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2011年07月30日

『他者の記号学―アメリカ大陸の征服』 トドロフ (法政大学出版局)

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 スペインのアメリカ征服を記号学の視点から分析した本である。著者のツヴェタン・トドロフはロラン・バルトの弟子で、文芸批評家として知られた人である。

 なぜアステカやマヤの滅亡に記号学が関係あるのか、なぜ文芸批評家が首を突っこむのかと訝しむ人が多いかもしれない。トドロフはブルガリアからフランスに留学していついた人で、フランスではよそ者である。植民地問題や他者の問題に敏感で『われわれと他者―フランス思想における他者像』のような著書もある。本書もその系列の仕事で、近代ヨーロッパが誕生しようとしていた時に遭遇したアメリカ先住民を鏡にして、近代ヨーロッパのアイデンティティを探ろうという試みである。

 本書は四部にわかれる。「Ⅰ 発見」ではコロンブス、「Ⅱ 征服」ではアステカを記号の力で制圧したコルテス、「Ⅲ 愛」ではインディオ救済に生涯をかけながらインディオとすれ違いを演じたラス・カサス、「Ⅳ 認識」ではインディオをようやく他者として認識するようになった晩年のラス・カサスとインディオ側の亡国の記録を後世に伝えた宣教師たちを論じている。

Ⅰ 発見

 まずコロンブスである。本書ではコロンブスを「コロン」と表記するが、これはフランス語の本だからではなく、コロンブス自身が25歳以降、コロンボという伝来の姓を捨てコロンという表記に固執したからである。コロンブスの業績を書き残したラス・カサスは コロンとは「新たに植民する」、クリストバルとは Christum Ferens で「キリストを運ぶもの」という意味で、コロンブスは自分は姓名が意味するところを実現すべく神に選ばれたという考えに動かされたとしている。

 コロンブスは自分自身だけでなく、すべての事物がそれにふさわしい名前をもたなければならないと考えていた。コロンブスはインディオがどう呼んでいるかにはお構いなく「発見」した土地に美しい平野ベル・プラド銀の山モンテ・デ・プラタ乾いた岬プンタ・セカ等々と勝手に名前をつけていく。

 コロンブスはジェノヴァ語、カスティーリャ語、ラテン語など、ラテン系の言語を自由にあやつる多言語生活者だったが、ラテン系の言語が普遍的と思いこんでいて、異質の言語があるという意識が欠落していたらしい。インドを目指す航海に出発したのもアラビア人天文学者アルファルガニの算出したアラビア海里をイタリア海里と同じと思いこみ、インドまでの距離を短く誤認したからにほかならない。

 異質の文化、異なるコードがあるという自覚のない人間がインディオと出会ったのだから誤解の連続だった。コロンブスはインディオは善良で気前がいいと褒めちぎるが、ほどなく野蛮な泥棒だと評価を逆転させる。コロンブスには自分と同じ人間か、文化をもたない動物なみの生き物かという二つのカテゴリーしかないのだ。トドロフは書いている。

 彼の態度は二つに分けられるが、それはつぎの世紀に引きつがれるだけでなく、実際上、現代の植民地支配者一人一人の、被支配者としての原住民にたいする関係のなかにすでに見たとおりである。すなわち、ある場合には、彼はインディオを、完全な権利を有する、つまり彼と同じ権利を持つ人間だと考える。だがその場合、彼らを対等であるばかりでなく、同一のものと見なしているのであって、こうした態度は同化主義に、すなわち自分自身の価値観を他者へ投影することに帰着する。そうでなければ、彼は差異から出発する。だがこの差異は、ただちに、優越と劣等をあらわす言葉に翻訳される。人は、自己のたんなる不完全な状態にとどまらないような、まったく他者的な人間の本質が存在することを、認めたがらないものだからである。

 コロンブスは人間の平等を信じる素朴な同化主義者であり、それがインドにキリスト教を布教しようという夢とないまぜとなってインディオをキリスト教に改宗させようとするが、従わないインディオは奴隷にしてしまう。キリスト教徒でなければ人間ではなく、平等にあつかう必要がないからだ。コロンブスには自分とは異なるが自分と同じ権利を有する主体という観念が欠けており、この欠落が後の植民地主義に引きつがれていく。

Ⅱ 征服

 他者が欠落していたのはコロンブスだけではなかった。最悪の選択をくりかえしてアステカを滅亡に導いたモクテスマ皇帝も異なる文化の存在が理解できなかった。

 アステカ文化は雄弁を尊び、モクテスマも雄弁で名をはせた優秀な人物だった。モクテスマはコルテス以前の遠征隊を知っていて、海岸を見張らせていた。コルテス隊500人の上陸はただちにモクテスマのもとに知らされ、モクテスマはコルテス隊の動静を監視させた。だがモクテスマは情報収集を活かすことができなかった。コルテス隊を全滅させようと思えばできたのに豪華な贈物を差しだしてスペイン人の黄金熱を刺激し、ついにはおとなしく退去してくれれば帝国を贈ると懇願する始末だった。インディオが書き残した年代記は「モクテスマはうなだれ、まるで死者か啞でもあるかのように、口に手をあてたまま、声もなく、長いあいだじっとしていた。彼には話すことも答えることもできなかった」と伝えている。

 トドロフはモクテスマは捕らえられる前から負けていたのだと指摘する。

 モクテスマはただたんに話の内容を恐れているのではない。このテクストに<死者>と<啞>とが意味ありげに並べておかれていることからも分かるように、彼は文字通りコミュニケーションが不可能なことを示しているのだ。この機能停止はたんに情報収集を弱体化させるばかりではない。アステカの君主とはなによりもまず言葉の支配者であり、したがってその言語活動の放棄は挫折の告白である以上、それはすでに敗北を象徴しているのである。

 モクテスマが茫然自失におちいったのは単に呪術師や美々しく飾りたてた戦士の勇姿がスペイン人になんの効果ももたらさなかったからではない。スペイン人がアステカのコード体系におさまらない他者だったからだ。コロンブスは自分のコードからはずれたインディオを動物と同じにあつかったが、モンテスマはスペイン人を神々と同列に置いた。

 コルテスはモンテスマやコロンブスとは違う種類の人間だった。他の征服者コンキスタドールとも異なっていた。キューバを出発した時は他の征服者と変わらなかったかもしれないが、アステカ帝国の存在を知ると帝国全体を手にいれようと決意し、目先の黄金あさりより情報収集を優先させた。彼は通訳を重視し、マヤ人に奴隷に売られていたマリンチェというアステカ女性を手にいれる。コルテスはマリンチェを愛人にしアステカの内情を学び、アステカ側との交渉には必ず立ちあわせた。モンテスマ逮捕では彼女が指揮をとった。同時代のスペイン人の記録もインディオ側の記録もマリンチェを通訳を超えた存在として描いている。

 スペイン人がアステカやインカを電撃的に征服できたのはダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』やマンの『1491』のように、武器の優位性と意識せずに新大陸にもちこんだ疫病のためだという見方が一般的だが、トドロフは記号の関与に注目する。

 コルテスはマキャベリの同時代人だったが、マキャベリばりに自分の行動がインディオにどう解釈されるかを気にしていた。同盟軍の村でニワトリを二羽うばった部下は即座に絞首刑にした。秘密の保持にも神経を使った。インディオは馬は不死身と思いこんでいたので戦闘で死んだ馬の死骸は夜のうちにひそかに埋めさせた。

 モンテスマとの交渉では相手を混乱させるためにことさら矛盾した対応をとった。ケツァル神との同一視もコルテスは積極的に助長した。わずか500人でアステカ帝国を制圧できたのもアステカ側の内紛につけこんで不満部族をとりこみ、5万人もの同盟軍を組織できたからだった。

 一方、アステカの戦士はスペイン人に対しても伝統的な戦い方を変えない。鬨の声は相手を威嚇するどころか自分の位置を知らせるだけだったし、最後の皇帝クァウテモクは帝室の紋章で飾りたてた舟で逃げようとして捕らえられている。コルテスは記号を武器にしたのに対し、アステカ側は伝来の記号体系に自縄自縛になって自滅したのだ。

Ⅲ 愛

 ラス・カサスがアメリカ大陸における植民者の血に塗れた不法行為を告発し、インディオのために尽力したことはよく知られている。彼は従軍司祭として参加したキューバ征討戦でカオナオ族虐殺を目撃する。彼は自分の農場で使っていたインディオ奴隷を解放し、インディオの立場に立って発現するようになる。

