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2012年08月28日

哲学の歴史 06 知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって』 松永澄夫編 (中央公論新社)

知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第6巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀の哲学をあつかうが、前半は英国経験論、後半はフランス啓蒙主義である。フランス啓蒙主義は英国の先進性に学ぶという姿勢があったから、この順序には必然性がある。

 もっとも冒頭でとりあげられるのはヴィーコだ。ヴィーコはコモン・センスの復興という点で英国道徳哲学に通ずるが、18世紀の思想史の中ではおさまりが悪く、時代を超えているところがある。

「総論 人間の科学に向かって」

 3巻以降の総論は面白くなかったが、この巻の総論は力がはいっている。自然哲学が自然科学に変貌した17世紀を受けて、18世紀には「近代人」が誕生し「自然」概念が更新されたとする。

 人間の経験自体が自然科学の対象となり、宗教、道徳、政治、感情生活、経済、教育、自由意志等々が探求され、権威や慣行までもが批判的に検討された。

 社会の主役は地主や貴族から実業家に交代し、実業家の活躍する英国が最先進国として仰ぎ見られた。

 医学や博物学の進歩により従来の物質/精神という対立から生命のない物質/生命という対立に分割線が移動し、精神は生命の一形態と考えられるようになった。物質・生命・精神が連続しつつ階梯をなすと見る世界像が広まり、それはスピリッチュアリズムを帰結する一方、コントの実証主義をも生みだした。

「Ⅰ ヴィーコ」

 ジャン・バッティスタ・ヴィーコは1668年ナポリの小さな本屋の息子に生まれた。早くから文法学校に通ったが、7歳の時に階段から落ちて頭蓋骨損傷で3年間学校にいけなかった。12歳でイエズス会の学校に移るがすぐに退学。

 ヴィーコは独学を通したといわれるが、まったくの独学ではなくインヴェスティガンテ(自然探究者)と呼ばれる知的サークルに出入りし、デカルト、ガリレオ、ガッサンディ、ベイコンらの新知識を吸収した。

 1686年ヴァトッラという僻地の領主の家庭教師になった後、1699年王立ナポリ大学の修辞学教授になる。修辞学教授の俸給は法学教授の1/6だったので、本人は法学教授を希望しつづけたが、最後までかなえられることはなかった。

 修辞学教授は開講講演をおこなうのが慣例だったが、1708年は特別だった。当時ナポリはハプスブルク家のカールの軍隊に占領されており、大学は恭順の意を示すために開講講演をカールに捧げることにしたのである。ヴィーコは特に力をいれて講演を準備し、翌年大学の費用では『学問論』として出版された。

 若い日のヴィーコはデカルトらの新思潮の影響下にあったが、『学問論』では数学の明証性を範とするデカルトの真理の基準をクリティカと呼んで批判し、クリティカに先行するトピカの復権をはかるとともに「真らしく見えるものの」を擁護した。幾何学化された自然学と自然自体を同一視するのはおかしいという指摘もあり、フッサールの『幾何学の起源』を先取りしたという評価もある。

 『ラテン語の紀元から導き出されるイタリア人の太古の知恵』、『普遍法』の後、1725年に『新しい学』を刊行する。『新しい学』は1730年に全面的に書き直した第二版が出て、没後に増補改訂版が出ている。1728年には『自伝』をカロジェラ編『学芸文選』に発表する。

 1735年王国修史官に就任し1744年に死去。享年75。

 ヴィーコは主著は『新しい学』だが、新しい学とはなんだろうか。ヴィーコは社会制度や文化は人間が作ったものであり「それの諸原理は私たち人間の知性の諸様態のうちに見出すことができる」として、人文科学が学問として成立することを宣言した後、文化の初源にさかのぼり、最初の人間たちは野暮で知性を欠いていたが、全身感覚と想像力の塊であり、天性の「詩的知恵」で神々の像や英雄の像を創造したと考えた。「異教世界の最初の諸国民は自然本性上の必然からして詩人であり、詩的記号によって語っていた」というわけである。

 ヴィーコは「人類の共通感覚」を真理の唯一の規準とする「新しい批判術」と古語や古物に痕跡をとどめる「言語すべてに共通の知性のうちなる語彙集」の発掘を提唱した。「感覚的トピカ」こそが人類最初の知性の形態だというわけである。

