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2011年04月29日

『声と文字』 大黒俊二 (岩波書店)

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 カロリング・ルネサンスのはじまった8世紀末からグーテンベルク前夜の15世紀前半まで、700年余の口語と文章語の関係を跡づけた本である。本書は岩波書店から出ている「ヨーロッパの中世」シリーズの一冊で、著者の大黒氏は中世イタリアを中心に商業史を研究している人だそうである。

 これまで口語と文章語の関係というと11世紀に焦点をあわせた研究が多かった。11世紀以降文書の量が急増したことは諸王の文書発給数や書記局の蠟の消費量の推移などの統計でも裏づけられている。文書が増えるにしたがい書体も変化した。一文字一文字わけて書く丸っこいカロリング小文字体に代わって速書きのできるゴツゴツしたゴシック体が一般化した。11世紀は声中心社会から文字中心社会への変わり目にあたり「大分水嶺」とも呼ばれてきた。

 ところが本書は300年早いカロリング・ルネサンスを出発点に選んでいる。なぜ8世紀末なのか? 文章語に一大変革が起こり、口語との乖離が決定的となったのがこの時代だからである。

 ローマ帝国滅亡後、帝国の北辺では蛮族の話すゲルマン語が主流となったが、ガリア(フランス)より南では依然としてラテン語が話されていた。時代がくだるにつれラテン語は崩れイタリア語、フランス語、スペイン語等々にわかれていくが、聖職者が説教や典礼で用いるラテン語は民衆もある時点までは理解することができた。

 ラテン語がいつ民衆の理解できない言葉になったのかについては諸説があったが、現在では8世紀後半の数十年という短い期間に決定的な変化があったという見方が定説になっている。その直接の契機となったのがカロリング・ルネサンスである。

 民衆の日常語が変化していくと聖職者の話すラテン語も影響を受け、文章語としてのラテン語も徐々に変化していった。それはラテン語が崩れるということでもある。

 西ヨーロッパを統一しキリスト教の権威で統治していこうとしたシャルルマーニュは正しい教えを守るためにラテン語改革に乗りだした。聖職者のラテン語が乱れ地方地方で異なるようになったら何が正しい教えかわからなくなるからだ。

 シャルルマーニュはアーヘンの宮廷に学者を集めて正しいラテン語を定めるとともに、各修道院・各教区に学校を設立させ教育に力をいれた。聖書や典礼書の写し間違いは異端を産みかねないので学者にテキストを校訂させ、正確な写本を生産する体制を整えた。

 ラテン語の記法も一変した。各地で自然発生的に生まれていた小文字体を読みやすく洗練されたカロリング小文字体に統一し、見出しはローマ方形大文字体、本文はカロリング小文字体という使いわけを創始し、単語の分かち書きを広めた。大文字だけで切れ目なく書かれていたラテン語は格段に読みやすくなった。

 その一方、ラテン語の純化は民衆語との断絶を決定的にした。民衆語はラテン語とつながりを失って独自の発展を加速し、イタリア語やフランス語、スペイン語等々に分化していった。

 本書の後半は大分水嶺以降を描くが、著者が注目するのは俗語の読み書き能力である。今日の感覚ではわかりにくいが、当時「文字を知る」とはラテン語が書けることを意味した。大量の手稿を残したレオナルド・ダヴィンチが終生「文字を知らない」と自認していたことからわかるように、俗語の読み書き能力はリテラシーには含まれていなかった。「文字を知らない」人の読み書き能力には幅があって、ラテン語の読みだけができる人や俗語の読み書きができる人、俗語の読みだけができる灯とまでをも含んでいたのだ。著者はこうした読み書き能力を「実用的リテラシー」と呼んで狭義の(ラテン語の)リテラシーと区別している。

 中世後期の俗語のリテラシーとなると山本義隆氏の名著『一六世紀文化革命』と重なってくるが、著者は山本氏の本を意識して話題を取捨選択しているような印象を受ける。これはわたしの勘ぐりすぎなのかもしれないが、山本氏がとりあげている科学書などの話題は等閑視する代わりに、山本氏があまりふれない商業革命や説経師の俗語の説教については多くのページをさいているようなのだ。

 意図したことなのかどうかはわからないけれども、本書は山本氏の『一六世紀文化革命』と補完しあう関係にあるようだ。同書とあわせ読むことによって中世の文章語の世界がより立体的に見えてくるだろう。

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2011年04月28日

『ギリシア・ローマ時代の書物』 ホルスト・ブランク (朝文社)

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 ホメロスの叙事詩が筆記されはじめた頃からローマの公共図書館が荒廃に帰すまでの千年間の書物の歴史を描いた本である。著者のホルスト・ブランクは考古学と文献学を学んだ後、ローマにあるドイツ考古学研究所附属図書館に司書として勤務している人だそうである。

 ギリシア文字とローマ字の起源から書き起こし、古代人の読み書き能力、古代の書写材料と項目がならぶのを見て総花的な本かなと思ったが、読んでみると総花的というより体系的・網羅的な本だった。ドイツ人の几帳面さがいい意味で発揮されていて、現在わかっている限りの知識はすべてここに集められているのではないかという気がしてくる。

 文字の歴史についてはそれなりに月謝を払ってきたつもりだったが、ギリシア数字に先んじてアッティカ方式と呼ばれる数字記法があったとは知らなかった。文字は奥が深い。

 古代の書写材料については無機書写材料と有機書写材料に大きくわけ、無機材料は陶片、漆喰、青銅と鉛の板、錫と銅の巻物、有機材料は木材・布(木簡、蠟引板、樹皮本、布本)、パピルス、羊皮紙を列挙し、それぞれの長所短所と使い方、出土例を解説している。

 古代人の読み書き能力については喜劇に文字が読めることを前提にしたギャグがたくさん出てくることを根拠に前5世紀のギリシアでは読み書き能力は一般化していたと推定している。陶片追放の陶片の筆跡や壺絵のような出土物を中心とする議論が多かっただけに、喜劇に目をつけるとはさすがだ。ローマ帝国でも同様で3世紀頃までは読み書きできるのが普通だったという。そんなのは市民階級だけじゃないかという人がいるかもしれないが、奴隷でも読み書きはできた。なみの市民よりも学識のある学問奴隷までいて、ローマの上流階級は学問奴隷を何人も召しかかえていた。蔵書管理係や写本製作係、朗読係、暗唱係までいた。

 ソクラテスが登場した前5世紀にはギリシア人の交易範囲のすみずみまで本がゆきわたっていたらしい(ソクラテスの弟子のクセノポンはトラキア沿岸で座礁した船の積荷に大量の本が含まれていたことを報告している)。前4世紀になると本の売買に関する記述が格段に増え、珍しい本に大金を積んだという話がよく出て来るそうだ。ギリシア語を記した最古のパピルス断片はこの時代のものである。

 ローマ時代になると著者の活動がかなり詳しく記録されており、売れる著者はすぐに本屋が見つかったが、売れない著者は書写を引き受けてくれる本屋を探すのに苦労したそうだ。本の盗難や略奪(本は重要な戦利品だった)、焚書の話も出てくる。

 後半は図書館の話になる。古代ギリシアには誰でも利用できる図書館はまだなかったようだ。本を集めるのに熱心な僭主は何人も出たが、市民に蔵書を公開することはなかった。プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンに大量の蔵書があったのは確実だが、学員と弟子しか利用できなかったらしい。

 ヘレニズム時代になるとアレクサンドリアにムセイオンと呼ばれる図書館がプトレマイオス朝の国策として作られるが、ムセイオンの蔵書は一般公開はされていなかった。その代わりセラペイオンという一般公開をする別の図書館が作られていた。ムセイオンが母、セラペイオンは娘の関係とされたが、セラペイオンはムセイオンよりも120年長くつづいたという。

