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2011年04月26日

『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』 箕輪成男 (出版ニュース社)
『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』 箕輪成男 (出版ニュース社)

近世ヨーロッパの書籍業
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中世ヨーロッパの書物
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 著者の箕輪成男氏は東京大学出版会をへて国連大学、愛知学院大学、神奈川大学などで教鞭をとった人で、日本出版学会会長、国際学術出版協会会長を歴任しておられる。ヨーロッパの出版史について『パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち』、『紙と羊皮紙―写本の社会史』、『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』、『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』の四部作を上梓しておられ、類書のすくない分野なので読んだ方も多いと思う。

 わたしは当初四部作を全部読むつもりで、まずグーテンベルクをあつかった『近世ヨーロッパの書籍業』を手にとった。最終巻だからか話はあちこちに飛んでとまどったが、14世紀から15世紀にかけてのロンドンの書籍商の数の推移とか、北イングランドの遺言の調査による本の分野別冊数、英国に現存する236点の写本の装飾の有る無しを分野別で調査した表など興味深い統計がたくさん紹介されている。統計だけでも本書は買う価値があるかもしれない。

 ただし歴史叙述となると首をかしげる箇所がすくなくなかった。著者のグーテンベルク評価は著しく低く、裁判関係の史料しか残っていないことをもって「人間関係がうまくいかない心の狭い人」としている。確かにしょっちゅう裁判沙汰になっていたような印象があるが、数字で同時代人と比較しないと説得力はうまれないのではないか。

 またグーテンベルク聖書の仕上がりの検討もなしに「技術は大したことはなく」、「印刷技術のオタクにもなれず、経営者にもなりきれない、融通のきかない貴族家系につながる夢想家にすぎなかった」と断定するのはいかがなものか。わたしが読んだ範囲ではグーテンベルクは偏執狂的に技術にこだわって採算を度外視するようになったために出資者のフストが不安になり、資金の回収という強硬手段に出たという見方の方が多かった。

 箕輪氏は活版印刷の誕生に係わったグーテンベルク、フスト、シェッファーの三人はユダヤ人だったとされている。箕輪氏は書いている。

 もうひとつ勝手な妄想を許してもらえば、グーテンベルクとユダヤ人の関係がある。ディアスポーラで西欧各地に流れたユダヤ人は不安定な社会的立場から農地入手は魅力的でないため、医者、法律家など知的職業人や商人・金貸しになった。手工業に従った者も多く、金属細工はそのひとつだった。彼らは差別的にそれとわかる苗字を与えられた。印刷・出版史書に書かれていないようだが、上記のシェッファーは間違いなくユダヤ人だろう。シェッファーと綴っているが、シッファー・船頭である。筆写の国連大学時代の同僚にこの名前をもつユダヤ人がいた。そう考えるとグーテンベルクもまたユダヤ的な名前だ。「よい山」だ。これは住んだ屋敷の名前というが、それこそユダヤ人の住みついた町、区域だったのではないか。しかも金属加工はユダヤ人の得意とした稼業である。一方の登場人物フストは銀行家とあるが、宗教上利子をとれないキリスト教国でユダヤ人が金貸し業を営んだことは周知の事実であり、それを今風にいえば銀行家ということになる。

 シェッファーについては材料をもっていないが(わたしの知る限りではシェッファーをユダヤ人と決めつけているのは箕輪氏だけである)、すくなくともグーテンベルクとフストについてはユダヤ人説は無理があると思う。

 まずフストであるが、箕輪氏はフストは銀行家であり、キリスト教徒に許されていないとされる利子をとったことからユダヤ人としている。

 だがジョン・マンの『グーテンベルクの時代』によればフストは鍛冶屋ギルドの親方であり、本業のかたわら写本流通を手がけていた。弟のヤーコプはマインツ市議会の議員兼出納役という名士である。フストが金貸しをしていたかどうかだが、グーテンベルクとフストの裁判については「ヘルマスベルガー法律文書」という一級史料が残っており、富田修二氏の『グーテンベルク聖書』の65ページから71ページにかけて全訳が掲出されているのでそこから引こう。