「Ⅱ ロック」

 ジョン・ロックは1632年サマセット州リントンのピューリタンの家に生まれた。ジェントリーの家柄で父ジョンは法律を学び治安判事ポパムの書記になった。1642年に内乱がはじまるとポパムは議会派軍の大佐になり、父もしたがった。議会派の勝利の後、国会議員になったポパムの推薦でロックはウェストミンスタースクールに入学し、オックスフォードのクライスト・チャーチ学寮に進み医学を学んだ。

 ロックは旧来の学問にあきたらずロイヤル・ソサエティの前身である実験哲学クラブに出入りし、ロバート・ボイルから実験科学と微粒子説を学んだ。ピューリタンの信仰には距離をおくようになったらしい。

 1667年アシュリー卿に気に入られて侍医兼政治顧問となり、以後、政治的浮沈をともにするようになる。1672年アシュリー卿はシャフツベリー伯になり大法官に就任するも、翌年解任。シャフツベリーはホイッグ党の前身を結成して国王派に対抗するが、ロックにも火の粉が降りかかりフランスとオランダに亡命する破目に。フランスではナントの勅令廃止でユグノーが虐殺され、追放されるのを目撃する。オランダでは後のピーターバラ伯爵の推薦でオラニエ公ウィレムの助言役になっている。

 亡命中の1686年『人間知性論』を書きあげる。『人間知性論』の抜粋が仏訳され、ロックは哲学者として知られるようになる。1689年名誉革命がなると、ロックはロンドンにもどり『統治二論』と『人間知性論』を刊行する。大使の職を勧められるが、訴願局長という閑職について執筆に専念するようになる。1704年マシャム夫人にみとられて亡くなり、遺体はハイレイヴァー教会に埋葬された。享年72。

 『人間知性論』はタブララサ説が有名だが、本章の要約を読む限り『純粋理性批判』とよく似ている。カントはヒュームの影響を明言しているが、『人間知性論』にも相当影響されたのではないか。

 ロックは唯名論を継承し「唯名的本質」nominal Essenceと「実在的本質」real Essenceを区別する。人間の心は実在的本質を知ることはできず、唯名的本質で一つの種類に分類するだけだとされる。実在的本質とは唯名的本質を支える物質的構造ということだが、カントの記号論との関係はどうなっているのだろう。

 ロックの政治論は自由主義と寛容論が柱だが、ロックにおける寛容とは日本人の考えるような寛大さではなく異質な立場を我慢することだという指摘はコロンブスの卵だった。確かにtolerateの語源のtoleroは「我慢する」「忍耐する」という意味だ。カトリック教徒と無神論者は寛容から除外されていたというのには驚かされた。政教分離という思想もまだ生まれておらず、統治者の刑罰権は宗教から分離されるべきとする刑教分離にとどまっていたというのもむべなるかな。

 自由主義については個人財産の保護である「プロパティの原理」がすべての基礎になっており、笑ってしまうくらい論理的に一貫している。

 ロックは前半生を政治闘争についやしただけに悪政に対抗する権利の確立に力を入れている。個人の発動する抵抗権、国民の発動する革命権にくわえて、緊急避難的な「天への訴え」の原理を提唱している点が興味深い。「天への訴え」an Appeal to Heavenとは戦争状態や無政府状態で裁判官が不在だったり、公平な裁きを行なわない場合の最後の手段で、良心的判断にもとづき実力を行使して権利回復してよいとする権利だ。神を恐れない現代には成立しない考え方である。

「Ⅲ バークリ」

 ジョージ・バークリは1685年アイルランドのキルケニーに生まれた。大バッハやヘンデルと同い年でバロック時代のまっただなかに生をうけたことになる。スウィフトも学んだキルケニー・カレッジで学んだ後、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学する(当時は14、5歳で大学に入学した)。

 1707年、トリニティのフェローになり義務として聖職についた。この頃に書いた『哲学的評注』という思索ノートが残っており、バークリの哲学が形成されていく過程が手にとるようにわかるという。1709年に『視覚新論』、翌年『人知原理論』を刊行する。わずか24、5歳で哲学史に残る本を書いたわけである。

 1712年にはアイルランドを出てロンドンとオックスフォード、さらにはイタリア、フランスにまで足を伸ばす。

 1720年にロンドンにもどり、バミューダ島に大学をつくって学問と不興の拠点にしようという「バミューダ企画」にとりかかる。1728年に結婚すると、英国政府の下賜金がおりないうちにアメリカにわたる。「バミューダ企画」自体は資金のめどがつかずに挫折するが、2年間の滞在中にアメリカの知識人と交流し多大な影響をあたえた。今日アメリカにバークリーの名を冠した地名や学校が多いのはこのためだという。

