« 2012年07月 | メイン | 2012年09月 »

2012年08月31日

『高橋留美子傑作短編集〈2〉〈保存版〉る-みっくわ-るど』 高橋留美子 (小学館)

高橋留美子傑作短編集〈2〉〈保存版〉る-みっくわ-るど →bookwebで購入

 高橋留美子氏の初期短編をまとめた『高橋留美子傑作短編集』の第二巻で1980年から1984年にかけての作品が収められている。冒頭の「炎トリッパー」以外は発表順になっており、シリアスな作品とコミカルな作品をほぼ交互に発表していたことがわかる。

「炎トリッパー」

 「少年サンデー」1983年8月増刊号掲載。女子高生が戦国時代にタイムスリップしてしまう話で『犬夜叉』の原型といえるが、最後に『夏への扉』に似た落ちが仕こんである。高橋短編の代表作で、影響を受けたマンガやゲームは数多い。久しぶりに読み直したが、やはり傑作である。

「ザ・超女」

 「少年サンデー」1980年10月増刊号掲載。スペース・パトロールの女性隊員が誘拐された宇宙的大富豪の息子を救出にゆく話である。『うる星やつら』のSF面のバリエーションといえるだろう。

「怪猫・明」

 「劇画村塾」1981年第4号掲載。劇画村塾は小池一夫氏が主宰した漫画化・漫画原作者の養成講座で、高橋氏はその出身である。劇画村塾の機関誌という内輪向けの媒体に友人から猫をあずかるエピソードを描いた私漫画である。『うる星やつら』でおなじみのO島さんが登場するのがうれしい。

「笑え!ヘルプマン」

 「少年サンデー」1981年9月増刊号掲載。ひ弱な主人公が宇宙人のお節介で本物の超能力を身につけてしまう話で、『らんま1/2』につながるアイデアだろう。

「戦国生徒会」

 「少年サンデー」1982年2月増刊号掲載。三つの生徒会が内ゲバをくりかえしている高校の話で、平凡な主人公が正統な生徒会長であることを証明する会長印を受けついでしまったことから騒動に巻きこまれる。『うる星やつら』の学園ドラマ面のバリエーションだろう。

「闇をかけるまなざし」

 「少年サンデー」1982年8月増刊号掲載。入院中の純真な子供が実は超能力を持っていて、親切にしてくれたヒロインの恋人に嫉妬するというスリラー。名作。

「笑う標的」

 「少年サンデー」1983年2月増刊号掲載。幼い頃許婚の約束をした従妹の梓が田舎から出てくる。梓は美しく成長していたが、実は……というスリラーで、アニメにもなっている傑作である。『もののけ姫』のたたり神はもしかしたら本作がヒントになっているかもしれない。梓の妖艶な美しさと激情が印象的だ。

「忘れて眠れ」

 「少年サンデー」1984年1月増刊号掲載。現代の高校生に犬使いの霊が憑依するスリラーである。『犬夜叉』のルーツの一つといえるだろう。

「われら顔面仲間」

 「少年サンデー」1984年創刊25周年記念増刊号掲載。高校の変装倶楽部のはなしだが、主人公が教頭の息子というのが伏線になっている。スリラーつづきの後の久々のコメディだが、かなり不気味な味つけがなされている。

→bookwebで購入

『高橋留美子傑作短編集〈1〉〈保存版〉る-みっくわ-るど』 高橋留美子 (小学館)

高橋留美子傑作短編集〈1〉〈保存版〉る-みっくわ-るど →bookwebで購入

 高橋留美子氏は1978年に「勝手なやつら」で第2回小学館新人コミック大賞少年部門をとり「少年サンデー」からデビューした。すぐに『うる星やつら』を描きはじめるが、『うる星やつら』は当初は不定期連載であり、連載とは別に月刊の「少年サンデー」増刊号に短編を発表していた。

 『高橋留美子傑作短編集』はデビュー作から『人魚の森』シリーズを描きはじめる1984年までに発表された短編を二巻にまとめたもので、「〈保存版〉る-みっくわ-るど」と銘打たれているだけに、通常のコミック版よりひと回り大きなA5版でカラー印刷のページもあり、しっかりした造本になっている。