 ラス・カサスはスペイン人に虐げられるインディオを狼に襲われた羊、ファラオに酷使されるユダヤ人、モール人の圧政に苦しむスペイン人に喩えた。だがこれはインディオを悪魔に喩えた論敵の主張をひっくり返しただけではないだろうか。

 ラス・カサスの平等主義はキリスト教にもとづいており、インディオをキリスト教徒にし、同化することは自明の前提だった。植民地化も否定しておらず、1531年のインディアス枢機会議への書翰にあるように、植民地化は乱暴なコンキスタドールによってではなく「神を恐れ、良心と真の賢明さをもつ人々」によっておこなわれるべきだと主張しているにすぎない。彼は国王に対する意見書でインディオを大切にあつかえば乱暴な植民地化以上の利益があがり、陛下のためになると説いている。彼の提言がスペイン当局を動かし、部分的にとりいれられたのは彼の平等主義が同化政策の枠内だったからだ。

 その成果はどうか。ラス・カサスはクマナ地方の平和的植民化事業に乗りだし、修道士と農民入植者を連れてくるが、インディオは彼が期待していたほど従順ではなく計画は失敗に終わる。

 ラス・カサスはインディオを愛しているつもりだったが、自己の理想を投影しただけでインディオがまったく見えていなかったと言っていいだろう。ラス・カサスのインディオ観はコロンブスと五十歩百歩であり、コルテスの方がよほどインディオのことを知っていた。インディオ側もそれに気づいていたらしい。

 この当時のインディオがラス・カサスにたいしてどのような感情を抱いていたかについては、ほとんどまったく知られていない。このこと自体がすでにそれなりの意味をもっている。反対にコルテスは非常に人気があり、スペイン皇帝の代理人である法権所持者をふるえ上がらせる。彼らはコルテスが一声かければ、インディオが蜂起することを知っているのである。

 ラス・カサスよりコルテスの方がインディオに慕われていたとは皮肉な話である。

Ⅳ 認識

 新大陸でインディオのために奔走していた時代のラス・カサスは他者としてのインディオに出会いそこねていたが、最晩年、スペインにもどって『インディアス史』を執筆した時期には自分とは異なる主体であることに気がついていたらしい。

 トドロフはラス・カサスの他者認識はインディオの奴隷化の是非をめぐって戦われたバリャドリード論争の中で醸成されていったのではないかと推測している。

 アリストテレスの奴隷肯定論をふりかざすセプルベタは人身御供の儀式を根拠にインディオの劣等生をあげつらった。定期的に生贄を殺し心臓を抉りだして偶像に捧げるなど、インディオの野蛮さの証拠ではないかというわけだ。

 ラス・カサスは一人息子を生贄にしようとしたアブラハムを引きあいに出し、人が神を愛していることを示す最大のあかしはもっとも貴重なもの、すなわち人間の生命を捧げることだとし、「真実の神、あるいは彼らが真実の神だと考えているいつわりの神」に犠牲を捧げることは宗教感情の発露として肯定されると説く。

 この論法が妥当かどうかはおくとして、重要なのは「真実の神、あるいは彼らが真実の神だと考えているいつわりの神」という言い方をしている点である。インディオの神がインディオにとって真実の神だと認めることは、キリスト教の神を相対化することにつながる。ラス・カサスがキリスト教の神の方が高級だと信じているにしても、それはもはや唯一神ではない。晩年のラス・カサスは宗教的多元主義に踏みこみ、事実上インディオを同化することをあきらめていたらしい。

 ラス・カサスにつづく世代からはベルナルディーノ・デ・サアグンやディエゴ・ドゥランのようにアステカ文化を正確に理解し、後世に重要な記録を残した聖職者が出ている。

 サアグンは1499年スペインに生まれた。ラス・カサスより15歳若い。サマランカ大学で学んだ後、フランシスコ会修道士となり、コルテスがオアハカ侯爵に任じられた1529年にメキシコに渡った。フランシスコ会はナワトル語とナワトル文化の研究に力を入れていたが、サアグンも徹底的にナワトル語を学び、1536年にインディオの聖職者を養成するための修道会付属学校が設立されるとラテン語文法の教授に就任している。生徒の多くはアステカ貴族の子弟だったが進歩は著しく、サアグン自身も彼らからナワトル語とナワトル文化をより深く学んでいく。

 ドゥランは現地のフランシスコ会の支持のもとにインディオの口承文芸を収集し、征服戦争の生き残りから聞書をおこない、『ヌエバ・エスパーニャ諸事物概史』という百科全書をまとめあげることになる。

 最初はサアグン同様布教に役立てるためにはじめた仕事だったが、途中からナワトル文化を理解し保存しようという第二の動機が比重を増してくる。彼はナワトル語の本文ができあがると最優秀の教え子を集めて加筆訂正をおこなわせ、完成するとスペイン語の翻訳を添付し、インディオの絵師に挿絵を描かせた。サアグンの『概史』はナワトル語、スペイン語という二つの言語のテキストと挿絵で構成されている。ナワトル語の本文が別にあるので、スペイン語のテキストは逐語訳である必要はなく、注釈を織りこんだ自由訳になっているとのことである。

 『概史』は画期的な仕事だったが、完成した直後フェリペ二世の勅令で禁書とされ、19世紀になるまで図書館の中で埃をかぶることになる。この間の事情については本書の資料篇にあたる『アステカ帝国滅亡記』をお読みいただきたい。

 ドゥランは1537年にスペインに生まれた。ラス・カサスより53歳、サアグンより38歳若い。晩年のラス・カサスがバリャドリードで熱弁をふるっていた頃、家族とともに5歳でメキシコに渡っている。メキシコで育っただけにドゥランは自由にナワトル語をあやつり、アステカの文化・宗教に通じていた。

 ドミニコ会の修道士となったドゥランはインディオと同じように暮らしながら布教につとめるが、インディオがキリスト礼拝に偽装して古い神を拝んでいることを嘆き、偶像崇拝根絶のためにはまず偶像崇拝のなんたるかを学ぶべきだと説いてアステカ文化の貴重な記録を残す。彼はインディオの信仰の中に偏執的に偶像崇拝を嗅ぎだすが、その一方アステカの古い祭儀の中にキリスト教との共通点を見いだし、これほどまでに似ているのは聖トマスがかつて伝道に訪れていたのではないか、ケツァルコアトルとは聖トマスのことではないかという妄想をいだくにいたる。ドゥランはインディオのサンクレティスムを告発しながら、自分自身サンクレティスムにおちいっていたのかもしれない。

 サアグンとドゥランは同時代的には例外的な存在であり、著書は長く埋もれることになるが、その布教・教育活動はスペイン人でもアステカ人でもないメキシコ人という新たなアイデンティティを形成する上で大きな影響をあたえ、ひいてはヨーロッパ人の自己認識を変えていったのである。

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2011年07月29日

『古代マヤ・アステカ不可思議大全』 芝崎みゆき (草思社)
『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』 芝崎みゆき (草思社)

古代マヤ・アステカ不可思議大全 →bookwebで購入 マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行 →bookwebで購入

 ヘタウマのイラストと手書きの文字でつづられたメソアメリカ遺跡案内である。著者の芝崎みゆき氏は『古代エジプトうんちく図鑑』と『古代ギリシアがんちく図鑑』を出しているが、メソアメリカは一冊では書ききれなかったのか紀行篇と蘊蓄篇が独立した本になっている。

 ロットリングで書いたようなナール風手書き文字は読みやすく、難しい話でも肩の力が抜ける。「文」と「女」がまぎらわしいといった書き癖もあるが、すぐに慣れる。これだけの文字量を清書するのは大変だったろう。

 まず『古代マヤ・アステカ不可思議大全』である。著者とおぼしいトウモロコシ風ポニーテイルのキャラクターと水滴頭巾のキャラクターが案内役となって進み、一部マンガになっている。モンゴロイドのアメリカ大陸移住にはじまり、オルメカから時代順に紹介する。順番は違うが、青木和夫氏の『古代メソアメリカ文明』を下敷きにしているふしがある。青木氏は各文明にほぼ同じくらいの分量を割りふっているが、本書はマヤとアステカが中心で全300頁中マヤに115頁、アステカに60頁をあてている。