 誰もが利用できる図書館が大々的に作られるのは帝政ローマになってからである。そもそもはカエサルの発案だったが暗殺のために果たせず、カエサルの側近だったガイウス・ポッリオが実現した。カエサルの甥で初代皇帝となったアウグストゥスはギリシア語文庫とラテン語文庫を別々の建物とする大規模な公共図書館をつくり、以後、歴代の皇帝や富豪は人気とりに図書館を寄贈するのが習わしとなった。おもしろいのはトラヤヌス浴場やカラカラ浴場、ディオクレティアヌス浴場のような公共浴場に図書館が併設されたことだ。

 今日の感覚からすると公共浴場に図書館をつくるのは奇異な印象を受けるが、公共浴場がギリシアのギュムナシオン的な教育の場でもあったとしたなら不思議ではないだろう。もっとも時代がくだるにつれて娯楽の比重が高まっていくわけだが。

 公共図書館には学術管理者(図書館長に相当)と事務管理者(事務局長に相当)という役職が設けられた。学術管理者には解放奴隷が任命されることもあったが、事務管理者は騎士身分限定でダキア属州総督の年俸が20万セルティウスの時にトヤラヌス浴場図書館の事務管理者は6万セルティウスだった。

 本の貸出サービスは原則としてなかったので公共浴場のロビーで本を読むことになるが、とすると音読ではなく黙読していた可能性が高い。

 写本の時代であるから本の絶対数は限られていたが、古代の人々は予想以上にゆたかな読書生活を送っていたようである。

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2011年04月27日

『貴重書デジタルアーカイブの実践技法―HUMIプロジェクトの実例に学ぶ』 樫村雅章 (慶應義塾大学出版会)

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 慶応大学が1996年にグーテンベルク聖書を丸善から購入したのを期にHUMIプロジェクトというデジタルアーカイブ事業をはじめたことは高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』と安形麻里氏『デジタル書物学事始め』で紹介されているが、本書はHUMIプロジェクトをテクニカルディレクター兼プロジェクトマネージャーとして実際に推進してきた樫村雅章氏が「情報の科学と技術」誌に2006年4月号から2007年3月号まで連載した原稿がもとになっており、2010年4月発行の直前までの最新情報が盛りこまれている。

 もともと慶応大学文学部は旧図書館情報大学(現筑波大学図書館情報専門学群)とならぶ日本の図書館学の総本山であり、司書の世界では二大派閥の一方を形成しているといわれているが、樫村氏は慶応大学理工学部電気工学科の出身で、現在は慶応大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構の準教授ということである。

 慶應本グーテンベルク聖書のデジタル画像の仕上がりが評価され、HUMIプロジェクトではグーテンベルク聖書を所蔵する海外の図書館や博物館、大学の要請でこれまでに11セット19冊のグーテンベルク聖書を撮影してきたが、それだけではなく慶応大学が所蔵する中世ヨーロッパ写本ヨーロッパ近世の装飾本奈良絵本日本の古地図なども公開している。

 本書では撮影の様子や使用している機材(HUMIプロジェクトで独自に開発したものもある)、海外遠征の様子、撮影された画像と各段階の処理が多数の写真で示されており、ページを眺めていくだけでも面白い。

 相手が稀覯書なだけで要するに自炊と同じではないかと思う人がいるかもしれないが、グーテンベルク聖書の校本間の印刷のズレや大英博物館所蔵のキャクストン印行『カンタベリー物語』の活字パターンの洗いだしといった精密な研究をおこなうためには自炊とはまったくちがうレベルの精度が要求される。たとえば紙なので撮影時にはどうしてもページに湾曲が生じてしまうが、湾曲を電子的に補正するとデータの信頼性が損なわれるので、独自に開発したブック・クレイドルという空気吸入式の治具に本を固定し極力平面を保った状態で撮影するなど、ここまでやるのかという工夫がたくさん出てくる。ページの質感を適切に出すために光の当て方にもノウハウがある。Photoshopでレタッチすればいいだろうなどという世界ではないのだ。

 校本の相互比較をするためにはできるだけ同じ条件で撮影することが望ましいが、所蔵館の意向によって空気吸入式の治具が使えない場合もあり撮影はノウハウのかたまりで、文章には表現しきれない工夫がかなりありそうである。

 1997年にプロジェクトが発足した時点では400万画素のデジタルカメラしかなかったのでフィルムに撮影後、スキャンするという間接的なデジタル化をおこなっていたが、その後2200万画素以上のデジタルカメラなら問題はないことが確認できたので2007年以降は直接デジタル化に移行し、現在は4x5フィルムをスキャンしたよりも高解像度の6000万画素のカメラを使用しているということである。フィルムスキャンとフラットベッドスキャナ、デジタルカメラでどう画像が変わるかという例も示されている。

 トリミングとカラープロファイルの変換だけをほどこしただけのファイルをマスターデーターとして残し、公開用の画像はアンシャープープマスク処理をほどこし、1枚あたり1Mバイトにおさえたtiffないしjpeg画像にしている。329dpiの表面解像度のグーテンベルク聖書の画像の場合、アンシャープープマスク半径1.0、適用度100、閾値3におさえているよし。

 撮影や画像処理の段取やノウハウが詳しく書かれているのでマニュアル本としても読めるが、『ジャンボ・ジェット機の飛ばし方』などという本といっしょでこれがそのまま役に立つ人はあまりいないだろう。しかし本のデジタル化に関心のある人は最先端の現場を知っておいた方がいいし、ヒントもえられるだろう。

 なお「美術館・アート情報artspace」に樫村氏のインタビューが掲載されている。図版が多くてとても面白い。

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2011年04月26日

『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』 箕輪成男 (出版ニュース社)
『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』 箕輪成男 (出版ニュース社)

近世ヨーロッパの書籍業
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中世ヨーロッパの書物
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 著者の箕輪成男氏は東京大学出版会をへて国連大学、愛知学院大学、神奈川大学などで教鞭をとった人で、日本出版学会会長、国際学術出版協会会長を歴任しておられる。ヨーロッパの出版史について『パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち』、『紙と羊皮紙―写本の社会史』、『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』、『近世ヨーロッパの書籍業―印刷以前・以刷以後』の四部作を上梓しておられ、類書のすくない分野なので読んだ方も多いと思う。

 わたしは当初四部作を全部読むつもりで、まずグーテンベルクをあつかった『近世ヨーロッパの書籍業』を手にとった。最終巻だからか話はあちこちに飛んでとまどったが、14世紀から15世紀にかけてのロンドンの書籍商の数の推移とか、北イングランドの遺言の調査による本の分野別冊数、英国に現存する236点の写本の装飾の有る無しを分野別で調査した表など興味深い統計がたくさん紹介されている。統計だけでも本書は買う価値があるかもしれない。

 ただし歴史叙述となると首をかしげる箇所がすくなくなかった。著者のグーテンベルク評価は著しく低く、裁判関係の史料しか残っていないことをもって「人間関係がうまくいかない心の狭い人」としている。確かにしょっちゅう裁判沙汰になっていたような印象があるが、数字で同時代人と比較しないと説得力はうまれないのではないか。

 またグーテンベルク聖書の仕上がりの検討もなしに「技術は大したことはなく」、「印刷技術のオタクにもなれず、経営者にもなりきれない、融通のきかない貴族家系につながる夢想家にすぎなかった」と断定するのはいかがなものか。わたしが読んだ範囲ではグーテンベルクは偏執狂的に技術にこだわって採算を度外視するようになったために出資者のフストが不安になり、資金の回収という強硬手段に出たという見方の方が多かった。