 彼(フスト)はいずれにせよ、グーテンベルクを満足させることを望み、上記の八〇〇グルデンに追加してさらに新たな八〇〇グルデンを、その義務がないにもかかわらず彼のために借り入れたのであった。またそのため彼は、グーテンベルクのために借り入れた新たな八〇〇グルデンに対する利息として、一四〇グルデンを払わねばならなくなったのだ。そして、上記のヨハン・グーテンベルクは、上記の文書において、彼に対し最初の八〇〇グルデンについて一〇〇グルデン当たり六グルデンを利息として払うと誓ったにもかかわらず、それに続くいかなる年にもこれを支払わなかったため、彼(フスト)は自らそれを支払わざるを得なくなり、その金額は、低く見積もって二五〇グルデンに達したのである。ヨハン・グーテンベルクはその利息、すなわち、最初の八〇〇グルデンに対する利息の支払い、またそれに続く追加の八〇〇グルデンに対する利息もまったく決済しなかった。そこでフストは、さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の間でその利息額を募り、低くみても三六グルデンを払いきらねばならなかった。これで、元金との合計額は約二〇二〇グルデンに上る。そこでフストは、グーテンベルクに対し、事態の収拾とフストの損害に対してその時点での全額を払うことを要求する。(富田修二訳)

 フストは1600グルデンを自己資金で用立てることができず、借金してグーテンベルクに提供していたのである(自己資金がまったくなかったかどうかについては議論があるようだ)。1600グルデンはジョン・マンによれば30万ドル(約2500万円)、箕輪氏によれば3200万円に相当する。この程度の金額を借金するようでは金貸しはできないだろうし、銀行家であろうはずはない。

 他から借金したという申し立ては利息をとったことの言い訳だとする見方もあるが、そうだとしたらユダヤ人説の反証となる。ユダヤ人なら利息をとるのに言い訳は必要ないからだ。

 グーテンベルクであるが、箕輪氏は「グーテンベルクの歴史において「ユダヤ」「ユダヤ人」のひとことも出てこないのはむしろ不自然で、作為を感じる」と書いておられるが、はたしてそうだろうか。グーテンベルクという苗字のもとになったグーテンベルク邸は最初は「ユーデンベルク」(ユダヤ人の丘)と呼ばれておりユダヤ人が所有していた。ところが1282年にマインツで起きたユダヤ人追放で大司教出納役の所有になってグーテンベルク邸に改められ、その後われらがヨーハンの玄父フリロが購入したという経緯がある。ゲンスフライシュ(鵞鳥の肉)という別の苗字や巡礼者をかたどった家紋についてもジョン・マンの本に考証があるので興味のある方は御覧になるとよい。

 箕輪氏はグーテンベルク家は金属細工の技術をもち貨幣鋳造に係わっていたからユダヤ人だとしておられるが、貨幣鋳造はマインツの都市貴族に許された特権だったから、そんなことをいったらマインツの都市貴族はみなユダヤ人ということになってしまう。

 箕輪氏はグーテンベルク聖書の功績はシェッファーに帰せられるべきでグーテンベルクは何もしていないと述べておられるが、よりどころとしているのは1970年代の本でハイテクによる最近の研究は参照していないようだ。

 箕輪氏はグーテンベルクが活版印刷術の発明者だという定説についても「疑問だらけ」とされている。

 グーテンベルクはその後有名になったためその印刷技術創始者としての地位を確かにしているかに見えるが、事実はそれほど単純ではなさそうだ。印刷創始者としてはグーテンベルクの他に例えばオランダ・ハーレムのローレンス・ヤンゾーン・コスターなど何人もの人がノミネートされており、一八世紀から始祖争いの論争が続いている。対抗馬の方の根拠とする証拠がこれまた乏しいために、グーテンベルクのほうが優勢だが、実は疑問だらけである。

 箕輪氏が真の発明者の候補としているローレンス(ラウレンス)・コスターについては富山修二氏は「彼の架空の業績の偽りの詳細が、まったく議論の余地もないほど反証されたのはこの一〇年のことである」として『グーテンベルク聖書の行方』209ページ以降に詳述している。興味のある方はそちらを見られたい。

 次に『中世ヨーロッパの書物』であるが、アイゼンステインの『印刷革命』を批判して写本文化と印刷文化の連続性に注目した狙いは重要であるが、アイゼンステインはそんなに単純な議論はしていないと思う。

 本筋とは関係ないが、イエスを「文盲」としたりキリスト教の教父を仏典の伝訳者に相当するとして長々と比較論を述べるのはいかがかと思う。福音書を読めばわかるようにイエスは文盲であるわけがないし、仏教で教父に相当するのは龍樹や世親のような論師と呼ばれた理論家であって、伝訳者をもってくるのは無理がありすぎるだろう。

 最初は四部作全部を読むつもりだったが、わたしは二冊で読むのをやめた。出版社の経営にかかわった人の書いた出版史として興味深い視点も見られるが、読むには批判精神が必要な本だと思われる。

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