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2011年06月30日

『フィギュールⅡ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

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 1969年に刊行されたジュネットの第二評論集である。『フィギュールⅠ』から3年しかたっていないが、方向性がずいぶん違っている。Ⅰでは18編中12編が作品論・作家論で、6編が批評論だったが、Ⅱでは比率が逆転し作品論・作家論は10編中3編しかない。ジュネットの関心は文学作品から文学理論へはっきり移行している。Ⅲになるとこの傾向はいよいよ顕著になり、全編が文学理論集になってしまい、『ミモロジック』やテクスト論三部作のような大部の理論的著作を予告することになる。Ⅱはジュネットが自分の仕事の方向性に目ざめた時期に書かれた文章を集めている。

 冒頭におかれた「純粋批評の根拠」はチボーデ論であるが、チボーデといっても若い人はほとんど知らないだろう。ヴァレリーと同時代の批評家で日本でも『文学の生理学』や『小説の美学』は必読だったし、スタンダール論や文学史もよく読まれていたが、現在入手可能なのはマラルメ論フロベール論だけのようである。

 チボーデはベルクソン哲学に依拠しすぎたためにベルクソンが時代遅れになるとともに忘れられていった観があるが、ジュネットはチボーデがマラルメの「書物」概念にいち早く注目した点や「文学共和国」という古色蒼然たる理想がヴァレリーの作家名のない文学史という理想に共鳴したものである点を再評価するとともに、ベルクソン的語彙で語られたジャンルの理論に注目し、ベルクソンから切りはなして現代的意義を見い出そうとしている。

 チボーデ論を冒頭にもってきたり、分類癖を指摘したり、ジュネットのチボーデに対する思いいれはなみなみではない。もしかしたらヴァレリーの名声の陰になったチボーデにバルトと自分の関係を重ねているのかもしれない。

 「修辞学と教育」は現代の教育では忘れ去られた修辞学を見直そうとした論考である。

 リセの最高学年は「修辞学級」と呼ばれていたが、1902年からは「哲学学級」という呼び名に変わる。修辞学の凋落はその百年前、ロマン主義の到来からはじまっていて、国語教育が文学に支配されるようになるにつれ修辞学は影が薄くなっていった。しかし長い伝統をもつ修辞学があっさり消えることはなく、現代の作文教育にも形を変えて残っているという。

 ジュネットによれば修辞学の伝統的な三部門のうち18世紀までは「発想」が重視されていたのに対し、19世紀には「表現法」に重点が移り、現代では「配置」の問題に限定され、もっぱら「プラン」の修辞学になっている。大学入学資格バカロレアくらいではそれほどうるさくないが、最難関の高等師範学校エコール・ノルマルの受験準備クラスや、さらにもっと難しい高等教育教授資格アグレガシオンでは主題に適合した構成を出来るだけ早く見つける「プランの反射神経」が問われるそうである。

 本稿の発表年はわからないが、バルトがジュネットも勤務していた高等研究院の1968年のセミナーで古典修辞学をとりあげた(その成果は1970年に『旧修辞学』として出版される)のよりも早く書かれたと思われる。当時は構造主義ブームのまっただなかだが、バルトとジュネットがともに古典修辞学に関心を深めていたのは興味深い。

 「文学と空間」は時間芸術としてとらえられがちな文学の空間的性格を構造言語学があきらかにした言語自体の空間性、プルーストの大伽藍に比せられる作品に見られるような期待・想起・対応・対称・遠近法といった効果によって切り開かれる空間性、さらに修辞学的な文彩フィギュールによって生み出される意味論的空間という三つの視点から考察している。

 「物語の境界」と「真実らしさと動機づけ」は後の物語論につながる論考である。「物語の境界は」はミメーシスと描写、「真実らしさ……」は17世紀の読者と19世紀の読者が期待していたリアリティの違いに注目して物語とは何かを論じている。