 本書はその第一巻で1978年から1980年までの2年間に発表された10編を発表順に収録している。

「勝手なやつら」

 高橋氏のデビュー作で「少年サンデー」1978年第28号に掲載された。マンガ雑誌では新人がSF漫画を描くのを色がつくとして好まないといわれているが、これは堂々たるSFである。

 新聞配達の少年をめぐって地球を侵略にきた宇宙人、地上征服をたくらむ半魚人、マッドサイエンティストだらけの科学技術庁の研究所が三つ巴になるというハチャメチャSFで『うる星やつら』に通じるものがある。

 エネルギーが沸騰しているが、絵はざつだし、話の組立には無理があるし、新人賞レベルかなという気がする。

「腹はらホール」

 小学館から出ていたグラビア雑誌「別冊BIG GORO」1978年8月号に掲載された。高校の化学の実験中に爆発が起こり、時空に穴が開いて飢饉で飢えた百姓の一団が現代にあらわれる。このアイデアが「炎トリッパー」や『犬夜叉』に発展していくわけだが、後年の作品と異なるのは百姓たちの顔が不気味なことである。おそらく『カムイ伝』の影響だろう。

 SFらしく最後にすごい落ちがある。現在の日本でこそ、この落ちは生きるのではないか。

「黄金の貧乏神」

 「少年サンデー」1978年9月増刊号掲載。マッドサイエンティストの父親が息子を実験材料に、金儲けのために七福神の乗った宝船を呼び出してしまう話である。七福神キャラクターはこんなに早い段階で出てきていたわけである。

「ダストスパート!!」

 「少年サンデー」1979年5月増刊号から9月増刊号まで5回連載された。HCIAひのまるしーあいえー完璧の豚パーフェクトンという世界征服をたくらむ二つの秘密結社の戦いを描いた連作コメディである。

「ミスター・プーの巻」

 アメリカに留学していた五味たむろと炎上寺由羅の二人がHCIA本部の指令で日本にもどり、背古井というエージェントとともに「完璧の豚」との戦いに身を投ずる経緯を描く。五味と炎上寺はエスパーだが、五味の超能力はゴミを媒体にテレポートするというもので、それが「ダストスパート!!」という表題の由来となっている。

「ゴキブリは生きろ、ブタは死ね!!の巻」

 怪しげな教育をやっているという全寮制の高校に潜入する話。学校全体がゴミ箱化していて、巨大なゴキブリがいる。クライマックスは焼却炉の中。

「マリン・ボーズ'79の巻」

 海坊主事件を調査しているうちに「完璧の豚」の陰謀に出くわす。

「行方不明路の巻」

 「完璧の豚」の工作員を追っているうちに自殺の名所の青木ヶ原樹海に迷いこむが、樹海の中には迷った人間の村ができていたり、妖怪が集まっていたりして異世界になっていた。シリーズ中二番目に面白かった。

「ダスト・シーンの巻」

 HCIAに迷惑ばかりかけている五味と炎上寺は「完璧の豚」の手先だったのではないかと疑われる。冤罪は晴らせるのか……。シリーズの最高傑作。

「商魂」

 「平凡パンチ臨時増刊"That's Comic"」1980年12月5日号掲載。降霊会で一儲けたくらんだ高校生のカップルの話で、転んでもただでは起きないたくましさから「商魂」という題名がついたのだろう。ハリウッド映画の『ゴースト』と似た展開だが、本作の方が10年早い。『ゴースト』の脚本家がこの漫画を読んでいるなんていうことはまさかないだろうが。

「ふうふ」

 「ビッグコミックオリジナル増刊」1980年10月15日号掲載。安アパートに住む新婚カップルの話である。『高橋留美子劇場』のオヤジものに通じる御近所トラブルものだが、まだ全然リアリティがない。

→bookwebで購入

2012年08月30日

『運命の鳥 高橋留美子傑作集』 高橋留美子 (小学館)

