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2012年06月23日

哲学の歴史 04 ルネサンス』 伊藤博明編 (中央公論新社)

ルネサンス →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第四巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は15世紀から16世紀に勃興したさまざまな思潮をあつかう。副題は「ルネサンス」となっているが、人物で言えばペトラルカからフランシス・ベイコンまでで、間にルターの宗教改革をはさむ。ペトラルカやマキャヴェッリのような従来の哲学史ではあまりとりあげられない名前やはじめて見る名前が多く、なかなか刺激的である。

「Ⅰ ペトラルカ」

 一応聖職者でありながら、享楽的な生活と文学趣味にあけくれたペトラルカがなぜ哲学史にとりあげられるのだろうと戸惑ったが、古典古代の作品の継承に自覚的な使命感を持ってとりくみ、アウグスティヌスの『告白』をきっかけに宗教文学に転じた後半生を見ると、ルネサンスにおける彼の立ち位置がわかってくる。雄弁の尊重すらも神への愛に由来していたのである。ペトラルカの意義を簡潔にまとめた一節を引こう。

 ペトラルカの古典文学熱は、キケロの文体に対する「美的」心酔とともに始まる。しかしペトラルカの中核的関心は倫理的で、「よく生き、幸福に生きること」にあった。そしてこの関心とのからみで、「人間性をまとい獣性を脱ぎ捨てる」人間形成が切実な問題となる。だが、この倫理的問題を追究すればするほど、人間の無力を自覚させられて神の恩寵を求めざるをえず、「宗教的」要求が喚起される。こうしてペトラルカにおいては、倫理的要求を核として、「美的」、「倫理的」、「宗教的」要求が深く結ばれ合っていた。これが典型的表現を得ている作品は、散文では対話篇『わが秘密』、韻文では『俗語断片詩集』であろう。

「Ⅱ 市民的人文主義者」

 人文主義者は聖職者であったり、学者であったりする例が多いが、政治家や官僚、実業家として活躍しながら人文主義の担い手となった者もいる。そうした人々は「市民的人文主義者」と呼ばれているが、本章ではブルーニ、アルベルティ、パルミエーリの三人をとりあげている。

レオナルド・ブルーニ

 ブルーニは1370年頃アレッツォの有力な家系に生まれたが、アレッツォがフィレンツェの支配下に置かれるとフィレンツェに移住する。教皇庁秘書官をへてフィレンツェの市民権を獲得し、1427年にフィレンツェ共和国書記官長に就任。終生在職し、執政の地位についたこともあった。

 共和制的自由を擁護し、『フィレンツェ史』ではフィレンツェをローマの共和制の伝統の後継者と讃えた。

レオン・バッティスタ・アルベルティ

 アルベルティは1404年にジェノヴァに亡命したフィレンツェ貴族の息子として生まれた。ペトラルカの伝統の生きるパドヴァで教育を受けて1432年に教皇庁秘書官となり、以後、32年間その職にあった。聖職者だったので「市民的人文主義者」の定義からははずれるが、公務奉仕と学問追究を両立させたという意味では「市民的」といっていい。

 イソップ、ルキアノス、アプレイウスなどの古代異教文学の影響を受けて『寓話』をものにし、再発見されたルクレティウス『事物の本性について』の唯物論的快楽主義にも引かれたが、本人は謹厳実直な人柄だったらしい。

マッテオ・パルミエーリ

 パルミエーリは1406年フィレンツェの薬種商の息子として生まれ、フィレンツェの公職を歴任する。パルミエーリはギリシア語は不得意でもっぱらラテン語訳や二次文献を通じてプラトンとピタゴラスの思想に親しんだが、輪廻思想を語った『生命都市』は異端の嫌疑をおそれ公刊を差し控えた。

 『市民生活論』では古典古代の作家の書き残した市民生活を理想と讃え、中世のお粗末な教科書と教師では普遍的教養は形成できないとしたうえで、賢慮、勇気、節制、正義の四枢要徳を説いているという。世俗を肯定する道徳観を打ちだした点がルネサンスといえるだろう。