 「昼と夜」は『ミモロジック』の詩学につながっていく論考で、初期の問題意識を知ることが出来て貴重である。

 「詩的言語と言語の詩学」はジャン・コーエンの『詩的言語の構造』(1966)の書評として書かれた文章らしい。かつては詩=韻文だったが、19世紀に散文詩が登場して韻文は詩の指標ではなくなった。コーエンは詩を散文のコードの違反と定義し、違反がどのような頻度で発生するかを時代別に統計をとった。つまりは計量文体論である。

 ジュネットは『フィクションとディクション』ではこうした文体観を批判することになるが、本稿の時点ではかなり好意的に紹介している。

 「"スタンダール"」は本書中で唯一作家論といえる文章だろう。ただし「"スタンダール"」に引用符がついているのはジュネットがスタンダールにおける固有名詞の曖昧さに注目しているからである。スタンダールは本名をアンリ・ベールといったが韜晦癖があり、書簡やノート、草稿は偽名や渾名や架空の地名や暗号だらけで考証が進んだ今日でも謎に満ちている。自分自身にこだわり、自らエゴチスムを標榜したものの、自伝的記述は虚構といりまじり、アンリ・ベールは作家スタンダールの登場人物の一人にすぎないという評言もでてくる。

 ジュネットは『赤と黒』と『パルムの僧院』の語り手の曖昧さを指摘した後、剽窃と創作の境界がいまだにわからないイタリアものの間接的描写を分析し「誰が話しているのかという一見単純なこの問いに答えることがしばしば困難となり、ときには不可能とさえなる」と結論する。スタンダールは超然とした自己を守るために尻尾をつかまれないように細心の注意を払っていたのである。

 最後のサン=タマンの長編詩『救われたモーゼ』を論じた「あるバロック的物語について」と「プルーストと間接的言語」ではジュネットは狭義の文芸批評にはほとんど興味を失っており、サン=タマンとプルーストを材料に物語論を展開しているといった方がいい。バロック的物語のいりくんだ階層構造は眩暈がしてくる。プルーストが複雑に織りあげた暗示で進む物語から間接的言語を浮かび上がらせる手際は見事の一語に尽きる。

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2011年06月29日

『フィギュールⅠ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

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 フランスの批評家は自らの批評原理をあらわす言葉を評論集の総題にすることがすくなくない。ヴァレリーの『ヴァリエテ』、サルトルの『シチュアシオン』、バルトの『エッセ・クリティック』などである。ジュネットが自分の評論集のタイトルに選んだのは『フィギュール』で現在Ⅴまで出ている(邦訳はⅢまで)。

 フィギュールには「形姿」、「数字」といった意味があるが、本書についていえば古典修辞学における「文彩」が重要である。ジュネットは随所で古典修辞学に言及しており、しかも構造主義の源泉の一つと考えているらしい。トドロフはロシア・フォルマリスムに、クリステーヴァはバフチンに依拠したが、ジュネットは古典修辞学を背景に自らの物語論やテクスト論を構築していったといえるかもしれない。

 さて第一集であるが、冒頭にフランス・バロック期の詩を論じた三篇の評論が掲げてある。これがすばらしいのだ。

 まず、サン=タマンを論じた「可逆的世界」。鳥と魚はわれわれ二次元に縛られている人間と異なり、三次元の立体空間を自由自在に進むことができる。サン=タマンは「同時に泳ぎ飛ぶ」二つの種族をシンメトリックにとらえ、水の中の世界と大気の世界がたがいに映発しあい、鱗が羽に、羽が鱗に変ずる不思議を歌う。

燃える日輪の下、私は何度となく見たのだ、
本物の飛ぶ魚が、あたかも天から落ちてくるのを。
それらは波の中で、貪欲な怪物たちに追われて、
その臆病な翼のうちに避難所を求め、
漂う松の木の中に、あらゆる方向から雨降り、
その黄金の体を甲板に撒き散らした。

 バロック詩についてはウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で熱っぽく語っていたが、確かにこれはすごい。

