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2011年12月31日

『安部公房伝』 安部ねり (新潮社)

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 安部公房の一人娘、ねり氏による父親の伝記である。

 実の娘というだけでなく、日本の全集のレベルを越える完全編年体の精緻な『安部公房全集』を編纂した人の書いた伝記だけに、資料的価値が高いことはいうまでもない。さまざまな年譜や事典の記述、最近の『安部公房・荒野の人』にいたるまでに蓄積してきた誤りを正し、安部公房の伝記的事実を明確にしたのはもちろん、別刷の写真ページが48ページもある。それ以外にも多数の写真が掲載されており、そのほとんどが今回はじめて公開されたものだ。

 最後のセクションは「インタビュー」となっていて、『安部公房全集』の月報に掲載された関係者25名のインタビューを再録している。すでに鬼籍にはいった人がすくなくなく、関係者の日記でも発見されない限りこれ以上の話は出てこないだろう。

 安部の小説によく登場する山師のモデルとおぼしき叔父がいたり、安部公房自身も叔父から受けついだ商才を発揮してサイダーの製造で大もうけをしたりといった小説の反映を私生活の中に見つけだすことができるが、他の作家に較べて作品と実生活の共通点はすくない印象を受けた。

 むしろ興味深いのは作品には使わなかった材料が多いことだ。

 たとえば終戦直前、滿洲になだれこんだソ連軍は安部公房の住む奉天にも押し寄せてくるが、その予兆はこう語られている。

 8月の終りにソ連軍が侵攻してきた。ソ連軍侵攻の3日前から、テノールの歌声が荒野の地平から地響きのように聞こえてきた。恐ろしいソ連軍の、天使のような美しい歌声の響く光景を、公房は娘の私に熱心に話した。

 凄絶なまでの崇高美であり、ワグナー的な陶酔と言っていいだろう。もちろん小説家の夢想の産物だろうが、安部公房の小説にはこの種の崇高美はまず出てこない。安部公房は崇高美に魅せられながらも、ファシズムの美学につながりかねない陶酔を自らの作品では封印していたということだろうか。

 本書では政治的には正反対の立ち位置だった三島由紀夫との深い友情が描かれており、ここまで信頼しあっていたのかと驚かされたが、両者は通ずるものが多かったのかもしれない。

 ちなみに福田實『滿洲奉天日本人史』によるとソ連軍の奉天進駐は8月19日に先遣隊入城、20日に本隊入城と司令部設営、21日になってようやく戦車隊到着という順序でおこなわれた。安部公房が語ったようなワグナー的情景とは似ても似つかない散文的な「侵攻」だった。

 安部公房の父浅吉は南滿医学堂(後の滿洲医科大学)を卒業して医師となるが、滿洲の医大に進んだ経緯は次のように語られている。

 しかしタケ(安部公房の祖母:引用者註)から聞かされていた金毘羅歌舞伎の話を思い出した浅吉は神戸に向かい、きらびやかな衣装をまとった女性と男装の女性達が歌って踊る宝塚歌劇に通いつめたという。
 公房によれば、浅吉が気がついた時には医学部の試験が全て終了していた。そして、ふと見た電信柱に南滿医学堂の学生募集の貼り紙があった。

 メルヘン的な印象を受けるが、大学受験のために北海道から上京したのに神戸まで行ってしまい、宝塚に通いつめて受験の機会を逃すなんていうことが本当にあったのだろうか。にわかには信じられないが、浅吉がのほほんとした好人物に思えてくるは確かだ。

 しかし安部公房はこんなメルヘン的な場面を描くことはなかったし、こんな好人物を作品に登場させたこともなかった。安部の小説や芝居に出てくるのは世をすねた一癖ある人物か実存的に懊悩する人物ばかりで、浅吉のような極楽とんぼは出てこない。

 女性像もそうだ。安部公房の父方の祖母安部タケは庄屋の家付娘で夫と子供のある身だったが、夫の出征中、近在の士族黒川勝三郎と駆け落ちをして北海道にわたるというはなはだ活動的な女性だったらしい。