運命の鳥 高橋留美子傑作集 →bookwebで購入

 『高橋留美子劇場』の第四集にあたる本で2006年から2011年にかけて発表された6編が収められているが、第一集~第三集のような普及版ではなく、まだオリジナル版が流通していている。版型は一回り大きいA5版で、表紙はエンボス加工のしてあるつや消しの紙だ。「ポジティブ・クッキング」、「運命の鳥」、「隣家の悩み」の三編は冒頭部分がカラー印刷である。値段は高いが、それだけの造本になっている。

「ポジティブ・クッキング」

 寝たきりの母親が亡くなって一年、ずっと介護をしていた妻が猛然と料理の勉強をはじめ、料理で自己実現を目指しはじめる。生きがいを見つけた妻にオヤジが自分は棄てられるのではないかとおびえ出すのがリアルだ。

「年甲斐もなく」

 一人暮らしの老いた父親が若い女とつきあいはじめ、再婚を口にしはじめる。物を貢ぐという形でしかつながれない老人の悲哀をさらりと描いているが、よくよく考えると残酷な話である。

「運命の鳥」

 心境漫画的な作品の多い本集で唯一ファンタジー色のある一編である。NHK版『高橋留美子劇場』では「君がいるだけで」とともに第二夜の中心的なエピソードになっていた。

 不幸を予兆する鳥が見えてしまう喫茶店主の話で、運命に臆病になり傍観者的な人生を送っている。NHK版では「君がいるだけで」の強気のオヤジとからませて話をふくらませていたが、原作は受け身一方なので話が広がらない。原作よりNHK版の方が面白かった。

「しあわせリスト」

 町内でボヤ騒ぎが頻発し、犯人探しがはじまる。怪しい人物はいたが……という話。二つの不幸な家族が出てくるが、主人公は傍観者にとどまっているので掘り下げようがない。不完全燃焼である。

「隣家の悩み」

 社宅に越してきて早々妻が妊娠で実家に帰り、一人暮らしをすることになった主人公が怪文書騒動に巻きこまれる。冴えない課長に不相応な美人妻という設定は面白いが、主人公が課長と共通点を持っていないので掘り下げ不足で終わっている。

「事件の現場」

 夫が海外赴任中の姉が事故に遭い、ギプスがとれるまで実家で世話をすることになる。嫁姑関係も良好でせっかくうまくいっていた家だったが、小姑がはいってきたことでぎくしゃくがはじまる。善意の行き違いだが、あまり説得力がない。

→bookwebで購入

『高橋留美子劇場〈3〉赤い花束』 高橋留美子 (小学館)

高橋留美子劇場〈3〉赤い花束 →bookwebで購入

 『高橋留美子劇場』の第三集で2000年から2005年にかけた発表された6編を収める。

「日帰りの夢」

 人生に疲れたオヤジが初恋の人に会えるかもしれないと胸をときめかせて同窓会に出席する話である。幻滅するだろうと最初から逃げ腰なのに、それでも出てしまういじらしさが泣かせる。「白い本」なんていうのも世代限定ネタだろう。

「おやじグラフィティ」

 苦労して建てたマイホームの塀がしつこく落書きされる。犯人はわかっている。強圧的な母親に甘やかされた近所の不良だ。同じ被害にあっている隣人とともにねじこみにいくが、向こうの母親に追い返されてしまう。

 というエピソードを発端に自分の息子の問題を考えるようになるという話だ。迷惑なバカ母子と同じ問題を自分の家もかかえていると気がつくという結末で、大人の鑑賞に堪える一編である。

「義理のバカンス」

 嫁が姑の温泉旅行につきあわされることになる。ただでさえ気を遣うのに、山奥の秘湯から歩いて帰る破目になる。最後の最後で救ってくれたのがよかった。

「ヘルプ」

 父親が倒れたために実家にもどって介護することになった一家の物語である。、介護疲れのためか妻が事故で入院してしまい、主人公が父親の面倒を見なければならなくなる。ありがちな話であるが、イヤガラセとしか思えなかった父親の行動の意味を理解するラストがホロリとさせる。