 不気味カワイイ絵柄なので軽く読める本かと思ったら、情報がてんこ盛りで巻末の参考文献はダテではない。時代遅れの説やトンデモ学説も紹介されいるが、「と見る人もいる」という一歩引いた書き方をしたり、二人のキャラクターが突っこみをいれたり考えこんだりして鵜呑みにしてはいけないとわかる。意外にちゃんとした内容である。6頁かけたマヤ暦の図解は秀逸。今まで読んだ中ではこれが一番わかりやすかった。現在絶版の『ポポル・ヴフ』と『ユカタン事物記』の中味をマンガで紹介している点も貴重。

 マヤ関係の本はけっこう読んでいるつもりだが、それでも知らない話がたくさん出てくる。あまりにも詳しくて消化不良をおこす読者がいるかもしれない。全編手書きにしたことといい、著者は相当しつこい性格なのだろう。

 次に紀行篇の『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』である。2007年にエキという友人とメキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズをバックパッカーとして旅した経験をまとめた本だが、交通機関やトイレ事情、見どころといった観光情報だけでなく、現地の人との交流が描かれている。

 メキシコは不穏なニュースがよく伝えられる国なので著者は身構えて入国するが、案に相違して親切な人ばかりだし、高原部はバス網が発達し便数が多く、旅行しやすい土地だそうである。オクタビオ・パスが「微笑が仮面である」と書くように日本に似た相手を立てる文化があるらしい。

 しかしユカタン半島にはいるとバスが当てにならなくなり、貧しい地域のせいか人々の顔つきが厳しくなる。

 グアテマラとホンジュラスは観光で食べている国なので油断もすきもならない。ベリーズは移民が多く英語が通じるが、遺跡はあまりなく、基本的に物価の高いリゾート地域のようだ。

 中米でもどこにいっても日本のマンガとアニメのオタクがいて、日本人というだけで親切にしてもらえたそうである。欧米人のバックパッカーもオタクの比率が高く、バックパッカー宿で欧米人どうし浦沢直樹や高橋留美子の話で盛りあがっていたりするという。

 一番興味深かったのは福音派教会の体験記である。実松克義氏の『マヤ文明 聖なる時間の書』には何もしてくれないカトリックに代わって福音派の教会が勢力を急速に伸ばしていると書かれていたが、著者はラカンドンで福音派の教会のミサに出る破目になる。宿の子供になつかれてしまい、近くの教会に連れていかれるが、様子が普通ではない。メリハリのない下手糞なゴスペルと牧師の説教が延々とつづくのに信者は異様に熱狂し、帰るに帰れなくなったというのだ。後で福音派だったとわかるが、マヤ意識が強くカトリックを拒否してきたというラカンドンで福音派が受けいれられているとは何を意味するのか。

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2011年07月28日

『マヤ文明 聖なる時間の書』 実松克義 (現代書林)

マヤ文明 聖なる時間の書 →bookwebで購入

 青木和夫氏は『古代メソアメリカ文明』で日本人が仏教という外来宗教から神仏習合の日本仏教をつくりだしたように、マヤ人も多神教的なフォーク・カトリシズムをつくりだしたと指摘しているが、現代マヤ人の精神世界とはどのようなものなのだろうか。

 まさにその疑問に答えてくれる本がある。宗教人類学者の実松克義氏の『マヤ文明 聖なる時間の書』である。実松氏はグアテマラ太平洋側のキチェー地方を1994年から1999年まで6年間フィールドワークし、現代マヤのシャーマン(みずからをサセルドーテ・マヤと呼んでいる)から聞きとり調査をおこなったが、本書はその記録である。

 キチェー地方はマヤの『古事記』というべき『ポポル・ヴフ』が発見された土地でマヤ文化の色彩が濃く、現在でも多くのサセルドーテ・マヤが活躍している。キチェーのサセルドーテ・マヤは『ポポル・ヴフ』を特に重視しており、本書の後半は『ポポル・ヴフ』(著者は『ポップ・ヴフ』と表記すべきだという立場に与しているが)の話になる。

 先住民の呪術師というと教育のない貧しい拝み屋さんというイメージがある。確かにそういうサセルドーテ・マヤが多いが、著者の出会った中には大学教育を受けたインテリもいる。実業家として成功していたり、大学で教えていたり多士済々で、人気のあるサセルドーテ・マヤのところには国外からも依頼者が来ている。教育があるのになぜイニシエーションを受けて呪術師になるのだろうか。重病をサセルドーテ・マヤに治してもらい、自らの運命に目覚めるというパターンが多いようだ。

 サセルドーテ・マヤは宗教を聞かれると一様にカトリックと答えているが、やっていることはおよそカトリックではない。神聖暦で占いをし、壇を築いて火の儀式をおこなう。十字を切るものの、マヤ十字という別の意味あいの十字である。グアテマラのカトリックはマヤ古来の信仰と混淆しているのである。

 シンクレティズムの象徴というべきはサン・シモンという神格である。サン・シモンというといかにもカトリックの聖人のようだが、聖書に出てくる9人のシモンとは関係がなく(関係があると言い張っている人もいるが)、シモン兄さんとかシモン兄貴と気安くお願いできる現世利益の神様として広く信仰を集めている。

 サン・シモンは10月28日が誕生日だったり、「五人の博士」という治癒神になったり、マシモンという怖い神様に姿を変えたり得体が知れないが、研究者によると信仰の歴史は古くはなく150年ほど前、教会の土着信仰弾圧を期にはじまったらしい。サン・シモンといういかにもカトリック的な装いをまとわせることで土着の神の温存を図ったということだろう。

 マヤ十字も興味深い。マヤに十字架のシンボルがあったことはパレンケのレリーフでも明らかだが、もともとは世界樹だったマヤ十字がキリスト教の十字架と習合してしまい、「父と子と聖霊、聖人の名において」という祈りの言葉は同じながら、心の中では死霊の住むマヤの世界が表象されているというのだ。マヤ十字の詳しい意味あいについては人によって異なるが、十字架の横棒が黄道、縦棒が黄道と交差する銀河、さらに十字架の二次元に垂直に雨の軸が貫き、マヤの立体的な宇宙像をあらわすという解釈まである。

 260日周期の神聖暦も考古学上の遺物ではなく占いの暦として普及していて、日本の神宮暦くらいにはポピュラーなようだ。

 神聖暦にはいろいろな解釈があり、サセルドーテ・マヤごとに違うといっても過言ではないらしい。しかし時間を生命の動きそのものとしてとらえるという点では共通しているようだ。

 最後に『ポポル・ヴフ』だが、これが一筋縄ではいかない。16世紀にキチェー人の貴族がアルファベットで音写したキチェー語の原本を18世紀にフランシスコ・ヒメネス神父がチチカステナンゴで発見し、筆写してスペイン語訳を付して書庫に残した。それが150年後に再発見されるという経緯をたどるが、ヒメネスがつくった写本しか残っていないのでテキストの信頼性に疑問がもたれているのである。

 『ポポル・ヴフ』には十を超える現代語訳があるというが、その中でキチェー語のテキストを本来の形に復元するところからはじめたチャベスの翻訳があり(『ポップ・ヴフ』はチャベスが復元した発音)、キチェーのサセルドーテ・マヤの多くから支持されているというのである。

 本書の後半ではチャベス訳を評価するヴィクトリアーノ・アルヴァレス・フアレスと彼が主宰するグアテマラ・マヤ科学研究所の見解が紹介されている。実松氏はチャベス訳について『マヤ文明 新たなる真実』という本を別に書いておられるので、興味のある方はそちらを見られたい(中公文庫の『ポポル・ヴフ』とはまったく違う)。

 一つ気になったのは民衆のカトリック離れが進む一方で福音派教会が急速に勢力を伸ばしているという記述だ。カトリック教会はコフラディアという信徒会に支えられていて、中にはサン・シモンの護持をしているところもあるというが、改宗者が続出したために解散したコフラディアがかなりあるらしい。教皇庁が「解放の神学」にブレーキをかけた結果がこれだとしたら皮肉である。

 福音派教会については芝崎みゆき氏の『マヤ・アステカ遺跡へっぴり旅行』に偶然ラカンドンの教会に連れていかれた時の体験が書かれている。福音派はアメリカからの豊富な資金で信者に援助をあたえるといわれているが、芝崎氏の伝える熱狂ぶりからすると援助だけが理由ではないのかもしれない。