「Ⅲ ニコラウス・クザーヌス」

 とてもわかりやすい好論文である。クザーヌスは「知ある無知」や「反対物の合致」のような禪を思わせる逆説で日本でも人気のある思想家であるが、ジョン・マンの『グーテンベルクの時代』では権謀術数で市民階級から枢機卿になりあがった、権力欲旺盛な教会政治家に描かれていて驚いたものだった。

 本章の描きだすクザーヌスはそれとは対照的である。なるほど教皇のために東奔西走してドイツ諸公を説得してまわり、その功績で枢機卿に抜擢されたのは事実だが、早くからイスラム教に関心をもち、カトリックとプロテスタントの教義的対立を相対化するようなビジョンをもっていたらしい。東西教会の合同のための教皇派使節団に選ばれるや、東方教会総主教の信頼を勝ちえてヴェネツィアに招くという成果をあがることができたのも、儀礼の違いを越えた信仰があるという宗教寛容論のゆえだろう。

 親友だったピッコローミニが教皇ピウス二世として即位し、対トルコ十字軍を提唱するや教皇を批判、コーランは不完全ながら福音を含むとする『コーランの精査』を発表する。しかし教皇の命令には従わざるをえず、兵を率いて参陣する途上、トーディで病没する。三日後にピウス二世もアンコーナで没し、十字軍は中止される。

 クザーヌスの心臓は私財を投じて故郷に設立した聖ニコラウス養老院の礼拝堂に埋葬されたが、この養老院は現在でもホスピスとして存続しているよし。

 「知ある無知」とか「神聖なる無知」と訳される docta ignorantia は「(神によって)知らされた無知」と「深く覚った無知」という二つの意味が含意されているとして本章では「覚知的無知」という訳語があてられている。「反対の合致」は対立するものの融合ではなく両者が共通の関係に立つことであり、人間の認識能力の段階に応じて説明される。すなわち、

  • 感性(sensus)においてはいかなる反対対立の合致も存在しない
  • 理性(ratio)においてはカテゴリー的に包含される反対対立の合致
  • 知性(intellectus)においては矛盾するものの反対対立の合致
  • 神においては万物が相異なしに一致する

 イエス・キリストは「神性と人性が合致する場」とされ、創造者にして被造物、有限者にして無限者、引き寄せる者にして引き寄せられる者である。

 真理は厳密性においては到達不能であり、人間のあらゆる積極的言明は憶測にとどまるが、不可知論と異なるのは人間の精神活動は推測・憶測として一定の有効性をもつと評価している点であり、神の思惟と人間の思惟は<原像-似像>関係とされる。

「Ⅳ フィチーノ」

 ルネサンス期の要となる思想家だが、幹となる説明がなく、話題があちこちに飛んで枝葉末節だけが繁茂している印象を受けた。異教の哲学者という従来のフィチーノ観を越えようとしているのは重要だが、一般向けの論集なのだから、その前に『プラトン神学』がどういう内容かしっかり説明しておくべきだろう。プラトン・アカデミーの存在を自明としているが、なかったという説もあるのだから、ちゃんと説明してほしかった。

 宇宙のヒエラルキアにおける魂の特権的な位置は本巻冒頭の「総論」とピーコをあつかった次章に祖述されているので、そちらを読んだ方が早い。「総論」とピーコの章はたまたまなのか、本章と同じ著者が書いているが、格段に平明で充実した内容である。「総論」とピーコの章を熟読した上で本章にもどった方がいい。

「Ⅴ ピーコ・デッラ・ミランドラ」

 ピーコは1463年にミランドラで領主の三男として生まれた。ボローニア大学で教会法を学ぶが、人文研究に引かれ、フィレンツェでプラトン・アカデミーと交流をもった後、パドヴァ大学でアヴェロエス的なアリストテレスを学び、パリにも遊学している。1482年にフィチーノの『プラトン神学』が刊行されるとフィチーノに書簡を書き送っている。

