« 2012年06月 | メイン | 2012年08月 »

2012年07月31日

『現代語訳 舞姫』 山崎一穎監修、井上靖訳 (ちくま文庫)

現代語訳 舞姫 →bookwebで購入

 『舞姫』の現代語訳が必要とされる現状は残念であるが、井上靖が訳した『舞姫』があるというので読んでみた。

 もともとは1982年に学研から出た『カラーグラフィック明治の古典』シリーズの鷗外の巻のために訳されたが、2003年に筑摩書房から出ている高校用の国語教科書『精選 現代文』に再録された。ちくま文庫版は『精選 現代文』の方を底本としたとのことである。

 表紙には豊太郎とエリスが出会った「古寺」の最有力候補とされてきたマリエン教会の絵があしらってあるが、六草いちか氏の探索によってガルニゾン教会と判明した以上、いずれ変えなければならないだろう。

 鷗外の原文と井上靖の現代語訳にくわえて監修者の山崎一穎氏による60ページ近い解説があり、さらに資料篇として星新一『祖父・小金井良精の記』と小金井喜美子「兄の帰朝」のエリス関連部分の抜粋、前田愛氏の『都市空間のなかの文学』から『舞姫』を論じた「BERLIN 1888」の抜粋が収められている。星新一と小金井喜美子の文章はエリス問題の一次資料として定番だし、「BERLIN 1888」は日本文学の研究に都市論を導入したことで知られる有名な論文である。

 欲をいえば森於莵と小堀杏奴の抜粋がほしかったし(小金井喜美子はなくてもいい)、『うた日記』から「扣鈕」をもってきてもよかっただろう。

 『舞姫』の原文と現代語訳は一回り大きな活字でゆったりと組まれ、下段に注釈がはいるようになっている。原文49ページに対して現代語訳は58ページと20%ほど増えている。日本の作家には大きくわけて和文系統の人と漢文系統の人がいる。鷗外はもちろん漢文系統だが、井上靖もそうである。井上靖の文章も簡潔といわれているが、それでも20%近くも増えてしまうのだ。

 井上靖は『舞姫』をどう料理しているか。豊太郎がエリスと出会う場面を読み較べてみよう。まず現代語訳。

 相手はおしはかれぬほどの深い歎きに遭って、あとさき顧みるひまもなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は憐愍の情に打ち負かされて、私は思わずそばに寄って、「なぜ泣いておられるのか。この土地に繋累のない外国人の私は、却って力を貸して上げ易いこともあろう」と言いかけたが、われながら自分の大胆さに呆れている気持ちだった。

 台詞がまるっきり井上靖調なのが笑える。同じ箇所の鷗外のテクスト。

 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人よそびとは、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 「嘆き」を「歎き」、「係累」を「繋累」のように井上訳の方が見慣れない漢字を使っているように思うかもしれないが、本書に収録された「原文」は高校生向けのテクストなのか、見慣れた漢字に書き直されている。オリジナルに近い「青空文庫」から引用すると以下のようになる。

 彼ははからぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人よそびとは、かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 井上訳は鷗外の措辞をできるだけ忠実になぞろうとしていることがわかるだろう。訳文もほとんど直訳といっていいくらい原文に近い。鷗外に対する敬愛の念がそれだけ深いということだと思う。

 いい現代語訳だと思ったが、高校生は見慣れない漢字に尻ごみしてしまうかもしれない(大学生だって怪しい)。ここは現代語訳と割り切り、著作権継承者の了解をもらった上で普通の文字遣いに変えるのも一法だろう。

 むしろオリジナルに近づけるべきは「原文」である。なぜあのような中途半端な「原文」を載せたのか理解に苦しむ。

 ぜひやってほしいのは本文の校異だ。「舞姫」は1890年に『国民之友』に掲載されたが、1915年に『塵泥』所載の決定版にいたるまでに五つの版があり、推敲を重ねているようである。六草いちか氏の探索では異文が重要なヒントになっていたが、せっかく脚注欄を設けたのだからを異同を示してほしい。原文自体は「青空文庫」でも読めるが、文庫版で改稿の過程がわかるとなれば買おうという人は多いのではないだろうか。

→bookwebで購入

『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』 荻原雄一編 (至文堂)

『舞姫』エリス、ユダヤ人論 →bookwebで購入

 エリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトの実像が判明したのだから今さらであるが、何が書いてあるのだろうという好奇心から読んでみた。ユダヤ関係では凡人には理解しがたい天才的なひらめきで書かれた本をよく見かけるが、本書も超天才のひらめきを満載した本だった。

 たとえば劈頭に置かれた「『舞姫』再考」の「エリーゼの腸の長さは」という条。この論文の著者で本論集の編者でもある荻原雄一氏はユダヤ人には食物の禁忌があると指摘して次のようにつづける。

 では、ユダヤ人の腸の長さは、どうであろうか。彼らはヨーロッパに住みながら、日本人と似たような食事をしている。鷗外が興味を持たない訳はないだろう。

 しかも、この『日本の食物問題』は、カルルスルーエへ旅立つ十日前に、ベルリンで(それもクロステル街に下宿していたときに)書きあげたのだ。この時期を考慮しながら、エリスのモデル問題に触れると、刺激ある結論が出るのではないだろうか。

 確かに刺激的な結論である。鷗外がエリーゼに近づいた理由は彼女の腸の長さにあったからというのだから。ユダヤ人の腸が東洋人なみに長いとはナチスの人類学者もびっくりであろう。

 同じ論文には豊太郎とエリスが出会った場面で、豊太郎が葬式代のために時計をわたしたのは「小説構成上の破れ目」だという指摘もある。金のもちあわせがないならいったん下宿にとりに帰るかエリスを下宿の前まで連れてくればよく、時計をわたすのは不自然だというのである。

 なぜそれが不自然なのか、わたしは頭が鈍いので理解できないが、荻原氏はエリスがゲットーの住民ならこの問題は解決すると書いておられる。

 ところが、エリスはユダヤ人の貧民階級で、ユダヤ人街、それもいわゆるゲットーに住んでいる設定なのだ。すると、この小説の構成上の破れ目の場面は、少しも破れ目でなくなる。つまり、ゲットーの扉は、夜になると締まってしまうのだ。外部との交流はいっさいできなくなる。このため、豊太郎が下宿にお金を取りに帰って戻って来ても、ゲットーの中に入れない。またエリスをつれて行ったら、今度はエリスが戻れない。

 すなわち、時計を置いてくるしか方法がないのである。

 天才的な着眼で敬服するしかないが、ただ一つ難点がある。ベルリンにはゲットーがなかったことである(山下萬里氏は「森鷗外『舞姫』の舞台・三説」(本書所収)でゲットーがなかったという文献を引用しておられるが、荻原説に疑問を呈してはおられない)。

 他にもエリスの言葉が訛っていたのは両親が地方出身者だからではなくユダヤ人だからだとか、母親がエリスを身売りさせようとしたのは律法にしたがうためだとか(「母の背後には神がいる」)、森家がエリスとの結婚に反対したのは彼女がユダヤ人だったからだとか、天才的な断定が次々とくりだされる(ユダヤ団体が知ったら目を剥くだろう)。しかし後につづく諸論文に一番影響したのは次の条だと思われる。

 結局、ヴァイゲルトもヴィーゲルトもワイゲルトも、みな源は<ヴァイカント>で、ユダヤ人のファミリー・ネームである。このため、カール・ヴァイゲルト博士とエリーゼ・ヴァイゲルト(ヴィーゲルト)に縁故関係があろうがなかろうが、博士もエリーゼもそのファミリー・ネームからユダヤ人なのである。

 根拠といってもヴァイゲルトという姓の著名なユダヤ人がいたという程度のことではないかと思うが、ユダヤ問題のような不案内な分野で自信たっぷりに断言されてしまうと、わたしのような知能の低い人間はそうだったのかと恐れいってしまう(この説になんの根拠もないことは六草いちか氏が『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』でナチスの国勢調査を史料に論証済みである)。

 カール・ヴァイゲルトとエリーゼ・ヴァイゲルトという名前が出てくるが、前者は金山重秀氏の「エリーゼの身許しらべ」(本書所収)が見つけだしてきた名前で、鷗外がライプチヒ大学に籍をおいていた当時、病理学研究所所長代理の職にあった。金山氏はカール・ヴァイゲルトの姉妹がエリスのモデルではないかという説をたてておられる。金山説を発展させたのがテレビ朝日系列で1989年5月に放映された「百年ロマンス・舞姫の謎」で、番組ではカール・ヴァイゲルトの周辺を調査してエリーゼという女性を発見した。鷗外と別便で来日した女性の名前がいくつかの英字新聞の船客名簿に残っているが、一紙だけ Elise Weigertとなっている例があり、まさにその名前の女性が見つかったのである。

 わたしは「百年ロマンス」を見ていないが、本書の中の詳細な紹介によると番組はエリーゼ・ヴァイゲルトを中心に作られていたようである。彼女は1857年にフランクフルトの裕福な銀行家フルダ家に生まれ、実業家のリヒャルト・ヴァイゲルトと結婚した。結婚直後から第一次大戦までベルリンの自宅で文学サロンを主宰していたが、日本文化に関心が深く日本の文物をならべた「日本の間」を作っていた。彼女は鷗外より5歳年長で、鷗外が留学していた頃には二人の子供がいた。もし彼女が鷗外を日本に追いかけてきたとなると不倫ということになる。彼女の息子の嫁と孫にインタビューしたが、日本に行ったという話は聞いていないと答えたとのこと。番組の最後では彼女が埋葬されているユダヤ人墓地が映しだされたようである。番組がヴァイゲルト姓がユダヤ人特有の姓であるとしていたかどうかまでは本書ではわからなかった。

 金山論文のカール・ヴァイゲルト周辺説で提起されたエリス=ユダヤ人説を「百年ロマンス」がエリーゼ・ヴァイゲルトという実在の女性で「実証」した形になり、鷗外研究者にエリス=ユダヤ人説を注目させたが、5歳年長の二人の子供のいる人妻では『舞姫』のエリスと違いすぎる。

 この難点を解決しエリス=ユダヤ人説が認知される契機となったのが荻原雄一氏の「「エリス」再考」という論文のようである。本書には14本の論文が収録されているが、そのうちの12本は「百年ロマンス」が放映されて以降に発表されており、いずれも荻原論文を参照している。

 荻原論文は「日本の間」を作ったこと自体が彼女がエリスではない証拠だと指摘する。愛人を追いかけて日本とドイツの往復に3ヶ月、日本滞在に1ヶ月、合計4ヶ月も家を空けておいて元の鞘におさまるのは難しいし、万が一夫が許したとしても、堂々と「日本の間」を作るわけにはいかないだろうというのだ。

 もっともな推論であるが、ここから荻原氏の超天才の推理がはじまる。

 荻原氏はヴァイゲルト夫人がエリスではないと断定しながら、鷗外とは関係があったはずだという。一例だけにせよ船客名簿と一致したエリーゼ・ヴァイゲルトという名前、エリスというニックネーム、そしてカール・ヴァイゲルトの縁者という点をあげ「これを偶然だ、ではとても片付けられない」とする。