 次の「ナルシス・コンプレックス」ではバロック詩の偏愛する反映のテーマがバシュラールのいう「宇宙的ナルシシズム」に向かう過程を跡づけ、「黄金は鉄のもとに落ち」ではバロック的テーマの網の目がパスカルやラシーヌにも受けつがれていることを明らかにしている。

 ジュネットというとバルトの弟分で構造主義理論を器用にまとめる人くらいにしか見ていなかったが、こんなテーマ批評の傑作を書いていたのだ。もっと早く読んでおきたかった。

 バロック詩の次はプルースト論だが、登場人物が物語の進行につれて見せていく多面的な像が互いに衝突しあい、否定しあううねりがバロック詩の延長で論じられている。ジュネットの物語論はこのプルースト論が発端らしい。本格的に読んでみたくなった。

 「固定しためまい」はロブ=グリエ論である。昔読んだ時はバルトが『エッセ・クリティック』で当惑気味に語ったロブ=グリエ1とロブ=グリエ2の矛盾をうまく整理していているなと思ったが、バロック詩からの流れで読むと別の相貌が見えてくる。

 ロブ=グリエ的世界の特権的な空間である迷路は、かつてバロックの詩人たちを魅了したあの領域、差異と同一性の可逆的な記号がいってみれば厳密な混同によって結び合う、存在のとてつもない領域である。その鍵となる語はわれわれのフランス語には存在しないあの副詞であるかもしれない。……中略……その語とは、似ているけれども違ったようにという副詞である。この単調でかつ当惑をかきたてる作品群においては、空間と言語が無限の増殖によって消滅していく。ほとんど完璧にたっしているこの作品群は、まったくそれ自身のやり方で、ランボーのことばをもじって言うなら、「固定した」めまい、つまりおこると同時に消されるめまいであるのだ。

 この一節は『囚われの美女』や『グラディーヴァ』など、ロブ=グリエが監督する映画作品を予告しているといっていいだろう。1960年時点でここまで見通したのはみごとだと思う。

 「マラルメの幸福?」はジャン=ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』の書評として書かれた文章で、テーマ批評と構造批評の間に広がる深い溝を語っていて興味深い。リシャールはテーマ批評の側に残ったが、ジュネットはバルトともにこの溝を越えてゆくことになる。

 「空間と言語」はジョルジュ・マトレの『人間的空間』の書評として書かれた文章である。マトレは語彙論が専門で、同書で「共産党の方針」「将来の展望」「内面の隔たり」のような決まり文句に潜む空間的隠喩を研究しているという。ジュネットはマトレの着眼に注目し、プルーストの空間性の指摘を高く評価している。

 「羊の群れの中の蛇」ではふたたびバロック期にもどる。バロック期から古典期への変わり目にあらわれた牧歌物語『アストレ』が主題である。『アストレ』は数年前、ロメールが映画化して『我が至上の愛』という題で公開されたので必ずしもなじみのない話題ではないだろう。映画を見ていれば決して無菌無害な少女小説ではなく「世界文学全体の中で最も長大で最も愛すべきエロティックなサスペンス」だという評言もうなづける。

 「文学ユートピア」はボルヘス論で、架空の時空がなだれこんでくる「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」を中心に無限の繰りかえしの空間を論じているが、ここにもバロックの影がさしている。

 「心理分析的読み」はシャルル・モーロンの『心理批評序説』の書評として書かれた文章である。モーロンはテーマ批評と同様の方法論をとりながら、テーマ批評の内観的性格を批判して客観的な分析を標榜しているが、その揺るぎない客観性の根拠なるものは精神分析なのである。ジュネットは答えが問いの中にあらかじめ含まれていると皮肉を言っている。

 「ベルクソン的モンテーニュ」はチボーデ『モンテーニュ』の批判版の書評として書かれた文章である。チボーデはベルクソン哲学に依拠していたが、未完に終わったこの本の中でもモンテーニュを徹底してベルクソン的にとらえていて「彼の内あるすべてのものはベルクソン哲学へと向かっている」、「ベルクソンの哲学は常にモンテーニュの内に潜在している」、「モンテーニュ、忠実なベルクソン主義者」とまで書いている。

