賀氏は我々の会社を日本の会社と同じように支援した」と京紡前会長の金容完が語った言葉が社史に残っている。

 技術についてはピアーズを凌駕していた豊田織機の織機を導入し、八木商店と伊藤忠が技術者を派遣した。新人は伊藤忠系の呉羽紡績で研修した。販売についても東洋綿花(三井物産)、八木商店、伊藤忠商事に依存していた。

 総督府が支援したといっても、京紡を日本の紡績会社のように育てるつもりはなかった。朝鮮人の会社はあくまで廉価品を製造する二流の企業にとどめるつもりだった。しかし廉価品に特化したことで京紡は満洲市場に乗りだすことができた。満洲では安価な厚手の布地がもとめられたからである。

 1937年に日支事変がはじまると京紡は軍需品でさらに巨額の利益を上げた。1936年と37年の純利益は半期で6万円程度だったが、38年の上半期には22万円、下半期には60万円と跳ね上がった。純利益は1939年にも増加の一途をたどり、40年下半期には70万円を超えた。1941年上半期には80万円の大台に乗り、終戦までこのレベルが維持された。

 京紡財閥は日本の軍需産業の一翼をになっていったわけだが、だからといって日本の傀儡というわけではなかった。京紡の株主には日本人もいたが、1945年には全26万株のうち日本人は5.6%を所有しているにすぎなかった。

 エッカートは京紡を中心にした日本統治時代の朝鮮の経済発展の研究を次のように要約している。

 植民地時代の歴史のなかで、朝鮮経済史の研究者の目を最も引くものは、植民地であったにも関わらず工業が著しい発展を遂げたという事実である。その次に印象的で、しかもより興味深い事実は、植民地下という状況にありながら、多くの朝鮮人がその工業発展に積極的な役割を果たしたという点である。これは趙自身がおこなった植民地時代の朝鮮人企業家に関する詳細な研究からも明らかだ(本人の意図とは異なるかもしれないが)。趙はそのような企業は日本帝国のシステムの外部で、それに対抗して発展した「民族資本」であると主張することで、大きな矛盾に陥るのをかろうじて避けている。だが、そのような議論は問題を解決するどころか、さらに多くの問題を提起するだけであり、しかもあとで見るように、実際に起こったこととは正反対なのである。

 京紡財閥は「漢江の奇跡」後の経済成長の波には乗れず二流の財閥にとどまったが、大財閥にのしあがっていったサムソン・グループの創業者の李秉喆、楽喜グループの創業者の具仁會も、現代グループの創業者の鄭周永も地主の息子で、日本統治時代に起業した経済人である。彼らは日本統治時代には中小企業の経営者にすぎなかったが、本格的な資本主義を体験し学んだ最初の世代だった。

 朝鮮の社会経済史という観点から見れば、彼らのような人物の出現は朝鮮資本家階級が成長したことを意味している。振り返ってみれば、植民地支配下の朝鮮は、こうした人々にとっての養成所であり、試練の場であったのである。

 妥当な見解だろう。

 エッカートは日本の植民地支配を美化するつもりはないと再三書いているが、韓国での反響は彼を当惑させるもので、完全な韓国語訳はいまだに出ていないという。困ったものである。

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