 この矛盾を解決するために荻原氏はヴァイゲルト夫人の文学サロンには男客をもてなすために歌手や踊り子といった芸能関係の仕事に就いている貧しいユダヤ人の娘を集めていたはずだと断定する(実地調査をしたわけではなく、超天才のひらめきにもとづく断定である)。そして、こう書いておられる。

 ここで、一つの推理を提言する。舞姫のエリスのモデルであり、鷗外を追って来日した少女は、エリーゼのサロンの片隅に咲いた、この<小さな草の華>のうちの一人ではなかったか。

 この後、<小さな草の華>説の物証として「百年ロマンス」に登場した九谷焼の皿の考察がおこなわれるが、超天才の炯眼によって謎の少女<A>にたどりつく推理は凡人の頭ではとてもついていけない。

 荻原氏は「百年ロマンス」を批判しておられるが、真下秀樹氏が「『舞姫』と19世紀ユダヤ人問題」で荻原論文を「この番組の結論を延長した線において独自の結論を出している」と評価しておられるように、「百年ロマンス」の否定ではなく批判的継承というべきだろう。西成彦氏も『世界文学のなかの『舞姫』』巻末の「読書案内」で「本論集も大筋では(「百年ロマンス」と)同じ流れに沿っている」と要約しておられる。本論集に掲載された論文はいずれも荻原説を当然の前提として受けいれて論を展開しており、荻原氏のエリス=ユダヤ人説が鷗外研究者の共通理解になっている情況がうかがえる。

 本書には荻原氏以外にも犀利な洞察を披瀝した論文が多数おさめられている。山下萬里氏は豊太郎とエリスの出会った「古寺」を考証し、『舞姫』には少数の読者のみが解読できる一種の暗号が仕込まれていると指摘しておられる。

 『舞姫』には、当時の日本の一般的読者以外に、ベルリン事情に通じた少数の読者もいるはずだった。作者の戦略は、一般読者には「古寺」にマリア教会を想定させ、後者の読者には旧シナゴーグを透視させることであった。テクストには「頰髭長き猶太教徒の翁」とある。これが作者の送るサインである。

 何という鋭い天才的な読みであろう。眼光紙背に徹するとはこのことだ。ただただひれ伏すほかはない。

 なお本書の前年に出版された植木哲氏の『新説 鷗外の恋人エリス』について「<あとがき>にかえて」で荻原論文のパクリという見方が示されているが、植木氏の研究は地道な実地調査によって「百年ロマンス」の結論を全面否定したのであって、超天才のひらめきによって書かれた論文とは性格を根本的に異にする。

 それにしても「百年ロマンス」という番組の影響力には驚かされる(こういうトンデモ番組はぜひ見てみたい。誰かYouTubeにあげてくないだろうか)。エリス=ユダヤ人説はいい加減なテレビ番組が学界をひっかき回した例として記憶されるべきだろう。

→bookwebで購入

2012年07月30日

『世界文学のなかの『舞姫』』 西成彦 (みすず書房)

世界文学のなかの『舞姫』 →bookwebで購入

 『舞姫』が海外でどう読まれているかを研究した本かと思って手にとったが、まったく違った。本書はよく知られた名作を従来とは異なった視点から若い読者に紹介する「理想の教室」シリーズの一冊だが、『舞姫』を祖国喪失文学として読もうという試みなのである。著者の西成彦氏はポーランド文学者で、ゴンブロヴィッチなど東欧ユダヤ人の祖国喪失文学を研究している人だ。

 『舞姫』が祖国喪失文学とはどういうことか? 『舞姫』は日本に向かう船がサイゴンに停泊した際、一人船室に残った太田豊太郎が書き綴った手記という体裁をとっている。豊太郎はエリスを捨てて帰朝の途についたが、西氏はサイゴンで手記を書きあげたことで決断の機会をもったのではないかというのだ。

 太田豊太郎には、そのまま日本へ送り返されるがままになるという安易な選択肢もあれば、いっそ思い切って船を離れ、ヨーロッパ行きの船を待つことだってできたのではないでしょうか。

 西氏は『舞姫』は豊太郎の決断を読者の想像にまかせるオープンエンディングの小説だったのではないかと問題提起しているのである。

 『舞姫』を二度読みかえし、井上靖による現代語訳も読んでみたが、「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」という最後の文に豊太郎がエリスの元にもどる可能性を読みこむのはいささか無理筋ではないか。

 しかし西氏が補助線として紹介した伊藤清蔵の生涯は刺激的である。

 伊藤清蔵は札幌農学校で学んだ後、農学研究のためにドイツに留学して下宿先の娘オルガと将来を誓いあうようになる。伊藤はいったん帰国するが、再び渡欧してオルガと結婚、そのまま南米アルゼンチンに移住する。アルゼンチンではアジア人は土地を購入できなかったが、伊藤はオルガ夫人の名義で農場を取得し南米各地の入植地から逃げてきた日本人移民を集めて農場経営を成功させた。

 西氏は伊藤を「南米の豊太郎」と呼んでいるが、『舞姫』がオープンエンディングかどうはともかくとして、恋愛のために祖国を捨てた日本人留学生が現実にいたとは!

 わたしが伊藤の存在に衝撃を受けたのは六草いちか氏が『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の最後にしかけた爆弾が気になっていたからである。

 エリーゼ・ヴィーゲルトは滞日一ヶ月余で説得されてドイツに帰るが、少しの憂いも見せることなく「舷でハンカチイフを振つて別れていつた」(小金井喜美子「次の兄」)という。あまりにも穏やかな別れだったので「人の言葉の真偽をしるだけの常識」に欠けた頭の弱い女とバカにされるほどだった。

 六草氏はエリーゼがおとなしく日本を離れたのは鷗外がすぐに後を追うと約束していたからではないかと推理している(あくまで推理であって、エリーゼ発見の業績とは別である)。

 まさかと思ったが、伊藤清蔵のような人が実際にいたとなると、鷗外がエリーゼに再会を約束していたという仮説は俄然現実味を帯びてくる。

 鷗外はゴンブロヴィッチのような祖国喪失文学者になってドイツ語で作品を発表していただろうか。もしかしたらノーベル文学賞の日本人第一号受賞者になっていたのではないか。

 もし鷗外がエリーゼを選んでいたとしたら日本近代文学はどうなっていただろうと空想するのは楽しいが、現実の鷗外は極度のマザコンだったから母親を捨てることはできず、赤松登志子との結婚を受けいれてしまう。鷗外はエリーゼを二度裏切ったのである。

 六草氏は山縣有朋の欧州視察に随行した賀古鶴所がベルリンでエリーゼと会い、鷗外の結婚を伝えたのではないかと推定している。『舞姫』は賀古の帰国後に書かれているから、もしそうだとするとエリスの狂乱は鷗外の裏切りを知ったエリーゼの姿を反映しているのかもしれない。『舞姫』はいろいろな読み方を誘う作品である。

→bookwebで購入

2012年07月29日

『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』 六草いちか (講談社)

舞姫エリスの真実 →bookwebで購入

 昭和8年に森於莵が父親のドイツ人の恋人の存在をおおやけにして以来つづいていた『舞姫』のモデル探しに終止符を打った本である。

 著者の六草いちか氏はベルリンに20年以上在住するジャーナリストで、リサーチの仕事もしているという。本業の合間に行きつもどりつした探索の過程が書かれているが、まさにプロの仕事で、次々とくりだされる的確な背景情報に圧倒される。的確な背景情報を一つ書くにはその十倍、いやそれ以上の知識が必要になることを考えると気が遠くなってくる。リサーチのプロが本気になるとここまで調べることができるのである。

 六草氏がつきとめたエリスはフルネームをエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトといい、1866年9月15日にシュチェチン(現在はポーランド領)で生まれた。2歳下のアンナという妹がいる。1898年から1904年まで帽子製作者としてベルリン東地区に在住したことが確認されており、小金井喜美子が鷗外からの伝聞として記した「帽子会社」に勤めているという内容と符合する。

(本書の続編の『それからのエリス』で六草氏はエリーゼの親族をつきとめて写真を入手し、さらに彼女が日本に旅行したという話が一族に語り継がれていたことを確認している。)

 父ヨハン・フリードリヒ・ヴィーゲルトは1839年オーバヴィーツコ生まれで、フリードリヒと呼ばれていた。ブランデンブルク第三輜重大隊に勤務した後、ベルリンで除隊。そのままベルリンにいついて銀行の出納係となったが、1882年頃に亡くなっている。

 母ラウラ・アンナ・マリー・キークヘーフェルは1845年シュチェチン生まれで、マリーと呼ばれていた。ベルリンに出てお針子をしていた頃にフリードリヒと知りあい、エリーゼを身ごもって軍人のための教会であるガルニゾン教会で結婚式をあげた。エリーゼの生地がシュチェチンとなっているのは実家にもどって出産したからだろう。夫と死別したマリーは仕立物師として娘二人を育てあげた。鷗外の三番目の下宿の家主であるルーシュ夫人はマリーに仕事をまわしていた。

 鷗外と知りあった頃、エリーゼは20歳か21歳だった。『舞姫』の決定稿ではエリスは「十六七なるべし」となっているが、第一稿には「まだ二十にはならざるべし」とあり年齢的にも一致する。

 母マリーは自分名義で部屋を借りているので下流よりは上の暮らしをしていたと思われるが(ベルリンでは入居審査が厳しく又貸しが多かった)、財産のない母子家庭では日本までの旅費の工面が問題となる。日本までの船賃は一等船室1750マルク、二等船室1000マルク、三等船室440マルクで、エリーゼは一等船室で来日している。陸軍が鷗外に支給した一年間の留学費が当初1000円(4000マルク相当)だったことを考えると、1750マルクはかなりの額である。

 六草氏は鷗外には翻訳の副収入(原稿用紙1枚で12マルク程度)があったので十分可能だったとし、傍証として一等船室を選んだことをあげている。当時は一等も二等も個室だったから、エリーゼが自分で船賃を出したなら二等船室にしたはずだというのである。彼女は鷗外と結婚して日本に永住する覚悟で出国しただろうから、異国の生活にそなえて倹約すると考えるのが自然だろう。一等船室は鷗外が花嫁のために奮発した可能性の方が高そうである。

 エリーゼの周辺が明らかになった結果、『舞姫』には多くの事実や実景が埋めこまれていることがわかってきた。第一稿と決定稿の間で鷗外はエリスの年齢を下げるとか、教会の場所を曖昧化するといった改変をおこなっているが、いずれも事実をフィクション化する方向の改変だった。

 根強く唱えられてきたエリスのモデルがユダヤ人だったとか、エリスはユダヤ人として描かれているという説はまったく根拠がなくなった。

 エリス=ユダヤ人説は一部には以前からあったようだが、1989年にテレビ朝日系列で放映された「百年ロマンス・舞姫の謎」で広く知られ、鷗外研究者の間でも話題になって『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』という論集まで生まれている。「百年ロマンス」ではエリスのモデルはエリーゼ・ヴァイゲルトという鷗外より5歳年上のユダヤ系の人妻としていたが、作中のエリスと違いすぎるのでヴァイゲルト家のサロンで奉仕していた貧しいユダヤ人娘ではないかとか、エリーゼ・ヴァイゲルトという名前の未発見の女性(ヴァイゲルトという姓からユダヤ人とされる)がいるのではないかといった説が広まった。鷗外記念会の機関誌「鷗外」の88号には今野勉氏の番組と著書に関する感想や批判が掲載されているが、エリス=ユダヤ人論が鷗外研究者の間に深く浸透している現状がうかがえる。