 「構造主義と文芸批評」は最も早い時期に邦訳された論文で、日本ではジュネットの名前はこれによって知られたといっていいだろう。ロシア・フォルマリスムと構造批評の関係をきれいにまとめているが、優等生的でトドロフと五十歩百歩という印象を受けた。今回読み返して、テーマ批評が作家の個性と誤認しがちな時代や慣習に属する嗜好をトポスと呼んでいるのに気づいた。

 「語と驚異」はバロック時代に活躍したイエズス会士、エチエンヌ・ビネの『驚異についての試論』を論じた文章である。至善の驚異にあらわれた造物主の業を博物学的に紹介した本らしいが、科学よりもレトリックに重きを置いていて「雄弁家の使用に供された装飾の貯蔵庫」である。「ビネは常に驚いていると言われてきたが、そうした指摘はバロック全体に当てはまろう」というわけだ。

 「記号の裏」は1964年頃に書かれたバルト論である。初期のバルトはマルクス主義者と見なされていたが、イデオロギーはバルトの本質ではないというのが本稿の趣旨のようである。

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2011年06月28日

『フィクションとディクション―ジャンル・物語論・文体』 ジェラール・ジュネット (水声社)

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 本書はジュネットがテクスト論三部作の後、1991年に出した文学論集である。表題にある「フィクション」とはもちろん虚構のことだが、「ディクション」diction とは語り方、言葉づかい、措辞をあらわす普通名詞である。

 『虚構と語り方』と訳そうと思えば訳せる本でジュネットは『アルシテクスト序説』で指摘されていた抒情詩がアリストテレスの『詩学』の基準では芸術とは見なされなかった問題に立ちもどっている。

 アリストテレスが芸術にあたえた定義は模倣ミメーシスであることだ。殺人や大災害が好きな人はめったにいないが、殺人や大災害を描いた映画や小説は多くの人に好まれる。映画や小説の中の殺人や大災害は殺人や大災害のミメーシスであって、現実の殺人や大災害ではないからだ。

 抒情詩が芸術と見なされなかったのは抒情詩の歌うものが感情のミメーシスではなく、詩人本人の真実の感情と考えられたからだ。抒情詩うんぬんなどという浮き世離れした話には興味がないという人がいるかもしれないが、ミメーシスを芸術性の基準にするならルソーの『告白』のような自伝や日本の私小説が抒情詩も芸術――文学ではなくなるのである。

 ロマン主義時代の文芸学者は抒情詩を装われた感情を歌うとしてミメーシスにとりこもうとした。確かに多くの抒情詩は誇張された感情を歌うし、自伝や私小説にも誇張はつきものだろう。しかし誇張のない抒情詩や自伝、私小説もないとはいえないし、歴史書やノンフィクション、論説、日記、書簡などが文学とされることもある。スタンダールにいたってはナポレオン法典を文学と見なしている。抒情詩や自伝、私小説、事実を語った言説を文学にとりこむにはミメーシスとは別の基準が必要になるのである。

 そこで注目されたのが語り方である。ヴァレリーは普通の言語と詩の言語の違いを歩行と舞踏の違いになぞらえた。手段は同じでも普通の言語=歩行はなにかのためにおこなうのに対し、詩の言語=舞踏はそれ自体のためにおこなわれる。ローマン・ヤコブソンが言語の六つの機能の一つとした詩的機能も同様の着眼である。普通の言語が意味をあらわす指示的機能に重きが置かれるのに対し、詩の言語はメッセージそれ自体に注意を集める詩的機能が重視されるというわけだ。

 しかし詩なら脚韻、頭韻だったり音数律をとったりすることで特別な語り方であることがはっきりわかるが、散文ではそうはいかない。形式という目印のない散文の詩的機能とはどのようなものだろうか。