「赤い花束」

 NHK版『高橋留美子劇場』第一夜の中心になったエピソードで、主人公のオヤジはは小日向文世が演じていた。この人は情けないオヤジをやらせると上手いが、まさにはまり役。心の離れてしまった妻は原田美枝子で、年齢相応の美しさに息を呑んだ。こういう美しさを見ると、年甲斐もなく若さを追求する風潮は軽薄だとつくづく思う。

 原作も素晴らしい。読むべし。

「パーマネント・ラブ」

 単身赴任したオヤジの勘違い恋愛物である。恋の相手は子持ちのバツイチで、女子高生とちがってそれなりにリアリティがあるが、結末は予想通り。

→bookwebで購入

2012年08月29日

『高橋留美子劇場〈2〉専務の犬』 高橋留美子 (小学館)

高橋留美子劇場〈2〉専務の犬 →bookwebで購入

 第一集はオバサンとお婆さんが主人公だったが、第二集からはオジサンが主人公の作品が多くなる。オバサンものとオジサンものではオジサンものの方が断然面白い。作者自身もオジサンの方が描きやすいのではないか。高橋留美子の頭の中には男の脳がはいっているという説があったが、男脳は順当に年を重ねてオジサン脳になったけしきである。

 『高橋留美子劇場〈2〉専務の犬』には1994年から1999年にかけての短編6編が収録されている。いずれも粒よりの傑作である。

「専務の犬」

 NHK版『高橋留美子劇場』の第二夜にとられていた話だが、原作の方が面白い。「Pの悲劇」同様上役からペットを押しつけられるが、ペットだけではなく凄いオマケがついてくる。NHK版ではオマケをふんわりとした井上和香が演じていたが、黒木メイサのような攻撃的な美人の方がよかったと思う。主人公の夫婦の年齢を原作より若くしたのもマイナス点である。オヤジの哀愁にはそれなりの年齢が必要だ。

「迷走家族F」

 NHK版『高橋留美子劇場』の第一夜にとられていたが、原作は冬の話なのに予算の都合だろうか、NHK版は夏の話になっていた。よくできた話だと思ったが、原作の方が自然である。

「君がいるだけで」

 NHK版『高橋留美子劇場』の第二夜にとられていた話である。NHK版は最高だと思ったが、原作を読むといろいろ不満が出てくる。

 会社が倒産したために失業した元重役が弁当屋でアルバイトをはじめるという設定である。NHK版では主人公を綿引勝彦が演じて迫力だったが、原作のオヤジはもっと強力だ。綿引は最初から哀愁をにじませていたが、原作のオヤジは登場時には前向きのモーレツ・サラリーマンそのままで、哀愁のかけらもない。そのイケイケドンドンのオヤジが最後にほろりとさせるところが読ませどころなのである。

 アルバイトのタイ人の女の子も原作の方がかわいい。NHKはもうちょっと予算をつけるべきだった。

「茶の間のラブソング」

 妻を失った鰥夫男が勘違い恋愛をする話であるが、死んだばかりの妻が恋に水を差すために化けて出てくるという恐ろしい展開である。こんな作品が描けるなんて高橋留美子の中味は完全にオヤジである。「魔法のじゅうたん」のような一部の世代にしかわからないギャグがはいっていてうれしくなる。

「おやじローティーン」

 記憶喪失になって自分を13歳と思いこんでしまったオヤジの話である。ただでさえ痛いオヤジをこれでもか、これでもかといじめている。実写版にしたら面白いだろう。

「お礼にかえて」

 マンションに君臨する女王様のような住人に秘密の弱みがあったという話である。あまり面白くなかった。

→bookwebで購入

『高橋留美子劇場〈1〉Pの悲劇』 高橋留美子 (小学館)

高橋留美子劇場〈1〉Pの悲劇 →bookwebで購入

 先日、NHKで二夜にわたって『高橋留美子劇場』というコメディを放映したが、近来まれに見る傑作だった。調べたところ原作は高橋留美子氏の短編で、それぞれ三編を組みあわせて48分のドラマに仕立てていた。

