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2011年09月20日

『変身物語』上下 オウィディウス (岩波文庫)

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 オウィディウス中期の代表作であり、ヨーロッパ文学の古典中の古典として著名な作品である。ヨーロッパ人がイメージするギリシア・ローマ神話は本書であって、まかりまちがってもアポロドーロスではない。西洋古典絵画はほとんどが本作にもとづいていて、美術史を学ぶ上でも必読書とされている。

 15巻1万2000行の叙事詩形式の雄編で、『アエネイアス』の向こうを張って書かれたといわれているが、一貫したストーリーはなくギリシア・ローマ神話のさまざまなエピソードに託して恋愛や家族愛、情欲、嫉妬を描いている。

 一貫したストーリーはないが、テーマは一貫している。「変身」である。オウィディウスは神のわがままや気まぐれによって、あるいはみずからの意志で他の生物に変身するさまを最近のSFX映画のようにありありと描いてみせる。

 どれもみごとな描写ばかりだが、ここではパエトンの姉妹が彼の死を傷むあまり樹木に変わってしまう条を引こう。

 あるとき、長女のパエトゥーサが、大地にひれ伏そうとしていながら、急に足がこばわって動かなくなったと訴えた。まばゆいばかりに色白のマルペティエが、姉のそばへ駈け寄ろうとすると、これも、突如根が生えたように、動けなくなった。つぎの妹は、手で髪の毛をかきむしろうとしていたが、見ると、むしり取られたのは木の葉だった。ひとりは、脚が固まって木の幹になったと嘆き、もうひとりは、腕が長い枝に化したと悲しむ。彼女たちがこの出来事に驚いているうちに、樹皮が下腹部を包み、腹部、胸部、肩、手というふうに、しだいに上へあがっていく。口だけが残っていて、母親を呼び求める。が、母親に何ができるだろう? ただ、うろうろと、あちらこちらへ駈け寄って、時間の許すかぎり、口づけをしてやることしかない。しかし、それだけでは足りなくて、娘たちのからだを幹から引き離そうと試みたり、細い枝を手で折りとってみたりする。と、そこから、傷から出るかのような血の滴が、滴り落ちるのだ。
 「やめてちょうだい! お願いだから、お母さん!」傷つけられた娘は、こう叫ぶ。「やめてちょうだい、お願いだから! あなたが裂いている木は、わたしたちのからだなのだもの。ああ、これがお別れ!」――樹皮が、この最後の言葉をふさいでしまった。そして、そこから、涙が流れ落ちる。できたばかりの枝からしたたるこの樹脂は、日光で凝固して、琥珀となり、澄んだ流れの河がこれらを受けとって、ローマへ運び、妙齢の婦人たちの身につけられることとなった。

 ほとんど映画ではないか。映画が発明される二千年も前にイメージの変容をコマ送りのように精密に追いかけることがどうしてできたのだろう。人間の想像力は最初から完成の域に達していたということか。

 『変身物語』の登場人物は牡鹿に変えられたり、蛇に変えられたり、イルカに変えられたりする。きわめて稀だが、獣に帰られた人間が元に戻されることもある。

 河の神イオナコスの娘イオはユピテルにおいまわされるが、ユピテルは彼女を追いかけているところを妻ユノーに見つかりそうになり、あわてて彼女を真っ白な雌牛に変えてしまう。ユノーの機嫌がなおったところで、ユピテルはイオをもとの姿にもどしてやる。

 女神の怒りが和らぐと、イオはもとの顔をとりもどし、姿も、前どおりになった。からだからは荒い毛が抜け落ち、角がなくなる。丸い目が小さくなり、大きく裂けた口もせばまる。肩と手が、もどって来る。ひづめは消えて、五本の指の爪に変わる。まぶしい白さのほかには、雌牛のおもかげはどこにもなかった。二本の脚の働きを頼りに、乙女は、真っすぐに立つこともできている。しかし、ものをいうことは恐ろしかった。雌牛のようにモーと泣きはしないかと心配なのだ。そして、久しぶりの言葉を、おずおずと口に出してみる。

 オウィディウスの世界では人は動物になり、動物は人になる。人と動物の垣根は低く、神々のちょっとした気まぐれで行ったり来たりさせられる。

 オウィディウスはなぜこれほど変身のテーマにこだわったのだろうか。どうもピタゴラスの思想がからんでいるらしいのである。

 最後の第15巻に変身の秘密をうかがわせるエピソードが出てくる。ローマを建国したロムルスのあと、世評に高いヌマが第二代の王に推戴されるが、ヌマは見聞を広めるために旅に出る。ヌマが訪れたのは南イタリアのクロトンの町である。ヌマは土地の古老からかつてクロトンに住んでいたピタゴラスの教えをさずかる。

 ピタゴラスは現代ではピタゴラスの定理など数学の業績で知られるが、古代には肉食と豆食を禁ずる禁欲的な教団の教祖として知られていた。クロトンはピタゴラス教団が誕生した地である。

 ヌマがさずかった最初の教えは食の禁忌だった。かつて「黄金時代」と呼ばれた時代、人は木の実や草木を食するだけで幸せだった。生けるものみなは、罠を知らず、欺瞞を恐れる必要もなかった。いたるところに平和がみちていていた。ところがある時どこかの誰かが獅子の食べ物を羨んで肉をくらい、それを意地きたない腹へ送りこむことを始めた。人は重い鋤を牽いて畑を耕してくれる牛を屠り、あろうことか牛殺しを神々が犠牲を求められたからだと神々のせいにしている。

 なぜ肉食がいけないのか。ピタゴラスの教えによれば生命は死んでも生まれ変わり、輪廻転生してつづいていく。現世では人でも来世では動物に生まれ変わるかもしれないし、逆に現世は動物でも前世では自分の親や子供だったかもしれない。子牛の喉にナイフを突き立てる行為は家族殺しに等しい行為なのである。

 霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿のなかへ移り住む――それがわたしの説くところだ。だから、警告しよう。口腹の欲に負けて、人の道をあやまってはならぬ。そのためには、非道な殺戮によって、われわれの同類というべき魂たちをそのからだから追い出してはならないのだ。生命によって生命を養うことは許されぬ。

 生命の観点から見れば変身と輪廻転生は同じだ。生きたままの生まれ変わりが変身であり、死を契機にした変身が生まれ変わりである。

 オウィディウスがピタゴラスの徒だったかどうか、生まれ変わりを本当に信じていたかどうかはわからない。流謫後の『悲しみの歌』には魂の永世を茶化すような一節があるからだ。

私の魂は私の肉体とともに消滅し、私の
 いかなる部分も貪欲な火葬の薪から逃れることがありませんように!
というのも、魂が不死で空中高く飛んでいき、
 サモス島の老人ピュタゴラスの言葉が本当だとすれば、
ローマ人の亡霊がサルマティア人の亡霊の間をさまようことになり、
 永遠に野蛮な亡霊の中で異邦人でありつづけるだろうから。

 死後も流刑地の蛮族とつきあうのはごめんだから、肉体とともに魂も滅びてくれというわけだ。ピタゴラス教団の一員だったらこんなことは書けないだろう。

 しかし第15巻の前半をまるまる費やして教説を祖述するのはよほどピタゴラスにいれこんでいるからだろうし、人から動物へ、動物から人へとたやすく移行する『変身物語』の世界はピタゴラスの輪廻転生の世界と地つづきでつながっている。西洋の古典中の古典に輪廻説が封じこまれていた可能性を考えるのはおもしろい。

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