 箕輪氏は活版印刷の誕生に係わったグーテンベルク、フスト、シェッファーの三人はユダヤ人だったとされている。箕輪氏は書いている。

 もうひとつ勝手な妄想を許してもらえば、グーテンベルクとユダヤ人の関係がある。ディアスポーラで西欧各地に流れたユダヤ人は不安定な社会的立場から農地入手は魅力的でないため、医者、法律家など知的職業人や商人・金貸しになった。手工業に従った者も多く、金属細工はそのひとつだった。彼らは差別的にそれとわかる苗字を与えられた。印刷・出版史書に書かれていないようだが、上記のシェッファーは間違いなくユダヤ人だろう。シェッファーと綴っているが、シッファー・船頭である。筆写の国連大学時代の同僚にこの名前をもつユダヤ人がいた。そう考えるとグーテンベルクもまたユダヤ的な名前だ。「よい山」だ。これは住んだ屋敷の名前というが、それこそユダヤ人の住みついた町、区域だったのではないか。しかも金属加工はユダヤ人の得意とした稼業である。一方の登場人物フストは銀行家とあるが、宗教上利子をとれないキリスト教国でユダヤ人が金貸し業を営んだことは周知の事実であり、それを今風にいえば銀行家ということになる。

 シェッファーについては材料をもっていないが(わたしの知る限りではシェッファーをユダヤ人と決めつけているのは箕輪氏だけである)、すくなくともグーテンベルクとフストについてはユダヤ人説は無理があると思う。

 まずフストであるが、箕輪氏はフストは銀行家であり、キリスト教徒に許されていないとされる利子をとったことからユダヤ人としている。

 だがジョン・マンの『グーテンベルクの時代』によればフストは鍛冶屋ギルドの親方であり、本業のかたわら写本流通を手がけていた。弟のヤーコプはマインツ市議会の議員兼出納役という名士である。フストが金貸しをしていたかどうかだが、グーテンベルクとフストの裁判については「ヘルマスベルガー法律文書」という一級史料が残っており、富田修二氏の『グーテンベルク聖書』の65ページから71ページにかけて全訳が掲出されているのでそこから引こう。

 彼(フスト)はいずれにせよ、グーテンベルクを満足させることを望み、上記の八〇〇グルデンに追加してさらに新たな八〇〇グルデンを、その義務がないにもかかわらず彼のために借り入れたのであった。またそのため彼は、グーテンベルクのために借り入れた新たな八〇〇グルデンに対する利息として、一四〇グルデンを払わねばならなくなったのだ。そして、上記のヨハン・グーテンベルクは、上記の文書において、彼に対し最初の八〇〇グルデンについて一〇〇グルデン当たり六グルデンを利息として払うと誓ったにもかかわらず、それに続くいかなる年にもこれを支払わなかったため、彼(フスト)は自らそれを支払わざるを得なくなり、その金額は、低く見積もって二五〇グルデンに達したのである。ヨハン・グーテンベルクはその利息、すなわち、最初の八〇〇グルデンに対する利息の支払い、またそれに続く追加の八〇〇グルデンに対する利息もまったく決済しなかった。そこでフストは、さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の間でその利息額を募り、低くみても三六グルデンを払いきらねばならなかった。これで、元金との合計額は約二〇二〇グルデンに上る。そこでフストは、グーテンベルクに対し、事態の収拾とフストの損害に対してその時点での全額を払うことを要求する。(富田修二訳)

 フストは1600グルデンを自己資金で用立てることができず、借金してグーテンベルクに提供していたのである(自己資金がまったくなかったかどうかについては議論があるようだ)。1600グルデンはジョン・マンによれば30万ドル(約2500万円)、箕輪氏によれば3200万円に相当する。この程度の金額を借金するようでは金貸しはできないだろうし、銀行家であろうはずはない。

 他から借金したという申し立ては利息をとったことの言い訳だとする見方もあるが、そうだとしたらユダヤ人説の反証となる。ユダヤ人なら利息をとるのに言い訳は必要ないからだ。

 グーテンベルクであるが、箕輪氏は「グーテンベルクの歴史において「ユダヤ」「ユダヤ人」のひとことも出てこないのはむしろ不自然で、作為を感じる」と書いておられるが、はたしてそうだろうか。グーテンベルクという苗字のもとになったグーテンベルク邸は最初は「ユーデンベルク」(ユダヤ人の丘)と呼ばれておりユダヤ人が所有していた。ところが1282年にマインツで起きたユダヤ人追放で大司教出納役の所有になってグーテンベルク邸に改められ、その後われらがヨーハンの玄父フリロが購入したという経緯がある。ゲンスフライシュ(鵞鳥の肉)という別の苗字や巡礼者をかたどった家紋についてもジョン・マンの本に考証があるので興味のある方は御覧になるとよい。

 箕輪氏はグーテンベルク家は金属細工の技術をもち貨幣鋳造に係わっていたからユダヤ人だとしておられるが、貨幣鋳造はマインツの都市貴族に許された特権だったから、そんなことをいったらマインツの都市貴族はみなユダヤ人ということになってしまう。

 箕輪氏はグーテンベルク聖書の功績はシェッファーに帰せられるべきでグーテンベルクは何もしていないと述べておられるが、よりどころとしているのは1970年代の本でハイテクによる最近の研究は参照していないようだ。

 箕輪氏はグーテンベルクが活版印刷術の発明者だという定説についても「疑問だらけ」とされている。

 グーテンベルクはその後有名になったためその印刷技術創始者としての地位を確かにしているかに見えるが、事実はそれほど単純ではなさそうだ。印刷創始者としてはグーテンベルクの他に例えばオランダ・ハーレムのローレンス・ヤンゾーン・コスターなど何人もの人がノミネートされており、一八世紀から始祖争いの論争が続いている。対抗馬の方の根拠とする証拠がこれまた乏しいために、グーテンベルクのほうが優勢だが、実は疑問だらけである。

 箕輪氏が真の発明者の候補としているローレンス(ラウレンス)・コスターについては富山修二氏は「彼の架空の業績の偽りの詳細が、まったく議論の余地もないほど反証されたのはこの一〇年のことである」として『グーテンベルク聖書の行方』209ページ以降に詳述している。興味のある方はそちらを見られたい。

 次に『中世ヨーロッパの書物』であるが、アイゼンステインの『印刷革命』を批判して写本文化と印刷文化の連続性に注目した狙いは重要であるが、アイゼンステインはそんなに単純な議論はしていないと思う。

 本筋とは関係ないが、イエスを「文盲」としたりキリスト教の教父を仏典の伝訳者に相当するとして長々と比較論を述べるのはいかがかと思う。福音書を読めばわかるようにイエスは文盲であるわけがないし、仏教で教父に相当するのは龍樹や世親のような論師と呼ばれた理論家であって、伝訳者をもってくるのは無理がありすぎるだろう。

 最初は四部作全部を読むつもりだったが、わたしは二冊で読むのをやめた。出版社の経営にかかわった人の書いた出版史として興味深い視点も見られるが、読むには批判精神が必要な本だと思われる。

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2011年04月25日

『印刷革命』 アイゼンステイン (みすず書房)

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 活版印刷術の登場によってヨーロッパ社会がこうむった根本的な変化を研究した本であるが、「印刷革命」という表題は誤解をまねくかもしれない。本書の執筆のきっかけはマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(1962)だったという。アイゼンステインは印刷術が人間の経験を解体し認識能力をも変容させてしまったとする『グーテンベルクの銀河系』の主張に衝撃を受け、本当にそのような変化が起ったのか、印刷術の実際的な影響とはどのようなものだったのかを知ろうとセカンド・オピニオンを探したが案に相違して印刷術と社会の変化の関係を調べた本は皆無だった。そこで自分で調べはじめ1979年に『The Printing Press as an Agent of Changes』という浩瀚な研究を上梓した。本書は同書を一般読者向けに要約したものである。

