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2012年09月29日

『北朝鮮の軍事工業化』 木村光彦&安部桂司 (知泉書館)

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 李榮薫『大韓民国の物語』で知った本で「帝国の戦争から金日成の戦争へ」という副題がついている。

 日本は日中戦争継続のために朝鮮半島と満洲を兵站基地にしたが、特に現在の北朝鮮地域には多数の鉱山を開き最先端の重化学工業地帯を建設した。戦争には兵器と弾薬だけでなくさまざまな工業製品が必要だが、北朝鮮地域にはそれを供給する鉱山群と工場群があったのだ。日本本土の生産施設はアメリカ軍の爆撃で完膚無きまでに破壊されたが、北朝鮮地域の産業施設はソ連軍の手をへてそっくり金日成に引きわたされた。それは1945年時点では世界有数の規模であり、アジア最大級の生産力を誇っていた。

 だとしたら朝鮮戦争の準備には日本統治時代に構築された産業施設群が使われたのではないか。金日成が開戦に踏みきれたのは日本の遺産があったからではないか。

 まさにコロンブスの卵のような視点だが、これまでこういう研究がなかったのは植民地収奪論の呪縛が大きかったからだろう。

 本書は「前編 1910-1945年」と「後編 1945-1950年」にわかれる。

 前編は1945年8月時点で朝鮮半島に残されていた日本企業の資産目録である。日本の敗戦後、内務省は各企業に朝鮮に保有する資産の概要を報告させた。著者たちはその報告書と各企業の社史をもとに目録を作成した。専門家にとっては宝の山だろうが、素人にとっては無味乾燥なデータの集積なので途中で読むのを放棄した。ただ日本企業が厖大な資産と当時の先端技術を朝鮮半島に残してきたことは十分わかった。

 後編はそうした資産がどのように北朝鮮の手にわたり、朝鮮戦争の開戦準備にどう使われたかを考察している。未整理でデータをそのまま放りだしているような部分も多いが、それでも学術書とは思えない迫力で久々に興奮した。

 従来朝鮮戦争にはソ連の提供した兵器と軍需物資が使われたとされてきた。ソ連の供給はもちろん大きく、1949年3月に金日成とスターリンが締結した秘密軍事協定により空軍機192機、戦車173両、迫撃砲1300門などを保有するにいたり装備を飛躍的に強化したが、本書によるとソ連軍が撤退時に置いていった兵器もふくめてそれらはすべて有償だった。兵器供与は援助ではなく、ビジネスだったのだ。ソ連はドイツとの戦争で受けた損害から立ち直れておらず、アメリカと違って深刻な物資不足におちいっており、無償援助どころではなかった。

 秘密軍事協定に先立って1949年2月3日に金日成・朴憲永(副首相兼外相)から平壌駐箚ソ連大使に宛てた書簡に次のようにある。

 朝鮮政府はソ連から兵器、自動車、諸種の部品を得たい。その代価として鉄、非鉄金属と化学製品を供給する。また、工業再建と人民軍の装備のために3000万ドルの借款を要請する。その返済を1951年から3年間で行なう用意がある。

 金日成はスターリンが要求した武器の代価を飢餓輸出による米と日本企業の設備で生産された金、銀、鉄鋼、レアアース、ウラン鉱石、セメント、肥料等々で支払った。朝鮮戦争までに北朝鮮が日本の残した軍需工場で弾薬を自給できる体制をつくりあげていたことは知られていたが、戦争準備には平和産業も動員されていたのである。

 もっとも生産の再開には時間がかかった。朝鮮半島の生産設備はソ連参戦から敗戦までの一週間にソ連軍の爆撃や艦砲射撃を受けていたし、敗戦後の混乱の中で多くの施設が損傷をこうむっっていたからだ。

 独立後の北朝鮮政府は日本軍・日本人が逃亡の際に産業設備を破壊したと宣伝したが、ソ連軍の報告書によるとそうした例は稀である。

 ほぼすべての鉱山で坑道が浸水したのは電力や燃料の不足のためだし、溶鉱炉と平炉が使用不能になったのは突然の稼働停止で炉が冷却したためだ。北朝鮮地域で徴用されていた朝鮮人労務者は大部分が韓国地域の出身なので、日本の敗戦が伝わるとただちに帰郷をはじめ、設備のメンテナンスができなくなったことも損壊の原因となった。

 一部で軍が日本企業に設備の破壊を命じた例があるが、民間の日本人はむしろ工場を守ろうという姿勢を示し、命令を拒否したり操業を朝鮮人にまかせて設備の維持をはかった。自分たちが苦労して作り上げた施設を破壊するに忍びなかったのと後で罪にとわれることを恐れたためだろう。日本人による意図的な破壊といえるのはラジオ局や電信電話局、変電所くらいのようである。

 世界最大級の発電量を誇った水豊発電所の発電機と変圧器を解体して持ち去ったようにソ連軍による設備の略奪も一部であった。ソ連軍が組織的におこなったのはむしろ物資の略奪・徴発の方だった。1946年6月までにソ連軍は日本企業が生産貯蔵していた鉱工業製品8000トンあまりを「戦利品」としてウラジオストックに搬出している。

 ソ連軍司令部は軍政をはじめるにあたって朝鮮人を日本企業の工場の幹部にして操業を再開させた。当初ソ連は日本人幹部と技術者の立ち入りを禁じたが、技術者は不足しており、急遽呼び寄せられたソ連人技術者には知識不足(ソ連にはない最新の機械が使われていた)と日本語という壁があったので、日本人技術者を積極的に復帰させる方針に転換した。ソ連軍司令部は日本人技術者の登録を命じ1946年1月時点で平壌における登録者は2158名におよんだ。日本人技術者は日本帝国が朝鮮半島に残したもう一つの遺産だった。

 技術者はそれ以外の日本人よりは優遇されたが、優遇とはいってもどうにか食べていける程度だった。

 この状況の中で日本人技術者は、熱意をもって仕事に取組んだ。それは、従来の職場への愛着と事故の技術にたいする誇りがあったからである。また、新国家の建設に取組む周囲の朝鮮人への共感もあった。日本人技術者は1946年から1947年前半にかけて、もっとも活発に活動した。……中略……なかでも、多かったのは旧日窒興南工場と旧日本高周波城津工場で、それぞれ275人、101人であった。これ以外にも各地の中小工場で、おそらく相当数の日本人技術者が残留した。たとえば朝鮮塩化工業鎮南浦工場では、工場を接収した後、日本人の元工場長が1946年9月まで生産を指導した。建築部門では、平南・安州郡で日本人技術者が水利工事の指導にあたった。これは、戦時中に進行していた大規模な工事の延長であった。

 日本人技術者は工場の再建にあたっただけでなく朝鮮人技術者の教育や技術移転に従事した。

 1946年9月までに1034の主要事業所のうち80%が操業を再開したが、生産量の回復は部門によってばらつきがあった。綿布の生産は原料の綿花が自給できたので戦中より増加したくらいだが、重化学工業は原油やコークス炭が不足していたので稼働率が上がらなかった。

 1946年9月にソ連占領地域からの正式な日本人引揚げが合意されたが、技術者の多くは出国が許されなかった。非公式なルートで38度線を超える者も出たが、

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2012年09月28日

『知っていますか、朝鮮学校』 朴三石 (岩波ブックレット)

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 朝鮮学校に批判的な立場の『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』(以下、萩原・井沢本とする)だけでは片手落ちなので朝鮮学校側の本も読んでみた。著者の朴三石氏は朝鮮大学校授で無償化問題で論陣を張っている人である。

 本書も朝鮮学校無償化を訴える内容だが、「一部の教科書の部分的な記述をもって、学校全体を決め付けるという誤り」とあることからすると萩原・井沢本を意識した内容とみてよいだろう。

 全体は5章にわかれる。

  1. 事実を知ることの大切さ―学生の感想から考える
  2. 朝鮮学校で学ぶ生徒たち―日本の学校・地域社会との交流
  3. なぜ日本に朝鮮学校があるのか―在日朝鮮人と朝鮮学校の由来
  4. どのような教科書を使っているのか―反日教育でなく友好のための教育
  5. 朝鮮学校と日本社会―何をどうするべきか

 「1 事実を知ることの大切さ」では著者が関東地方の某大学で「朝鮮学校と日本社会」という講義をおこない、その後に学生が提出したレポートが紹介されている。受講した110人のうち講義の前から朝鮮学校を無償化の対象にすべきと考える学生は52%、講義を聴いてから無償化すべきと考えが変わった学生は44%、講義後も無償化に反対の学生は4%ということである。講義で在日朝鮮人の本当の歴史を知ったとか、「朝鮮人が日本で暮らすようになった経緯などを考えれば、むしろ優先して保護しなくてはならないのではないか」というような学生の文章が引用されている。いくつか否定的なものもあるが感激の声がほとんどで、健康食品の広告を読むような印象がなくはない。

