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2011年05月30日

『アルシテクスト序説』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

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 ジュネットのテクスト論三部作の最初の本で、アルシテクストとはテクストの原型というほどの意味である。ジュネットは文学テクストの原型がいくつあり、文学の場がどのように分割されるかを論じている。つまりはジャンル論ということになるが、ジュネットの枚挙主義の意義はわかりにくいかもしれないので「構造主義と文学批評」の一節を引いておこう。ジュネットは子供の言葉の習得が単に語彙が増えることによってではなく、語彙の内的分割――細分化によっておこなわれると指摘し、文学も同じだと言っている。

 つまりそれぞれの段階で子供が用いる幾つかの語は、彼にとってことば全体であり、彼はそれらを用いてあらゆる事物を、徐々に正確にではあるが、不足なく指すのである。同様に一冊の書物しか読んだことのない人にとっては、その書物が語の本来の意味で彼の「文学」のすべてであり、彼が二冊読んだ時にはその二冊の書物が彼の文学場全体をいかなる隙間もなく分割することになり、以下同じように続いてゆく。そしてまさに文学が埋めるべき隙間を持たないからこそ教養は豊かになることが出来るのである。

 クノーはすべての文学は『イリアス』か『オデュッセイア』のどちらかだと述べたそうだが、その場合、『イリアス』と『オデュッセイア』がアルシテクストということになり、文学全体は『イリアス』型と『オデュッセイア』型の二つのジャンルに分割されることになる。ジュネットのテクスト論はこうした分割を精密化していくことによって展開される。

 本書にもどろう。文学ジャンルの研究をはじめておこなったのはアリストテレスの『詩学』で、多くの本ではアリストテレスは文学を抒情形式、叙事形式、劇形式の三つにわけ、悲劇を文学最高のジャンルとしたとあるが、ジュネットはそれは誤りだと指摘する。抒情詩は模倣ミメシスではなく自分の感情を吐露するだけなのでアリストテレスは抒情詩を劇形式や叙事詩と並ぶ文学ジャンルとしては認めておらず、失われた後半部分で語られていたはずもないというのだ。同様の錯覚にはノースロップ・フライ、スコールズ、トドロフ、そしてバフチンまで陥っているというのだから穏やかではない。

 ジュネットによれば抒情詩無視はアリストテレスの学統をついだヘレニズム期のアレクサンドリア学派においても踏襲されていた。自身が抒情詩人だったホラティウスの『詩法』(岩波文庫の『詩学』に併録)もホメロス賛辞と劇詩形式の解説にとどまり、抒情詩についてはふれていない。抒情詩を最初に文学として認めたのは4世紀のディオメデスだった。ディオメデスはプラトンの三様式説(「詩人だけが語る」「交互に語る」「登場人物だけが語る」)をもとに、以下の三つのジャンルを立てている。

  1. 登場人物だけが語る劇的ジャンル(悲劇、喜劇、諷刺劇)
  2. 詩人だけが語る物語的ジャンル(物語、格言詩、教訓詩)
  3. 詩人と登場人物が交互に語る混合的ジャンル(叙事詩、抒情詩)

 ディオメデスのジャンル論は中世末期において一度復活するが、抒情形式、叙事形式、劇形式という三分法が一般化するのは19世紀のロマン派の時代を待たなければならない。三分法についてはじめて語ったのはアウグスト・シュレーゲルで1801年頃のことだという。

 叙事的、抒情的、劇的――テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。軽やかな濃密さ、強烈な特異性、調和的な全体性……叙事的なものとは、人間精神における純粋の客観性である。抒情的なものとは、純粋の主観性である。そして劇的なものは、その両者の相互的浸透なのだ。

 ヘーゲルは『美学』でシュレーゲルのジャンルわけを踏襲し、まず「ある民族の素朴な意識」の表現である叙事詩が誕生し、「個人的自我が民族から分離した時」に抒情詩が生まれるとしている。劇形式の成立はその後で、「叙事詩と抒情詩をとりまとめて客観的展開を含む新たな全体を形成」する。すなわち叙事詩-抒情詩-劇詩という順である。

 この順番を抒情詩-叙事詩-劇詩という形にあらためたのはシェリングである。シェリングは『芸術の哲学』において主観的な抒情的叫びが時代の進展とともにしだいに客観性を獲得していくという発展説を述べた。

  1. 原初の時代の表現である抒情詩(「人間は生まれたばかりの世界で目覚める」)
  2. 「すべてが停止し固定する」古代の表現である叙事詩(ギリシア悲劇も含む)
  3. キリスト教精神と魂と肉体の断絶を特徴とする時代の表現である劇形式

 この発展説が流布し現在にいたっている。ジョイスの『若い芸術家の肖像』のジャンル論もシェリング説を踏襲している。

 では文学ジャンルはどうわけるべきか。ジュネットはロマン派の歪曲を払拭してアリストテレスの分類から再出発すべきだとする。アリストテレスは様式が劇的であるか、叙事的であるか、対象がすぐれた人物であるか、劣った人物であるかという二つの基準で分類した。図式化するとこうである。