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2011年07月27日

『古代メソアメリカ文明』 青山和夫 (講談社選書メチエ)

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 『マヤ文明の興亡』の訳者解説がよかったので、同じ青山和夫氏による本書を読んでみた。表題の「古代メソアメリカ文明」とはコロンブス到達以前に中米地域メソアメリカに勃興した文明のことで日本の室町時代に相当する期間までを含み、一般的な意味での古代のことではない。2007年の刊行だが、一般向け概説書としては最新の内容といえよう。

 著者はまず旧大陸中心の「四大文明観」を批判し、メソアメリカと南米中央アンデスにもエジプトやメソポタミアに匹敵した文明が誕生していたとして「六大文明観」を提唱する。アメリカ大陸の文明は金属器を生みださなかったが、高度に発達した石期と土器だけで農業を基盤とした都市を築き、エジプトに匹敵するようなピラミッドを建造した。2世紀から隆盛したテオティワカンはローマをもしのぐ人口を擁し、碁盤の目状の整然とした計画都市を作りあげた。中米・南米ともに大河はないが、乾燥地でも育つトウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャなどが貧弱な野生種から品種改良され、現在では世界中に広まって重要な食料となっている。「六大文明観」に異論のある人はいないだろう。

 本書はメソアメリカの文明を発祥順にオルメカ、マヤ、サポテカ、テオティワカン、トルテカ、アステカとたどっていく。

 メソアメリカでは旧大陸やインカのような大帝国は誕生せず、各地域の文明はゆるいネットワークで結ばれていたが、そこで重要な役割を果たしたのは翡翠や鳥の羽、工芸品といった威信財だった。密林などに阻まれて大量の物資を輸送するのは困難だったが、支配層は持ち運びのできる希少な威信財で自らの権力と権威を正当化したわけである。

 まずオルメカである。オルメカはメキシコ湾の南岸に自生したメソアメリカ最古の文明であり、黒人を思わせる巨石人頭像から以前はオルメカ=アフリカ起源説が唱えられたこともあったが、巨石人頭像のような風貌は現地の先住民に見られ、現在ではオルメカの美術様式と考えられているそうである。

 従来はメソアメリカの他の文明を生みだした「母なる文明」と考えられていたが、現在ではオルメカでモニュメントが作られる以前からメソアメリカのさまざまな地域の間で遠距離交易があって刺激をあたえあい、その中で最も早く文明を形づくったのがオルメカだとする「姉なる文明」説が有力になっているという。

 著者は「姉妹文明」説を踏まえながらも、オルメカには「母なる文明」という面があったのではないかとしている。オルメカ衰退後にメソアメリカ各地で文字と長期暦が同時多発的に発達しており、オルメカに起源があった可能性があるのである。特に文字については2006年にサン・ロレンソ近くのカスハル遺跡でメソアメリカ最古の文字が発見されている。

 文字と暦の起源は置くとしても、オルメカが他地域に先行して政治経済組織を発達させたことは間違いなく、他地域でもオルメカ様式をとりいれた工芸品が作られていた。オルメカの影響は絶大だったのだ。

 次はマヤであるが、『マヤ文明の興亡』の訳者解説に加筆したようなよく似た文章である(ところどころ同じセンテンスがある)。刊行は本書の方が一年早いから、本書のマヤの章を圧縮したのが『マヤ文明の興亡』の訳者解説なのかもしれない。

 コウの『古代マヤ文明』にも書記や絵師、彫刻師の社会的地位が高いことは書かれていたが、著者はアグアテカ遺跡で石器の摩耗痕の調査をおこない、貴族が工芸品を作っていた事実を突きとめている。

 研究の成果としては、第一に、発掘されたすべての支配層住居跡から、美術品および実用品の半専業生産の証拠が見つかり、王家の人びとおよび高い地位の宮廷人をふくむアグアテカ支配層のあいだで、手工業生産が広くおこなわれていたことが明らかになった。男性の支配層書記は、石碑の彫刻や、貝・骨製装飾品や王権の宝器のような美術品の製作をおこなった。支配層の女性も、調理だけでなく、織物や他の手工業生産に半専業で従事した。熟練した支配層工人が生産した、石彫、多彩色土器、貝・骨製品、織物などの美術品は価値が高く、製作活動自体が超自然的な意味を包含したと考えられる。こうした洗練された美術品の製作は、知識教養階層の王族・貴族と被支配層との地位の差異を拡大し、宮廷における権力争いでも重要な役割を果たした政治的道具であったといえよう。

 マヤでは貴族が職人と神官を兼ねていたのである。また焼き畑農業に依存していたというのも正しくはなく、焼き畑と集約型農業を併用していたそうである。

 マヤよりすこし遅れて紀元前500年頃、メキシコ盆地の南に位置するオアハカ盆地の中央にモンテ・アルバンという都市が築かれる。モンテ・アルバンはオアハカ盆地を統一し外部に勢力を広げて紀元後700年頃まで繁栄をつづけることになる。これがサポテカ文明で、「踊る人々」と呼ばれる人身御供にされる戦争捕虜を描いたレリーフやマヤに次ぐ複雑な文字体系を作りあげたが、日本人研究者がいないので日本での知名度は低いということである。

 サポテカ文明がオアハカ盆地の外に進出しはじめた頃、メキシコ盆地の中央でテオティワカンが出現する。テオティワカンの人口は最盛期の紀元後250~500年には20万に近く、ローマをもしのぐ規模だった。モンテ・アルバンとの関係はよくわかっていないが、軍事的に対立していたことはなく友好的な関係だったらしい。

 テオティワカンは黒曜石交易を独占した一大帝国とされていたが、その後黒曜石の大半は域内で消費され、メソアメリカ最大の商業中心地ではあっても、直接統治していた領土はメキシコ盆地に限られていたことがわかっている。

 しかしテオティワカンの権威は絶大で、マヤの王の中にはテオティワカンの衣装をつけた像を作ったりしてテオティワカンとの関係を誇示する者が多かった。テオティワカン人が征服したという説もあったが、被葬者の調査ではマヤ出身であることがわかった。権威づけのためにテオティワカン風の衣装を利用していただけだけのようだ。

 紀元後800年頃になるとテオティワカンとサポテカが相次いで衰退し、メソアメリカは群雄割拠の戦国時代の様相を呈するようになる。その中で頭角をあらわしたのがメキシコ盆地北部にトルテカ人が築いたトゥーラである。

 トゥーラはトルテカ帝国としてマヤまで支配下においていたという説があったが、実際は国際商業都市にすぎなかった。トゥーラを実像以上に持ちあげたのはアステカ人で、トルテカ人との系譜を捏造しトルテカ人の文化を誇張することで自らを権威づけようとした。

 さて最後のアステカだが、貨幣として使われていたカカオ豆の贋物が出回っていたというのには驚いた。カカオ豆の外皮の中に蠟や他の豆の粉を挽いた練り粉や泥を詰めこんであるそうだが、中国人もびっくりである。

 終章ではスペインの征服は従来考えられていたほど完全なものではなく、常に反乱が起こってスペインの統治の及ばない地域が存在しつづけていたこと、先住民は強制された文化要素を取捨選択したり自己流に解釈したりして新たな文化を創造しつづけていたことを指摘している。先コロンブス期の文明は「現代から隔絶したものではない」というのだ。

 先住民のしたたかさを示すエピソードを最後に紹介しよう。アステカがコルテス率いるわずか160人のスペイン遠征隊にやすやすと敗れたのはアステカ人が白人を見てケツァルコアトルの再来と勘違いしたからだという説が広まっているが、これは先住民支配層の捏造だというのだ。

 モクテスマ二世王が、10世紀にトゥーラを追放された、トピルツィン・ケツァルコアトル王の一行が「一の葦」の年にあたる1519年に帰還するという「神話」を信じて、コルテスを神格化したケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇神)の再臨と勘違いしたともいう。これに対して、フロリダ大学のS・ジレスピーは、民族史料を詳細に検討して、アステカ人の王族・貴族が、屈辱的な敗北を正当化するために、「神話」を捏造したことを明らかにしている。

 マヤの都市間の権謀術数を知っている人ならさもありなんと思うだろう。メソアメリカの人々は一筋縄ではいかないのである。

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2011年07月26日

『マヤ文明の興亡』 エリック・S・トンプソン (新評論)