 印刷術はなるほど革命だったが、口承文化から文字文化への移行ではなく(黙読が印刷術によってもたらされたとするマクルーハンの断定は現在では疑問視されている)、筆写という文字文化から印刷というもう一つの文字文化への移行であり、その変化は漸進的なものだったというのが著者の見解のようである。

 これは印刷術の最大の功績は文書の蓄積力にあったとする見方からきているだろう。筆写の時代は文献が後世に残るか残らないかは偶然に左右されるところが多かった。書き写される数がすくなければ本は簡単に失われた。たった一冊の写本でかろうじて伝わった図書もすくなくない。印刷はこの状況を変えた。他愛のない記録でも桁違いの数の複製が作られたために容易に後世に残り、文献がどんどん蓄積されていったのだ。

 書籍の入手ははるかに手軽になった。中世の修道院では本は修道士の献身的な労働によって作られた貴重品であり、書棚に鎖でつながれていた。『薔薇の名前』に描かれているように、写本の時代には一冊の文献を見せてもらうために山奥の修道院まで旅をするのは当たり前のことであり、わざわざ出かけていっても書庫係の一存で見せてもらえないこともあった。見せてもらったとしても必要な箇所は自分でいちいち筆写しなければならなかった。ところが印刷術によって本は格段に身近になり、学生でも本を個人所有することができるようになった。筆写のための奴隷労働は不要になり、多種多様な文献がどんどん蓄積されていった。本には表題と索引がつき(写本の時代はページの区切が一定しなかったので索引は無意味だった)、図書館ではアルファベット順に本がならべられ(修道院の図書館は書庫係の個人的な流儀で分類された)、図書目録をはじめとする書誌学的資料がつくられ文献探しが簡便になった。

 学問の発展、なかんずく自然科学の発展には印刷術は決定的な影響をおよぼした。科学革命の端緒をつくったコペルニクスにしてもさまざまな記録類にアクセスできるようになったことが重要だとアイセンステインは指摘する。

 コペルニクスの誕生する少し前から、図書の生産方式に現実に起こった革命が、天文学者の利用しうる学術書や数学諸表に影響を及ぼし始めていた。たとえば、一四八〇年代にクラクフ大学の学生だった青年コペルニクスにとっては、おそらくプトレマイオスの『アルマゲスト』を一目でも見ることは――たとえ誤記の多い中世ラテン語写本であれ――むずかしかっただろう。しかし彼は亡くなるまでに三種類の刊本を入手している。さらに、一五六〇年になると、コペンハーゲン大学の学生だったティコ・ブラーエは十四歳にしてプトレマイオスの全著作を買うことができ、その中には『アルマゲスト』のギリシア語からの全訳の改訳も含まれていたのである。ほどなくライプツィヒ大学に転じたティコは、まだやはり十代の若さで、当時のコペルニクスの主著に基づき計算されたばかりの『プロシア表』を入手している。一四八〇年代からそれまでの間に天文学に影響を及ぼすような「目新しい観測」は一つもなされてはいない。ただ、過去の観測記録を伝達する方法に大変革が起ったのである。

 コペルニクスの『天体の回転について』が出た時点では天体の推算表は『アルマゲスト』の学説にもとづく「アルフォンソ表」一つしかなかったが、百年後、ガリレイの時代には六系統の推算表が競合し、どの表が正しいか多くの天文学者が各地で一斉に同時観測をおこなっていた。百家争鳴の観を呈したさまざまな書物のうちどれが正しいかは自然という偉大な書物に照らして判定された。古代の学説の権威は失墜した。

 自然科学以外の分野でも古代の権威は揺らぎだした。写本の時代は学問の進歩は失われた叡智の探求という形をとったが、印刷の時代になると多数の文献を相互比較できるようになり、矛盾が目につくようになった。世に知られていなかった古典の出版が進むにつれ古代哲学には想像以上に多くの学派があることがわかった。歴史的な事件にもさまざまな伝承があり、史料が蓄積されればされるほど伝承間の齟齬は際立つようになった。


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2011年04月23日

『ルネサンスの活字本―活字、挿絵、装飾についての三講演』 ゴールドシュミット (国文社)

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 活版印刷術の登場によって写本の時代は終わったが、二千年以上つづいた写本の文化は一朝にして廃れたわけではなかった。最初の五十年間、揺籃期本インキュナブラの時代には依然として写本の方が格が高く、活字本は写本を真似ようとしていた。グーテンベルク聖書は未製本のまま葡萄酒の空樽にいれて運ばれ、写本の装飾職人によって朱文字や飾り文字、装飾が描きこまれてから製本されたが、揺籃期本の多くは同じ工程をへて完成した。わざわざ活字本を筆写して写本を作るなどということもおこなわれていた。

 写本から活字本への交代は一筋縄ではいかないが、本書はこのひと捻りもふた捻りもある歴史を活字、挿絵、装飾という三つの視点から概観している。著者のゴールドシュミットは書誌学者として知られるが、ケンブリッジ大学卒業後、大学には残らずロンドンで稀覯本専門の古書肆を営んだ人で、彼の編纂したカタログは現在でも重要な資料となっているという。本書は1947年から48年にかけてアメリカに招かれたおりにおこなった一般向けの講演がもとになっている。写本や揺籃期本に囲まれて生活している人だけに平明な語り口ながら書巻の気が悠々迫らぬ風格を生んでいる。

 印刷の歴史がねじれた理由の一つは活版印刷術がルネサンスの本場であるイタリアではなく、中世の遺風の残るドイツで誕生したことにあるだろう。しかも活版印刷術という新しい革袋を最初に満たしたのはウルガタ聖書という古い酒だった。グーテンベルクが最初の活字の書体として針のように尖った中世そのままのゴシック体を選んだのは偶然ではなかったのである。

 イタリアの人文主義者は写字生の使うゴツゴツしたゴシック体を無知蒙昧と唾棄し(野卑ゴシックという呼び方がそもそも蔑称だった)、古代ローマの碑銘に範をとった丸みをおびて優雅なローマン体を好んだ。ローマン体は人文主義書体と呼ばれ、古典古代の本をローマン体で筆写して写本を作ることは真の修辞学や詩に捧げられる敬虔な行為と見なされ、ローマン体を美しく書く能書術カリグラフィーは上流階級のたしなみとされた。15世紀前半は写本芸術が最後の花を咲かせた時代であり、文芸の保護者を任ずる王侯貴族は自邸内に能書家を集め豪華な写本を作らせた。

 そこに活版印刷術が闖入してきたのである。ゴールドシュミットは書いている。

 しかし、活版印刷技術が一四五〇年頃発明されたので、人文主義書体で書かれた美しい写本を所有する流行は短命に終わらざるを得なかった。もっとも、人文主義書体で筆写されたルネサンスの写本芸術が続く限り、本当に熱狂的な写本愛好家はいかなる印刷本も所有することを拒んだという。というのも、彼らはそれらの刊本が、写本を模倣した安っぽくて、劣悪な代用品だと考えていたからである。彼らはむしろ、印刷本を美しい手書きの書体で筆写した写本のほうに喜んで大金を投じようとすらしたが、そのせいか、そうした写本はかなりの部数が残されている。

 グーテンベルク聖書から十年ほどたった1467年、人文主義者でもある教皇パウルス二世の庇護のもとローマにドイツ人の印刷職人が招聘され、ギリシア・ローマの古典の印刷をはじめるが、彼らがまずおこなったのはローマン体活字を鋳造することだった。ローマにつづいてヴェネツィアやミラノでも活版印刷がはじまったが、そのいずれもがローマン体活字を使った。

 ところが人文主義的な著作を買う人は限られていたのでたちまち供給過剰におちいり、多くの印刷所が閉鎖された。生きのびた印刷所は中世の延長で需要の見こめる宗教書や法律書に活路をもとめ、市場にあわせてゴシック体活字に転向した。