 高橋氏の漫画は『めぞん一刻』が完結して以来ご無沙汰していたが、少年誌にコンスタントに連載をつづける一方、年に一本か二本よりすぐりの短編を青年誌に発表していて、『高橋留美子傑作集』としてまとめられていた。高校時代に志賀直哉が現役だったことを知った時に似たうれしい驚きをおぼえた。

 『高橋留美子傑作集』は第四集まで出ている。第一集から第三集は絶版だが、版型をひと回り小さくした普及版が『高橋留美子劇場』1~3として出ている。なお『めぞん一刻』も第1巻から第15巻まで新装版が入手可能である。完結してから四半世紀たつが世代を超えて読み継がれているわけだ。

 さて、『高橋留美子劇場〈1〉Pの悲劇』であるが、『めぞん一刻』が完結した1987年から1993年にかけて発表された短編6編が収録されいる。順に見ていこう。

「Pの悲劇」

 表題作だけあって傑作である。ペット禁止のマンションに住んでいるのに夫の上役から困ったペットを押しつけられる話で、筧さんというペット禁止を厳格に守らせようとする住民との攻防が軸になる。  どんなペットを押しつけられるのかはネタバレになるので書かないが、こんなのに来られたら困るだろう。  筧さんは悪役の役回りだが、最後に救っているところで大人の読み物になっている。

「浪漫の商人」

 今にも崩れ落ちそうな老舗の結婚式場の話である。三代つづいた結婚式場をヒロインが細腕で守ろうとするが、ついに閉鎖のやむなきにいたる。落ちが弱いが、『めぞん一刻』的な疑似家族の雰囲気が楽しい。

「ポイの家」

 夫の上司の近くに越してきたばかりに上司の家の家庭内戦争に巻きこまれる話である。骨董趣味はだいたいが家族に理解されず、ゴミあつかいされるわけであるが、部下の一家の視点から描いているのでよけい切なくなってくる。

「鉢の中」

 NHK版『高橋留美子劇場』の第一夜にとられた作品である。ネタバレになるので過激化した嫁姑問題の話とだけ書いておこう。ちょっと理屈に走りすぎたかもしれない。

「百年の恋」

 入院中のお婆さんが臨死体験で超能力を持ってしまう話である。超能力をもった後もぼけたままというのがリアルだ。人を食った面白さはさすが高橋留美子。表題作に次ぐ傑作である。

「Lサイズの幸福

 家を守ってくれるという座敷童伝説の現代版だが、未熟なお嫁さんをかわいく描こうというのが趣旨のようである。ちょっとぶりっ子かなという感じもする。

→bookwebで購入

2012年08月28日

哲学の歴史 06 知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって』 松永澄夫編 (中央公論新社)

知識・経験・啓蒙 人間の科学に向かって →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第6巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀の哲学をあつかうが、前半は英国経験論、後半はフランス啓蒙主義である。フランス啓蒙主義は英国の先進性に学ぶという姿勢があったから、この順序には必然性がある。

 もっとも冒頭でとりあげられるのはヴィーコだ。ヴィーコはコモン・センスの復興という点で英国道徳哲学に通ずるが、18世紀の思想史の中ではおさまりが悪く、時代を超えているところがある。

「総論 人間の科学に向かって」

 3巻以降の総論は面白くなかったが、この巻の総論は力がはいっている。自然哲学が自然科学に変貌した17世紀を受けて、18世紀には「近代人」が誕生し「自然」概念が更新されたとする。

 人間の経験自体が自然科学の対象となり、宗教、道徳、政治、感情生活、経済、教育、自由意志等々が探求され、権威や慣行までもが批判的に検討された。

 社会の主役は地主や貴族から実業家に交代し、実業家の活躍する英国が最先進国として仰ぎ見られた。

 医学や博物学の進歩により従来の物質/精神という対立から生命のない物質/生命という対立に分割線が移動し、精神は生命の一形態と考えられるようになった。物質・生命・精神が連続しつつ階梯をなすと見る世界像が広まり、それはスピリッチュアリズムを帰結する一方、コントの実証主義をも生みだした。