 こうした説が根拠とするのはヴィーゲルトもしくはヴァイゲルトという姓がユダヤ人特有の姓だという頭ごなしの断定だが、実際はどうなのか。六草氏は驚くべき材料を持ちだして決着をつけている。1939年にナチスがおこなった例の国勢調査である。

 この国勢調査はユダヤ人をリストアップするために行なわれたもので、四人の祖父母についてユダヤ系かそうでないかを記録するようになっていて、1/2ユダヤ人とか1/4ユダヤ人という判定ができ、1941年からはじまったユダヤ人強制収容に威力を発揮した(その際活躍したのがIBMのパンチカード・システムで、エドウィン・ブラックの『IBMとホロコースト』に詳しい)。

 まさかと思ったが、その時のデータのうち、ユダヤ人とユダヤ人と同居していたドイツ人60万人分が保存されており、制限つきだが検索可能な形で閲覧できるというのである。

 60万人のうちヴィーゲルト姓は3世帯7人いたが、2人はユダヤ系女性と結婚した非ユダヤ系男性だった。生存者が一人もいないということで六草氏は特別に生データの閲覧を許されたが、ユダヤ系の5人もユダヤ系なのは父方の祖母か母方の祖父母に限られ、父方の祖父がユダヤ系という例は一人もいなかった。ヴィーゲルトという姓はユダヤ人の姓ではないのである。

 ヴァイゲルト姓はドイツ全土で52人、ベルリン市内で29人いた。ヴァイゲルト姓を伝えるユダヤ人がいたのは確かだが、典型的なユダヤ姓かどうかを判定するためにナチスが政権をとる以前の1930年の電話帳と、ユダヤ人の強制収容がはじまって以後の1943年の電話帳の比較をおこなっている。ヴァイゲルト姓は58世帯から34世帯に減っているが、典型的なユダヤ姓とされるコーンが1300世帯から28世帯に激減していることを考えると「ヴァイゲルト姓の中にはユダヤ人もいた」と言えても「ヴァイゲルト姓はユダヤ姓である」とは言えないという結論になる。

 エリスの住居はゲットーに設定されていて、夜間外出ができないので質屋に行けなかったという説についてはベルリンにはそもそもゲットーはなかったと一蹴している。

 鷗外と出会った頃のエリーゼの住所はまだわかっていないが、鷗外の第二の下宿の界隈は貧民街でユダヤ人が多かった。『舞姫』に「頰髭長き猶太教徒の翁」のたたずむ居酒屋が登場するのはエリスの出自を暗示するためではなく、単に実景を写しただけと考えられる。エリスと豊太郎が出会った「クロステル巷の古寺」がシナゴーグという説もあったが、ヴィーゲルト家と関係の深いガルニゾン教会であることが確定した。『舞姫』にはユダヤ的なシンボルがちりばめられているとする見方があったが、単なる半可通の思いこみだったのだ。

 本書で一つ引っかかっていることがある。六草氏がエリス探しをはじめるきっかけとなったM氏のことである。

 射撃練習の後の会食で鷗外と『舞姫』の話題が出たおり、M氏というドイツ人が発した「オーガイというその軍医、その人の恋人はおばあちゃんの踊りの先生だった人だ」という言葉がすべての発端だったが、当該人物はエリーゼが来日した1888年生まれだったとわかり最初の探索は不発に終わる。

 六草氏とM氏のやりとりを読んでいるとM氏の発言はきわめて具体的であり、口から出まかせを言っているようには思えない。もしかすると第一次大戦前夜にベルリンに留学した日本人軍医が踊り子と恋に落ちるという、『舞姫』を地でいくような出来事があったのかもしれない。その頃には『舞姫』は広く読まれていたわけで、ベルリンに留学する軍医が読んでいたとしてもおかしくない。M氏の話の真相が知りたくなった。

→bookwebで購入

2012年07月28日

『鷗外の恋人 百二十年後の真実』 今野勉 (NHK出版)

鴎外の恋人 百二十年後の真実 →bookwebで購入

 2012年11月19日、NHK BSで「鷗外の恋人~百二十年後の真実~」というドキュメンタリ番組が放映された。本書はその書籍版である(DVDも出ている)。

 著者の今野勉氏は番組をNHKと共同製作したテレビマンユニオンのプロデューサーで、鷗外を主人公にしたTVドラマ『獅子のごとく』を製作して以来、エリス問題に関心があったとのこと。

 番組は植木哲氏のエリス=アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト説にもとづいているが、植木説には以下のような難点があった。

  1. 船客名簿の名前(エリーゼ)と異なる
  2. 15歳の娘を船旅で40日もかかる日本へ一人で行かせたのはおかしい
  3. アンナ・ベルタが相続した財産が容易に現金化できるか不明
  4. 状況証拠だけで、エリーゼがアンナ・ベルタだという決め手がない

 番組では第一の難点については当時はドイツを出国するにも日本に入国するにもパスポートもビザも不要であり、船の切符は偽名でも買えることを明らかにした。

 第二の難点についてはアンナ・ベルタの両親はカトリックとプロテスタントの結婚であり、出身地も境遇も違うので、周囲の反対を押し切って結ばれた可能性が高い。そうであれば娘の東洋人との結婚にも寛容だったはずだとしている。

 第三の難点についてはアンナ・ベルタの祖父は十数世帯の住む賃貸ビルのオーナーだったので、日本までの船賃は二ヶ月分の家賃でまかなえるとしている。

 第四の難点については鷗外が残したエリスの唯一の形見の品であるモノグラム(刺繍用型金)のクロス・ステッチの部分にアンナ・ベルタ・ルイーゼのイニシャルであるA、B、Lが隠されているとしている。

 番組を見て植木説はいよいよ確定かなと思ったのであるが、放映と同じ月に出版された本書を読んで目が点になった。モノグラムからA、B、Lの文字が浮かびあがるという「発見」をドイツ人の専門家に確認する場面が番組のクライマックスになっていたが、本書には画面に映らなかった取材の経緯が書かれていたのである。

 一方ベルリン市立博物館の「服装と流行課」からの返事は、予想外のものだった。……中略……クロス・ステッチの部分については、次のような返事であった。

「たしかに、M・R、A・B・L・Wは読みとれますが、型金を逆向きにしたりして、さまざまの方向から眺めれば、すべてのアルファベットの読みとりができます。このような型金はかなり自由に使いまわしが利くものなので、特別なアルファベットが隠されていたとは言いがたいと思います。
 刺繍にこめたメッセージや、恋人のハンカチにモノグラムを縫いつけるといった習慣は、どちらかというと十九世紀初期に流行したものです。ちょうど一八〇〇年から四〇年までのロマン主義の時代にあたります。一九世紀後半に差しかかると、布類へのイニシャル刺繍は日常的なことになってきます。」

 この返事に、私の血は少々逆流気味になった。どんな文字でも読みとれる、とは、いくらなんでも乱暴すぎる話ではないか。

 乱暴すぎる話と言いたいのはこちらである。唯一の物証が怪しくなったら、今野氏の推論は全部崩れてしまうではないか。そもそも15歳の少女が無名の元留学生に会いにゆくのに、なぜ偽名で出国する必要があったのか。

(六草いちか氏は『それからのエリス』で問題のモノグラムとイニシャルだけが異なる同系列の製品を発見し、クロステッチがまったく同じであることを確認している。モノグラムが特注品でクロステッチに暗号が隠されていたという仮説は完全に否定された。)

 本書が出て四ヶ月後、エリスの身元について決定的な発見をした六草いちか氏の『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』が上梓された。六草氏がつきとめたエリスはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトといい、1866年生まれ。アンナという妹がいた。来日時点で21歳だったから植木説のような難点はない。

 本書は気の毒な本である。出版が一年遅れていたら六草説をもとにすることができたろうし、一年早ければ六草氏の本とガチに比較されることもなかったろう。

 今野氏にはこれに懲りずに、鷗外関連の番組をこれからも作ってもらいたいと思う。

→bookwebで購入

2012年07月27日

『森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』 小平克 (同時代社)

森鴎外「我百首」と「舞姫事件」 →bookwebで購入

 難解をもって知られる鷗外の「我百首」を「舞姫事件」を解読格子に読みとこうという試みである。本書でいう「舞姫事件」とはエリスのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトの来日事件だけでなく、最初の妻赤松登志子との結婚と離婚を含む二年にわたる騒動をさす。

 著者の小平氏は本書の前年、『森鷗外論 「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相』においてエリーゼが金目当てに押しかけた「路頭の花」などではなく、鷗外が陸軍を辞めてまでも結婚しようと思いつめた「永遠の恋人」であり、『舞姫』とその前後の作品のみならず、二十年以上後に書かれた『うた日記』、『青年』、『雁』、『ヰタ・セクスアリス』にも面影が書きこまれているとした。

 本書はそれにつづく論考で、従来定まった解釈がなく、一貫したテーマがあるのかどうかもわからなかった「我百首」がエリーゼ来日にはじまる一連の「舞姫事件」を歌いこめたものだとしている。これが当たっているとしたらエリーゼをめぐる六草いちか氏の発見に匹敵する発見かもしれない。

 「我百首」は明治42年(1909)5月に発行された『昴』第五号に掲載された連作短歌である。もともと『昴』の同人十名が短歌百首を発表するというのは創刊号で予告された企画だったが、実際に百首を寄せたのは鷗外と與謝野鐡幹、與謝野晶子の三人だけだった。百首という限定が内発的なものでない以上、それまで書きためた短歌を集めただけかもしれず、そうであれば一貫したテーマがあるという前提そのものがゆらいでくる。

 しかし鷗外は『沙羅の木』に「我百首」を収録するにあたり、序で「あれは雑誌昴のために一氣に書いたのである」と述べている。石川淳が「「倅に持つても好いやうな」異邦人におどろくことができた詩人の若さの歌である」と評したように、「我百首」は短歌に新風を起こそうとした意欲作であり、百首をつらぬくテーマがあると見るのが妥当であろう。

 「我百首」のテーマは「舞姫事件」だというのが本書の仮説だが、エリーゼを暗示するような決定的な歌はあるのだろうか。

 第26首は

(26) すきとほり眞赤に強くさて甘きNiscioreeの酒二人が中は

となっており(以下、行頭に歌の番号をつけて引用する)、これまで「Niscioreeの酒」がなにかは不明だった。小平氏は検索でその典拠がイタリアの作家Antonio Fogazzaroの"Piccolo mondo antico"(1895)であることを発見した。"Piccolo mondo antico"は『昔の小さな世界』というほどの意味だが、望月紀子氏によると両親を亡くして侯爵夫人である祖母に育てられた主人公フランコが、祖母の反対を押し切って密かにルイーザと結婚式を挙げたときの祝杯の酒が「ルビーのように赤く澄み、美味で強いNiscioreeのワイン」と記されているという。

 問題は鷗外が読んでいたかだが、東大のopacで検索したところ、

Die Kleinwelt unserer Zeit : Roman / Antonio Fogazzaro ; Einzige berechtigteUbersetzung aus dem Italienischen von Max von Weissenthurn

