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2011年07月24日

『マヤ文字解読』 マイケル,コウ (創元社)

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 『古代マヤ文明』の著者でマヤ学の泰斗であるマイケル・コウがあらわしたマヤ文字解読史である。

 古代文字の解読史は面白いに決まっているが、マヤ文字は面白さが倍加する。ヒエログリフと楔形文字は19世紀、線文字Bは20世紀前半に解読されたが、マヤ文字は16世紀から知られていたのに20世紀後半になってやっと解読されたからだ。しかも解読に功績のあった研究者は著者の直接の友人なのである。マヤ文字の解読はわれわれの同時代の出来事なのだ。

 解読に四百年もかかったのにはいろいろな理由がある。まずマヤ文字の正確な模写がなかなか出なかったこと。ヒエログリフはナポレオンによって文化財と認められ、遠征軍にしたがった学者と画家による碑文の精密な模写が出版され、ヨーロッパ中で解読を競う体制が整ったが、マヤ学の場合、宣教師によって樹皮紙本が徹底的に焚書にされただけでなく、碑文の初期の模写はマヤ文明ユダヤ起源説やヒンドゥー起源説といった思いこみで歪曲されたり描き足された混乱をまねく代物だった(ヨーロッパ人には遺跡周辺に住む肌の茶色いインディオが輝かしいマヤ文明の担い手だったとは受け入れがたかったらしい)。

 ドレスデン絵文書の正確な複製は1829年に出版されていたが、巨大で高価な稀覯本だったために図書館の書庫の中に埋もれてしまった。今日ではメソアメリカ研究振興財団のサイトで自宅にいながらにして見ることができるが、昔はそうはいかなかったのである。

 それでも20世紀になると資料が出版され、1920年代にはいると碑文や絵文書の暦部分の解読がはじまった。おなじみのマヤ・カレンダーである。

 暦の解読は着実に進んだが、暦以外の部分は長らく足踏み状態だった。表意文字仮説という思いこみが解読を妨げていたのだ。

 現在でも漢字を表意文字と思いこんでいる人がいるが、漢字は表意文字ではなく、一文字で一単語もしくは一形態素をあらわす表語文字である。そもそも表意文字は数学の記号とか交通標識といった人工的な記号体系としてしか存在しない。自然発生的な文字はすべて単語(形態素)、音節、音素といった言語の単位をあらわすのである。

 マヤ文字は漢字にあたる表語文字とカナにあたる音節文字を併用する混合表記体系であり、日本語の漢字仮名交じり文とよく似た構造をしている(表語文字には漢字の偏旁のような内部構造まである)。シャンポリオンがヒエログリフの解読にあたり古代エジプト語の末裔であるコプト語の知識を手がかりにしたように、マヤ文字の解読にはマヤ語の知識が不可欠だが、碑文学者でマヤ語のできる者は一人もいなかった。その気になれば現代のマヤ人からいくらでも学べるというのに。

 致命的だったのはマヤ学の最高権威とされていたジョン・エリック・シドニー・トンプソンが表意文字仮説の頑固な信奉者だったことだ。トンプソンはマヤ文字は音声言語とは何の関係もない純粋な概念体系であると信じこんだ。もちろん彼はマヤ語を学んでいなかったし、学ぶつもりもなかった。

 古代文字に興味をもつ言語学者の中にはマヤ語の知識を用いて解読を試みる者もいた。サピア=ウォーフの仮設で知られるベンジャミン・ウォーフもその一人で、コウが「五十年進んでいた」と絶賛するほど筋のいい見通しを立てていたが、トンプソン一派によって些末な間違いを攻撃され、すべて間違っているかのような印象を作りあげられてしまった。

 トンプソンの支配は意外なところから破られることになる。レニングラード民族研究所のクノローゾフがマヤ文字は音節をあらわしているという論文を発表したのだ。当時は鉄のカーテンが健在で、ソビエト・ロシアの学者は欧米の学者から隔離されていたが(クンローゾフはグアテマラ政府から叙勲で招待されるまでマヤの遺跡を見る機会がなかった)、むしろそのことがクノローゾフにフリーハンドをあたえたのかもしれない。

 トンプソン一派はクノローゾフを叩こうとしたが、クノローゾフは矢継ぎ早に論文を発表し賛同者が増えていった。コウは妻がロシア系という巡り合わせもあって、クノローゾフの研究を西側に紹介することになった。

 1970年代になるとマヤ文字の解読が急速に進んだ。画家出身のロバートソン夫妻やイロクォイ語の専門家だったフロイド・ラウンズベリー、ナショナル・ジオグラフィック誌の編集者を両親にもちハイスクール時代に早くも重要な発見をおこなったデヴィッド・スチュアートといった多彩な研究者がくわわるが、中でも重要な仕事をしたのは南部生まれのエネルギッシュなオバサン、リンダ・シーリーだろう(彼女の残した模写や写真はメソアメリカ研究振興財団のサイトでThe Linda Shele Drawing Collectionとして公開されている)。

 研究者の交流も活発になり、1973年に開かれた第一回パレンケ円卓会議では一晩のうちにパレンケ王家の後半200年間の系図を解読するという成果をあげた。

 だがマヤ文字解読の目覚ましい成功は碑文学者と現場考古学者(コウは「穴掘り考古学者」とも呼んでいる)の間の軋轢を助長する結果となった。赤道直下の密林の中で毒虫に刺されながら発掘している現場考古学者にとっては、後から来ておいしいところだけさらっていく碑文学者を許し難いと思ったとしても不思議ではない。博士号のないリンダ・シーリーが各地で講演会を開いて喝采を博しているのも面白くなかったようだ。感情的な対立はエスカレートし、1989年に開かれたダンバート・オークス会議では碑文に書いてあることは嘘の塊で価値がないと明言するにいたった。

 驚いたことにマヤの現場考古学者はマヤ暦が読める程度でマヤ文字はほとんど読めず、マヤ語も喋れないという。発掘の下働きにはマヤの末裔のインディオを使っているだろうに。

 コウははっきりとは書いていないが、ここに働いているのも肌の茶色いインディオがマヤ文明の担い手だったことを感情的に認めたくない白人の差別意識だろう。マヤ文字の解読を阻んでいたのは白人の自意識だったのかもしれない。

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