 1734年アイルランドにもどり、クロインの監督Bishopに就任する。1752年にはオックスフォードに移り、翌年死去。67歳だった。

 バークリはロック、ヒュームとともに英国経験論の三羽烏としてあつかわれてきたが、最近はロックの影響よりもマルブランシュの影響の方が重要だという見方に変わってきているという。ヒュームがバークリを読んでいたかどうかは怪しいらしい。

 バークリというと唯物論者が戯画的に槍玉にあげる、物質の存在を否定した絵に描いたような観念論で有名だが、難物だけに本章の解説も一回読んでわかるというわけにはいかない。記述は錯綜しているが、最後まで読むと抽象観念批判と「黙従モデル」と呼ばれる身体論が二本柱になっているとわかってくる。

 『視覚新論』は読んだことがあるが、触覚で知覚された世界が最初にあって、視覚でとらえられた観念は触覚でとらえられた観念の記号にすぎないという考え方に虚を突かれたものだった。本章ではバークリの哲学の核心は『視覚新論』にあるとし、触覚を精密化したのが受動性をはらみつつも身体の活動によって観念が産出されていくとする「黙従モデル」なのだという。

 物質が存在しないという悪名高い主張については抽象観念批判の一環という解釈のようだ。カントの物自体のような知覚されない抽象観念としての物質を否定しただけで、実在そのものを否定したわけではない。バークリは知覚された実在が観念と呼ぶが、「私たちは観念を食べ、観念を飲み、そして観念を着ている」「私たちは自然の中のいかなるものも奪われることはない」というわけだ。『人知原理論』は読まなくては。

「Ⅳ ヒューム」

 デビット・ヒュームは1711年エディンバラにジョゼフの次男として生まれた。父ジョゼフはイングランド国境のナインウェルズの小ジェントリーで、冬季はエジンバラで弁護士をしていた(地主が冬にエジンバラに集まるのは当時の習慣)。

 エジンバラ大学で学ぶが、当時の習慣で学位をとらずに学業を終え、自宅で法律の勉強をつづける。次男で家を出なければならなかったヒュームは1734年ブリストルで貿易商に雇われるがすぐに辞め、フランスに留学する。ランスに滞在するが、生活費の安いラ・フレーシュに移り、デカルトの学んだ学院の図書館に通いながら『人性論』執筆する。

 1739年から翌年にかけて『人性論』を刊行するがまったく売れなかった。エッセイなら売れるかと思い、『道徳政治論集』を出版。そこそこ売れて自信をとりもどす。

 1744年エジンバラ大学の教授に招聘されるが『人性論』に無神論の嫌疑がかかりかなわず。この後も大学から何度か話があるが『人性論』のために教職にはつけなかった。

 1748年セント・クレア将軍の軍事使節に随行しウィーンとトリノに。同年出版された『法の精神』に感銘を受け、モンテスキューに書簡を送る。モンテスキューはヒュームを認めた最初の思想家となる。

 ナインウェルズにもどって著述に専念するが、兄が結婚したのでエディンバラに移りアダム・スミスと知りあう。1752年エディンバラ法曹協会図書館長に就任。3万冊の蔵書が自由に使えるようになり『イングランド史』の執筆にかかる。『イングランド史』は1754年から62年にかけて刊行し、生前最も評価された著作となる。1753年からは著作集刊行するが『人性論』は除く。名前があがるとともに批判も多くなる。

 1763年駐仏大使となったハートフォード卿に随行しフランスへ。サロンで「ル・ボン・ダヴィッド」と呼ばれ人気者に。ブルレール伯爵夫人、ダランベール、ディドロ、ドルバック、ルソーらと親しくなる。1766年の帰国にあたっては周囲の制止にかかわらずルソーをともなうが、すぐに関係が悪化。喧嘩別れする。

 1770年エディンバラに引退。1776年『自伝』を完成させた後、療養のためにロンドンとバースに。スコットランドにもどって死去。

 1750年に書きあげていたが発表できずにいた『自然宗教に関する対話』を1779年に甥が出版する。

 『人性論』の解説は観念の定義から因果関係の発生まで手際よくまとめてあり、『人性論』を読んでいなくても十分論理がたどれるだろう。

(つづく)

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