 ピーコは早くから才能を認められ23才の時にはロレンツォ・デ・メディチの肝煎でローマで討論会を主宰することになるが、この討論会のためにまとめたのが『九〇〇の論題』で、『人間の尊厳について』はその開会の辞にあたる。『九〇〇の論題』は教皇から異端とされ、ピーコはフランスに亡命して逮捕されたり、ロレンツォの働きかけで釈放されたりと波乱の後半生を送り、わずか31才で早逝する。

 『人間の尊厳について』の革新性を要約した条を引用しておく。

 ピーコはフィチーノのように、人間に対して、宇宙のヒエラルキアにおける<中間物>としての特権的な地位を付与するのではない。むしろこのヒエラルキア内に固定されず、自己の地位を自由に選択する存在とみなす。他方、人間の本性については、伝統的な人間=ミクロコスモス観から離脱し、万物をすべて内に内包するものとしてではなく、いっさいの規定を欠きあらかじめ定められていないものとして捉える。

 こうした人間観は占星術に対する態度にもあらわれている。フィチーノは占星術をある程度認め、星の悪影響を抑制するためには音楽と護符が効果的としたが、ピーコは星の影響は自由意志とそこなうとし、占星術は欲深い嘘つきのペテンと全否定した。近年、ルネサンスをオカルトの復活と捉える見方が有力だが、ピーコのような本当の近代の萌芽もあったのである。

「Ⅵ ポンポナッツィ」

 ポンポナッツィは1462年にマントヴァで生まれ、アリストテレス研究で知られるパドヴァ大学で哲学と医学を学んだ後、パドヴァ、フェラーラ、ボローニャなど北イタリアの大学で自然哲学を講じた。

 北イタリアの大学は法学部と医学部が中心で、神学部中心のパリ大学と異なり哲学を哲学として研究することが可能だった。中世には顧みられなかった『詩学』や『政治学』、『動物誌』が読まれるようになり、新しい正確な翻訳や古代の注釈書の出版によって新しいアリストテレス像が生まれようとしていた。その中心となったのがポンポナッツィである。

 『霊魂論』第三巻の能動知性論は霊魂の不滅性と世界の永遠性に係わるので12世紀以来議論の的となっていたが、ポンポナッツィは身体器官なしに普遍的なものを認識する知性体に対し、人間の認識には表象像をつくる身体器官の活動が不可欠とし、人間霊魂は普遍的なものを個別を通じて間接的に認識すると結論した。つまり身体器官の滅失とともに認識も滅失するのである。

 近代的な考え方をしているようにも見えるが、奇跡や魔術は超自然ではなく自然の活動の結果とし、魔術師の治療はダイモンではなく魔術師の隠れた力によると考えた。

 ポンポナッツィはアリストテレスの生物学を大学で講じた最初の一人だったが、あくまで本の学問であって、ハーヴィのような解剖や比較観察はおこなわなかった。あくまで過渡的な思想家だったようである。

「Ⅶ マキアヴェッリ」

 ニッコロ・マキャヴェッリは1469年に繁栄の頂点にあったフィレンツェに生まれる。マキャヴェッリ本家は大貴族だったが、ニッコロの生まれた分家は中流に没落していて、父ベルナルドは法学の学位をとった愛書家だった。どのような教育を受けたかは不明だが、サヴォナローラの没落後、30歳になっていたマキャヴェッリは突如フィレンツェ政府第二書記局長に選ばれ、以後、外交に内政にと八面六臂の活躍をはじめるのはご存知の通りだ。

 あのマキャヴェッリがなぜ哲学史にと思ったが、同時代の混乱を古代ローマを鏡として理解しようとするにあたり、単に教訓を得ようとしたり古代を理想化するのではなく、社会制度の問題として理論的に考察した点が評価されているようである。『ローマ政体論』については次のように論評されている。

 ローマは三つの善き政体の混合政体とみなされ、しかもそれは平民と元老院の不和対立のゆえにもたらされたものだと、この点がとくに強調されている。マキャヴェッリの視座は、古代ローマ共和国が創出した「市民的生活」を理論的に紡ぎ出すにあたり、天上にも偶然にも神にもその根拠を求めることは頑なに慎み、地上の世界における諸力の葛藤から生ずる法と諸制度ならびに住民の気質といったものの関連をよりどころに解きほぐそうとする。

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