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2011年08月30日

『古代ローマ人の24時間』 アンジェラ,アルベルト (河出書房新社)

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 表題のとおり古代ローマの一日を事実にもとづいて再現した架空ルポルタージュである。著者はイタリア国営放送で科学番組のキャスターを長年勤めてきた人だけに、ローマ帝国絶頂期の帝都に実際にテレビカメラを持ちこんで番組を作ったかのような臨場感にあふれている。

 時は五賢帝の二番目、トラヤヌス帝の治政の終わりに近い紀元115年。ちくま文庫版『ローマ帝国衰亡史』でいえば第一巻、塩野七生の『ローマ人の物語』でいえば第九巻にあたる。とある火曜日の夜明けから深夜までを時間を追って描いているが、カメラは奴隷市場から元老院の内部まで自由自在にはいりこみ、歴史書や映画だけではわからない古代都市の生活をリアルに描きだしている。

 この時代のローマは1800ha(新宿区とほぼ同じ面積)に、120万人(新宿区の4倍!)の人口がひしめいていた。新宿西口のビル街にあたるような巨大建築が林立する公共区域や新宿御苑にあたるような神域が大きな面積を占めていたから居住区域は狭く、建物は上に伸びるしかなかった。ドムスと呼ばれる一戸建ての邸宅はわずか1700戸しかなく、かなり裕福な者でも4万棟以上あったインスラと呼ばれる集合住宅に住んでいた。

 インスラの高さは18m以下(6階建相当か)と法令で定められていたが、貸し手市場だっただけに違法建築が後をたたず、後から上に継ぎ足す危険な建物が多かった。現代では眺めのいい最上階が一番高いが、この当時は逆で金持ちは二階に住み、上に行けば行くほど貧乏人が住み、最上階は貧民窟だった。一階は商店や工房になっていたが、商人や職人は中二階を作って家族で住んでいた。

 インスラにはトイレはなかった。昼の間は外の公共トイレを使い、夜はおまるで用をたした。おまるの中味は一階においてある壺にためることになっていたが、上の階に住む者は下まで運ぶのがめんどくさいので、窓から路地に捨てる不心得者がすくなくなかった。見つかればもちろん厳罰である。

 インスラで集めた尿は洗濯屋が金を払って引きとった。尿は洗剤の代わりだったのである。洗濯屋は道路脇に壺を置いて尿を集めたが、それだけでは足りないのでインスラから買ったわけだ。

 現代ともっとも違うのは奴隷がいたことだ。奴隷は戦争捕虜や外国から売られてきた者が多かったが、捨子や犯罪を犯したり破産したりして奴隷身分に落とされた者、貧しさから自分で自分を奴隷に売る者もいた。奴隷はローマ市民の正装であるトガの着用を禁じられており、金属製の首輪をはめられている者もいた。

 奴隷の持ち主は金持ちだけではない。貧乏人でも生計のために奴隷を持つ者がいた。奴隷を賃仕事に貸しだすことで現金収入がえられたのである。能力のある奴隷には主人が資本をあたえ、商売をさせることもあった。大きな利益をあげれば奴隷でもいい暮らしができ、自由を買いもどすこともできた。奴隷の解放は制度化されており、解放奴隷はローマ社会の活力源となっていた。

 労働時間は現代より短く、大体昼には仕事を終えていた。インスラの狭い家にもどっても窮屈なだけなので、ほとんどのローマ市民は浴場で時間をつぶしたり、コロッセオで公開処刑や見せ物を見物した。浴場には温水浴室や冷水浴室などさまざまな風呂があり、運動場が併設されていた。現代のスーパー銭湯とスポーツ・ジムを兼ねたようなものと考えればいいが、現代と異なるのは混浴だったことだ。

 このほか料理や饗宴、剣闘士の試合、裁判、教育、本屋(タキトゥスとすれちがう!)と、生活の細部まで蘊蓄を披露している。

 現代の都市生活そのままの部分もあれば、現代では想像もつかない部分もあるが、ローマ人たちが二千年前とは思えないくらい高度な文明を享受していたのは間違いない。都市に住むというのは25年間の兵役に値する特権だったのだ。