 1984年3月3日、夫が徴兵されたタケは勝三郎と駆け落ちをした。香川から北海道に移民が始まったのはその3年前の1891年のことが。すでに入植していたタケの妹ヤクを頼って汽車に乗って北に向かった。このとき勝三郎は30歳を越えている。駆け落ちには家族も同行した。勝三郎の父弥三郎、兄吉太郎など黒川家の6人に、タケの幼い下の娘ふたりを連れ、若干の資金を持って出発した。

 これもすぐには呑みこめない。駆け落ちに便乗して一家の北海道移住を決めるなんていうことがあるのだろうか。その通りだとしたら黒川家は相当そそっかしい一家ということになる(黒川家側には別の物語が伝わっているかもしれない)。

 それは置くとして、恋人の一家を引き連れて北海道という新天地に向かうタケはタラの丘を目指したスカーレット・オハラに通じる女丈夫に思えてくる。しかしこういう陽性でたくましい女性も安部公房の作品には絶対に登場しない。

 本書を読んでいると、安部公房という人は読者が期待する安部公房像を維持するために多くの可能性を自らに禁じていたのではないかという気がしてくる。安部公房はセルフブランディングをおこなっていたのかもしれない。

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『安部公房の“戦後”植民地経験と初期テクストをめぐって』 呉美姃 (クレイン)

安部公房の“戦後”植民地経験と初期テクストをめぐって →bookwebで購入

 韓国人の安部公房研究者が東大に提出した博士論文をもとにした本である。鳥羽耕史氏の『運動体・安部公房』の二年半後に出た本であるが、『終りし道の標に』から『砂の女』までとあつかっている時代が重なっているだけでなく、政治運動と安部公房という視点を共有しており、鳥羽の論の強い影響下に書かれたといって差し支えないだろう。

 しかし重なっている部分が多いだけに、相違点も際立っている。鳥羽が1950年代の安部にポストモダンの大波に洗われ、脱政治が当たり前になっている現代日本の先駆を見ているのに対し、呉は植民地生まれの愚直なコミュニストとしての安部公房像にこだわっているのだ。

 鳥羽は文化人類学的で人形劇を思わせる『飢餓同盟』をとりあげる一方、滿洲を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』を等閑に付したが、呉は逆に『飢餓同盟』を無視し『けものたち』に一章をさいている。「引き揚げの過程で接する他民族への眼差しの変化」が他の引き揚げものの小説とは一線を画していると考えるからである。

 「壁」の読解も対照的だ。鳥羽は柄谷行人的な『資本論』読解を「壁」に読みこんだが、呉は名刺の「戦時中、反抗できぬ弱虫はただ発狂することをねがった。……中略……そのじめじめした願望を現実にして奴等にたたき返し、うんと言わしてやるのがおれたちの復讐なんだ」という台詞に着目し、こう書いている。

 名刺が「ぼく」に復讐を試みた理由は、人間「ぼく」の愚かさにあった。カルマ、すなわち<罪業>は、戦争に抵抗できなかった「ぼく」の無力さを指している。「ぼく」から名前が逃げた原因は「デンドロカカリヤ」の「コモン君」と同じく<戦争>の記憶にあったのである。したがって、名前と実体の分離という変形は、戦争のトラウマが露呈した形にほかならない。主体として行動できなかった「ぼく」の愚かさは自らを客体化してしまい、その結果、名刺との分裂に羞恥心と虚脱感を感じるほかなくなってしまうのである。