 ジュネットは「フィクションとディクション」という巻頭論文では読者の受けとり方の問題という結論を出すが、これは問題提起と受けとるべきだろう。

 第二章「虚構の行為」では物語的虚構にもどり、サールの言語行為論を手がかりに虚構が虚構であるとはどういうことかを考察し、第三章「虚構的物語言説、事実的物語言説」では『物語のディスクール』と『物語の詩学』で展開した自身の物語論を再検証し物語と事実をわかつ客観的な指標がないことを確認している。

 さて最後の「文体と意味作用」である。文学作品かどうかが語り方の問題となると文体とは何かを問わなければならない。ジュネットはシャルル・バイイ、ピエール・ギロー、サルトル、ネルソン・グッドマンの文体の定義を次々に検討し、グッドマンに共感を示しながらも、「文やその諸要素のような言語に固有のミクロ構造レベルに現れる――あるいは構造よりはむしろ織物 texture のレベルに現れる――言説の形式的な属性」という無難な結論に着地する。

 泰山鳴動しての感がなくもないが、むしろ重要なのは文体を標準的な語り方からのずれ、際立たせるための特異な語り方とする根強い見方に対する批判だろう。標準からのずれという見方は文体要素が離散的にあらわれるというシュピッツァーやリファテールの文体観を結果し、文体の統計的分析に道を開くことになる。ジュネットはプルーストの文体観に依拠しながら、文体は文体事象の集合ではなく一貫した世界観によって「形を歪められた統語法」だという見方を打ちだす。

 スリジーのシンポジュウムで「神は細部に宿る」というモットーを引用した文体学者に対しジャン=ピエール・リシャールは「私ならこう言うところです、神は細部のあいだに宿ると」と切り返したというエピソードをジュネットは最後に紹介しているが、ポスト構造主義に向かったバルトに対し、あくまで構造主義にとどまったジュネットらしい締めくくりといえよう。

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2011年06月27日

『スイユ―テクストから書物へ』 ジェラール・ジュネット (水声社)

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 ミシェル・ビュトールはどこでだったか、作品はタイトルと本文という二つの要素からできていると語っている。ほとんどの場合、われわれは本文より先にタイトルでその作品を知るわけだし、タイトルいかんによって本文の意味がまったく変わってしまう作品もある。たとえば、ジョイスの『ユリシーズ』。ジョイスは刊行にあたって連載時につけていた章題を削除しており、ダブリンの一日の物語とホメロスの世界をつながりを示すものは『ユリシーズ』というタイトルしかないのだ。

 本文テクストを方向づけるのはタイトルだけではない。作者名や献辞、序文、注釈、後書等々の本文に付属するテクストもタイトルにおとらず読みを方向づけている。実際『ロリータ』につけられたジョン・レイ博士の贋の序文のように付属テクストが創作の重要な一部となっている小説はすくなくないし、『青白い炎』のように注が事実上の本文というテクストまである。

 ここまでは作者自身が書いたテクストだが、それに劣らず重要な付属テクストがある。本の見返しや裏表紙につけられた要約文や帯(いわゆる「腰巻」)に印刷された推薦文である。ほとんどの場合、われわれがタイトルの次に目にするのは物理的な本に付随した紹介なのだ。

 さらに言えば書評や紹介記事、著者のインタビューも無視できない方向づけをおこなっているし、最近は書店員がつけたポップやネット書店の素人評も本の売り上げを左右すると注目されている。

 本書は『アルシテクスト序説』、『パランプセスト』につづくジュネットのテクスト論三部作の最後の本である。ジュネットはタイトル、作者名、序文、推薦文、書評、インタビュー等々の付属テクストを「パラテクスト」と名づけ、これまでほとんど顧みられなかった領域にはじめて光をあてている。ちなみに表題の「スイユ」とは「敷居」という意味であり、本文テクストの内部と外部の境界に位置する曖昧な地帯、「玄関ホール」(ボルヘス)、テクストの「房飾り」(ルジュンヌ)である。