様式
劇的 物語的

すぐれた人物 悲劇 叙事詩
劣った人物 喜劇 パローディアー(滑稽叙事詩)

 近代における代表的ジャンルとなった小説は劣った人物を叙事的に語る滑稽叙事詩パローディアーの後継ジャンルということになる。

 ジュネットは最後に韻文と散文という様式の軸を導入し、八分割の立体構造を提唱し、長らく空白だった滑稽叙事詩の散文版の場所を近代にいたって誕生した小説が埋めたとしている。テクスト論を集大成したとされるジュネットの三部作の最初の巻だけに構えの大きい堂々としたはじまりである。

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2011年05月29日

『ミモロジック―言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

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 井上ひさしの『私家版 日本語文法』に「n音の問題」というおもしろい説が出てくる。英語のNo、not、フランス語のNon、ne、ドイツ語のNein、nichit、日本語の「ぬ」、「ない」のように否定や拒絶の表現はなぜか n音が担うことが多いが、これは n音が唇を閉じたり、舌を歯の裏に持ちあげて口腔を閉鎖し、呼気を外に出さないことによって生じる子音だからなのだという。口腔閉鎖→心の閉鎖というわけだ。

 井上は英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ヨーロッパ諸語の共通点を洗いだして作られたエスペラント語と範囲を広げていくが、当てはまらない言語も多いと指摘し、日本語とインド・ヨーロッパ語族の一部の語派の間の偶然の一致とおさめている(ウェイドの『5万年前』によるとジョーゼフ・グリーンバーグはインド・ヨーロッパ語族とアルタイ諸語などを包括したユーラシア大語族説を想定し、この大語族ではnが否定、kが疑問をあらわすとしているということなので、もしかしたら偶然の一致ではないのかもしれない)。

 現代の言語学は音と意味の間につながりはないとする恣意性の原理を大前提にしており、「n音の問題」のような心理的語源論はすべて錯覚ということになる。

 しかしそうはいっても妹の死を悼んだ宮澤賢治の『無声慟哭』には2行に1個という高頻度でn音が出現するのに対し、「雨ニモマケズ」には30行に7個しか出現しないという井上の論旨は妙に生々しく感じられる。われわれは音と意味の間には必然的なつながりがあるという思いこみをもっているらしい。

 ジェラール・ジュネットは言葉は物のありようを反映するように形成されたとする立場を言語的模倣主義ミモロジスムと名づけ、この思いこみこそが詩人の霊感の源となってきたとして夢想の言語学というべきミモロジスム2500年間の歴史を跡づけている。

 ミモロジスムの嚆矢はプラトンの『クラテュロス』だが、同時に反ミモロジスムの発端でもある。ソクラテスはこの対話篇で物の名は物の本性を反映した物だとするクラテュロスと対話するだけでなく、物の名は本性とは無関係に慣習によって決まるとするヘルモゲネスとも対話しているからだ。

 現実が一つである以上、物の本性を完璧に反映した言語はただ一つしかないが、ヘルモゲネスは複数の言語があるという相対主義によって唯一真性の言語という主張に反対する。

 プラトンはソクラテスにヘルモゲネスとクラテュロスの双方をやりこめさせ、どちらが正しいとも決めずに対話篇を終えている。プラトンはヘルモゲネスとクラテュロスどちらの立場をよしとしたのか古来論議になっており、現代の註釈者はクラテュロスの背後にヘラクレイトスを見ているということだが、ジュネットはソクラテスがクラテュロスに反対しているのはすべての物が正しい名をもっているとする点であって、物は本性を反映した正しい名で名づけられるべきだとするクラテュロスの価値観自体は否定していないことに注目する。現実の言語が物の本性を十分反映していないなら、より反映するように言語を変えようという立場がありうるだろう。物と言語の間にズレがあるのはミモロジスムが間違っているのではなく、現実の言語の方に欠陥があるからだというわけだ。ジュネットはそのような立場を第二次ミモロジスムと名づけ、本書の後半で詩学の根本原理として考察していくことになる。『クラテュロス』はミモロジスムと反ミモロジスムのみならず、第二次ミモロジスムを先取りしている点で夢想の言語史の発端に位置するテキストなのである。

 ミモロジスムの夢想というか妄想は単語のレベル、音素のレベル、文字表記のレベルで展開され、あきれるような話が次々と出てくるが、一番驚いたのは語順のレベルのミモロジスムで、これは新旧論争に係わっていた。

 古代崇拝のルネサンスが終わり本格的に近代がはじまると、近代人は古代人に匹敵するのではないか、いや近代人の方がすぐれているのではないかという主張が生まれ、古代人の方がすぐれているとする古代派との間に論争が起こった。言語においてはフランス語とラテン語の優劣論争が起り、その過程でフランス語はもっとも明晰な言語だというフランス語至上主義が確立していったが、争点となったのは語順だったのである。