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 本書は1975年に亡くなるまでマヤ学の最高権威として君臨したエリック・S・トンプソンの主著であり、「20世紀最大のマヤ文明のベストセラー」ということである。初版は1954年、第二版が1966年だが、邦訳が出たのは最近で2008年に日本のマヤ研究の第一人者である青山和夫氏によって訳出された。

 第二版からでも半世紀近い時間がたっている。半世紀が短いか長いかだが、この間にマヤ像は一変している。本書の第二版が出版された頃からマヤ文字の解読が急速に進み、碑文から王朝の歴史が読みとれるようになったからだ。今日のマヤ学を代表するマイケル・コウは第二版の出たのと同じ1966年に『古代マヤ文明』を出版したが、現在までに6回改訂版を出している。

 コウの『マヤ文字解読』によると、トンプソンは取りまきとともにマヤ文字の解読の動きを攻撃しつづけ、解読の成果を頑なに受けいれなかった。トンプソンの説は現在では多くが否定されており、本訳書では本文中の現段階で誤りとされている箇所にいちいち脚注をつけ、「その後の調査では……」とか「現在の解釈によれば……」と訂正をおこなっている。さらに巻頭の「訳者序文」ではトンプソンの時代・地域区分を現在の区分の違いを解説し、巻末の「訳者解説」では最新のマヤ文明観を略述している。

 現代のマヤ学の水準から取り残された過去の遺物を青山氏はなぜ半世紀もたってわざわざ翻訳したのだろうか。

 青山氏は困難な野外調査をおこない20世紀前半までのマヤ学を総合したトンプソンの功績を評価する一方、テレビや一般書でおもしろおかしく描かれる「歪められたマヤ文明観」の源流がトンプソンの神秘的マヤ観にあること、20世紀半ばまでのマヤ学がトンプソンに代表される欧米の上流階級出身の趣味的なマヤ学者によってになわれ、彼らの価値観が「神官支配階級と農民の二階層社会」や「農民の反乱による衰退」といった事実にもとづかない解釈を生んだこと、現在のマヤ学がトンプソンの学説との対決を通じて形成されたことを指摘している。いくら過去の遺物とはいっても、議論を細かいところまで理解するには暗黙の前提となっている本書を読んでおく必要があるのである。

 しかし、それだけならマヤ学をこころざす人が原書で読めばすむ話だろう。わざわざ一冊まるごと翻訳したのは青山氏に本書に対するなみなみならぬ思いいれがあったからではないか。本書は注釈を欧米の本のように同じ頁の下部に脚注として組みこんでいる。脚注の方が参照しやすいが、組版に手間がかかるので日本の本ではめったにおこなわれていない。脚注を実現したのは相当なこだわりである。

 わたし自身が本書に興味をもったのはコウが『マヤ文字解読』でトンプソンを愛憎半ばする筆致で描きだし、彼の文体を次のように酷評するのを読んだからだ。

 エリックの発表したものを私が手放しで賞賛しかねる第一の原因は、彼の文章スタイルではないかと思う。彼の学識の深さときたら、並大抵のものではない。論文や本にはいつも、文学や神話からの重々しい引用が詰め込まれている。代表作『マヤ象形文字』では、各章の冒頭に、内容と関係ないイギリスの詩人や散文作家の言葉が引用されているが、私はそれをひどく不快に感じる。そうしたもったいぶった書き方は、わずらわしいだけである。だが、悲しいかな、考古学者、とりわけラテンアメリカの学者には、非常に魅力的にみえるようだ。

 ここまでボロクソに書かれると、逆に読んでみたくなる。本書が3年前に邦訳されていたことを知り、古典というにはまだ早すぎる本をなぜ今訳すのだろうといよいよ興味をそそられた。

 読んでみてわかった。コウは酷評しているが、トンプソンは第一級の文章家であり、ほとんど文学作品のレベルに達しているのである。

 古典期の繁栄の末期に向けて、マヤの諸都市は秋の紅葉のような明るい色合いをなし、その後、落ち葉が落ち始めた。一枚また一枚と、諸都市における様々な活動が停止した。新たな石碑は建立されず、神殿や「宮殿」が建設されなくなった。いくつかの都市では、建設活動が急に停止したために、その上に建物を建てるべく建造された基壇の上に何も建てられずに放棄された。そしてワシャクトゥン遺跡では、最後の建物の壁が未完成のまま残された。マヤ文字の碑文に刻まれた最後の日付から、こうした諸活動が停止した時期を最も正確に推定することができる。
 コパン遺跡では、シャルルマーニュがローマ教皇から西ローマ帝国の帝冠を受けた後800年に、石造記念碑に最後の碑文が刻まれた。

 訳注によればコパン遺跡の最後の日付は822年であることが判明したということであるが、この文章を読むとそれくらいの間違いはどうでもいいという気分になる。

 野外調査を回想した条は神秘とロマンにあふれている。

 小道は南の方へ曲がっていたが、再び熱帶雨林の中に入る急な坂道の前で西に向きを変えた。突然、私たちは畏敬の念を起こさせる光景をちらっと見た。ティカルの大神殿ピラミッド群のうちの4基が、周囲のジャングルの上に聳え立っていたのである。それらは、草木の葉で覆われていた。石灰岩製の古代の神殿を基壇の上に戴き、空を背景に、灰色がかった白色で、まるで頂上に白い雲がかかった緑茂る火山のようだった。私たち「巡礼者たち」は、新世界のカンタベリー市の入口まで来ていたのである。

 トンプソンはティカル入城をチョーサーの『カンタベリー物語』のイメージに重ねて語っている。文学趣味に淫しているといえばその通りであり、コウが論文はヘミングウェイのように簡潔に書くべきだといまいましげにいうのもわからないではないが、文学畑の人間としてはトンプソンのスタイルに魅せられるのも事実だ。勝手な推測だが、青山氏が本書をわざわざ日本語にしたのもトンプソンの文章に惚れこんだからではないだろうか。

 コウが批判するトンプソンのマヤ文字観はどのようなものだったろうか。

 マヤ文字の研究は、今や不確定で欲求不満の段階にある。一部の学者たちは20世紀の半ばから、解読の鍵を見出したと主張しているが、その方法や結果は一致しない。ある1つの文字素について、碑文研究者の数だけ解読があり得る。マヤ文字は部分的に音節文字であり、アルファベット的であるという主張がなされているが、これは承認し難い。遠く離れたシベリアでコンピュータ解析が行われ、この説が提示されているが、コンピュータはソーセージ製造機のようなものである。

 「欲求不満」は「挫折」と訳すべきだろう。1960年代前半の時点で碑文学者の数だけ解読があるような状態だったかどうかはわからないが、「遠く離れたシベリア」とは明かにレニングラードのクノローゾフを指している。レニングラードをシベリア呼ばわりとはひどい言い方だが、トンプソンはクノローゾフの名前をまったく出さずにコンピュータが自動的に解読したかのような揶揄的な書き方をしている。なまじ文才があるだけに印象操作はお手のものだ。

 しかし多くの間違いと偏見を含んでいるにしても、本書は読みふけらずにはおれない本である。神秘とロマンのマヤという古いマヤ観を悪魔祓いするためにも、本書の翻訳は意義があるだろう。

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2011年07月25日

『マヤ文字解読辞典』 コウ&ストーン (創元社)
『【図説】マヤ文字事典』 ロンゲーナ (創元社)

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 マイケル・コウの『マヤ文字解読』は解読にあたった第一人者が書いた歴史として臨場感にあふれ、読み物としても第一級だったが、主眼は解読にいたる紆余曲折にあり、マヤ文字そのものについてはあまりふれられてはいなかった。マヤ文字について知りたければ別の本を読めということだろう。

 マヤ文字については十冊近く本が出ているが、日進月歩の分野だけに内容が古くなっているものがすくなくない。中には神秘的な象形文字とみなされていた時代の本まで残っているが、今回は日本語で読める最新の本を二冊紹介しよう。

 まず『マヤ文字解読』のマイケル・コウとコウの弟子でマヤ文字書家のマーク・ヴァン・ストーンによる『マヤ文字解読辞典』(以下、コウ本と呼ぶ)で、2005年に出た第二版の翻訳である。もう一冊はマリア・ロンゲーナによる『【図説】マヤ文字事典』(以下、ロンゲーナ本と呼ぶ)で原著は1998年に出ている。コウについては改めて紹介するまでもないが、ロンゲーナについてはよくわからない。スペイン語圏で活躍しているマヤ学者らしく、スペイン語の著書が何冊かあるが、他の言語に翻訳されているのは本書だけのようである。