という独訳本がまさに鷗外文庫に所蔵されていた! Niscioreeの酒の典拠は確定である(もしかしたら、これも文学史的発見?)。

 つづく第27首から第33首にはともにNiscioreeの酒を飲んだ相手の女性が描かれている。

(27) 今来ぬと呼べはくるりとこちら向きぬ回転椅子に掛けたるままに

(28) うまいより呼び醒まされし人のごと円き目をあき我を見つむる

(29) 何事ぞあたら「若さ」の黄金を無縁の民に投げて過ぎ行く

(30) 君に問ふその脣の紅はわが眉間なる皺を熨す火か

(31) いにしへゆもてはやす徑寸わたりすんと云ふ珠二つまで君もたり目に

(32) 舟ばたに首を俯して掌の大さの海を見るがごとき目

(33) 彼人は我が目のうちに身を投げて死に給ひけむ来まさずなりぬ

 第27首、回転椅子は当時の日本家屋にはまず見られない。洋館か西洋人向けのホテルの室内の情景と考えるべきだろう。第28首、「円き目をあき我を見つむる」はぱっちりした大きな目を思わせる。第31首の「珠二つまで君もたり目に」も日本人離れしたつぶらな瞳を指しているのだろう。

 第29首、「「若さ」の黄金」は金髪の美貌を連想させるが、その若々しいまぶしさを「無縁の民に投げて過ぎ行く」とは西洋人の娘が日本の町を闊歩する姿か。第32首と第33首は一転して悲劇的な色彩に塗りこめられている。いずれの歌も海へ投身自殺するイメージを喚起するのは彼女が日本に定住していないことを暗示するのか。

 第26首から第33首は日本におけるエリーゼを描いたという読みで間違いないと思われる。では登志子夫人との結婚生活を暗示する歌はあるのか。

(36) 接吻の指より口へかがなへて三とせになりぬやぶさかなりき

(37) 掻い撫でば花火散るべき黒髪の繩に我身は縛られてあり

 第37首が金髪の西洋女性に対する黒髪の日本女性の嫉妬を詠んでいることは見やすい。問題は第36首だが、小平氏の評釈をそのまま引こう。

 本歌は曲亭馬琴の『椿説弓張月』にある「僂指かがなへ見れば、いで給ひしより、すでに三箇月に及び」という用例をふまえて作られている。この用例の「僂指」と「接吻の口」を結び合わせて「接吻の指より口へ僂へて」という表現になったもので、エリーゼに接吻してもらった指を口にかがませてはや三年になったのはくやしいというのである。

 とすれば、エリーゼと離別して三年後の心境を詠んだものということになる。三年毎は丸三年であれば明治二四(1891)年、足掛け三年であればその前年の明治二三(1890)年である。どちらかといえば後者であろう。この年に於莵が生まれ、登志子と離婚しているのである。

 これ以上詳しい解釈は本書に直にあたっていただこう。

 第25首の「一星の火」の解釈など、いくつか引っかかるところはあるが、本書の「我百首」の読みが画期的であることは誰しも認めるところだろう。

 ここで疑問に思う人がいるかもしれない。いくら百首詠む機会があたえられたにしても20年以上前の事件を蒸し返すのはなぜなのかと。鷗外はそんな女々しい男ではないという反撥も当然あるだろう。

 著者はその答えも用意している。「我百首」を発表した明治42年の鷗外は公私ともに「舞姫事件」以来の人生の危機に直面しており、しかも圧力をかけてきた人物が「舞姫事件」の時と同じだったというのである。

 啞然とするが、確かにそうなのだ。さすがに今回は離別の圧力ははねのけたものの、鷗外は21年前と同じような四面楚歌の状況にいたのだ。「我百首」は公私にわたる憤懣を観念的に昇華しようとした実験作だったのかもしれない。

→bookwebで購入

『森鷗外論 「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相』 小平克 (おうふう)

森鴎外論―「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相 →bookwebで購入

 最近『舞姫』のエリスのモデルと考えられるエリーゼ・ヴィーゲルトについて決定的な発見があり、エリス問題が再びかまびすしいが、そんなことは所詮モデル探しにすぎず、文学とは関係がないという見方もなりたつだろう。

 エリーゼが『舞姫』という一短編のヒロインのモデルにすぎなかったらその通りにちがいないが、鷗外が彼女のことを終生思いつづけ、多くの作品に陰に陽に彼女の面影を書きこんでいたとしたら、文学と無関係とはいえなくなる。

 諦念の人といわれ、『ヰタ・セクスアリス』で性欲を冷笑的に腑分けしてみせた鷗外に一人の女性を思いつづけるなどということがあったのだろうか。

 小堀杏奴は『晩年の父』で鷗外がエリーゼと文通をつづけ、亡くなる直前に彼女の写真や書簡をすべて焼却したという話を伝えているが、「はじめて理解できた『父・鷗外』」(1979)という文章では小学校に通う途中にある荒物屋の十三、四歳の少年店員が彼女に「生き写し」だったと語っているという。この話の後日譚は岩波文庫版『晩年の父』(1981)の「あとがきにかえて」にあるが、1979年の文章の方が生き生きしているので、孫引きになるが引いておく。

 この少年について、後に母が、少年が独逸時代の父の恋人に、生き写しだと、父が語っていたと教えてくれた。この母の話の方は、私が結婚してから聞かされたように思うから、多分、『晩年の父』には出てこないはずである。母の言葉で、今更に私は、遠く、幼い日々を振返り、感無量であった。少年と語り合っている私や、弟を、軍服姿の父が、微笑を湛え、じっとみつめていた一瞬の表情が、突如、まざまざと、眼前に浮かんだからである。

 少年に似ていたというのだから、エリーゼは凛々しい顔立ちだったのだろう。杏奴の女友達の中にもエリーゼと似ている女性がいたというから、そうした人物の若い日の写真を集めれば鷗外の記憶に残るエリーゼの面影に近づけるかもしれない。

 本書は「「エリ-ゼ来日事件」の隠された真相」というスキャンダル追求めいた副題がついているが、来日事件にかかわるのは最初の二章だけで、後半の三章はエリーゼが鷗外の文章に残した跡を追跡している。『舞姫』は当然として、別離から20年以上たってから書かれた『うた日記』、『青年』、『雁』、そして遺言にまで彼女の影が揺曳しているという。

 著者はまず存在が隠されていた「空白期」、「路頭の花」とされた「エリス期」、船客名簿から本名がわかって後の「エリーゼ期」の三期にわけてエリーゼ像の変転を跡づけ、第二章では鷗外はエリーゼと結婚するために軍医辞職願を提出していたという仮説を立てている。

(本書は来日した女性を「エリーゼ」と表記しているが、エリーゼ・ヴァイゲルト説をとっているわけではなく、正体は不明という立場である。六草氏の発見によって著者の留保は結果的に正解だったことがあきらかとなった。)

 軍医を辞めるつもりだったではなく、実際に辞表を出していたとは大胆であるが、鍵となるのは母峰子が10月6日に篤次郎と小金井良精に嫁いでいた喜美子を同道して石黒忠悳の私宅を訪ねていた事実である(小金井喜美子は著書ではこの訪問には触れていない)。

 中井義幸氏の『鷗外留学始末』によると石黒は留学中の部下を手なづけるために、石黒自身が留守宅を訪ねたり、妻に命じて家族ぐるみのつきあいを演出させていたから、峰子が弟妹を連れて石黒宅を訪問したこと自体は著者が考えるほど異例の事態ではないと思われる。しかし訪問の理由が特段ないことを考えると、辞表を撤回させるから待ってくれるように懇願にいったという本書の推定は十分説得力を持つ。著者は4日後の鷗外の石黒訪問が辞表撤回だったとしている。

 辞表提出と撤回が事実だとしたらまさにスキャンダルだが、あくまでエリーゼが鷗外の「永遠の恋人」だったことを明らかにして後半の議論の地がためをするためである。

 第三章では『舞姫』の執筆が赤松登志子とのあわただしい結婚と離婚と密接に関連していたことが論証される。『舞姫』は登志子夫人の妊娠中に書かれていた。登志子夫人は出産早々子供をとりあげられ離縁させられてしまうが、妊娠して捨てられ、発狂するエリスの物語をどのように受けとったのだろう。

 第四章ではエリーゼ事件から20年上たって上梓された『うた日記』を俎上にのせる。「扣鈕」の「こがね髪 ゆらぎし少女」がエリーゼであるとは森於莵が指摘したことだし、「べるりんの 都大路」が回想の背景となっていることからも動かない。

 著者は「夢がたり」の

触角を     長くさし伸べ
物来れば    しざりかくろふ
隠処の     睫長き子
人来れば    かくろへ入りて
我を待ち居り

という「蟋蟀」に来日時のエリーゼの面影を見る。隠し妻といいうことだけでいえば離婚後に峰子があてがった児玉せきも候補だが、彼女の容貌は「睫長き子」という形容にそぐわない。「蟋蟀」は異国のホテルで鷗外を待っていたエリーゼだというのが著者の解釈である。

 官能的で謎めいた「花園」がエリーゼのイメージで解けるという指摘は魅力的である。エリーゼを補助線にすると確かによくわかるのである。

 第五章では『青年』、『妄想』、『雁』、『ヰタ・セクスアリス』をとりあげているが、一番納得できたのは『雁』だ。

 山﨑國紀氏は『評伝 森鷗外』でエリーゼ=お玉説を提唱したが、小平氏はむしろお玉が鳥籠にいれて飼っていた紅雀にエリーゼを見ている。

 来日したエリーゼは築地精養軒にとめおかれたまま、彼女を排斥する森家親族の圧力に耐えていたのであって、まさしく彼女は「窓の女」であり、「鳥籠の紅雀」であった。この紅雀が「つがい」であるのは、鷗外が彼女と結婚するつもりで来日させていることをあらわすものであろう。この「つがいの紅雀」を襲う蛇は、二人の結婚を忌避する森家親族の暗喩なのではないか。襲われた蛇にくわえられてぐったりとなった一羽の紅雀は鷗外であって、「籠の中で不思議に精力を消耗し尽くさずに、まだ羽ばたきをして飛び廻ってゐる」もう一羽の紅雀は、『小金井日記』と『石黒日記』との関連的な推論によってひきだされた「エリーゼ来日事件」の経過からみてエリーゼの姿そのものに思える。

 『ヰタ・セクスアリス』については性欲と恋愛を分離する主人公の冷笑的な態度にエリーゼ事件で受けた心の傷を読みとっている。エリーゼ以外の女性は性欲の対象としてしか見ることができなくなっていたというわけだ。

 一歩間違えれば我田引水の深読みになってしまうが、著者の読みは十分議論に耐えると思う。鷗外作品はエリーゼという視点から読み直してみるべきだろう。

→bookwebで購入

2012年07月26日

『鷗外留学始末』 中井義幸 (岩波書店)

鴎外留学始末 →bookwebで購入

 表題は「留学始末」となっているが、上京した頃から説き起こし、ドイツ留学から帰って赤松登志子と結婚するまでを語っている。山﨑國紀氏の『評伝 森鷗外』でいうと33ページから109ページにあたる時期に340ページを費やしている(山﨑本は頁あたり1.6倍の文字数がはいるから、正味でいうと3倍の分量か)。