 ジュネットはおなじみの分類癖によりパラテクストを序文や後書、帯の推薦文のように物理的に同じ書物の中にあるペリテクストと、書評やインタビュー記事のように書物外部にあるエピテクストに二分する。

 まずペリテクストだが、献辞や前書、序文、解題等々だけでなく表紙カバーや挿画のような図像的要素、さらには書物の判型や装丁、巻末の広告も含まれるとしている。表紙や装丁、判型などは刊行者が決定するものなのでジュネットは刊行者によるペリテクストと呼んでいる。

 そんなものが重要なのかといぶかしむ人がいるかもしれないが、単行本で出るか、新書判で出るか、文庫版で出るかで読者の受けとり方が違うし、同じ文庫版でも岩波文庫で出るか岩波現代文庫で出るか、あるいは講談社文庫、講談社学術文庫、講談社文芸文庫等々で出るかで作品の立ち位置がずいぶん変わってくる。

 ジュネットは序文に多くのページをさいているが、日本なら解説について書くところだろう。日本では翻訳書には必ずと言っていいほど訳者が解説を書くし、文庫版には第三者による解説をつけるのが出版慣習となっている。

 エピテクストには著者自身によるものと、そうでないものとがある。著者自身によるエピテクストには著者インタビューや対談、座談会のように刊行に前後して公開されるものと、書簡や日記のように時間をおいて(多くの場合没後)公開されるものがある。日本ではほとんどないが、欧米では第三書の批判に対する公開反論もすくなくないという。

 著者自身によるエピテクストで重要なのは他の作品との関連である。ゾラの『居酒屋』は小説単独で読む場合と「ルーゴン=マッカール叢書」の一部として読む場合では意味あいがずいぶん変わってくる。バルザックは「人間喜劇」、フォークナーは「ヨクナパトーファ・サーガ 」という形で意識的に背景を作りだしているが、そうでない作家でも他の作品との関連は無視できない。

 ジュネットはプレイヤッド叢書に同時代の書評が収録されている例をあげてエピテクストがペリテクストに変わる可能性を指摘しているが、電子書籍時代をむかえてエピテクストとペリテクストの境界自体が揺らいでいる。電子書籍を読みながらオンライン辞書を引いたとしたら、辞書の記述はエピテクストだろうかペリテクストだろうか。引用文とリンクの違いは比較的はっきりしているが、注の引照とリンクの違いとなると途端に曖昧になる。紙の書物の帯についた推薦文はネット書店の画像ではほとんど判読不能である一方、素人評は有名人の推薦文以上の影響力をふるう場合もすくなくない。ネット書店の素人評はペリテクストだろうかエピテクストだろうか。

 原著は1987年の刊行なので電子書籍はまったく考慮されていないが、書物の輪郭が揺らぎ、ぼやけている現在、著者の開拓したパラテクストという視点はいよいよ重要性を増している。われわれは今や電子書籍時代のパラテクストを考察すべき段階に来ている。

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2011年06月26日

『パランプセスト―第二次の文学』 ジェラール・ジュネット (水声社)

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 『アルシテクスト序説』にはじまるテクスト論三部作の第二作で、文学テクストの相互関係を論じている。ジュネットは文学テクストの関係を五つの類型に分類している。

1 相互テクスト性(intertextualité)

引用、剽窃、暗示のように他のテクストの一部が逐語的に存在している場合(クリステヴァの間テクスト性と言葉は同じだが内容は異なる)

2 パラテクスト(paratexte)

表題、副題、章題、序文、後書、前書、傍注、脚注、後注、エピグラフ、挿絵、帯、表紙等々、本文に付随するテクスト

3 メタテクスト性(métatextualité)

引用することなしに他のテクストを批評したり注釈したりする場合

4 イペルテクスト/イポテクスト(hypertexte / hypotexte)

後続テクストと先行テクストの関係

5 アルシテクスト性(architextualité)