 訳文は平明で読みやすい。服装や髪型などは挿画が理解を助けてくれるが、欲をいうならローマの地図や住居の間取りの平面図もほしかった。

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2011年08月29日

哲学の歴史 02 帝国と賢者』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中公版『哲学の歴史』の第二巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻では紀元前4世紀から紀元後6世紀まで、アリストテレスの没後からユスティアヌス帝によるアカデメイア閉鎖までの850年間をあつかう。ヘレニズム期から古代の終焉まで、つまり古代後期というくくりになるが、一冊本の哲学史だと数頁ですましているものが多い。数頁でもさくならいい方で、まったく無視しプラトン、アリストテレスからいきなり中世末期の普遍論争へ飛ぶという書き方をしている本もすくなくない。

 従来の理解だとヘレニズム期は不毛な折衷主義の時代、ローマ哲学はギリシアの模倣で片づけられ、新プラトン派にいたってようやく評価されるものの、キリスト教教父哲学に影響をあたえたという視点からの評価にすぎない。古代後期は哲学的には不毛な時代と決めつけられて来たのだ。

 しかし暫く前からこうした捉え方が変わってきているらしい。きっかけはソクラテスとプラトンの地盤沈下である。

 ソクラテスとプラトンにいたってギリシア哲学が完成したという見方はニーチェ以来大きく揺らいでいる。ハイデガーやハイデガーに影響を受けた木田元氏の『反哲学史』のような哲学史ではプラトンのイデア説はギリシア土着の考え方とは異質であり、プラトン没後、揺りもどしが起こってソクラテス以前の自然哲学が復活したという見方が出てきている。

 古代後期においてソクラテスとプラトンは懐疑主義の伝統から理解される傾向にあり、イデア説はお伽話の一つでしかなかったらしい。イデア説が復活したのは新プラトン派のおかげであり、キリスト教教父哲学にとりいれられたのは新プラトン派的に改変されたプラトンだった。今日我々が知っているようなプラトンは古代後期においては知られていなかったといっていい。プラトンの巨大な影をとりさってみれば、850年におよぶ思惟のいとなみはまったく別の相貌を見せるだろう。

 「総論 地中海世界の叡知」はこうした価値転換を踏まえながら古代後期の哲学史を概観しており、すこぶる刺激的である。ここでは次の一節を引いておこう。

 古代哲学を総体として俯瞰するかぎり、主要な動向としては、プラトン、アリストテレスの哲学を別格の(あるいはほとんど孤立した)存在として傍系に置き去りにするようにして、初期ギリシア的な思想基盤がそのままヘレニズム以降にまで連続一体的に継承されていったものとみなすべきであろう。この時代を代表するストア学派やエピクロス学派は、個々人の生死のあり方に関わる倫理的問題に哲学の焦点を当てながらも、その一面においては、「ソクラテス以前」の宇宙論的体質をきわめて強く受け継いでいるのを見て取ることができる。彼らは共通して、宇宙世界がどのように形成され、現にどのようにあるかについての考察を第一義とし、それを踏まえることで人間の生の意味と運命を洞察しようとしている。

 注目されるようになってから日が浅いので研究はまだ進んでおらず、編者の内田氏は「豊穣な未開拓地」と呼んでいる。この未開拓地には今日的な意義がある。ポリスというまとまりがこわれ危機と混乱にあけくれたヘレニズム期はグローバリズムに揺れる現代の状況と共振するものがあり、「埋もれた叡智」の再発見が喫緊の課題だというのだ。

「Ⅰ エピクロスと初期エピクロス学派」

 古代後期をあつかう本巻がまずとりあげるのはエピクロスである。エピクロスはBC341年に生まれ、アリストテレスが亡くなったBC322年には21歳だった。エピクロス派とともに古代後期を代表するストア派を開いたキティオンのゼノンはBC335年頃に生まれたという説が有力で、エピクロスよりやや年少だったらしい。

 アリストテレスが亡くなる前年、アレクサンドロス大王が崩御しアテネではマケドニアに対する反乱が起きた。エピクロスはサモス島の生まれだったが、アテネの市民権を得ようとアテネに加担して戦う。だがアテネが敗北したためにサモス島にいられなくなり、当時蔑まれていた読み書き教師をしながら各地を転々とする。この遍歴時代に原子論と出会い、独自の立場を確立していったらしい。

 32歳の時、かつてアリストテレスが逗留しアテネに次ぐ学問の中心だったレスボス島で自分の学園を開いたが、ペリパトス学派と対立したためか小アジアのランプサコスに移り、ここで35年間すごし主著の『自然について』の大半を書いている。アテネで「エピクロスの園」と呼ばれる学園を開くのは72歳になってからである。