 「始末」という表題が暗示しているように本書はシニカルな見方で一貫している。相当な辛口だが、他の著者がぼやかしていることをずばり書いてくれているのでいくつもの疑問が氷解した。

 詩、書簡、日記、関係者の回想、写真といった一次資料に語らせる手際もあざやかである。留学中、鷗外と家族の間では書簡の往来が密だったが、ライプチヒで撮った肖像写真を前にした家族の会話を篤次郎は一人一人の口調を真似て次のように報告し、千住の森家の茶の間を覗き見るような臨場感がある。

〔母君〕コリヤア大層善ヒ男ニナツタ、コレナラ新橋ノ○八デモ何デモ上三かみさんニシテモ羞シクナイ、「タンネン」ノ娘三じょうさんニ見セテヤリタイ

〔潤坊〕コレハ家ニアル「ビスマルク」ノ写真ニ善ク似テ居ルノダヨ

〔父君〕コレハ本ニドウシテモ二百円以上取ル勅任官ト見エルナア

 父静雄が月給を引きあいに出したのは金に苦労したからだろう。静雄は藩主亀井茲監にしたがって鷗外を連れて上京し、向島で開業したが、田舎出の元藩医では患者が集まらず、郡医に任命されるまで家計はつねに逼迫していた。

 鷗外は西家に住みこんだが、西周は鷗外だけは本郷の進文学舎でドイツ語を学ばせた。西は学問の基礎は漢学にあると考え、自邸に集めた親類の少年たちを漢学塾に通わせたが、鷗外だけは既に漢学の基礎ができていたのでいきなり洋学を学ばせた。この特別扱いの背景には鷗外を海軍に進ませた養子の紳六郎とならぶ次代のホープにしようという西のプランがあった。

 進文学舎は十人の小クラスでドイツ人からじきじきにドイツ語を習うという理想的な環境だったが、学費が高かった。鷗外は西周の西洋仕込みの規律が嫌になり父親のもとにもどるが、教科書一冊が父の侍医としての月給の1/3では、西の援助なしにドイツ語の勉強ををつづけるのは不可能だった。鷗外が11歳で官立医学校(後の東京帝大医学部)に入学した件は鷗外の秀才を証明するものと語られるのが常だが、医学校に入学するために進文学舎を退学したのではなく、進文学舎の学費を払いつづけることができなかったので、年齢を二歳偽ってまで医学校の入学を早めたというのが実情だった。

 医学校の卒業席次が八番になった理由を山﨑氏の評伝では「シュルツ教授が、鷗外の外科学の講義ノートに漢文の書き込みがあるのをみつけ、反感を買ったためとも言われている」としていて何のことだろうと引っかかっていたが、本書によると祖父の残した医書で漢方医学を独学していたためである。

 林太郎の東洋医学の勉強は、学校の西洋医学の勉強に使うべき時間を削ったのみならず、その成果を彼が教室に持ち込んでドイツ人教師たちの授業で主張したため、彼らの不興を買い、二重に成績を落とす力として働いた。

 ドイツ人教官にとって漢方医学などは未開の迷信にすぎない。その迷信を授業中に教官にぶつけるとは無謀というべきか誇り高いというべきか。ナウマンとの論争やカールスルーエでの演説、さらには晩年の史傳三部作を生みだす素地は十代の頃にすでにあらわれていたわけである。

 医学校卒業後、留学生の選に漏れて就職浪人のようになっていた鷗外は陸軍にはいり、一転してドイツ留学を果たす。鷗外の陸軍就職は同級生の小池正直の推薦状によるものとされることが多いが、この推薦は石黒忠悳の意を受けたものであり、その背後には鷗外に順天堂閨閥の次代をになわせようという西周の意向が働いていた。任官したての鷗外が軍医本部付という破格の待遇を受けたのはそのためである。

 当時軍医総監だった林紀は松本良順の甥、部内第二のポストである東京陸軍病院長の佐藤進は順天堂主佐藤尚中の養子と、順天堂一族の陸軍軍医部支配はゆるがないかに思われたが、林軍医総監がヨーロッパで客死し、佐藤進軍医監が順天堂を継ぐために退官した結果、橋本左内の末弟である橋本綱常が次の軍医総監に就任した。

 留学中の鷗外は順天堂閥を頼んで独断専行が多かったが、橋本が軍医総監になると無理が通らなくなり橋本とぶつかるようになった。橋本と鷗外の間にはいったのが石黒忠悳である。

 石黒は橋本の同期だったが、何の後ろ盾もなく留学もしていなかったので橋本の下僚になるしかなかった。石黒は鷗外の味方をすることで軍医本部内の地歩を固めようとした。

 石黒はエリーゼ来日問題の当事者の一人なので関連本には必ず登場するが、本書の以下の条を読んでようやく人物像が定まった。

 一切の門閥に縁のなかった石黒は、生まれながらには恵まれなかった人脈を、みずからの手で築いていったのである。茶人況藤として権力の座にある者達と風雅の交わりを結び、医者としてみずから脈をとって次々と彼らの信頼をかち得ていった彼は、一旦結んだ交わりを維持するためにはいかなる労をも厭わなかった。あらゆる知人に宛てて絶えず手紙を書き、病ある者の家には毎日でも出かけて行き、外国へ出て行った者の留守宅を訪ねて家族の無事を知らせやる便りを書き送った。こうして築いていった人脈の輪が広がるにつれて、石黒忠悳はもはやただの軍医ではなくなり、情報通として重宝がられ、人々に憚られる存在となっていった。ことに彼は山県有朋に友人として遇せられ、世に恐れられたこの権力者の家に自由に出入りする数少ない人間の一人になっていたのだ。

 鷗外はたびたび石黒を軽んずる振る舞いをしたが、石黒は二枚も三枚も上手で、橋本から庇護する風を装いながら鷗外を持ち駒としてあやつり、カールスルーエの国際赤十字大会における鷗外の演説の成功を自分の手柄にすりかえ、軍医総監昇進に利用する老獪さを示した。

 鷗外は他の留学生から離れ、一人パリに寄ってからベルリンにはいったが、『舞姫』に先立って発表した『航西日記』にはシャンゼリゼのホテルに泊まったというそっけない記事があるだけでパリの見聞記は含まれていない。鷗外はパリに何も感じなかったのだろうか?

 著者は『舞姫』で豊太郎がベルリン一の繁華街ウンター・デル・リンデンに感嘆する条は実はシャンゼリゼ体験だと指摘する。引用で逐条的に示されているが『舞姫』のウンター・デル・リンデンの描写は岩倉使節団の『米欧回覧実記』のシャンゼリゼの条を下敷きにしている。当時のウンター・デル・リンデンはシャンゼリゼとは比べようもなく『舞姫』に描かれているような「漲り落つる噴井の水」もなかった(噴水があるのはコンコルド広場)。著者は鷗外は『舞姫』の手の内を隠すために『航西日記』から意図的にシャンゼリゼとウンター・デル・リンデンの感想を省いたとしている。

 本書は鷗外の留学生活の実態も身もふたもなく描いている。鷗外は衛生学の研究を命じられて渡欧したが、衛生学よりも当時最先端の細菌学に関心をもっていた。ベルリンに来て念願のコッホ研究所にはいるが、助手から初歩的な講義を受けてから下水の細菌調査という課題をあたえられたものの、汚れ仕事を嫌って引き伸ばしたあげく屠場の排水でごまかしている。衛生学も細菌学も「研究」というレベルではない。鷗外がドイツで熱心に励んだのは晴れがましい場で目立つことと文学書の耽読であり、地道な医学研究とは縁遠い生活をしていたようである。

 ベルリン時代の鷗外はそれまでの勝手がたたって下級軍医のやる隊付勤務(兵舎の当番医)を懲罰的にやらされるが、その間にも石黒のために報告書の材料を集めさせられたり情婦のお守りをさせられたりしている。

 最後の章ではエリス問題をあつかっているが、著者はエリスのモデルの女性に対しても辛辣な視線を向けている。カフェ・クレップスにたむろする娼婦説をとり、来日は彼女が勝手に決めたことで旅費は自分でまかなったとしている。六草いちか氏の『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』が出た現在ではそのまま受けとれないが、エリス関係以外に関しては本書の価値はすこしも減じていないと思う。

 なお「岩波人文書セレクション」として再刊するにあたり、2010年時点における未刊行資料の情況を巻末で紹介している。きわめて貴重な情報である。

→bookwebで購入

2012年07月25日

『評伝 森鷗外』 山﨑國紀 (大修館書店)

評伝 森鴎外 →bookwebで購入

 2007年に刊行された鷗外のもっとも新しい評伝である。著者の山﨑國紀氏は天理図書館に秘蔵されていた鷗外の母、峰子の明治32年から大正4年にいたる17年間の日記を『森鷗外・母の日記』として翻刻した人で、本書にも重要な資料としてたびたび引用されている。

 本書は大版の上下二段組で800頁を超え、それに20頁の年譜と参考文献、17頁の索引がつく。写真は口絵に二葉、地図は津和野藩と浜田藩のいりくんだ位置関係を示すものが一枚掲載されているだけだが、図版を中心にした本は別冊太陽新潮日本文学アルバムなど入手しやすいものがあるので、これはこれで見識だろう。

 明治十年代、明治二十年代のように元号にしたがって七部にわかれる。明治17年から20年におよんだドイツ留学が第二部と第三部に分断されているのは機械的だが、従来「豊潤の時代」とされた時期を「第五部 明治四十年代」と「第六部 大正時代」にわかつのは本書の積極的な主張にかかわる。

 小倉転勤、日露戦争、軍医総監就任と多忙な時期がつづいた後、鷗外は明治42年から文壇に復帰し活発に作品を発表しはじめる。木下杢太郎が「豊潤の時代」と呼んで以来この名称が定着しているが、著者は42年から明治末年までは地味な小品ばかりで同時代人から評価されず、長編小説を次々と世に送りだして好評を博した漱石に対して焦りをおぼえていた「足ぶみ」の時期であり、本当の活躍は乃木の自決後に書きはじめた歴史小説からはじまるとしている。確かに『青年』や『雁』が完結して上梓されるのは大正にはいってからであり、鷗外の傑作は晩年の十年間に集中している。鷗外は大正期の作家だったのである。

 評伝は伝記記述と作品評価という二つの面をもつが、「序」に日本近代文学の「先覚者」とよべるのは鷗外ただ一人であり、それを証明するために本書をあらわしたと述べるように作品評価に重点を置いており、鷗外作品は〖舞姫〗のように白抜きの隅付括弧で示して一目で区別できるようにしている。各作品について成立の事情や文学史における意義だけではなく、同時代の受けとり方にもふれているのはありがたい。

 すべての翻訳作品に半ページから一ページの梗概と解題をつけている点も注目に値する。鷗外は欧米の文学の果実を日本にもたらすために全集の半分におよぶほどの厖大な翻訳を残した。小堀桂一郎『森鷗外―文業解題〈翻訳篇〉』(岩波書店)や長島要一『森鷗外の翻訳文学』(至文堂)のような案内書もあったが、伝記や創作活動とからめているわけではないし、現在ではどちらも入手できない。鷗外の生涯の中に翻訳を位置づけようとする本書の試みは今後の鷗外研究に資するところが大きいと思われる。