 ローマン体活字からゴシック活字への転向という迂路はパリでもくりかえされた。パリは世界屈指の大学があり大量の書籍需要が見こめたが、「福音書記者聖ヨハネ職業組合」という写字生の強力なギルドが頑張っていたために活版印刷の進出が遅れていた。1470年、パリ大学の有力な人文主義者二人がパトロンとなり、バーゼルから三人の印刷職人を招聘し、治外法権であるパリ大学学寮内に秘密に印刷所を設け、キケロのような古典やピウス二世の人文主義的な著作などをローマン体活字で次々と出版させた。ところが2年後パトロンがローマに去ったために印刷職人は自力で市場を開拓しなければならなくなり、神学書や祈祷書の出版に転じた。最初はローマン体活字を使ったが、ゴシック体活字に切り換えてからは好評を博し、他の業者も参入して一大出版都市となった。

 こうしてローマン体活字は一時の流行として消えさるかに見えたが、16世紀にはいると人文主義が最終的に勝利しローマン体活字が復活をとげたという。書体にこんなドラマがあったとは知らなかった。

 次は挿絵であるが、これも中世の写本文化に淵源している。14世紀のゴシック期のフランスでは騎士道物語が流行し、ロマンスの情景を活写した細密画を多数あしらった豪奢な装飾写本が作られた。騎士道物語はイタリアや英国、フランドルでももてはやされたが、言語はつねにフランス語だった。中でも15世紀に繁栄の頂点をむかえたブルゴーニュ公国では立派な装飾写本が製作され、ブルゴーニュ様式というべきスタイルが生まれた。

 活版印刷発明後20年ほどすると活版に木版画を組みこむ技術が開発され、挿絵いりの本が1493年に学生向けのラテン語読本に挿画が使われるまではすべて俗語の本に限られていた。ギリシア・ローマの古典を尊ぶ人文主義者は挿画いりの本を無学な読者向けと馬鹿にしていたからである。

 1480年代にはいると騎士道物語を読んでいた貴婦人たちがギリシア・ローマの古典を読みたいと望むようになり、俗語訳が盛んに出版されるようになった。古典の俗語訳には挿画がはいったが、ギリシア・ローマの英雄たちが15世紀の衣装で描かれ、またしても人文主義者の失笑を買った。人文主義者は遺跡で発掘された彫刻からギリシア・ローマの風俗に通じていたが、時代考証にそった挿画が描かれるようになるには16世紀を待たなければならなかった。

 人文主義者は挿画は馬鹿にしたものの、絵を本にいれることをすべて拒否したわけではない。扉ページを飾る図案や出版業者の商標としてなら受けいれたのである。

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2011年04月22日

『デジタル書物学事始め―グーテンベルク聖書とその周辺』 安形麻理 (勉誠出版)

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 グーテンベルク聖書を例にして書誌学の歴史と未来を展望した本である。書誌学というと図書館のデータベースや文献リストを思いうかべる人が多いと思うが、本書によるとそれは体系書誌学とか列挙書誌学と呼ばれる分野で、それとは別に分析書誌学という分野がある。

 分析書誌学は物理的な「モノ」としての本を研究する学問で、紙や活字、印刷面、構成といった物理的証拠から本の成り立ちや伝承経路をさぐる。グーテンベルク聖書はもっとも進んだ技術で調査されてきたから、分析書誌学の現在を紹介するにはうってつけの題材といえよう。学問的なレビューなので読み物を期待する人には向かないかもしれないが、コンピュータによる典籍研究に関心のある人には参考になる本だと思う。

 第1章「活版印刷術の誕生」はグーテンベルクの生涯と活版印刷の簡単な解説で、今回紹介したような本を読んだことのある人なら飛ばしてかまわないだろう。

 第2章「解体・グーテンベルク聖書」は「モノ」としてのグーテンベルク聖書を記述していて、ジョン・マン高宮利行氏の本で断片的にふれられていた最新の研究がいきなり出てくる。

 レビュー的な本なので突っこんだ説明はないが、図版が多いので百聞は一見に如かずである。『グーテンベルク聖書の行方』と重なる図版もあるが、活字が倒れた跡と推定される版面の汚れや星形の透かしがどのような位置関係ではいっているとか実に面白い。透かしを撮影するのに紙葉を放射性炭素を含んだアクリルガラスの板と感光紙ではさみ、放射性炭素のβ線で感光させる。こうすると表面に印刷された文字は透過し、透かしだけが浮かびあがるというが、まさか放射線を使うとは思わなかった。

 第3章「書物研究とデジタル画像」は画像方式による貴重書のデジタル化プロジェクトとハイテクによる研究の現況を紹介している。

 貴重書はそのままの形状で後世に残していくことが大切だが、貴重な本であればあるほど公開して欲しいという声が強まるだろう。貴重書を高精度のデジタル画像にすれば保存と公開の矛盾はとりあえず解決されるが、どのくらいの精度が必要なのか、どんな手順でデジタル化するのかを著者も参加したことのある慶応大学のHUMIプロジェクトを例に解説している。また昔からある赤外線撮影や紫外線撮影、最近開発されたPIXIE(荷電粒子励起X線放射)やラマン分光法で何がわかるかにもふれている。

 グーテンベルクの最大の貢献は父型パンチを銅に打ちこんで活字の母型マトリクスを作る手法を確立した点にあるとされてきたが、プリンストン大学のニーダムとアルカスが高精度画像によってそれを否定する仮説を発表した。これまでにとりあげた本でもこの話は出てきたが、こちらにはさらに新しい情報がある。同一文字の字形の変異が多すぎることから『さまよえるグーテンベルク聖書』では砂の鋳型を使った可能性が示唆されていたが、本書によるとそうではなく、文字のパーツ(「i」でいえば点と縦棒)の父型を別々に金属に打ちこんで母型を作った可能性があるというのだ。砂の鋳型はいくらなんでもと思ったが、パーツ組みあわせ説だったらありかもしれない。

 第4章「デジタル画像を用いた校合手法」は肉眼による校合がデジタル化されたという話だが、欧米では肉眼による校合のために特別な光学装置を作っていたそうで、長持くらいある巨大な校合機の写真が載っている。和本なら薄いので比較するテキストを簡単に並べることができるが、ヨーロッパの二折本や四折本は大きい上に板張りの表紙をつけていたりして重いので、並べるのが不可能な場合があるのだそうである。そこで鏡とレンズを組みあわせて二つの本のページを光学的に重ねあわせる機械を作ったわけである。もちろんデジタル化すると二つのページの比較がいろいろな方法でできるようになる。

 第5章「デジタル画像を用いたグーテンベルク聖書の校合」ではHUMIプロジェクトでおこなったグーテンベルク聖書の各本の比較校合の結果を紹介している。字間を広げるといった植字の微妙な修正や校正で直された箇所が確認されているが、修正・変更箇所の分布にはかなりばらつきがあることから、専門の校正担当者がまとめて校正したのではなく、分業のユニットごとに校正がおこなわれたらしい。そうなると大学で教育を受けたペーター・シェッファーが校正係として雇われたという説が怪しくなるだろう。

 第6章「デジタル書物学事始め」ではデジタル技術を駆使した新たな分析書誌学の未来が語られている。著者は新時代の分析書誌学を「デジタル書物学」と呼ぶことを提唱しているが、確かに楽しみな分野である。なおHUMIプロジェクトの実際についてはテクニカルディレクター兼プロジェクトリーダーの樫村雅章氏の『貴重書デジタルアーカイブの実践技法』に詳しい。

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2011年04月21日

『グーテンベルクの時代―印刷術が変えた世界』 ジョン・マン (原書房)

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 『人類最高の発明アルファベット』を書いたジョン・マンによるグーテンベルクの伝記であるが、おそらく決定版といっていいだろう。富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の第二章の伝記と8ページの年譜、高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』の略伝部分をあわせ読めば生涯のあらましはたどれるが、わたしのように中世ドイツの知識のない者はあちこちでつまづいく。

 グーテンベルク家は貴族だったが、われらがヨーハンは母方の祖父が貴族でなかったために貨幣鋳造のギルドにはいれず、その屈辱が発明の原動力となったとされている。しかし貴族がギルドにはいるなどということがあったのだろうか?