 「2 朝鮮学校で学ぶ生徒たち」は朝鮮学校の課外活動や地域との交流が紹介され、笑顔の写真を多数掲載するなど朝鮮学校は明るく楽しい普通の学校だと強調した内容になっている。

 萩原・井沢本では現在の朝鮮学校在校生の韓国籍と朝鮮籍の比率は8:2としていたが、本書では「それぞれ半数を占めている」としている。地域によってある程度ばらつきはあるだろうが、8:2と5:5ではずいぶん違う。どちらが正しいのだろう。

 「3 なぜ日本に朝鮮学校があるのか」では朝鮮人が日本で暮らすようになった理由の説明で「日本による土地調査事業によって、朝鮮で土地を奪われた人びとが日本に移動しはじめ」と、おなじみの在日論が繰りかえされている。土地を奪ったのは日帝という印象を受けるが、よく読むと日帝とは書いていない。断言せずに印象づけているだけである。李榮薫『大韓民国の物語』のような最近の研究を意識したのだろうか。

 萩原・井沢本では朝鮮学校は在校生の実数を公表していないが、かつて3万5000人いたのが今は6900人くらいとしていた。本書では「全体で約一万人」としている。これもずいぶん開きがある。

 「4 どのような教科書を使っているのか」は全ページ数の3割を占めており萩原・井沢本に対する反論の中心部分である。著者は「朝鮮歴史」以外の科目は民族色が多少あるものの「日本社会と国際社会にかんする知識を幅広く扱っている」と繰りかえし強調している。

 問題の「朝鮮歴史」であるが、在日朝鮮人をとりまく環境を反映して数回にわたって内容が変化してきたとし、三期にわけて説明しているがこの説明が朦朧としている。

1945-54

「日本の植民地支配から解放された在日朝鮮人が解放の喜びを噛みしめつつ、在日朝鮮人の朝鮮史研究成果にもとづいて独自に啓蒙的な内容で編纂」と曖昧模糊とした書き方をしているが、要するに反日一辺倒ということだろうか。

1955-92

帰国事業と「朝鮮分断と冷戦状況」を強く反映したとあるが、「帰国」をうながすような記述と反韓国・反米帝の記述が多かったという意味だろうか。

1993-

日本永住を前提とした内容に変化し、「南北共同宣言」が出た2000年以降は「朝鮮分断の影響が大きかった現代史の記述を大幅に改め」とあるのは韓国攻撃を減らしたということだろうか。

 拉致問題に関しては2011年版から「「拉致問題」を極大化」という「誤解」をまねいた記述を削除したとある。括弧内の語句だけを削ったのか、萩原・井沢本の書評に引用した拉致問題の記述全体を削ったのかははっきりしないが、「朝鮮学校の教科書に「拉致問題」の記述がないからといって、朝鮮学校でこの問題について教えていないということではない」とあることからすると拉致に関する記述全体を削ったのかもしれない。「さまざまな資料を使いながら教えている」とあるが、それならなぜ教科書に金正日が謝罪したと書かないのだろうか。朝鮮学校の教科書は日本の編纂委員会の独自の判断で自由に改訂できるということだが、それが本当なら加筆は簡単なはずである。

 なお朝鮮戦争は韓国からしかけたとする記述と大韓航空機爆破事件が韓国の謀略だとする記述、教科書が秘密文書あつかいされているという点については何もふれていない。

 「5 朝鮮学校と日本社会」では朝鮮学校の無償化は「日本人自身の問題」として無償化を切実に訴えている。

 読んだ印象では朝鮮学校無償化をソフトムードで訴えた政治的パンフレットである。朝鮮学校では反日教育などしていない、普通の教育をしていると繰りかえしているが、肝心な話になると曖昧模糊としてしまう。これでは説得力があるとはいえないだろう。

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『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』 萩原遼&井沢元彦 (祥伝社新書)

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 韓国の歴史教科書を読んだので北朝鮮のも読んでみようと思ったが、邦訳は「星への歩み出版」から出ているものの書店ルートでは流通しておらず、ホームページもないので(ブログはあるが放置状態)、通信販売で買うしかない。昔ながらの通販はおっくうなので代りに本書を読んだ。

 驚いたのであるが朝鮮学校の教科書は秘密文書あつかいで、外部に見せてはいけないのだそうである。教科書には名前を書かせ、貸与ではないのに使い終わったら返却することになっているというから念がいっている(本当だろうか?!)。

 翻訳したのは「朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会」で、朝鮮学校の荒唐無稽な教育内容を広く知らせるために協力者を通じて入手した原本を図版にいたるまで忠実に再現したという。邦訳は無償化問題に関心をもつ国会議員に配り国会の論議に影響をあたえたらしい。

 意外にも訳本は当の朝鮮学校の生徒がこっそり買う例が多いそうである。朝鮮学校に通っているといってもハングル文がすらすら読めるわけではなく予習に時間をかけなければならないが、翻訳を読めば簡単に済むわけだ。

 本書は「専門家の会」で中心的な役割をはたした萩原遼氏と『逆説の日本史』シリーズで知られる井沢元彦氏が朝鮮学校の実態と問題点、さらには北朝鮮がなぜあんな国家になってしまったかを語りあった対談で、随所に教科書の引用がある。

 日帝との最後の決戦のための準備が、着々と推進されていた時期の1942年2月16日、敬愛する金正日将軍様におかれては白頭山密営で誕生された。
 朝鮮人民革命の軍隊員たちは、木や岩などに「あぁ、朝鮮よ! 同胞たちよ! 白頭光明星の誕生をここに知らせる!」、「2千万同胞よ! 白頭山に白頭光明星が独立天出竜馬に乗って出現した!」などの文字を彫りこみ、将軍様の誕生を知らせた。

 朝鮮戦争を起こしたのももちろん韓国側と明記されている。

 米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争へと拡大した。
 共和国政府はただちに李承晩「政府」へ戦争行為を中止することを要求し、もしも信仰をやめないときには決定的な対策をとることを警告した。しかし敵は戦争の炎を引きつづき拡大した。
 6月25日共和国に作りだされた厳重な事態と関連して朝鮮労働党中央委員会政治委員会が招集され、ついで共和国内閣非常会議が開かれた。
 敬愛する金日成主席様におかれては、会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国のやつらに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反攻撃にうつるよう命令をお下しになった。

 大韓航空機爆破事件は「南朝鮮旅客機失踪事件」と単なる事故あつかいし、次のように書いている。

 南朝鮮当局はこの事件を「北朝鮮工作員金賢姫」が引き起こしたとでっち上げ、大々的な「反共和国」騒動をくり広げ、その女を第13代「大統領選挙」の前日に南朝鮮に移送することによって盧泰愚「当選」に有利な環境を整えた。

 原因不明の失踪事件を利用した韓国側の謀略だと言いたいらしい。

 あきれることだらけだが日本人拉致問題のあつかいもひどい。何の前置きも説明もなく、もちろん金正日が拉致を認めたとの記述もなく、次の条が突然登場するだけだという。

 2002年9月、朝日平壌宣言発表以後、日本当局は「拉致問題」を極大化し、反共和国、反総連、反朝鮮人騒動を大々的にくり広げることによって、日本社会に極端な民族排他主義的な雰囲気が作りだされていった。

 期待にたがわぬトンデモぶりだが、こんな嘘八百を暗記しなければならない朝鮮学校の生徒も哀れである。北朝鮮なら集団妄想の中で暮らせるが、日本に住んでいたら将軍様がイルクーツク生まれで、朝鮮戦争が北の奇襲攻撃ではじまった等々の事実は嫌でも耳にはいってくるだろう。敬愛する将軍様が拉致問題で謝罪した事実からだって逃げられない。

 教科書の通りに答案に書かないと進級できないのはもちろん、授業内容に疑問を呈すると教師から殴る蹴るの制裁を受けるのだそうである。事実だとしたらとんでもないことだ。子供の人権に敏感なはずの人権団体はなぜ黙っているのだろう。

 朝鮮学校の卒業生や父兄の一部が「朝鮮学校教育の抜本的改善を求める総連への要望書」を1998年に出したが(民団新聞の記事)、そこには「二重人格をつくるのは子どもたちがあまりにもかわいそうだ」と書かれているそうである。

 朝鮮系の人は教育熱心で、子供に公認会計士や弁護士などの食べていける資格をとらせるために夜は塾にいかせ、日本の大学に入るための受験勉強をさせている家庭が多いという。

 それくらいなら朝鮮学校に通わせなければいいではないかと誰しも思うところだが、帰国事業で親族を人質にとられていて朝鮮学校に入学させろと要求されると断れないとのことである。朝鮮学校の閉鎖を一番望んでいるのは朝鮮学校に子供を通わせている父兄だというのは案外あたっているのかもしれない。

 本書は厳しく朝鮮学校を批判しているが、最近出た朴三石氏の『知っていますか、朝鮮学校』(岩波ブックレット)は本書をかなり意識した内容になっており、本書に対する朝鮮学校側からの反論と読むこともできるだろう。

