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2011年04月23日

『ルネサンスの活字本―活字、挿絵、装飾についての三講演』 ゴールドシュミット (国文社)

ルネサンスの活字本 →bookwebで購入

 活版印刷術の登場によって写本の時代は終わったが、二千年以上つづいた写本の文化は一朝にして廃れたわけではなかった。最初の五十年間、揺籃期本インキュナブラの時代には依然として写本の方が格が高く、活字本は写本を真似ようとしていた。グーテンベルク聖書は未製本のまま葡萄酒の空樽にいれて運ばれ、写本の装飾職人によって朱文字や飾り文字、装飾が描きこまれてから製本されたが、揺籃期本の多くは同じ工程をへて完成した。わざわざ活字本を筆写して写本を作るなどということもおこなわれていた。

 写本から活字本への交代は一筋縄ではいかないが、本書はこのひと捻りもふた捻りもある歴史を活字、挿絵、装飾という三つの視点から概観している。著者のゴールドシュミットは書誌学者として知られるが、ケンブリッジ大学卒業後、大学には残らずロンドンで稀覯本専門の古書肆を営んだ人で、彼の編纂したカタログは現在でも重要な資料となっているという。本書は1947年から48年にかけてアメリカに招かれたおりにおこなった一般向けの講演がもとになっている。写本や揺籃期本に囲まれて生活している人だけに平明な語り口ながら書巻の気が悠々迫らぬ風格を生んでいる。

 印刷の歴史がねじれた理由の一つは活版印刷術がルネサンスの本場であるイタリアではなく、中世の遺風の残るドイツで誕生したことにあるだろう。しかも活版印刷術という新しい革袋を最初に満たしたのはウルガタ聖書という古い酒だった。グーテンベルクが最初の活字の書体として針のように尖った中世そのままのゴシック体を選んだのは偶然ではなかったのである。

 イタリアの人文主義者は写字生の使うゴツゴツしたゴシック体を無知蒙昧と唾棄し(野卑ゴシックという呼び方がそもそも蔑称だった)、古代ローマの碑銘に範をとった丸みをおびて優雅なローマン体を好んだ。ローマン体は人文主義書体と呼ばれ、古典古代の本をローマン体で筆写して写本を作ることは真の修辞学や詩に捧げられる敬虔な行為と見なされ、ローマン体を美しく書く能書術カリグラフィーは上流階級のたしなみとされた。15世紀前半は写本芸術が最後の花を咲かせた時代であり、文芸の保護者を任ずる王侯貴族は自邸内に能書家を集め豪華な写本を作らせた。

 そこに活版印刷術が闖入してきたのである。ゴールドシュミットは書いている。

 しかし、活版印刷技術が一四五〇年頃発明されたので、人文主義書体で書かれた美しい写本を所有する流行は短命に終わらざるを得なかった。もっとも、人文主義書体で筆写されたルネサンスの写本芸術が続く限り、本当に熱狂的な写本愛好家はいかなる印刷本も所有することを拒んだという。というのも、彼らはそれらの刊本が、写本を模倣した安っぽくて、劣悪な代用品だと考えていたからである。彼らはむしろ、印刷本を美しい手書きの書体で筆写した写本のほうに喜んで大金を投じようとすらしたが、そのせいか、そうした写本はかなりの部数が残されている。

 グーテンベルク聖書から十年ほどたった1467年、人文主義者でもある教皇パウルス二世の庇護のもとローマにドイツ人の印刷職人が招聘され、ギリシア・ローマの古典の印刷をはじめるが、彼らがまずおこなったのはローマン体活字を鋳造することだった。ローマにつづいてヴェネツィアやミラノでも活版印刷がはじまったが、そのいずれもがローマン体活字を使った。

 ところが人文主義的な著作を買う人は限られていたのでたちまち供給過剰におちいり、多くの印刷所が閉鎖された。生きのびた印刷所は中世の延長で需要の見こめる宗教書や法律書に活路をもとめ、市場にあわせてゴシック体活字に転向した。

 ローマン体活字からゴシック活字への転向という迂路はパリでもくりかえされた。パリは世界屈指の大学があり大量の書籍需要が見こめたが、「福音書記者聖ヨハネ職業組合」という写字生の強力なギルドが頑張っていたために活版印刷の進出が遅れていた。1470年、パリ大学の有力な人文主義者二人がパトロンとなり、バーゼルから三人の印刷職人を招聘し、治外法権であるパリ大学学寮内に秘密に印刷所を設け、キケロのような古典やピウス二世の人文主義的な著作などをローマン体活字で次々と出版させた。ところが2年後パトロンがローマに去ったために印刷職人は自力で市場を開拓しなければならなくなり、神学書や祈祷書の出版に転じた。最初はローマン体活字を使ったが、ゴシック体活字に切り換えてからは好評を博し、他の業者も参入して一大出版都市となった。

 こうしてローマン体活字は一時の流行として消えさるかに見えたが、16世紀にはいると人文主義が最終的に勝利しローマン体活字が復活をとげたという。書体にこんなドラマがあったとは知らなかった。

 次は挿絵であるが、これも中世の写本文化に淵源している。14世紀のゴシック期のフランスでは騎士道物語が流行し、ロマンスの情景を活写した細密画を多数あしらった豪奢な装飾写本が作られた。騎士道物語はイタリアや英国、フランドルでももてはやされたが、言語はつねにフランス語だった。中でも15世紀に繁栄の頂点をむかえたブルゴーニュ公国では立派な装飾写本が製作され、ブルゴーニュ様式というべきスタイルが生まれた。

 活版印刷発明後20年ほどすると活版に木版画を組みこむ技術が開発され、挿絵いりの本が1493年に学生向けのラテン語読本に挿画が使われるまではすべて俗語の本に限られていた。ギリシア・ローマの古典を尊ぶ人文主義者は挿画いりの本を無学な読者向けと馬鹿にしていたからである。

 1480年代にはいると騎士道物語を読んでいた貴婦人たちがギリシア・ローマの古典を読みたいと望むようになり、俗語訳が盛んに出版されるようになった。古典の俗語訳には挿画がはいったが、ギリシア・ローマの英雄たちが15世紀の衣装で描かれ、またしても人文主義者の失笑を買った。人文主義者は遺跡で発掘された彫刻からギリシア・ローマの風俗に通じていたが、時代考証にそった挿画が描かれるようになるには16世紀を待たなければならなかった。

 人文主義者は挿画は馬鹿にしたものの、絵を本にいれることをすべて拒否したわけではない。扉ページを飾る図案や出版業者の商標としてなら受けいれたのである。

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