『アルシテクスト序説』で論じられたジャンルの帰属関係

 本書が主題とするのは四番目のイペルテクスト/イポテクストの関係だが、この対になる語は表題のパランプセストに由来する。

 パランプセストとは再利用された羊皮紙をいう。羊皮紙は貴重品だったので、前の文書のインクを削りとって次の文書を重ね書きするということがよくおこなわれたが、前の文書は完全には消えず、肉眼でも判読できる場合が多かった(光学処理をすれば前の前の文書やその前の文書も判読できる)。ジュネットは文学テクストの相互関係を羊皮紙の重ね書きになぞらえ、先行するテクストを下層イポテクスト、後続のテクストを上層イペルテクストと呼んでいる。たとえば『アエネーイス』と『ユリシーズ』はともに『オデュッセイア』から生まれたイペルテクストであり、『オデュッセイア』は『アエネーイス』と『ユリシーズ』の共通のイポテクストだというように。

(イペルテクストは英語読みすればハイパーテクストだが、インターネット的な意味合いはなく単にテクストの先後関係を意味するにすぎない。パランプセストも同様でデリダがあたえたような深遠な意味あいとはまったく無関係である。)

 イペルテクストは先行するイポテクストの何らかの特徴を受け継ぐ。つまり広い意味での模倣である。ジュネットは『ミモロジック』で現実を模倣する言語を論じたが、本書ではテクストを模倣するテクストを考察しているのである。ミモテクストやミメチスムという造語も登場する。

 ジュネットは広義の模倣に翻訳や翻案、脚色、改作、要約も含め、対象となる作品を映画や演劇などにも広げ、『カサブランカ』とそのパロディであるウッディ・アレンの『ボギー!俺も男だ』、『ハムレット』とその脇役を主人公にした『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の関係まで俎上に載せている。

 広義の模倣は似せることに力点を置いた狭い意味での模倣と、ずらすことに力点を置いた変形にわかれる。本書は80章からなるが、39章までが模倣、40章以降が変形となる。

 先行テクストの何を模倣するのか、変形するのかも問題となる。大きくわけると文体か、内容かになるが、特定作品・作家の模倣・変形と、傾向の模倣・変形がある。傾向の模倣・変形の場合、先行テクストがはっきりしないこともある。騎士道小説を模倣した『ドン・キホーテ』のようなケースである。特定作家を模倣・変形する場合には自分自身を模倣・変形する場合も含まれる。通常、自己模倣というと悪い意味になるが、ジュネットが例に上げているのはプルーストとジョイスである。『ドン・キホーテ』第二部は第一部が世に広く知られているという事実を織りこんで書かれているので、自分自身の模倣という面をもつ。

 ジュネットは分類の網の目をどんどん細分化していき、恐るべき博識によって空欄を埋めていく。要約とダイジェストが違うといわれてもピンと来ないが、要約は多かれ少なかれ注釈の面をもちメタテクスト的であるのに対し、ダイジェストは先行テクストとの関係についてふれないのでメタテクスト性をもたないとして、メアリーとチャールズのラム姉弟による『シェイクスピア物語』を例にあげている。『シェイクスピア物語』を位置づけるにはこうした枠組が必要なのである。

 オーソドックスな文学史や伝記では脚注で片づけられる話題がかなりの紙幅をとってとりあげられているのも本書の魅力だ。ランボーの「魂の狩り」という題名だけ伝わる失われた作品の偽作があらわれ、フランス文壇を騒がせたという話は有名だが、その詳しい経緯を本書ではじめて知った(なんとNHKのフランス語講座を担当していたあるニコラ・バタイユ氏が偽作の犯人だった!)。ヴァレリーのもとに「海辺の墓地」をわかりやすく書き直してもちこんだファンがいたという話を読んだことがあったが、その実物にもお目にかかることができた。

 クリステヴァの間テクスト性理論の哲学的アクロバットと較べると地味だが、ジュネットのテクスト理論は二千五百年になんなんとする人類の文学の歴史の核心にあるテクストからテクストを作るという営みにさまざまな角度からくまなく光を当てており最後には圧倒される。テクスト論に関心のある人にとっては必読の書であろう。


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