 なお対談の最初の部分では萩原氏が朝鮮戦争時にアメリカ軍が鹵獲した厖大な文書をもとにまとめた『朝鮮戦争』執筆の裏話が語られていて興味深い。同書も必読である。

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2012年09月27日

『韓国近現代の歴史 検定韓国近現代史教科書』 三橋広夫訳 (明石書店)

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 韓国の高校では一年の時に必修の「国史」を教え、二、三年では「深化選択科目」の「近現代史」を週に4時間かけてみっちり学習させる。教科書も『高等学校国定国史』と『検定韓国近現代史教科書』にわかれている。本書は選択科目の方の教科書である。

 「近現代史」の教科書は検定なので6社から出ているが、本書は大韓教科書社版の翻訳で、韓哲昊、金基承、金仁基、趙王鎬四氏の共著である。原本はB5版多色刷だが邦訳はA4版単色刷である。

 本文の半分以上が「資料」となっており、何番と何番の「資料」をもとに課題を考えさせるという授業の進め方を想定しているようである。ハングルなので資料と史料の区別がつかないにしてもここは「史料」と訳すべきではないかと思ったが、途中で「資料」とした理由がわかった。日本の教科書は「史料」として一次史料の抜粋を載せているが、この教科書の「資料」項目のうち一次史料の抜粋は半分足らずで、残りの項目は教科書著者の見解なのである。「資料」をもとに考えようというが、日本の学校の「史料をもとに考えよう」とは意味が違うのだ。

 さて全体は通史になっていて四部にわかれる。

 「Ⅰ 韓国近現代史の理解」は総論で李朝末期に庶民経済が発展し、両班が君臨する身分秩序がこわれて資本主義の自発的な発展がはじまろうとしていたが、日帝が侵略して自発的近代化を抑圧してしまった。日帝に対し朝鮮民衆は独立運動で戦ったとあるが、みずからの手で独立を勝ちとったとはさすがに書いていない。独立後の経済発展については朴政権の開発独裁の是非を考えようと締めくくっている。

 「Ⅱ 近代社会の展開」は欧米列強の圧迫から大韓帝国成立までだが、日清戦争(韓国では清日戦争)の結果清から棚ぼたで独立したという経緯は『国定国史』同様まったく書かれていない。

 ここでも日清戦争は腫物あつかいで、できるだけふれないように細心の注意をもってあつかあれている。したがって日清戦争が朝鮮半島を戦場に戦われたという事実すら本文には出てこない(挿図の説明には「平壌戦闘」という語句があるが)。他では日帝の悪を執拗に糾弾しているのに日清戦争で国土を蹂躙された件についてはなぜか口をつぐんでいる。

 日清戦争がとりあげられるのはあくまで日本と清の近代化の差という文脈という文脈においてにすぎない。

 清と日本は西洋帝国主義列強の強要によって開国した後、富国強兵のために努力した。しかし両国が選択した道は上の絵[引用者注:下関講和会議の図]に見られる両国役人の服装のようにずいぶん異なり、選択の結果は清日戦争で決着がついた。この戦争は他の国々の予想と違って日本の勝利で終わった。清は日本に領土の一部を割譲し、賠償金を与えるなど、屈辱的な条件で講和条約を結ぶほかなかった(1895)。

 まったくの他人事ではないか。課題としてなぜ清が近代化できなかったか考えてみようとあるが、その前に考えることはいくらでもあるだろう。

 そもそも日清戦争と朝鮮の独立の間に因果関係があることすら伏せられている。朝鮮の清からの独立は下関条約第一条の「清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」という条項によるが、下関条約は「資料」として引用されていないだけでなく、年表で二ヶ所、日清戦争の部分で一ヶ所、甲午改革の背景説明で一ヶ所軽く言及されるにすぎない。

 なにかと話題の独立門の説明を見てみよう。さすがに日本から独立した記念に独立門を作ったとまでは書いていないが、写真の説明に「清の使節を迎えていた迎恩門を壊して」とあるのみで清から独立したという記述ははない。

 独立協会は「朝鮮が独立していることを世界に広め、また朝鮮の後世にもこのとき朝鮮が永遠に独立したことを伝えようという印」(『独立新聞』、1896.7.4)として独立門の建設を推し進めた。

 元の記事には清の冊封体制からの独立と書かれている可能性があると思うが(御教示を請う)、こういう切りとり方をすると朝鮮はずっと独立していたのに諸外国が誤解しているので誤解を知らせるために独立門を作ったと錯覚しかねないだろう。

 日本統治の条では『大韓民国の物語』で批判されていた通りの植民地収奪論が繰りかえされていて笑ってしまった。

 ハングルに関しては案の定日本が研究と普及を妨害したことになっている。よくもまあここまで嘘が書けるものだ。

 『国定国史』より詳しいだけにロシアの領土的野心にはふれられているが、ソ連の悪については曖昧にしか書かれていない。赤軍に編入された洪範図が「多くの同胞たち」とともにカザフスタンに強制移住させられたとはあるが、ソ連極東地区の5万人の朝鮮人が強制移住させられたとは書いていない。ソ連について書くと日帝の悪がかすんでしまうだろうか。

 「深化学習」ということだが、雑学的な知識がけっこう入っている。たとえば黒船(韓国では異様船)に対抗して作った鶴羽船は哀れをもよおす。これでは近代化は夢のまた夢だ。

 11年前に出た勝岡寛次氏の『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(絶版)という本があるが、本書でも基本的な部分では変わっていないことを確認した。勝岡氏の指摘は第七次でもおおむねその通りであるが、東アジアをめぐる列強のパワーゲームという視点がまったく欠落し、朝鮮民衆の反日運動で全世界が動いているかのような近視眼的な記述の異様さは現物を読んでみないとわからない。夜郎自大とはこのことだ。歴史を知らないのは韓国人の方である。

 こんな売れそうもない本を出版しただけでもすごいが、明石書店の「世界の教科書シリーズ」にはもっと売れそうもない国の教科書まではいっている。明石書店の心意気に敬意を表して以下に一覧を掲げておく。

世界の教科書シリーズ

中国小学校歴史
中学校歴史
高校歴史
韓国中学校歴史
放送大学歴史
ベトナム中学校歴史
タイ高校社会
チベット中学校歴史
ブータン小中学校歴史
イラン高校国定宗教
(シーア派イスラム教)
ロシア沿海地方高校歴史
中学・高校歴史 上
中学・高校歴史 下
ドイツ・
フランス
共通歴史教科書
ドイツ高校現代史
フランス高校近現代史
英国中学校歴史
イタリア高校現代史
スイス高校現代史
ポーランド高校現代史
フィンランド中学校近現代史
中学校社会
メキシコ高校歴史
キューバ中学校歴史
コスタリカ高校歴史
ブラジル高校歴史

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『韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史』 三橋広夫訳 (明石書店)

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 昨今なにかと話題の韓国の歴史教科書を読んでみた。高校一年で必修で教える「国史」の『高等学校国定国史』と、高校二、三年で「深化選択科目」として教える「韓国近現代史」の『検定韓国近現代史教科書』である。どちらも明石書店の「世界の教科書シリーズ」から出ている。

 このシリーズからはチベットの中学校歴史教科書、イランの高校国定宗教教科書(シーア派イスラム教)、ドイツ・フランスの共通歴史教科書など、へーというような外国の教科書がたくさん出ている。タイトルを眺めるだけでも面白いので一覧を『検定韓国近現代史教科書』の書評の方に載せておいた。

 『国史』が国定(一種類しかない)で『近現代史』が検定(複数種ある)なのは前者が必修科目で後者が選択科目だからだが、2013年からは必修科目も検定に移行するとのことである。

 まずは『高等学校国定国史』であるが、2003年に改訂された第七次教育課程の高校用韓国史の教科書である。国定なので著者名はない。原本はB5版433ページの多色刷だが、邦訳はA5版458ページの単色刷である。本文が完訳されているかどうかは記載がないが、図版はかなり抜けているだろうと思われる。

 まず目を引くのは先史時代以降は政治史・経済史・社会史・文化史にわけた分野別史になっている点だ。第六次までは通史だったのに第七次から分野別史にかわったが、現場の教師からは教えにくいと不満が出ているそうである。確かに分野ごとに分断されていると時代の全体像がとらえにくいだろう。

 韓国では「近現代史」を選択しない生徒にも近現代史をきちんと教えろという異議が出て「国史」の近現代史部分が増やされたというから、あるいは文化史を学ばない生徒が出ても仕方ないが近現代史を学ばない生徒は出ないようにという狙いがあるのかもしれない。

 以下に各章の内容とページ数を示す。

内容頁数
はじめに14
先史時代27
政治史96
経済史64
社会史60
文化史89

 付録として各王朝の系譜(高句麗・百済・新羅、渤海(!)、高麗、朝鮮)、歴代年号(渤海や後高句麗、高麗末期の地方政権の大為を含む)、爵位・官職表、六十干支、領土の変遷、韓国の世界遺産、文化財の分布状況、古代遺跡の想像図、1948年から63年までのニュース写真、年表、新旧地名の対照表、写真資料・引用文件一覧、韓国史関係のリンク集がつく。