 両著ともA5版、黒と朱の二色刷でコウ本は212頁、ロンゲーナ本は182頁。コウ本は図版主体で普通紙刷りだが、ロンゲーナ本はほぼ全頁に写真がはいりアート紙刷りである。ロンゲーナ本の方が活字が一回り小さく横二段組だが、ロンゲーナ本は写真がたくさんはいっているので文字量としては同じくらいかもしれない。

 両著とも最初に導入部があるが、コウ本は「マヤ文字記述の文化的背景」が8頁、「マヤ文字記述の性質」が24頁で、マヤ語の文法やマヤ文字の種類について解説してある。ロンゲーナ本は「マヤ民族を探して」というタイトルのマヤ文明全般に関する紹介が18頁ある。ロンゲーナ本は最後の章が「古代アメリカ文明の表記法」となっていて、マヤ文字だけでなくアステカやインカの表記体系について10頁をさいているが、百科事典レベルで深いものではない。コウ本はある程度マヤ文明について知っている読者向けに書かれているが、ロンゲーナ本はまったくの初心者を想定していると思われる。

 トピックごとに関連する文字を紹介するスタイルは両著とも同じである。以下にトピック立てを引用する。

 まずコウ本。

  • 時と暦
  • 王家の生活と儀式
  • 地名と政体
  • 王家の人々の名前と称号
  • 血縁関係
  • 戦争
  • 書記と芸術家
  • 土器のテキスト
  • 超自然世界
  • 生物と無生物の世界

 次ぎにロンゲーナ本。

  • 宮廷の生活
  • シンボル
  • 神々と宗教
  • 天文学
  • 生活と思想

 トピック名は似ていても、中味はかなり違う。ロンゲーナ本の「宮廷の生活」は代表的な都市と王をあらわす紋章文字の紹介が半分、「王」や「王妃」、「即位」、「斬首」をあらわす文字の紹介が半分という構成で、文字そのものの説明というより文字のあらわす事項の説明になっている。一方、コウ本の「王家の生活と儀式」は紋章文字は「地名と政体」の章にまかせ、「誕生」、「即位」、「放血」、「球技と球技場」などをあらわす文字について突っこんだ解説がある。ロンゲーナ本は文字の音価(読み)はカナ表記で簡単にすませているが、コウ本はアルファベット表記で、数や格の変化や接尾語、接頭語がつく場合の変化にまでふれている。

 両著が決定的に違うのはロンゲーナ本が代表的な表語文字を一つだけ掲載するのに対し、コウ本は異体字や異表記まで載せている点だ。日本語では同じ桜を意味するのでも「桜」、「櫻」、「さくら」、「サクラ」と複数の表記があるが、マヤ文字も同じでさまざまな書き方があるのである(これが欧米の研究者には躓きの石となった)。

 コウ本の巻末には音節文字表(日本語の五十音表にあたるもの)が4頁にわたって載っており、本書中で頻繁に参照することから著者はこの頁をコピーすることを勧めている。

 古典碑文に出てくる範囲だけだが、コウ本のマヤ語の文法解説も興味深い。マヤ語は能格言語(近藤健二『言語類型の起源と系譜』参照)といって古い言語の形態を残しているが、英語を能格にするとどうなるかという例が出ていてなるほどと思った。

 総じて言うとロンゲーナ本がマヤ文字という切口から初心者向けにマヤ文明全般を紹介した本なのに対し、コウ本は初級の知識では飽き足らなくなった読者に対しマヤ文字とマヤ碑文学の基本を手ほどきする本となっている。どの分野でも同じだが、中級レベルの本はすくないのでコウ本のような本はありがたい。

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2011年07月24日

『マヤ文字解読』 マイケル,コウ (創元社)

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 『古代マヤ文明』の著者でマヤ学の泰斗であるマイケル・コウがあらわしたマヤ文字解読史である。

 古代文字の解読史は面白いに決まっているが、マヤ文字は面白さが倍加する。ヒエログリフと楔形文字は19世紀、線文字Bは20世紀前半に解読されたが、マヤ文字は16世紀から知られていたのに20世紀後半になってやっと解読されたからだ。しかも解読に功績のあった研究者は著者の直接の友人なのである。マヤ文字の解読はわれわれの同時代の出来事なのだ。

 解読に四百年もかかったのにはいろいろな理由がある。まずマヤ文字の正確な模写がなかなか出なかったこと。ヒエログリフはナポレオンによって文化財と認められ、遠征軍にしたがった学者と画家による碑文の精密な模写が出版され、ヨーロッパ中で解読を競う体制が整ったが、マヤ学の場合、宣教師によって樹皮紙本が徹底的に焚書にされただけでなく、碑文の初期の模写はマヤ文明ユダヤ起源説やヒンドゥー起源説といった思いこみで歪曲されたり描き足された混乱をまねく代物だった(ヨーロッパ人には遺跡周辺に住む肌の茶色いインディオが輝かしいマヤ文明の担い手だったとは受け入れがたかったらしい)。

 ドレスデン絵文書の正確な複製は1829年に出版されていたが、巨大で高価な稀覯本だったために図書館の書庫の中に埋もれてしまった。今日ではメソアメリカ研究振興財団のサイトで自宅にいながらにして見ることができるが、昔はそうはいかなかったのである。

 それでも20世紀になると資料が出版され、1920年代にはいると碑文や絵文書の暦部分の解読がはじまった。おなじみのマヤ・カレンダーである。

 暦の解読は着実に進んだが、暦以外の部分は長らく足踏み状態だった。表意文字仮説という思いこみが解読を妨げていたのだ。

 現在でも漢字を表意文字と思いこんでいる人がいるが、漢字は表意文字ではなく、一文字で一単語もしくは一形態素をあらわす表語文字である。そもそも表意文字は数学の記号とか交通標識といった人工的な記号体系としてしか存在しない。自然発生的な文字はすべて単語(形態素)、音節、音素といった言語の単位をあらわすのである。

 マヤ文字は漢字にあたる表語文字とカナにあたる音節文字を併用する混合表記体系であり、日本語の漢字仮名交じり文とよく似た構造をしている(表語文字には漢字の偏旁のような内部構造まである)。シャンポリオンがヒエログリフの解読にあたり古代エジプト語の末裔であるコプト語の知識を手がかりにしたように、マヤ文字の解読にはマヤ語の知識が不可欠だが、碑文学者でマヤ語のできる者は一人もいなかった。その気になれば現代のマヤ人からいくらでも学べるというのに。

 致命的だったのはマヤ学の最高権威とされていたジョン・エリック・シドニー・トンプソンが表意文字仮説の頑固な信奉者だったことだ。トンプソンはマヤ文字は音声言語とは何の関係もない純粋な概念体系であると信じこんだ。もちろん彼はマヤ語を学んでいなかったし、学ぶつもりもなかった。

 古代文字に興味をもつ言語学者の中にはマヤ語の知識を用いて解読を試みる者もいた。サピア=ウォーフの仮設で知られるベンジャミン・ウォーフもその一人で、コウが「五十年進んでいた」と絶賛するほど筋のいい見通しを立てていたが、トンプソン一派によって些末な間違いを攻撃され、すべて間違っているかのような印象を作りあげられてしまった。

 トンプソンの支配は意外なところから破られることになる。レニングラード民族研究所のクノローゾフがマヤ文字は音節をあらわしているという論文を発表したのだ。当時は鉄のカーテンが健在で、ソビエト・ロシアの学者は欧米の学者から隔離されていたが(クンローゾフはグアテマラ政府から叙勲で招待されるまでマヤの遺跡を見る機会がなかった)、むしろそのことがクノローゾフにフリーハンドをあたえたのかもしれない。

 トンプソン一派はクノローゾフを叩こうとしたが、クノローゾフは矢継ぎ早に論文を発表し賛同者が増えていった。コウは妻がロシア系という巡り合わせもあって、クノローゾフの研究を西側に紹介することになった。