 マインツでは貴族と市民の抗争が激化し、市民が虐待の報復として貴族の邸を破壊したのでグーテンベルク家のマインツから避難しなければならなくなったとされているが、貴族が市民を「虐待」とはどういうことか?

 グーテンベルク家のもともとの姓はゲンスフライシュだったが、マインツに「グーテンベルク」という名の邸を手にいれたので、別の家系から手に入れた「ラーデン」とあわせてゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクと称するようになり、略してグーテンベルクと呼ばれるようになったとある。するとゲンスフライシュとグーテンベルクは日本の姓と苗字のような関係なのか?

 われらがヨーハンの聖書刊行プロジェクトに事業家フストが出資したとあるが、15世紀に「事業家」がいたのだろうか? そもそもフストとは何者なのか?

 印刷業の中心都市となったマインツは1462年にアドルフ二世による劫掠を受け、それを機に職人が各地に散って印刷術が普及したとされるが、このアドルフ二世は3年後われらがヨーハンを宮廷従者に任じ年金をあたえている。アドルフ二世というから王様なのだろうが、どこの王様なのか?

 ほかにも理解に苦しむ記述がたくさんあり、わたしのように中世史を知らない人間は考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。

 こうした疑問は本書を読んでほとんど氷解した。ジョン・マンは歴史作家らしく15世紀のドイツ社会とマインツを細密に描くことからはじめる。グーテンベルクに関する史料はほとんどが裁判記録だが、裁判記録を正確に読みとくためには遠回りのようでも搦手からの接近が必要なのだ。背景がはっきり見えてくればグーテンベルクの姿もおのずと明確となる。

 まずわれらがヨーハンの三つの名乗り、ゲンスフライシュ、ラーデン、グーテンベルクだが、すべて邸の名称だった。姓か苗字かということなら、三つとも苗字に相当する。

 この時代は由緒正しい貴族以外のファミリー・ネイムは確立しておらず、所有する領地や邸の名称がファミリー・ネイムの代わりをした。日本の苗字のようなものだが、苗字と異なるのは、領地や邸を手離したなら血統的には何の関係もない新しい所有者がその名乗りを引き継いだことだ。契約によっては前の所有者がひきつづき元の名乗りを使いつづけることもなくはなかったが、原則としてはそうである(時代はくだるが、デカルトはペロンの領地を手離した後もルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗りつづけた)。所有する領地や邸が増えれば、ゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクのように名乗りが長くなっていった。ある一族の名乗りが途中で変わったり、まったく別の一族が同一の名乗りを用いていたりすることが普通にあったのである。

 グーテンベルク家は富田氏は「貴族」、高宮氏は「都市貴族」としているが、ジョン・マンは「有力者」と呼んでいる。マインツの地主層百家族ほどがこの「有力者」にあたり、本人たちは「一族ゲシュレヒター」、「旧家アルテン」と称した。さまざまな独占取引権や免税権、マインツ市から年金を受けとる権利などの既得権をもっていた。マインツ大司教から称号をもらっていたから貴族といっても間違いではないが、近世以降の歴史しか知らない人間が思い浮かべる貴族とはかなりちがうようである。

 称号の一つに「造幣所勲爵士」があった。マインツ市は皇帝から貨幣の鋳造を認められていたが、貨幣の鋳造に係わるには父方母方両方の祖父母がすべて「有力者」の出身でなければならないという制約があった。われらがヨーハンは母方の祖父が内乱で没落した旧家の出だったので「造幣所勲爵士」にはなれなかった。

 「有力者」は市に一時金を支払うことで、毎年その金額の5%を受けとることができるという年金の権利をもっていた。これがマインツ市の財政を逼迫させた。マインツ市を実質的に支える職人層にとって、免税特権を楯に税金を払わず、過去の一時金の対価だけを要求しつづける「有力者」はマインツ市にとりついた寄生虫だった。職人層を束ねるギルドと「有力者」は階級的に対立していたのだ。ギルドとの対立からグーテンベルク家がマインツを追われた頃、マインツ市の収入の40%は「有力者」への年金に消えていたという。

 われらがヨーハンの兄は「有力者」の特権を放棄してマインツにもどり市の幹部になるが、ヨーハンの方は青年時代を他の都市を遍歴してすごしたようだ。長くいたのはストラスブールで金細工師として生計を立てていたらしいが、戦争の危険が迫ったためかストラスブールを離れ、マインツにもどってくる。

 マインツにもどったわれらがヨーハンはグーテンベルク邸に居を構え、親戚から借金して活版印刷をはじめていたが、端物の印刷で技術を磨くという段階だったようだ。

 われらがヨーハンは50歳を越えてからいよいよ聖書の印刷に乗りだすが、出資してくれたのはヨーハン・フストという鍛冶屋ギルドの親方だった。フストは写本や木版本の商いも手がけており、活版印刷という新しい技術に関心があったのだろう。

 フストが出資した額は1600グルデン(現在の価値にして2500万円)で、裁判では全額を借金して用立てたと証言しているが、ジョン・マンは借金したというのは利息を正当化するための口実で、実際はかなりの部分が自己資金ではなかったかと推測している。

 聖書の完成直前フストが訴訟を起こし、われらがヨーハンから刷り上がったばかりの42行聖書と印刷工房をとりあげたのは御存知の通りだ。フストはヨーハンの弟子だったペーター・シェッファーに工房をまかせ後に娘婿とするが、ジョン・マンによるとシェッファーはもともとフストの養子であり、フストの命令で工房にはいったのだという。

 さてアドルフ二世だが、アドルフ・フォン・ナッサウといい、マインツ大司教だった。マインツ大司教が自分の支配する街を略奪するとはどういうことか。

 これにはローマ教皇がらみのややこしい事情があった。マインツ大司教は公爵と選挙候を兼ね、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を司るという栄職だったが、聖職なので世襲はできず選挙で選ばれた。

 1459年ディータ・フォン・イゼンブルクは教皇ピウス二世の支持を受け、アドルフ・フォン・ナッサウに一票差で勝ち、マインツ大司教位につくが、運上金問題で教皇と揉め、ディータは選帝侯会議を召集して教皇のドイツ干渉を非難するようになる。教皇はディータを退位させ、対抗馬だったアドルフ・フォン・ナッサウを新たなマインツ大司教に指名する。マインツは皇帝が推すディータ軍と教皇が推すアドルフ軍が戦う戦場と化したのである。

 この時史上初の活版印刷によるプロパガンダ合戦がおこなわれる。ディータ側のプロパガンダを印刷したのはわれらがヨーハン、アドルフ側の印刷を請け負ったのはヨーハンから聖書と印刷工場を奪ったフストとシェッファーだった。

 戦いはアドルフ側の勝利で終わる。マインツはアドルフ軍の略奪にまかされ、アドルフ側についた市民もすべてを奪われて市外に放逐される。

 アドルフ・フォン・ナッサウは正式にマインツ大司教に就任するが、彼は敵方についたわれらがヨーハンを赦免したばかりか、勲爵士の位と年金をあたえた。なぜこんなに手厚く遇したのか。活版印刷の発明者を顕彰するためだったのだろうか。