 興味深いのは歴代年号で、よく見ると存在しない期間が長いのである。たとえば新羅は935年までつづいたが、650年までの太和を最後に年号がない。唐の属国になり宗主国の年号を使わなければならなくなったからだが、そのことは明示されてはいない。高麗も最初の45年間はあるが、それ以降がない。李氏朝鮮は建国以来500年間独自の年号がなく、大韓帝国として中国から独立してからようやく年号をもつようになる。

 独自の年号を持てなかったことを隠すためかどうかは知らないが、本文は西暦で統一されている(史料には一部中国の年号が混じることがある)。

 先史時代は石器時代から紀元前1世紀までだが、古朝鮮のうち壇君朝鮮と衛氏朝鮮は出てくるのに箕氏朝鮮が出てこない。殷の王族である箕氏が周の武王によって朝鮮に封じられ紀元前1122年に建国した箕氏朝鮮は中国の正史である『三国志』に記載されていることもあって、高麗時代や李朝時代は朝鮮の祖として壇君以上にあがめられていたということであるが、その記述がまったくないのである。箕氏は伝説的存在ではあるが、それをいうなら紀元前2333年に建国されたとされる壇君朝鮮の方がはるかに伝説度が高い。

 漢の武帝が設けた漢四郡も出てこないし、日本人にも受験でおなじみの楽浪郡は高句麗が「楽浪郡の勢力を完全に追い出した」という条で突然出てくる。「漢は領土を拡大した」という文はあるものの、その領土が朝鮮半島北部を含んでいたという事実は巧妙に避けられている。トンデモとまではいわないが、つっこみどころ満載である。

 高句麗・新羅・百済の三国時代以降は分野別史になるが、新羅滅亡までが古代、高麗が中世、李氏朝鮮が近世、開国以降が近現代という区分である。

 古代の政治史は新羅の三国統一と渤海の隆盛が中心である。韓国の考え方だと南の新羅、北の渤海と南北分立していたことになる。単元の末尾に「深化課程」というコーナーがあるが、その一つに「渤海がわが民族の国家であることを証明できる根拠を資料から調べてみよう」とある。渤海には相当ご執心のようだ。

 中世の政治史は半分以上が北からの脅威の話だ。契丹、女真は撃退したが、元とは「講和」したとある。元から明への交代期に王位にあった恭愍王は政治改革を断行して権門勢族に代わる新士大夫を引きあげ王権の強化をはかったが、改革は失敗に終わった。李成桂は恭愍王の改革を引き継ぐために軍事的実権を握り、李氏朝鮮を建国したという書き方がしてある。実際は明に服属することによって王朝の簒奪を認めてもらい、朝鮮という国号まで明に下賜していただいたわけであるが、そういうことは一切書いていない。これでは中国と朝鮮が対等の関係だったという誤解が生まれるのは仕方がないだろう。

 さて近現代史である。日本が悪玉で登場するのは予想通りだが、おやおやと思ったのはロシアが正義の味方のように見えてくることである。ロシアは朝鮮を植民地化しようとしていたわけだが、ロシアの領土的野心は「日帝は第1次英日同盟を締結して国際的立場を強化した後、韓半島の支配権をめぐってロシアを先制攻撃して戦争を引き起こした」という文でわずかに暗示されるだけだ。通して読んでみるとロシアは領土的野心なしに可哀想な朝鮮を助けてくれたが、日帝は朝鮮の支配権を確立するために朝鮮を庇うロシアをだまし討ちしたというような印象をもってしまう。日露戦争でロシアが勝っていたら韓国は日本統治とは較べものにならない過酷な植民地統治にあえぎ革命後は東欧諸国のような悲劇を体験し、第二次大戦後も近代化は夢のまた夢だったはずだが、この教科書からはそうした現実はまったく見えてこない。

 清からの独立という事実がぼかされている点は勝岡寛次氏の『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』(絶版)などでさんざん指摘されてきたが、日清戦争そのものがぼかされていたのにはびっくりした。韓国の独立を決定した下関条約まで出てこないのである。

 本書で日清戦争が言及されるのは本文3箇所、年表1箇所で本文は政治史、経済史、文化史が各1箇所である。文化史は日清戦争後の風俗の変化についてふれた部分なので割愛し政治史と経済史の当該部分を引用しよう。

 まず政治史。開国後「日本の経済的侵入」によって農民層の不安・不満が高まり東学党の反乱(韓国では東学農民運動)が起こったという文脈で次のように出てくる。

 しかし日本軍が清日戦争を引き起こし、内政に干渉すると、農民軍は再び蜂起して外勢を追い出すためにソウルに進撃した。

 これだけなのである。信じられない人は現物を見てほしい。

 朝鮮の植民地化がどのような国際情勢の中でなされたかを知るためには日清戦争と下関条約の知識は不可欠である。それなのに韓国の国定教科書(すべての高校生はこの教科書を教えこまれる)では日清戦争は腫物あつかいで、できるだけ降れないでやりすごそうとしているのだ。

 経済史ではこうだ。

 清と日本は政治・軍事的な威嚇を両用し、自国商人を保護し、経済的利権を奪い取っていった。壬午軍反乱直後、清は不平等条約を強要して外国商人がソウルに店舗を開き、国内各地を行き来しながら営業できる道を開いた。日本は清日戦争を挑発し、鉄道敷設件など利権奪取を率先して行なった。

 不平等条約を結ぶまでは清と朝鮮が対等の関係だったかのようではないか。

 日本の統治政策批判や大韓民国臨時政府がまるで国際的に承認されているかのような書き方、韓国独立の経緯、李承晩に対する低評価は李榮薫氏の『大韓民国の物語』にある通りである。朝鮮戦争(韓国では6・25戦争)については半ページ足らずしか書いていない。

 北朝鮮の政治経済についてはこの教科書から書くようになったということだが、1ページくらいしか割いていない。北朝鮮の工業施設はソ連と中国の援助によるとあるだけで、日本時代の厖大な生産施設を受け継いだとは一言も書いていない。

 文化史では「日本に渡ったわが国の文化」としてわざわざ2ページ割いている。ハングルは1ページだが、創製にあたって多くの貴族が反対した事実やハングルを弾圧した時代が長くつづきハングル文献の焚書がおこなわれたという事実は書かれていない。

 歴史教科書というものは本書の巻頭にもあるように「民族のアイデンティティーを涵養する」ためのものであるから、事実の取捨選択や視点にある程度の偏りがあるのは当然である。しかし歴代の朝鮮王朝が中華帝国の属国でありつづけた事実を曖昧にし、ロシアの脅威を教えないのはいかがなものか。こういう本を教科書にして何を教えるのだろうか。

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2012年09月26日

『世宗大王のコリア史』 片野次雄 (彩流社)

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 最近は韓流ドラマの主人公になり日本でも知名度の上がっている李朝第四代世宗を事績を紹介する歴史読物である。本書は1985年に誠文堂新光社から出た本の再刊で別に韓流ドラマの流行にあてこんで書かれたわけではないが、巻末に網谷雅幸氏の「韓流ドラマに見る世宗大王」というエッセイに追加されている。

 著者の片野次雄氏は朝鮮史関係の読物をたくさん書いている人で、1995年に著述を通して日韓友好に寄与した功により韓国政府から感謝状を授与されたよしである。

 副題に「ハングル創製と李朝文化」とあるのでハングルについて詳しく書いてあるのかと期待したが、倭寇討伐、銅活字の改良、出版事業、火砲の改良、天文観測、ソウル造営といった世宗の事績にそれぞれ一章をあてており、ハングルもその一つとしてとりあげているにすぎない(一番詳しく力がこもっているのは火砲の改良と倭寇討伐)。

 世宗は李成桂の高麗簒奪から30年たって李朝朝鮮がようやく安定してきた頃に即位した王である。在位は32年におよび日本でいうと足利義持から義政までの時代に王位にあった。建州女真の征服や日本への通信使派遣など積極的な対外政策をとったこと、多彩な文化事業を起こしたことを考えれば世宗が即位した年に没した足利義満が近いかもしれない。

 世宗が日本との外交に積極的だったのは倭寇対策もあったが、銅を必要としていたという理由が大きい。銅活字を新鋳するにも、天文観測機器を作るにも、貨幣を鋳造するにも日本の良質な銅が必要だったのだ。国内でも銅鉱山を探させたが大した量は出ず、日本銅への依存がつづいた。

 韓国料理では器も箸も真鍮製だが、そのはじまりは世宗の頃にあったらしい。

 両班とよばれる貴族階層の者たちは、日常の生活用具に、真鍮の製品を使うことを、大いなる見栄とした。逆にいえば、真鍮製品の使用こそ、両班の誇りでもあった。
 たとえば両班たちは、飯椀、汁椀、器、皿、箸、匙などに、しきりに銀製品をつかいたがった。しかし純銀づくりの日用品は、あまりにも高価すぎた。そこで両班たちは、見た眼には銀製品に酷似して、しかもさびにくい真鍮製品を珍重した。