 伝記記述については鷗外は生涯謹厳な人格者だったという見方をしりぞけ、小倉転勤以前の前半生は「人格者」という形容は当てはまらないとはっきり書いている。

 山崎正和氏は弟篤次郎が川田家へ養子にいく話をつぶした件を鷗外が「家長の地位」を確立した画期と位置づけたが(『鷗外 闘う家長』)、本書は森家の実質的な家長は母峰子であり、養子反対も母の意を代弁したものとしている。鷗外は極度のマザコンだったから、こちらの解釈の方が腑に落ちる。

 鷗外にとって母の存在は大きかったが、母以上に影響をおよぼしたのは津和野とその文化的背景だと著者は考えている。

 津和野は西側を長州という大藩と境を接していた。軍事力や経済力では到底かなわないので、文化力で対抗しようという合意ができていて、四万三千石の小藩なのにいち早く藩校養老館を設け、尚学の藩として知られていた。実際、東側で接するやや規模の大きな浜田藩がたいした人材を出さなかったのに対し、津和野は西周、森鷗外を筆頭に十指に余る人物を送りだしている。浜田近郊出身の島村抱月も津和野藩の飛び地の生まれだったという。

 最後の藩主亀井茲監これみの果たした役割も大きい。茲監は藩学を儒学中心から国学中心へと転換させたが、その際、支柱としたのは脱藩して京都で名をなした大国隆正の学問だった。大国は平田篤胤門下だったが、異人を排撃するたぐいの攘夷を「小攘夷」と批判し、「万国をひきよせ、わが天皇につかしめたまはん」とする「大攘夷」を提唱した。養老館が和蘭語を教えるという柔軟さをもちえたのは大国の「大攘夷」思想を中軸としていたからだろう。

 亀井茲監は小藩の藩主ながら明治政府の宗教政策を実質的に決定する神祇局副知事に就任し、後に鷗外と喜美子が和歌の師とする福羽美静とともに朝廷祭祀を天皇が直接おこなう形にあらためている。大国隆正の「祭政一致」の国体観を現実化したのである。

 さて、いわゆるエリス事件である。2011年に六草いちか氏によって『舞姫』のエリスのモデルになったエリーゼ・ヴィーゲルト(本書はとっくに否定されているヴァイゲルト説を採用している)について決定的な発見があったので、この項に関する限り本書の記述は古くなっているが、石黒忠悳宛書簡に見られる「其源ノの清カラサルヿ」、山﨑氏が世に紹介した小池正直書簡の「伯林賤女」という文言、そして子孫がまったく見つからないことを根拠に貧しい健康な少女を性欲処理のために金で囲い者にしたとしている。エリーゼは『雁』のお玉のような境遇にあったというわけで、お玉の描写とエリスの描写に共通点があるという指摘もある。また児玉せきの条では森於莵の「知性も教養も低く、まず一通り善良で相当に美しい気の毒な人」という感想を引き、「あのエリーゼ像と重なってくる」としている(あくまで著者がそう考えるということであるが)。

 「源ノの清カラサルヿ」とあるように動機は不純だったが、鷗外は途中から本気になってしまい、甘い見通しのもとに日本に呼んで事件を引き起こしたというのが本書の要諦である(貧しい少女だったら日本までの旅費はどうしたのかという問題がもちあがるが、その点の考証はない)。

 なぜ鷗外がエリーゼを断念したかは直接は語っていないが、著者が母の意向を想定しているのは以下の条に明らかだ。

 鷗外は、母の徹底した管理の中で育ったため、青年期に至る鷗外は決して強くなかった。〖舞姫〗の豊太郎は、まさに二十代の鷗外の性格でもあった。……中略……帰朝してからの鷗外の執拗な啓蒙活動は、むしろ、弱い自分を鞭打つため、逆に打って出たようなところがあったことは否めない。だから、あのいくつかの論争は不自然さがつきまとい、後世、批判される面も残されたのではなかったか。

 最初の妻赤松登志子に対する仕打ち、医学界における挑発的な言動、年長の外山正一や坪内逍遙にしかけた論争、いずれも八つ当たり的であって「家長」とか「人格者」とかはとても言えまい。

 著者はそこにエリーゼ事件で負った傷を見ている。悲恋、罪の意識、不本意な結婚、おのれの弱さ。そうしたもろもろが若い鷗外の精神を嘖んだというわけだ。

 素人診断ながら、あの鷗外の拘執性は、一種の神経症から来ていたのではないか。神経症にも色々あるが、鷗外の場合、まず被害者意識が己を責め、そこから仮想的な対象が鷗外に補足され、その対象に対し、逆に攻撃的になっていく。神経症状であるから、尋常ならば、一回の攻撃で終わるものが、拘執的になっていく。この神経症は波のように、高いとき、低いときとある。医事論争、文学論争、この明治二十年代の鷗外を、この症状が異常なまでに攻撃的にしたのではないか。

 鷗外自身は陸軍内の順当な人事だった小倉転勤を「左遷」と曲解していたが、小倉への移動がはからずも転地療法的な効果をあげたというわけである。

 しかし小倉転勤以上に鷗外を変えたのはそれに先立つ日清戦争だった。鷗外は第二軍平坦軍医部長として出征し、凱旋もつかの間、ただちに台湾征討軍にしたがって陸軍局軍医部長として台湾にはいっている。著者は日清戦争後「あの青っぽい書生的発想及び、神経症的こだわりがみられなくなった」とし、あれだけの体験があってなお変化がなかったなら「以後の“鷗外”はなかった」と評している。その通りであろう。

 小倉生活をはじめた鷗外は地方の素朴な人情にふれるとともに、ヴントや熊沢蕃山を読み、曹洞宗の玉水俊虠について唯識説を学ぶなど、精神の糧をえようとつとめている。東京では多忙な公務のかたわら、翻訳に創作に八面六臂の活躍をしてきた鷗外だったが、小倉の地でようやく自分自身をふりかえる機会をもったのだ。

 小倉以前の鷗外は全部他人が悪いで通してきた。周囲とのレベル差が圧倒的だったのでそれで済んだわけである。ドイツに留学した際も中井義幸氏の『鷗外留学始末』にあるように目立つことにしか関心がなく、コッホ研究所では下水の細菌を調べろといわれて臍を曲げている。鷗外は中年にいたってようやく自分自身をふりかえるようになったというべきだろう。

 著者は家事と文学が両立できないと不満を訴えてきた喜美子を鷗外が諌めた手紙に注目し、次のように評価している。

 蕃山は、幽閉され無為を過ごしているようにみた客の質問に答え、“天下を治める「大事」と、日常的な「私」の「小事」も、同一の精神作用とみれば何ら違いはない”と述べたのである。「髪を梳り手を洗ふ」という「小事」は、鷗外が喜美子への手紙に書いた「才女がおしめを洗ふ」と同義である。後年、〖カズイスチカ〗の中で、「宿場の医者」たる父が、「詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐる」姿に、「花房」が感服する場面があるが、これは、小倉で生きる鷗外自身への戒めの言葉でもあった。

→bookwebで購入

2012年07月24日

『別冊太陽 森鷗外』 山崎一穎監修 (平凡社)

別冊太陽 森鷗外 →bookwebで購入

 鷗外森林太郎は文久二年(1862)に石見国津和野で生まれた。2012年は生誕150年にあたる。

 宗像和重『投書家時代の森鷗外』(岩波書店 2004)のように未発見原稿や資料の発掘は今でもつづいているから、本当だったら新しい全集や選集が編まれてもよかったし、なんなら電子書籍で名作選を出すのもおもしろいと思うが、昨今の厳しい出版事情ではそれもままならないのか、記念出版の話はついぞ聞かない。11月に文京区立森鷗外記念館が開館するくらいがニュースか。

 雑誌の特集号も見かけないのは寂しい限りだが(見落としがあるかもしれない)、そんな中でほとんど唯一『別冊太陽』が「森鷗外―近代文学の傑人」として記念号を出してくれた。

 グラフ雑誌であるから関係者や関連する場所、原稿、掲載誌、初版本、日記、書簡等々の写真が集められている。

 子規や露伴、啄木ら文学者から鷗外にあてた書簡類は封筒の表書きといっしょに掲載されているが、宛名は大体「本郷區千駄木町森鷗外先生」となっている。番地なしでも届いたのである。日露戦争で出征中の鷗外に宛てた葉書の住所は「出征二軍軍司令部軍醫部長森林太郎殿」となっている。当時は兵隊を描いた絵葉書なども作られていた。

 幼い鷗外が学んだ藩校養老館の教科書も載っているが、和蘭語の教本があるのは津和野藩の先進性を示すものだろう。

 小倉赴任時代、長男の於莵のために毎週ドイツ語の通信教授を書き送ったが、それも載っている。晩年、末娘の杏奴のために地理と歴史の教科書の抜き書きをつくってやったのは有名だが、「杏奴のために教科書を手作り」として見開きで掲載されている。

 鷗外が園芸に熱心で、現代のガーデニングに近いことをやっていたというのははじめて知った。

 鷗外は武鑑をコレクションしていて、それが史伝三部作につながったが、「美本ではない」と注記があるように、染があったり手垢で汚れたりしている。本は好きでも、状態には頓着しなかったわけである。蔵書には書き入れが多いが、今は東京大学附属図書館の鷗外文庫書入本画像データベースで家にいながらにして閲覧できる。

 写真だけでなく各分野の専門家による記事もあるが、エリス問題は『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の六草いちか氏が担当している。山崎一穎氏が六草氏を選んだということは六草説は公認されたといっていいだろう。

→bookwebで購入

2012年07月23日

哲学の歴史 05 デカルト革命』 小林道夫編 (中央公論新社)

デカルト革命 神・人間・自然 →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第五巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は副題が「デカルト革命」となっており、17世紀に起きた知の大変動をあつかう。従来の哲学史でいうと大陸合理論にあたるが、最後の章でニュートンをとりあげていることからもわかるように科学革命をも視野におさめている。

「総論 神・人間・自然」

 17世紀はルネサンスにつづく時代だが、こと哲学の世界ではルネサンスの新思潮は影が薄く、依然としてアリストテレス主義=スコラ哲学の支配がつづいていた。

 アリストテレス主義=スコラ哲学に対するさまざまな批判がはじまっていたが、本書ではデカルトの『省察』に付された「論駁と答弁」が当時の思想状況そのものを反映すると評価し、前半では「論駁」をおこなった六人の哲学者からホッブズ、ガッサンディ、アルノーの三人を選んで論述を進め、デカルト革命の意義を明らかにする。

 デカルト革命とはアリストテレスの学問体系を根柢から解体し、機械論的自然学を確立することにほかならない。その成果が『哲学原理』であって、ニュートンは『哲学原理』第二部をベースに天体力学を構築することになるが、一度このような体系が立てられると、対抗してさまざまな体系が提案されるようになる。スピノザ、ライプニッツ、マルブランシュ、フォントネルらで、いわゆる大陸合理論の系譜である。

「Ⅰ ホッブズ」

 ホッブズはスペイン無敵艦隊襲来が噂された1588年に英国南部のマームズベリ近郊で牧師の息子として生まれた。早くから古典語で才能をあらわし、オックスフォード大学のモードリン・ホールに学び、1608年に学寮長の推薦でキャヴェンディッシュ家の家庭教師になる。