「Ⅰ ヴィーコ」

 ジャン・バッティスタ・ヴィーコは1668年ナポリの小さな本屋の息子に生まれた。早くから文法学校に通ったが、7歳の時に階段から落ちて頭蓋骨損傷で3年間学校にいけなかった。12歳でイエズス会の学校に移るがすぐに退学。

 ヴィーコは独学を通したといわれるが、まったくの独学ではなくインヴェスティガンテ(自然探究者)と呼ばれる知的サークルに出入りし、デカルト、ガリレオ、ガッサンディ、ベイコンらの新知識を吸収した。

 1686年ヴァトッラという僻地の領主の家庭教師になった後、1699年王立ナポリ大学の修辞学教授になる。修辞学教授の俸給は法学教授の1/6だったので、本人は法学教授を希望しつづけたが、最後までかなえられることはなかった。

 修辞学教授は開講講演をおこなうのが慣例だったが、1708年は特別だった。当時ナポリはハプスブルク家のカールの軍隊に占領されており、大学は恭順の意を示すために開講講演をカールに捧げることにしたのである。ヴィーコは特に力をいれて講演を準備し、翌年大学の費用では『学問論』として出版された。

 若い日のヴィーコはデカルトらの新思潮の影響下にあったが、『学問論』では数学の明証性を範とするデカルトの真理の基準をクリティカと呼んで批判し、クリティカに先行するトピカの復権をはかるとともに「真らしく見えるものの」を擁護した。幾何学化された自然学と自然自体を同一視するのはおかしいという指摘もあり、フッサールの『幾何学の起源』を先取りしたという評価もある。

 『ラテン語の紀元から導き出されるイタリア人の太古の知恵』、『普遍法』の後、1725年に『新しい学』を刊行する。『新しい学』は1730年に全面的に書き直した第二版が出て、没後に増補改訂版が出ている。1728年には『自伝』をカロジェラ編『学芸文選』に発表する。

 1735年王国修史官に就任し1744年に死去。享年75。

 ヴィーコは主著は『新しい学』だが、新しい学とはなんだろうか。ヴィーコは社会制度や文化は人間が作ったものであり「それの諸原理は私たち人間の知性の諸様態のうちに見出すことができる」として、人文科学が学問として成立することを宣言した後、文化の初源にさかのぼり、最初の人間たちは野暮で知性を欠いていたが、全身感覚と想像力の塊であり、天性の「詩的知恵」で神々の像や英雄の像を創造したと考えた。「異教世界の最初の諸国民は自然本性上の必然からして詩人であり、詩的記号によって語っていた」というわけである。

 ヴィーコは「人類の共通感覚」を真理の唯一の規準とする「新しい批判術」と古語や古物に痕跡をとどめる「言語すべてに共通の知性のうちなる語彙集」の発掘を提唱した。「感覚的トピカ」こそが人類最初の知性の形態だというわけである。

「Ⅱ ロック」

 ジョン・ロックは1632年サマセット州リントンのピューリタンの家に生まれた。ジェントリーの家柄で父ジョンは法律を学び治安判事ポパムの書記になった。1642年に内乱がはじまるとポパムは議会派軍の大佐になり、父もしたがった。議会派の勝利の後、国会議員になったポパムの推薦でロックはウェストミンスタースクールに入学し、オックスフォードのクライスト・チャーチ学寮に進み医学を学んだ。

 ロックは旧来の学問にあきたらずロイヤル・ソサエティの前身である実験哲学クラブに出入りし、ロバート・ボイルから実験科学と微粒子説を学んだ。ピューリタンの信仰には距離をおくようになったらしい。