 本書を読んでグーテンベルクがはじめて血のかよった人間としてたちあらわれてきた。グーテンベルクに近づくには本書の分厚い歴史叙述が不可欠なのである。

 なお、日本では神秘主義的な思想家として知られるニコラウス・クザーヌスも重要な人物として登場するが、ジョン・マンはクザーヌスを権謀術数をめぐらすしたたかな教会政治家として描きだしており、こういう面があったのかと眼を開かれた。クザーヌスも面白そうである。

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2011年04月20日

『グーテンベルクの謎―活字メディアの誕生とその後』 高宮利行 (岩波書店)

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 丸善が1987年に落札したグーテンベルク聖書は1996年に慶應義塾大学に売却された。ドヒニー本は現在では慶應本と呼ばれている。慶應義塾大学は人類の宝を単に保存するだけではなく、デジタル化して広く世界に公開する決定をし、HUMIプロジェクトを立ちあげた。HUMIの技術はヨーロッパで高く評価され、ケンブリッジ大学所蔵本やポーランド政府所蔵本(『さまよえるグーテンベルク聖書』参照)など7セットのグーテンベルク聖書のデジタル化をおこなっているという(慶應本とケンブリッジ本はHUMIサイトで公開されている)。

 本書はHUMIプロジェクトを推進してきた高宮利行氏が岩波書店のPR誌「図書」に一年にわたって連載したエッセイをまとめたもので、グーテンベルク聖書のみならずグーテンベルクの生涯や活版印刷誕生をめぐる論争、写本時代の出版事情、揺籃期本インキュナブラで活躍した初期出版人を紹介している。

 写本は修道院の写字室で修道僧がこつこつ作っていたと思いこんでいたが、それは11世紀までの話で12世紀以降は写本製作の場は都市に移り専門の書籍商があらわれるようになる。

 おりしもヨーロッパ各地に大学が簇生するが、大学は教科書を確保するために書籍商というか貸本業者を指定し、学生は大学の認めた業者から写本を借りて自分で書き写した。写本の正確性を期すために大学は休暇中に指定業者の保管する写本を検査し、誤りがあったら業者の負担で写本を作り直させた。写本は未製本でペチアにわけて貸し出されたのでペチア方式という。ペチア方式はペストの大流行を期に廃れ、14世紀以降は写本を専門的に生産する写本工房が主役になっていった。

 意外だったのはヨーロッパで木版印刷がはじまったのは活版印刷の誕生するわずか半世紀前、1500年代だということだ。しかも木版印刷はなかなか広まらず、製作が盛んになるのは1455年から1510年にかけてで揺籃期本の時期と重なるのである。

 今日の常識からするとまず木版本の流行があって、木版を効率化するために活版が発明されたと考えがちだが(そのような思いこみから木版印刷が盛んだったオランダで活版印刷が発明されたと主張した学者もいた)、実際は木版本は活版本の廉価版としてようやく認知され、読者に受けいれられるようになったらしいのである。

 グーテンベルクの生涯については富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の方が詳しいし、一冊の本を読む気があるならジョン・マンの『グーテンベルクの時代』という好著がある。マンはニコラウス・クザーヌスとグーテンベルクが接触していた可能性にふれていたが、高宮氏もその可能性に言及している。短い中に多くの内容が語られており、富田氏の本よりも情報が新しいが、この長さで15世紀のドイツ社会の説明までは無理で、現在の感覚で読むとひっかかる箇所がすくなくない。そうした疑問点に解決をつけたい人はマンの『グーテンベルクの時代』を読むといい。

 初期出版人ではヴェネツィアでギリシア語古典を多数手がけたアルドゥス・マヌティウスと、英国に印刷術を根づかせたキャクストンの二人を大きくとりあげている。

 ヴェネツィアには大学はなかったが、コンスタンティノープルからギリシア人学者が多数亡命していた。アルドゥスは最高の学者を工房に集め『アリストテレス著作集』をはじめとする古典の信頼にたるテキストを版行した。アルドゥス工房は単なる印刷所ではなく、同時代最高の知の共同体だったという。

 キャクストンの方は毛織物商人として一家をなした後で、取引先のブルージュで活版印刷と出会い、1475年、印刷機一式をもって英国にもどっている。この時点で50歳を越えている。当時の平均寿命を考えると晩年になって活版印刷という海のものとも山のものともわからない新技術に乗りだしていったのである。すごいことだ。

 キャクストンはウェストミンスターを拠点に上流階級の顧客向けに手堅い商売をつづけるが、跡を継いだド・ウォードは廉価の小型本に主力を移し広い客層を狙い、これがみごとに成功する。キャクストンとド・ウォードの出版活動が標準英語の確立に寄与した事実も見逃せない。

 グーテンベルク研究の最新動向については富田氏の『さまよえるグーテンベルク聖書』よりもさらに突っこんだ話が読める。インクの成分を陽子線で分析するとか最先端のハイテクが使われる時代になっているのである。

 一般向けの本なので広く浅くは仕方ないが、平明で穏やかな語り口は呼んでいて快い。出版の歴史に興味のある人が最初に読む本としておすすめできる。

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2011年04月19日

『さまよえるグーテンベルク聖書』 富田修二 (慶応義塾大学出版会)

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 1987年10月22日、洋書の輸入販売で知られる丸善はニューヨーク・クリスティーズのオークションでドヒニー本として知られるグーテンベルク聖書を490万ドル(当時の邦貨で約7億円)で落札した。オークションの時点で現存するグーテンベルク聖書は48部が知られていたが、いずれも欧米の図書館が所蔵しておりアジアに招来されたのはこれが最初である(おそらく最後でもあるだろう)。

 丸善は1989年に創業120年をむかえたが、前年の1988年から4年かけてドヒニー本グーテンベルク聖書を中心とする印刷文化の展覧会を全国各地で開いた。ドヒニー本は1996年に慶應義塾大学に売却されたが、落札から売却までの9年間、ドヒニー本に係わってきたのが本書の著者富田修二氏である。

 富田氏は正規の勤務の終わった後や土日に出勤してドヒニー本を子細に調査し、1992年に『グーテンベルク聖書の行方』(図書出版)という研究書を上梓しているが、その後もおりにふれてグーテンベルク聖書をめぐるエッセイを書いていて、それをまとめたのが本書である。前著があくまで専門書なのに対し、本書はエッセイ集なので気楽に読める。

 3部15章にわかれているが、第1章「グーテンベルク生誕六〇〇年にちなんで」は2000年にマインツで祝われたグーテンベルク生誕500年祭を枕に、伝記と各地に残るグーテンベルク聖書の現況を紹介している。第2章「グーテンベルクの暦」は聖書以外のグーテンベルクの作品にふれている。グーテンベルクはいきなり聖書のような大仕事にとりくんだわけではなく、まず免罪符やカレンダーなど端物の印刷で技術を磨いたと考えられている。なかでもカレンダーはよく売れて重要な収入源になったらしいが、消耗品なのでほとんど現存しない。わずかに残っている「トルコ暦」と「医学暦」と通称されるカレンダーの考証までが第1部だ。

 第2部は現存する49部のグーテンベルク聖書がそれぞれたどった数奇な運命を語っていて実に面白い。「ナチの手から逃れたグーテンベルク聖書」はナチス・ドイツのポーランド侵攻の数日前、ポーランドの愛国者がポーランドの国宝を守るために奮闘した話を紹介する。歴代ポーランド国王が戴冠式で用いた剣やショパンの直筆楽譜とともにグーテンベルク聖書も密かに国外に持ちだされカナダの修道院に保管されるが、第二次大戦後新たな問題が持ちあがる。国宝を守ったのはロンドンのポーランド亡命政府の人間だったが、ソ連占領下のポーランドでは共産党政権が成立すると、カナダを含む多くの国が正統の政府として承認してしまったからだ。ポーランド亡命政府は今度は共産主義者の手から国宝を守るために戦うが……。