 知識人の戦争に対する悔恨と自責が名前と実体を分離させたとというわけだ。こういう生真面目な読み方はそれなりに説得力がある。

 とはいえ天皇制に対する諷刺とまで言ってしまうとどうだろうか。

 語り手はカルマの名前を消して病院で「十五番」という名を与える。これも敗戦に対する寓意であるが、名前もない存在としてのカルマの羞恥、屈辱は敗戦が招いたことである。アメリカに占領され、<occupied in Japan>になった名前のない被占領状態の日本が否応もなく浮上するのである。さらに名前を失ったカルマをY子が三回も「人間あひる」として戯画化しているにも、極めて暗示的で、それは「人間宣言」によって戦後も存続しえた天皇制への諷刺としても読めるのである。

 こういう読み方はさすがに無茶だろう。

 『東欧を行く』に対する視点の違いも興味深い。鳥羽は安部公房が東欧の民族間の対立にこの時点で気づいており、国家の間の境界=対立ではなく民族集団の間の境界=対立を「国境病」と呼んでいること、社会主義国にも矛盾があるが、その矛盾を「プラスの矛盾」と言い換えて擁護していることを指摘する。一方、呉は植民地と本土の対立や滿洲の民族問題には鋭敏な反応を見せていたのに、安部が東欧で見てとった民族間の対立はなぜか無視し、チェコの共産党には「民主主義」があるという言葉にだけ反応している。安部がさまざまな社会主義的矛盾を指摘していると抽象的に書くだけで、その矛盾の重要なものが民族間の矛盾だということまでは触れていない。東欧旅行後の日本共産党批判にいたる過程となると鳥羽の論の方がはるかに説得力がある。なぜ急に読み方が浅くなってしまったのか、不可解である。

 しかし一番違うのは『砂の女』の評価である。主人公が監視を解かれたにもかかわらず逃亡をあきらめる結末をコミュニズムからの離脱と解釈する点では両者ともに軌を一にしているが、鳥羽はそれを「自らを密室のなかへと幽閉していく志向」として現在のオタク文化の先駆のようにとらえているのに対し、呉は「個人的<主体>への源泉回帰」、「平常時における闘いのあり方」と社会に対する主体的な係わりとして評価している。まさに真逆である。

 こういう論の構えだと『砂の女』の結末の評価は運動をやめた後の安部公房をどう評価するかという問題に直結するが、『砂の女』の読み方はそれだけだろうか。

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2011年12月30日

『運動体・安部公房』 鳥羽耕史 (一葉社)/『1950年代』 鳥羽耕史 (河出ブックス)

運動体・安部公房 →bookwebで購入 1950年代 →bookwebで購入

 安部公房の年譜を眺めていると20代から30代にかけて「夜の会」とか「綜合文化協会」、「世紀の会」、「人民芸術集団」、「現在の会」、「記録芸術の会」といったグループに属していたとある。参加者は小説家、評論家、画家、音楽家、映画関係者と幅広く、1960年代以降頭角をあらわす文化人の多くが含まれている。日本共産党への入党も「会」の活動の延長だったらしい。

 1970年代以前にデビューした日本の作家の多くは小説家の卵の集まる同人誌を修行の場としたが、安部の場合『近代文学』の同人にはなったものの、熱心に参加したのは多ジャンルのメンバーが離合集散する「会」の方だった。同人誌の活動が戦中の反動で活発化していたことを考えると、ジャンルを越えた「会」に軸足をおいた安部は珍しい新人作家だったといえるかもしれない。

 安部は岡本太郎らと「夜の会」を立ち上げた直後、自己の実存に視線を集中した『終りし道の標に』を刊行するが、その後社会諷刺という形で視野を広げていき、ルポルタージュ的手法をものにして『砂の女』に結実する硬質な文体を獲得していく。20代後半から顕著になる安部の変貌には「会」の活動がなんらかの影響をおよぼしたと考えるのが自然だろう。

 安部公房を考える上で「会」が重要なのはわかっていたが、『世紀群』などの機関誌の多くはガリ版刷りで復刻版が出ているわけではなく、日本近代文学館に日参するとかしなければ概略をうかがうことすらできない。『人民文学』のような共産党系の雑誌にも当たらなければならないだろうし、花田清輝、岡本太郎をはじめとする「会」の中心人物の伝記や回想録にも目を通しておく必要がある。