 1667年アシュリー卿に気に入られて侍医兼政治顧問となり、以後、政治的浮沈をともにするようになる。1672年アシュリー卿はシャフツベリー伯になり大法官に就任するも、翌年解任。シャフツベリーはホイッグ党の前身を結成して国王派に対抗するが、ロックにも火の粉が降りかかりフランスとオランダに亡命する破目に。フランスではナントの勅令廃止でユグノーが虐殺され、追放されるのを目撃する。オランダでは後のピーターバラ伯爵の推薦でオラニエ公ウィレムの助言役になっている。

 亡命中の1686年『人間知性論』を書きあげる。『人間知性論』の抜粋が仏訳され、ロックは哲学者として知られるようになる。1689年名誉革命がなると、ロックはロンドンにもどり『統治二論』と『人間知性論』を刊行する。大使の職を勧められるが、訴願局長という閑職について執筆に専念するようになる。1704年マシャム夫人にみとられて亡くなり、遺体はハイレイヴァー教会に埋葬された。享年72。

 『人間知性論』はタブララサ説が有名だが、本章の要約を読む限り『純粋理性批判』とよく似ている。カントはヒュームの影響を明言しているが、『人間知性論』にも相当影響されたのではないか。

 ロックは唯名論を継承し「唯名的本質」nominal Essenceと「実在的本質」real Essenceを区別する。人間の心は実在的本質を知ることはできず、唯名的本質で一つの種類に分類するだけだとされる。実在的本質とは唯名的本質を支える物質的構造ということだが、カントの記号論との関係はどうなっているのだろう。

 ロックの政治論は自由主義と寛容論が柱だが、ロックにおける寛容とは日本人の考えるような寛大さではなく異質な立場を我慢することだという指摘はコロンブスの卵だった。確かにtolerateの語源のtoleroは「我慢する」「忍耐する」という意味だ。カトリック教徒と無神論者は寛容から除外されていたというのには驚かされた。政教分離という思想もまだ生まれておらず、統治者の刑罰権は宗教から分離されるべきとする刑教分離にとどまっていたというのもむべなるかな。

 自由主義については個人財産の保護である「プロパティの原理」がすべての基礎になっており、笑ってしまうくらい論理的に一貫している。

 ロックは前半生を政治闘争についやしただけに悪政に対抗する権利の確立に力を入れている。個人の発動する抵抗権、国民の発動する革命権にくわえて、緊急避難的な「天への訴え」の原理を提唱している点が興味深い。「天への訴え」an Appeal to Heavenとは戦争状態や無政府状態で裁判官が不在だったり、公平な裁きを行なわない場合の最後の手段で、良心的判断にもとづき実力を行使して権利回復してよいとする権利だ。神を恐れない現代には成立しない考え方である。

「Ⅲ バークリ」

 ジョージ・バークリは1685年アイルランドのキルケニーに生まれた。大バッハやヘンデルと同い年でバロック時代のまっただなかに生をうけたことになる。スウィフトも学んだキルケニー・カレッジで学んだ後、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学する(当時は14、5歳で大学に入学した)。

 1707年、トリニティのフェローになり義務として聖職についた。この頃に書いた『哲学的評注』という思索ノートが残っており、バークリの哲学が形成されていく過程が手にとるようにわかるという。1709年に『視覚新論』、翌年『人知原理論』を刊行する。わずか24、5歳で哲学史に残る本を書いたわけである。

 1712年にはアイルランドを出てロンドンとオックスフォード、さらにはイタリア、フランスにまで足を伸ばす。

 1720年にロンドンにもどり、バミューダ島に大学をつくって学問と不興の拠点にしようという「バミューダ企画」にとりかかる。1728年に結婚すると、英国政府の下賜金がおりないうちにアメリカにわたる。「バミューダ企画」自体は資金のめどがつかずに挫折するが、2年間の滞在中にアメリカの知識人と交流し多大な影響をあたえた。今日アメリカにバークリーの名を冠した地名や学校が多いのはこのためだという。

 1734年アイルランドにもどり、クロインの監督Bishopに就任する。1752年にはオックスフォードに移り、翌年死去。67歳だった。

 バークリはロック、ヒュームとともに英国経験論の三羽烏としてあつかわれてきたが、最近はロックの影響よりもマルブランシュの影響の方が重要だという見方に変わってきているという。ヒュームがバークリを読んでいたかどうかは怪しいらしい。

