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2011年08月29日

哲学の歴史 02 帝国と賢者』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第二巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻では紀元前4世紀から紀元後6世紀まで、アリストテレスの没後からユスティアヌス帝によるアカデメイア閉鎖までの850年間をあつかう。ヘレニズム期から古代の終焉まで、つまり古代後期というくくりになるが、一冊本の哲学史だと数頁ですましているものが多い。数頁でもさくならいい方で、まったく無視しプラトン、アリストテレスからいきなり中世末期の普遍論争へ飛ぶという書き方をしている本もすくなくない。

 従来の理解だとヘレニズム期は不毛な折衷主義の時代、ローマ哲学はギリシアの模倣で片づけられ、新プラトン派にいたってようやく評価されるものの、キリスト教教父哲学に影響をあたえたという視点からの評価にすぎない。古代後期は哲学的には不毛な時代と決めつけられて来たのだ。

 しかし暫く前からこうした捉え方が変わってきているらしい。きっかけはソクラテスとプラトンの地盤沈下である。

 ソクラテスとプラトンにいたってギリシア哲学が完成したという見方はニーチェ以来大きく揺らいでいる。ハイデガーやハイデガーに影響を受けた木田元氏の『反哲学史』のような哲学史ではプラトンのイデア説はギリシア土着の考え方とは異質であり、プラトン没後、揺りもどしが起こってソクラテス以前の自然哲学が復活したという見方が出てきている。

 古代後期においてソクラテスとプラトンは懐疑主義の伝統から理解される傾向にあり、イデア説はお伽話の一つでしかなかったらしい。イデア説が復活したのは新プラトン派のおかげであり、キリスト教教父哲学にとりいれられたのは新プラトン派的に改変されたプラトンだった。今日我々が知っているようなプラトンは古代後期においては知られていなかったといっていい。プラトンの巨大な影をとりさってみれば、850年におよぶ思惟のいとなみはまったく別の相貌を見せるだろう。

 「総論 地中海世界の叡知」はこうした価値転換を踏まえながら古代後期の哲学史を概観しており、すこぶる刺激的である。ここでは次の一節を引いておこう。

 古代哲学を総体として俯瞰するかぎり、主要な動向としては、プラトン、アリストテレスの哲学を別格の(あるいはほとんど孤立した)存在として傍系に置き去りにするようにして、初期ギリシア的な思想基盤がそのままヘレニズム以降にまで連続一体的に継承されていったものとみなすべきであろう。この時代を代表するストア学派やエピクロス学派は、個々人の生死のあり方に関わる倫理的問題に哲学の焦点を当てながらも、その一面においては、「ソクラテス以前」の宇宙論的体質をきわめて強く受け継いでいるのを見て取ることができる。彼らは共通して、宇宙世界がどのように形成され、現にどのようにあるかについての考察を第一義とし、それを踏まえることで人間の生の意味と運命を洞察しようとしている。

 注目されるようになってから日が浅いので研究はまだ進んでおらず、編者の内田氏は「豊穣な未開拓地」と呼んでいる。この未開拓地には今日的な意義がある。ポリスというまとまりがこわれ危機と混乱にあけくれたヘレニズム期はグローバリズムに揺れる現代の状況と共振するものがあり、「埋もれた叡智」の再発見が喫緊の課題だというのだ。

「Ⅰ エピクロスと初期エピクロス学派」

 古代後期をあつかう本巻がまずとりあげるのはエピクロスである。エピクロスはBC341年に生まれ、アリストテレスが亡くなったBC322年には21歳だった。エピクロス派とともに古代後期を代表するストア派を開いたキティオンのゼノンはBC335年頃に生まれたという説が有力で、エピクロスよりやや年少だったらしい。

 アリストテレスが亡くなる前年、アレクサンドロス大王が崩御しアテネではマケドニアに対する反乱が起きた。エピクロスはサモス島の生まれだったが、アテネの市民権を得ようとアテネに加担して戦う。だがアテネが敗北したためにサモス島にいられなくなり、当時蔑まれていた読み書き教師をしながら各地を転々とする。この遍歴時代に原子論と出会い、独自の立場を確立していったらしい。