 どこから手をつけたらいいのか途方にくれていたところ、まさにまん真ん中を射抜いてくれる本が出た。鳥羽耕史氏の『運動体・安部公房』と『1950年代』である。

 『運動体・安部公房』は三部にわかれる。

 第一部は総論で、潤沢な資金を見返りなしに若手作家につぎこんだ真善美社という特異な出版社を発端に「夜の会」や「世紀の会」が連鎖的に生まれ、それが共産党の引力に引き寄せられて左傾化していき、激動する政治状況の中で記録芸術の理念が若い芸術家の間にわけもたれていった経緯が素描されている。

 第二部と第三部は安部の個々の作品の中に「会」の活動がどのように反映しているかを論じた論文が対象作品の発表年順におさめられている。

 第二部「芸術運動と文学」は1948年の「名もなき夜のために」から「デンドロカカリヤ」、『壁』をへて1951年の「詩人の生涯」までをあつかうが、「マルクス主義と文学」とした方が適切かもしれない。「名もなき夜のために」の章こそ大山定一訳の『マルテの手記』の影響が論じられているものの、他の章はマルクス主義の影響がテーマだからだ。「デンドロカカリヤ」が前後して書かれた花田清輝の社会主義リアリズム批判と軌を一にしているという指摘には目を開かれたが、「壁」の名刺がマルクスの商品論の脱構築であり、「詩人の生涯」はプロレタリア独裁の寓話だというのはどうだろうか。考証部分は勉強になるし、短編集『壁』が画家桂川寛との共同作業だというのは納得できるけれども、当時の文学者が『資本論』の批判的な読解をおこなっていたかどうかは留保したい。

 第三部「<記録>の運動と政治」は1952年の「夜陰の騒擾」から『飢餓同盟』、『東欧を行く』、「可愛い女」、「事件の背景」をへて1961年の『砂の女』までを論じる。それぞれ教えられるところが多かったが、一番面白かったのは『飢餓同盟』論である。鳥羽は『飢餓同盟』が杉浦明平の諷刺小説と柳田國男の民俗学を先行テキストとして成立していると指摘し、一見リアルな背景よりも戯画化された政治的人形の方にリアリティがあるとしている。

 『1950年代』は「記録」というタームを軸に生活綴方、サークル詩、ルポルタージュ絵画、記録映画、テレビ・ドキュメンタリーと、1950年代の左翼文化運動全般に視野を広げており、『運動体・安部公房』以上の労作である。

 共産党員時代の安部公房が党の指令で下丸子の労働者の文化活動の指導にあたっていたことは年譜にあるが、『安部公房全集』月報に載った『下丸子詩集』編集発行人のインタビューくらいしか手がかりがなかったので、具体的にどういう成果をあげていたのか見当がつかなかったし、サークル詩がどういう拡がりをもっていたのかもわからなかった。

 鳥羽によると1950年代前半には「サークル誌」と呼ばれるガリ版刷りの雑誌が各地で族生し、サークルどうしのネットワークで全国的に流通し、『人民文学』のような中央の雑誌が優秀な作品を掲載して広く知らせた。そこまでは同人誌と同じだが、同人誌が作家で身を立てたいインテリのものだったのに対し、サークル誌の担い手は労働者であり、貧困や困難を書き記す生活記録としての性格を強めていき、「へたくそ」に独自の価値を見いだしていったという。

 労働者たちの創作は危機感をあおる紋切り型におちいっていき、高度経済成長とともに生活条件が向上すると運動は退潮していったが、労働者と接触した作家たちには多大の刺激をあたえていた。安部公房がシュールレアリスムのシュール(上へ)をサブ(下へ)に転倒したサブレアリスム(現実の底を潜り抜けていくリアリズム)を提唱していたことを不勉強にもはじめて知った。