 バークリというと唯物論者が戯画的に槍玉にあげる、物質の存在を否定した絵に描いたような観念論で有名だが、難物だけに本章の解説も一回読んでわかるというわけにはいかない。記述は錯綜しているが、最後まで読むと抽象観念批判と「黙従モデル」と呼ばれる身体論が二本柱になっているとわかってくる。

 『視覚新論』は読んだことがあるが、触覚で知覚された世界が最初にあって、視覚でとらえられた観念は触覚でとらえられた観念の記号にすぎないという考え方に虚を突かれたものだった。本章ではバークリの哲学の核心は『視覚新論』にあるとし、触覚を精密化したのが受動性をはらみつつも身体の活動によって観念が産出されていくとする「黙従モデル」なのだという。

 物質が存在しないという悪名高い主張については抽象観念批判の一環という解釈のようだ。カントの物自体のような知覚されない抽象観念としての物質を否定しただけで、実在そのものを否定したわけではない。バークリは知覚された実在が観念と呼ぶが、「私たちは観念を食べ、観念を飲み、そして観念を着ている」「私たちは自然の中のいかなるものも奪われることはない」というわけだ。『人知原理論』は読まなくては。

「Ⅳ ヒューム」

 デビット・ヒュームは1711年エディンバラにジョゼフの次男として生まれた。父ジョゼフはイングランド国境のナインウェルズの小ジェントリーで、冬季はエジンバラで弁護士をしていた(地主が冬にエジンバラに集まるのは当時の習慣)。

 エジンバラ大学で学ぶが、当時の習慣で学位をとらずに学業を終え、自宅で法律の勉強をつづける。次男で家を出なければならなかったヒュームは1734年ブリストルで貿易商に雇われるがすぐに辞め、フランスに留学する。ランスに滞在するが、生活費の安いラ・フレーシュに移り、デカルトの学んだ学院の図書館に通いながら『人性論』執筆する。

 1739年から翌年にかけて『人性論』を刊行するがまったく売れなかった。エッセイなら売れるかと思い、『道徳政治論集』を出版。そこそこ売れて自信をとりもどす。

 1744年エジンバラ大学の教授に招聘されるが『人性論』に無神論の嫌疑がかかりかなわず。この後も大学から何度か話があるが『人性論』のために教職にはつけなかった。

 1748年セント・クレア将軍の軍事使節に随行しウィーンとトリノに。同年出版された『法の精神』に感銘を受け、モンテスキューに書簡を送る。モンテスキューはヒュームを認めた最初の思想家となる。

 ナインウェルズにもどって著述に専念するが、兄が結婚したのでエディンバラに移りアダム・スミスと知りあう。1752年エディンバラ法曹協会図書館長に就任。3万冊の蔵書が自由に使えるようになり『イングランド史』の執筆にかかる。『イングランド史』は1754年から62年にかけて刊行し、生前最も評価された著作となる。1753年からは著作集刊行するが『人性論』は除く。名前があがるとともに批判も多くなる。

 1763年駐仏大使となったハートフォード卿に随行しフランスへ。サロンで「ル・ボン・ダヴィッド」と呼ばれ人気者に。ブルレール伯爵夫人、ダランベール、ディドロ、ドルバック、ルソーらと親しくなる。1766年の帰国にあたっては周囲の制止にかかわらずルソーをともなうが、すぐに関係が悪化。喧嘩別れする。

 1770年エディンバラに引退。1776年『自伝』を完成させた後、療養のためにロンドンとバースに。スコットランドにもどって死去。

 1750年に書きあげていたが発表できずにいた『自然宗教に関する対話』を1779年に甥が出版する。

 『人性論』の解説は観念の定義から因果関係の発生まで手際よくまとめてあり、『人性論』を読んでいなくても十分論理がたどれるだろう。

(つづく)

→bookwebで購入