 1970年代になるとマヤ文字の解読が急速に進んだ。画家出身のロバートソン夫妻やイロクォイ語の専門家だったフロイド・ラウンズベリー、ナショナル・ジオグラフィック誌の編集者を両親にもちハイスクール時代に早くも重要な発見をおこなったデヴィッド・スチュアートといった多彩な研究者がくわわるが、中でも重要な仕事をしたのは南部生まれのエネルギッシュなオバサン、リンダ・シーリーだろう(彼女の残した模写や写真はメソアメリカ研究振興財団のサイトでThe Linda Shele Drawing Collectionとして公開されている)。

 研究者の交流も活発になり、1973年に開かれた第一回パレンケ円卓会議では一晩のうちにパレンケ王家の後半200年間の系図を解読するという成果をあげた。

 だがマヤ文字解読の目覚ましい成功は碑文学者と現場考古学者(コウは「穴掘り考古学者」とも呼んでいる)の間の軋轢を助長する結果となった。赤道直下の密林の中で毒虫に刺されながら発掘している現場考古学者にとっては、後から来ておいしいところだけさらっていく碑文学者を許し難いと思ったとしても不思議ではない。博士号のないリンダ・シーリーが各地で講演会を開いて喝采を博しているのも面白くなかったようだ。感情的な対立はエスカレートし、1989年に開かれたダンバート・オークス会議では碑文に書いてあることは嘘の塊で価値がないと明言するにいたった。

 驚いたことにマヤの現場考古学者はマヤ暦が読める程度でマヤ文字はほとんど読めず、マヤ語も喋れないという。発掘の下働きにはマヤの末裔のインディオを使っているだろうに。

 コウははっきりとは書いていないが、ここに働いているのも肌の茶色いインディオがマヤ文明の担い手だったことを感情的に認めたくない白人の差別意識だろう。マヤ文字の解読を阻んでいたのは白人の自意識だったのかもしれない。

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2011年07月23日

哲学の歴史 01 哲学誕生』 内田勝利編 (中央公論新社)

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 中央公論社は創業120周年を記念して2008年から『哲学の歴史』全13巻を刊行した。近年にない大規模なシリーズで2008年度の毎日出版文化賞特別賞を受賞しているが、新書に近い手軽さで読めることがわかったのでこれから一年かけて紹介していこうと思う。

 通史ではあるが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むというつきあいかたでもかまわないだろう。

 各巻は目次の後、「イメージの回廊」として地図や写真、図版が12頁にわたっておさめられている。第1巻でいうと哲学者の彫像の写真が2頁、『ニコマコス倫理学』の15世紀の写本の書影が1頁、エーゲ海をはさんで小アジアからギリシアにかけての地図が見開き2頁、ギリシア的な世界観の基本である四大元素(地・水・火・空気)関連の図版が9頁である。

 責任編集者の総論につづいて、ソクラテス以前の哲学者からアリストテレス学派まで、8章にわたって専門の研究者による各論がつづく。章の末尾には灰色の紙に印刷された数頁のコラムがつく。たとえば「ギリシア七賢人」では選ばれる顔ぶれにかなりのバリエーションがあるが、その多くは政治家であり、ギリシア人の考える叡智の原型が示されているとし、「プラトンとアトランティス伝説」ではアトランティスに関する史料はすべてプラトンにさかのぼり、プラトンの創作の可能性を否定できないと指摘した後、プラトンがアトランティスにこめた意図を忖度している。

 巻末には索引と参考文献、執筆者略歴、年表、代表的な哲学者の生没年を図示したクロノロジカル・チャートがおさめられている。参考文献は各章ごとに「原典と翻訳」と「研究文献」にわけて記載されており簡単なコメントがつく。パルメニデスの「原典と翻訳」では井上忠氏と鈴木照雄氏の著書があげられているが、コメントはこんな具合である。

 現在参看できる日本語の専門的研究書はこれら二書のみ。両書が描き出すパルメニデス像は比較することが意味をもたないほど異質である。

 こんなことを書かれたら、読みたくなってしまうではないか。

 さて、第1巻である。「総論 始まりとしてのギリシア」ではタレスからアリストテレスにいたる250年間の営みをまず次のように一筆描きする。

 もともと彼らのあいだにあっては、哲学とは何か一個の学術として固定されたものではなかった。本質をなすのは「知」それ自体ではなく、むしろ既成の知に満足することなくそれを超え出てさらなる知の高みを求めようとする意欲(ピロソピアー=知の愛求)にあった。

 次いで本巻の構成にしたがって、時代順に政治情勢をからめながら学派を紹介していくが、最後に哲学史はアリストテレスが創始したものであり、今日に伝わる断片はペリパトス学派の学説誌をソースとしていると指摘していること、実際は「より広汎な「知」の伝統が、けっして無視できない力で、哲学の形成を促してきた」ことに注意を喚起している。

 各論に移ろう。

「1 最初の哲学者たち」

 タレスとミレトス学派をあつかう。ギリシアの知の営みはオリエントの先進地域と接した小アジアのイオニア地方ではじまったが、ギリシア人は複数の先行文化に直面することによって、単に受けいれるのではなく相対化しつつ脱神話化して摂取することができたとする。

 タレスでいえば、水に着目したその思想の背後にエジプトやバビロニアで一般的だった水神創世神話があったのは確実だが、単に水の神を受けいれるのではなく、宇宙全体を水という統一的視点から把握しようというスタイルはタレス独自だったというわけだ。

 宇宙全体を統一的に把握しようとするタレスのスタイルはアナクシマンドロスやアナクシメネスという後継者をうることで確固とした知の営みとして発展していくが、ペルシアの圧力によってイオニアは衰退し、ピュタゴラスらは南イタリアに移住することになる。

「2 エレア学派と多元論者たち」

 哲学の新たな中心となったのは南イタリアのエレアで、この地で生まれたパルメニデスは初期ギリシア哲学の分水嶺となった。パルメニデスはあるものはあり、あらぬものはあらぬと同語反復のようなことを説いたが、これはあるものはずっとあり、あらぬものはずっとないということであり、あらぬものからあるものが生じることはないという変化の否定を含意している。ゼノンの有名な背理もこの変化否定の応用問題にすぎない。

 パルメニデスの命題は同語反復だけに反論のしようがない。しかし変化はある。変化をどう説明したらいいのか。

 この難題を解決するために編みだされたのがエンペドクレスの四大に「愛」と「争い」をつけくわえた宇宙論であり、万物は不生不滅の原子の組みあわせからなるとする古代原子論である。

「3 ソフィスト思潮」

 前5世紀はじめにペルシャの侵攻をスパルタとともに阻止したアテナイは政治的にも経済的にも文化的にもギリシア世界の中心となる。アテナイは成人男性市民による直接民主政で治められており、弁論術を柱とする市民教育の需要が増大した。こうしてギリシア各地から一流の知識人が集まった。

 彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術を教えるところからいかがわしいと見なされることが多かった。普通のアテナイ市民から見ればソクラテスやプラトンもソフィストの一味である。

 ソフィストは多彩な背景を持った人々であり一致した教説があったわけではないが、法律・慣習はポリスごとに異なるという相対主義では共通しており、本章ではそれを「ソフィスト思潮」と呼んでいる。

「4 ソクラテス」

 ソクラテスはペルシャ戦争勝利後のアテナイの高度成長期に青年時代をすごした。『弁明』では否定しているが、若い頃イオニア自然学にかぶれたことがあるのは確実だろうという。

 しかし40歳の頃、繁栄に酔いしれていたアテナイはスパルタとペロポネソス戦争に突入し、20年間の戦いの末に敗北することになる。同盟国は離反し、政治は混乱をきわめる。ソクラテスに対する告発と刑死はこの混乱の中で起きた。

 中年以降のソクラテスは自然学探求から離れ倫理の問題に集中するが、この方向転換の説明がクセノポンとプラトンでは異なる。この違いから「無知の知」を深めていく条が本章の読みどころだろう。

「5 小ソクラテス学派」

 ソクラテスの一面を引きついだとされるキュレネ学派、キュニコス(犬儒)学派、メガラ学派をあつかう。

 不可知論で快楽主義のキュレネ学派、芝居がかった詭弁を弄するキュニコス学派、屁理屈のメガラ学派がいずれもソクラテスから出ているとされているのは興味深い。

「6 プラトン」

 プラトンはペロポネソス戦争のさなかに生まれた。23歳の時にアテナイは全面降伏に追いこまれ、その5年後、師であるソクラテスが刑死する。プラトンも亡命を余儀なくされ、以後十年以上にわたって地中海各地を遍歴しギリシア以外の思想にふれることになる。