 エピクロスはデモクリトス以来の原子論にクリナメンという概念を導入し、自由意志を根拠づけたとされているが、クリナメンはルクレティウスの造語でエピクロスは「逸れる運動」と呼んでいたらしい。クリナメンは空間の極小単位から単位への飛躍であり、一部で言われているような斜めにずれる運動ではない。本章の著者は決定論の否定であっても、自由意志の証明ではないと注意をうながしている。

「Ⅱ ゼノンと初期ストア学派」

 エピクロス派の次はストア派である。ストア派はアテネのアゴラわきの彩画列柱廊ストア・ポイキレを本拠にしていたことからそう呼ばれている。

 開祖のキティオンのゼノンはキプロス島のフェニキア人植民都市の出身でセム系ではないかという説もあるそうだ。アテネに出てきたゼノンは本屋でクセノポンの『ソクラテスの思い出』を読んで感じるところがあり、小ソクラテス派に学んだが(ストア派の論理学はメガラ派の影響があるらしい)、ソクラテスが斥けた自然研究に傾斜し、魂の主導的部分は物体としての気息プネウマという立場を確立していった。ロゴスと一致した生き方がストア派の金科玉条であり、宇宙論の延長上に倫理説がある。

 ゼノンの学説を発展させ論理学・自然学・倫理学の三部門を整備したのは第三代学頭のクリュシッポスだが、その浩瀚な著作はほとんどが失われてしまい断片が残るにすぎない。クリュシッポスが完成したストア派の論理学はアリストテレスの主語=述語論理学とは発想を異にする命題論理学であり、現代の数学者によって再評価されているが、同時にレクトンという意味を中心とした言語論でもあり、この面はジル・ドゥルーズが『意味の論理学』でスリリングな読み直しをおこなっている。

 ストア派というと克己主義の道徳を連想する人が多いが、現代思想に直結する思索をおこなっていたのである。

「Ⅲ 古代懐疑主義」

 アリストテレスが去った後もアテネでは諸学派が学説を競いあい、学問の都として地中海世界に君臨しつづけた。諸学派の交流は盛んで、論争をつづけるうちにしだいに旗幟が鮮明になっていった。

 新興のストア派とエピクロス派はそれぞれ強烈なドグマを主張していたが、実証主義のペリパトス派はドグマが弱かったためにアテネでは影が薄くなってしまった。

 アカデメイア派はドグマを持たないという立場を打ちだし存在感を示した。その代表者は第六代学頭となったアルケシラオスである。アルケシラオスはペリパトス学派やストア派に学んだ後、最終的にアカデメイア派を選ぶ。彼は無知の自覚に立ち論駁に徹する初期対話編のソクラテスを理想とし、判断保留エポケーを提唱する。

 アルケシラオスの判断保留の立場の背景にはもう一つ、エリスのピュロンの無動揺主義があった。ピュロンはアレクサンドロス大王の東征に従軍し、インドで火に焼かれても動じない行者を見て強い印象を受けた。動揺しないためにはあらゆる判断をさしひかえる必要があるというわけだ。

 アルケシラオスの判断保留はあらゆる議論を袋小路に追いこんだソクラテスに倣い問答法と結びついていたが、アカデメイア派は問答法から離れ、無知を積極的に主張するようになる。不可知論がそれ自体ドグマになると、到達不可能な絶対の認識を目指すストア派と原理的に変わらなくなってしまう。紀元後のアカデメイア派はストア派と五十歩百歩になっていたようだ。

 1世紀のアイネシデモスはアカデメイア派に学んだが、ストア派化したアカデメイア派にあきたらなくなり、ピュロンの原点に返ろうとしてピュロン主義を提唱する。このピュロン主義がルネサンス以降に復活し、近代懐疑主義を生みだすことになる。

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2011年08月10日

『アステカ帝国滅亡記―インディオによる物語』 トドロフ&ボド (法政大学出版局)

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 もう8年前になるが、レオン=ポルティーヤの『インディオの挽歌』という本を読んで文学性の高さに驚き、感銘を受けた。