 32歳の時、かつてアリストテレスが逗留しアテネに次ぐ学問の中心だったレスボス島で自分の学園を開いたが、ペリパトス学派と対立したためか小アジアのランプサコスに移り、ここで35年間すごし主著の『自然について』の大半を書いている。アテネで「エピクロスの園」と呼ばれる学園を開くのは72歳になってからである。

 エピクロスはデモクリトス以来の原子論にクリナメンという概念を導入し、自由意志を根拠づけたとされているが、クリナメンはルクレティウスの造語でエピクロスは「逸れる運動」と呼んでいたらしい。クリナメンは空間の極小単位から単位への飛躍であり、一部で言われているような斜めにずれる運動ではない。本章の著者は決定論の否定であっても、自由意志の証明ではないと注意をうながしている。

「Ⅱ ゼノンと初期ストア学派」

 エピクロス派の次はストア派である。ストア派はアテネのアゴラわきの彩画列柱廊ストア・ポイキレを本拠にしていたことからそう呼ばれている。

 開祖のキティオンのゼノンはキプロス島のフェニキア人植民都市の出身でセム系ではないかという説もあるそうだ。アテネに出てきたゼノンは本屋でクセノポンの『ソクラテスの思い出』を読んで感じるところがあり、小ソクラテス派に学んだが(ストア派の論理学はメガラ派の影響があるらしい)、ソクラテスが斥けた自然研究に傾斜し、魂の主導的部分は物体としての気息プネウマという立場を確立していった。ロゴスと一致した生き方がストア派の金科玉条であり、宇宙論の延長上に倫理説がある。

 ゼノンの学説を発展させ論理学・自然学・倫理学の三部門を整備したのは第三代学頭のクリュシッポスだが、その浩瀚な著作はほとんどが失われてしまい断片が残るにすぎない。クリュシッポスが完成したストア派の論理学はアリストテレスの主語=述語論理学とは発想を異にする命題論理学であり、現代の数学者によって再評価されているが、同時にレクトンという意味を中心とした言語論でもあり、この面はジル・ドゥルーズが『意味の論理学』でスリリングな読み直しをおこなっている。

 ストア派というと克己主義の道徳を連想する人が多いが、現代思想に直結する思索をおこなっていたのである。

「Ⅲ 古代懐疑主義」

 アリストテレスが去った後もアテネでは諸学派が学説を競いあい、学問の都として地中海世界に君臨しつづけた。諸学派の交流は盛んで、論争をつづけるうちにしだいに旗幟が鮮明になっていった。

 新興のストア派とエピクロス派はそれぞれ強烈なドグマを主張していたが、実証主義のペリパトス派はドグマが弱かったためにアテネでは影が薄くなってしまった。

 アカデメイア派はドグマを持たないという立場を打ちだし存在感を示した。その代表者は第六代学頭となったアルケシラオスである。アルケシラオスはペリパトス学派やストア派に学んだ後、最終的にアカデメイア派を選ぶ。彼は無知の自覚に立ち論駁に徹する初期対話編のソクラテスを理想とし、判断保留エポケーを提唱する。

 アルケシラオスの判断保留の立場の背景にはもう一つ、エリスのピュロンの無動揺主義があった。ピュロンはアレクサンドロス大王の東征に従軍し、インドで火に焼かれても動じない行者を見て強い印象を受けた。動揺しないためにはあらゆる判断をさしひかえる必要があるというわけだ。

 アルケシラオスの判断保留はあらゆる議論を袋小路に追いこんだソクラテスに倣い問答法と結びついていたが、アカデメイア派は問答法から離れ、無知を積極的に主張するようになる。不可知論がそれ自体ドグマになると、到達不可能な絶対の認識を目指すストア派と原理的に変わらなくなってしまう。紀元後のアカデメイア派はストア派と五十歩百歩になっていたようだ。

 1世紀のアイネシデモスはアカデメイア派に学んだが、ストア派化したアカデメイア派にあきたらなくなり、ピュロンの原点に返ろうとしてピュロン主義を提唱する。このピュロン主義がルネサンス以降に復活し、近代懐疑主義を生みだすことになる。

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