 ラテン語は語尾の屈折によって文法的地位をあらわすので語順は自由だが、フランス語は動詞以外の屈折をほとんど失い、「主語-動詞-目的語」のように語順で文法的地位をあらわすので語順が固定されている。

 近代派の論者はフランス語の語順こそが思考の自然を反映したものだと主張する。語順的ミモロジスムである。ラテン語の学習では漢文の読み下しのようにラテン語の文をフランス語の語順に並べかえることもおこなわれていて、これを「構成する」と称した。そしてローマ人もフランス人と同じ語順で思考していたと決めつけ、「フランス人は自分たちが思考するとおりに話すが、ローマ人は思考するのとは別様に話す」とか「キケロ、そしてあらゆるローマ人はラテン語で話す前にフランス語で思考していた」などと称していた。ベイカーの『言語のレシピ』によれば「主語-動詞-目的語」型の言語は全世界の6000の言語のうち2500ほどしかなく、普遍的でもなんでもない。フランス語の明晰性とはこういう妄想が根拠だったのである。

 インド・ヨーロッパ語族が発見され比較言語学が確立するとただ一つの完全な言語というミモロジスムの大前提が説得力を失い、学問の場面からはミモロジスムは姿を消す。代わりに台頭してきたのが民族精神である。言葉は現実を模倣しているかどうかではなく、民族精神を反映しているかどうかが問われるようになったのだ。

 一方、文学の世界ではミモロジスムは生き残り、詩学を陰に陽に支配しつづける。近代への橋渡し役となったのはマラルメだが、マラルメのミモロジスムに対する係わりは素朴な面と意識的な面がある。

 まず素朴な面である。高校リセの英語教師として生計をたてていたマラルメは『英語の単語』という学習参考書を出版しているが、同書には参考書らしからぬ以下のような夢想が書きつらねられていた。

  • bは大きさないし丸さを意味する。
  • pは積み重ね、停滞、ときには激しく明確な行為をあらわす。
  • fは強くしっかりとした締めつけをあらわす。flは飛翔を、またそこから修辞的な転位によって光、流れをあらわす。frは戦いないし遠ざかることをあらわす。
  • gは欲望をあらわす。glは満たされた欲望を、またそこから喜び、光、滑らかさ、増大をあらわす。grは欲望された対象の獲得、押しつぶすことをあらわす。

 自然発生的なミモロジスムをそのまま信じこんでいるのである。こんな参考書で勉強したら試験に落ちること請けあいだが、クリステヴァは『詩的言語の革命』第二部で『英語の単語』を解読格子にして「散文 デ・ゼッサントのために」の音素レベルでの解読をおこなった。ジュネットはクリステヴァとは名指さないものの「マラルメの詩編に『英語の単語』で述べられた象徴的な諸価値を当てはめようとすることほど、彼の「無意識下の」詩学に反することはない」とその種の試みを斥けている。

 一方、「詩の危機」では言葉は対象を反映してほしいが、まったくそうなっていないと不満を書きつけている。

 矛盾したことに、jour(昼)に暗い響きが、nuit(夜)に明るい響きが当てられているという倒錯には、まったく失意を禁じ得ない。輝きをあらわす言葉にはきらめいたものであって欲しいし、逆の場合にはくすんだものであって欲しい。少なくとも明暗の単純な交替に関してはそう願いたい。ただしもしそのとおりになったならば、詩句は存在しなくなるであろうということを認識しておく必要がある。詩句は言語の欠陥を哲学的に補う高次の補完なのだ。

 マラルメは自然発生的なミモロジスムが成立しないなら、人工的なミモロジスムを詩人の技として実現しようと呼びかける。暗いひびきのjourという語を詩句の中で明るく輝かせることがマラルメの考える詩作であり、宇宙を再創造する詩人の使命なのだ。これはまさしく最初にふれた第二次ミモロジスムである。

 マラルメの忠実な弟子であるヴァレリーは第二次ミモロジスムを発展させて理知的な詩学を構築したが、もう一人の弟子であるクローデルは外交官として赴任した中国と日本で漢字にふれた影響か、18世紀の文字表記の素朴ミモロジスムに先祖返りしてしまう。eau(水)とhaut(高い)、mon(わたしの)とmont(山)は発音は全く同じだが、綴りを見れば意味がわかるというわけだ。クローデルはランボーの「母音」を手がかりにアルファベットの形状と子音の意味の関係を考察し、vie(生命)について「vは二つの電極の出会いであり、iは散る火花であり、eは存在を自分自身から汲むものである」と、マラルメの『英語の単語』をもしのぐ奔放な夢想を展開し、ミシェル・レリスらシュルレアリストに霊感をあたえる。

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