 家庭教師は貧しい若者が聖職者にならずに学問をつづけるための職業で、教え子が成人した後も秘書兼顧問として仕えることが多かった。当時の貴族は手紙や文書を代筆したり、通訳や翻訳のできる人材を必要としていたのである。

 大貴族の家庭教師になってしまうと一家を構えることができなくなるが、主家の蔵書と人脈が利用できた。ホッブスはガリレオを訪問し、デカルトと会食する機会をもったが、これはキャヴェンディッシュ家の人脈のおかげだった。

 ホッブズの教え子のウィリアム・キャベンディッシュは38歳で急逝するが、その息子のデヴォンシャー伯爵の家庭教師になり、またウィリアムの従兄弟のニューカスル伯とその弟のためにも働くようになる。ニューカスル伯は王党派の指導者だったので、清教徒革命がおこるとホッブズもパリに亡命し、亡命宮廷でチャールズ二世の教育をまかされることになる。

 ホッブズは主家の意を受けて王党派の論客となるが、『法の原理』と『市民論』は歓迎されたものの『リヴァイアサン』では裏切り者と排撃される。ホッブズの主家は議会と妥協して帰国する道を選んだが、『リヴァイアサン』は議会との妥協を正当化するために書かれたと見なされた。

 王政復古で即位したチャールズ二世はホッブズを庇ってくれたが、『リヴァイアサン』の悪評は尾を引き、ロンドンの大火まで『リヴァイアサン』のせいにされてしまう。

 とはいえ晩年のホッブズはデヴォンシャー伯爵家に引きとられて穏やかに暮らし、好きな古典の翻訳を手がける毎日で、1679年に91歳という非常な長命で生涯を閉じた。

 ホッブズと言えば『リヴァイアサン』であるが、その前提となる体系は『哲学原論』三部作で展開されていた。『物体論』、『人間論』、『市民論』という構成からわかるように、唯物論的な自然学を基礎に人間を説明し、その身もふたもない人間観を基礎に国家の必然性を説明した。高度な知的能力も物理的・生理的な過程に還元されるという立場を貫徹し、国家をも「物体」と見なして、そのメカニズムを腑分けした。

 『物体論』の「あらゆる推論は加算と減算という精神が行なう二つの操作へと還元される」という主張から人工知能研究の祖父と見なされているそうである。

 『リヴァイアサン』ではこのラジカリズムをキリスト教に適用し、聖書批判にまで踏みこんでいるという。

 こんな面白い人だとは思わなかった。『リヴァイアサン』はぜひ読もう。

「Ⅱ メルセンヌ」

 メルセンヌはホッブズと同じ1588年にフランス北西部のオワゼに農民の子として生まれた。ル・マンのコレージュで古典語を学び、1604年に近くにラ・フレーシュ学院が設立されると特待生となった。ソルボンヌで神学を修め、1611年、ミニム会で修道士となった。1619年からはパリのロワイヤル広場のミニム会修道院に定住し、公式にはマレ地区修道院の司書として活動した。同修道院の蔵書は1644年に8000冊、革命で閉鎖された時には2万冊を超えていたという。

 ミニム会の名はフランチェスコの教えを徹底して「最も小さな者」と称したことにより、最も厳格な規律で知られていたが、総会長から料理番にいたるまですべて選挙で選ぶという面もあった。

 16世紀には新教徒の改宗をうながす説経師として活躍し、17世紀になるとオラトワール会とともにフランスカトリック再生に尽力した。ヘルメス主義やピュロン主義などルネサンスの異教哲学と対決したが、スコラ哲学にもどれないことにも気がついていて、新しい自然学の動向を積極的に受けいれ、多くの研究者を出していた。

 メルセンヌがデカルトに協力して機械論的自然学の確立に邁進したのも、こうしたミニム会の方針にそったものだった。機械論的自然学によって異教的自然哲学や懐疑論が論駁できると目論んでいたわけだ。

 保守的な修道院にいて、メルセンヌはなぜあんな勝手なことができたのだろうと不思議に思っていたが、ミニム会の特質から説明されると理解できる。

「Ⅲ ガッサンディ」

 ガッサンディは1592年、プロバンスのディーニュ近郊の村で農民の子として生まれた。ディーニュのコレージュで人文学を学び、1604年に剃髪式を受け聖職者になる。エクス大学で哲学と神学を修め、1614年にはアヴィニョン大学で神学博士の学位をとり、1616年にはエクス大学の哲学教授になるが、1622年、エクス大学の教授職がイエズス会に委ねられたために辞職。1624年以降は同郷の有力者ペイレスクの庇護のもとにパリとエクスを行き来しながら研究をつづける。

 ペイクレスは青年時代にイタリア、英国、オランダを旅し、各地の学者と交流し、自然誌的観察と実験を重んじた。占星術や魔術を否定、自宅図書室と陳列室を学者に開放して科学の普及につとめた。

 ガッサンディは1626年からエピクロス研究にとりかかるが、1628年にオランダを訪れベークマンと知りあい原子論の可能性を知らされ、エピクロス復興に本腰をいれる。

 エピクロス復興は20年がかりの大仕事になるが、その途中、メルセンヌからの依頼でデカルトの『省察』に論駁を書き論争になる。ガッサンディのデカルト批判はその後にあらわれる批判を先取りするラジカルなものだったが、ガッサンディ自身にも正統信仰とエピクロス流の唯物論の矛盾をつきつけることになる。ガッサンディは信仰との整合をはかるために唯物論の一貫性を放棄しなければならなくなる。

 1645年にはパリ王立学院数学教授に推挙され、一年間天文学を講じる。1655年、63歳で死去。

 ガッサンディはリベルタンの系譜の人かと思いこんでいたが、まったくの誤解だった。信仰のために唯物論から後退し、魂の非物質性を論証していたとは意外だったが、知識は漸進的に進歩するという経験的な懐疑主義は維持したということである。

「Ⅴ アルノー」

 アントワーヌ・アルノーは1612年オーヴェルニュ出身の法服貴族の家系に生まれる。同名の父はパリ高等法院の弁護士だったが、なんと20人の子供に恵まれた。アントワーヌはその末子である。

 父は1594年のパリ大学とイエズス会の紛争で大学側の代表として勇名を馳せ、イエズス会の追放に一役買ったが、そのためにアルノー一族はイエズス会に狙われることになる。

 アントワーヌ・アルノーは法律家を目指すが、サン=シランの影響で聖職者の道に進み、1641年ソルボンヌの神学博士になる。母カトリーヌは夫と死別後、ポール・ロワイヤル修道院にはいり、姉たちもプロテスタントのイザク・ルメートルと結婚した長姉カトリーヌ以外はすべてポール・ロワイヤルの修道女になる。中でも高名なのはアンジェリク教母と呼ばれたジャクリーヌで、弛緩していた規律を立てなおし、1602年にポール・ロワイヤル修道院の院長に就任する。ポール・ロワイヤル修道院がジャンセニスムの拠点となり、弾圧を受けたのはよく知られている。

 アルノーはポール・ロワイヤルの理論的指導者になり、八面六臂の活躍をくりひろげるが、1655年パリ大学から追放され、1679年にはルイ14世の弾圧のためブリュッセルに亡命を余儀なくされる。

 アルノーは『省察』の論駁を依頼されると、デカルト哲学はキリスト教の新たな支柱になると確信し、アウグスティヌスとの一致を強調した第四論駁を書く。デカルトはアルノーの論駁を最も評価し、懇切な答弁を返した。

 アルノーは四折版で42巻の全集ができるほどの厖大な著作を残したが、その多くは他人の本の批判や論争文だったので、独自の思想が見えにくく、今日では『ポール・ロワイヤル論理学』を除くとデカルトとパスカルの関係で言及されるにとどまっている。

「Ⅵ デカルト主義の発展」

 デカルトの体系はアリストテレス=スコラ哲学に全面的にとってかわるものだった上に、神の自己原因論や永遠創造説など神学にもおよんでいたために、カトリック、プロテスタント双方で問題視され、生前からユトレヒト事件やレイデン事件のような迫害を受けていた。

 その一方、メルセンヌやアルノーのようにデカルトをアウグスティヌス化し、護教論としてとりこもうという動きも盛んだったし、デカルトの体系の難点を過剰解釈で解決しようという意識的・無意識的を問わず横行していた。

 本章はそうしたデカルトの体系をめぐる右往左往をとりあげている。

 まず、遺稿の管理をまかされたクロード・クレルスリエである。クレルスリエは熱烈なデカルト主義者で、熱心さのあまりデカルト自身が目を通した『省察』のリュイヌ公の仏訳を修正したり、デカルトが望まなかった「第五論駁と答弁」を仏訳『省察』に掲載したりした。1905年にはホイヘンス宛自筆書簡が発見され、クレルスリエの編纂した書簡集は改変されていたのではないかという疑惑がもちあがる。

 またクレルスリエは心身相関の疑問を解決するために松果腺は脳内精気の速度を変えることはできないが、方向は変えられるという「方向転換テーゼ」をすべりこませた疑惑もある。デカルト自身は速さの変化と方向変化を区別していなかったし、『情念論』などでは精神の介入で運動量保存則が破られるとしていたから、この解釈は明らかにこじつけである。

 デカルトのアウグスティヌス化は没後に本格的になるが、内面回帰による自己確認は確かに軌を一にするものの、「人間精神の無力化」までいってしまうと箇条解釈であろう。デカルトはストア主義を堅持していたからである。

 没後出版の『人間論』の図解と注釈に協力した医師のラ・フォルジュは1665年に刊行した『人間精神論』で機会原因論をデカルトに読みこみ、精神と身体の能動・受動を「相互依存関係」「連動関係」に希薄化しているという。

 1664年にデカルト『世界論』の付録として「物体作用論」を発表したコルモドアは『物体と魂の識別』で人間精神が身体を動かせない根拠として不随意運動をあげ、心身関係についての機会原因論を展開しているそうである。

 精神と物体を峻別した以上、精神が物体を動かすというのは無理があり、背後にいる神が精神と物体を同時に動かすという論理構成にしないとおさまりがつかないのだろう。マルブランシュ以前から機会原因論がデカルトの体系の内在的批判として提唱されていたのは注目していい。

「Ⅶ パスカル」

 ブレーズ・パスカルは1623年クレルモンの法服貴族の家に生まれた。姉に弟の伝記を書いたジルベルト、妹にポール=ロワイヤル修道院に入ったジャクリーヌがいた。父エティエンヌは租税法院副院長だったが、母の早逝後、子供たちの教育のために官職を売却してパリに移る。

 パスカル家の財産はパリ市債に投資されていたが、支払いが停止されたために父は抗議活動に参加、お尋ね者になってしまう。ジルベルトはリシュリューのための子供芝居で赦免を願った詩を朗読、父は許されノルマンディーの徴税副総監に抜擢されて一家はルーアンに移る。

 パスカルは早くから数学の才を発揮し、17歳で「円錐曲線論」を発表、射影幾何学におけるパスカルの定理を確立する。父の徴税業務を手伝い、歯車式計算機を考案したのもこの頃だ。

 20代になるとサン=シランの弟子たちの感化を受けジャンセニスムに接近するが、健康を害してパリにもどり社交生活と科学の実験にあけくれる。特筆すべきは一時帰国していたデカルトと会ったことだ。科学者としての名声は国際的になっていたのである。