 40歳でアテナイにもどったプラトンはアカデメイアを創設し教育と執筆にたずさわることになる。「優れた資質をもって名家に生まれたアテナイ市民たる者が、国家公共の場から身を退いてあたかもソフィストたちが行っているような仕事に専念することは、途方もなく果敢な決断を要したはずである」とあるが、決断にいたったのは祖国の混乱と師の刑死に直面して教育の重要さに目覚めたからであろう。

 プラトンといえばイデア説だが、本章ではプラトンを懐疑主義者と見なす解釈が古来からあったと指摘している。対話篇の中ではイデア説は対立する教説の一つにすぎず、結末では決定不能に宙吊りにされる。実際、プラトンの没後、アカデメイアは古代懐疑論の中心となるが、本章の筆者はプラトンがあらゆる言説を相対化していたと見なすのは短絡だとしている。「ソクラテスの対話的活動が対話相手の思いなしを客観的な吟味の場に引き出すことを意図していたように、「対話篇」とは知と真理を客観的なものとして成立させるためのスタイルであった」というわけだ。

 『国家』が政治論として読まれ、主著と見なされるようになったのは19世紀の英国がはじまりだったという指摘は面白い。エリート政治の模範が描かれているともてはやされたが、20世紀になり社会主義やファシズムが台頭すると逆に独裁政治を正当化としてして指弾されるようになる。逆説とアイロニーに満ちた対話篇をモノローグに単純化したことからうまれた誤読である。

 『パルメニデス』以降の後期思想にかなりの紙幅をさいている点も本章の特徴だろう。最後の『法律』やオカルト好きの間で重視されている『ティマイオス』の宇宙論を紹介し、『ピレボス』では「ミレトス学派以来の「生ける宇宙」を継承・賦活せしめるとともに、より深い意味をそこに込めた」としている。

 面白いと思ったのは実践的な政治家養成を目指したイソクラテスの学校からはたいした人材が出なかったのに対し、実学とは無縁のアカデメイアから多くの政治家が出たという指摘である。アカデメイアは中断はあったにせよ900年近くつづいたのだから立派なものである。

「7 アリストテレス」

 アリストテレスはプラトンの最晩年、アカデメイアを離れて小アジアのアッソスやレスボス島で研究教育活動をおこなった後、マケドニア王フィリッポス二世からアレクサンドロスの家庭教師に招聘されている。12年後アテナイにもどるが、アカデメイアに復帰することなくリュケイオンに自分の学校を開いている。

 ディオゲネスの『哲学者列伝』にプラトンの言葉として「アリストテレスは、私を蹴飛ばして行ってしまった。まるで仔馬が生みの母親をそうするように」とあることから、アリストテレスとプラトンは不仲だったとか、実力第一なのに学頭に選ばれなかったので飛びだしたとか、いろいろなことが言われてきたが、本章の筆者はアカデメイアの施設はプラトンの個人財産だったと考えられ、プラトンの甥のスペウシッポスが相続するのが自然であり、アテナイ市民でないアリストテレスが継承する可能性は最初からなかったと指摘する。アッソス行きにしてもアカデメイア第三代学頭となるクセノクラテスが同行しており、アッソスの僭主のヘルミアスがアカデメイアと関係が深かったことから、アッソスにアカデメイアの分校が開かれた可能性があるという。

 学説についてはアリストテレスの知の区分がヨーロッパの学問の基本となっていること、論理学を支える論証以前の知の形態としてヌースを考え、ヌースは経験から帰納的に生まれるが、個別的な経験を蓄積しても普遍的な原理にはならず、知はわれわれの精神に本源的に備わっていると洞察していたことを指摘している。ヒュームからカントへという近代哲学の大転換をアリストテレスが先取りしていたということだろうか。カテゴリー論の元祖もアリストテレスである。

 生々流転する現実を考究する部門として『自然学』がある。有名な四原因説も『自然学』にあるが、『自然学』のあつかいが軽いように感じた。本書に限らず、日本では『自然学』がないがしろにされているような気がする。『動物学』よりはるかに重要だと思うが、なぜ文庫版が出ないのだろう。

 一方『魂論』(『心とは何か』という題で文庫になっている)についてはかなりつっこんだ記述がある。アリストテレスの考える魂が思考能力だけでなく、栄養摂取能力も含むことにわれわれは異和感をいだくが、それはデカルト以後の考え方にならされているからだという指摘はわかりやすい。著者は「心的活動も生命の働きの一つの発現のかたちである、というのがアリストテレスの根本的な思想である」としている。身体の変化が感覚知覚だというスピノザを先取りするような視点もあったらしく、アリストテレスの心身相関論は近年注目されているようだ。

 『形而上学』は実体論争を中心に紹介しているが、きわめて難解とだけ言っておこう。

 アリストテレスの幸福――善く生きる――とは何かを追求して倫理学という学問をはじめたが、人間の生き方は社会のあり方と不可分なのでアリストテレスの倫理学は政治学と連続していると言える。本章では政治学は倫理学との関連で論じられている。

 興味深いのは最後にとりあげられる奴隷肯定論である。本章の著者はアリストテレスは奴隷制度を自明のものとは考えていなかったし、当時の奴隷制度を無条件に肯定しているわけでもなく「戦争捕虜のようなかたちで多くの人々が奴隷とされていることへの批判」が潜在的に含まれていると弁護しているが、逆にいうと知的・身体的能力が不十分な人間は奴隷にしていいことになり薮蛇だろう。天下のアリストテレスが奴隷を認めていた事実は大きく、トドロフの『他者の記号学』によると、ほぼ2000年後の16世紀にアメリカ先住民の奴隷化の是非をめぐってもちあがったバリャドリード論争でも『政治学』の奴隷肯定論が持ちだされたということである。

「8 テオプラストスと初期ペリパトス学派」

 アリストテレスは弟子たちと散歩しながら講義をおこなったのでアリストテレス学派のことを逍遙ペリパトス学派という。ペリパトス学派は名前こそ有名だが哲学史の扱いは小さく、まったく無視したり数行で片づける本が多い。本書はこのマイナーな学派に一章をさいている。

 アリストテレスの学統はエウデモスがロードス島に開いた学園とデメトリオスがプトレマイオス朝に招聘されて作ったアレクサンドリア図書館で継承され、一世紀のアリストテレス復活を準備したとされているが、問題はリュケイオンでつづいたペリパトス学派である。

 アテナイのペリパトス学派でもっとも有名なのは第二代学頭に指名されたテオプラストスだ。テオプラストスはレスボス島出身でアカデメイアに学び、アッソス行以降アリストテレスと行動を共にしたと見られている。

 多数の本を書いたと伝えられるが、今日完全なかたちで残っているのは『植物誌』や『人さまざま』くらいしかなく、大部分は失われてしまった。

 失われた著作の中でもっとも重要なのは『自然学説誌』だろう。自分の時代までの哲学者の学説を集大成した本で、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』やアエティオスの『学説誌』、ストバイオスの『自然学抜粋集』などの種本だったとされている。テオプラストスが『自然学説誌』をまとめなかったらソクラテス以前の哲学者の断片の多くは後世に残らなかった。

 資料を重視するアリストテレスの研究スタイルはペリパトス学派に受けつがれ、数学などさまざまな分野の学説誌がまとめられたらしい。資料の取捨選択や配列はペリパトス学派の見解が軸になる。見えないかたちながら他学派にあたえた影響はすこぶる大きい。

 資料を集め事実に即して考えるという学風はアレクサンドリアで文献学を生んだが、リュケイオンでは独自学説の発展をうながした。アリストテレスの見解に異を唱えるのも自由だった。テオプラストスはアリストテレス形而上学の要である「不動の動者」を否定したと伝えられるし、論理学では様相の概念をくわえてストア派の命題論理学に近いところまでいっていたらしい。アリストテレスの『魂論』は魂を身体を統括する原理とみる立場と身体のあり方とみる立場の二つを含んでいたが、ペリパトス学派は後者に向かい、魂の存在を否定する者まで出たという。独自学説が発展した結果、ペリパトス学派の求心力が低下し学派としての存在感が薄れていったということらしい。

 アリストテレスの見解に距離をとったペリパトス学派の活動は一世紀のアリストテレス復活以降忘れられてしまったが、近年本格的な研究ははじまったそうである。今後の展開が楽しみである。

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