 コロンブス到達以前のアメリカというと人身御供にあけくれる石器段階の未開人しかいなかったと思われがちだが、チャールズ・マンの『1491』やライトの『奪われた大陸』にあるように、マヤやアステカ、インカ、アマゾン河流域、ミシシッピー河流域には同時代のヨーロッパやアジアの大国に引けをとらない高度な文明が存在した。そこには知識人階層が存在し、多くが殺されたとはいえ生きのびた者もいた。

 アステカで生きのびた知識人はキリスト教に改宗し、子弟にスペイン語やラテン語の教育を受けさせた。読み書きを学んだ子供たちはナワトル語をアルファベットで書きあらわすようになり、親や兄弟から聞いたアステカ滅亡の顚末を文字にした。布教のためにナワトル語を修得した宣教師の中にも古老の聞書を書き残す者がいた。

 インディオの視点から描いた亡国記は多数あったらしく、ほぼ完全なかたちで現存するものが12点、断片が残るものが40点あるという。『インディオの挽歌』はこうした記録の中から見せ場を抜きだし、ひとつづきの物語になるように編集した本だった。感動的ではあったが、元のテキストはどんなものだったのだろうという疑問が起きた。

 本書はアステカ滅亡を記録した文書を6点選び、現代フランス語に訳した本の邦訳である。『インディオの挽歌』のような翻案と違って学術的な翻訳であり、訳出した部分には省略はないということである。各文書の解題を翻訳にあたったナワトル語の研究者のジョルジュ・ボドが書き、巻末の解説は『他者の記号学』のトドロフが担当している(本書は『他者の記号学』の資料篇として企画されたらしく、同書の翌年に出版されている)。

 ボドによればインディオの記録が残った背景にはフランシスコ会改革派の千年王国運動があった。ヨアキム・デ・フローリスの千年王国論ではキリストの再臨と最後の審判の前には最後の非キリスト教徒の回心により慈愛の王国が地上に実現するとされていたが、一握りのスペイン人があっという間に広大な帝国を征服した奇跡、神の摂理に合致したかのようなインディオの清貧と謙虚な生きかた、インディオの自発的な集団的回心に、フランシスコ会改革派はメキシコこそ千年王国を築くべき地であり、最後の非キリスト教徒とはインディオのことだと考えるようになった。

 フランシスコ会は組織的にアステカ文化の調査に着手した。サアグンの『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』もその一環として編纂されたが、『概史』が完成した直後、フェリペ二世はフランシスコ会の千年王国構想の全貌を知り、『概史』を押収するとともにインディオ文化の研究を禁止した。為政者にとって千年王国は危険思想であり、アメリカ各地では先住民の反乱があいついで不穏な情勢だった。先住民に誇りをもたせるような動きはつぶしておくのが賢明だったろう。

 フランシスコ会が収集し編纂した記録の多くは失われたか行方不明になったが、『概史』の原本は押収の直前ヨーロッパに持ちだされ、いかなる経緯をたどったのかフィレンツェのロレンツォ図書館に収蔵されて19世紀に発見されることになる。

 18世紀にイエズス会がインディオのユートピアを作ろうとした話は『ミッション』という歴史大作になって広く知られているが、16世紀のメキシコでフランシスコ会がこんな動きをしていたとは。

 閑話休題。本書には6篇の記録が納められている。ナワトル語のテクストが3篇、スペイン語のテクストが3篇だが、ナワトル語のテクストにはヤオクイカトル(「戦争の歌」)やイクノクイカトル(「孤児の歌」)といったアステカ伝来の口承文芸の形式を踏襲した条を含んでいるということである。対句や畳句を多用しているので口承文芸であることは翻訳でもわかる。古拙な味わいがすばらしい。スペイン語のテクストは平明だが、味わいが乏しい。

 政治的視点は口承が誕生した地域、もしくは情報提供者の属する地域によって明確に三つにわかれる。

 第一は湖上の帝都テノチティトランに向かう堤道を扼する位置にある都市国家トラテルコの視点である。トラテルコは最後までテノチティトランの同盟者だったが、皇帝とテノチティトラン人には辛辣であり、スペイン人に抵抗した主役は自分たちだと主張している。

 第二はスペインの消極的な同盟者となった都市国家の視点で、自分たちの功績を誇ることもなく公平である。

 第三はスペイン同盟軍の中核となった都市国家の視点で、コルテスに対する忠誠を宣言し手柄自慢が多い。

 アステカ帝国の支配層だったテノチティトランの視点で書かれた記録は残っていない。テノチティトランの人々は虐殺され、生き残った者も奴隷化されたり疫病で大量死したことが考えられる。また征服初期にはテノチティトランの文物が徹底的に破壊されており、絵文書はことごとく焚かれたと考えられる。