 1653年ヤンセンの五命題が異端とされ、アルノーがソルボンヌから追放されるとパスカルは『プロヴァンシャル書簡』と呼ばれることになるパンフレットを書いてジャンセニスム擁護の論陣をはる。難解な神学論議を軽妙かつ明快に解説したフランス古典主義時代屈指の名文である。

 この頃から『キリスト教護教論』の執筆にとりかかり、そのためのメモが没後『パンセ』として出版されたのはご存知の通りである。

 体を壊し、『護教論』の執筆は何度も中断を余儀なくされている。1662年救貧活動のためにパリで初の乗合馬車会社の設立に参加するが、8月に姉の家で亡くなる。39歳だった。

 『パンセ』が『護教論』の下書だったことは確かだが、だからといって『護教論』にすべて回収されてしまうわけではない。『護教論』からはみだした部分もあるのだ。この章の筆者は以下のように述べている。

 『パンセ』を護教論の土俵に閉じ込めることはけっしてできない。それは、『護教論』の構想を中心にして、その手前側には人間と理性の領域、その向こう側には神と信仰の領域が三層構造をなして果てしなく広がる、未完の書物である。そしてそれぞれの断章(パンセ)は散乱しながら、目には見えない全体を己の内に映し出している。『パンセ』は比較的小ぶりな体裁の中に、幾重もの無限を包み込んだ、一つの小宇宙なのである。

 ライプニッツのモナド論を下敷きにした書き方だが、ある面を言い当てていると思う。

「Ⅷ スピノザ」

 ベネディクトゥス・スピノザは1632年アムステルダムのユダヤ人居住区で生まれた。父ミゲルはイベリア半島から逃れてきた「マラーノ」で、家ではポルトガル語を使っていた。地中海の果物の輸入に従事し、ユダヤ人共同体ではパルナシム(行政監事)を歴任した有力者だった。

 マラーノはイベリア半島で世俗的な生活を送っていたので信仰心が弛んでいた。異郷で暮らしていくためにアシュケナージ系ラビから律法を学んで結束を高めたが、一方厳格な戒律に違和感をいだく者もいた。

 スピノザはタルムード・トーラー学院に入学し伝統的な宗教教育を受けた。学院には後にスピノザに破門を言いわたすことになるサウル・レヴィ・モルテラのようなアシュケナージ系の厳格なラビがいる一方と、クリスティーナ女王やグロティウスと文通していたメナッセ・ベン・イスラエルのような開明的な知識人も教えていた。

 1652年第一次蘭英戦争で船が沈められ、スピノザ家は大損害をこうむった。2年後、父が亡くなり、多額の借金が残った。スピノザは弟とともに貿易業をつづけたが、取引を通じてコレギアント派というリベラルなキリスト教徒と親しくなった。コレギアント派とは主流となった厳格なゴマルス派以外の諸派のことで、デカルト主義者が多かった。

 スピノザは自由思想家のファン・デン・エンデンのラテン語塾に通ってデカルトを学び、ユダヤ教に対する疑問を公然と口にするようになった。

 1656年当人不在のまま破門宣告文がシナゴーグで読み上げられた。破門の背景にはオランダにおける反デカルト主義の高まりがあったようだ。破門を機にスピノザはバルーフというポルトガル名ではなく同義でラテン語のベネディクトゥスを名乗るようになった。

 ユダヤ人共同体にいられなくなったスピノザはコレギアント派の友人の支援を受けて各地を転々とした後、1661年頃にはレイデン近郊でコレギアント派の本拠地であるレインスブルフに居を定めたらしい。レンズ磨きと光学研究をはじめたのもこの頃だ。レイデン大学でデカルト派の講義を聴講し、学生もスピノザのもとを訪れた。神学生ヨハネス・カセアリウスが下宿するようになり、デカルトの『哲学原理』第二部を幾何学的に再構成してカセアリウスに筆記させた。後に友人たちのもとめで第一部も幾何学的に再構成し、『デカルトの哲学原理』として刊行したが、マイエルの序文でスピノザはデカルト一辺倒でないことが明記された。

 ロイヤル・ソサエティのオルデンバーグが来訪し文通がはじまった。オルデンバーグがボイルの論文を送ったことからボイルと論争になる。

 スピノザは『エチカ』を準備していたが、デカルト派と神学者の対立が激化すると執筆を中断して『神学・政治論』にとりかかった。スピノザは哲学と神学は両立しないという偏見が対立の原因と考えたが、1670年に匿名出版するとデカルト派からキリスト教の根本に対する「猛毒」を含んだ無神論の書と非難された。今読むとまったく当たり前のことしか書かれていないが、現在の当たり前が17世紀には「猛毒」だったわけである。

 1673年、『デカルトの哲学原理』を読んだプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒ(エリザベートの兄)の肝煎りでハイデルベルク大学から招聘されたが、スピノザは断った。オランダに侵攻していたフランス軍司令官コンデ公から招待されたこともあったが、コンデ公が帰国したために会見はかなわなかった。

 1675年『エチカ』出版にアムステルダムに行くが、無理と悟った。翌年、帰国途中のライプニッツ訪問し、『エチカ』の一部を読んだ。

 1677年2月21日、肺結核で死去、34歳だった。同年、ラテン語遺稿集とオランダ語訳が後援者たちによって刊行されるが、すぐに「不敬で無神論的で冒瀆的な書物」として禁書になる。

 さて『エチカ』だが、本章の著者は幾何学的順序にこだわらず、基本用語の意味を種明かししている箇所から読めと勧めている。具体的には第二部冒頭から「自然学的付論」にいたるまでの箇所、特に定理7備考(平行論テーゼ)である。

 延長実体を電光掲示板になぞらえた解説はわかりやすい。

 われわれに立ち現れるさまざまな物体やそれらの振る舞いは、運動と静止という二タイプの様態が描き出す図柄にすぎない(すなわち、基体としての物体が存在するわけでも移動するわけでもない)。それは、電光掲示板に立ち現れる物体やその振る舞いが、光と闇という二つの状態が描き出す図柄にすぎないのと類比的である。

 倫理説については個体に内在する自己保存の努力(コナトゥス)を中心に整理していてわかりやすいが、永遠性の気づきをハムレットが作者に気づくという比喩で説明しようという条はわりきりすぎではないだろうか。

「Ⅸ マルブランシュ」

 マルブランシュはルイ14世と同じ1638年に生まれたが、亡くなった年も同じ1715年である。父はリシュリューのもとで徴税財務官をつとめたやり手だったが、マルブランシュは生まれつき脊椎に異状があり病弱だった。学校に通いはじめたのは16歳になってからだった。

 ソルボンヌで神学を修めてから1660年にアウグスティヌスを奉じるオラトワール会にはいり、修道院の中で研究一筋の生活を送った。唯一事件といえるのは1664年に露店で手にしたデカルトの『人間論』に衝撃を受け、数学とデカルト哲学に専心するようになったことくらいか。1699年『運動伝達の諸法則論』で王立科学アカデミー会員に推挙され、1713年にパリ滞在中のバークリーと会見したことも事件といえるかもしれない。

 マルブランシュの思想はロビネにしたがって五段階にわけて考えるのが一般的だそうだが、思想は段々に深まっていき、深まりにともなって過去の著作を何度も改訂している。デカルトの全集が6巻なのに対し、マルブランシュの全集は20巻を数える。

 マルブランシュはデカルトの「精神から感覚を引き離す」というテーゼから出発したが、それを神中心に組み換えていく。マルブランシュの考える観念は個々の人間精神に内在する観念ではなく神の内なる観念であり、真の認識は「注意」を機会に神の内なる観念が魂を触発して生じる。「神においてすべての事物を見る」わけだから人間の認識はそれ自体で普遍性を有するとされる。

 ここで叡智的延長étendue intellgibleという異様な概念が登場する。

 神は永遠かつ普遍的な存在だから、神の内なる観念は事物の創造に先立って存在していなければならない。事物の原型としての観念があるはずであり、それが叡智的延長である。あくまで原型なので実際の拡がりはもたないが、神は観念間の関係を数学的な「大きさの関係」という真理として認識しており、叡智的延長は物体認識の普遍的・関数的な条件となっている。

 しかも叡智的延長は無限にありうる可能世界の原型であり、神は栄光を顕現させるために一つの可能世界を自由な選択で創造するとされる。人間が認識する個別の感覚化された観念は叡智的延長の一部でしかない。

 読んでいてどきどきしてきた。これ、ロイドの『宇宙をプログラムする宇宙』やサイフェの『宇宙を復号する』、ビレンケンの『多世界宇宙の探検』で語られている量子情報理論そのままではないか。マルブランシュは量子情報理論を先取りしていたのだろうか。

「ⅩⅠ ベール」

 ピエール・ベールは1647年ピレネー山麓の寒村ル・カルラに改革派(カルヴァン派)の貧しい牧師の子として生まれた。学校に行く余裕はなく、父から古典語の手ほどきを受けたが、1668年になってピュイローランスの改革派大学に入学するも満足できず、トゥールーズのイエズス会の学院に移る。イエズス会の学院で学ぶためにカトリックに改宗したが、1670年にはプロテスタントにもどり忌み嫌われた「再転落者」になってしまう。ベールはフランスにいられなくなってジュネーヴに亡命し、家庭教師をしながらジュネーヴ大学で神学とデカルト哲学を学ぶ。

 1675年にセダンの改革派大学の哲学教授になるが、同僚に後に仇敵となるジュリュー(1637-1713)がいた。ルイ14世の親政とともにはじまったプロテスタントに対する圧迫は過激化し、ドラゴナードと呼ばれる強制改宗運動が猛威をふるい、最終的に数十万人が亡命することになる。セダンの改革派大学は1681年に閉鎖させられ、ベールはロッテルダム高等学院の哲学・歴史教授職に招聘された。この頃、1680年にあらわれた彗星をめぐる迷信を批判した『彗星雑考』を刊行している。

 1685年にマンブールの『カルヴァン派史』に対する反論を匿名で発表するが、ばれてしまい、故郷で牧師となっていた兄ジャコブに累がおよぶ。ベールは「自然の光」にもとづく批判精神を堅持し、絶対の寛容を説いた。信仰においては強制はいっさい排除されるべきで、プロテスタントも例外ではない。ベールはカトリックに対しては暴力を用いてよいとするプロテスタント正統派を「半寛容派」として糾弾した。1693年ベールはプロテスタント内の路線闘争に敗れ職を失う。1706年ロッテルダムで死去。

 ベールの主著は1696年に初版の出た『歴史批評事典』である。体裁は人名事典だが、生涯と事績の後に長大なベールの注解がつく。ベールはこの事典を「文芸共和国」と呼び、「この共和国はきわめて自由な国家である。そこでは真理と道理の支配しか認められず、両者の庇護のもとに誰と戦争をしても罪にはならない」とした。

 18世紀啓蒙主義は『歴史批評事典』から宗教と形而上学の破壊だけを読みとったが、ベール本人は「理性は証明し建設するより、反駁し破壊することに長けている」と理性の限界を説き、「理性を用いるにあたって、神の援助を必要としないものはいない」という信仰主義を基本とした。

→bookwebで購入