 本書は歴史読物だが銅活字の製法や活版印刷の工夫、硝石の製法、火砲の改良など技術面の解説が多く、出版史や科学史に興味のある人は楽しく読めるだろう。

 韓国の文献を参照しているだけに韓国流の歴史解釈がかなりはいりこんでいる印象があるが、李朝が明の属国であり対等ではなかったことはやんわりした表現ながら明記しているし、ハングル創製に貴族の頑強な反対があったことにもふれている。

 もっとも世宗が仏教を弾圧して朝鮮仏教に致命的な打撃をあたえたことは書いていないし、経典一巻を印刷するのに版木が5~6千枚も必要だとか、高麗大蔵経の最初の版木を焼いたのは倭寇といった筆のすべった箇所が散見する。

 学術書ではないのだから厳密性を要求してもはじまらないが、不案内な分野だけにこういう箇所を見ると心配になってくる。あくまで肩のこらない歴史読物して読めばいいだろう。

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2012年09月25日

『大韓民国の物語』 李榮薫 (文藝春秋)

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 韓国で2006年に日本とアメリカの研究者も参加した『解放前後史の再認識』(以下『再認識』)という論集が出版された。専門的な学術書だったが、実証的な研究にもとづいて従来の通説、特に日本の植民地支配によって韓国の近代化が抑圧されたとする植民地収奪論をくつがえす内容だったので大きな話題になった。本書はその内容を編者で韓国歴史学界の新しい潮流を代表する李榮薫氏がラジオで一週間紹介した原稿をもとに書き下ろした本である。ラジオ放送がもとだけに語り口は平明で随所に小説や詩、流行歌を引用しており、お堅い内容にもかかわらず韓国では異例のベストセラーになったという。

 『大韓民国の物語』という表題は大韓民国という国家の正統性を確認しようという意味あいがある。韓国では大韓民国は間違って建国された国家で、北朝鮮こそが正統な国家だとする左翼史観がいまだに横行しており、歴史教科書にまで影響をおよぼしている。

 大韓民国否定説を決定的にしたのは1979年から10年がかりで刊行された『解放前後史の認識』(以下『認識』)という全6巻の論集だった。あわせて百万部も売れ、いわゆる386世代の歴史認識を決定したという。盧武鉉前大統領も何度も繰りかえし読んだと語っているよし。『再認識』はこの『認識』で広まった通説を覆そうという趣旨で刊行された。

 大韓民国否定説がどのようなものか、李榮薫氏は次のように要約している。

 日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽ったというのです。そして、そのような反民族的な勢力を代表する政治家こそ、初代大統領の李承晩であるというのです。

 これを読んでははあと思う読者は多いだろう。韓国の執拗な反日攻撃の根には韓国内の対立があるのである。

 李承晩が批判されているのは主に農地改革を妨害したとされる点である。韓国でも日本と同じような農地改革が第二次大戦後におこなわれたが、通説では李承晩は農地改革法案の成立を遅らせ、その間に地主は法外な値段で土地を小作農に買わせた。法案成立前に小作農が買わされた土地は農地改革の対象となる土地の半分以上におよんだ。そもそも北朝鮮では地主からとりあげた土地を無償で人民にわけあたえたのに、李承晩は小作農から金をとった、云々。

 意外なことに韓国では農地改革問題は朝鮮戦争の位置づけに直結している。『認識』に大きな影響をあたえたブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』(1981)によれば植民地時代からはじまっていた貧農の革命的要求は日本の敗戦後に激化し、各地で紛争が頻発した。アメリカ軍政は地主側の肩を持ち、農地改革を妨害したが、革命勢力は1946年の大邱暴動、49年の済州島と麗水、順天の反乱、さらには各地のゲリラ活動で抵抗した。朝鮮戦争はこうした階級闘争の一環だから、最初に侵攻したのが南北どちらは問題ではないというわけだ。

 1970年代には朝鮮戦争は北朝鮮からしかけたという証拠がそろい、韓国の北侵ではじまったとする左翼の捏造史観が崩壊しかけていたから、カミングスの「修生説」は大歓迎され、韓国歴史学界を席巻した。『認識』はそうした背景でつくられた論集なのである。

 李承晩が農地改革を遅らせたというのは誤りだ。李承晩は当初こそ地主を基盤とする韓民党を頼っていたが、独裁権を握ると大衆的基盤を固めるために地主層を切り捨て農地改革を積極的に進めた。1949年3月の国会に上程された改革案では農民負担額は平年収穫高の300%となっていたが、無理矢理150%に引き下げさせた。反共主義者で国家の強制という形を嫌った李承晩は法案をちらつかせて地主層に圧力をかけ、自主売買で小作農に土地を売るように仕向けたが、自主売買の価格は法定価格より低いのが一般的だった。

 農地改革が成功したことを何よりも物語るのは北朝鮮侵攻時に農民蜂起が起こらなかったことだ。金日成は北朝鮮軍がソウルを占領すればアメリカ帝国主義に虐げられた小作農が各地で蜂起し、韓国という国家は一挙に崩壊すると信じ、スターリンや毛沢東にもそう請け合っていたが、その目論見は完全にはずれた。全耕地の96%が自作農の私有財産になっていたからだ。むしろ哀れなのは北朝鮮の農民だ。無償で土地を分配されたものの、すぐに国家にとりあげられ、農業集団化が強行されたからだ。

 農地については日本統治時代朝鮮総督府が土地調査を口実に40%の農地を強奪し、日本からの移民に安くわけあたえ日本人地主を大量に誕生させたという土地収奪神話がある。

 この説は比較的新しく1950年代に生まれた。最初に主張したのは李在茂で農民が所有観念が希薄で申告という手続に不慣れなことにつけこみ、総督府は期限を設けることで大量の無届地が出るようにしむけ、その無届地を国有地にして日本人や東拓に廉価で払い下げたとするものだ。この説は1962年に一部の中学用国史教科書に採用されたが、1974年に教科書が検定から国定になった際すべての教科書に載るようになり40%収奪説が定説化してしまった。それに輪をかけたのが歴史小説である。1994年から刊行のはじまった趙廷来の『アリラン』シリーズは土地調査事業の時代を舞台にしており、朝鮮人買弁が日本人巡査と結託して愚かな農民から土地を奪い、抵抗する農民を日本人巡査が即決で銃殺するストーリーだった。

 教科書に載るほどの説なのに学術書が出たのは1982年の慎鏞廈『朝鮮土地調査事業研究』が最初だった。慎氏は「片手にピストルを、もう片手には測量器を抱えて」という扇情的な表現で土地調査事業を批判したが、とりあげられた事例は1918年出版の土地調査事業の報告書からとったもので、紛争当事者の主張を中立的に紹介した原本を、ことごとく国有地と判定されたかのようにねじまげて紹介していた。

 しかし同書の出版に前後して土地調査事業の文書が大量に発見され、実証的な研究がはじまった。李榮薫氏はこの研究を主導した人でその成果を本書で次のように要約している。

 結論的にいえば、総督府は国有地をめぐる紛争の審査においては公正であり、さらには、既存の国有地であっても民有である根拠がある程度証明されれば、これを民有地に転換するという判定を下すのに吝かではありませんでした。そのような紛争を経たのち、残った国有地は全国の四千八百四万町歩の土地の中で十二・七万町歩に過ぎませんでした。それすら大部分は一九二四年までは日本の移民に対してではなく、朝鮮人の古くからの小作農に有利な条件で払い下げられていました。

 そもそも農民の土地の所有観念が希薄だという前提が誤りだった。17世紀には土地私有が事実上認められており、李朝末期には所有観念が成熟していた。総督府の近代的所有権制度が受けいれられ、後の近代化につながったのは所有観念の成熟があったからである。手続に不慣れというのも事実とは違った。農民は三年に一度戸籍を申告しなければならなかったので手続には慣れていた。

 実証的な研究が出たので歴史学の世界では根拠のない土地収奪説は下火になるが、歴史教科書はあいかわらず40%収奪説を載せつづけているという。

 韓国では日本の植民地支配は世界に類を見ないほど過酷で暴力的だったとしているが軍隊が出てきたのは三・一独立運動だけである。日本人人口は最大でも75万人で全人口の2.7%にすぎない。大部分は都市と港湾部に居住し、内陸部では駅の近くに住んだ。農村部では村に5~6人で駐在所の巡査と小学校の校長、教師、水利組合と金融組合の職員くらいである。

 日本の植民地統治は多数の朝鮮人テクノクラートに依存していた。日本の敗戦が伝わると慶尚道の両班村では歓声が上がったが、平民の村は静寂だったという話が紹介されている。李朝時代に差別されていた平安道でも同様の光景が見られたという。