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2011年12月28日

哲学の歴史 03 神との対話』中川純男編(中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第三巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻はキリスト教神学の基礎となった2世紀のアレクサンドリアの哲学からルネサンス直前の14世紀のマイスター・エックハルトまでの1400年間をあつかう。中世というくくりになるが、年代的に長大なだけでなく、ギリシア哲学を継承し西欧近代に伝えたビザンチンとイスラムの哲学、さらにはユダヤ思想までカバーしている。これだけ多彩な思想の営みを一冊に詰めこむのは無茶であるが、従来の哲学史だとまったく無視するか、ふれても普遍論争に言及する程度だったことを考えると、中世の巻を設けてくれただけでもありがたい。

 このシリーズは編集がゆるく執筆者を選んだらまかせきりという印象があるが、本巻はその傾向が特に強く出たように思う。後半ではラテン・アヴェロエス主義が台風の目となり、トマス・アクィナスやボナヴェントラ、ヘンリクスらをあつかった章ではラテン・アヴェロエス主義が仮想の論敵として大きく取りあげられているが、当のラテン・アヴェロエス主義を論じた章ではラテン・アヴェロエス主義などというものは存在しない、実態はソルボンヌ内部の派閥争いだったとしているのだ。執筆者間の連絡がなんとかならなかったのだろうか。

 他にも不満はあるが、一般向けの本がすくない分野だけに貴重な本であることは間違いない。

「Ⅰ アレクサンドリアの神学」

 ユダヤ思想家のピロン(フィロン)と初期ギリシア教父のクレメンス、オリゲネスのさんにんをとりあげている。

 ピロンは活動期がキリスト教の成立時期と重なるために注目され、35タイトルの著作がほぼすべて今日に伝えられているということである。

 ピロンは聖書の比喩的解釈の先鞭をつけ、ギリシア哲学との折衷をはかったことがキリスト教神学に大きな影響をあたえた。律法をノモイと訳し、「ノモイに従う人はコスモポリテース(世界市民)である」と自然法的に解して普遍化をはかるなどである。「創世記」については一日目に範例となるイデア界が、二日目以降に可感的世界が創造されたとというプラトンに準拠した二段階創造説を提唱しているが、面白いのは二つの資料の不一致を二段階説で辻褄をあわせていることである。「創世記」には「人間は神の像になぞらえかたどられた」と「ヤハウェ神は地の塵から人間を造った」という二つの人間創造説があり、今日では起源の異なる二つの文書をいっしょにしたためだとわかっているが、ピロンは一の日に創造されたエイコーンは形をもたないイデアだとして神人同形論を回避し、可視的世界の人間はイデアの影(神の影の影)で神から隔たっているために堕罪の可能性があるとする。もっともイデア=神の思考だと明言してしまうと神の一性に抵触するので、比喩にとどめる。神の思考という発想はアウグスティヌスにも継承されるという。

 クレメンスはキリスト教徒のための最初の学校をパンタイノスが設立したことが知られているが、主著の『雑録集』は「綴れ織り」という意味で「高齢から来る忘却への薬」としてさまざまな著作からの断片を記録している。仏陀に関するキリスト教文献最初の言及を含むということである。

 オリゲネスはエウセビオス『教会史』第6巻など伝記資料がたくさん残っている。アレクサンドリアの主教とまずくなってカイサリアに移住し学園を開いたが、没後、異端宣告を受けたために著作が散逸し、ラテン語訳の形でしか残っていない。ところが蔵書の方はカイサレイア主教バンピロスによって図書館が建てられ保存されたという。七十人訳の校訂をおこない、さまざまな翻訳を一覧できる『六欄対訳聖書』を刊行したことも功績とされている。

 『ケルソス論駁』で復活批判に反論したが、コリント書15:42を根拠に復活した肉体は復活前と異なるとする。「朽ちるものとして播かれ、朽ちないものとして甦る」というわけだ。