 「モスクワにあったグーテンベルク聖書」も政治がらみだ。ロシアのペテルスブルク帝室図書館が所蔵していたグーテンベルク聖書は革命政府によって売却されたのでソ連にはないはずだったが、1993年にいたって1部存在することが判明した。それは1945年にライプツィヒで行方不明になったグーテンベルク聖書だった。ソ連群が他の文化財とともに強奪し、密かに保管していたのである。ドイツは当然返還を要求したが、ソ連が応じるはずはない。ロシアになっても同じである。

 「タイタニック号遭難とグーテンベルク聖書」はタイタニック号にグーテンベルク聖書が乗っていたということではなく、グーテンベルク聖書を遺贈されるはずだった人がタイタニック号と運命を共にしたのでハーバード大学に寄贈されたという話であるが、この本も数奇な来歴を持っていて歴史の奥深さを感じる。

 「鎖付きのグーテンベルク聖書」は1999年に発見されたグーテンベルク聖書、レンツブルク紙葉の話である。レンツブルク本ではなくレンツブルク紙葉と呼ばれるのは全1282ページのうち260ページしかない不完全な本だからだ。しかも装飾文字の部分が切り抜かれるなど状態がきわめて悪いという。

 ところが15世紀の装釘をそのまま残している上に、本棚につなぐ鎖までついているという他にない特徴をもっていた。グーテンベルク聖書だと気づいた人がいなかったので修復されなかったのが逆によかったのだろう。こういうこともあるのである。

 グーテンベルク聖書というと今でこそ人類の至宝となっているが、ある時期までは写本より低く見られていた。その間の事情を語ったのが「グーテンベルク聖書の誤植」、「落書きされたグーテンベルク聖書」、「写本として売られたグーテンベルク聖書」の三篇で、誤植の訂正を欄外や行間に書きこむならともかく、文字をヤスリで削りとってインクで上書きするといった荒療治をほどこしたものまであるという。

 グーテンベルクは印刷の仕上がりについては徹底した完全主義者だったが、中味のテキストについては無頓着だったというのも意外だった。ありあわせの写本数種をもとに活字を組んだらしく、一部は「パリ校訂本」と呼ばれる悪本にもとづくという。グーテンベルクは職人であって、学者ではなかったのだ。

 「グーテンベルク聖書のオークション」は詳しい記録が残っている1911年のオークションと著者自身が経験した1987年のオークションを対比したもので、後日譚があまりにもそっくりで笑える。なお丸善は7億円の落札で世界的に名をあげたために欧米の古書商から善本の売りこみがあいつぎ、おりからのバブル景気でいいビジネスをしたそうである。

 第3部はグーテンベルク聖書研究の最新の動向である。500年以上も研究されていたらもう何も出てこないのかと思いきや、ハイテク機器の発達で新しい事実が次々と発見されており、グーテンベルクが活版印刷を発明したかどうかを疑問視する見方まで出ているということである。これは目が離せない。

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2011年04月18日

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 エーコ&カリエール (阪急コミュニケーションズ)

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 記号学者ウンベルト・エーコと脚本家ジャン=クロード・カリエールが本に関する蘊蓄をかたむけた対談本である。

 ジャン=クロード・カリエールについてはピーター・ブルック一座の座付作者くらいの知識しかなかったが、IMDBを見ると『ブリキの太鼓』、『存在の耐えられない軽さ』、『マックス、モン・アムール』、『シラノ・ド・ベルジュラック』、『カサノヴァ最後の恋』といった名作がずらりとならんでいる。ブニュエルの晩年の傑作群、『小間使の日記』、『昼顔』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『欲望のあいまいな対象』も彼の脚本だった。昨年公開された『トスカーナの贋作』には役者として出演しており演出作品も多い。本も書いていて『万国奇人博覧館』と『珍説愚説辞典』は邦訳されている。ボルヘスを自宅に招いたこともあるというから相当な大物である。

 本書は邦題からすると電子書籍に対抗して紙の本を擁護した本のような印象を受けるが、そういう内容ではない。エーコもカリエールも電子本か紙の本かといった二者択一では考えていない。そもそも二人が話題にしている紙の本とはコレクションの対象になるような稀覯書であって、電子書籍とは最初から接点がないのだ。

 稀覯書中心だから蔵書自慢が多くなるが、レベルが高いので自慢というより文化論になっている。グーテンベルクの最初の聖書から1500年12月31日までの50年間に刊行された本を揺籃期本インキュナブラというが、二人とも30冊くらいはもっているという。エーコは『フーコーの振り子』で想像がつくように神秘学、疑似科学、珍説奇説に関する本を集めていて、間違っていたプトレマイオスの本はあるが、正しかったガリレイの本はないと妙な自慢をしている。カリエールの方も『珍説愚説辞典』などという本を出すくらいだからゲテモノ中心で、荒俣宏氏のコレクションとかなり重なりそうである。案の定キルヒャーは二人ともほとんど所蔵していて丁々発止のやりとりはこちらも興奮してくる。

 コレクターなら誰しも不思議な偶然を体験したことがあると思うが、この二人の語る偶然はゴミ箱からパスカル自身が作った12台の計算機のうちの1台が見つかったとか、カタルーニャ語最初の印刷物を探していたバルセロナの古書商が表紙の厚紙の中から原本を発見したとか凄すぎる。本の神様はやはりいるのだと思った。

 バロックに対する偏愛でも二人は共通している。カリエールはボワローら古典主義者によって葬り去られた17世紀フランスのバロック詩人(どれも初めて聞く名前だ)を熱っぽく語り、『シラノ・ド・ベルジュラック』ではロクサーヌがバロック詩人の愛読者だという設定にし、ロクサーヌ役のアンヌ・ブロシェにバロック詩人を読ませたところ、彼女もファンになってアヴィニョン演劇祭で朗読会を開くにいたったという。エーコはエーコでイタリアの政治的頽廃期に花開いたバロック建築の真価が知られていないと悲憤慷慨し、『前日島』はバロック顕彰のために書いたと打ち明けている。

 カリエールは妻がイラン人ということもあってペルシャ文化とイスラム文化に造詣が深く、深い話がいろいろ出てくる。サハラ砂漠の南にあるトンブクトゥには中世以来の大きな図書館があり、賢者に教えを受けに来る学生は学費代わりに本を持参して図書館に納めたとか、10世紀にバグダッドで活躍したアン=ナディームという装釘家は自分が手がけた本の梗概を残していて、その梗概でしか知られていない本がたくさんあるそうである。

 内輪の話も出てくる。『醜の歴史』にセリーヌの『虫けらどもをひねりつぶせ』の抜粋を載せたかった、セリーヌの未亡人がどうしても許可してくれなかったので載せられなかった。ネット上のナチス系サイトでは全文が読めるのに拒否して何になるのだと憤慨している。カリエールはブニュエルの『銀河』で空飛ぶ円盤から緑色の宇宙人が十字架をもって出てくる場面を書いたが、予算の関係でボツになってしまった。『昼顔』の箱の中味の話は笑える。

 電子書籍関係の話題はわずかしかないが、インターネット関連の話を紹介しよう。レポートにWWWの内容をそのまま貼りつける不心得者はヨーロッパの大学でも問題になっているそうだが、エーコはこういう解決法を提案している。

私が教師たちに助言するのは、宿題を出すとき、調査の仕方に条件をつけろということです。すなわち、与えられたテーマ一つに対して、出所の違う一〇の情報を集め、それらを比べあわせてみるということです。インターネットに対する批評感覚を鍛え、何でもかんでも鵜呑みにしないことを覚える鍛錬になります。

 これはいいお題である。今度出題してみようと思う。

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