 日本の植民地支配を歓迎する人々がいたのは総督府が身分制度を解体し両班支配を終わらせたからである。1909年に戸籍を作るにあたり賤民とされた白丁も姓と本貫を持つようになり子弟を学校に通わせるようになる。両班は自分たちの子供が通う学校に白丁の子供を通わせることに対して反対運動をはじめたがすぐに鎮圧された。

 総督府に協力したのは代々郡県の行政実務を担当してきた衙前や中人という中間層である。彼らは文字が読め計算ができたが、社会進出には限界があった。1876年の開港後、そうした層から商人や地主になって経済的に成功をおさめる者が出てきた。日本時代の農村は彼ら新興地主が支配し両班層は適応できずに衰退した。

 さて慰安婦問題である。著者は慰安婦をアメリカ兵相手の公娼と同一視したとして世論の吊るし上げを受けたことがあるそうだが、挺身隊は慰安婦ではないと断言し挺身隊=慰安婦という通念が形成された経緯をたどっている。挺身隊が募集された1944年当時から一部では混同があったが一部にとどまり、1960年頃までは挺身隊=慰安婦という集団的記憶は成立していなかったという。しかし大衆小説などを通じて挺身隊=慰安婦の同一視がしだいに広まり、1991年に自分は慰安婦だったと名乗り出た女性が登場したことから一気に社会通念になったとしている。

 著者はマスコミの影響には言及しているが、挺身隊=慰安婦と報じた1991年8月の朝日新聞の「誤報」というか捏造報道についてはふれていない。池田信夫氏が「慰安婦について調査委員会を設置せよ」などで再三指摘しているように朝日新聞の関与は重大だが、せめて訳書ではふれるべきではなかったか。

 著者は行政ルートで慰安婦が募集・動員されることはなかったが、総督府の女衒取締りは「はるかに誠意が不足」しており、事実上の黙認状態にあったとことわった上で、以下のように述べている。

 私の考えでは、農村の困窮があまりにもひどく、女性たちを押し出す力が強力だったため、外部からそれを引っ張る力も強力であり、官側としては敢えて強制力を動員しなくてもいい状況にありました。傍観しているだけでおのずから作動するほど、活発に回転する人身売買のマーケットが成立していたのでしょう。その点で、一九四四年八月に日本へ男性労働力を送り出すために発動された国民徴用令の場合とは、事情が異なると思われます。

 韓国でここまで書くのは相当勇気のいることだろう。

 日本は36年間の植民地支配の間に朝鮮半島に多くの資産を残したが、物的資産は北朝鮮に集中していた。木村光彦&安部桂司の『北朝鮮の軍事工業化』に詳述されているように、日本軍の兵站基地となっていた北朝鮮地域は爆撃をまぬがれたので重工業施設はほぼ無傷で残った。一部はソ連軍が持ち去ったが、北朝鮮の一人あたり鉄道長は日本内地以上だった。1960年代まで北朝鮮が韓国より経済的に優位だったのは日本の遺産のおかげである。

 北朝鮮は物的資産は受け継いだものの、制度的資産は日帝の残余として一掃してしまう。植民地時代に教育を受けた官吏や企業人、学者は人的資産というべきだが、その多くは韓国に逃げるか処刑されたり強制収容所にいれられてしまう。

 一方韓国は朝鮮民事令をほぼそのまま大韓民国民法にしたように植民地時代の制度を引き継ぎ、戦時経済で停止されていた市場経済を復活させる。人的資源を親日派として排斥する動きもあったが、李承晩は精神まで日本人になろうとした一部のイデオローグ以外は受けいれ国家運営に積極的に活かした。まさにこの点が盧泰愚政権時代に問題になったわけであるが、著者は現実的な判断として李承晩を評価している。

 日本の植民地支配によって韓国の近代化が進んだとする立場を植民地近代化論というが、それに決定的な影響をあたえたのはエッカートの『日本帝国の申し子』だった。『再認識』にはエッカートも「植民地末期朝鮮の総力戦・工業化・社会変動」を寄稿しているが、著者は植民地支配が人的資源をはぐくんだ点は賛同するものの総督府が民族資本育成策をとり「漢江の奇跡」の開発独裁モデルの先蹤だったという点には異論を唱えている。辻褄があわないが、これも韓国内で発言する限界か。

 著者は韓国の民族主義の起源は日本統治時代にあるとしている。そもそも「民族」という言葉は日本から輸入された外来語であり崔南善が「三・一独立宣言」に用いて広まったにすぎない。「同胞」という言葉は李朝時代からあったが「民族」概念とは無関係だったし、「ギョレ」という語はハングル学者の崔鉉培が「民族」に対抗して「ギョレ・プチ」(血族、一族郎党)から作った造語だ。李朝時代は奴婢と両班が一つの血筋でつながった運命共同体だと考える人はいなかった。白頭山神話も李朝時代は朱子学の自然観を象徴する山だったのを、崔南善が1920年代に民族の象徴として持ち上げるようになってから広まった今できの神話である。

 韓国の歴史において民族という集団意識が生じるのは二十世紀に入った日本支配下の植民地代のことです。日本の抑圧を受け集団の消滅の危機に瀕した朝鮮人は、自分たちは一つの政治的な運命共同体であるという新たな発見に至り、民族という集団意識を共有するに至りました。白頭山が民族の生地に変わるのは、まさにその過程においてです。

 韓国の民族意識は対中国や対アメリカとの関係でではなく対日本との関係で形成されたのだ。韓国の民族主義は反日と切っても切れない関係にあるのだ。著者は民族概念は20世紀の産物で徐々に消えていくとしているが、さてどうだろう。

 著者は朝鮮人の武装独立戦争には実体がなく、朝鮮半島は「アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放された」ことを認め、解放前後史の混乱はこの点を明確にしてこなかったから生まれたとしている。まったくその通りで、韓国でそこまで書くのは大変なことだと思うが、ただし次の条はいかがなものか。

 世界的にみて一九四五年まで存続した帝国主義下の世界体制は、植民地の民族が勇猛果敢に武装独立戦争を行なった結果として解体されたものではないという事実です。私が知る限りではそのような経緯で独立した国は一つもありません。その点において、私たちが自分の力で日本から解放されなかったという事実を恥じる必要はありません。全世界がそうだったわけですから。

 インドネシアやミャンマーやベトナムの人がこれを読んだら怒りだすことだろう。第二次大戦後韓国のように棚ぼたで独立した国もあったが、もどってきた宗主国と民族の血を流して戦い、自力で独立した国の方が多かったのである。著者がまさかそんな常識を知らないとは思えないから韓国ではそこまで書けないということなのかもしれない。

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2012年09月24日

『日本帝国の申し子』 エッカート (草思社)

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 著者のカーター・J・エッカートは朝鮮史を専門とするアメリカの歴史学者でハーバード大学コリアン・インスティチュート所長をつとめている。本書は韓国近代史の基本図書とされている本で、副題に「高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」とあるように、京城紡織株式会社をおこして大財閥となった高敞金氏の発展をたどりながら、韓国資本主義の起源が日本統治時代にあったことを立証した研究である。

 高敞金氏といっても日本ではなじみがないが紡績業で成功をおさめた民族資本家で、1939年には南満洲紡績会社を設立し、役員も技術者も三千人の職工もすべて朝鮮人の大工場を奉天近郊に建設するまでになった。ちなみに韓国三大紙の一つである東亜日報と名門私立大学として知られる高麗大學校は金一族が創立したものである。

 エッカートは朴正煕時代の韓国に平和部隊の一員として滞在し、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる目覚ましい経済発展を目にして朝鮮近代史を専攻することにしたという。

 韓国で通説となっていたのは朝鮮の資本主義の萌芽は17世紀に生まれたが、十分に成長する前に日韓併合によって富が収奪され、民族資本家の成長は1945年の解放まで抑圧されたとするもので、いわゆる李朝資本主義萌芽説である。歴史教科書は今でもこの立場から書かれている。

 だが実証的な歴史学の観点からすると李朝資本主義萌芽説の誤りは明白だ。まず商業の規模が小さすぎたこと。16世紀から17世紀にかけて商業の発達は見られたが、人口百万人の江戸のような大都市が生まれなかったために朝鮮の商人は三井や鴻池には遠くおよばなかったし、商業の発達が李朝の社会構造を変えることもなかった。

 また資本が蓄積しただけでは資本主義は生まれない。資本主義には工業技術の発達が不可欠だが、李朝時代には見られなかった。

 商人資本の蓄積は小規模だっただけでなく、開国の動きに乗れず衰退していった。李朝の商人というと六矣塵と貢人と呼ばれた京城の特権商人と人蔘貿易で財をなした開城商人が双璧だが、京城の特権商人は自国の白銅貨を貯めつづけたために1905年の貨幣改革で大打撃を受けた。開城商人は1898年以降人蔘が完全に政府の統制下におかれると没落した。