 個別の文書に移ろう。まずナワトル語のテクストである。

『フィレンツェの絵文書』

 フィレンツェのロレンツォ図書館で発見されたサアグンの『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』からスペイン征服を語った「第十二の書」を収録している。1550年から1555年にかけてサアグンがトラテロルコでおこなった古老からの聞きとりがもとになっている。

 テノチティトラン陥落から30年たっているが、描写は細かく迫力があり、6篇の中では文学的完成度がもっとも高いと感じた。おそらく征服から間もない時期に口承の叙事詩が作られ伝承されていたのだろう。

 スペイン人来寇の10年前にあらわれたとされる前兆の彗星の描写からはじまっているが、ここではモクテスマが人質にとられる場面を引用しよう。

 スペイン人は宮殿に着き、その中に入ると、モテクソーマをしっかりと捕らえて放さず、ずっと見張っていて、もはやモテクソーマから目を離さなかった。モテクソーマと共にイツクァウツィンがいたが、しかしそのほかの者は出ていってしまった。
 このようなことがおこなわれる一方で、はやくもその時、火のラッパが火を吹いた。目の前の万物が揺れ動いたかと思われた。みな呆然とした目付きで、やみくもに走りだした。方々からパンパンという音が聞こえた。人々はまるで息も絶えなんばかり、ただただ弱り果ててしまい、毒茸にあたってふらふらとなったかのごとく、何か得体の知れないものを目の前にしたかのようであった。

 「火のラッパ」とは火縄銃と大砲のことである。新大陸にいなかった馬をノロ鹿と呼ぶなど、征服当時の呼称が残っていて生々しい。

 スペイン人はテノチティトランで歓待されたにもかかわらず、皇帝を人質にとってウィツィロポチトリ祭に集まった貴族や神官、戦士を虐殺し、神殿に籠城した。その攻防戦の条を引こう。スペイン人は銃、大砲、弩弓、鉄剣、鉄槍、鉄の甲冑で武装していたが、アステカ側は棍棒や石斧、石槍くらいしか武器がない。

 そして四日間の戦闘の後に、優れた戦士のうちから選ばれた勇猛果敢な戦士、勲章に覆われ、白兵戦を生き抜いてきたこれらの選ばれた戦士たちが神殿の頂上によじ登っていった。彼らは二本の大梁と神々の木と言われている何本もの樫の木の太い丸太を上に運び上げた。それらを高いところに持ち上げて、スペイン人の上に投げ落とそうとしたのである。
 しかしスペイン人も、ただちによじ登った。神殿の頂上に向かった。彼らスペイン人は隊列を組んでやってきた。縦と横に隊列を組んでやってきた。先頭にたつ者は、火のラッパを手に持つ者で、彼らはゆっくりと登ってきた。立ち止まることもなく、手持ちの火のラッパを発射しながら前進してきた。人を突き刺すのもこの武器だった。第二列目には金属の弓をもつ者、金属の弓を使用する者がやってきた。第三列は金属の剣をもつ者、こうもり槍をもつ者がやってきた。
 そのとき、勇敢な戦士たちは一丸となって、丸太、巨大な樫の丸太をスペイン人に投げつけたが、まったく無駄なことだった。スペイン人はこの丸太を彼らの盾で実にあっさりと押し返してしまった。たちどころに、この丸太は役に立たなくなった。そしてスペイン人は頂上につくと、そのとき、ただちにメシーカ人に四方八方から襲いかかり、突き刺し、めった斬りに葬った。ただちに、そのとき、勇敢な戦士たちは神殿の階段から身を投げた。それはまるで黒蟻のように、落ちて行った。スペイン人は神殿の上に登っていたすべての勇敢な戦士たちを、その高みから投げ落とした。ことごとく神殿の外に投げ落とした。そのときいち早く逃れ去れる者は一人としていなかった。虐殺を済ませると、スペイン人はそれからすみやかに引きかえした。ただちにもどって籠城した。

 アステカ側はいったんスペイン人を撤退させるが、スペイン側は同盟軍を組織して再び攻め寄せてくる。80日間の死闘の末にテノチティトランは陥落する。住民は逃げようとするが、逃げ道はスペイン人の制圧する堤道か湖しかない。

