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2012年05月27日

『安部公房文学の研究』 田中裕之 (和泉書院)

安部公房文学の研究 →bookwebで購入

 国語の授業で「それ」は何を意味するかとか、この文節はどこにかかるかといった分析的な読み方を習ったことがあるだろう。曖昧さが身上の日本文学を相手に分析的な読み方が意味があるのか疑問に思っていたが、相手が安部公房だと意外に有効らしい。本書は国語の授業的な読み方を安部公房に対して生真面目に実践しており、大きな成果をあげている。おそらく安部公房が理詰というか粘着質の作家だからだろう。

 本書は日本近代文学研究者である田中裕之氏による安部公房論で、1986年の『砂の女』論から2007年の『終りし道の標べに』論まで20年間にわたって紀要などに発表された論考を集めている。配列は対象とする作品の年代順となっており、三部にわかれる。第一部は最初の長編小説である『終りし道の標べに』論、第二部は1949年の「デンドロカカリヤ」から1952年の「水中都市」まで2年半の間に集中的に書かれた「変形譚」論、第三部は中期を代表する『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』、『箱男』の失踪者四部作論である。

 第一部「〈真善美社版〉『終りし道の標べに』の位相」では安部公房自身が後に語った「実存主義を観念から体験のレベルに投影したらどうなるかという一つの実験」という自作自解を検証しており、第一章は「第一のノート」におけるハイデガーの影響、第二章は「第二のノート」とリルケの「放蕩息子の物語」、第三章は紙をめぐる思索とニーチェ、キルケゴール、ヤスパースの影響をあつかう。

 一部の先行研究に見られる安部公房は『終りし道の標べに』においてハイデガーを離脱して独自の哲学的思索を切り開いたとか、後期ハイデガーを読みこむ見解をはっきり斥け、「第一のノート」が最初から最後まで『存在と時間』のハイデガーを下敷きにして書かれていることを明らかにした点は重要である。また同作における「故郷」が後期ハイデガーの「故郷」ではなく、リルケ的な「故郷」だという指摘もその通りだろう。「第三のノート」と「追録」を神の問題ととらえ、ニーチェとキルケゴールの影響を読みこんだ部分にも教えられた。

 第一部の論は初期安部公房研究における大きな達成だと思うが、いくつか疑問がないわけではない。著者は安部公房が読んだであろう寺島実仁訳の『存在と時間』ではなく、後年の細谷貞雄訳を引用しているが、安部と同世代でやはり『存在と時間』に魅せられた木田元氏が『闇屋になりそこねた哲学者』などの自伝で語っているように当時の翻訳やハイデガー理解には相当問題があった。研究の進んだ現在の理解をもちこむのはどうだろうか。リルケについては鳥羽耕史氏が『運動体・安部公房』で指摘したように大山定一訳『マルテの手記』というフィルターが介在しており、ワンクッションおいて考えなければならないのではないか。

 第二部「変形譚の世界」は共産党入党前後に集中的に書かれた変身物語を「変形譚」と一括し、リルケ的な「故郷」を脱して共産主義者としての新たな「故郷」へと向かう物語として解読している。これ自体はよくある読み方で面白くもなんともないが、シャミッソーとの経歴の類似を指摘した第七章「安部公房とシャミッソー」、変形譚を比喩との関連で捉え直した第八章「比喩と変形」は興味深かった。

 第三部「中・後期の文学世界」は著者の方法の長所と短所が一番よくあらわれている部分である。

 第九章「『砂の女』論――失踪者誕生の物語」は主人公のラストの選択に共産党除名を読みこむ解釈で新味はないが、ハンミョウに注目した後半部分は面白かった。

 第十章「『燃えつきた地図』における曖昧さの生成」は同作には分析的な読み方では接近できないと考えたのだろうか、著者には珍しくテーマ批評的な描き方を試みているが、慣れないことをして無理をしているないるという印象を受けた。著者の本領はあくまで分析的な読み方にあるだろう。

 第十一章「安部公房のおける不整合」は書下しで周到に原稿を練りあげたはずの『砂の女』と『他人の顔』に多数の不整合というかミスが含まれているという指摘で、こんなにたくさんあったのかと驚いた。

 もちろん「テクストはまちがわない」というテクスト論的な見方もあるわけだし、著者が特にこだわっている時間的不整合についてはミスといっていいのかどうか、あるいはもともとはミスだとしても、そのまま受けとった方がいいのではないかと思わないではないが、うっかりミスと見た方がいいものが多いのも確かである。どこまで意味があるかは置くとしても労作であることは間違いない。

 第十二章と第十三章は『箱男論』である。第十二章「「箱男」という設定から」は『他人の顔』との関係を中心に論じており、『箱男』には『他人の顔』には見られなかった自閉性がくわわったとして引きこもりやストーカーの先駆を見ている。第十三章「その構造について」はもっとも国語の授業的な部分で、各断片の記述者が誰かを徹底して明確にしようとし、結局「『箱男』は、そのすべてがただ一人の記述者の手になる虚構の産物なのである」という結論を引きだしている。

 記述者探しはロブ=グリエの翻訳で知られる平岡篤頼氏の『迷路の小説論』に触発される形ではじまったようだが、この結論はともかく、安部公房とアンチ・ロマンの関係は見直されてよいだろう。

 最後の第十四章「前衛の衰弱」は安部の絶筆となった「さまざまな父」論で、作品として自立することのできなかった作品に対する割り切れない思いを語っている。安部公房が好きでたまらないという気持がよく出ている。

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