 朝鮮の資本主義の担い手となったのは商人ではなく地主だった。開国後、地主層は米の日本への輸出で大儲けをした。投資先となる工業が未発達だったので儲けは農地の買収にまわされ大地主が続々と誕生した。

 高敞金氏の成功の基礎を作った金堯莢もそうした地主の一人だった。彼は貧乏儒者の三男坊だったが、地主の鄭氏と結婚したおかげで湖南平野の小地主となった。米の集散地である茁浦と積出港である郡山港が近かったために米の輸出で財をなし、1924年には朝鮮で3番目に裕福な地主となった。金堯莢には性洙と秊洙という二人の息子がいたがともに日本に留学させ、性洙は早稲田大学政治経済学部を、秊洙は京都帝国大学経済学部を卒業した。

 金性洙は留学時代の友人で東京高等工業学校(現在の東工大)で紡績技術を学んだ李康賢の勧めで1917年に倒産寸前だった京城繊紐株式会社を買収し、これを母体に翌々年京城紡織株式会社(以下、京紡)を設立した。

 京紡は設備を近代化するために株式を募集したが、土地信仰が根強く最初の200万円の募集のところ1/4しか集まらなかった。株式の募集はその後もおこなわれたがはかばかしくなく、株式が全額払いこまれたのは会社設立の14年後のことだった。

 草創期の京紡を支えたのは総督府の補助金と朝鮮殖産銀行の融資だった。1922年総督府は日本資本で釜山に設立された朝鮮紡織株式会社(以下、朝紡)と同額の補助金を出すことを決めた。補助金は1934年までつづき、総額は1935年の払込資本の1/4を上回っていた。

 銀行融資については朝鮮系の7銀行は弱体で高額長期融資は不可能な状態だった。京紡に救いの手をさしのべたのは1918年に日朝共同経済開発のために設立された朝鮮殖産銀行で、ここは和信百貨店の朴興植にも融資している。頭取の有賀光豊について「有賀氏は我々の会社を日本の会社と同じように支援した」と京紡前会長の金容完が語った言葉が社史に残っている。

 技術についてはピアーズを凌駕していた豊田織機の織機を導入し、八木商店と伊藤忠が技術者を派遣した。新人は伊藤忠系の呉羽紡績で研修した。販売についても東洋綿花(三井物産)、八木商店、伊藤忠商事に依存していた。

 総督府が支援したといっても、京紡を日本の紡績会社のように育てるつもりはなかった。朝鮮人の会社はあくまで廉価品を製造する二流の企業にとどめるつもりだった。しかし廉価品に特化したことで京紡は満洲市場に乗りだすことができた。満洲では安価な厚手の布地がもとめられたからである。

 1937年に日支事変がはじまると京紡は軍需品でさらに巨額の利益を上げた。1936年と37年の純利益は半期で6万円程度だったが、38年の上半期には22万円、下半期には60万円と跳ね上がった。純利益は1939年にも増加の一途をたどり、40年下半期には70万円を超えた。1941年上半期には80万円の大台に乗り、終戦までこのレベルが維持された。

 京紡財閥は日本の軍需産業の一翼をになっていったわけだが、だからといって日本の傀儡というわけではなかった。京紡の株主には日本人もいたが、1945年には全26万株のうち日本人は5.6%を所有しているにすぎなかった。

 エッカートは京紡を中心にした日本統治時代の朝鮮の経済発展の研究を次のように要約している。

 植民地時代の歴史のなかで、朝鮮経済史の研究者の目を最も引くものは、植民地であったにも関わらず工業が著しい発展を遂げたという事実である。その次に印象的で、しかもより興味深い事実は、植民地下という状況にありながら、多くの朝鮮人がその工業発展に積極的な役割を果たしたという点である。これは趙自身がおこなった植民地時代の朝鮮人企業家に関する詳細な研究からも明らかだ(本人の意図とは異なるかもしれないが)。趙はそのような企業は日本帝国のシステムの外部で、それに対抗して発展した「民族資本」であると主張することで、大きな矛盾に陥るのをかろうじて避けている。だが、そのような議論は問題を解決するどころか、さらに多くの問題を提起するだけであり、しかもあとで見るように、実際に起こったこととは正反対なのである。

 京紡財閥は「漢江の奇跡」後の経済成長の波には乗れず二流の財閥にとどまったが、大財閥にのしあがっていったサムソン・グループの創業者の李秉喆、楽喜グループの創業者の具仁會も、現代グループの創業者の鄭周永も地主の息子で、日本統治時代に起業した経済人である。彼らは日本統治時代には中小企業の経営者にすぎなかったが、本格的な資本主義を体験し学んだ最初の世代だった。

 朝鮮の社会経済史という観点から見れば、彼らのような人物の出現は朝鮮資本家階級が成長したことを意味している。振り返ってみれば、植民地支配下の朝鮮は、こうした人々にとっての養成所であり、試練の場であったのである。

 妥当な見解だろう。

 エッカートは日本の植民地支配を美化するつもりはないと再三書いているが、韓国での反響は彼を当惑させるもので、完全な韓国語訳はいまだに出ていないという。困ったものである。

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2012年09月23日

哲学の歴史 07 理性の劇場』 加藤尚武編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第7巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀後半から19世紀にかけて隆盛したドイツ観念論をあつかう。カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと巨峰が連なり哲学史の中でもひときわ高く聳える山脈を形成している。

 ドイツ観念論の研究者は偏屈な人が多いのか、編者の意図といい意味でも悪い意味でもはずれた原稿が集まった印象がある。

 いい意味ではずれたのはヤコービ兄弟をあつかった「自然と言語の百科全書」というコラムである。コラムであるから編者はヤコービ兄弟にそれほど重きを置いていなかったはずだが、章に昇格させていいくらい充実した内容で、ヤコービ兄弟が哲学史において重要な役割を果たしたことを教えてくれた。

 ゲーテに一章割かなかったことは惜しまれる。ゲーテをはずしたのは編者のこだわりかもしれないが、どの章でもゲーテに言及しており、せめてコラムとしてでもとりあげるべきではなかったか。

 不満はないではないが、要となるカントとヘーゲルの章が読みごたえがあるので本シリーズ中でも屈指の巻となっている。

「総論 カントとドイツ観念論」 加藤尚武

 編者はドイツ観念論は俗称であり、理想主義であるとか「デカルト以来の自我中心主義がヘーゲルで絶頂を迎えた」といった従来の見方を廃棄するものの、ドイツ観念論というまとめ方を否定しているわけではない。カントの存在はあまりにも大きく、ドイツの哲学者はカントが残した課題の解決を迫られていたと見るからだ。

 その課題を編者は三つに要約する。

  1. 主観性と客観性の根源的統一はいかにして可能か
  2. すべての学問分野を統合する原理は何か
  3. 神に対応する理性的な「絶対者」の概念はどのように把握されるか

 この三つの課題をめぐってドイツの哲学者は半世紀にわたって悪戦苦闘するが、そこに陰に陽に顔を出すのがスピノザである。ドイツ観念論においてスピノザの存在はデカルトより遙かに大きい。

「Ⅰ ヴォルフとドイツ啓蒙主義の暁」 小田部胤久

 ヴォルフはドイツ講壇哲学の大成者とされるが、カントの引き立て役としてしか名前が残っておらず一冊の邦訳もない。そのヴォルフを紹介した貴重な文章である。

 ヴォルフは1679年1月24日ブレスラウに生まれた。マクダレーネン・ギムナジウムで学んだが、ルター派とカトリックの反目を目にして数学の確実な証明に心を向けた。

 1699年、神学を学ぶためにイェーナ大学に入学しデカルト哲学と出会う。ライプツィヒ大学に移った後、1703年「数学的方法によって書かれた普遍的実践哲学」で教授資格を取得。1706年ライプニッツの推挙でハレ大学の数学自然学教授になる。

 ハレ大学は1694年にドイツ語で講義することを提唱したトマジウスが中心になって創設された大学である。トマジウスは哲学に数学的方法を用いることに反対していたので、ヴォルフはライプニッツの忠告にしたがい哲学の講義をおこなわなかったが、1709年からドイツ語で哲学の講義をはじめる。ヴォルフは講義の成果をつぎつぎにドイツ語で刊行したが、体系性と平明な論理が歓迎され彼が作ったドイツ語の術語が広まっていく。

 しかしハレ大学で支配的だった敬虔主義から決定論・無神論ではないかと批判され、1721年には「中国人の実践哲学」という講演が槍玉にあげられる。1723年プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は「勉学中の若者に多大の損害をもたらす教えを述べた」としてヴォルフに国外退去を命ずる。ヴォルフはヘッセン=カッセル方伯の招聘でマールブルク大学に移る。

 1728年からはラテン語著作の公刊をはじめ、ドイツ語圏以外でも読まれるようになる。ディドロの担当した『百科全書』の「哲学」の項目はヴォルフの体系を祖述したものだった。

 1740年プロイセンでフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が没しフリードリヒ二世即位すると再びハレ大学に招聘される。1754年4月9日ハレで死去。76歳だった。