 舟にいた者、木組の足場の棧敷上で生活していた者、トルマエイェカンの人々、これらすべての者たちの逃れる先は水中のみであった。水はある者には腹に達し、ある者には胸に達し、またある者には首に達した。そして水が深いところでは、何人かは水中に没した。ごく小さな子供たちは大人が背負って運んだ。嘆きの声がいたるところで起こった。陸の道に到達した者は喜び、喚声を上げた。小舟の所有者、舟のあるものはほとんど夜のうちに出ていった。とはいえ、しかしながら昼に立ち去る者もあった。まるで押し合いへし合いのありさまであった。
 一方、道沿いのいたるところでスペイン人は住民から強奪をしていた。彼らが求めたのは黄金であって、翡翠やケツァル鳥の羽毛、トルコ石には目もくれなかった。身分の高い女はこうした黄金を胴着やスカートの中などところかまわず身につけていた。我ら男たちも、腰布や口の中のいたるところに黄金をしまいこんでいた。
 さて、スペイン人は、女、きれいな女すなわち小麦色の身体をした女を列から引きずり出して、選び取った。なかには引きずり出されそうになったときのために、顔に泥を塗り、つぎはぎだらけのぼろを腰にまとって、胴着にはぼろを着こむ女たちもいた。彼女たちは全身ぼろだらけにしたのだった。

 この後、最後の皇帝クァウテモクが投降し、黄金のありかを尋問される場面がつづくが尋問の主役はマリンチェである。奴隷に売られた女がスペイン人に代わって皇帝を問いつめているのだから世は無常だ。

『トラテロルコ編年史』

 テノチティトラン陥落から7年しかたっていない1528年にトラテロルコの無名氏によってナワトル語で書かれた記録である(パリ国立図書館グーピル・コレクション所蔵)。1528年という編纂年は記録中に記載されている。

 記録は五つの文書からなる。最初の四つは王名表や王朝の系図だが、最後の文書はアステカ人の伝説的な移住以前からスペイン人による征服までのトラテロルコの歴史をつづった年代記になっている。

 筆者名はわかっていないが、1523年にはフランシスコ会のペドロ・デ・ガンテ師がトラテロルコで布教を開始しており、テスココに先住民に読み書きを教える学校を開いているから、おそらくフランシスコ会と密接な関係のあったトラテロルコの書記生トラクイロ学者トラマティニであり、ペドロ・アルバラードによる神殿での虐殺の生き残りだろうといわれている。

 神殿の虐殺の場面は俯瞰的な視点ではなく、まさに目の前で起きている事出来事として描かれており、『フィレンツェの絵文書』よりも即物的で生々しい。

 神をたたえる歌を歌うものは衣類はいっさい着けていなかった。身に着けているものといえば、貝殻、トルコ石、唇飾り、首飾り、アオサギの羽飾り、ノロ鹿の足のみであった。長太鼓を叩く者は、瓢箪の鈴、タバコ入れ用の瓢箪をもっている小さな愛すべき古老たちであったが、まさにこの人々にたいしてスペイン人はまず攻撃の火蓋を切った。この人たちの手を切り落とし、頭を突き刺した。そしてすぐに彼らは死んでいった。神をたたえて歌っていた者、見物していた者がことごとくその場で死者となった。
 スペイン人はわれわれを攻撃し、三時間にわたってわれわれを虐殺した。スペイン人は住民を神殿の中庭で虐殺した。それからすばやくスペイン人は建物の中に侵入し、人々を皆殺しにした。それらは水を運んで来た者、馬の餌を運び込んで来た者、トウモロコシの粉を作っていた者、地面を帚ではいていた者、見張りに立っていた者などであった。

 テノチティトラン陥落後にアステカの遺民がなめた苦しみはイクノクイカトルという哀歌形式で書かれている。

通りにも、広場にも、うじ虫がうごめく、
家の壁には、飛び散った脳味噌。
染めたような真っ赤な水、
飲んでみれば、
塩辛い硝石の水。
それでも飲んだ、この硝石の水。

……中略……

ひとの値段が決められた。
若者、神官、
若い娘、子供の値段が
わずかとうもろこし二つかみ分、
沼地バエの平たいパン一〇枚のみ、
ひとの値段がわずか
ギョウギシバの平たいパン二〇枚分のみ、

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