「Ⅱ アウグスティヌス」

 どこかで読んだ話ばかりで新味はない。

 ドナトゥス派との論争の条でキルクムケリオネスという暴力的な土地を失った下層民集団が無法を働くとあるが、映画「アレクサンドリア」に登場した「修道兵士」のようなものかなと思った。

 もう一方の論敵のペラギウス派はギリシア的教養に通じたローマの富裕層が基盤だった。アウグスティヌスはペラギウス派には容赦なかったが、ドナトゥス派にはずいぶん寛容である。ドナトゥス派にある種の共感を抱いていたのだろう。

 『三位一体論』についてはかなり立ち入った紹介がある。いつか読んでみたい。

「Ⅲ 継承される古代」

 前半では自由七科に代表されるギリシア的教養を中世世界に伝えたボエティウスとカッシオドルス、後半では神学をいきなり高みに押しあげた偽ディオニュシオス・アレオパギテスとエリウゲナを紹介しているが、後者について「古代の継承」というのはどうだろう。この章は二つにわけるべきだったのではないか。

 ボエティウスはギリシア語を理解できなくなった同胞の教育は政治家の義務と任じて、東ゴート王国の宰相という激務のかたわら、自由七科の教科書を編纂し、アリストテレスの論理学書と『エイサゴーゲー』をラテン語に訳し、注解をくわえた。

 ボエティウスというと『哲学の慰め』が名高いが、カロリング・ルネサンスで評価されるまでは埋没していたという。

 カッシオドルスはボエティウスの地位を襲い、学問的にもボエティウスの衣鉢をついだが、神学と世俗的学問(自由七科)の両立を提唱し、引退後は故郷のスキュラケウムに隠修士のための修道院と世俗的学問のための修道院ウィウァリウムの二つを建設した。後者には膨大な蔵書を納めた図書館を設けた。写本工房もあったらしく、ウィウァリウムの蔵書は後に教皇のラテラノ宮の図書室に移管され、各地の各地の修道院に貸与されたり贈与され、広く流布したという。

 偽ディオニュシオス・アレオパギテスとエリウゲナはそれぞれ独立の章をたててもおかしくない大物だが、百科事典的なコンパクトな記述で終わっている。

「Ⅳ アンセルムス」

 最初のスコラ哲学者と呼ばれている人だが、北イタリアの貴族の家に生まれ、父親に修道院入りを反対されて出奔し、フランスの修道院にはいったという激しいところもあった。

 神の存在証明で知られているが、同時代人からも批判が出ていたという。あれが証明になっているとはとても思えないが、20世紀になってからカール・バルトとハーツホーンが再評価しているそうである。どう再評価したのか、知りたいところだ。

「Ⅴ ビザンティンの哲学」

 坂口ふみの『<個>の誕生』でであった名前や学説、議論に再会して懐かしかった。ここに書かれているのはほんのさわりだけだけれども、ビザンチンの神学は深い。

「Ⅵ 一二世紀の哲学」

 12世紀ルネサンスをアベラルドゥスを中心に描いている。アベラルドゥスとは『アベラールとエロイーズ』のあのアベラールである(最近、岩波文庫から新訳が出た)。

 アベラールといえば普遍論争だが、普遍的な物の実在を否定したために語と対象が対応する理由の説明に苦しみ、ストア派のレクトンに近いstatusという概念を編みだすが、十分発展させることなく撤退してしまったという。

 アベラールの神学についてはかなり詳しい紹介がある。アンセルムスと対立的にとらえる従来の説は誤りで、著者はアベラールが軸足を置くのはアンセルムスの論理学的神学だとする。サン=ヴィクトル学派のフーゴーとの影響関係などもおもしろい。

 アベラールは頭はめっぽういいが性格的に問題のある人だった。教え子のエロイーズを妊娠させてしまったこともそうだが、恩師を片っ端からバカ呼ばわりしているようなところがあり、敵が多いのも当然である。異端審問にかけられたのだって神学的内容よりも性格がまねいた面があったようだ。

 こんなにおもしろい神学者はいない。誰か映画化しないものか。

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