 ヴォルフの哲学はライプニッツの説をもとにスコラ哲学に匹敵する体系をつくりあげたとされているが、本章ではライプニッツの影響や体系性にはあまりふれず(こうした面はカントの章に紹介がある)、心理学とそこから派生した美学に話を絞っている。

 ヴォルフは心理学をあらわす言葉としてpneumatica、pneumatologiaではなくpsychologiaを広めた。ヴォルフは心理学を経験的心理学と合理的心理学に二分し、経験的心理学は天文学を範とした実験的哲学の一部門、合理的心理学は経験的心理学があきらかにした命題を根拠から説明する演繹部門とした。

 『経験的心理学』(1732)は第一部「認識能力」、第二部「欲求能力」にわかれ、「認識能力」は下位認識能力である感性と上位認識能力である知性にわかれる。

 この分類に触発されてバウムガルテン(1714-62)は美学aestheicaという学問を創始した。上位認識能力=知性に論理学があるのにならって、下位認識能力=感性を導く学問として構想したわけである。

 敬虔主義者はヴォルフの心身相関論を人間から自由奪う決定論と決めつけたが、ヴォルフは心身相関論を三つの類型にわけている。

  1. 心身の間に因果関係があるとするアリストテレス説
  2. 神の働きかけで心身が同時に変化するとする機会原因説(デカルト、マルブランシュ)
  3. 神があらかじめ打ち立てた調和により心身が各々の本性にもとづいて自律的に変化していくという予定調和説(ライプニッツ)

 ヴォルフは最後の予定調和説を採用するが、注目すべきはこの説明はあくまで合理的心理学上の仮説にすぎず、仮にこの仮説が間違っていたとしても経験的心理学において明らかにされた事柄までもが否定されるわけではないとしたことだ。合理的心理学は斬新的により正しい説明を求めればよいというわけだ。

 カントはヴォルフを独断論と批判したが、当のヴォルフは独断的ではなかったらしい。

「Ⅱ カント」 福谷茂

 カントは1724年ケーニヒスベルクに生まれた。ケーニヒスベルクは現在のポーランドのカリーニングラードにあたる。ドイツ騎士団が建設したハンザ同盟の港町で、最盛期でも人口は5万を超えなかったが大学と不凍港をもち、スコットランド人、英国人、オランダ人、ユダヤ人などが集住する多文化多民族都市だった。

 父ヨーハンはティルジット出身の馬具職人の親方でカントはスコットランド系と思いこんでいたが、明確な根拠はない。母アンナ・レギーナはニュールンベルクからの移住者の家系だった。両親は敬虔主義の信奉者で、カントの敬虔主義の影響のもとに育った。

 1732年敬虔主義者のシュルツが校長をつとめるコレギウム・フレデリキアヌムで古典語を学び、1740年ケーニヒスベルク大学に入学、恩師のクヌッツェンにニュートンを教えられる。ニュートン力学と啓蒙主義の影響で敬虔主義からは離れていった。

 1746年『活力測定考』を提出して卒業。住込みの家庭教師となってケーニヒスベルクの周辺を転々とする。

 1755年修士論文と教授資格申請論文を提出して私講師になり、自然哲学の論文をつぎつぎと発表して注目される。1762年ケーニヒスベルク大学の詩学教授のポストが空くが辞退する。他の大学から招聘されたこともあるがやはり辞退している。

 私講師は受講者の数による出来高払いだが、自然地理学の講義に聴講者がつめかけるなどカントの講義は人気があったので経済的には困らなかったようである。

 1770年ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授になり、『感性界と叡智界の形式と原理について』を出版するが、これから『純粋理性批判』まで有名な沈黙の10年にはいる。

 『純粋理性批判』は大陸合理論とイギリス経験論の綜合といわれるが、本章の著者はニュートンらの自然学の成果を懐に含むことのできる形而上学の構築と位置づけている。形而上学とはドイツ・アリストテレス主義といわれるライプニッツ=ヴォルフの講壇哲学である。

 ルターがアリストテレスを憎悪したためにドイツのプロテスタント地域では形而上学が壊滅していた。ライプニッツが形而上学を復興させるために手本としたのは皮肉なことにイエズス会士スアレスがアリストテレスとトマスを近世的に再編成した「第二スコラ哲学」であり、ヴォルフが大成した講壇哲学もスアレスの体系をもとにしていた。『純粋理性批判』はアリストテレスに淵源する古い講壇哲学と、デカルト、ロック、ニュートンらの新しい自然科学的哲学を無理矢理に近い形で融合させる試みだった。そこがさまざまな解釈をうむ要因でもあり魅力でもある。

 1781年にやっと『純粋理性批判』の出版にこぎつけるが、最初はまったく理解されなかった。そこで『純粋理性批判』を要約した『プロレゴーメナ』(1783)や自作自解といわれるようになる『純粋理性批判』第二版(1787)を刊行し、しだいに理解者を増やしていった。

 カントは『純粋理性批判』を基礎に『人倫の形而上学の基礎づけ』と『自然学の形而上学的原理』を書きあげ、講壇哲学に対応した一応の体系を完成させるが、その後理性を主役にした独自の体系を構想するようになり『実践理性批判』(1788)と『判断力批判』(1790)を刊行する。

 1796年に大学を退職するが研究と著作はつづけ、1798年には神学部・法学部・医学部の下におかれていた哲学部を他の三学部と並び立たせることを主張した『諸学部の争い』を刊行している。

 1804年死去。80歳だった。カントは意外に多くの財産を残しており、「はじめて哲学で財産を残した男」ともいわれている。

 カントはヒュームによって掘り崩された因果律をア・プリオリな総合判断として再建しようとしたが、本章ではそもそもア・プリオリな総合判断はありうるのかという視点から『純粋理性批判』を検討し、『実践理性批判』と『判断力批判』につなげていく。すこぶる見通しがよく、三批判をふりかえりやすい。

 本章で興味深いのは遺稿について立ち入った考察をくわえている点だ。カントは亡くなる直前まで思索と執筆をつづけたが、晩年はさすがに呆け気味であり、遺稿は断片の集積だったこともあってきちんと論じた人はあまりいなかったのではないかと思う。本章の著者は遺稿を『純粋理性批判』と表裏をなすものと位置づけ、今後のカント研究の重要なトピックになるとしている。

「Ⅲ ハーマン」 栗原隆

 ハーマンと聞いてすぐにわかる人はあまりいないだろう。わたしも知らなかったが、カントの友人でソクラテスの無知やヒュームの懐疑を武器に啓蒙主義の理性崇拝に警鐘を鳴らした思想家で、カントとドイツ観念論に大きな影響をあたえたという。

 ハーマンは1730年ケーニヒスベルクに理髪外科医の息子として生まれた。1746年、ケーニヒスベルク大学にすすみ、カントの師であったクヌッツェンに哲学を学んだ。カントより6歳年少の後輩ということになる。在学中から『ダフネ』という雑誌を創刊し文筆活動をはじめるが、なんら資格をとることなく大学を修了する(当時は珍しくない)。

 住込みの家庭教師の後、1757年リガの商会にロンドンに派遣される。商談はまとまらなかったが、ハーマンは生計の当てもないままロンドンに一年間逗留した。異国で極貧生活を送りながら聖書を読みこんだことがハーマンの思想に大きかったといわれている。

 1759年『ソクラテス追想録』を刊行する。ソクラテスは啓蒙主義の英雄ともてはやされていたが、ハーマンはそれを逆手にとってソクラテスの仮面をかぶって啓蒙主義批判をおこなった。思考の手前の現実をキルケゴールに先立って実存と呼んだことも今日注目されている。

 カントから子供のための自然学読本を共同で書こうという提案があるが、啓蒙主義的な教科書という趣旨に反発し断っている。この前後のカント宛書簡が残っているが、前批判期の自然学的神学の傾向を人間の有限性を忘れたと批判し、ヒュームの重要性を説いている。カントを「独断のまどろみ」から醒ましたのはハーマンだった可能性がある。

 1762年『美学提要』と『愛言者(文献学者)の十字軍行』を刊行し、認識主体を対象の上に立てる科学は人間のたかぶりと批判する。啓蒙主義が斥けた聖書の美的世界や身体的比喩を肯定し、疾風怒濤とロマン主義の先駆けになったとされる。

 当時は文筆活動では生計を立てられなかったのでいろいろな職を転々としていたが、1767年カントの紹介で税関に勤務するようになりようやく生活が安定する。『純粋理性批判』は校正刷りで読みいち早く書評を書いている。

 1787年ガリツィン公爵夫人アマーリエに招待されミュンヘンにおもむき、デュッセルドルフに足を伸ばしてヤコービを訪ねている。1788年帰国間際に死亡。58歳だった。

 はじめて名前を知った思想家だが、ゲーテが『詩と真実』で高く評価したり、ヘーゲルが長文の書評を書いたり、現代神学から注目されたりしているそうである。

つづく

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